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書評:「センス・オブ・ワンダー」 レイチェル・カーソン著

珠玉のような、という形容詞は,この本のためにあるのだろう。

少し前、久しぶりに熱を出して数日間寝ていたとき、病床でこの本を読んだ。小さくて薄く、持ちやすい装丁。活字は少なく、美しい自然の写真にあふれている。ベッドの中、熱に浮かされた頭で、ポツリぽつりと読み継ぐのにちょうど良かった。そして、疲れていた心も、静かに慰められるようだった。

「ある秋の嵐の夜、わたしは一歳八か月になったばかりの甥のロジャーを毛布にくるんで、雨の降る暗闇のなかを海岸へおりていきました。
 海辺には大きな波の音がとどろきわたり、白い波頭がさけび声をあげてはくずれ、波しぶきを投げつけてきます。わたしたちは、まっ暗な嵐の夜に、広大な海と陸との境界に立ちすくんでいたのです。
 そのとき、不思議なことにわたしたちは、心の底から湧きあがるよろこびに満たされて、いっしょに笑い声をあげていました。」(P. 7)

・・この本は、こんなふうに始まる。著者のレイチェル・カーソンは海洋生物学者で、著名な作家だ。自然を深く愛した彼女は、米国の最北東端メイン州の海岸にある、小さなコテージ風の別荘に、毎夏数ヶ月を暮らしている。そして、幼いときに母を亡くした小さなロジャーと共に過ごした時間を、この短いエッセーにまとめた。

R・カーソンといえば、『沈黙の春』(The Silent Spring)が有名だ。1962年に出版されたこの本は、人間の文明活動が、見えぬ間に引き起こす環境破壊について、史上初めて、明確な形で警鐘を鳴らし、ベストセラーとなった。環境問題はその後、公害反対やエコロジー運動と結びついていくのだが、彼女自身には別に活動家という意識はなかった。ただ彼女は、自然を愛していただけなのだ。

“The Sense of Wonder”が、本書の原題である。定冠詞のtheがついている。それは、誰もが知っているはずの、あるいは知りうるはずの、ものである。「センス・オブ・ワンダー」という言葉は、SFなどの評論でよく使われたりもした。読者に驚異の感覚を与える、という程度の意味だ。でも本書では、

「センス・オブ・ワンダー = 神秘さや不思議さに目を見はる感性」

との意味で使われる(P. 23)。それは対象が自分(読者)に働きかける力ではない。自分から、対象に感じ取るべき能力、自分の中に育てるべき感受性のことを指している。目で見る視覚だけでなく、鳥の声や虫の音を聞きとる聴覚、いつまでも自分の中に忘れ得ぬ経験として残る嗅覚、ふかふかの苔の絨毯を踏んで走り回る触覚など、五感のすべてを動員して、気づき、受け入れる力だ。こういうセンスを、すべての大人達が持ってほしい、そして子どものときから育んでほしい、と著者はいう。

自然についての知識、たとえば鳥や木々の名前を知ること、星の巡りや潮の満ち干の法則を理解することは大事だ。だが彼女は、「『知る』ことは『感じる』ことの半分も重要ではないと固く信じています」(P. 24)と書く。

『美しいものを美しいと感じる感覚、新しいものや未知なものにふれたときの感激、思いやり、憐れみ、賛嘆や愛情などのさまざまな感情がひとたびよびさまされると、次はその対象となるものについてもっとよく知りたいと思うようになります。そのようにして見つけだした知識は、しっかりと身につきます」(P. 26)

これを読むと、著者のレイチェル・カーソンが(書いたときは50代に入る頃だったはずだが)、いかに深く豊かな感情を心に抱いていたかが、よくわかる。感情とは、人の心の中の資源である。それを掘り起こして、価値あるものに実らせるかどうかは、生きることの質に大きくかかわっている。

そうした感覚を育てる最良の教師は、自然とふれあうことだ、というのが著者の信じることだ。これは米国のナチュラリストの系譜に通じる考え方だろう。米国はきわめて人工的な文明を発達させた国だが、その一方で、手つかずの自然の美を大切にするナチュラリスト達の、細いけれども絶えざる流れがある。彼らの存在が、現代アメリカ文化に、ときおり細やかな陰影を与えている。

そして著者は、ナチュラリストの感性を、美しい言葉のつらなりに表現する才能に恵まれていた。ほとんど散文詩のように書かれた本書は、その結晶であろう。『沈黙の春』完成後、すぐ56年間の生涯を閉じたレイチェル・カーソン晩年の遺稿をまとめたのが、本書「センス・オブ・ワンダー」であった。

自然は驚くべき優しさをもって、小さな子どもや、傷つきやすく疲れた人びとの魂を癒やしてくれる。そういう彼女の信条を歌い上げた、最後の絶唱が、この本だ。憂うつなとき、ひどく疲れていると感じたときに、手にとって読むことをおすすめする。写真もとても美しい。


by Tomoichi_Sato | 2018-11-17 15:24 | 書評 | Comments(0)
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