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書評:「彼女は頭が悪いから」 姫野カオルコ・著

彼女は頭が悪いから」姫野カオルコ (Amazon)

ちょうど1年前の12月、東大で開かれたシンポジウムを聞きに行った。東大生5人による強制わいせつ事件に想を得た話題の新著、『彼女は頭が悪いから』の著者・姫野カオルコ氏を招いてのブックトークである。姫野さんの外に、スピーカーとして、文藝春秋の編集者と女性活動家、そして東大の教官数名が登壇した。イベントは駒場キャンパスの銀杏並木角にある地下ホールで、平日の夜に行われた。

今思い出しても、このシンポジウムはまことに東大的だった。ひどく真面目なのに、全体としてひどくバカげている。どうしてこんなシンポになってしまうのか。疑問を感じながら家路についた。

シンポジウムではなぜか、この小説にリアリティがない、ということに批判が集中した。その理由として、三鷹寮だとか入試問題だとか女子学生の比率などが、事実と違っている、という論拠が揚げられた。しかしどうやら、この小説に描かれている東大生たちは屈折がなさすぎて、自分たちと違いすぎる、感情移入して読めない、ということに皆が引っかかっているらしかった。だとしても、そのことに、なぜあんなに怒っている参加者が多かったのか。

「彼女は頭が悪いから」は、小説=フィクションである。ちょうどマンガの「巨人の星」がフィクションであるように。

「巨人の星」には、長嶋茂雄をはじめ、実在の人物がたくさん出てくる。だが、実際にあったことをマンガにしたものではない。読売巨人の「中の人」が、あのマンガを読んで、「実際の読売ジャイアンツとはいろいろと違ってる」といってみても、それは批評にはならない。あそこでは、世間の人が、巨人軍について持つイメージを元にした物語が、描かれているのだから。

姫野さんもシンポの冒頭で、「この小説は、東大の人に向けて書いたものではない」と、わざわざ説明している。だが、なぜ東大の人たちは、教員も学生も口をそろえて、『彼女は頭が悪いから』にリアリティが欠けていると著者を批判するのか。人が些細なことに対して、妙に激しく怒るときは、そこに何か見えない心理的機制が働いていると疑ってしかるべきだろう。

わたしは一応、東大の大学院で毎週講義を持ち、それを足かけ8年にも渡って続けてきた人間だ。だから世間の平均的な人よりは、東大生という人種を多少は知っているといっても、バチは当たらないと思う。そして上記の問題は、西村肇・東大名誉教授の次のような発言に、ヒントがあるのではと感じるのだ:

「私は東大をやめてから、初めて東大の卒業生の性格がよく見えてきました。初めて、東大以外の卒業生と深くつきあうようになったからです。その結果、いままで気づかなかった東大卒業生の性格のいやな所、問題のある所が、とてもよくみえてくるようになりました。

私が痛感している点は、三点です。

まず第一は、劣等感の強いことです。これはちょっと意外かもしれませんが、本当です。○○天才などと呼ばれていたものが、東大に入ると、とてもかなわない奴がいることを知って、自信が根本的に崩れてしまうのです。しかしそれを認める余裕がなく、隠そうとします。ですから、東大卒業生は批判されることを嫌い、本当に批判されると壊れてしまいます。ガラスの器のようです。」
(西村肇「日本破産を生き残ろう」 日本評論社・刊、P.152)

東大の卒業生は劣等感が強い。しかし、それは無意識の下に隠されていて、自分でも気づかずにいる。このことは、東大出の人たちと付き合う必要のある人間は、覚えておいた方がいい。彼らは傷つきやすく、本気で批判されることに弱い。だからそういう失敗のリスクのある場は、無意識に避けようとする。Stupid(バカ)なことはしない、というのが東大卒のポリシーなのだ。

ただし、それは自分一人の時である。周囲に誰か同じことをする人間がいて、自分に言い訳が立つ、と判断できたら、彼らもバカな事に興じたりする。この小説の事件が、単独犯ではなく5人の連行犯だったのは、そういう事情を示しているかもしれない。

ところで、本書に登場する東大生たち、副主人公格である竹内つばさをはじめ、和久田悟・國枝幸児・石井照之(エノキ)・三浦譲治ら、いわゆる「星座研究会」の5人はいずれも、あまり劣等感なり屈託がないキャラ作りになっている。わりと素直に育ち、かつ周囲の人間に対する無条件の優越感を持っている。少なくとも、世間の人たちは、東大生とはそういうものだ、と信じている。

この点が、現実の東大生たちの気に障るのだろう。シンポでは、自分たちも挫折を経験している、というような発言が繰り返し出た。だからどうだというのか? 基本的にこの小説は、「中の人」向けに書かれたものではないのだ。もちろん、竹内つばさに感情移入できる読者は、世間でも決して多くあるまい。少なくとも、わたしにはとても難しい。

ついでにいうと、シンポでは、ある教官が、「このような事件が起きた背景には、東大の女子学生の数が、男子学生に比べて圧倒的に少ない、という非対称性がある」という意味の発言をした。

だが、ちょっと考えてみてほしい。もしこのような言明が正しければ、男子学生の比率がもっと高かった昔は、同種の事件がさらに多数起こっていたはずだろう。東大が女子学生を受け入れ始めたのは昭和27年からで、それ以前の東大は男子校だった。かりに時代の変化があって単純に比較できないとしても、じゃあ現代における同種の事件と、各大学の男女比率をもとに、証拠立てるべきだった。

この論者は、自分の主張を事実に照らして検証しよう、という姿勢に欠いている。読者諸賢よ、安心されたい。東大の知性なんて、この程度のものなのだ。

だが、東大以外の世間の人達の方は、ある意味、もっと訳わからない。事件が報道され明らかになってから、被害者である神立美咲の家に電話をかけてきて、いきなり「勘違い女の家?」「バカ女、聞いてるか?」などと怒鳴ってくる人間の大半は、おそらく東大卒ではあるまい。この小説はフィクションだが、この部分は相当に、現実起きた事に近いと思われる。

女性が性的な暴行を受けた後で、周囲から逆に非難されて傷つくような現象を「セカンド・レイプ」と呼ぶらしい。主人公の美咲を襲ったのは、そして摂食障害にまで追い詰めたのは、まさに世間の人間達によるセカンド・レイプだった。

しかも念のために書くと、美咲はレイプされた訳ではない。「5人の男たちが一人の女を輪姦しようとしたかのように伝わっているのはまちがいである」と、作者はプロローグの第1頁に書いているほどだ。たしかに竹内つばさ達5人が、美咲に対して行った事は、「強制わいせつ」に相当する、非道い行為である。だが世間の人間が、報道テロップから単純に連想するような犯罪ではなかった。

にもかかわらず、そのような「いやらしい犯罪」の被害にあったのは、被害者の美咲が「勘違い女」で、悲劇の原因は「彼女の頭が悪いから」だという、ひどく逆立ちした理由付けが、ネットを中心に広まった。一体何を、勘違いしたというのか? その疑問こそが、この小説全体のテーマである。

そして、その答えは、はっきり言語化した形では、小説内には書かれていない。作者も、読者も、その疑問を未解決なまま共有し続けるように、この小説はできている。無論、モラリストで心優しい作者のことだから、被害者の美咲をどん底に突き放したままで終わるような書き方はしないが。

ところで姫野カオルコの小説の中でも、本書は登場人物が多い。しかも複数のエピソードが時代を渡り錯綜して描かれるので、わたしは途中で登場人物表を作って、最初に戻って読み直したほどだ。おまけに、「グレーパーカ」の彼氏のように、結構重要な人物なのに、名無しのままのキャラも数名出てくる。プロの小説家だからまさかとは思うが、途中でキャラに命名するのに疲れたのだろうか?

命名ということでいうと、美咲の通う「水谷女子大学」が仮名なのは当然としても、本書に出てくる学校名には、「東大」「慶応」「理科大」など実在のものと、「横浜教育大」のように仮名のものが混じっている。著者がどのような意図で、この使い分けをしたのか、考えてみると面白い。実名で出てくるのは、「日本女子大付属中」「日大芸術学部」を含め、歴史ある名門と言われる学校だけで、仮名は「その他大勢」でしかないのだ。

また、つばさが大学初年で足を怪我し、微妙にパドルテニスを楽しめなくなった、というあたりの伏線は、いかにも小説的に巧妙だと思う。ちなみに本書は、発刊後1年近く経ってから、あらためて「柴田錬三郎賞」を受賞している。受賞が遅くなったのはむしろ、マスコミ的な興味とは別の、小説的な価値を認められた証左だろう。

とはいえ、この小説は、悲劇的な結末に向かうことが分かっているだけに、読み続けるのがなかなかつらい。とくに主人公の美咲が、東大生で主犯格のつばさと、綱島で2回目のデートをするあたりが、一番悲しい。

それにしても、この小説で描かれている一つの事実がある。それは、
 「頭の良い人間は、頭の悪い人間に対して、どんなことをしても良い」、
という恐ろしい思想を抱いてる人間が、この社会には一定数いる、という事だ。

あるいは、「勝ち組は負け組に対して、どんなひどいことをしても正当化される」と信じている連中が、今の世にはそれなりに存在するということだ。少しはまともだったはずの、わたし達の社会は、もうそこまで落ちぶれてしまったことを、この思想は示している。

18歳の冬のある数日間、たまたまペーパーテストのパフォーマンスが良かったからといって、その人間が一生優秀である保証などないし、一生優越的な立場にある社会は、明らかに間違っている。人はむしろ、大学を卒業後、どれだけ考えどれだけ学ぶかで、賢さが決まる。生まれつきの知能の良し悪しには多少の差があっても、また家の経済的境遇には差があっても、この点で人は互いに対等だ。このまっとうな道理が、通らない世の中になりつつある。

だとしたら確かに、わたし達は皆、頭が悪いのだと言えよう。


<関連エントリ>
  (東大生の非行に対するわたしの基本的な考え方は、 この記事に記したとおりだ。)




by Tomoichi_Sato | 2019-12-17 00:12 | 書評 | Comments(0)
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