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書評:「小水力発電が地域を救う」中島大・著

小水力発電が地域を救う」 (Amazon)

最近読んだ中で、最も面白かった本だ。わたしはあまり新刊書を批評しない(というか、読んだけれど書評を書けずに溜まっている本が沢山ありすぎる^^;)。だが、この本はできる限り多くの人に読んでもらいたいので、あえて順番を飛び抜かして取り上げよう。

タイトルを見ると、本書はたんに再生可能エネルギーの一分野である「小水力発電」を紹介し、宣伝するだけの目的に思えるだろう。だが著者は、この一見地味な技術について、もっと広いパースペクティブ(ほとんど文明論的な視野)に立って、日本社会に与えうるポテンシャルを論じる。いやあ、頭の良い人が書いた本は面白いなあ、と読みながら久々に感じた。お勉強のできる人や知識の豊富な人は、たくさんいる。だが、広い視野からものごとを多面的にとらえて考えられる人は、滅多にいないのだ。

著者は、全国小水力利用推進協議会の事務局長。経歴を見ると、’85年に東大の物理学科を卒業するが、その後は官庁や大企業にいかず、ベンチャー企業をへて、2005年に非営利の協議会組織を立ち上げ、リードしてきた人だ。

思い出してみると、2005年頃と今では、再生可能エネルギーをめぐる状況は、まったく変わってしまっている。その供給量も価格競争力も、世界的にここまで進むとは、誰も思わなかったろう。日本では2011年にFIT(固定価格買取制度)が制定され、以来とくに太陽光発電がブームになった。

だが、わたし達が最も古くから利用してきた再生可能エネルギーは、水力なのだ。日本は気候と地形に恵まれ、水力利用の適地だという事情もある。だが、著者が指摘するように、ヨーロッパの産業革命も、じつは水力からはじまった。アークライトの水力紡績機は、ジェームズ・ワットの蒸気機関よりも先に現れ、機械工業化の火付け役となったのだ(p. 150)。

水力発電のメリットとは何か。それは、発電量が安定していることだ。太陽光が、日周変動を不可避的に持つことはいうまでもない。では、風力発電はどうか。じつは、風力の発電量は、風速の3乗に比例するという物理法則がある(流体の動圧=運動エネルギーは流速の2乗に比例し、かつ発電の能力はタービンを通過する風量に比例するから)。大気乱流のスペクトル分布を考えれば、風力発電がいかにブレやすいか容易に想像がつく。

水力発電も風力発電も、基礎原理的には同一だ。なのに、発電量の安定度が違うのは、水力は発電機のタービンの前に、堰・ダム・水路などのバッファーをたっぷり持っているからだ。さらに、天からふる降雨量を、山それ自体が平準化して流出してくれる。本書が対象とするのは、1000 kW未満の小水力だが、それでも全国の開発可能量(経済性を考慮した数量)は数千箇所、合計100万kW程度と見込まれている(p.21)。ほぼ原発1基分である。これだけあれば、足下の山間地の需要はおおむね満たすことができる、という。

ただし、第8章「歴史の中の小水力発電」に詳しく書かれているように、日本には小水力発電が育ちにくい不幸な事情があった。現在、小水力発電を計画しようとすると、肝心の水車を、欧州やアジアから買ってこなければならない。発電用水車を安価に製造できるメーカーが、日本にほとんど無いからだ。なぜ、この技術大国で、水車程度を作れる企業が存在しないのか。それは、そもそも市場がなかったからだ。

戦前の日本では、水力発電事業を行う鉄道会社や自治体も、それなりに沢山あった。しかし、「戦争に伴う挙国一致体制を築くため、小水力も含めて、発電所・電気事業は日本発送電という国策会社に統合されてしまいます。そして敗戦後も、元に戻すのではなく、(沖縄を除く)9社の電力会社に分割再編することになり、地域の小水力発電所もその電力会社に帰属することになりました」(p.158)

地域独占となり、経済成長で巨大となった電力会社にとって、「戦前から引き継いだ小水力発電所はコストパフォーマンスがわるいため、だんだんと廃止され」ていった(p.159)。たとえば東電管内の山梨県では、300kW以下の発電所は廃止の指示が出た。こうなると、機器を製造するメーカーも生きていけなくなってしまう。

ところがヨーロッパでは事情が違った。もともと歴史的には、日本も欧州も、大都市向けの大規模水力の開発と、村落向けの小水力の増加が並行して進んでいた。だが敗戦国ドイツでさえ、小水力発電所の統合は行われなかった。今でも村営の発電所が多数残って、馬鹿にならない量の電力を安定供給している。かくして、今でもドイツやイタリアに、安価で優秀な水力機器メーカーが生き残っているのである(p.159-161)。

ただ、歴史の面白いところは、このような状況にもかかわらず、民間が自由に水力発電事業を営める形態が、ほんの一筋の水脈のように、残ったことだ。それも、なぜか中国地方に残っていた。織田史郎という人物のおかげだった。彼は中国電力の前身にあたある中国配電会社の役員だった。彼は、戦後まだ残っていた「無点灯地区」(電気の来ない村)では、自力で発電事業をやればいいと考えた。そして将来、配電線が村に届いたら「電力会社に電気を売って、地域振興の財源にすればいい」とまで見通した(p.164)。

こうして彼らの働きかけにより、「農山漁村電気導入促進法」が1952年に制定される。織田の努力が実り、中国地方には最盛期には200ヶ所もの小水力発電所があった。事業主体は農協や漁協、土地改良区などだ。水力発電設備は寿命が長いから、今も50ヶ所が事業を続けているという。ただ、全国的には衰退していく。「その原因を一言で言えば『挙国一致体制で国策会社に統合した』ことにつきます」、と著者は書く(p.167)

しかし、まだ「促進法」自体は生き残っている。これを活用する形で、この10年ほど、全国にぽつりぽつりと、地域振興をかねて小水力発電が復活しはじめた。その代表例は、第1章に詳しく書かれている岐阜県郡上市石徹白(いとしろ)地区の事例だ。岐阜市出身で一時は外資系コンサル会社に勤めていた平野彰秀氏が、一種のUターン(正確にはIターン)をし、地域づくり協議会として、マイクロ水力、ミニ水車をつくっていく。ついには発電目的の農協を組織し、125kW出力の発電所を建設するのである。

「FIT制度が始まった今は、小水力発電に良い時代です」と著者の中島さんは書く。「農産加工品などの市場開拓は簡単ではありません。ところが、小水力発電の電気は、FITのおかげで必ず売れるという利点があります」(p.47)。

石徹白の取り組みの原動力になったのは、じつは小学校が廃校になってしまうかも知れない、という危機感だった。「小学校の存続は、地域が存続するかどうかの先行指標と言っても過言ではありません。子育て環境の悪化で若い夫婦がいなくなるだけでなく、子どもたちの帰属意識が薄れ、高校・大学を卒業した後戻ってくる動機が弱くなるからです」(p.38)-- このように、過疎に悩む限界集落にとって、発電事業による収入の確保は、地域の生き残りのカギになりうる。

そればかりではない。日本の里山では、農業用水路の維持保守が、死活的に重要だ。しかし近年の農業人口の減少により、一人あたりの維持費用負担が高くなり、ますます離農が増えるというダウンスパイラルが、あちこちに起きている。そこで、農業用水路を活用した小水力発電と、それに伴う現金収入は、農業それ自体を維持する上で重要なのだ。

ここで、農業用水路の『空き断面』を活用した水力発電、という新ビジネスモデルが、にわかに登場する。空き断面とは、水路の余裕となる流量だ。農業用水は田植えなどの時期を除くと、じつはかなり流量を絞っている。10の容量があっても、1の水量しか流れていない状態は珍しくない。そこで、ここに10の水量を流して、9の分は発電に使うのだ(p.57)。発電に使った後の水は、農地ではなく川に戻す。こうした話は、本書を読むまでまったく思いもかけなかったアイデアで、とても面白い。

もう一つ、なるほどと思ったのは、「山村の土建会社は小水力発電で生き残れ」(第3章)だ。近年、地方の小規模な土木業者たちはつぎつぎと廃業している。しかし、山村ではいったん大雨や災害が起きると、土建業者が対応してくれない限り、ライフラインが復旧しない。だから地方の土建会社は必要なのだ。ところで小水力発電所の建設と運営は、土木技術の固まりである。だから公共事業の減った今日、土建会社にとって良い副業になる。

おまけに土建会社の経営者は、当たり前だが経営感覚に優れている。発電所の設置と運営は、やはり経営感覚のある人がいるかどうかが、成功の鍵なのだ。第3章には、富山県の土木経営者だった、故・古栃一夫の獅子奮迅の働き(当時は監督官庁の、言いがかりに近い無理解があり、それと闘った)が、いきいきと描かれている。

というわけで、本書は具体事例をふんだんに盛り込みつつ、地方活性化のために小水力発電事業がいかに有用かを、多面的かつ客観的に書いている。副題に「日本を明るくする広大なフロンティア」とあるが、地方の山村を明るく事こそ、著者(ご本人は都会生まれだと書いているが)の強い願いなのだ。

その信念は、序章と終章によく表れている。序章で著者は書く。「日本の山の木材の価値を死なせてしまったのが、1964年の木材輸入自由化でした。海外から木材を安く輸入できるようになったため輸入材が急増し、日本の林業は壊滅状態になってしまったのです。このことは山村から主要な価値が失われたことを意味していました。(中略) 木材が燃料であり建築材であった20世紀の半ばまでは、ものの価値と言う意味で見れば、山は価値の流れの上流にあったのです。ところが山は、価値の流れの下流、しかも最も末端になってしまったのです。こうして、山村から人がどんどんと里へと移動し、過疎化が進んだわけです。」(p.14)

このような流れを止め、できれば逆転させる力となりたい、というのが著者の望みなのだろう。今日風のグローバリズムの観点に立てば、そんな経済効率の低い辺境地域などうち捨てて、人口は都市に集中させ、そこに資源を集中させる方が効率的だ、という結論しか出てこない。だが、著者の意見は違う。

「町育ちの人ばかりになると、社会が脆くなります」(p.177)

効率性は脆弱性と裏表の関係にある。効率性の高いシステムは、冗長性が乏しく、外部条件の変化に対して脆弱になる、と著者は指摘する(同頁)。このテーゼは、わたしが最近ずっと考えている、システムに固有なトレードオフの問題と同じで、その点でもとても共鳴してしまった。

小水力発電事業は、たぶんわたしの勤務先のビジネス領域には重ならない。多くの読者にとっても、同じだろう。だが、それでも、日本の地域の文化が生き生きと存続することを願うならば、一人でも多くの人にこうした活性化のビジネスがあり得ることを知ってほしいと思う。


by Tomoichi_Sato | 2018-03-14 23:48 | 書評 | Comments(0)
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