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書評:「理解とは何か」 佐伯胖・編

理解とは何か」 佐伯胖・編(認知科学選書 4 東京大学出版会) (Amazon)


「『理解』という事について研究ができる。なんというすばらしいことだろうか。」

本書の中心にあたる、編者・佐伯胖の書く第5章「『理解』はどう研究されてきたか」は、このような一見ふしぎな言葉から始まる。そして、次のように続く。

「心理学の長い歴史を振り返ってみると、それは『理解』を研究したいという人々の熱い思いが、何度も何度もくりかえし裏切られ、『理解』とは似ていて非なるものばかりを押し付けられ、枠をはめられ、偽物であることを承知の上で無理やりに背負い込まされてきたものであることがわかる。」(P.127)

心理学の素人からすると、「理解する」というのは、人間にとって当たり前の心の働きに思える。だが、それを論じ研究することは、長らく心理学分野のタブーであったらしい。ちょっと驚きである。

だが、なぜ、そのような状態が、日本でも米国でも続いていたのか?(なみに本書は1985年の発刊だ)

佐伯胖は、自分が66〜67年に米国ワシントン大学に留学した際の、当時の米国心理学会の雰囲気をいきいきと描写しながら、その理由を説明する。それは、米国の心理学を1930年代以来ずっと支配してきた行動主義の影響らしい。行動主義とは、「科学としての心理学は、対象を客観的に観察可能な行動に限定すべき」という立場で、意識とか内観といった概念を排除していく。

佐伯胖によると、66年当時の主流派心理学者が認める、科学的研究の方法は次のような4項目であったという(P.136より要約して引用)。

(1) 実験データによる仮説の検証という手続きに基づく
(2) 観測される反応、すなわち行動を説明することが全てである
(3) 理論仮説は、データを説明するための必要かつ十分なものに限ること
(4) 説明は機能主義的説明で足りる。生体の内部構造には立ち入らず、ブラックボックスとしたまあ、その働きを正しく予測できるかどうかを問う

このようなパラダイムの中で研究を行う限り、たしかに「理解」それ自体のメカニズムを論じることは、いたって困難になる。

そうしたアメリカ心理学の強固な枠に対し、揺さぶりをかける動きも、たしかに一部は存在した。たとえば、スイスのピアジェによる発達心理学の業績である。またこれ以外に、フェスティンガーらの社会心理学、サイモンやハントらの情報処理アプローチがあるし、ボールズ、ロカードらの動物習性学・行動進化学の研究もあった。

これらを背景に、アメリカ心理学では67年ごろから「認知革命」と呼ぶべき動きが出てきたらしい。そして、上記の4項目に、さらに2項目を慎重に付け加えていった(P.136)。

(5) 内部機能に関するモデルの想定も許される(ただし実験的に検証が必要)
(6) 生物は外界の刺激に支配され、反応してるに過ぎない、と考える必要はない

わたし達のようなシステム・アナリスト(モデラー)から考えると、まあ当然のような6項目に見える。しかし、こうした変化がごくゆっくりしか起きないのは、それだけ学問研究の「パラダイム」の強さを示している。

佐伯よると、70年代は認知心理学が登場し、「知識」と「スキーマ」が研究の中心になる。72年には、ウィノグラードによる人工知能(自然言語による対話処理システムSHRDLU)が発表される。SHRDLUは積み木ブロックの世界について、人間と自然言語で対話しながら、積み木を運んだり積み上げたり、といった操作を行う。ウィノグラードはこれを心理学研究の一環として進めていた。

また、こうした動きと並行して出てきた、チョムスキー理論の心理学への影響は計り知れない、という(P.146)。チョムスキーはまず、行動主義心理学への批判を行い、さらに生得的な認知能力の仮説を立てる。そして認知過程に関する、生成変形文法という構造主義的アプローチを強める。

かくして心理学は「理解」をめぐって、認知→知識・スキーマ→自然言語、という風に主題を進めてきた。この流れは結局80年代に入り、「認知科学」に合流していく。本書自体が『認知科学選書』(東京大学出版会)の第4巻として発刊されている事が、事情をよく表していると言えるだろう。

ちなみに佐伯胖氏自身は、81〜83年に「LISPで学ぶ認知心理学」全3巻を出しているが、このタイトル自体が、ある種の時代を感じさせる。認知科学は90年代に入って、LISPの得意とする記号的人工知能から、神経回路網モデルをベースにした、コネクショニズム的なAI研究にうつっていく。それが今日のAIブームの基礎となる訳だ。

ただ、この動きはいささか、偏りすぎてきた観もある。記号による手続き的知識と、行列計算によるパターン認識的知識との間に、見えない壁がある現状は、どこかで再度パラダイム変化が必要なのではないか。

ともあれ、本書全体でいうと、マイケル・コール(UCSD教授)による第4章「リテラシー(読み書き能力)の文化的起源」も面白いが、第3章「理解におけるインターラクションとは何か」(三宅なほみ)が興味深い。これは二人以上の人が相手とやりとりしながら、建設的な問題解決をするプロセスを追った研究だ。

インターラクションの例に出すのは、「ミシンはどうして縫えるのか?」という議論だ。ミシンがなぜ布を縫えるのか。これはよく考えてみると、案外難問だ。これを二人で議論していくとき、「課題遂行係」と「モニター係」に作業分担するほうが進みやすい、など面白い知見がたくさん出てくる。

本書の1〜4章は一種のシンポジウムの講演録で、質疑応答も丁寧に収録されているため、とても読みやすい。そして第5章が編者による、まとめと展望だ。ただ時代のせいか、全体をよんでも、「理解」の心理学が、全体としてどのような戦略を持ち、どこを攻めようとしているのか、まだ作戦マップが描けるほどには概観できていないように感じた。

わたしが編者である佐伯胖氏の名前を知ったのは、「『きめ方』の論理 〜社会的決定理論への招待」(1980)をよんだ時だった。これは今でも、画期的な本だと思う。彼自身はその後、「決める」から「分かる」へ、そして「学ぶ」へと、研究分野をうつしていく。それは経営工学から出発して、心理学、さらに教育学へと進んでいく道のりだった。本書はちょうど、その分水嶺に当たる1985年、46歳のときの宣言的な業績である。だから勢いがあって、とても面白いのだ。
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by Tomoichi_Sato | 2020-02-24 22:12 | 書評 | Comments(0)
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