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危機対応のマネジメントをダメにする『政治主義』とは何か


前回の記事(「危機なんて、ほんとに管理できるのか?ーー現場感覚という事」 2020-03-16)では、事前対策的なリスク・マネジメントと、事後対応的な問題管理(イシュー・マネジメント)は、全く別のものだと書いた。別のものだが、もちろんこの2つは車の両輪で、どちらも必要だ。

ただ、わたしの経験では、英米系企業は「計画万能」的な態度が強く、リスク・マネジメントを重視したがる(PMBOK Guideにも、その傾向は伺える)。他方、日本企業は「現場力」に自信を持つ傾向が強く、事前対策は軽視するきらいがある。

だからといって、日本企業は、いったん事が起きたあとの事後対応に強いかというと、一概にそうは言えまい。それは発生するトラブル事象(イシュー)の、種類と数によるのではないか。テクニカルな種類のトラブルには、比較的強いと思う。日本企業のミドルや現場の技術者・ワーカーは、概ね優秀であり、責任感も強い。だから、自分の範囲内で対応できる問題は、個別に解決して、前に進む態度を身に着けているからだ。

しかし、発生するトラブルが非常に深刻なものの場合、あるいはまだ深刻とは言えないが「テクニカルに対応しづらい」種類の、異質なトラブルの場合は、対応に余計な時間がかかるように思われる。非常に深刻なトラブルでは、現場やミドルの裁量権を超えた判断をしなければならなくなる。だが本社組織というのは、しばしば官僚主義に侵されていて、重要な例外的決断になればなるほど、どこで誰が決めるのか分からなくなりがちだ。

テクニカルに対応しづらい種類のトラブルとはなんだろうか? 一つは、通常は想定しがたい異質な他者からの介入・影響、といった問題だ。極端なことを言えば、戦争とかテロだが、そこまで言わずとも、未知の第三者や監督官庁が突然現れて、無理難題をふっかける、という事は、時々ある。

もう一つの例を挙げると、個別にはテクニカルに対応可能なトラブルなのだが、それが妙に多数起きて、組織全体のパフォーマンスが下がってくる、という種類の問題だ。たとえば製造で言えば品質問題が頻発するとか、プロジェクトで言えばジリジリと進捗が遅れて納期を割り込んでくる、といったトラブルである。こうした問題は、ゆっくりと表面化して、気づきにくい。マネジメントが気づいたときには、かなり手遅れになっている、などという事態も起こりうる。

以前も書いたことだが、どんな組織やシステムにも、自分で問題を解決して自己平衡を保つ機構が、ビルトインされている。そうでなければ、その組織は長続きしない。たとえば社会で言うなら、医療機関や保険制度などがそれにあたる。

しかし、そうした自己回復機構には、キャパシティの限界がある。それを超えると、問題を多数抱えたサブシステムが崩壊に向かって、全体のレジリエンス(危機対応能力)が失われてしまう。こういう状態になったら、もう「現場力」だけでは止めようがない。そうなる前に、気づいて手を打つのが、マネジメントの仕事である。

ところが、ここで危機対応のマネジメントに対して、重要な障害になりうる要素が登場する。それは、組織における「政治主義」(=党派主義)の存在である。前回の記事では、「官僚主義的組織」の問題を指摘したが、じつは、それ以上に障害となりうるのが、この「政治主義」的行動なのだ。

「政治主義」とは何か。それは、ビジネスにおける政治的な態度である。すなわち、「経済合理性よりも、個人や徒党の利害・権力争いを優先させる」態度をいう。企業というところは、基本、利益追求の場である。だから、経済合理性が最上位に置かれるのが本来だ。だが、政治主義的な態度の人たちが一定数いると、組織の利潤よりも、その人達の権力獲得や党勢助長が優先されるようになる。あるいは、他の政治主義的な党派との勢力争いが主眼になってしまう。世の中に時々ある、派閥争いがその典型である。

ビジネスにおける政治主義は、三つほどの特徴的な思考習慣を持っている。リーダーシップ信仰、敵失追求重視、そして現実無視の楽観主義である。ひとつひとつ見ていこう。

(1) リーダーシップ信仰

政治主義では、組織のパフォーマンスは、上に立つリーダーのみで決まる、と考える人が多い。そこには、リーダーのあり方以外に、組織の構成員や業務手順や仕組み(システム)にも問題が内在しうる、という発想がない。だから、自分(達)がリーダーになれば、万事すぐ順調になる、と楽観しがちだ。

(2) 敵失追及重視

リーダーシップがすべてを決めると信じているため、自分たちと敵対する徒党のリーダーが、組織の上に立っている場合、失敗はすべて敵であるリーダーの責任と考え、責を負わせたがる。そこで、連座制、連帯責任、任命責任、説明責任、などの概念を用いて攻撃する。

このため、政治主義では、他責的な思考のみが発達する。大きな問題が発生しても、避難措置や原因分析を軽んじ、敵であるリーダーを変えればいい、と考える。全体の利益よりも、自分たちの政治的損得が優先するのである。したがって、一致協力が必要な危機的状況でも、団結力を妨害するように動きがちだ。

(3) 現実無視の楽観主義

上とは逆に、自分たちの徒党がリーダーを出している場合、どんな状況であろうと、「すべては順調」という結論が先にくる。自分に都合の悪い事実は、調べもせず、見なくなってしまう。楽観主義故に、リスクや悲観論を口にする者は、潜在的な敵であり、危険分子と考える。リスク対策的な仕組みは、コストの無駄で、生産性の阻害要因とされ、限界まで切り詰められる事になる。

なにせ政治主義的な人たちは、党派的信条と「やる気」さえあればOK、と考えるので、結論に合わせて現実を説明したがる。だから、手近にある事例や推論は、なんでも武器にする(全体を考える必要はない)。敵の問題は「屁理屈」をこねてでも論難する。自分たちの問題は「言い逃れ」で無視、である。


上記3つの行動習慣の結果として、政治主義が招くのは、客観的・総合的な思考能力の低下だ。言葉を軽んじる者は、結局、思考も軽んじることになる。何よりも、政治主義が跋扈すると、他の集団と、「議論」が成立しなくなってしまう

そもそも「議論」とは何だろうか。まともな議論を行うためには、
・問題解決という共通目的
・客観的事実という共通認識のグラウンド
・事実とデータを積み上げながら、仮設を互いに強化しあっていく作業
が必要である。議論を通じて、複数の視点(それぞれの立場)から、状況がどう見えるかを検討するのである。

もちろん、まともな議論においては、相手のメンツという感情面も配慮することが大切だ。両者が互いに、自分たちの勝利だ、少なくとも一応満足できる、という形で決着するのが、望ましい(ちなみに、参加者の間でゼロサムゲームとなるような事態での議論を、「ネゴシエーション」と呼ぶ)。

という訳で、議論では、事実とデータを重んじ、言葉を大切にする態度が必要となる。にもかかわらず、政治主義の人たちは、言語もデータも、そして現実も軽視する傾向が強い。だから、他者との関わりにおいては、議論の代わりに、貸し借りと「裏取引」だけに長けていく。

自分たちのリーダーが政治主義的かどうかは、日々接している人ならば自然と分かる。ずっと上位の遠い存在の場合は、上に述べた3つの特徴から推測する必要がある。

そもそも、こうした政治主義(党派主義)はどこから発生し、どうして成長してくるのだろうか? 自分の地位や権力、出世を優先する態度自体は、誰の心の内にも潜在的にあると思われる。その底には、承認欲求、制御欲求といった欲求が動いている。その欲求の対象が、組織内の権力や職位に集中するのである。

ただ、このような傾向が増長するにあたっては、社会の(そして組織内の)競争原理の強さが、大きく影響する。そして、「勝った者が皆もらう(Winner takes all)」方式の、利益誘導・格差助長的ルールが、その傾向を強めるだろう。いわゆる「能力主義」「成果主義」などの言葉で今世紀になってから浸透した、あの考え方である。

能力主義自体は本来、官僚主義的な年功序列制度の毒消し、という意味を担っていたはずだ。だが政治主義的な人たちは、「能力=自己の党派に属すること」という短絡思考なので、結果として組織は序列重視、命令服従型組織(軍隊式の組織)になっていく。そして目下の人間の「自由」は、目障りに思うようになる。

政治主義的な党派間では、貸し借りと裏取引で「野合」し、勢力を拡大・膨張していく。野合なので考え方は異なるはずだが、そこは「強力なリーダー」の神話で統一する訳だ(神話なので、本当に強力なリーダーかどうかは、問わない)。危機が起きると、リーダーを批判する者たちは、「この非常時に和を乱すとは、不届きだ」といって排除される。だから、政治主義者は内心、危機を待ち望んでいたりする。

こうした政治主義的な動きを止めるには、どうしたら良いだろうか? 相手は権力を持っているので、隠密理に動き、仲間を増やして対抗しよう、と考える事になる。だが、そうなると、今後は自分たち自身が政治主義化する道を、たどることになる。何のことはない、ミイラ取りがミイラになりやすいのだ。

かくて、組織の中に一度、有力な政治主義の党派が芽生えると、それは周囲を飲み込んで拡大していき、組織全体を支配していくことも少なくない。単なる経済合理性よりも、政治主義のほうが攻撃力が強いからだ。そして、トップの地位を占めると、独裁的な権力を行使するようになりかねない。

そうなる前に、政治主義的な動きを止めるにはどうしたら良いか? 答えは明白だ。それは、リーダーの地位を決める手順のルール化と透明性である。政治的動きの最終的な目標は、権力ある地位につくことだ。だから、リーダーや昇進昇格が客観的にルール化されていることが、大切なのだ。ちょうど、中世の英国で、暗愚なジョン王の暴政にこまった諸侯が、名文化したルールであるマグナ・カルタを王に突きつけたように。

また、組織内にむやみに位階とポジションを増やさないことも大切だ。政治主義は、フラットな組織では活躍しにくいのだ。

なお、ここでいっているのは、ビジネス組織における傾向であって、「政治主義」といっても、実際の政党やら政治家たちの話をしているのではないので、誤解なきよう。ちょうど前回の記事で「官僚主義的組織」といっても、別に官庁の話をしたのではないのと同様だ。いや、実際のところ公務員でも、自分の所属する組織の官僚主義に、内心、辟易している人はけっこういる。

同じように、現実の政治に関わっている人で、自分たちの中の党派主義に不満を持つ人がいても、不思議ではない。ただ、政党政治の世界は権力闘争の面が強いから、どうしても政治主義的になりがちだ。そして、この政治主義の傾向は、信じているイデオロギーの種類に関わらない。たとえばヒトラー支配下のナチス政権と、スターリン独裁下のソ連共産党は、どちらも非常に政治主義的である点では、よく似ていたはずだ。

だが、政治主義者による独裁権力は、それ自身の内に崩壊の種を抱いている。政治主義者がリーダーの地位をとると、結果として、イエスマンばかりがリーダーを取り囲むようになるからだ。そうなると、リーダーのところに、不都合な情報が上がっていかなくなる。どんなに優秀なリーダーだって、正しい情報が入ってこなければ、正しく判断できなくなるだろう。

そういうときに、「裏取引」できない相手が登場することがある。裏取引できない相手とは、たとえば黒船のように、異世界から来た侵入者である。江戸幕府は黒船の出現で、一気に政治的権威を失墜する。黒船は、それまで幕府が知っていたテクニカルな問題対応を、拒絶する存在だった。こういう時、楽観主義に基づいて、ギリギリまで削減していた、リスク対策と保険的制度の欠如が、最終的に自分たちの首を絞めることになる。

本当の危機にあっては、自らの組織内で、あるいは近隣の組織と、一致協力する必要がある。なにか手を打つためには、事実とデータに基づき、総合的な思考能力を要する。だが、それこそ、自分たちが軽視し、組織から排除してきた能力なのだ。だから政治主義的な組織は、結局は長続きしない。

黒船の出現のあと、国論は四分五裂になり、クーデター的事変も内戦も発生した。だが、外国が介入して国が分断される事態は、なんとか避けられた。それは幸いにも、「分断は植民地化への道だ」と理解していた有能な人たちが、対立する双方の側にいたからだ。

危機対応のマネジメントで必要なのは、競争原理ではなく、協力原理に基づいた行動である。協力原理とは、自己利益の追求を一旦脇において、共同体利益を求める態度にほかならない。それは同時に、前例や権威を超えた、臨機応変な自発的な働きを必要とする。自発性こそ、政治主義を中和する最大の良薬なのである。


<関連エントリ>
 →
(2020-03-16)


by Tomoichi_Sato | 2020-03-23 19:56 | リスク・マネジメント | Comments(1)
Commented by Tomoichi_Sato at 2020-03-24 20:33
以前も起きた現象ですが、同じ記事が複数並んでしまう状態が生じたため、古い方の記事を削除します(おそらくExblogの「編集」機能のバグではないかと疑っています)。ブックマークをつけられた方には申し訳ありませんが、ご了解ください。

佐藤知一
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