マネジメントのレベル0からレベル2まで

九州・佐賀県の唐津市。玄界灘に面した市のはずれに、名護屋という場所がある。Google Mapの航空写真で見ると、緑の多い、人家の少ないのどかな土地だ。かつてここに、一里四方の広さを持ち、10万人以上が居住する一大都市が、ごく短期間だが存在していたことを知る人は少ない。

その都市をつくるよう命じたのは、太閤秀吉である。彼が晩年、大陸支配をねらった戦争(後に文禄の役とよばれることになる)をはじめるにあたり、出陣の基地としてこの名護屋港を選んだのだ。彼は全国の諸侯・武将に、この辺鄙な港へ集結し、各人の負担をもって、都の聚楽第に遜色がないほど豪壮な城と館を築くよう言い渡した。そして数万の人力を投入し、半年ほどの短期間のうちに完成させた。

全国の大名武将たちは、たとえ些細な手落ちでも関白に訴えられ、無能者として俸禄を没収されかねないので、「自ら家臣を率いて森や遠方の山に出かけ、材木を切ったり、城壁や門に用いる巨大な石を運搬した」と、宣教師フロイスは記している(川崎桃太「続・フロイスの見た戦国日本」p.76)。できあがった名護屋城は、大阪城に次いで、日本で2番目に大きな城であった。当時の秀吉の、権勢のすごさがよく分かる。

わたしが子どもの頃、両親が買い与えてくれた本の中に、子ども向けの「太閤記」があった。とても面白い物語だった。太閤記は彼の生涯を、日吉丸の時代からはじめて、木下藤吉郎を経て豊臣秀吉になるまで、いろいろなエピソードを集めて物語ってくれる。秀吉という人物が、日本史でも傑出したリーダーであったことは間違いない。

しかしこの太閤記が、最後どのように終わったのか、なぜか記憶に残っていない。秀吉が大陸に出兵したことは書かれていた。だが、伏見城でどう斃れたのか、晩節があやふやなのだ。あまりヒロイックに描けなかったのかもしれない。天下人になった秀吉の意思と気まぐれには、日本中の武家たちが右往左往させられた。

大陸出兵に際し、秀吉は名護屋城に居を移した。すでに甥の秀次に関白の座を譲って太閤となっていた秀吉は、秀次に対して、この戦争に勝利した暁には、お前をシナの関白に任命し、都周辺の百ヶ国を与えてやる、と手紙で約束した。しかしその後、自分に待望の嫡子が生まれると、秀吉は秀次に蟄居、そして自害を命じた。秀次の首は京都で晒し首になり、眷属30数名は皆、殺害された。だが、このような罰を受けた理由は不明で、いまだに日本史学者の間でも謎である。

晩年の秀吉は、あらゆる事を自分で全て決めたがる、独裁者であった。むろん、戦国時代に独裁者は珍しくなかったろう。彼が仕えた信長だってそうだった。自分の狭い領地の中では、秀吉よりもっと気まぐれで暴虐な大名も大勢いただろう。だが歴史上、秀吉ほど巨大で広範な権力を手にした日本人はいなかった。関白の任命権は本来、天皇にあるはずだが、天皇家の権威など彼の眼中にはなかった・・

マネジメントのレベルということを、最近考えている。レベルといっても、上手・下手という意味ではない。自然なあり方から、どれだけ進化しているか、のレベルである。

世の中には、あらゆることを自分で全て決めたがるリーダーもいる。晩年の秀吉のように。あるいは、人に権限を任せて、働かせることで全体を動かすリーダーもいる。もちろん、任せるといっても、全面的に自由にさせることは少ない。自分が望む方向にむけて、働かせる必要があるからだ。そこで、どういう風に部下をしばるかで、さらに違いが出てくる。

人間は社会的動物で、お互いに関わり合いながら群れを作って生きているが、互いに競争心を持っている。どちらが優り、どちらが劣っているか、優劣・強弱・上下を、たえず繰り返し競い合う。これはある程度、本能的に持って生まれた性質らしい。上に立った方が、下の者に対して、命令的にふるまう。集団で一番上になった者は、他の全員に対して、判断や指示を下す。

だから、リーダーが全てのことを決めるのは、マネジメントにおいてある意味で一番自然的な、あるいは本能的なあり方だと言える。リーダーと、その他大勢。家父長制の家族など、この類型に近い。これを「マネジメントのレベル0」とよぼう。

ところで、人間の作る組織にはふつう階層があり、リーダーにはトップ・上位・中位・下位・・のような位階がある。その位階に応じて、決められる権限範囲が狭まっていくようなシステムをとるのが通例だ。その典型が軍隊である訳だが、秀吉は武将であり、つまり軍人の職業的リーダーだったといえる。彼は傑出した知将であり名君だったからこそ、あそこまで駆け上がったのである。会社組織などもこれに倣って、社長・本部長・部長・課長といった階層を決めている。

なぜ、組織はこのようなシステムになっているのか。そこには、どのような合理性があるのか。また階層は、多いほど良いのか、少ないほど良いのか。こうした問題を、システム工学の視点から、制御とマネジメントの最適なあり方に関連して考えている。

ちなみに、経営学に『システム論』を明示的にはじめて取り入れたのは、米国のバーナードであった。彼は”Functions of Executive”(邦訳「経営者の役割」)という本で、組織が機能するためには、共通目的・協働意識・コミュニケーションの3要素が必要だ、と喝破した。彼がシステムズ・アプローチをもって組織をとらえたのは、彼が電話会社の経営者だったことも関係しているかもしれない。

ただし、彼の著書では、組織になぜ「位階の体系」(Status System)の必要性が生じるのか、論じていない。この点について、後にバーナードは、「ハムレットは描いたつもりだが、オフェーリアを逸した」と洒落た言い方をしている。

この問題に本格的に取り組んだのは、経営学者としてはじめてノーベル経済学賞を受賞したハーバート・サイモンだった。サイモンは、組織に位階があるのは、意思決定のために必要な情報収集の完全性と、そのコストのバランスをとるためだとしている。「組織は、決定を分散させることによって、市場と同様、情報の需要を局所化し最小化することができる」(サイモン「システムの科学」p.49)。

部下に何らかの役割を与えて、それを任せる。これが位階のシステムの機能である。その事によって、トップの地位にある者は、より集約された情報を元に、より効率的に決断を下していくことができる。

リーダーが全てを決める、レベル0のタイプの組織で、何がまずいかというと、組織の規模が大きくなるほど、リーダーの決断のための負荷が大きくなることだ。当然、トップはあらゆる問題をめぐって忙殺されることになる。忙殺されると、長いスパンで先を見通すための時間がなくなってしまう。かくて組織は、その日その時のリーダーの気分によって、右往左往することになる。

家族や氏族、あるいはその延長としての、古代の地縁集団的な国家ならば、規模は知れているから、「あらゆることをリーダーが決める」方式で回していけるかもしれない。だが、それが一定規模を越えると、位階と権限分散の仕組みを持つ方が、組織として生き延びる可能性が高まることになる。

任せる、にも大きく二通りある。まずは組織なり守備範囲などをすっぱり分けて、それぞれにリーダーを置き、「あとは死ぬ気で頑張れ」「俺がほしいのは結果だけだ」といって働かせるタイプ。たとえば国土を領地に分割して、諸侯を冊封し、そのテリトリー内では殿様や貴族としてふるまうことを許す、中世の封建制度などは、その一つの表れだ。これを「マネジメントのレベル1」と呼ぶことにする。

もう一つは、組織の位階にしたがってリーダーやサブ・リーダーたちを順におくのだが、共通したルールと基準を定めて、それぞれの裁量範囲と判断のよりどころを与えるやり方。これは近代国家などでより多く見られる仕組みである。「マネジメントのレベル2」としようか。レベル1のサブリーダーないし殿様たちだと、まだ自分の領域内では気まぐれでいられる。だがレベル2の仕組みでは、各層のリーダーの決定や行動について、予見可能性が高くなる。だから部下たちは、ついて行きやすくなる。以前、英国のジョン王に関する記事(http://brevis.exblog.jp/21571341/)のときにも書いたとおり、リーダーの行動の予見可能性と、決断の一貫性は、ついて行く人間にとって死活的に重要である。

こうした違いは、単にマネジメントのスタイルの違いだ、という人達もいる。いわばリーダーの美学であり、個人の好みだと。その場合、どれが上でどれが下というレベル感はない。だが、わたしは3種類をあえて、レベルと考えている。その理由は、レベル0の方が自然発生的にできやすいのに、レベル2はかなり人工的で、作るのに時間がかかるからだ。いってみれば、レベル0は基底状態のようなもので、ポテンシャルが低いのである。レベル1から2へと上がっていくには、エネルギーがいる。

そして、組織や対象が大きくなればなるほど、レベル0かから1、そして2へと、マネジメントの仕組みを上げていく必要がある。そうしないと、回らなくなっていくからだ。
e0058447_23212087.jpg

もちろん仕組みやシステムには、完全な正解と言うことはない。レベル2にも欠点がある。それは、ルール・ベースであるため、ルール自体を変えるのに時間がかかったり、ルールが想定していない事態への対応がうまくいかないことだ。つまり、より安定した時代・環境向きの仕組みと言えるかもしれない。

でも、秀吉が天下を取った後は、世の中は平安に向かっていた。本当に全国津々浦々まで、支配権が拡大されていた。秀吉ほどの人物なら、作り上げるべき仕組みくらい、見えていたはずだ。ではなぜ、そうならなかったのか? なぜレベル1から、レベル0に逆戻りするような方向に動いたのか。

巨大な権力それ自体が、彼を引き下ろしたのだ。これがわたしの推測である。軍隊的な組織では、リーダーは部下に対して命令を下し、逆らえないよう強制力を持つ。これを権力とよぶ。そして権力とは、どうやら麻薬のように、それを所持する人間を惹きつけ、酔わせ、判断力を低下させてしまう効果があるらしい。これが権力というものの持つ、恐ろしさである。一旦権力を握ると、手放したくなくなる。

そしてそういうリーダーは、回りにイエスマンばかりをおくようになる。あるいは、面従腹背の者ばかりを。最終的に、リーダーの元には、本当に役に立つ客観的な情報は届かなくなる。それで適切な判断ができる訳がない。だから、大きすぎる権力をもったレベル0のマネジメントは、倒れるとき甚大な被害をもたらす。

だからこそ、人間社会はルールというものを発明してリーダーをしばり、システムがレベル0に落ち込むのを防ごうとするのである。ただ、環境条件によっては(たとえば大地震の際など)、いったんレベル1に戻る方が適応力が高まることもあるだろう。どういう条件の時に、どのようなマネジメントのあり方が最適になるのか。それについてずっと考えているのである。

太閤秀吉は結局、中国・朝鮮に対する戦争の最後を見ずして死んだ。秀吉が死ぬと、厭戦気分の広がっていた日本の軍勢は朝鮮半島からあっという間に敗走した。出陣基地だった名護屋城は、城壁にいたるまで破壊され、建物材木は持ち去られた。そのこと自体が、人びとの気持ちを物語っている。そしてこの無謀な戦争は最終的に、豊臣家の滅亡のみならず、東国に対する上方の没落をも、もたらす遠因となったのだ。


<関連エントリ>
 →「組織におけるルールはいかなる機能を持っているのか」http://brevis.exblog.jp/21571341/ (2014-01-14)




by Tomoichi_Sato | 2017-09-22 23:24 | ビジネス | Comments(0)
<< プロジェクト&プログラム・アナ... ミニレビュー:携帯用折畳みキー... >>