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エントロピーを下げる

大学の頃、熱力学で『カルノー・サイクル』を習った人は多いだろう。ついでにエントロピーだのTS線図だので頭が痛くなった人もたくさんいるに違いない。物の本によると、カルノーという人はフランス革命時代の砲兵士官で、砲身の中ぐり加工がかなり熱を発生するのを見て、熱素説について考察した、という話を聞いたことがある。

当時、イギリスでの蒸気機関の発明をきっかけに、熱機関の改良や工夫が進みつつあった。その熱機関サイクルの本質について、カルノーは画期的な論文を書く。彼はその中で、熱機関の理論的最大効率が、高熱源と低熱源の温度差のみで決まることを論証した。これは、まだ熱がエネルギーであることさえ確定していなかった時代において、まことに見事な洞察であった。熱力学の第2法則は(別に彼がそう命名したわけではないが)、彼の論文から発している。まさに、熱力学の創始者と呼んでもいい。

また、カルノー・サイクルの考察から、移動した熱量を温度で割ったエントロピーという概念が出てくる。『エントロピー』の語は、後の時代のクラウジウスの創案によるが、基本的なアイデアはカルノーに依っている。クラウジウスは熱力学的サイクルを論じて、「非可逆的なサイクルでは必ずエントロピーが増大する」という法則に定式化する。これが現在の第2法則の成り立ちである。

その熱力学の第2法則の告げるところによれば、我々がエネルギーの変換によって力学的仕事を得る際には、必ずエネルギーの質の低下が伴う。たとえば、電気でモーターを回したとき、必ず一部が摩擦熱に転じる。電気エネルギーは質の高いエネルギーだが、熱エネルギーは質が低いのである。また熱エネルギーの質は、ごく簡単に言うとその温度で決まる(沸騰水はぬるま湯にまさる)。「エントロピー」とは、その「質の低さ」を示すモノサシである。

このエントロピーは、秩序の乱雑さを表す指標としても知られている。そして、『情報』というのは、秩序を表現する手段である。ここで、熱力学的概念だったエントロピーは、情報理論における尺度に変身するのである。

さて。いきなり話は飛ぶが、先週末、私は机の上に乱雑に積み上がっていた書類をかなり整理した。つまり机上のエントロピーを下げたわけだ。しばらく忙しさにかまけてゴチャゴチャな状態になっていた机がきれいになって、気分もすっきりしたし、なにより書類探しのための不毛な時間がなくなって、生産性がずいぶん上がったと感じる。米国のデイヴンポートという人によれば、平均的なビジネスマンは、捜し物のために、年間170時間も使う、という。もしそうだとすれば、机周りのエントロピーを下げることによって、仕事の生産性は1割近くも上がることになる。

私の机が乱雑なのは、基本的に私がずぼらな性格だからだが、仕事で忙しいときほど乱雑になりがちだ、という説明も一応用意している。書類を整理している時間もなくて、という訳だ。しかし、昔、ある上司から一喝されたことがある。お前はわずかな時間を惜しむつもりで、かえって多大な時間を浪費しているだろ、と。

その部長は定期的に号令をかけて、部員に不要な書類を捨てさせる時間を取った。たいていは金曜日の夕方だったが、「今日はもうこれからは仕事は不要、あとは書類を整理しろ」というのである。この、定期的というのが、今思うと大事なポイントだったように思う。ある一定サイクルで、強制的に仕事の手を止めさせる。そしてエントロピーを下げさせる。

考えてみると、われわれ生き物も、エントロピーのサイクルを持っている。昼は起きて活動し、その分、体の秩序が乱雑になる。そこで、夜、眠る前に熱を外に捨てて体温を下げ、寝ている間に体組織の修復や成長を行ってエントロピーを下げているのだ。人の成長ホルモンは、夜眠る前に最も分泌される。だから、「寝る子は育つ」というのだと、前にも『睡眠時間の必要』で書いたように思う。そしてじつは脳も、眠っている間が一番エネルギーを消費している。たぶん、記憶情報を整理してエントロピーを下げているのだろう。

生物は、少なくともある程度高等な生物は、活動と休息のサイクルをもって暮らしている。私はこれは、秩序ある自律的なシステムにとって、かなり本質的なことではないかと考えている。カルノー・サイクルではないが、そのほうが有効にエネルギーを活用できるのだ。ノンストップで働き続けると、エントロピーが上昇して、次第に乱雑さとムダが増えてくる。だから、これを強制的に下げるためのサイクルが必要なのだ。ちょうど24時間操業のプラントも、ときどき全面的に運転を止めてシャットダウン・メンテナンスを実施するように。

24時間働き続け、成長し続ける企業モデルというのは、どこかおかしい。ときには休息し、ときにはエントロピーを下げるための時間が必要だ。生きた組織には、サイクルがあるべきだ。

昨年秋の金融危機以来、私たちの産業社会はかなりの低稼働率、開店休業状態に苦しんでいる。しかし、こういう時期こそ、ほんとうは組織やシステムの修復やリモデルをすべき時だったのではないか。低需要期にも、積極的な意義を見いだすべきではなかったのか。少なくとも中東や南アジアなどでは、“あの危機のおかげで過熱状態だった経済が少しクールダウンし、かえってまともな成長に戻った”と感じている人が少なくないようだ。それなのに、あわてて現場労働者を大量に切り捨てて、かえって不況の谷を深くした我々の社会は、何か大切なことを見失っているように思えるのである。
by Tomoichi_Sato | 2009-09-03 23:09 | ビジネス | Comments(12)
Commented by サステナブルマリンエンジニアリング at 2021-04-19 12:02 x
それにしてもダイセルリサーチセンターの久保田邦親博士(工学)の提案しているCCSCモデルは機械系の研究開発の魔の川をよく言い当てている。極圧添加剤を合金設計したSLD-MAGICっという特殊鋼、とても面白そうだ。
Commented by グリーン環境 at 2023-04-22 15:54 x
プロテリアル(旧日立金属)の冷間工具鋼のことですね。やはり世界トップクラスの材料開発力の定評はざらじゃありませんね。
Commented by 森林ロボティクス安来 at 2023-06-01 13:06 x
最近では実用性能では自動車の冷間のハイテン成形プレス技術でGPa越えが相次いで報告されていますね。翻って考えてみるとやはり、プロテリアル
(旧日立金属)製のマルテンサイト鋼の頂点に君臨する高性能冷間ダイス鋼(特殊鋼)SLD-MAGICの登場がその突破口になった感じがしますね。今で
はよく聞く人工知能技術(AI:ニューラルネットワーク)を使ったCAE合金設計を行い、熱力学的状態図解析によって自己潤滑性を付与したことが功を
奏した話は業界で特に名古屋では有名ですからね。軸受、歯車、圧延ロール、減速機、摺動機械部品の基本的な摩擦係数にかかわるはなしがこうだか
らCAE技術もさらなる可能性に満ち溢れているということでしょうね。タコツボ組織化しがちなトライボロジー研究でボールオンディスクを横串力と
するCCSCモデルという提案も素晴らしいものでした。
Commented by たたらテクノロジー at 2023-06-01 13:14 x
CCSCモデルというのはトライボ認証ビジネスや未来プロジェクトとしてのオープンイノベーションの可能性が広がっていますね。
Commented by マルテンサイト at 2023-06-07 05:13 x
ボールオンディスクの権威の方ですね。パラフィン油の精密微量吸着がデータのバラツキを抑えるコツだったんですね。
Commented by マルテンサイト at 2023-06-07 14:20 x
どこかの誰かさんがチャンピオンデータにからめて品質不正だと糾弾していましたが。きちんと科学的に証明されていたんですね。
Commented by バイオエンジン at 2023-08-16 11:30 x
プロテリアルさんは再上場を早めたいのならSLD-MAGICの開発者のような方を経営トップにすればいいと思うが。
Commented by サムライ・マルテンサイト at 2023-08-27 16:22 x
まあファンド以外にも顧客関係とかいろいろとステークフォルダーがいますからね。
Commented by バイオエンジン at 2023-09-07 09:57 x
最高峰のエンジニアとよぶにふさわしい人物だと思います。
Commented by パイロット・フリクション at 2023-09-10 05:19 x
まあ、材料物理数学再武装にもエントロピーの時間変化と等確率の原理は等価だって書いてあったしね。
Commented by ビジネスマネージメント at 2024-01-11 01:44 x
リベラルアーツとしての視点から考えても極めて独創的な視点だ。
Commented by メガトレンド・サステナビリティ at 2024-02-21 03:36 x
最近はChatGPTや生成AI等で人工知能の普及がアルゴリズム革命の衝撃といってブームとなっていますよね。ニュートンやアインシュタインの理論駆動型を打ち壊して、データ駆動型の世界を切り開いているという。当然ながらこのアルゴリズムにんげんの考えることを模擬するのだがら、当然哲学にも影響を与えるし、中国の文化大革命のようなイデオロギーにも影響を及ぼす。さらにはこの人工知能にはブラックボックス問題という数学的に分解してもなぜそうなったのか分からないという問題が存在している。そんな中、単純な問題であれば分解できるとした「材料物理数学再武装」というものが以前より脚光を浴びてきた。これは非線形関数の造形方法とはどういうことかという問題を大局的にとらえ、たとえば経済学で主張されている国富論の神の見えざる手というものが2つの関数の結合を行う行為で、関数接合論と呼ばれ、それの高次的状態がニューラルネットワークをはじめとするAI研究の最前線につながっているとするものだ。この関数接合論は経営学ではKPI競合モデルとも呼ばれ、様々な分野へその思想が波及してきている。この新たな哲学の胎動は「哲学」だけあってあらゆるものの根本を揺さぶり始めている。こういうのは従来の科学技術の一神教的観点でなく日本の独創とも呼べるような多神教的発想と考えられる。
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