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危機なんて、ほんとに管理できるのか?

「あなたは世の中には大きな運・不運があると思いますか?」

これまで学生や社会人、そして勤務先の後輩たちなど、それなりに大勢の人々に対して、リスク・マネジメントの講義をしてきた。その説明の最初に、いつも問いかけるのが、この質問である。無論、答えは様々だ。だが(少なくとも日本では)大多数の人が、「運・不運はある」と答える。「いや、ないと思います」という人は少数で、経験的に、ほとんどが20代の若者である。

そこで、念のため、もう一つ補足の質問をすることにしている。それは、

「じゃあ、あなたは人生において、本当にその気になれば、たいていの事は可能だと思いますか?」

という問いだ。こうたずねると、少なからぬ人が、虚をつかれたように「うーん」という顔をする。

当たり前だが、この2つの質問は、セットで裏表の関係にある。もし、人生において、本当にやる気になれば何でも実現可能だとしたら、運・不運なんてない、という事になる。逆に、もし運・不運があるなら、それはどんなに気合を込めて頑張っても、実現不可能なことがある、と認めることになる。

それなのに、この2つの問いかけに対して、あらためて驚き悩む人がいるのは、なぜだろうか。それは、ふだん無意識的に「運・不運がある」と感じながら、意識の面では「頑張ればたいていの事は可能だ」というテーゼに影響され、頼っているからだ。両方を言語化してみると、初めて自分の信念の中に矛盾があったことに気がつく。

そこで、(追い打ちをかける訳じゃないが)もう一問、たずねる。それは、

「じゃあ、リスク・マネジメントに意味なんてあると思いますか?」

である。“じゃあ”という接続詞は、運・不運があると思っている人にも、やる気になれば何でも可能と信じている人にも、共通して使っている。

なぜなら、もし大きな運・不運があるというなら、不運(リスク)を本当にさける方法などありえないはずだからだ。避けられるなら、それは不運だったとは言わない。人間が運・不運に翻弄される存在なら、リスク・マネジメントなど存在し得ない。

逆に、その気になれば不可能なことはない、と信じるなら、どんな事態になろうと「やる気」で打開できるはずだ。だったら小賢しいリスク対策など、時間のムダではないか。つまり、運・不運があるとの信憑も、やる気がすべてを可能にするとの信念も、ともにリスク・マネジメントを否定している点では同じだ、という事になる。だったら、なぜリスク・マネジメントを学ぼうと思うのか?

あらためてこうたずねられると、ほとんどの受講者は、「いや、でも、少しでも避けられるリスクがあるなら、それは意味あるかと思って」みたいな、曖昧で妥協的(?)な返事をしてくる。それは、ホントは意味ないんだけどさ、ちょっとは意味あるかと思って・・といっているのと同じである。そこで、わたしはトドメの一言をこう放つ。

「マネジメントって、人を動かす、とか、自分の管轄下にあってよく知っている事物を、なんとか意思に沿うよう働かせる行為でしょ? でも、リスクというのは未知の事象を指している訳です。自分がよく知りもしないリスクなんて、本当にマネジメントできると思いますか。リスク・マネジメントって、言語矛盾だと思いませんか?」

・・ここまで読んだ読者諸賢は、なんて意地悪な講師なんだ、と感じたに違いない。いや、申し訳ない。ただ、リスク・マネジメントだとか危機管理だとかいった概念は、かくも、わたし達が無意識に抱えている矛盾をあぶり出す存在なのである。でも、それを最初にやっておかないと、

「ああ、リスクって、マネジメント可能なんだな」
「危機的状況になっても、危機管理をすれば乗り切れる」

といった、妙に楽観的な(?)誤解を持ったまま、教えられることを教科書的に受け入れていく危険性が高いのである。教科書をそのまま真に受けて、暗記しようとする事ほど、本当のリスク・マネジメントから遠い態度はない。

リスク・マネジメントというのは、簡単に言うと、ふだん意識の下に押し込めている『リスク』に光をあて、その影響を評価するとともに、科学的にその対応策を考えよう、という一種の技術である。ただし、技術だが、そこには必要なマインドセットがある。それは、自分を取り巻く事態を、自分が能動的に変えられる、という主体性である。そして、技術という以上は、リスクにも一定のパターンや傾向があるはずだ、という信憑がある。

ところで、学業や仕事をする人にとって、その成果は、主に何で左右されるのか。それは「やる気」(モチベーション)である、と考える人は多い。「本当にやる気になれば何でも実現可能だ」というテーゼは、この信念を強化する。

他方、成果は外的環境に左右されることが多い、と考える人も少なくない。つまり運・不運で決まるのだ、と。そして、いや、仕事の成果はやはり、科学的な技術に裏付けられた、能力で決まるのだ、という考え方もあろう。

成果を生み出すのは、「やる気」なのか「環境」なのか「技術」なのか。もちろん、どれも必要ではあろう。それは「天の時、地の利、人の和」といった昔風の言葉にも現れている。とはいえ、どこに一番の主眼をおくのか。それは、じつは時代によって変わってきた。

昭和20年の敗戦後すぐから、昭和30年台の終わりごろまでは、「やる気」主義が中心だったように思う。この頃の社会で必要とされていたのは、食品・衣服など、日用品中心の産業だった。流通も小規模で、小売り中心だった。多くの人が、小商いで、貧しい中を、頑張って生きていた。戦後復興のある意味での到達点が、昭和39年の東京オリンピックだった。

ところで、オリンピックが終わって翌年の昭和40年になると、戦後最悪と言われた、いわゆる「40年不況」が訪れる。それまで単純な拡大路線で走ってきたビジネスは、転換点をむかえる。アメリカから、統計的品質管理(QC)などの、マネジメント技術が入ってきた。また、産業も重化学工業が高度成長をリードする形に、転換していく。

そこでは、科学技術や、ルールが大事になる。技術主義の時代である。そうなると、勉強が大事である。良い仕事に付きたければ、大学にいけ、ということになる。高度成長期には、学歴主義も強まった。

しかし、昭和が終わる頃、わたし達の社会はバブル時代に突入する。土地や株など、相場で全ての成果が決まる、という社会である。この時代を制したのは、いわば「チャンス」主義=運不運を見極めて、チャンスをつかまえ、それに乗る、という態度であった。

自分で技術を身につける自力路線から、バブルの波に乗るという、他力本願への転換が、マインドセットの世界で起こった。と同時に、運・不運で決まる社会は、世の中は不公平なものだ、という考えも広めていった。社会的公正の「建前」より、自己利益の「ホンネ」を優先する態度が主流になった。

バブル時代は短く、'95年の阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件で、平成不況へと社会は転換する。モノが売れないため、産業の主導権は、製造側から販売側に移り、コストカット(デフレ)戦略が主流になった。同時に、チャンス主義の双子の弟分である、「自己責任」主義が広められていく。そうした社会では、個人も組織も、リスクを可能な限り回避することを志向する。運・不運が重大という点ではバブル時代と変わらず、ただ格差社会の拡大が、その傾向に輪をかけていった。

さて、成果を左右するのは意思なのか(「やる気主義」)、技術能力なのか(「技術主義」)、それとも環境すなわち運不運なのか(「チャンス主義」)? 

やる気主義とチャンス主義は、最初に述べたように、リスク・マネジメントと基本的に反りが合わない。というか、論理的に矛盾している。そうした不合理に気づかないのは、成果を起点にした、自分の「意思」と「能力」と「環境」の関係を、根本から考えたことがないからだろう。いわば、哲学の貧困である。

ちなみに、このサイトの基本スタンスは、技術主義である。なにせテーマが「マネジメント・テクノロジー」なのだから当然だろう。技術だけで、全てがうまくいくわけではない。しかし、大間違いは避けられる。やる気主義やチャンス主義だけでは、大成功するかもしれないが、大間違いするリスクも孕んでいる。

では、自分にとって未知なリスクを、どうマネジメントできるのか? 本サイトでは、この問題にも、すでに答えは出してある(今、調べたらちょうど10年前の記事に書いてあった)。

まず、普通のリスク・マネジメントの考え方を説明しよう。たいていの教科書には、次の式が書かれている。すなわち、

リスクの大きさ=発生確率 × 影響度

だが、リスク事象の生起確率は、低減できる場合もあるが、コントロールできない場合の方が多い(台風の進路や、疫病の発生のように)。そうなると、わたし達が左右できるのは影響度の方だけということになる。だから、リスクへの対応戦略は、回避(避ける)か、転嫁(人に押し付ける)か、軽減(影響度を弱める)か、あるいは受容(あきらめて共存する)、の4つが中心になる。これが今の教科書の記述だ。

だが、わたしはここに大事な因子がかけていると考えている。だから、わたしの講義では次のような式でリスクを評価する、と教える。
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すなわち、リスクの大きさは、その可能性(生起確率)と、影響度の積に比例し、対応能力に反比例する
分子は教科書と同じである。違いは、分母の存在だ。分母の対応能力が大きければ、リスク自体は小さくなる。逆に、対応能力が小さいと、同じ確率・影響度のリスクも、大きなものになってしまう。だから、組織の『対応能力』をいかに高めるかが、中心課題になるのである。

よくPMOでは、「あのプロジェクトにとっての最大のリスクは、××さんがプロマネをやってることだよ」という冗談半分のコメントが出たりすることがある。これはつまり、分母の対応能力が小さい、ということをいっているのである。そうでなければ、もとの教科書の式だけでは、リスクの意味を説明できまい。

対応能力はさらに、予防的(Preventive)な 「事前計画能力」か、適応的(Adaptive)な 「事後対応能力」に分解することができよう。事前計画能力は、見通しの能力である。それはリスク・アセスメント・セッションの実施や、過去のLessons Learnedの共有などで向上できる。

事後対応能力とは一種の機動力であり、実際に発生してしまったトラブル・危機を、どう早く察知し、機敏に対応できるか、を示している。(ちなみに、現在のPMBOK Guideでは、この事後対応のためのイシュー・マネジメントの説明が、ほとんど欠落している)

そして、「危機管理」のための事後対応能力を高めるためには、組織のデザインにおいて、集権化と分権化という矛盾したポリシーをどう両立するか、という問題が控えているのだが、どうやらいつもの癖で、前提の説明が長くなりすぎたらしい。その問題については、稿を改めて、また書こう。


<関連エントリ>
 →

(2011-01-10)



by Tomoichi_Sato | 2020-03-08 22:18 | リスク・マネジメント | Comments(1)
Commented by kentarotsuda at 2020-03-09 00:05 x
「何がどう転ぶのかわからないのが、災害の現場。そもそも…“ロジカルな思考による作戦”で予測不可能なことに対応するーー消防という組織自体にムリがあるってことだ…」というめ組の大吾(18)に出てくる台詞を思い出しました。
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