書評:「菊と刀」 ルース・ベネディクト著

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昨年読んだ中で、インパクトのあった本のTOP 3を挙げろ、と言われたら真っ先に挙がるのが本書「菊と刀」であろう。1946年に刊行された日本文化の研究書であるが、未だにその輝きを失っていない。むしろ今日、現在の日本の姿を念頭に置いて読むと、いよいよその切り口の鋭さと洞察の見事さに驚き、感動さえ覚える。

「合衆国がこれまで総力をあげて戦ってきた敵のなかでは、日本はいちばん異質な相手だった。」−−本書は、こう始まる(p.9)。文化人類学者である著者ルース・ベネディクトは、1944年6月に、米国戦時情報局(OWI)からの依頼で、日本文化について研究する任務を与えられた。

'44年(昭和19年)6月といえば、日米開戦後2年半が経ち、すでに戦局は大きく米国側に傾いていた時期である。米国はすでに戦争の最終段階と、その後の占領政策について考え始めていた。(日本は)「本土に侵攻しないでも降伏に応じるだろうか? 皇居空爆は断行すべきだろうか?・・日本人はいつまでも軍政下に置いておかないと大人しくできない民族なのか? わが軍は、山岳地帯のありとあらゆる天然の要害に閉じ籠り、捨て鉢な徹底抗戦を繰り広げる日本兵を相手に、戦闘をする覚悟をしなければならないのか?」(p.12)・・これが、彼らの直面した問いだった。

この問題に取り組むにあたり、文化人類学者に研究を依頼する、というのがアメリカ人らしいアプローチであった。異質な相手と取り組むには、その思考と感情の習慣を、科学的・客観的に理解しなければならない。これが西洋流の合理思考だ。

しかし、当然ながらルース・ベネディクトの仕事は困難を極めた。何より、文化人類学の基本は、フィールドワーク調査にある。戦争中の相手だから、当然それはできない。彼女は代わりに、米国内にいる日本人・日系人へのおびただしいインタビューと、先行研究の徹底サーベイによって乗り切った。現地・現場・現物に接することなく、知性はどこまで異文化を理解できるのか。本書はその精髄である。

『菊と刀』とは、「日本文化=恥の文化、西洋文化=罪の文化」という二項対立的な図式で日本を論じる本だ−−そう信じている論者は、今も多い。恥の文化とは、他者の目を意識して自分の行動規範とする、いわば他律的な文化であり、一方キリスト教を背景とした西洋文化は、絶対的な善悪の基準によって行動規範を持っている。だから西洋は日本よりも優れている。そういう主張の本だ・・という風に誤解しているようだ。

いや、正直に言おう。わたし自身、そう思い込んでいた。だが、そういう人は、この本をちゃんと読んでいないのだと、思い知った。「恥の文化」という有名な言葉は、分厚い本書の後半になって、それも日本人論ではなく一般的概念として、初めて出てくる。それまではもっぱら、「忠」「孝」「義理」などが日本人の人生観を支配している、という話が続く。特に重要な要素として、「」の感覚が詳しく記述される。

「日本人にとっては、恩の返済こそ徳目なのだ」(p.143)。これは、無償の愛で他者に恩を与えることが徳目とされる米国の倫理とは、随分異なっている。また中国では最高の徳目である「仁」(親や支配者が示す博愛)は、日本では無法者の道義に堕ちている。ベネディクトは、日本人における恩を、一種の貸し借りとして、いわば貸借対照表のように理解できる、と説明する。そして恩の返済に関連して、「義理」が登場する。

恥の文化という概念が登場するのは、汚名をすすぐ、そして自重する、といった徳目に続く章においてだ。「西洋人は、因習への反逆や障害を乗り越えて幸せをつかむことを、強さの表れと考える傾向がある。しかし日本人の見解では、強者とは個人的な幸福を顧みず自らの義務を全うする者のことである。」(p.254)

このような強い自制心への方向づけは、いわゆる罪と罰の概念による行動規制とは別物だ。それゆえ、日本人は、「この世は善悪の闘争の場」などではないと考え、「人間の生活では肉体と精神という二つの力が互いに相手を凌駕しようと絶え間無く争っているという西洋の人生観」(=非常にピューリタン的な人生観)とは無縁だ(p.232)と、著者は驚く。

ただし、彼女は単純に米国と日本を対比して比較評価している訳ではない。あくまで文化人類学的な相対主義の立場に立って、日本文化を多面的に理解しようとしている。例えば中国文化との相違点もいろいろと書かれている。忠孝の概念は中国から来た。だが、中国の祖先崇拝と大家族主義の元では、伯父や伯母への関係も「孝」であるが、日本では普通「義理」にすぎない。日本人の祖先との結びつきは、せいぜい3世代さかのぼる程度であり、むしろフランスの家族制度に近いという。

もう一つ、ルース・ベネディクトが日本の重要な価値観として指摘するのは、階級序列の感覚である。個人は誰もが社会における(あるいは家族内における)序列のいずれかに位置し、その場所に応じて、果たすべき役割と義務、享受すべき権利と責任を与えられる。彼女はこれを、教育勅語の中にある「各々其ノ所ヲ得」という言葉で象徴させている。

「日本人を理解しようとするならばまず、彼らのいう「各々其ノ所ヲ得」ということが何を意味するかを考えてみないといけない」(p.60)。日本では、上位者に対して下位の者は礼儀に従ってお辞儀をし頭を下げる。「頭を下げる方は、相手が自らやりたいことを好きなようにやる権利を認め、その代わり頭を下げられた方は自分の『其ノ所』にともなう責任を受け入れる」(p.67)。この秩序を守ることが、日本人にとって安全の重要な要件なのだ。

そして日本人は、「国内ばかりか、国際関係における諸問題まで、彼らなりの階級序列との関わりで見てきた」(p.60)。かくて、八紘一宇というスローガンのもと、日本を頂点とした東アジア秩序概念を輸出しようとしたことが、日本の破滅のきっかけとなったのだ。真珠湾奇襲の当日にも、日本は米国のハル国務長官に、同じ言葉遣いで「惟フニ万邦ヲシテ各々其ノ所ヲ得シメ」るのだと伝えた。その無礼な主張に、多くの国は憤慨した。国々は互いに対等であるべしというのが、世界的な常識・通念だからだ。

ところが「日本の将兵は、占領した国家で住民に歓迎されないといっては、その都度いつまでも驚愕を繰り返した」(p.118)。其ノ所の感覚が、日本以外では通用しないことを知らなかったのだ。

さて、ルース・ベネディクト達にとって特に問題となったのは、日本人の戦争の勝敗に対する感情である。日本の軍隊は、簡単に降伏しない。「西洋国家の軍隊では、兵力の四分の一から三分の一が戦死すれば、軍隊が降伏するのはほとんど自明の理となっている」のに対して、「ホランディアで初めて相当数の日本兵が降伏した時、投降の割合はおよそ戦死5に対して降伏1だった」(p.55)。

これほどまでに頑強に抵抗し、しかも、赤穂四十七士による主君の仇討ちの物語を大切にする日本人たちは、たとえ戦場で米国に敗北しても、その後ずっと怨念を抱き復讐を誓う存在であるように思われた。

ところが驚いたことに、一旦降伏を受け入れるや否や、日本軍の「古参兵や長年の国粋主義者が、味方の弾薬集積地の場所を探し出し、日本軍の配置を念入りに説明し、わが軍の宣伝文を書き、わが軍のパイロットと爆撃機に同乗して軍事目標まで導いたりした」(p.58)のである。こうした「敗北した日本人の180度の方向転換は、アメリカ人には額面通り受け取ることが難しい。私たちにはそんなまねはできないからである」(p.213)。彼ら日本兵は、「鬼畜米英」を放逐し、「東亜新秩序」を打ち立てるという大義のために、命を懸けて戦ったのではなかったのか?

だが、そうではなかったのだ。そして、このような敗北後の180度方向転換は、別に太平洋戦争の特殊事情ではなかった。同じことは幕末時代にも起きた。薩英戦争に負けた薩摩藩、下関戦争に負けた長州藩は、いずれも「英国に永遠の復讐を誓う代わりに、英国との友好を求めたのである。その相手から学ぼうとしたのだ」(p.215)。もっとも先鋭的な尊皇攘夷の藩だったはずの薩長の、この変貌は、現代のわたし達自身にさえ、なんだか奇妙に思える。

しかし、それこそまさに「各々其ノ所ヲ得」という日本人の序列感覚が生んだ現象だと、ベネディクトは説明する。太平洋戦争に負けて、日本人は「アメリカ当局を自分たちの国における階級序列の最高位として受け入れた」のだった。「日本人は、持てるすべてを一つの行動方針に投入し、それに挫折すると、別の行動方針を採用する。・・それはあたかも、人生のページを真新しくめくったかのようだった。」(p.58-59)。

逆にいうと、日本人は何かの絶対的な観念や哲学に従って行動するのではなく、常に相対的な序列に応じて、実利的に行動するのだ。それこそまさに、善悪の絶対基準による罪の文化ではなく、名誉を基準にした恥の文化のパターンが示す行動規範である。

なお、翻訳について一言いっておきたい。訳者の越智敏之・越智道雄(どちらも大学教授で、父子と思われる)は、丁寧かつ手厚い翻訳を行なっているが、しかし同時に本書が「数多くの事実誤認を含む」として、詳細な、ほとんど教師が学生のレポートを添削するがごとき訳注を付している。一例を挙げると、生麦事件が薩摩藩内で起こったかのように書いているのは、確かにベネディクトの誤りに違いない。しかし、生麦という小さな町が神奈川県にある、と知っている日本人は何割いるだろうか。また、「ビルマ」に訳注をつけて「今日のミャンマーをさす」と書かないと、読者は分からないと考えているらしい。いささかお節介にすぎると思われるのだが。

ともあれ、それなりに読みやすい新訳で出されている本書は、日本人が日本を理解する上で、必須の文献であると改めて思った。ルース・ベネディクトは、決して勝者米国の人間として、日本文化を裁いて見下すような書き方はしない。彼女はプロの文化人類学者であり、文化の相対論者である。だがそれ以上に、本書を通して感じられるのは、研究対象である日本への、率直な驚嘆と愛情である。

そして驚きと愛こそ、異文化理解の最大の原動力なのだ。



by Tomoichi_Sato | 2019-02-06 23:15 | 書評 | Comments(0)
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