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センスのある人と、「カッコいい」で動く人

  • 美意識ということ

このとろこしばらく、ガラにもなく「美意識」ということについて考えていた。

きっかけは、システム・モデリングである。モデリングという仕事には、サイエンスの部分とアートの部分がある。対象を分析し、その性質や挙動を定量的に推測する部分には、明らかにサイエンスが必要だ。と同時に、良いモデリングの仕事では、モデルのできばえ=「美しさ」が大切になる。

美しいモデルを発想する部分は、一種のアートである。ちなみに、英語の”Art"は、日本語のアートよりも広い意味を持つ。Artとは、熟練した感覚を要する「技芸」「方法」といった語感である。だから、芸術を意味するときは、あえて"Fine art"という風に限定する。

ともあれ、アートの基本には美意識があるのは間違いない。発達した美意識は大切だ。だが、発達していない美意識というものもあって、それは危険だ——今回は、そんな話になる予定である。

  • 真善美と価値基準

真・善・美」は、人間にとっての最大の価値だ、というギリシャ的観念が、西洋には伝統的にある。あえてこの三つを同格に並べる、というところが、とてもギリシャ的だ。少なくともインドや中東など、他の古典文明では見られないのではないか。

西洋の学問の基礎は、この三つに対応して、
 真理を探究する方法: 哲学
 善を実践する方法: 倫理学
 美を追究する方法: 美学
という風になっていると考えられる。この三つの学問はは、知性・実践・感性という、人間の精神が持つ三つの側面に対応する、ということになっている。
(注: ただし上記の枠組みが確立したのは、近世以降のドイツ観念哲学から、という説明もある)

もちろん真・善・美の三つが、いつでも重なるとは限らない。というか、しばしば重ならないのだ。たとえば、「真実」はつねに美しいとは限らない。また、真実がつねに善であるとも限らない。人はむしろ、真・善・美のうち、どれを取るか、というジレンマに直面しがちだ。

では、人間の決断や行動を決める価値基準は、上記三つが主なものだろうか?

そんなことはない。まず、「損・得」がある。また、「勝ち・負け」もある。この二つも、しばしば両立しがたい。だから、勝ちを譲ってでも、得を取る人がいる。逆に、損をしてでも、勝ちたい人もいる。つまり、この二つの価値軸は独立である(数学的にいえば軸が直交している)。

そしてもちろん、「好き・嫌い」もある。愛憎は紙一重だ(損得や勝敗だって紙一重ではあるが)。好きな相手なら、負けてやってもいい、あるいは損をしてもいい、という判断は、大いにあり得る。こういう人達は、損得より勝ち負けより、『好き』が大事なのだろう。だから、この価値軸も独立している訳だ。

  • ビジネスにおける価値基準の優先順位

では、上にあげた6種類の価値軸の中で、どれが一番強いのか? 一番上位に来る価値基準はどれか? もちろん、一貫性などなく、そのときどきなのかもしれない。だが、ある種の傾向を人は持っているものだ。

そりゃあ一番は損得だ、という人も多いだろう。ビジネス界では、それがトップに来るに違いない。何といっても、利益追求が企業のビジネスの最大の目的だ。

ついで、勝ち負けだろう。勝たなければ、利益は得られない。そういう信念を、皆が持っている。Win-winなどという、美しい言葉もあるが、たいていはゼロサムゲームである、と。

そして、経済合理性を追究するのがビジネスである以上、次は知的であること。つまり知性(=真)が重要である。頭が良いことは、素晴らしいことだ、と。まあ一応、最近はコンプライアンス(=善)とか環境SDGsとかあるし、実際にはこんな風になっているかも知れない。

 得>勝>真>・・・善>・・美その他

だが、わたしはこうした通念に、最近疑問を持つようになった。じつは、多くの人は、美意識を第一にして動いているのではないか? 美意識に従う人の特徴を考えると、そう思えてきたのである。

  • 美とセンスと『カッコ良さ」

美を体験すると、人は視覚・聴覚など五感による感覚への集中が起きる。脳のリソースは、感覚と思考の両方に同時には向けられない。だから、美は一時的な思考停止を導く。美意識を価値観の中心に置く人は、あまり深く考えなくなる。直感で、ぱっと決める。「迷わない」ことは、カッコよさの一つの条件でもある。

では、スティーブ・ジョブズは「考えない人」だったのか?

そうではあるまい。彼は確かに、製品の「美」にこだわる人だった。直感的に行動した人のようにも思える。だが、彼には少なくとも明確な「センスの良さ」があった。

「センス」とは持って生まれるしかないものなのか。いや、センスは磨くこともできるものである。そのために、アーティストは修業時代を過ごすのだ。

クリエーティブな仕事をする人は、磨き抜かれたセンスと、深く考え続ける能力の両方を持っている。ジョブズ自身はデザイナーでもエンジニアでもなかったが、製品のプロデューサーとしてすぐれて創造的だった。

美のクリエーター達が、美意識を行動基準の中心においているのは間違いない。ところで、クリエーションはしないけれど、美を重視するタイプの人もいる。生産者ではなく、いわば消費者として、美を求める人達だ。この人達が大事にする言葉、たよりにする美の形式=それが「カッコいい」だ。

カッコ良さは、真でも善でもなく、勝ちでも得でもない。あきらかに美の一形式である。ただ、それは消費形式の一種なのだ。

少なからぬ人びとは、自分にセンスがなくても、誰かや何かを「カッコいい!」と感動して、それにひきつけられる。そして「カッコ良さ」を求めて、いろいろな消費行動を起こす。だから企業は商品をカッコ良くしようとするし、消費者がカッコ良さを求めるよう誘導する。「カッコいい」は、美を、思考ではなく欲望に直結させる働きを持つ。

  • カッコいい職場、カッコいい職種

先日、ある若者と就職について話していたら、彼は、「誰だってトップで超一流の会社に就職したいと思うはずです」という。そして、トップとは「外資系経営コンサルティング会社だ」、と断定するので驚いた。

別に彼にたいして根拠があるわけではない(それほど社会を知ってはいない)。単にそれが「カッコいい」と思って(周囲に影響されて思い込んで)いるらしい。そりゃあ、何もわたしは、自分の勤務先の方が超一流だとかトップだとかいうつもりはない。だが、どうして外資系なのか。

「受験生なら誰もが東大をめざすのと同じだ」、とも彼はいう。この点でもわたしは異論があった。東大が問答無用に一番だ、という見解にわたしは組みしない。だが、かくも単純な価値観の相手と、それ以上議論してもらちがあかないと思い、会話をやめてしまった。

今の世の中では、「外資系」「MBA」「エリート」がカッコいいらしい。たしかに、メディアでももてはやされるのは、その種の人達であることが多い。「マッキンゼー出身」と書いてあると、それだけで発言にオーラがかかるようだ。

企業なら、経営企画部門で、M&Aに携わったりするのがカッコいいらしい。「M&Aアーキテクト」だとか、「シャーク」だとか「毒薬条項」だとか、使う用語もカッコいいではないか。それから「経営戦略」について語るのもカッコいい。強くて、クールなイメージがある。

  • カッコいい技術、カッコいい道具

AIエンジニアとか、データ・サイエンティストというのも、ちょっとカッコいい。「ウチの会社も、AIを使っています」と語れるとカッコいい、と思っている経営者も案外いるのではないだろうか。だって、データを蓄積して、そこから意味を汲み取らねば、という問題意識を持っている経営者だったら、AIが華々しく登場する以前から、そういうことに取り組んできたはずだと思うからだ。

「最新の」ITツールが好きな人も多い。こういう人達を見分けるのは難しくない。データを読み解くことに関心があるか、それともITツールを使うことが好きか、という点を見れば良い。前者は頭を使うし、地味だし、カッコ良くない。後者はトレンディだ。

そもそも「トレンド」は、カッコいいのである。人と同じ価値観を目指し、少しだけ先を行く、というのがトレンドである。カッコよさは、だから、人を束ねて動かすのにとても便利だ(余談だが、その一番の例が、ファシスト党とナチ党だったように思う)。

企業としては、消費者がみな「カッコいい」で動く人になってもらいたい。皆が似たような価値観だと、ヒット商品が生まれやすくなる。その方が大量生産ですむので、楽である。

  • スター的経営者

スターという存在は、大衆社会と共に誕生した。「カッコいい」人に、自分を重ね合わせ、自己を投影する。これが大衆のあり方の一面だ。

最近は、スター経営者という存在もある。カッコいい経営者にあこがれる人達は、その人の会社で働く。あるいはそれよりも、起業して、その人みたいな経営者になることを目指す。既存組織の経営陣だって、カッコいい経営者に無意識に影響されているかも知れない。スター企業の、スター経営者のやり方を、無意識に真似るのである。

現在の所、そうしたスターは主に米国が輩出している。経営学者達も、その経営手腕を並んで賞賛する。かくして、米国式の経営手法が蔓延する結果に相成る。その手法とは、M&Aで業容を拡大し、生産は途上国に外部委託し、従業員や自前のR&D投資は切り捨てて利益を出し、自社株買いで株価を維持する、という奴だ。

この路線の先には、大企業とスタートアップだけで、技術に特化した中堅企業が存在しない、という二極分化した社会産業構造ができあがる。流通もサービス業も、ナショナル・チェーン店だけ、という社会である。米国のどこの都市に行っても、ショッピングモールには似たような店舗しか並んでいない。

市井の普通の人が、パン屋や花屋やクリーニング屋さんとして自営で暮らすことができない社会。フランチャイズ店の店長として、実質的には雇われ人になるしかない社会。そういう方向に、わたし達も進みつつある。どうしてこうなったかというと、皆が自分自身の個性を見つけて、それに会った生き方を探る代わりに、「カッコいい」生き方を真似るようになった結果なのだ。

  • センスのある人と、「カッコいい」で動く人

では、どうしたらここから抜け出せるのか?

じつは、人が美意識で動くからいけない、のではない。むしろ、美意識(センス)が足りないのだ。それが最近のわたしの仮説である。

センスを磨くには、良い教師や先輩による訓練と、ある種の経験の蓄積がいる。センスを磨くことは、落ち着いてよく考えること、繰り返し試行錯誤することの上に育つ。脊髄反射的に「カッコいい」で動くだけでは、センスは伸びない。

センスがある人は個性的である。発達した美意識は、むしろ個性があり、千差万別だ。美というものは、多様性と自由を認める文化的土壌に育つ。

もっとも、集団的に統一された美というのも存在する。どこかの国のマスゲームのように。それはたった一人の美意識の主宰者のために、千人・万人が従属する社会だ。そこから豊穣な美が育つかどうか、わたし達は良く知っている。

ただし、人びとが消費者レベルで個性的でも、それだけでは十分ではない。ビジネスやマネジメントの局面で、同じようにセンスを持ちうるか、という方が重要だ。いくら身につけるファッションが個性的でも、意思決定や部下への指示が無個性では、豊かな結果は生まれまい。

マネジメントという仕事もまた、人間を相手にしているだけに、サイエンス+アートの両面をもつ。このサイトの主テーマである『マネジメント・テクノロジー』とは、サイエンスの部分を技術化したものだ。

では、マネジメントのセンスを基礎づける美意識とは何だろうか? そんなものは存在するのだろうか?

  • ある美しい国の話

こう考えるうちに、わたしは、美意識が重要で、「カッコいい」が公的に市場価値をもつ国を思い出した。昔、そういう国で、1年近くの間、働いていたのだ。

そこは「見る」「見せる」文化で成り立っている。美しい物が好きで、美術品と美食が有名で、たしかに街もそれなりに美しい。

ただ、その国のビジネス界は、じつは米国流経営法をそうとう真似ているように感じられた。ビジネスに従事する人びとも、「エリート」と「庶民」に完全に二分されている。その国には、スタートアップ企業と大企業しかなく、中堅企業があまり存在しない。そして、ライバルの隣国に比べ、長年不景気に苦しんでいる。

つい先日、その国の首都に立ち寄った。街の中心に、その都市の精神を象徴する大きな聖母教会がある。わたしは、そこに詣でて、ある偉人の絵の前にロウソクを捧げるのが、いつも旅の習慣だった。その偉人の名は、聖トマス・アクィナス。南部イタリア出身のこの人は、まことに「深く考える人」だった。彼は言語による「世界というシステムのモデリング」という問題に挑戦した哲学(神学)者だが、その仕事には明確な美意識があったはずだ。

だが、あいにくその教会に、今回は入れなかった。火災が起きて、尖塔と屋根の大部分が焼失したのだ。痛ましい姿に頭を垂れ、この国の人達の心にぽっかり空いた、空洞を思った。教会自体は多くの人の寄付を得て、再建を急いでいる。だが本当に再建が望まれるのは、人を動かし人を使うことに対する、良きセンスの方ではないのか。

そしてそれは、地球の反対側にある島国においても、同様だと思うのである。


by Tomoichi_Sato | 2019-06-29 19:27 | 考えるヒント | Comments(1)
Commented by 佐々木 at 2019-07-12 09:43 x
興味深く読ませて頂きました。美意識とは、ある意味、本質を見極めることと関係しているのかな思いました。
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