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『知的マネジメントの技術』のすすめ

梅棹忠夫・著「知的生産の技術 (岩波新書)」は、学生時代に読んでもっとも影響を受けた本の一つだった。この本を読んで初めて、“知的生産”という概念を学んだ。そして、知的生産のために『技術』が存在するのだ、とのメッセージは鮮烈だった。知的生産とは、自分の目的意識を持って学び、考え、書く(表現する)ことである。学ぶと考えるの間には、情報を蓄積し、整理し、また自在に組み合わせるための、いわば情報のハンドリングがある。この本は情報のハンドリングを中心に、学ぶ・考える・書くためのいろいろな技法を、著者である梅棹忠夫氏自身が苦心しながら発明していくありさまが書かれている。

もともとこの本の存在を知ったのは、受験生のときだった。通信制の受験講座で送られてくる冊子に、解答・解説や順位発表の他に、受験生からのQ&Aのコーナーがあった。そこに、“試験まであと3ヶ月を切りましたが、急に東大に行きたくなりました。勉強法を教えてください”との質問が載っていたのである。こんな無茶な問いを聞く方も聞く方だが、答える方も答える方で、“じゃあ、まず梅棹忠夫の「知的生産の技術」を読みなさい”と書いてあったのである。その先にどんなアドバイスが書かれていたかは忘れたし、この質問者が希望を果たせたかも不明だが、ともあれ気になって読んでみたのである。

この本の画期的なところは、それまでは精神修養や徒弟制で身につけるしかないと思われていた知的生産の能力が、移転可能な『技術』でかなりの程度、レベルアップできるとの主張にある。技術の本質とは、それが組織的に学習・移転可能な能力であることにある。逆に個人に付随し移転できない能力は、『技能(スキル)』と呼ばれる。知的生産という一見混沌とした能力を、情報を中心としたプロセスに分解し、そこに適用可能な技術・技法を明らかにしていく。じつに理工学的な発想である。それもそのはず、著者の梅棹忠夫は、(民族学者だから文系だと思っている人もいるようだが)生物学出身で、理学博士である。

ちなみに日本の伝統的な大学・学問の世界は、ある意味で旧・中国の士大夫(読書階級)のライフスタイルを無意識の内に模範と仰いできたらしく、書画と人文の世界に身を置いて超然と沈思黙考し、その上で世俗の民を指南し引導する姿を、理想としてきた。士大夫は科挙によって選ばれる。それがすなわち現代では東大や京大の入学試験に相当する、という訳である。ここにある思想は、「指導者はもって生まれた資質によって決まるべきであり、それは青年期の試験で選別できる」との考え方だ。どこにも技術の入り込む余地がない。

このところ何度か、人前でプロジェクト・マネジメントやサプライチェーン・マネジメントについて話したり、学生に講義したりする機会をいただいた。そのたびごとに強調したのが、「マネジメントにはテクノロジー(技術)がある」との主張である。理工系むけに話すことが多いので、“そもそも技術には二種類ある。『固有技術』と『管理技術』だ”という話から入る。固有技術とは、対象固有の科学法則に縛られる領域におけるテクノロジーである。例えば、機械設計、材料開発、システム設計、等々だ。他方、管理技術とは人的作業の集合に対して適用されるテクノロジーで業種・分野固有の部分がないため、汎用的である。それが例えばWBSであり、PERT/CPMであり・・と説明していく。

むろん、マネジメントとは「ゴールを達成するために、人に仕事をしてもらう」ことであり、人が人を動かす行為には、不可避的にヒューマン・ファクター(属人性)がかかわってくる。しかし同時に、マネジメントを計量化・客観化し、誰もが一定レベルで遂行可能にするためのテクノロジーも知られている。そう説明を続けていくのである。

だが、残念ながら必ずしも反応は芳しくない。学生・院生はともかく、社会人になると今ひとつピンとこない顔をする人が多いようだ。

無理もないのである。ふつうの企業や官庁の組織(ファンクショナル組織)では、マネジメントの職務は、その人の地位にかたく結びついている。上司が部下に指示・命令を下し、部下が上司に報告する。上司は部下の人事評定権をもっているし、予算の執行権も握っている。指示に逆らったら、ひどい目にあわせるからな、という言外の強制がそこにある。つまり、上司は部下に対して強制力を持つのである。そしてたいていの組織では年功序列制がまだ生きているから、上司は部下よりも経験が長く、分野知識もそれなりに知っている。

ところが、マルチ・ファンクショナルなプロジェクトや、複数組織・企業が協業するサプライチェーンにおいては、計画や指示を出す職務は『役割』にすぎない。互いに対等な複数の機能が、混乱せずに整然と強調しあえるように指示する仕事は、航空管制官とか、オーケストラの指揮者のようなものだ。管制官はパイロットの上司ではないし、楽器奏者は客員指揮者の部下ではない。そこには直接的な強制力はない。従わなかったらどんな混乱した結果になるか、実行する側が予見できるから自発的に指示に従うのである。だから、行使できるのは『影響力』だけである。こうした仕事では、マネージャーは役割の一つにすぎない。べつに他よりエラい訳ではないし、年長とも限らない。

このような分野では、マネジメントのために技術が必要だし、また有効でもある。というのは、プロジェクトもサプライチェーンも、それなりに複雑で見えにくい『システム』を構成しているからだ。それは設計課長が部下に設計計算の仕方を指導するのとは、ちょっと違っている。固有技術の中で采配をふるえばすむ話ではない。

しかし、わたし達の社会では、マネジメントの上手下手はまったく属人的なものだ、という思想が強い。その結果、マネージャーの地位は、学歴・年功序列・出身等により選ばれることが多い。マネジメントは、「地位に付随する権能」 であって、前もって研修・訓練が必要な技術と考えられていない。日本では残念ながら、「マネジメントにも技術がある」という概念が希薄なのである。これは、欧米の企業と多少は仕事をしてきた経験からも言えることだ。嘘だと思ったら、マネジメントとは何かを、手近なリーダー格の人に問いかけてみるといい。

 「マネジメントは人だよ、人。」
 「勘と度胸と根性だ!」
 「組織は規律とルールで動かすべきものです」

こうした答えが返ってくる可能性がとても高い。べつにこれらが間違いだと言うつもりはない。それぞれ、たしかに真実ではある。だが、これがマネジメントの全てではあるまい。昨年、サウジアラビアの国営石油会社の若手社員達を相手に同じ質問をしたら、すぐに

 「人を動かして、目的を達成すること」

と、答えが返ってきた。彼らが受けてきた欧米流の教育がそう言わせたのだろう。こういう目的指向の、機能的な理解があると、“じゃあどう動かせばベターか”“そこに必要な技術は何か”と議論を進めることが出来る。その後の講義がとてもスムーズだったことは言うまでもない。

日本では、マネジメントは理工学的研究の対象とも思われていない。現に東大にも京大にも、理系のManagement Science系の学科が学部レベルでは存在しない。つまり、文科省の世界観の中には、マネジメント・テクノロジーという発想が欠落しているらしい(ま、私学の早稲田や慶応には経営工学系の学科があるが)。

それはちょうど、文科省の頭の中に「情報学」の発想が欠けていた50年前の状況とよく似ている。だとしたら今のわたし達に必要なのは、第二の梅棹忠夫が現れて、「知的マネジメントの技術」なるベストセラーを出すことではないかと夢想するのである。
by Tomoichi_Sato | 2011-10-30 22:21 | ビジネス | Comments(0)
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