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書評:「風のシカゴ」 中津燎子・著

風のシカゴ」(Amazon)


近くのJRの駅で、ラグビー・ワールドカップ観戦帰りの客と鉢合わせになった。外国人も半分以上いる。駅員さんたちは必死になって、メガホンや構内アナウンスでお客を誘導していた。それも、日本語と英語の両方で交互に叫んでいるのを見て、「世の中、変わったなあ」とわたしは思った。

駅にいる普通の駅員さんたちが、ごく普通に、仕事の必要で、英語を話している。もちろん、ネイティブの流ちょうな発音とは全然違うが、何を言っているかちゃんと聞き取れて、達意で明瞭だった。それは、英語を話すという事が、何か『特別なこと』ではなくなってきた証なのだ。

日本人にとって、英語が「特別な外国語」から「普通の言語」の一つになること。異文化との接触と交流を、普通のあたりまえの人達が、(体当たりであっても)自分で行うようになること。それこそ、2013年に亡くなった著者・中津燎子氏が長年、望んできたことではなかったか。

中津燎子氏は、傑出した英語教育家だった。わたしは中津先生(ここからは先生と書く)に長らく私淑していたが、残念ながら生前お目にかかることはできなかった。それが、不思議な偶然に導かれて、昨年5月に、先生のお墓参りをすることができた。古くからのお弟子さんで友人でもあった、西端千鶴子さんにご案内いただいたのだ。河内長野の墓地は明るく穏やかで、中津先生とご主人の眠る場所には、小さいけれどお洒落な墓標が飾られていた。

中津先生の本はほとんど読んだはずだが、唯一残っていたのが、本書「風のシカゴ ~シェリダン・ロード物語」 だった。1989年の発刊で、すでに絶版だが、幸い古書で入手できた。

本書は中津先生の、自らの米国留学体験(1960年代前半)の記憶と、その30年後に家族と再訪した印象記である。そして、アメリカ文明への静かな批評となっている。

わたしがはじめて中津燎子先生の「なんで英語やるの?」 を読んだのは高校3年生のときだが、そのショックは今でも覚えている。それまで漠然と感じていた、学校における英語教育への違和感と疑問が、ある部分は見事に解決され、またある部分はより深い疑問に変えられた本だった。

同書の最初の方に、中津燎子先生による英語の最大公約数的な4原則がのっていた。それは、

(1)英語は意思伝達のために存在し、他の言語と対等である

(2)音を重視する聴覚型言語である

(3)英語は腹式呼吸で発声する

(4)自他を明快に分ける思考を土台にしている

の4項目だ。どれも、それまで自分が、あるいは世の中が、無意識に抱いていた前提と真逆なほど違っていた。

(1)は、「英語は国際的エリートの使うカッコいい言語である」という通念と対立する。(2)は、読み書きと文法中心の入試やテストで評価される、英語教育のおかしさを再認識させられた。(3)は、わたし達の日本語のあり方(息の量も小さく口もあまり動かさない)との違いを意識させられた。おまけに、声が相手に届くかどうかを気にしないのだ。(4)の「自他の弁別」という発想は、それ自体、日本文化にはないものだった。少なくとも高校3年まで、そんな視点を考えたことはなかった。

そして、中津先生の根本には、「英語を学ぶことの中心には、異文化理解があり、それには身体的・思考的な訓練を要する」という明快な認識があった。読む・書く・聞く・話すの4技能はいわば手足であって、異文化理解という胴体がなければ意味をなさないのだ。

それにしても、なぜ英語は日本で特別な外国語になったのか?

明治期から、英語教育は外国文化摂取を目的に行われた。英語は先進文明国の言語であり、ことに戦後は日本を占領した戦勝国の言語となった。序列思考の強い日本文化では、最上位に位置づけられた外国語だった。しかも高校・大学の必修科目となり、受験英語の成績がその子の価値を左右することとなった。

おまけに、日本では伝統的に、外国語学は文献学であり、読み書きと文法中心の学習だった。中国語を「漢文」として素読し、古典の訓詁学で受け入れた伝統を忘れてはならない。このおかげで、「読み書き」(受験英語)と実用的会話能力が分離する不思議が生じても、学者先生方はなんとも思わなかったらしい。

いうまでもなく、日本の生活では、英語を必要とするシーンがほとんどない。結果として、話者が少ない。だから学校で習っても、使わないのですぐ忘れてしまう。結果として、全国の教師の需要を満たせるほど、話者がいないのである。当然、教師の側のレベルも理想からは程遠く、おかげで受験産業がビジネスの種にしやすい。

この文章を書いている今日、ちょうど、文科省が大学入学共通テストで英語の民間試験導入を延期した、という報道が舞い込んだ。当然のことに、わたしには思える。そもそも業者テスト導入策の背後には、英会話の能力が「グローバル人材」の必須の要件だ、という愚かな経済界の思い込みがあるように感じる。そこには、異文化理解の能力の低さが、日本経済が海外で競争力を失った最大の要因だという反省が、まったくない。

でも、本書に戻ろう。著者の中津先生は、旧ソ連・ウラジオストク育ちの帰国子女であった。戦中の日本社会に帰国し、非常な苦労をされた。そして戦後、占領軍の電話交換手の仕事を機会に、英語を身に着け、米国留学を志す。

ただ、最初に行ったボストンでの医療技術者の勉強には挫折する(なにせラテン語がまだ必修だった時代なのである)。そこでPlan Bとしてシカゴに移り、商業美術を勉強する。やがて知り合った日本人医師と結婚し、男女二人の子どもを得て、65年に帰国される。

中津先生は帰国後、岩手県で子供のための英語塾を始められるが、後にご主人の仕事の関係で南大阪に移られてからは、英語教師向けの教育をされた。これはとても良いことだったと思う。岩手の小学生よりも、大阪の中学校英語教師のほうが、「なぜ英語を学ぶのか」目的意識がはっきりしている。

本書はその30年後、息子のケンさんと娘のリッツさん(いずれも仮名)と一緒に、米国に向かうシーンから始まる。

はたして30年間に、アメリカは変わっただろうか?

著者がまっさきに思い出すのは、'50年代のアメリカにおける人種差別である。黄色人種である日本人だ、というだけで、下宿探しを始め、あらゆるシーンから静かに締め出しを食う。その頃のアメリカでは、黒人と日本人と白人が、同じレストランのテーブルに座って食事する事など、考えられもしなかった。そういう一行は、入り口できっぱり拒否された。

今は、それができる。では、表立った人種差別は、アメリカから無くなったのだろうか?

だが機内やアメリカ入国の手続きの中で、中津先生は、入管事務所・税関その他、有色人種の多く働く現場では、「いっさいの親切心、サービス精神、気くばりはゼロであること」を見抜く。「屈折した差別の存在するところでは、人々は他に向ける心のゆとりも思いやりもなくなり、不満だけが純粋培養されて固まっていく。」「こうも独特の押し殺した不満顔の人々を見ていると、アメリカは相変わらず『表面規則は平等』であり、『真相部分では差別』という構造が続いているのかもしれない」(P.31)

シカゴは、広大なミシガン湖に面する、風と寒さの厳しい北国の街である。中津先生はながらくシカゴの、シェリダン・ロード界隈に住んでおられた。いわゆる「魅惑の1マイル」(Magnificent Mile)などの繁華街からは、ずっと北にあたる。

この再訪の旅で、かつて家族で住んでいたアパート、子供を生んだ大学病院なども訪れる。そして、かつて歌を習い、一緒に活動指していたエラ・ジェンキンスという黒人女性音楽家とも再会する。彼らの旅のクライマックスは、シェリダン・ロードをずっと北に向かい、かつて見たシベリア風「きのこの家」を再発見するくだりだろう。それはまた、アメリカ生まれで帰国子女だった先生の二人のお子さんにとっても、ルーツ再発見であった。

だが、最後の第3章「ブラック・ホール」になると、本書のトーンはまた沈潜する。たまたまホテル代わりに逗留した老人施設で、著者はシラー老人という元新聞記者と対話する。本書の中で、彼は、ベトナム戦争がアメリカに残した傷跡を、ひそかに代表する人物である。

アメリカはベトナム戦争に負けた。だが、その事実を意識は受け入れがたい。敗北の記憶は、無意識に回って抑圧される。ジャーナリストのシラー老人は、その危険性に気づいている人物だ。だが、明朗な表面とは違い、深く傷ついている人物でもある。そして、彼は孤独だ。それはこの国の人々の抱える、深い孤独感を象徴している。

「アメリカって社会は、何が何でも機会を狙え! という国でしょ?」−−かつての友人レイチェルは、著者にこう語った。「それこそ髪の毛一筋のチャンスでもつかまえて生かす者が最後に勝つわけ。そんなふうに一人ひとりが自分の限界も考えず必死になっているときは、友達どころではなくなるのよ。そしてますます閉鎖的になって、しまいには心が冷凍肉みたいにカチンカチンになってしまうのよ。」「その冷凍ハートの人間は心はカチカチなのに、うわべの表情や行動はやたらに明るく輝いていてさ、目はチャンスを探してギラギラしてるんだ」(P.290-291)

そして、レイチェルいうところの「間抜けな太陽」である著者のところに、そうした冷凍ハートの人間が自然と引きつけられていく、という。「冷凍人間たちは、間抜けな太陽を探すか、麻薬に逃げるか、どちらかしかないのよ。」ここに、もう一つのアメリカの病相がある。

さて、上に述べた中津先生の英語4原則に、「英語は、他の言語と対等である」という項目がある。

この、対等とか、公正とか、権利とかいう概念は、分かりにくい。日本では、それらと「平等」とが、しばしば混同される。日本文化では、伝統的に序列思考と平等原理が強かった。その反動として、今は優勝劣敗の競争原理が全盛を誇っている。だが、アメリカ文化の文脈では、競争はフェアな環境でなされなければならない。

しかも、人の上に立つリーダーや、権力者は、公正でフェアであることが要求される。そうでないと、下の人々が信頼してついてこないからだ。えこひいきをしたり、貢献者を罰したりするリーダーに、誰がついていくだろうか?

これについて、学生アルバイトをこき使う鬼のような雇用主を、著者は思い出す。あるとき、新聞記事でもっとペイの良い仕事を探して丸をつけていたら、その鬼が見つけて「そこはやめておけ」という。あんたは知らないだろうが、そこは売春組織と関係しているからだ、というのだ。そして、「俺は、こういうことは、フェアでありたい」と言い残す。

「ソ連も日本も、ともに『フェア』という概念や発想を持っていなかったように思う。」(P.301) だが、アメリカは私に対してフェアであろうとすることを教えてくれた、と著者は書く。アメリカ社会の深い断面を活写した後、最後に、でも大事なことを教えてくれたから好きだ、という。それは中津先生が、自分もアメリカに対してフェアでありたい、と考えたからだろう。

本書は、だから、著者・中津燎子先生と家族による、アメリカとの和解の書でなのである。

<関連エントリ>

 →「書評:『英語と運命』 中津燎子・著」 (2014-06-08)

 →「国際人として最低でも守るべきたった一つのルール『ありがとう』と家族に対してでも言う」 (2016-09-11)


by Tomoichi_Sato | 2019-11-02 20:12 | 書評 | Comments(0)
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