紅海を見下ろすホテルのレストランで、私たちは食事していた。相手はサウジアラビア有数の財閥企業のBusiness Development担当ディレクターだ。いわゆるアラブ風の白い民族衣装ではなく、ふつうの背広にネクタイの服装をしている。年齢は、たぶん私と同年代か、少し若いかもしれない。しかし財閥トップの信任の厚い彼は、もうすぐ役員のポストに手が届くだろう。
戒律厳しいサウジの食卓では、けっして酒は供されない。それでも、一緒に食事をするというのは、知り合ったばかりの人間同士がうちとけるには最良の手段の一つだ。デザートを食べ、食後のお茶やコーヒーを飲む頃には、出自を含めていろいろなことを話し合うようになっていた。 レバノン出身の彼は、きわめてきれいで立派な英語を話す。イギリスの大学を出て、英国企業に就職し、さらにMBAを取得して別の会社のポストを得た。結局、11年間イギリスに住んだという。それから、サウジの財閥企業に引き抜かれ、経済成長著しい中東に戻ってくる。そこで頭角を現して、今のポジションまでたどりついた。彼と少しでも話せば、とても頭の回転の速い、優秀な人物であることは分かる。そして、他国人であっても有能ならば、引き立てて使う度量を経営者の側ももっている。 その彼が、社員の研修に関して面白いことを言い出した。たしか、日本企業に若手社員を研修派遣に出した経験に関連する話題のときだった。彼は、「ビジネスマンの基礎能力は、大学教育や資格ではなく、最初に就職した職場の3年間で決まる」と言ったのだ。「入社した最初の職場で、きびしくdisciplineを仕込まれて学んだ人間は、その先どんな会社どんな職場に行っても、仕事ができるようになる。逆に、どんなに頭が良くて学業が優秀でも、最初にだらしない職場に入ってしまうと、その先は伸びなくなる。そう思いませんか?」--さまざまな部下達のことを思い出しながら、彼はいうのだ。 たしかに、そうかもしれない。不思議なことに、土地や文化や言語はいかに違っても、同じビジネスの世界では、人々は似た傾向や習慣やエートスを持つようになる。私が近年ぼんやりと感じていたことを、彼が明確にずばり表現してくれたので、とても驚いた。 たぶん、彼自身が最初に働いた英国企業も、きちんとした立派な職場だったのだろう。だからこそ、紳士的で正確、かつ事実本位で意志決定の早い、今日の彼が出来上がったにちがいない。それでは、私が新入社員だったころ、何を学んだのだろうか? わたしが「新入社員」だったころ、最初についた先輩は、とても仕事に厳しい人だった。私が最初に学んだことは、『チェックする』ことだった。指示されて計算書やら図面やら報告書やらを作成し、その人に提出する。すると、中身を見る前に、私の顔をじっとにらんで、「チェックしたのか」と言うのだ。 「チェックしました」と答えると、「どうチェックしたんだ?」と聞き返される。「書いた後、読み直しました。」というと、「馬鹿!」と怒鳴られた。「お前は自分の書いたものが合ってるかどうか、読んだだけで分かるほどいつ偉くなったんだ!? 計算は合ってるのか聞いてるんだ!」 しかたなく席に戻って、計算を確認して、もう一度その先輩のところに提出に行く。「計算もチェックしました。」と言い添えて。すると、再度「どうチェックした?」と聞き返される。「同じ計算をやり直して、合ってることを確認しました。」と私が答えたら、さっきよりもっとすごい勢いで「馬鹿者!!」と言われた。 「同じことを繰り返して、自分の計算の間違いが見つかるわけがないだろう。そんなもんチェックとは言わん。前提とか手順がおかしくないか、どうして分かる? 分からんだろうが。」 「でも、そうしたら、どうやってチェックしたらいいんですか?」 「いいか。手順通りに計算したんだったら、それはいわば『縦』の流れだ。そういう時は、『横』に比較するんだ。自分が3 ケースの計算をしたら、その結果を横に並べて、本当に大小関係や差額がまともになっているかを見ろ。1ケースしかやってないんなら、先月、別のケースで ○○が計算書を作ってるから、それと比べろ。いいか、自分でチェックしないものを俺にも客にも絶対出すな! 本当に合ってるか確認するまで、2回でも3回でもチェックしろ!」 再度自分の席に戻って横に比較してみると、くやしいことに、たしかに3ケース目だけ結果がおかしい。自分はミスしやすい、粗忽な人間であることを思い知らされた。念入りにチェックしていると、今度は提出期限に間に合わなくなる。しかたなしに、作業の時間を見積もるときは、チェックする時間も考慮に入れるようになっていった。おかげで、私の仕事の品質は、すこしは向上したとは思う。しかし先輩に毎回言われる「チェックしたか!」の声は耳の奥にこびりついて、家に帰っても寝床で歯ぎしりした。 その先輩には、その他にもいろいろなことを教えられた。客先や上流部門から渡された条件、そして自分が作成した計算は、かならず紙に出した。それは、色マーカーで、線を引くためだ。なぜ線を引くのか? それは、後になって、その条件や結果を自分が「読んだ」「確認した」ことを確かめ直せるようにするためだった。つまり理解や確認作業を色マーカーで「見える化」するのである。そして、その紙は穴を開けてファイルする。いつでも、作業工程を遡って、どこまで正しくどこで間違ったのかを、トレースできるようにする。なぜなら、人間は(とくに自分は)ミスをおかしやすい生き物だからだ。 打合せをしたら打合せメモを書く、ということも教わった。「打合せの席で俺が一所懸命お客に説明しているのに、ふと横を振り向いたら、お前は何もメモせずぼーっとしてる。お前に給料なんかいらん。払うだけ無駄だ!」と怒られた。打合せの前にはアジェンダ(議題)を用意しておき、打合せの最初に出席者に配布する、というのも教わった。議題はかならず番号をつける(「●とか →とかの記号じゃ、議論が途中で脇道にそれたとき、何番目の議題に戻るか、すぐ言えないだろ!」)というのも教わった。 工程表を引く、ということも、To Doリストをつける、ということも、見よう見まねで学んだ。仕事を他の人に頼む場合、その結果をもらう時は、自分から相手のところに出向くのが礼儀だ、というのも学んだ。今にして思えば、当たり前すぎるほど当たり前のビジネス・マナーだが、そんなことは大学教育までは誰も教えてくれなかったのだ。 信用をいったん失ったら、まず戻ってこない。それが「チェック」をうるさく言った先輩の根底にあった考え方だ。客にミスを見つけられたら、その客からは二度と信頼されない。仕事ももらえないかもしれない。自分の信用を失うだけではなく、会社の信用を失うのだ。設計部門で働く以上、それは身につけるべき最低限の訓練(Discipline)であった。 習慣は、一度では身につかない。たぶん、2年や3年はかかる。だから最初の3年間が大事なのだ。そのとき、厳しい先輩にきちんと仕事を仕込まれるかどうかが、自分のビジネスマンとしてのその後を決める。アラブ出身の外人社員として、保守的な英国社会で実務に揉まれたに違いない、そのディレクターの穏和な笑顔を見ながら、私はあらためて新入社員の時のDisciplineの意味を考えたのだった。
by Tomoichi_Sato
| 2010-05-01 14:10
| ビジネス
|
Comments(11)
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襟を正して仕事をします。
at 2010-05-02 15:25
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元人材育成の部門におりましたので、この分野に非常に興味があるのですが、”Discipline”という言葉に非常に共感いたしました。
自分自身も、あらためて襟を正して仕事に取り組みたいと思わされました。ありがとうございました。
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「最初に就職した3年間」。これは、私が新卒時に勤めていた企業で言われていましたよ。リクルートです。3年ではなく2~3年で・・・になってましたが。20年以上前の話ですよ。一般的な話だと思っていましたが、そうでもないのでしょうか。
佐藤さんは、よい上司に出会えたのですね。これぞちゃんとした企業というエピソードです。 私の場合は、自ら機会を創るという文化を教えてもらいました。まったくチェックはしてないけど、やりたいことは自分でドアをたたいてノックせよということですよね。おかげで、今でも異質な人材です。
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通りすがり
at 2010-05-02 16:07
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思い返せばまさにその通り、自分の基礎は最初の3年、その職場で身についたものですね。
その時の職場環境は、その後転職し数社を渡った今でも鮮明だし、当時の上司の鬼のように厳しいアドバイス(指導。。。かな)もいまだに詳しく覚えています。 その厳しいアドバイスが正しく、自分の糧になったことは、社会人になって10年目、2社目に転職した後に気づきました。 当時憎らしかった上司はありがたいものに変わっていましたが、ありがちなことに、その場に彼はいません。 でも良い意味で20年経った今でも彼の影響は残り、そしてその3年間に学んだ良い意味での呪縛は一生解けないものなのだと、いまになり確信しています。 私はスタート時に良い人にめぐりあって良かったです。
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社会人2年目
at 2010-05-03 10:31
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私は今年4月で社会人2年目になりますが、いろいろ先輩から盗んだり、こうしたほうがいいと言われたことは、なるべく取り入れるようにしています。たしかに先輩が言っていることは身にしみることが多くあります。
しかし私は1年目の研修のとき心療内科に通うほどのことをされました。 何も教えずあなたはこうゆう設定です。はい始め~っと行った感じ。できなければ、「馬鹿かじゃないのぉ!!」怒鳴り声では当たり前。 「ちょっとあなた頭おかしいですよねぇ~!」そして机をバンバンとぶったたくなど色々・・・同期もいなく、新入社員(新卒)自分1人だけだったので誰にも愚痴をいえなかったです。
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社会人2年目↑の続き
at 2010-05-03 10:33
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そのあと駄目な所をホワイトボードに真っ黒になるまで書かれ、1項目ごとに10分「笑っちゃうよね!」「ありえないよね~」「こんなことされたらおれと社長は土下座しに行かなきゃ行けないよね」など永遠言われ・・・
答えを求められ、答えれば!「違う!」ここまでならいい。持論を言ってくる。間違ってはいないと思うけど、はっきり言って、時代遅れ、僕はそうは思わないけどな~ということもありますが、追求すると「おれが正解だ!」っと言った具合で納得した答えも返してくれない。 これではパワハラで訴えられるか、精神やられて使い物にならなくなるか、腐って辞めるかという道をたどる可能性が高いと思います。 昔は新入社員に何も教えずにやって、やってみて先輩に「馬鹿」これはこうするんだ!」っという時代があったかと思いますが、今はそんな時代じゃない。 今の時代は先にやり方を教えてあげて、一緒にやってあげる。慣れてきたら1人でやらせてみる。それでミスをすれば注意をすればいい! 怒鳴り散らして怒る時代は終わったと僕は思います。
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社会人10年目
at 2010-05-03 16:39
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新入社員になれなかった氷河期世代です。
「始めにどんな会社に入るか」というより、 初めての仕事場で「どんな人間(先輩や上司)に出会うか」でその後の仕事に対する姿勢や資質が備わるのだと思います。 私は新入社員にはなれず、社員教育も殆ど受けていませんが、 職場で出あった先輩や上司達にはとても恵まれた方だと感じます。 初めての職場は確かにその人の後の仕事の仕方に影響を与えると思います。
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30代経営者です
at 2010-05-03 17:25
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興味深く拝見しました。
新卒入社の3年間とともに家庭環境が大事だと私は思っています。優しく丁寧に教えたところで残念ながら「気が付かない人」「頭の回転の遅い人」は気が付くようにもならないし、回転が速くなる事もありません。会社は絶対評価ではなく相対評価される場所。「自分なりに精一杯頑張っている」で評価されるのは入社後10ヶ月くらいまでかと思います。それを過ぎて会社の体質や上司の責任にするのは単なる他責で、それ以上成長しない人かと思います。 要は自責で思考、行動できる人か否かではないでしょうかねえ。
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moriya
at 2010-05-05 08:22
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私も漠然とながら、常々そのように感じていました。3年という時限に「三つ子の魂百まで」という言葉を思い出します。就職とは、第2の誕生なのかもしれませんね。
ところでその方は、日本企業に若手社員を研修に出して、どうだったのでしょう?
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若造の知ったかです。
at 2010-05-06 12:58
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「入社(社会人デビュー)して3年が基礎」、社会人6年目の自分が今まさに実感している言葉でした。その3年の内に基本的な仕事の内容と+αで「自主性」が育てられることでその後始めて会社に利益をもたらす事ができる「人材」から「人財」へなれると思う今日このごろでした。
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ぬるま湯の中で
at 2010-05-06 16:50
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最初の3年が「ぬるま湯」でした。それは転職して次の会社でも気付かず、さらにその次の会社で気づくとともにこの記事に出会いました。せっかくなんで今日から三年で悔い改めて行こうと思います。またぬるま湯ですが、ぬるま湯につかった自分を生かしてくれた職場や周りの人には感謝している限りです。
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りょーこ♪
at 2010-10-08 06:46
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英国も日本みたいな新卒制度なのかしら?
まぁ、私は負け組みなので、非常に縁遠いお話でしたw
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