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議論の品質を問う

“It was a good discussion.”(「良い議論でした」)−−欧米人と打合せした後、たまに彼らがそう感想を述べることがある。”A good meeting”(良い会議)だった、と言うケースもあるが、どちらもほぼ同じ意味で、実りある話し合いができた、ということだ。交渉の場を、この一言で締めることもあるし、普通の打合せでも使う。彼らには、打合せの結論だけでなく、議論のプロセス自体に、良し悪しの尺度があるらしい。

しかし、日本人同士で話し合う場合、打合せの終わりに、こうした吟味や感想を述べあうことは、まず、ない。もちろん普段のミーティングだって、客観的に振り返ってみれば、実際には、良い打合せせもあれば、しょうもない会議もあるのだ。だが、わたし達の社会では、他社とであれ同じ社内であれ、『議論の品質』を問う習慣がない。

最近は、ホワイトカラーの生産性に関する論議が盛んだ。「働き方改革」のかけ声にも関係するのだろう。だとしたら、ホワイトカラーの労働時間の少なからぬ部分を占める、会議・ミーティング・打合せ、などの活動の品質を上げることも、必要である。もちろん、不要な会議やミーティング自体を減らすのは、大事だ。だが、他者との議論の時間はゼロにはならない。だとしたら、ミーティングで質の高い議論ができるためには、どのような条件がいるかを考えて損はない。

なお、ここで「議論」と呼んでいるのは、組織内や組織間で行う、ビジネス上の結論を求めて行う対話的協議のことである。居酒屋で世間の事件に感想を言いあうだけとか、恋人同士の口喧嘩だとか、敵対する集団に投げつけるヤジだとか、気に入らぬ記事に140字以内でぼろくそなコメントをつける、といった行為は「議論」の範疇には入らない。あくまで対面で、かつ、顔と名前が一致する範囲で行う、有意味な話し合いについて考えている。

ところで、議論の品質を考える前に、そもそも「品質」とは何かについて、問い直してみるのもムダではあるまい。というのも、通常の工場での製造品質や、現場での工事品質とは明らかに異なるからだ。統計的品質管理手法なども、そのまますぐ使えそうにはない。

以前も書いたように、品質とは、ユーザやステークホルダの無意識の期待に合致する程度のことである。「無意識の期待」とわざわざ書いたのは、理由がある。意識され明文化された期待とは、いいかえると「性能」「仕様」「要求」であって、品質評価の基準にはならないためだ。100W規格の電球が100Wで動作するのを見て、「品質が高い」という人はいない。もちろん、「100Wの電球は60Wの電球より品質が高い」などという人もいない。

ただし、製造工程の結果が、設計書で明文化された性能や仕様を満たすよう作ることは、誰もが当然のこととして(=無意識に)期待している。だから仕様通りでない製品は「品質が低い」訳だ。この種の品質基準を「後ろ向き品質」という。

これに対して、「前向き品質」とは、あまり明確で明文化された仕様が存在しない(=自由度の高い)状況で、結果が無意識の期待以上のパフォーマンスを示したとき、使われる言葉だ。設計、ことに製品の基本設計などは、前向き品質の対象で、「質の高い設計だ」という言葉が使われる。

議論の品質も、前向き品質の一種だ。それを吟味するためには、わたし達が「議論」のどこに、何を期待するのかを明らかにしなければならない。つまり、議論という行為自体の目的(わたし達はなぜ議論するのか)である。

これには、大別して三つの期待があると思われる。

(1) 何かを見いだす、明らかにするため(発見) =帰納的思考
(2) アイデアを創出したり、結果を予測するため(発明) =演繹的思考
(3) 価値を計り、優先度をつけるため(評価) =価値的思考
 (もちろん、この3種類を、別々に単独に話し合う場合も、組み合わせて議論する場合もある)

(1)は、いろいろな事実やデータを集め、その中から特性・つながり・関係性・相似などを見つけるタイプの議論だ。事象の全体像や内部構造を見いだしたり、問題の原因を分析したり、事例をパターン分類したりすることが議論の目的となる。たとえてみれば、警察の捜査会議のようなものだ。多数のバラバラな情報を圧縮し、少数の分かりやすい説明やモデルを導き出す働きである。

これに対し(2)は、問題の解決策を探したり、予想される結果を列挙したりするタイプの議論だ。限られた要素と、その組み合わせルールから、多数の可能な予測を導き出す。ゲームの作戦会議や囲碁将棋の検討会のようなものか。発散的に情報を生成していく働きである。

そして(3)は、物事や人に対して評価をするタイプの議論だ。評価には普通、複数の評価軸がある。それらを組み合わせ、あるいは軽重を考量して、評価を下し、優先順位をつける。たとえていえば入試の審査会議(出たことないが)だろう。ここには複数の定性的事実・定量的データから、最良の者を選んだり順位を導き出す働きがある。

そして、こうした3つの議論は、我々の思考の3つのフェーズに対応している。つまり、議論とは外に出した思考なのである。一人で考えるのではなく、複数者が参加して行う思考だ。

ここから、良い議論の特性がいくつか導かれる。
(1) 創造性があること: 参加者が最初は思っていなかった地点に到達する
(2) 再現性があること: 話の経過や理路があとからたどれる
(3) 納得性があること: つまり自分が参加していても同様の結論になっただろう、と後から他者でも思える

品質の高い議論とは、参加者が(無意識に)期待したよりも、高いレベルの思考結果=結論を得て、みなが納得・共有できた状態である。

それにしても、なぜ一人で考えるより、何人かで議論して考える方が、期待よりも高い成果がでるのか。つまり、個人の思考結果の単なる足し算や、いいとこ取りよりも、優れた結果が得られるのか? 参加者のうち、一番賢い誰かの結論に従うだけなら、こうした品質の高い議論にはならないのだ。なぜ、足し算よりも価値が出るのか。

それは、ひとつには、参加者が互いに断片的な情報を持ち寄って、全体像を多面的に考えられるようになるからである。たとえば、プロジェクト・マネジメントの計画段階で行う、リスクレビューの例を考えてみれば分かる。ああ、なるほど、そういう可能性もあるのか、そんな視点もあるのか、という気づきを、こうした話し合いは与えてくれる。組織内の個人個人の視野は、どうしても限られる。でも、たとえば製造担当者と、営業担当者と、物流担当者と、設計担当者がそれぞれ情報や経験を持ち寄る。すると、一面的なデータや情報だけに頼るよりも、たしかに質が高くなる。

限られた情報に基づく私たちの見解は、常に仮説に過ぎない。したがって事実・データなどのエビデンスによる検証とアップデートが必要である。事実に基づき、仮説(推測)を形成し、価値観に従い評価する。これが客観性を作り出す基本である。

また、互いに相手のアイデアに触発され、組み合わせの妙が生まれる場合もある。評価において、異なる視点から補い合うこともある。こうしたプロセスが、「三人寄ると文殊の知恵」という諺の意味なのであろう。

そして、参加者の合意によって結論にたどりつくことも、品質の高い議論となるためには大切である。それが納得性を保証する。

ただ、どうしても合意が得られない場合は、組織では「上役」・「調整役」が決めることになる。そのかわり、その人は、意思決定の結果に責任を負うのである。

あるいは、多数決で決める場合もあろう。このとき、多数決とは、議論をつくした後の、最後の手段である。時間制約のために、やむなくとる手段である。「多数決=民主主義」みたいに誤解している人もいるが、別にそうではない。本当に質の高い議論ができれば、皆が同じ意見に収斂するので、多数決(採決)なぞ不要になる。

このような、良い議論を生み出すためには、ある種の思考習慣や態度・行動の習慣が必要になる。わたしの言葉で言えば、『組織のOS』である。それは、次のようなことだろう:

- 皆、自分の意見に対してフレキシブルでいられる
- 事実の客観的な認識の共有が出発点だと考える
- 理路・理屈をきちんと尊重する態度がある
- 議論の参加者に、お互いに対するリスペクトがある

逆に言うと、議論の結果を、勝ち負けや、損得、好き嫌い、敵味方などを基準にして決めない、ということだ。とくに議論を、勝者と敗者を決めるゲームか勝負事のように捉える考え方は、質の高い議論の敵である。品質のわるい議論とは、勝ち負けで終わる議論だ。「俺はアイツとの議論に勝った」という結果だけを求めて議論するのは、まったく「自分の意見にフレキシブル」とは対極にある。ところが、人間には競争心があるから、すぐ、こういう無意識の動機のために、議論がねじ曲がりやすい。また、短慮で全体を見ずに断定するのも、質の低い議論である。

では、良い議論を生むために必要なことは、何だろうか? たぶん、以下のようなものだ:

(1) ブレーンストーミングからデザイン思考まで、各種の技法とツール類。
(2) 練習できる場。ただし、ディベートという勝ち負けを競うスポーツは、長所短所の両面がある。
(3) 安心して議論できる仲間からなる、コミュニティ。

とくに、3番目のコミュニティの存在が、一番大切だろう。衆知を集めるには、コミュニティが必要だ。互いに相手をリスペクトできる集団である。命令・統制型のタテ社会だけでは、議論は磨かれない。

ところで、議論は思考を外的に見える化し、衆知を集める方法だと述べたが、じつは短所が一つある。それは、議論は時間がかかることだ。

ビジネスはスピードだ。即断即決で行動しいかなければ、市場をリードしていけない。・・そう信じている人にとっては、誰かリーダー1人が、すべてのことを短時間に直観的に決めていくことが、理想に思える。あるいは、お前は英米流のリーダーシップ経営を否定して、古臭い日本流のコンセンサスと合意経営を推奨するのか、という批判もあり得よう。

それに対しては、こう答えよう:わたしは、「品質の低い議論」を否定しているだけだ。品質の低い議論で全員の『合意』に達しても、そんなのは尊重に値しない。もちろん、ビジネスにも有益ではないだろう。

スピード感の点で、たしかに議論という方法は、独断即決に比べて見劣りする。しかし、より客観的である方が、より論理的な思考の結果にたどりつける。そして、きちんと衆知を集める方が、中期的には、安全性が高いとわたしは思う。それは大型プロジェクトのビジネスに、長年従事してきた者の実感だ。

そういう意味で、議論に参加しているとき、自分が感情に流されていないかをチェックする習慣を、自分で確立しようと最近は心がけている。そして、これはけっこう、いや非常に、難しい。自分自身、勝ち負けにこだわりがちな性格だし、感情のキャパシティも小さいし、そもそも直感型であまり論理的でない。

だから、ときどき背筋をまっすぐに伸ばして、考え直すよう心がけているのである。背筋をまっすぐにし、肩の力を抜いてリラックスすると、感情モードから理性モードに戻りやすいのだと、心理学は教えている。わたし達の脳は、とても身体的なのだ。少なくともわたしの脳は、そうだ。限りある乏しい知的資源を活かしていくために、だから、わたしはなるべく他者と質の高い議論をしたいと願っているのだ。


<関連エントリ>
 →「品質とは(本当は)何だろうか - (1) 問い」 https://brevis.exblog.jp/17805452/ (2012-04-18)





by Tomoichi_Sato | 2018-07-04 23:56 | 考えるヒント | Comments(0)
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