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書評(巣ごもり読書のための):「経営戦略全史」「三体」「浄瑠璃を読もう」

連休である。ただし緊急事態宣言の下、行楽も映画もパーティも自粛要請で、家に「巣ごもりGW」を余儀なくされている方も多いと思う。そういう方々のために、少し厚めで読みごたえのある、でも案外スイスイ読み進められてしまう本を3冊、ご紹介しよう。いずれも最近、面白く読んだ本ばかりである。


1. 「経営戦略全史」 三谷宏治・著

テレビのニュースを見ていたら、今回の世界的パンデミック危機に対して、ニュージーランドと台湾が、素晴らしい対応力を発揮したと報じていた。ニュースキャスターと解説者は、ニュージーランドの女性首相が国民に切々と協力を訴えるビデオを紹介しながら、成功の最大の理由は、この首相のリーダーシップにあると断じた。

やれやれまたか、とわたしは思った。ニュージーランド政府がどのようにこの問題を把握監視し、どういった体制を組んで、どのような政策をとったのかは、ほとんど報じない。つまり危機対応の戦略については、何も触れないのだ。

組織が成功したら、それはリーダーのおかげだと考える。リーダーシップとは、やる気によって決まると、この国では理解されている。つまり成功したら、やる気のおかげだと考える。失敗したら、やる気が足りなかったのだと考える。

このような社会では、自他の経験から何も学ぶことがないので、何の進歩もない。もちろん、何の戦略論も生まれない。

経営学と言う学問が生まれたのは、ほぼ100年前だ。米国のテイラー、フランスのファヨールらから始まって、特に1960年代以降、米国で隆盛した。その中心テーマは、経営戦略。そして経営戦略コンサルタントと言う専門職も発した。

著者の三谷宏治氏は、名門ボストン・コンサルティング・グループ(BCG)でキャリアを積み、現在はビジネススクールの教授と著作業に勤しんでいる。複雑な経営戦略論の広大な地平を、わかりやすい見取り図にまとめて、示してくれる能力は大したものだ。

著者によると、経営戦略論は大きく2つの系譜に分かれる。「ポジショニング」派と「ケイパビリティ」派だ。これはとてもうまい切り取り方だと思う。経営学における科学主義と人間主義の2つの見方を代表させ、2つの陣営(「大テイラー主義」vs.「大メイヨー主義」)の対抗するドラマのように描き出す。

日本ではアカデミアの経営学と、実業における経営層との間に、大きな分断があるため、本書のような良い解説がとても価値を生む。また、経営戦略に関心を持ち始めた若手中堅層のビジネスマンにとっても、とても面白い入門書になっている。もちろん著者は、最後に、自分の編み出した手法の詳しい解説を付け加えることも忘れない。

戦略論を編み出した学者やコンサルタントたちの人物像と似顔絵をつけているのも、この本の良い点だ。架空対話も含めて、学問のダイナミズムを、活き活きと描き出している。

本書を読むと、自分まで頭が良くなったような感じになり、経営戦略を自家薬籠中にしたような気持ちになれる。ただ読者が注意すべきところがあるとすれば、これら戦略論のほとんどが、分析と解釈のための道具であって、発明と発想の方法論ではないことだ。

コストリーダーシップとか、ブルーオーシャンとか、定石の枠組みを知ることは大切だ。だが具体的な戦略は、やはり自分の頭で考え出さなければならないのでる。



2. 「三体」 劉 慈欣・著

1967年春、北京。「文化大革命」に沸く若き紅衛兵たちの狂乱的状態と殺戮から、いきなり小説は始まる。長年続く飢餓と貧困と圧制に、当時の中国の若年層は、怒りの感情を内心たぎらせていた。そのガソリンにも似た感情に火をつけたのが、毛沢東の文化大革命キャンペーンだった。彼らは徒党を組んで『紅衛兵』等を自称し、競い合いながら、暴力による「反動的分子」狩りを都市の内外で始める。

その悲劇に巻き込まれた一人が、大学教授の葉哲泰だった。コペンハーゲン解釈やビッグバン理論などの「ブルジョア的反動的」科学理論を講義したという理由から、大勢の目の前で、父親が愚かな若者達に殴り殺されるのを見ているしかなかった、娘の葉文潔。彼女がこの小説の前半の主要人物だ。

「三体」は、物理学者の物語である。天体物理を専攻したがゆえに、遠い寒村に下放され、さらに「紅岸」と呼ばれる電波基地に幽閉された彼女が、どうやって文革時代を生きのびたかは、次第に明らかになるが、ストーリー自体は序盤が終わると、いきなり40数年後の現代に飛ぶ。ナノマテリアルの専門家・汪淼は、トップクラスの物理学者が、次々と謎の自殺を遂げるという事件に巻き込まれ、その背後を探りはじめる。

高エネルギー粒子加速器プロジェクトに関わった、天才女性物理学者・楊冬の遺した「物理学は存在しない」という、不可思議な遺書の意味を探る内に、彼は『三体』と呼ばれる、他の星の歴史を、追体験できる参加型ゲームへとはまり込んでいく・・

互いに引力を及ぼし合う三つの質点系の運動は、一般には解析的に解けず、数値的な予測も至難である。では、三重星系を周回する惑星に生まれた知的生物にとって、宇宙はどのように見えるのか。この小説の中心テーマは、決定論的な宇宙観への挑戦だ。それを、複数の主要人物が織りなす、群像的なストーリーで、きびきびと描き出していく。

物語は密度が高く、テンポも早い。1963年生まれの著者・劉慈欣は、天性のストーリーテラーである。2006年に発刊された本書は、英訳されて、2015年にヒューゴー賞を受賞し、その名声が世界的に確定する(英語以外の作品がヒューゴ—賞をとるのは史上初めてだった)。ただ、物理学者達が主要人物といっても、この小説は、科学的考証を核としたハードSFではない。作中人物が「三体」ゲームを称していうように「時代考証は結構いいかげん」で、科学の面でも該博な知識のかたわら、随分と楽しい空想が膨らんでいる。

それにしても、わたし達、現代日本の読者にとって、この小説の面白さの大きな要素は、現代中国のメンタリティを知ることにあるだろう。中国というのは、「英雄たち」と「その他大勢」が、くっきり二つに分かれる社会らしい。そこでは庶民は、要するに「虫けら」である。めまぐるしく権力者の入れ替わる中国社会の支配層を見上げる彼らは、ちょうど予測不能な三つの太陽の動きを見上げる異星人たちに、似ている。ただ、その庶民達にも、強い上昇志向がしばしば湧きあがる。そうした反エリート感情を代弁する、私服刑事・史強のキャラが、この小説に複雑なひと味をつけ加えている。

本書は、波に乗っている現代中国を象徴するような、波瀾万丈のエンターテインメントだ。だが、そのストーリーの背後には、文化大革命の深い傷跡がある。それは、危機に陥った独裁者が、社会の最弱層の怒りに火をつけて、政治に利用しようとした、暴力と狂気の時代だった。だからこそ著者は、1967年の北京から話を始めたのだ。抑圧された人間社会の行く末を予言することは、三体問題を解く事よりも、難しいらしい。

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3. 「浄瑠璃を読もう」 橋本治・著

橋本治は、鑑賞の名手である。鑑賞とは、我が国語の世界にのみ存在する特殊なジャンルで、引用を中心とした肯定的解説であり、かつ、それ自身が良質な文学となっていなければならない。つまり文章の下手な人は、良い鑑賞が書けないのだ。批評の1ジャンルと言うこともできるが、欧米の批評 Critiques とは全く異なる。批評は、対象との間に距離を取り、その客観的価値を分析しようとする。だが、自分が対象と同一化することこそ、日本文学の鑑賞における重要な要件なのだ。

とはいえ、1年前に亡くなった作家・橋本治は、現代日本を代表する知性の一人であった。彼は浄瑠璃の物語世界に、深い愛情を示すが、それを生み出した社会の有様や、矛盾に満ちた江戸時代の倫理観を、冷静に見通すことも忘れない。

浄瑠璃とは、人形浄瑠璃(いわゆる文楽)の台本テキストである。「丸本」と呼ばれた浄瑠璃の台本が江戸時代は多数出版され、貸本屋経由で読まれていた。もちろん、歌舞伎のドラマも、かなりの部分は浄瑠璃によっている。近代日本人のメンタリティを築いた浄瑠璃の物語群は、しかし今日は忘れ去られ、出版物さえなかなか入手できない。

本書はその中から、代表的な8作品:
  • 「仮名手本忠臣蔵」(かなでほんちゅうしんぐら) 作:竹田出雲・三好松洛・並木川柳(1748年)
  • 「義経千本桜」(よしつねせんぼんざくら) 作:竹田出雲・三好松洛・並木川柳(1747年)
  • 「菅原伝授手習鑑」(すがわらでんじゅてならいかがみ) 作:竹田出雲・三好松洛・並木川柳(1746年)
  • 「本朝廿四孝」(ほんちょうにじゅうしこう) 作:近松半二(1766年)
  • 「ひらかな盛衰記」(ひらかなせいすいき) 作:文耕堂(1739年)
  • 「国姓爺合戦」(こくせんやがっせん) 作:近松門左衛門(1715年)
  • 「冥途の飛脚」(めいどのひきゃく) 作:近松門左衛門(1711年)
  • 「妹背山婦女庭訓」(いもせやまおんなていきん) 作:近松半二(1771年)
を紹介してくれる。

18世紀前半のおよそ60年間をカバーする上記8作品は、人形浄瑠璃という高度な芸能ジャンルの盛衰を表している。初期の立役者・近松門左衛門の時代、人形は一人遣いだった。人形が複雑微妙な感情表現のできなかった当時、太夫の語る台本こそが、文学性を差配していた。だからこそ、日本生まれの日中ハーフの英雄・鄭成功を主人公とする「国性爺合戦」のような、外国を舞台とするスペクタクルもヒットしたし、実在の心中事件に取材した「冥途の飛脚」の、非情なストーリーも生まれたのだ。

近松門左衛門の没後10年経った1734年に、はじめて現在と同じ人形の「三人遣い」が現れた。この技術的イノベーションによって、一挙に人形の感情表現が豊かになり、浄瑠璃の隆盛を招く。竹田出雲らトリオの作になる忠臣蔵、源義経の悲劇、そして「寺子屋」シーンで有名な、菅原道真の3人の家来達の物語が、円熟期の代表作となっていく。

しかし、時代は下って、近松半二の頃(彼は近松門左衛門の孫弟子にあたる)になると、浄瑠璃はもはや、人間が演じる派手な歌舞伎に押されて、衰退期に入っている。彼の巧みなドラマ性で一旦は息を吹き返すが、彼以後の浄瑠璃はもう、新作が現れずに「古典化」し、演奏の芸術として生きながらえる。

浄瑠璃の台本は長くて複雑で、細部がバロック的に装飾され、どんでん返しも多くて、全貌が分かりにくい。現代では「通し」でなく、部分単位でしか上演されず、橋本治もストーリー全部を紹介するようなことはしない。彼が解説し鑑賞するのは、封建社会に生きる人達の、メンタリティと死生観である。それはたとえば、こんなものだ:

「今となっては見過ごされたやすく忘れられてしまう『人形浄瑠璃を貫く価値観』というものがある。(中略)その最大のものは、『きっぱりと決断出来ない人間はだめだ』である。ぐずぐずしているのはバカで、人は、きっぱりと決断すべき時にはさっさと決断していなければだめなのであるーーこの前提があって、その先にもっと重要な『心構え』がある。それは『バカはだめ』である。

 きちんとした結論を出すのに必要なのは、情報収集とその分析である。江戸時代で情報収集などということは簡単じゃない。伝聞と噂話だけで、この確認が容易にはできない。だから情報分析の方が重要で、自分に関わりのある人物の情報であればこそ、その断片を耳にしただけで『核心』にピンとこなければならないーーつまり『人に聡い』のである」(P.191-192)

また、こうも書く。

「『明確な状況認識があれば、事態は必ず打開される』というのは幻想で、そうだったら、頭のいいサラリーマンは会社を変革できているのである。明確な状況認識があったって、事態は打開されないーーこれは、封建的な江戸時代管理社会でも、現代管理社会でも、同じである。

 だからといって、『明確なる状況認識』を放棄してもいいという理由にはならない。だから、『明確なる状況認識』をして分析し、その後に『覚悟』が訪れる。(中略)状況認識の結果『こりゃだめだ』をひそかに理解した人は、だからこそ、孤独の内に覚悟を決める。」(P.193)

浄瑠璃の登場人物たちは、今日の我々の目から見ると、あっけないくらい、すぐに死んでゆく。彼らも我々も、命が惜しいのは同じだし、色や欲に惑わされやすいのだって、同じだ。違いがあるとすれば、聡さへの希求と、覚悟のあり方であろう。窮屈な封建時代は、また、庶民階級でさえ、大人と大人でない者の区別が、はっきりしていた時代でもあった。かの時代の「大人」とは、今のカタカナでいう「オトナ」とは、まったく別のものだ。人に聡く、決断でき、密かに覚悟を持てる大人になれ。浄瑠璃の劇は、そう、我々観客に指し示しているのである。

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by Tomoichi_Sato | 2020-04-29 23:36 | 書評 | Comments(0)
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