今からちょうど800年前の1214年のこと。英国王Johnはフランス南西部から海軍船に乗ってブリテン島に向かっていた。当時、英国は大陸本土のフランス側にも領地を保有しており、彼はそれを拡大する野心を抱いて大陸に兵を進めたのだが、あいにくフランス王(当時は領地は小さかった)の反撃に屈し、結局撤退を余儀無くされたのだ。ようやく帰り着いた彼を待っていたのは、貴族諸侯やロンドン市民からの批判の嵐だった。すでに大陸の領地はほとんど失われていた。残ったのは不名誉と、傾いた財政である。税金を課そうにも、彼の重税や放埓は、すでに皆が辟易していたのだ。
結局彼は翌年、臣下である貴族諸侯と、ある取り決めをかわし、文書化する。いわく、 * 王の一存では戦争資金のための税金を集めることができません * 国王は議会を召集しなければなりません * イングランドの国民は法と裁判によらなければ、生命や財産の自由をおかされません、等々。 これが有名な『マグナ・カルタ』、大憲章である。マグナ・カルタはその後、英国憲法の基礎となる。他方、John王の方は、暗君の代表例のように言われ、彼以降800年間、誰もJohn 2世を名乗った英国王はいなかった。 それにしても、John王はなぜ臣下に詰め寄られたのか? 時代は中世、そして彼は王様である。王は国家の最高権力者。ならば何をしても勝手ではないのか。 だが、彼の臣下たちはそう考えなかったのだ。王と交渉して、その要求をのませることに成功する。それも、口約束ではなく文字に書かせた。あとで「言った・言わない」の水掛け論にならないようにである。先月、全能の審判主を相手にネゴシエーションをした、ユダヤ民族の始祖アブラハムの事を書いたが(「クリスマス・メッセージ:折れない心をもつために」参照)、13世紀初頭の英国臣民たちは、王様を相手に交渉したのだった。しかもこちらは歴(れっき)とした史実である。 John王が生まれた頃、日本では平清盛が最高権力者だったが、誰も彼を相手にネゴをかけたり、法で縛ろうとした人間はいなかったろう。英国人ははるかに先進的で、民主主義的だったのだろうか? そう説明しても良いが、もう少し別の見方もありうると、わたしは考える。 マグナ・カルタは、王の名前で発行された取り決めの文書であり、つまり法である。他の法よりも上位の規定なのでCharter(憲章)とか憲法とよばれるが、つまり国という組織の中のルールである。 それでは、ルールとはなんだろうか? たとえば、(話は急に卑近になるが)品目マスタとか従業員マスタなどでは、ふつうコード体系と発番ルールが定められている。この発番ルールというのは、はたしてルールなのか? もちろんである。ルールとは、人々が守らなければならない規定であり、かつ、違反した場合はなんらかの罰が与えられるものだ。つまり強制力のある規定である。国の法律は、明確に罰則規定がある。マスタの発番ルールの方は、ユーザがそれを守らないと、データ登録ができない、あるいは、あちこちのプログラムがエラーを起こすという罰(?)が与えられる。 マグナ・カルタは明文化された法だが、ルールは必ずしも明文化されているとは限らない。たとえばルールは、「習慣」「伝統」のかたちで存在する場合もある。それでも、破った者は仲間から白眼視されるとか、村八分にあうとかいった罰を受ける。また、逆に組織におけるルールには、報奨の仕組みが付随することも多い。それを守ると名誉(自尊感情)が与えられ、あるいは金銭的に報われる場合もある。このようにして、アメとムチで人に強制力を与えるのである。それは平民に対しても、権力者に対しても同様である。 ならば、権力ある人間に対するルールは、どのような効果を持つのか? 答えははっきりしている。権力ある人間が、その権力を自分の好き放題に、恣意的に運用することを防ぐのである。マグナカルタが規定したとおりだ。人間の組織は、ピラミッド型の階層構造をとる場合がほとんどだ。その中での地位の高さと、権限の大きさは比例する。ところが、この権限をあまり勝手に運用されると、組織とその構成員がこまるケースが出てくる。個人の好き嫌いだけで、けむたい奴を追放したり、財産を道楽につぎこまれたりしたら、組織の存続が危うい。そこで、これをルールで縛るのである。つまり、ルールとは人間を権力の横暴から守る仕組みでもあるのだ。 ビジネスで典型的に問題になるのは、むろん人の不公正な処遇である。だが、もう少し人目をひきにくい分野でも、ルールの欠如は、よく問題になる。たとえば製品開発プロジェクトである。新しい技術やアイデアにのめりこんで、労力をつぎ込んでみたが、なかなか実らない。そうしたとき、続けるのか止めるのかの基準ルールを持っていない企業は、案外多い。ルールがないため、決定権を持っているのが誰かによって、結果として製品開発のパフォーマンスに長期的に大きな差が出る。適切なルールが決まっていれば、誰が責任者のポジションにいても、それなりのレベルが保たれる。 言いかえれば、ルールは(権力を持つ)人の恣意性をしばり、その自由度を下げることで、組織の再現性を高める(誰がやっても似た結果になる)ことを目指している訳である。すなわち、ルールには予見可能性を高める効果があるのである。王の行動の予見性を高めること、組織の動向や行く末を予測しやすくすること--これこそが、John王に要求をのませた臣下たちの望んだことではなかったか。 最近の米国で、企業ガバナンスがうるさく問われるのも、このためであろう。つまり、企業に対して融資する銀行や、株式市場における投資家たちが、その企業の行動や業績が予測可能な状態に置いておきたいからこそ、ルールをうるさく求めるのである。つぎ込んだ金を、経営者が勝手に采配したり蕩尽したりしないよう、縛りたいのだ。アメリカの経営論は「リーダーシップ論」が大好きで、英明な君主が国を治めるように企業を統治することを望んでいるのに、かたやその君主の手をガバナンスで縛りたいという、一見矛盾した要求を持っているのは、このためだ。 もちろん、ルールには良い面ばかりあるわけではない。それは意思決定のプロセスを複雑化し、手続きが面倒になり、結果として組織の変化のスピードを遅くするという働きも持つ。とっぴな行動が抑えられると、独創的な人材は生きにくくなるだろう。これが行きすぎると、減点主義ばかりがはびこる、いわゆる『大企業病』にいきつく。暗愚な暴君による権力の乱用も怖いが、その対極にある、ルールの牢獄も恐ろしい。どちらも結果として、組織の活力をなくすからである。 この問題を避けるためには、どうしたらよいか。ある人々は、「ルールはある程度ゆるやかに決めておいて、『弾力的運用』でまわしていけばいい」と主張する。運用や解釈変更でカバー、という訳である。だが、このやり方は、予見可能性を高める、という本来のねらいからはずれてしまう。 もう一つの方法は、ルール自体に、ルールを見直す基準をビルトインしておくことである。組織が本来そのルールを制定したときの意図や目標に照らし合わせて、順当に機能しているかを見直し、まずければ訂正する手順を決めるのだ。そのためには、決定を下すごとに査証や情報を残し、組織のパフォーマンスの視点から、それをバックチェック可能にしておく必要がある。こちらの方が手間がかかるが、予見可能性の点でも、また目的合理性の点からも、すぐれたやり方に思う。 組織内で、どこまでがルール化され整備されているかは、その組織のマネジメント・システムの成熟度を示していると言ってもいい。それが明確で、漏れや重複がなく、しかもある程度は柔軟であるようになっていること。これが、制度設計の要所であるはずである。 <関連エントリ> →「クリスマス・メッセージ:折れない心をもつために」
by Tomoichi_Sato
| 2014-01-14 23:43
| リスク・マネジメント
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