往年の名画『アパートの鍵貸します』に、忘れがたいシーンがある。終幕近く、主人公(ジャック・レモン)が上司に、いつものとおりアパートの鍵を貸してくれ、とたのまれる。彼は鍵を渡すのだが、上司はそれを見て、叫ぶ。「これは役員用バス・ルームの鍵じゃないか!」。
アメリカの会社には、どうやら役員専用のトイレがあるらしい。社長が平社員に混じって、社員食堂で平気で食事をする日本では、想像しにくい話だが、その鍵は、役員であることの象徴なのである。米国で暮らすと、あちこちに鍵が要るので、すぐ鍵束がじゃらじゃらと重くなってゆく。ことに自宅の鍵は、外敵から物理的に身を守る盾であって、決して人に貸すものではない。 そのアパートの鍵を、不倫の密会用に上司に貸すことで、主人公は代償として出世を手に入れてきた。そんな行き方がリスキーであることは、うすうす感じていただろう。しかし、その彼も、自分の部屋で、若い女性(シャーリー・マクレーン)が睡眠薬を飲んで倒れているのを発見したときに、はじめて潜在的な「リスク」が具体的な「イシュー(問題)」になって、身に降りかかったことを知るのである。 “プロマネを数人、貸してくれませんか” --そんな依頼が、ときどきある。中には、“できれば派遣社員の単価で”という虫のいいオマケまでついたりする。腕のいいプロマネは利益の源泉であって、それを安い費用で貸し出したら、私の勤務先は干上がってしまう。プロマネを貸すことは、自分のアパートの鍵を貸すのと同じくらい重大なことなのだ。 それでは、プロマネの適正な価格はどのように決めるべきだろうか。これについて明確に書いた本は、まだ読んだことがない。私の会社の経営者は、腕の良いプロマネをどこからか連れてこられるのなら、1億円払っても惜しくないと考えるだろう。エンジニアリング業界では、大きなプロジェクトは予算額が1千億円を超える。プロマネがヘタをうったら、赤字だって数十億円に迫るだろう。これが仮に半分で済んだら、プロマネ代1億円だって安いものではないか。 アパートの扉や壁が、住人を外敵から物理的に守ってくれる存在なら、プロマネは巨大なリスクから会社を守ってくれる、扉の鍵にあたる存在なのである。古代の中国人は、万里の長城という途方もない壁をこしらえたが、この防護壁の機能は、門を守る将軍の一人が外敵に対して門を開いてしまったことで、完全に無に帰した。鍵は掌に握れるくらい小さい。材料でいえば原価は数百円だろう。しかし、リスクの観点から言えば、その価値はきわめて大である。プロマネも同じで、人件費単価で貸し借りできるものではない。 「プロジェクト・ダイナミクスの構造」にも以前、書いたとおり、プロジェクトの問題発生には階層的な構造がある。問題事象が最初に発見される場所は、コストである。しかし、その原因は、たいていスケジュール遅延かスコープ漏れである。それらは品質・調達・人的リソースの問題から引き起こされる。そして、遠因は、たいていリスク対処とコミュニケーションの失敗にある。リスクの感覚は、プロジェクト・マネジメントの根底課題なのである。 では、リスク感覚はどのように磨かれるのか。それは何よりも、経験の蓄積を通じて磨かれるのだ。プログラマの世界には若い天才がときどき現れるが、プロマネには若い天才は存在し得ない。それにくわえて、プロジェクト対象となる分野の固有技術についての一通りの理解がなければならない。そうでなければ、この先何が起こりそうか、どうして分かるだろうか。 プロマネに必要な三要素は、経験から得たリスク感覚と、固有技術への理解と、管理技術である。最初の二つは、組織の中で時間をかけて育てていくしかない。最後の一つだけは、座学でもある程度は身に付くし、たとえば「e工程マネージャー」のようなツールの形で借りてくることもできる。 こうしてみると、借り出したプロマネを、ぽーんと一人で見ず知らずの組織に放り込んで、プロジェクトが機能する訳がないことが分かる。プロジェクトとは複数の人間が共同して行なう仕事だ。周囲とのコミュニケーションのポイントも分からず、固有技術も分からず、過去の経験もなければ、リスクをマネージしようもない。 『アパートの鍵貸します』は、人生の危機を乗り越えたジャック・レモンが、地位や金銭を捨てて真実の愛情を手に入れるシーンで終わる。ビリー・ワイルダー監督は、その場面を繊細で美しい白黒の映像で撮っている。彼にとって一番大事なものは、貸し借りでは決して手に入らないものなのだ。
by Tomoichi_Sato
| 2005-10-07 22:56
| プロジェクト・マネジメント
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