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クリスマス・メッセージ:男の子の育ちにくい時代に

Merry Christmas!

後の時代になってから振り返った時、2020年とは、どんな一年として記憶されるのだろうか。パンデミック禍が世界を覆い、都市封鎖が行われ、オリンピックも延期になった。多くの人が感染症で亡くなり、さらに沢山の人々が経済的打撃を受け、あるいは仕事を失った。なんとも厳しい変化の一年だったのは、確かだろう。なぜこんな事が、という嘆きの声が世にあふれた。

もちろん、少しは明るいきざしも見えた。テレワークが大幅に普及したことも、その一つかもしれない。セミナーも多くがオンライン形式に移行した。通勤や移動の時間的束縛が減った。ビジネス上の虚礼に近い余計なことも、多少は削ぎ落とされた。もちろん、経済的マイナスに比べて、プラスはずっと小さいが。

大学の講義もすべて今年はオンラインに移行した。わたしは現在、静岡大学をメインに筑波大学と東京大学でも多少授業を持っているが(いずれも大学院)、全部、Web授業だった。幼稚園から小中高等学校まで、学校はすべて対面授業に戻ったのに、大学だけ頑なにオンラインにこだわった理由は、部外者からはよく分からない。

授業というのは、参加する受講生に、頭を使って考えてもらうことが、いちばん大切な目的だ。一方通行的な知識の伝授が、授業なのではない(そう思っている人は多いが)。考えて、手を動かさなければ、身につかない。身につかなければ、行動は変わらない。自分の行動が変化しなければ、何も学ばなかったのと同じだ。それが、成長ということである。

わたしは、人間にとって成長が一番大切なことだと信じている。たまたま生まれつき、成長ホルモン分泌に障害を持っているので、それを強く感じる面はあるかもしれない。だが、ここでいっているのは、身体的な成長だけではない。精神も含めた、全人的な成長のことである。

そして人は社会的動物だから、つねに集団を形成して生きている。ということは、人間集団も成長が必要なのである。プロジェクトとは、そのチャレンジとアウトカムを通して、人間集団が新しい能力を獲得し、成長するための最良の手段だ。だから皆さんにプロジェクト・マネジメントを教えているのです――授業の最初には必ず、そう伝えることにしている。

それにしても、学生たちに教えながらも、つくづく、今の世の中は若者の育ちにくい時代だ、と感じることが多い。とくに、男の子が育ちにくい時代だ。女子はまだ、それなりにしっかりしていて、目指すところを持っている人が少なくない。だが男の子たちは、行き先を見いだせずに、なんとなく、さ迷っている。感覚論で、数字的なエビデンスは示せないが、そう感じるのだ。

わたし達の社会は、何か、非常に致命的な問題を抱えているのかもしれない。それが、男の子の育ちにくさに現れるのかもしれない。まあ、海外のニュースや映画などを見ていると、欧米あたりでも男の子は迷いがちで気が弱く、女の子のほうがしっかりして見えるので、あるいは日本だけの現象ではないという気もする。

だが、人を枠にはめたがる傾向は、明らかにわたし達の社会の方が強いように思えるので、心配なのだ。女の子たちと違い、男の子は枠を破って、外に出たいという潜在的傾向が強い。それを無理矢理に抑え込んでいないだろうか。

ところで個人的には今年は、一人息子が結婚したというのが、佐藤家の2020年ビッグニュースの第一位だった。春に予定していた挙式は秋まで半年のばしたが、10月初旬に無事にすんで、さすがに親としてもほっとしている。

わずか一人を育ててみて、それを一般化するのも乱暴だが、本当に人が育つというのは危うい事業だと思った。無事に普通の大人になることは、ずいぶんと際どい道のりなのだ。どこで間違って、道を踏み外すか分からない。とくにティーンエイジに入ると、親のできることなど限られている。あとは天の配剤に任すしかない。挙式に集ってくれた息子の子供時代からの友だちの面々を見ても、そう感じた。

息子は「ゆとり教育」の最初の頃の世代だった。ゆとり教育は、世評から散々に批判されているが、わたしのような当事者から見ると、じつは子どもたちから「ゆとり」を奪う教育だった。奪ったのは、不安に駆られた親たちだ。学校の授業で教える項目が減るときいて、子どもを小さいうちから塾などの時間外教育に追い立てた。夜の電車の中で、菓子パンをぱくつきながら通う小学生を見る機会が、すごく増えた。

受験勉強というのは、基本的に競争である。クラスに仲間がいるように見えても、じつは「ライバル」「競争相手」に過ぎない。助け合ったり、励まし合ったりすることも、少しはあるだろう。だが、その裏にある現実を忘れるほど、小学生というのは愚かではない。

不登校という現象も、そのようなプレッシャーと、無縁ではあるまい。「子どもが学校に行かない」事ほど、親にとってしんどい状況はないと思う。子どもが学校という場所に、あるいは教育というプロセスに、そして成長の過程に、希望を抱かない。その状況は、親にとり、まことに腹にこたえる。逆に言うと、子どもが前途に希望を持っていると、それだけで家庭は明るくなるのだ。たとえどんなに無邪気でも、希望を持つ子どもには、疲れ切った大人たちを救う力がある。

希望とは何か。それは、人生は運不運だけで決まるのではないはずだ、と思うことだ。――今からちょうど12年前に、このサイトで、わたしはそう書いた。

「(希望とは)より良い未来を期待し、それに対して自分が“働きかけることができる”と信じることだ。努力すれば報われる可能性がある、と信じることだ。夢は希望ではない。未来に自分で働きかける方法がないとき、人は夢を見るのだ。」 『クリスマス・メッセージ--夢よりも希望を語ろう』 (2008-12-24)

人が育つには、3つの条件がいる。まず、目指すべき大人の姿があること。それは教師でも親でもいいが、頼りがいのある先輩、というような姿でもいい。「ああなりたい」というモデルがないと、人はうまく成長できない。そのモデルが、自分に何かを教えてくれれば、もっといい(それが「お勉強」である必要はない)。

次に、仲間が必要だ。人は社会的動物だから、である。人とつきあい、人と協力することを知らなければ、大きくなって生きていくことが難しい。

そして、希望が必要だ。ある意味では、なりたい姿(ロールモデル)も希望の一面だが、普通は自分の境遇とギャップがあるので、それだけでは足りない。自分自身にとっての、希望を持てなくてはいけない。ただし(ここがやっかいなのだが)、希望というのは個人だけでは持ちにくい。社会全体が希望を持つ必要があるのだ。魯迅の言葉に、こうある:

「思うに、希望とは、もともとあるものだともいえぬし、ないものだともいえない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には、道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」

わたし達の社会は、人を競争と不安で駆り立てるか、お金や「安定」で釣るか、その二つの手管ばかりを繰り出してくる。それを当然だと思っている。だが競争原理は、ほんとうの意味での仲間を作ることを、難しくしてしまう。そして、社会のあらゆる細部に、「参入障壁」「既得権益」が、網の目のようにはりめぐらされていて、新しいアイデアや産業の登場を、抑え込んでいる。そのような中で、枠を破りたい男の子たちが、希望を抱くことができるだろうか?

息子の披露宴の写真の中に、中学生時代にアイスホッケーチームのキャプテンをやっていた時の姿があった。アイスホッケーは、とてもマイナーなスポーツだ。そもそもスケートリンク自体が、数少ない。だから学校の部活にチームがあるなんて例外中の例外で、ふつうは市中のクラブチームに所属することになる。息子もそうだった。ただ、学校の部活という「軍隊式」システムに組み込まれたチームでなかったことは、マイペースな性格の彼にとっては、良かったのだろう。

そしてわたしは、なんとなく中学生チームの試合を応援しに、見に行った時のことを思い出していた。ホッケーチームは6人制で、そのうち5人はリンク上を自由に動き回って、攻守ともに活躍する。一人はゴールキーパーで、ずっと、守りの位置にある。

わたした思い出したのは、そのゴールキーパー(ゴーリー)の子の姿だった。比較的小柄で、おとなしい感じの男の子だった。防具を着てぶつかりあうホッケーでは、激しい攻撃の方が目立ちやすい。だが、彼は自分でそのポジションを選んだのだろう。ゴーリーは、練習の内容さえ、他の子達とは少し違う。

アイスホッケーは展開スピードが早い。味方が敵の陣地に攻撃にいったかと思えば、あっという間にパックがこちら側に打ち返され、今度は自分のゴール前の攻防になる。ゴーリーの彼は、味方が攻めている間は声援を送り、敵が攻めてきたら、まさに自分の身を投げ出して、必死にゴールを守らなければならない。ホッケーリンクはゴールの後ろ側もプレーの場所だから、360度、どこからも対応しなければならない。

ホッケーで打つパックは硬質ゴムでできており、体にぶつかったら(防具を着ていても)けっこう痛い。彼は必死になって、敵のシュートからゴールを守ろうとする。うまく守れたら、味方は歓声を上げて喜ぶ。すきをつかれて、シュートを許してしまったときは、彼は上体を折り曲げ、両腕を氷に打ちつけて、くやしがった。ハラハラしながら、わたし達は声援を送った。

後になって、わたしはそのゴーリーの男の子が、ずっと不登校で、中学に行っていなかったことを知った。それでも、アイスホッケーの練習には、ホッケーにだけは、毎週来ていたのだ。仲間と一緒に練習し、試合で一緒に一喜一憂していた。

そして彼は、3年生の冬には受験をして、神奈川からは遠く離れた千葉の高校に、無事に入学したと聞いた。遠く離れた地にいったのは、かつての自分を知る人たちから離れたかったのかもしれない。

わたしは彼の中学校時代のことを思った。彼の前には、先生だとか、クラスメートだとか、塾の講師だとかが、入れ代わり立ち代わり現れて、厳しいシュートを次々に打ち込んでくるのだ。彼はそれを、孤独に守りきった。守りきって、そして遠く離れた地に巣立っていった。

彼ががんばれたのは、たとえ週に1回、アイスリンクの上だけでも、喜怒哀楽をともにできる仲間がいたからかもしれない。それが彼の、ちいさく壊れやすい希望を裏打ちしたのかもしれない。わたしは彼の不安と成長とを思い、どうか幸多かれと天に祈った。

そして今でも、祈り続けている。「地には善意の人に、平和あれ」と。



by Tomoichi_Sato | 2020-12-24 23:04 | 考えるヒント | Comments(1)
Commented by nob at 2020-12-25 12:25 x
今回も素晴らしい記事をありがとうございました。

必要な3つのこと、を、子供だけでなく、チームメイトにも当てはまることだと思い、参考にさせていただきます。
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