日本の弓術 (岩波文庫)
これは最近読んだ中でかなり衝撃を受けた本だ。ごく薄っぺらい岩波文庫で、しかもヘリゲルの講演録の部分はその半分、数十頁しかない。 しかし、哲学者で日本に数年間を過ごしたヘリゲルが、1936年にベルリンの聴衆を前に語った内容は、じつに驚くべきものだった。東北帝国大学に招聘された彼は、以前からドイツ中世の神秘主義に傾倒しながらも、その肝心の部分を実感できずにいた。そこで、日本で禅の精神に触れることを願い、弓道の師範について入門する。 ところが、阿波という師範は、彼に不思議なことを言う。弓を引くときに力を入れてはならない。丹田で息を吸え。意思を持って矢を放ってはいけない。的を見てねらって射てはならない・・・。これらはいずれも、西洋人の徹底して合理的・論理的思考からは理解できない、矛盾した指示であった。 ヘリゲルが師範に、無心で射ることは不可能だというと、師範は「あなたは無心になろうと努めている。つまりあなたは故意に無心なのである。」と指摘する。彼は「無になってしまわなければいけないと言われるが、それではだれが射るのですか」ときく(何と西洋人的な質問だろう!)。すると師範の答えは、「あなたの代わりにだれが射るかが分かるようになったら、あなたにはもう師匠がいらなくなる。経験してからでなければ理解のできないことに、どんな知識や口真似も、何の役に立とう。」というのである。 こうした禅問答をのりこえ、さまざまな迷いを経た後、師範が全くの暗闇で的を精確に2回続けて射るのを見てからは、彼は一切の疑問を捨てて、阿波師範にしたがう。そして5年の後、彼はたしかに「無になり」、「射られる」ことを会得する。免許皆伝、5段となった彼は、師から愛用の弓を記念に譲られて日本を離れるのである。 この無心の体験こそ、日本文化の底流に流れ、ドイツ人も(そして現代の我々日本人も)近寄りがたい核心である。そこに近づくには近代精神は邪魔となる。意識して眠ろうとするようなものだからであろう。私自身も、これがどのような体験なのか、まことに想像しがたい。しかし、そこには確かに真実なことがあるらしい、いや、あるはずである、という確信を、本書を読んで強くした。そこに至る努力をせずに、いかなる知識を連ねても「何の役に立とう」。これはまことに、人間精神の神秘的な深さに関心のある全ての人が読むべき本である。
by Tomoichi_Sato
| 2010-05-18 22:53
| G 書評
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