著者の土橋泰子氏は、外務省研修所ビルマ語講師で、おそらく日本きってのビルマ語・文化理解者の一人と思われる。彼女は1954年(昭和29年)に大阪外語大に入学し、在学中にラングーン大学に留学する。まだ「大学なんか行くとお嫁のもらい手が無くなる」などと言われていた時代だった。しかも当時、日本の国には外貨がほとんどなかったため、外貨持ち出し制限により、海外旅行や留学はたとえ自費でも国の許可が必要だった。
ましてビルマは第二次大戦中、日本が戦争で大変迷惑をかけた国でもある。そんな相手国から、招待を受けて留学した人は、著者が初めてだったろう。さいわいビルマはデリケートで優しい文化をもった国である。対日感情は一般に決してよくなかったと思われるが、それを直接本人にぶつけるような人はいなかった。だからこの本は、その楽しかったラングーンでの、女子学生寮時代の思い出からはじまる。 大学は厳格な教育だったし、ビルマ文学はかなり高い完成度を持っているので、勉学は苦労だったようだが、皆がおかずを持ち寄って、車座に分け合う寮の生活は楽しそうだ。「持っているものは何でも人と分け合う、これがビルマではもっとも大切なルールです」(p.40)という。 ところで、本のタイトルにもなっている「ビルマ」という国名について、著者は最初にこう書く。 「ミャンマーという国名は、あの国がよんできた正式の国名で、いわば文語体的呼称です。そして元々、口語体で自国を呼ぶときは、バマーといっていたのです。19世紀、英国がミャンマーを植民地支配したとき、それが『バーマ』(Burma)と発音され、日本に伝わって『ビルマ』になったというわけです。 (中略)イギリスとか、インドとかいう呼称も日本人だけの呼称ですから、日本式にビルマといっても別に構わないというのがわたしの立場です。ミャンマーと呼べば現政権支持(出版当時は中国寄りの軍事政権)、ビルマなら現政権非支持という考えの方もおられるようですが、そのような政治的意味はないことを予めおことわりしておきます。」(p.4) ビルマBurmaをミャンマーMyanmarに呼び直してくれ、と世界に要請したのは軍事政権だ。だが、それは「ジャパン」といわずに、これからは「ニッポン」と呼んでくれ、というのに等しい、という訳だ。だが、それが瞬時に政治的記号に読み替えられてしまう点に、この国が現在いる立ち位置の難しさがある。 本書はしかし、政治や外交面での解説みたいなことはほとんど略し、著者が自分の目で見て知り、我が身で体験・実感した文化面のことがらを書いてくれている。ビルマの古典文学からはじまって、ことわざ、信仰、価値観、歳時記、料理、民族(ビルマは多民族国家だ)、服飾、度量衡・・と、きわめて具体的で幅広い。また2000年代に入ってから訪れた秘境・ナガ丘陵の旅行記も、とても印象的だ。 ちなみにビルマ人には名字が無く名前だけだが、その名前は生まれた日の曜日に従ってつけられる、といった習慣は、聞かないと分からないが、なかなか面白い。なお、ビルマ出身で国連事務総長になったウ・タント(U Thant)氏という方がいたが、この人の名前の最初についている「ウ」は男性の尊称を表す(女性の尊称は「ドォ」)。また、Thantの最後のtは読まないので、この人の名前はじつは「タン」さんなのである。 その、ウ・タントことタン氏は、東西冷戦とベトナム戦争の’60年代に、国連で平和のために尽力する。ちょうど著者も60年代にニューヨークに夫君と一緒に赴任していたため、知遇を得たという。だが、あいにく故国でネ・ウィン大将が、軍事クーデターを起こす。ただしNYで国連事務総長をつとめる彼だけは、軍事政権も逮捕・投獄することができない。かくして、反体制派を支援する立場になって奔走しつつ、病魔に倒れた彼の晩年の姿を描写して、本書は終わる。 軍事政権が民政移管を決め、にわかに東南アジア最後の新市場として注目を集めるミャンマーだが、お金や人口や経済成長といった数字だけを通してこの国を見るのではなく、血の通った人たち、それも高い文化を持った人達の国として、立体的に理解するために、とても良い入門書である。この国に関心を持つ全ての人に、広くお勧めする。
by Tomoichi_Sato
| 2017-10-24 23:31
| G 書評
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