「おーい、この間買ってきた鷹の爪、こっちの入れ物かい?」
「そうよ。あ、それ結構辛いから気をつけて!」 「わかった。・・あれ、でも丸ごと1本入れても、ちっとも辛くならないよ。どうしてかな。」 「あ、たいていのはあんまり辛くないの。でも、たまに、とびきり辛いのが混じってるのよ。」 「そ、それじゃ“結構辛い”ことにはならないじゃない。」 「でも、ときどき、ほんとにとびきり辛いんだから!」・・・ たまに「とびきり辛い」のと、たいていが「まあ辛い」のと、どちらが本当に『辛い』唐辛子だと言えるだろうか? 別の話題。今度はコーヒーの話である。私がかつてフランス企業に駐在して仕事をしていたことは前にも書いたと思う。その会社は立派なキャンティーンを持っていて、みな昼食はそこに食べに行く。さらに食堂の外には、コーヒーを飲んでおしゃべりするためのたまり場がある。そこも会社経営で、とても安くエスプレッソが飲める。フランスの常として、単純作業はたいてい有色人種の労働者がやっているわけで、そのカフェでエスプレッソをいれるのも、二人の黒人のおばさんが交替でやっていた。 ところが同僚のH君がある日、不思議なことに気がついた。同じコーヒーなのに、片方のおばさんがいれた方が、もう一人のおばさんよりも美味しいというのだ。そういわれて注意して飲んでみると、たしかに太めのおばさんのコーヒーの方が、やせたおばさんより美味しい。これはとても奇妙なことだった。なぜなら、二人は同じエスプレッソ・マシーンでいれているからだ。コーヒーの粉をだって、同じ仕入れに決まっている。あとは小さな容器に粉を入れて蒸気の出口にセットし、それをデミタスカップで受けるだけである。どこにも技量や個人差が入り込むすき間はなさそうに思える。なのに確実に味が違うのだ。 後日この話を、ある光学機械メーカーのOBの方にしたところ、「いや、自動化された機械でも、オペレータによって出来上がりの品質が違うことはしばしば起きる」と教えられた。樹脂材料を箱形装置にいれて加熱変成するだけの自動化工程であっても、その時の材料の性状、その日の気温や湿度、そして昇温時間や加圧時間等々、微妙なセッティングによって結果の品質が変わってくると言う。そして、熟練したオペレータは、その結果にばらつきがなく安定しているのだ。「すごいんですね。」と私が感心すると、その方は「工場にいるベテランのレンズ職人になると、球面を手で撫でただけで、ミクロン単位の歪みを言い当てますよ」と答えた。 『技術』という言葉を使うとき、世間の人は、このようなミクロン単位を手で感知するプロの職人芸を連想するか、または、高度に先端的な自動化マシンのようなものを想起するらしい。ある人が、トヨタの人に向かって、「きっと御社ではすごいプロの職人さんが大勢いらっしゃるんでしょうねえ。」とたずねた。聞いた方はごく無邪気に質問したのだろう。しかし、自動車会社の人の答えは「NO」だった。「個人的な技能に頼るような工程は設計しません」というのが回答なのだ。 『技術』と『技能』という言葉は、ときに混同して使われるが、別の概念である。技能は人に属する。手でミクロン単位を感じ取る職人芸は、技能である。技能は、適性と、長年の修練によって身につけられる。技能は、簡単に人に渡したり譲ったりすることができない。だから、ベテランの技能に頼る工程は、そのベテラン職人が何かの都合でいなくなったりすると、とたんに機能しなくなる。 他方、技術とは、その成果を万人に移転可能なものである。属人的な技能に頼らず、誰がやっても均質な結果を得られるようにする方法、それを技術と呼ぶ。文字を美しく書くのは技能である。一方、活字を乗せたタイプライターの発明は、技術である。それによって誰もが、均質な、非個性的な、美しい文字を打つことができるようになる。 無論、タイプライターでも、打つ人によってスピードも違うし、字の濃さの均質性も異なる。自動化された技術の道具を使うにあたっても、そこには多少の技能が左右する要素があるのだ。ちょうど食堂のエスプレッソ・マシーンのように。しかし、技術はなるべくそのような技能の左右する領域を減らすように、進展していく。技術は、誰もが達成できる、均質性を追求する。技術は文明の申し子だからだ。たまに「とびきり辛い」のではなく、どれもが「それなりに辛い」が目標なのである。 ときどき、メディアや官庁などが技術政策を語るとき、この点を誤解しているのではないかと感じるときがある。彼らは「先端技術」と言ったワーディングが、とても好きだ。その方が新鮮でかっこよく、ニュースバリューもある。ニュースバリューとはすなわち特異性、珍しさを意味する。だが、技術に関する判断基準は、技術全体にも適用される。ある組織や社会に「技術力がある」とは、たまに「とびきり先端的」ではなく、だれもが「それなりに技術を持つ」ことを指すのだ。建物の塔の高さではなく、建物全体のボリュームと安定性。そこを見なければならない。一握りの突飛な天才ではなく、大勢の技術者の百花繚乱の豊かさ、多様性。そこから生まれる、組合せの創造性--こうしたことこそ、技術力の母体である。技術力とは個人ではなく、組織の能力なのだ。 世間で時折提案される、特殊な理系エリート教育のような仕組みに、わたしが批判的なのもこのためである。欧米やら、あるいは韓国やらで、そうした仕掛けが役に立つように見えることもあるのだろう。だが、たまに「とびきり優秀」な人間を作るために、ボリュームゾーンに属するほとんどの学生を疎外していって、良い結果が得られるようにはわたしは思えない。すでに、この国の教育制度は、「それなりのレベル」をだれもが達成することに失敗しつつあるではないか。大学生レベルが降下中なのに、企業だけレベルが上がる訳がない。『技術立国ニッポン』の将来を明るいものにするために、もう一度考え直すべき時であろう。
by Tomoichi_Sato
| 2010-08-17 23:21
| ビジネス
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