<< 情報とソフトの奇妙な経済学 >>
「ねえ。わずかな通信代を負担すれば情報を世界に発信できます、っていうインターネットの精神は分かるけど、逆に有用な情報だったら、お金をとって売りたい人もいるんじゃないかしら。そういう人は困るんじゃない?」 --別に困りはしないさ。インターネットでも有償のサイトはたくさんある。 「だってみんな勝手にアクセスできるんでしょう?」 --それはね、あるところから先のページは、登録したパスワードをいれないと読めない、というような方式で情報を限定しているんだよ。 「どういうふうにお金をとっているの?」 --たいていはお客にパスワードを渡す代わりに、クレジット・カードの番号を登録してもらって、引落すのさ。 「そんなことを聞いているんじゃないわ。どういう風に個別の情報に値段をつけているか、って話よ。情報の価値ってどうやって決めてるのかしら」 --そういう話か。それはけっこう難しい質問かもね。情報の売り買いって、ふつうのモノの取引とは随分ちがう性質をもっているからねえ。 「あら、そうお? たとえば?」 --たとえば。・・たとえばねえ、情報ってのは必ず前払が原則なんだ。 「前払い?」 --モノだったら、お客に商品を渡した後で代金を受けとるやり方でも困らない。お金を払ってもらえなかったら、モノをとりかえせばいい。ところが、情報というのは知られてしまったら、返してもらう事ができない訳さ。 「そうね。たしかにその情報を知らなかった状態には戻れないわね。」 --いったん相手に渡しちゃったら、それでもう終わりだろ? 「こんな情報は前から知っていた」とか「こんな情報は自分にとって価値が無い」とか言われて、そこで逃げられたらお金が手に入らない。だから情報産業は必ず前払いが原則なんだ。 「そういえば、たしかに映画でも演劇でも先にチケットを買って入るわね。」 --お代は見てのお帰りで、というのは非常にリスキーなやり方なんだ、情報の商売に限っては。 「でもね、本屋さんとか、それにパソコンのソフトとかだって、通信販売で届けてもらってからお金を払うケースがあるじゃない。あれはどうなの?」 --うん。まず、本の場合はね、あれは内容の情報だけではなく、紙でできた『本』というモノを売る形態をとっている。買う側だって、内容だけでなく、たしかに紙質だとか装丁だとか字体だとかいったモノとしてのデザインの質を評価して買っている部分がある。いや、あった、と過去形でいうべきかもしれないな。最近の出版業界では、読み捨て使い捨ての文庫本が全盛で、モノとしての保存価値が薄くなってきているから。 「老子の言葉に、『文字は読んでしまえば用はなくなる』っていうのがあるんですって。昔は書物はほとんど神聖なものだったから、これは反語なんでしょうけど、でも世の中はほんとにそういう風になってきたのね。」 --それと歩調を合せるようにして、本の内容それ自体を電子出版してネットで流通させようという動きが出てきた。 「そういえば、音楽もそうよね。映像もオン・デマンド配信になってきたし。」 --そうやって電子ファイルにされてしまうと、コピー・プロテクションの問題が常に出てくるんだ。これも情報産業のもつ特殊性だね。 「そうね。でも、パソコン・ソフトも昔はよくプロテクションがかかっていたけれど、最近はすたれてきていない?」 --それには理由があって、・・えーと、でもね。ぼくとしては、ちょっとパソコン・ソフトと他の情報コンテンツの話題は区別したいんだ。 「どうして?」 --パソコン・ソフト、いやコンピュータ・ソフトウェアはすべて、ある処理の方式をデータ化したもので、人間にとってそれ自身は情報としての意味はない。でも書籍や映画は直接人間に意味を訴えかける。みんな全部ひとくくりに『ソフト』と呼んでいるけれど、ぼくの意見では前者だけがソフトで、後者はコンテンツと呼ぶべきだと思う。 「そうなの? それならそれでもいいけど、じゃ電子化されたコンテンツの値段はどう決まるのかしら?」 --結局ね、情報というものは、かならずその乗り物となる物理的媒体が必要なんだ。肉体をなくした霊魂みたいなものはこの宇宙では存在できないことになっている。 「媒体?」 --情報を記録しておくメディアさ。文章だったら紙がそうだし、映像ならビデオテープ、音楽ならCD、パソコンソフトならフロッピーとかCD-ROM。もちろんどこにも記録されずに終わる内緒話みたいな情報だってあるけれど、お金を取って流通させたければ何かの媒体に記録して固定する必要がある。 だから、本屋さんの時代には、書物という物理的媒体を売り買いしていたわけだ。 「そういえばそうね。」 --でもさ、コンテンツ商品の値段を、それのキャリアである物理的媒体の価格で決めるのは、人の価値を、その人ののっている自動車の値段で決めるようなものだろ。 「ふむふむ。」 --本を流通させるには、活字を集めて紙に印刷して束ねて輸送して、という具合にコンテンツの物理媒体を作るのにかなり大がかりな費用がかかった。出版社はたぶんそれに印税と利潤を乗せて値段を決めていたんだと思う。 ところが、電子ファイルの時代になったとたん、コンテンツの複製がだれでも簡単にできるようになった。いまではCD-ROMなんて部数が多ければ1枚十円の単位で焼けてしまうはずだ。物理的媒体の費用なんてタダみたいなもんだ。 「そうすると、情報それ自体の値段がむき出しになってくるのね?」 --それだけじゃない。情報を受け取った人間は、本の場合は他人に複製して渡すのはほぼ不可能だったから、出版物の流通は売り手が完全にコントロールできた。ゼロックスの出現でそれは多少あやしくなったけれども、全ページコピーするよりは買う方がたいがい安い。しかし、電子ファイルの時代には、売り手の複製費用が楽になるのと同時に、消費者側が勝手にどんどん複製してばらまけるようになってしまった。 「で、流通の支配権を取り戻そうとして、コピー・プロテクションが出てくるのね。」 --そう。もともとこの問題は、商品の実質的な使用価値をそこなわずに複製ができ、かつその複製費用が売り手の価格よりも安く済んでしまう場合には、実物商品であるかコンテンツ情報の商品であるかにはかかわらずに発生する問題だ。たとえば高級ブランド品のコピー問題を考えてみればいい。 「でもまあ、モノの場合は簡単には複製できないから問題があまり起きなかったのね。」 --ところが情報はモノではない。情報の物理的媒体が高価で、簡単に複製できなかったときには、その媒体をモノとしてあつかって売り買いできた。しかし媒体の複製がタダ同然になってきたときは、別の事を考えなけりゃいけない。そこでは、モノのような「所有」ではなく、情報の「利用」にお金を請求するという方向に変わる必要がある。これがライセンス=『使用許諾権』の考え方なんだ。これが情報産業の3番目の特徴かな。 「ライセンス、ねえ。だんだん弁理士さんの世界になってきたわ。」 --ライセンスというのは特許のような無形の知的財産を、つまり『情報』そのものを他者に限定開示して代価を得る仕組みだ。これ自体は古くからあって、制度的には確立している。 ただしね、これを実行するためには、売り手が誰に何を売ったかきちんと管理できなくてはいけない。企業間のライセンスならともかく、不特定多数の大衆相手の商売だと、これはなかなか困難だ。それと、使用許諾権は第三者に勝手に売り渡せない。だから原則としてパソコン・ソフトには中古市場は存在しない事になる。 「ねえ、でもどうしてパソコン・ソフトのコピー・プロテクションって無くなってきたの? 話はそれるかもしれないけれど。」 (この項つづく)
by Tomoichi_Sato
| 2011-01-20 22:40
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