生産マネジメント手法の系譜を考える(3) 90年代以降の発展とこれから

--ちょっとこれまでの流れをおさらいします。生産マネジメントの手法は20世紀前半に、米国の自動車産業が牽引する形で誕生・発展しました。複雑な機械製品を、大量生産することが主眼でした。60年代には計算機を利用するMRPという計画手法が開発され、需要に合わせてロット生産のタイミングを調整し、工場全体を采配する事が現実化します。

「集中管理の実現ですね。」

--そうです。そしてMRPはその後も、発展を続けます。資材調達だけでなく、人員や資金など、製造に必要な経営資源全体の計画ツールにまで拡大し、80年代にはManufacturing Resource Planning = MRP IIという概念が生まれます。そして、これにヒントを得て、ドイツのSAPという名の企業が、Enterprise Resource Planning = ERPという用語を作ります。こちらは皆さんご存じですね。

「ERPって、元は生産管理用語から来たんですね・・」

--はい。だから、今でも主要なERPパッケージは、その生産マネジメント部分にMRP IIのロジックを実装しています。
 ところで一方、日本では70年代ごろから小ロット・多品種で、市場の需要にきめ細かくより添う、トヨタのような生産方式が主流になります。かつての「メード・イン・ジャパン=安物」の汚名をそそぐべく、また現場のモチベーション向上も込めて小集団活動を中心としたTQCが盛んになり、石油ショックも手伝って、日本製品は米国市場で力をふるいます。そして80年代後半には、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」、日本型経営礼賛の時期が来ます。

「なんだか遠い昔の話を聞いているような気がします。」
「でもこれ、今も変わらぬ現実だと思ってるオジサンたちも多そう・・」

--かもしれません。ところで、この間、米国も指をくわえて見ていた訳ではありません。あなたがアメリカ企業の経営者だったら、どうしますか?

「ええと。関税をかけるよう政治家を動かして、輸入をブロックします。」

--なるほど。政治に頼る解決ですね。実際、そういう動きもあって、日本の自動車会社は米国での現地生産に取り組みはじめます。しかも、部品の現地比率その他の規制までかかって、単に部品を全て米国に持って行って、現地で最終組立だけするような生産方式は通じなくなります。部品の調達からやらざるを得ない。かくして米国企業は、日本の工場マネジメントのやり方を間近に見ることができるようになります。そして気がつくんです。これは単に、安価な労働力を人海戦術的に使ったやり方ではないのだ、と。

「当たり前ですよ!」

--また、日本にも盛んに調査団を送ります。その結果を、MITが’90年代の初めに報告にまとめ、こうした日本企業の生産方式を「リーン生産」と名付けます。Leanとはお肉の赤身のこと。贅肉のない、つまり徹底して在庫を減らした生産マネジメント方式です。また品質問題についても考え直し、「シックス・シグマ」という概念に至ります。徹底した品質追求から、生産のムダやムラをあぶり出す方法論です。

「日本のやり方を、呼び名を変えて真似しただけじゃないか。」

--そうとも言えません。彼らは概念の体系化に長じていますし、技法も生み出します。それに日本のQCだって、もともと米国の統計的品質管理から学んだのです。

「たしかにITマネジメントの世界でも、アメリカではLean Six Sigmaという言葉を時々見かけます。」

--ところで、少し話は戻りますが、貿易摩擦と関税による障壁は日本企業だけでなく、米国企業をも悩ませることになりました。すでに部品製造を安価な外国にかなりシフトしたしまった会社は、同じく関税に直面します。それだけではありません。米国内での生産と、中米やアジアでの部品製造を、どう上手につなぎ、どうタイミングを合わせるか、という問題に直面します。そしてここから、『サプライチェーン・マネジメント』という重要な概念が登場してくるのです。

「SCMですね。」

--そうです。サプライチェーンという言葉や、供給連鎖という概念は、古くからあったものです。しかし、その全体をマネージしよう、との発想は’90年代以降のものです。最初は流通業における企業間の取り組みからスタートし、製造業にもその概念が波及します。そしてSCMとともに、個別最適 vs. 全体最適、といった問題意識が出てくるのです。

「へえ。全体最適とか、昔からある議論かと思ってました。」

--80年代後半はちょうど、計算機が汎用機からPCへとシフトし、かつ計算能力も通信速度も、飛躍的に伸びていく時期でした。そこでサプライチェーン・マネジメントを実現するために、ITを利用した、新しい発想による技術が生まれます。それが、Advanced Planning & Scheduling = APSでした。APSは、MRPの難点であった負荷計画問題を克服し、最適な生産スケジューリングを可能にしたのです。そして90年代には、実用の時代に入ります。
関税が政治に頼る解決だとしたら、こちらは論理とITに頼る生産マネジメントの改革法です。

「マネジメントのIT化、ですか。うーん」

--同時期にもう一つ、米国では重要なマネジメント理論が現れます。イスラエル出身の物理学者ゴールドラットが、制約理論(Theory of Constraints = TOC)を提案するのです。彼は最初、OPTというAPSソフトウェアを開発していたのですが、ソフトよりも生産マネジメントの考え方の変革の方が重要だと考え、’84年に『ザ・ゴール』という、ベストセラーになったビジネス小説を書きます。これがSCMの概念とマッチして、90年代には生産マネジメントの世界に多大な影響を及ぼしました。TOC理論は、MRP IIなどの持っていた、計画偏重・中央管理のやり方とは一線を画す思想から生まれ、それがSCMにマッチしたのです。ポイントは何だったと思いますか?

「え、何だろう。現場の自主性を尊重するんですか?」
「私、TOCのクリティカル・チェーンという、プロジェクト管理の方法を聞いたことがあります。現場尊重っていうより、なんか、バッファー・マネジメントとかって話だったような気がします」

--そうです。TOC理論では、現場にはいろいろな変動要因があり、計画通りになかなか進まない、という認識がベースにあるのです。生産マネジメントでは、DBRとかDBMといった方法論が提案されます。これらは、工場にある「ボトルネック工程」へのコントロールに集中して、工場全体のスループットを最大化しよう、との発想が中心にあります。複数のサプライヤーをまたぐSCMでは、こうした変動への対処が、さらに重要になるのです。
 でも、日本の製造業は、こうした新しいマネジメント手法には、馬耳東風だった・・。

「え?」

--アメリカから日本に、MRP IIやSCMなどの考え方が紹介されるのは、じつは10年近く遅れたのです。わたしは’98年に、仲間と共著で『サプライ・チェーン・マネジメントがわかる本』を出版しました。この中でAPSやTOC理論の紹介もしたのですが、これは日本語で書かれた入門書としては、かなり早いものでした。なぜ、そんなに情報が遅れたのだと思いますか?

「わかりません。いつもアメリカの情報はすぐ入ってくるのにな。」
「バブル崩壊と関係があるんじゃないですか?」

--バブル崩壊よりも、バブル経済それ自体に関係があります。つまり、’80年代の半ばから’90年代の前半まで、日本人は鼻高々の絶頂期にあった。日本型経営、日本のものづくり、これは世界最高である、と。「もうアメリカに学ぶものはない」--そういう標語さえ、世間を闊歩していたのですよ。

「嘘みたい・・」

--この時期を、わたしは「生産マネジメントの失われた10年間」だと考えています。90年代、バブル崩壊で日本の製造業は、困難に直面します。工場も海外移転し、サプライチェーンが長くなってしまった。でも、日本の生産現場や、経営それ自体の考え方に、ITの重要性がすこしずつ認識されるようになるのは、ようやく2000年代に入ってからでしょう。

「それって、IT開発プロジェクトの世界も、似ているのかもしれません。米国でPMBOK Guideが初めて出たのは90年代前半とききました。でも、日本のIT業界が、PMに真剣に取り組みはじめるのは、2000年代の半ば頃からだったそうです。」

--たしかにね。90年代中頃までは、半導体もPCも、日本の計算機メーカーが世界市場を制覇していました。日本のIT技術は世界一である、とメーカーが思っていたとしても、不思議はありません。

「それってハード製造の分野だけの話で、ソフトウェアが弱いのは昔からなんですけれど。」

--そうですか。まあ、ともあれ、21世紀に入っても、日本からは新しい生産マネジメント思想が生まれません。「現場力」が大事で、職人的な技を磨く「ものづくり」が企業を支える、みたいな考えが強く、あとはヒットする新製品をどう生み出すかが、話題の中心になりました。トヨタは相変わらず強いので、トヨタ生産方式の表面的な真似をする人たちは、たくさん出ましたが、最初に申し上げたように、生産形態も需要特性も違うところに、技法だけ持ち込んだって活きないのです。

「2000年代に、欧米から新しい考えはでてきたのですか?」

--いい質問ですね。二つあげましょうか。米国の「工場物理学」と、ドイツの「Industry 4.0」です。米国では、MRP II・APS・SCMといったメインの流れに沿って、大学にも生産マネジメント学を教育する学科があります。その中からW・ホップという学者が、Factory Physics(工場物理学)という考え方を提唱します。これは待ち行列理論を出発点として、工場内のモノの滞留現象を解析し、リードタイム短縮をねらうとともに、より効率性の高い生産ラインを設計しようという考え方です。これまでの生産マネジメント思想は、すでにある工場を、どう効率よく運用するか、という問題意識でしたが、こちらは一歩踏み込んで、より効率的な工場の生産ライン設計にまで踏み込んでいきます。

「それと、例のインダストリー4.0、ですか?」

--そうです。これは2013年に、ドイツの科学アカデミーが国策として提唱した概念です。最初はかなり抽象的でしたが、だんだんと具体的な技術論に発展してきました。こちらは世界でも高賃金で労働時間の短いドイツが、それを維持しながら国内製造業の競争力をどう向上すべきか、という問題意識が底流にあります。賃金の安い国に工場を移転すればいい、という風には彼らは考えません。かわりに、彼らは市場の要求にきめ細かく対応できるような生産マネジメント能力を作る必要がある、とします。このための手段として、スマート機械とスマート製品の二本立てで、フレキシブルなバリューチェーンを構築すべきだ、と構想します。

「バリューチェーンって、サプライチェーンと違うものですか?」

--バリューチェーンは本来、同一企業内の価値連鎖を指す経営学の言葉ですが、Industry 4.0では複数企業間をまたがるようなケースも想定しています。製品の個別仕様ごとに、違った経路を部品が渡り歩く、というイメージです。ドイツも自動車産業の国なので、量産型機械のイメージが強いのですが、単なる大量ロット生産ではなく、顧客の個別の要求にあわせた製品を作る必要があります。これを、「マス・カスタマイゼーション」といいます。

「日本では、当たり前に実現していることじゃないですか!」

--ですが、それは下請け部品メーカー達の、相当な努力と犠牲で成り立っていることを、忘れてはいけません。それと、機械加工系の工場では、従来、各工程の進捗をつかむのが大変でした。工作機械は皆、スタンドアローンで動いているからです。生産スケジュールをどんなに精密に立案しても、現実の進捗をちゃんとフィードバックしてあげないと、工程表はすぐ絵に描いた餅になります。日本はこれを、現場の職長達の判断でフォローしています。
 ドイツは、IoTなどの技術を使って機械をよりスマート化し、リアルタイムに状態を把握できる仕組みをつくればいい、と考えました。また、CAD/CAMの設計データを、工作機械に直結して流せるよう、あらゆる機械のインタフェースを標準化できる「管理シェル」を作っています。こうしてERPから現場の機械までを垂直統合する「スマート工場」が生まれます。

「あの、スマート工場というのは、何となく分かる気がするんですが、スマート製品って何ですか?」

--部品や製品自体に、たとえばチップか何かが載っていて、自分が何か、今どこにいるか、次にどこに行くべきかを、自分で判断できるような仕組みをつけたものです。組立加工系の工場の悩みは、モノの場所探しにあります。それを、複数企業からなるサプライチェーンの中でも、行き先不明にならないよう、スマート化しようという訳です。さらに顧客の手に渡っても、どのような使い方をされているかを逐一、記録し報告することで、さらなるサービス価値を生み出せる,という訳です。

「それだって、コマツの建機などはもう実現していますよ!」

--製品的には、おっしゃる通りです。日本企業は個別には、Industry 4.0の目指すところを実現している例があります。ですが、システム化とか標準化になると、突然弱くなる。特定個人や企業の強みが、日本全体の強みに共有されません。なぜだか、分かりますか?

「え! ・・産業界にリーダーシップが足りないから、ですかね。」

--ほお。トヨタさんにも、リーダーシップが足りない、と?

「それは違うような気がします。・・でも、分かりません。」

--わたしの答えを言いましょうか。マネジメントに関する科学的・体系的思考が弱いからです。科学として考えないから、技術として定着できない。体系的でないから、個別事例で終わってしまう。あるいは、もっと皆さんに分かりやすい用語を使うと、「システム思考が弱い」になるかもしれません。マネジメントの問題を、リーダーや現場の「人間力」のレベルだけで説明する考え方など、その典型です。

「でも、人間力のどこがいけないのですか?」

--じゃあ皆さんは、デスマーチに陥ってしまったITプロジェクトの問題を、プロマネ個人の人間力不足として、人事評定されたら満足ですか? そうじゃないからこそ、こうやってわざわざ生産マネジメントについて、勉強しにいらしたのでしょう?

「それはそうですが。でも、そうしたら私たちは、この表にあるいろいろな考え方の、どれを学べばいいのでしょうか?」

--どれかを学べば、それがすぐ皆さんの役に立つとは考えない方が良いです。というのも、マネジメントの手法というのは、それぞれ、その時点で直面していた課題を解決するべく、開発されたものだからです。(わたしはボードの表に欄を書き加えて説明した)
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--フォード・システムは連続大量生産の実現が課題でした。それができるようになったら、次は多品種での大ロット生産の在庫適正化のために、MRPが生まれます。他方、より少量生産で、かつ多品種混流でのコストダウンのために、トヨタ生産方式が工夫されます。TQCは品質向上と現場のモチベーションアップが課題でした。
 リーン・シックス・シグマは同じく在庫最小化と改善活動を、米国の企業文化の中で実現することがねらいです。APSはMRP IIの生産計画をより現実的なものとし、SCMを可能にしようとしました。TOCはスループットの最大化と変動へのフレキシブルな対応が、問題意識の中心でした。工場物理学はリードタイム短縮と工程設計論を目指し、インダストリー4.0は先進国の製造業における生産システムの将来形を構想し、マス・カスタマイゼーション実現をターゲットとしています。
 こういう風に、マネジメントの方式は、それぞれ課題意識があって生まれているのです。世の中には今のところ、完全無欠な生産マネジメント手法はありません。それぞれ、何を主要なねらいとするかによって、とるべき手段がかわるのです。

「じゃあ、私たちがトヨタ生産方式に学べるところは、ないのでしょうか?」

--多くの日本企業がトヨタに学ぶべきところは、生産と販売が同じ計画で動くことを徹底している点です。彼らは月度計画と呼びますが、とにかく、実行可能な計画を立てて、それを生産側も販売側もきちんと守る点が、あの会社の最大の強みなのです。つまり、トヨタのやり方は、実は「トヨタ生産販売方式」と呼ぶべきだと、わたしは思っています。ところが、多くの企業では、生産と販売の両輪がかみ合っていない。とくに多くの企業では、販売側が弱い。

「僕の会社では、営業の方が強いですけど。」
「IT系企業を見ると、たいていそうですね。お客様の会社でも、営業の方が強いところが多いです。」

--わたしが言っているのは、社内の発言力の強さのことではありません。計画を立てて、その通り実行できる能力のことです。計画なのか精神目標なのか分からない数字を立てて、そこからズレたら全部、製造側に変動を押しつけるようなやり方は、能力が高いとはいいません。生産と販売が共同で立てる計画のことを、英語ではSales & Operation Plan = S&OPと呼びます。この概念は、MRP IIの中で80年代に生まれたものです。皆さんの会社にS&OPと言える計画はありますか?

「・・ないと思います。」
「しいて言えば、半期の予算計画かなあ。あれも当てにならないけど」

--ITは分かりませんが、製造業では最低でも月サイクルで回していかなければ、S&OPとは言えません。ここがブレると、まずリソースに余計な負荷がかかります。調達にも影響が出て、サプライヤーをこまらせることになります。納期も延びコストも上がるでしょう。

「IT分野でも、人ごとには聞こえません・・」

--さらに物販の場合は、製品在庫が過大になったり欠品したりします。これらは全部、製造と販売がリンクしないために起こります。それを避けたければ、リソースに無理やムラが生じないように、営業側も販売努力しなければならない。

「ですが、営業部門の事なんて、私たちの手に余ります。技術の側で、学ぶところはありませんか?」

--ありますよ。仕事=作業+改善、というのも、トヨタの考え方です。改善におけるPDCAサイクルの概念は、TQC以来、広く普及しています。ですが、業務に必要な作業をしているだけでは、仕事をしたとみなさない、というトヨタの徹底ぶりは学ぶべきです。

「受注したプロジェクトのために、設計や実装作業をしているだけでは、たとえそれが新しい技術要素を含んでいても、改善とはいえない、ということですか? 厳しいですね。」
「でも、自分から新しい方式にチャレンジすることだって、やっていますよ!」

--標準なくして改善なし、というのも、トヨタの標語です。だから先ほど皆さんに、改善活動による効果についてご質問したのです。バグ数でもいい。生産性指標でもいい。何か、これが標準、と定めた上で、その標準をどうやって持ち上げていくかを考えるのが、改善の姿です。
 いや、この考え方は何もトヨタにはじまったものではありません。もっとずっと前、フォードとほぼ同時代に、米国で初めて「科学的管理法」という概念を打ち出し、近代経営学の基礎を作ったテイラーも、それを実践しました。彼の方法論を受け継いだInustrial Engineerng = IEの人たちも、同様です。

「でも、ITの仕事は、工場の労働者とは本質的に違います。繰返し性が少ないんです。」

--プロジェクトはすべて個別だから、比べられない、と皆さんはおっしゃる。たしかに表面的にはその通りです。ですが、その違いの下にある共通プロセスを明らかにして、そこに科学の光をあててこそ、マネジメントが技術となるのではないでしょうか?
 仕事のパフォーマンスを測定し、数値化し、原因を分析して、工夫を加える。これがマネジメントに関する科学的・体系的思考の姿です。それを全部、リーダーや経営者の人間力のせいにしていたら、何の進歩もなくなってしまいます。皆さんがもし、エンジニアとしての自負をお持ちなら、ぜひ、仕事を科学する意識をもっていただきたいのです。


<関連エントリ>
→「生産マネジメント手法の系譜を考える (1)」 https://brevis.exblog.jp/27426439/ (2018-07-23)
 →「生産マネジメント手法の系譜を考える(2) 日本型生産思想のあり方」 https://brevis.exblog.jp/27462519/ (2018-08-02)

# by Tomoichi_Sato | 2018-08-11 23:24 | サプライチェーン | Comments(0)

生産マネジメント手法の系譜を考える(2) 日本型生産思想のあり方

「’73年の石油ショックについては聞いたことがあります。石油の値段が急に上がったんですよね。」

--そうです。それまで中東アラブ諸国の原油生産は、事実上、欧米の石油メジャーが支配しており、バーレル$3の超安値で、原油を欧米に輸出していました。しかしイスラエルとの中東戦争に端を発し、ナショナリズムに目覚めた各国が団結し、輸出を止めると脅したので、原油価格は$10以上にはね上がったのです。それが、アメリカの製造業にどう影響を与えたと思いますか?

「エネルギー価格が上がって、製造原価が高くなったんじゃないでしょうか。」

--たしかに、それもあります。でも、一番影響を受けたのは、消費者の側でした。米国の自動車市場で、それまで常識だった、安いガソリンを湯水のごとく消費する、大型のアメ車に頼ったライフスタイルが、ピンチに瀕しました。消費者はやむを得ず、燃費の良い中小型車に目を向けることになります。その市場に入り込んできたのが日本車でした。そして、またたく間にシェアを伸ばしていった。

「高性能・高品質な日本車が、米国市場を席巻したんですね!」

--いや、それは現代から振り返って考える人の錯覚です。’70年代の前半まで、日本製品は、「安かろう悪かろう」の代名詞でした。そして当時の米国への最大の輸出商品は、衣料品と雑貨です。今日のメード・イン・チャイナが持っているイメージと同じですね。

「そんな馬鹿な!」

--信じにくいでしょうけれども。まあ、その時代のことを覚えている人は、もう現役引退の世代ですからね。Deep Purpleという英国の人気ロックバンドが、’72年に日本公演のライブ盤を二枚組LPで出したとき、原題は”Made in Japan”でした。皮肉なタイトルだったのです。日本車も、当時はそういう目で見られていました。そして事実、安かった。まだ固定相場制度で、1ドル360円の時代でしたから。こうして、日本車は米国市場のスキマに侵入し、少しずつ地歩を固めていくのです。

「それで、どうなるんですか?」

--70年代は、アメリカが自信喪失に陥っていく時期でした。石油ショックの後、’75年にはベトナム戦争に最終的に敗北します。アジアの小国ベトナムが、超大国アメリカに史上初めて勝利し、自国から追い出すのです。’70年代は米国の製造業が企業買収で多角化したり、工場を労賃の安い中米に移転したりする動きが、目立ちはじめた時期でした。70年代はまた、あるサービス業種がのびた時期でもありました。何だと思いますか?

「さあ・・鉄道か通信業でしょうか。」

--経営コンサルタントという業種です。彼らの主要な仕事は、経営者にかわって首切りリストラと、コストカット計画を立案することでした。工場の主要問題は立地で、生産管理やMRPではなくなってしまいました。そしてこの時期、日本に対して怒っていた米国人も多かった。皆さんは知らないでしょうが、ハンマーで日本製品を打ち壊すパフォーマンスを、TVカメラの前で議員がやったりしました。彼らの多くは、日本は不公正に安い通貨レートで輸出しているし、何より日本国内の安価な労働力を酷使して、大量に製品を作っているから価格競争力があるんだ、と本気で信じていました。

「なんだか、今、世間の経営者の人たちが、中国製造業に対して抱くイメージと、よく似ていますね。」

--いいポイントです。歴史の皮肉ですね。ただ、日本の製造業が実際に考えて、取り組んでいたやり方は、すいぶん違っていました。自動車産業で言えば、トヨタは’70年頃から、独自の生産方式を築き上げてきました。その発想の原点はきわめてはっきりしている。それは、「トヨタの会社の規模では、フォードやGMみたいに大量生産で安く作ることはできない」でした。

「え? トヨタの規模じゃ小さすぎる、ということですか?」

--そうです。フォードやGMは生産台数が非常に多く、生産ラインを単一車種専用にできました。ラインは同じモノを繰り返して作るわけですから、きわめて生産効率が高い。しかし、当時のトヨタの規模では、一つの生産ラインに複数の異なる製品を流さざるを得ません。小ロット生産の中で、いかに安く効率よくモノを作るか。これがトヨタ生産方式を引っ張った、大野耐一という人の問題意識の原点なのです。

「その答えがカンバン方式ですか!」

--いえ。かんばん方式はツールの一つでしかありません。トヨタ生産方式については、どうも「群盲象を撫でる」的な誤解が多いのです。が、根幹にあるのは、生産と販売が同じ一つの計画で動くこと、その中で徹底した平準化を行うことです。月度計画で、まず大きな線を引く。細かな変動は、かんばん方式などで調整・同期化する。だからかんばんは従であり、ツールなのです。

「・・トヨタって、計画生産だったんですね。」

--そうです。生産と販売がバラバラの計画で動いていたら、良いことはない。80年台前半には、別会社だったトヨタ自工とトヨタ自販が合併します。一体化を進めることも、目的の一つだったんじゃないでしょうか。そもそも営業部門が、製造現場の事情など無視して、勝手に仕事をとってきたらどうなると思いますか?

「ウチの会社なんか、営業がムリな納期や値段で仕事を取ってきて、あとはプロマネに押し付けています・・。」

--工場の生産は、一定のペースで進めるのが一番効率が良い。多品種であっても、月度の中で均等に作っていく。これがトヨタの平準化で、販売もこれを意識するのです。「ムラがあるから、ムリをする。ムリをするから、ムダが出る」という標語があるくらいです。そのために小ロットでも、切り替え時間を短く工夫する。自働化といって、不良が出たら機械が自分で止まるようにする。こういった現場の工夫と改善を引き出すため、あえて中央管理による指示の形を避けるのです。皆さんの職場では、改善はどのように位置付けられていますか?

「ぼくらITの世界では、技術進歩が激しいので、日々、開発のやり方を改善して、生産性を上げる工夫を重ねています。」

--そうですか。それは、すばらしい。それで、過去10年間で、御社では何%くらい生産性がアップしたのですか?

「いや、僕らのは考えるタイプの仕事ですから、生産性は簡単に数字では表せません。」

--なるほど。では品質はどうですか? 品質の改善効果なら、バグの数などで係数化できるでしょう。

「それは、計量化できなくはないですが、開発環境自体が進化していますからね。比較は難しいんです。」
「あの、システム開発は個別設計ですから、量産品のように効果測定はできませんので。」

--なるほど、なるほど。それでも皆さんは、仕事を改善したいという熱意を持って、こうして勉強会をされているんでしたね。すばらしい。日本の現場は、皆さんのような優秀かつ士気の高い人たちが支えているのだと、よく感じますよ。工場に行っても、そうです。
統計的品質管理の手法は、もともと米国から輸入したもので、デミング博士などが指導者として有名です。デミング・サイクルという言葉はご存知ですか?

「たしか、PDCAサイクルのことですね。」

--その通りです。マネジメントとは、PDCAサイクルを回し、改善を積み上げていくこと、との認識が日本の製造業に定着しました。さらには、この品質管理による改善を、職場の小集団活動に結びつけて、TQC (Total Quality Control) という独自の手法に発展させました。「品質は工程で作り込む」。つまり、品質は検査係の仕事ではなく、製造に携わる全員の責任と考えられました。

「まあ、たしかにバグはテスターの責任ではないですね。」

--また小集団による改善活動には、現場の人材育成とモチベーション維持という意義もあります。部門ごとに目標KPIを決め、自分で考えて仕事を改善していく訳です。MRP的な集中管理の排除、品質重視、現場の自主性尊重と責任移譲。これは80年代を通じて、日本の生産管理に広く見られた考え方です。日米を比較すると、こんな感じです:

米国:中央集権。計画重視。現場の人間はただ、マニュアルと命令に従うだけ。
日本:分権的。実行重視でフレキシブル。現場の裁量と自主的改善活動にまかせる。

--こうした比較から、日本型経営は人間重視だと自賛する声も、よく聞きました。ただ、こうした特徴には、裏の面もあります。何だと思いますか?

「うーん、こうして比較を見ると、やはり日本の方がずっと優れているように見えますが。」
「ええと、日本型は、現場に優秀な労働者が揃っているから可能だ、という面はないでしょうか。移民社会の米国では、文字も読めない人が案外いると聞いたことがあります。」

--そうですね。日本型の生産管理は、たしかに分権的ですが、現場の優秀さに依存している面があります。現場の人の会社へのロイヤリティ(忠誠心)は、ある程度、終身雇用制に裏付けられていました。米国の北部、デトロイトあたりの工業は、もともと奴隷解放で南部から大量に来た黒人労働者で成り立った時期がありましたが、彼らに会社への忠誠心は希薄です。改善しても会社が儲けるだけで、自分たちの給料に反映されないなら、誰が進んでわざわざ時間外に改善活動などするでしょうか。
それと、分権的であることにマイナス面はないでしょうか?

「中央集権より、良いと思いますが。」
「リーダーシップが、弱いと思います。」

--リーダーシップは、なぜ必要なのですか? あるいは、こう聞きましょうか。リーダーシップを必要とされるのは、どんな時ですか?

「そりゃ、無いより、ある方が良いに決まっているじゃないですか!」

--あなたは、電車の運転士や、航空機のパイロットに、リーダーシップを期待しますか? ジャンボジェットの席に座ったら、アナウンスが流れたと想像してみましょう。「皆様、ご安心ください。当機の機長は、強いリーダーシップを持っております。どんな変化や苦境も見事乗り越えて進むことができます…

「(笑って)それは、いやですね。席を立って逃げたくなります。」
「そうすると、リーダーシップって、変化が大きくピンチの時に必要なんですね。」

--その通りです。それだけではありません。分権的で現場任せの組織は、意思決定が縦割りで、皆が部門単位の利害を求める、いわゆる『局所最適』マインドになりがちです。この、局所最適・全体最適という言葉自体、米国で、90年代ごろからポピュラーになってきます。それは、ある重要な概念が米国で生まれて来たからです。

(この項つづく)



<関連エントリ>
→「生産マネジメント手法の系譜を考える (1)」 https://brevis.exblog.jp/27426439/ (2018-07-23)


# by Tomoichi_Sato | 2018-08-02 22:32 | サプライチェーン | Comments(1)

生産マネジメント手法の系譜を考える(1)

「佐藤さん、お忙しいところ、時間を取っていただき、ありがとうございます。突然お邪魔して恐縮です。」

--別にいいですよ。それより、何のお話しをすればいいんですか?

「ぼくら、生産管理について、少し勉強したいと思っています。ただ、どこから手をつけていいか、よく分からなくて。教科書もあるような、ないような、Amazonとかで探せば、山のように候補は出てくるんですが、どれが良いのか迷ってしまいます。また逆に、自分たちの社内にはあまりそういう資料はなくて。」

--なるほど、生産管理の勉強ですか。皆さんは受託開発のシステム・インテグレーターにお勤めですね。すると、製造業向けのシステム開発に取り組まれるんですか。生産の実務を知っているITエンジニアは少ないので、勉強されるのはいいことですね。

「いえ、少し違うんです、佐藤さん。たしかにぼく自身は今、製造業向けの仕事をしていますが、業務分野は会計システムですし、他のメンバーも、製造業はあまり経験がないんです。ぼくらの勉強会は、しばらくプロジェクト・マネジメントについて勉強してきました。ご存知でしょうが、ITプロジェクトはいろんな問題があって、ひどい赤字が出ることもあります。それで、議論しているうちに、ほんとは製造業の方がずっと上手なマネジメントをしているんじゃないか、って話になって。」
「あのお、たとえば、『トヨタ生産方式』とか、よく聞きますよね。ああいうのを導入したらいいんじゃないかと、私なんか思ったんです。それで、まず生産管理の基本的なところを勉強しよう、となりまして。だったら、佐藤さんがお詳しいらしいので、教えていただこう、と。」

--ははあ。そういう事ですか。ただ、どうかな。IT系のプロジェクト・マネジメントに改善余地があるのは同感だけれど、“製造業の方が管理は上”とか、“トヨタのやり方を導入すれば解決”、とかって意見は、必ずしも賛成できないなあ。

「そうなんですか?」

--うん。そう思い込む人は、よくいますけどね。マネジメントというのは、対象とする組織なり仕組みがどういうもので、何を主眼にして動かすのかによって、全然異なってきます。プロジェクトというのはそれぞれが個別の、一度きりのもので、チーム組織もその場限りの時限的なものですよね。そしてプロジェクト・マネジメントの主眼は、プロジェクトの価値をどう最大化するかにあります。

「はい。」

--ところが、生産マネジメントが対象とするのは、ふつう『工場』と呼ばれるパーマネントな仕組みで、その中を複数の案件・オーダーが動いています。いわば、多数のマルチ・プロジェクトが走っている状態です。おまけに働く人数や機械の数も制限がある。その多数のオーダー間を調整して、リードタイムや在庫や生産性や品質など、互いにトレードオフのある目標値をなんとか合わせようと苦心する訳です。おまけに次々に追加受注や変更が入ってくる、動的な環境です。つまり、動的な適応制御のようなものですね。
 たとえて言えば、プロジェクト・マネジメントは月ロケットの操縦で、方や生産マネジメントは混雑する空港の管制塔みたいなもの、といえるかな。ずいぶん違うでしょう?

「でも、トヨタさんはあれだけ利益を上げているじゃないですか。それにひきかえ、弊社では・・」

--いやいや、ちょっと待ってください。トヨタにはプリウスをはじめとするハイブリッド車などの、新製品開発もあります。製品開発は収益力の重要な柱です。ところがSIビジネスは基本、受注産業でしょう? 林檎とオレンジを比べて、林檎はオレンジに学ぶべきだ、といっても役には立たないですよ。

「じゃあ、どうしたらいいですか?」

--まず、オレンジはオレンジで、どんな種類があるのか、どう進化してきたのかを知りましょう。つまり、生産マネジメントの方法論には何があり、それらは製造業において、どう発展してきたのか。多少、遠回りに思えるかも知れないけど、その方が学ぶ価値があると思いますよ。

「生産管理の考え方って、そんなに種類があるんですか?」

--もちろん、あります。(わたしはホワイトボードに、簡単な表を書いた)ええと、ざっくりいって、7〜8種類くらいあるかな。まあ数え方にもよりますが。

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「最初がフォード・システムですか。」

--うん。そうです。ものづくりの歴史は何千年もあるけれど、非常に複雑な機械製品を大量に生産する必要が出てきたのは、20世紀の自動車工業からです。課題は同じものの大量生産。もう、ここからして皆さんのITプロジェクトと違うでしょ?

「・・そうですね」

--それを解決するために、ヘンリー・フォードという人は、組立中の自動車をコンベヤで一定速度で動かし、順番に部品を組み付ける方法を考えた。そのために、作業を徹底的に分業化し、またタクトタイムという概念で標準化しました。おかげで労働は単純化し、負担も増えたが、フォードは労働者の賃金を上げることで報いた事も、公平のために言っておきましょう。

「へえ、単にブラックだったわけじゃないんだ。」

--そのおかげで、都市近郊に、自動車を買える勤労所得層が生まれ、ますます自動車市場は拡大しました。そこまで考えていたんだと思いますよ。それまでの自動車は、特注の個別受注生産でした。今の業務系ITシステムみたいでしょ?

「ですね。すると、T型フォードはパッケージソフトか。」

--さて、時代は下って1960年代。この頃までに製造業は発展し、次第に製品が増え、多品種化していきます。ところでフォード以来、部品工場はロット生産でした。そもそも米国の製造業は、自社の決めた標準仕様品を大量生産することで、価格を下げる方針が強い。『1ダースなら安くなる』という評語の通りです。ところが多品種化が進むと、工場内のあちこちで、やたらと部品在庫が増えるようになった。需要を読み間違えると、みんな不良在庫化して除却損になります。そこで、必要なモノを、必要なタイミングで、適正量だけ作るような生産計画が求められたのです。

「あ、それが、有名なジャスト・イン・タイム生産ですねっ!」

--いや、そう急がないでください。必要なモノを必要な時に必要な量だけ作るなら、ジャスト・イン・タイムですが、『適正量』作ると申し上げたでしょう? 経済的ロットサイズという概念があって、ある程度の数をまとめて加工した方が安くなる、というのが米国式の考えです。そこで、構造型部品表というマスタ・データをつかって、製品の需要を工程別に展開し、標準リードタイム分だけ差し引いて着手タイミングを決める手法が考えられました。これがMRP (Material Requirement Planning)です。
 MRPは、史上初めてコンピュータを生産管理のために応用した手法です。開発の中心となったのはIBM。

「さすがはIBM、か。」

--ですね。ただ、MRPには弱点もいくつかありました。代表例は、計算時間がかかること。1回の計算が夜間バッチで一晩かかる、というケースは珍しくありませんでした。

「そりゃひどい。そんなに計算量が多いんですか」

--まあ60年代ですから。当時の汎用コンピュータの、能力の限界ですね。それに、計画立案はいいけれど、現実からのフィードバック・ループが弱いこと。つまり何らかのトラブルなどで計画通り現実が動かなくなったとき、リカバーがけっこう難しいのです。
 そして、製造機械の能力や労働者の人数の上限を、考慮できないこと。これを専門用語で『無限負荷計画』と呼びます。だから、実行できない計画もできてしまう。

「それじゃ、計画立案の手法として落第じゃないですか?」

--ただね、当時も今も、米国では工場を作るとき、将来の需要増を見越して、最初からかなり過剰投資気味に作ることが多いんですよ。だから、工場は生産能力が余っているのが普通でした。したがって、標準リードタイムを多少長めに設定すれば、実際には何とかなったのです。
 MRP登場以前は、その余っていた機械能力を使って、沢山の品種の部品を、大ロットでがんがん作るもんだから、あちこちに中間在庫の山ができていた。MRPは製造のタイミングを、真に必要な時からリードタイム分だけ前倒して、指示を出すわけですから、、少なくともその問題は解消されました。
 しかし、70年代に入ると、予想もつかぬ出来事が起きて、アメリカの製造業を大きく揺るがします。

「いったい何ですか?」

--’73年の、石油ショックですよ。

(この項続く)


# by Tomoichi_Sato | 2018-07-23 22:56 | サプライチェーン | Comments(0)

どうどう巡りの議論を避けるために

1.「どうどう巡りの議論」、その症状と原因
前回は、ビジネス上の『議論』の価値について,少し考えてみた(「議論の品質を問う」 https://brevis.exblog.jp/27375732/2018-07-04)。ところで、わたし達が仕事において行う議論は、しばしば、どうどう巡りに陥る傾向があるように思われる。これが、ビジネスにおける議論や会議を、「時間のムダだ」と感じる原因の一つなのだろう。具体的に、どんなことが起きやすいか、考えてみよう。

やっぱり、××なんじゃないの?」−−たとえば、これがよくある症状の一つである。あるテーマが議題にあがる。「○○という課題があるが、××かもしれないな」という風にはじまる。そして皆で、さんざん議論する。そのあげく、派生して出てきたいろいろな意見は結局、全部否定され、最初の××という意見へ回帰してしまう。じゃ、あの議論は何だったんだ? と大方の人間は感じる。

ここには、××という意見に対する、客観的な検証の働きがない。そもそも、たいていの意見は、予想や推定や憶測の部分を含み、『仮説』である。仮説である以上、検証が必要だ。だが、××がその組織で長年、共有されてきた指針に近ければ近いほど、検証しようとする働きがききにくくなってしまう。これが、どうどう巡りの議論を生む、よくあるパターンの一つだ。

それは認められないな」−−これもまた、よくある議論のデッドロックの一つである。複数の部門から人が集まって、議論をする。大方の参加者は、△△が良い結論だろう、と考える。ところが、ある参加者だけが、その結論を拒否する。△△という方策が、その参加者の属する部門の協力を必要とする場合、そこで話は全てとまってしまう。

このような症状は、参加者が自分の立場に固執するために起きる。その人自体が頑固者、というよりは、かれが部門の利益代表で、代案を持ち帰ると拒絶される恐れがあるから、ノーというのだ。冷戦時代の旧ソ連の国連代表は、「ミスター・ニェット」と陰で呼ばれていた(「ニェット」はロシア語でNoという意味らしい)。理事会にどんな提案をしても、彼の拒否権で否決されてしまう。だが彼は会議の場で少しでも妥協して帰ると、母体組織からつまはじきにされてしまう。このように、議論の参加者が皆、所属部門の利益代表としてふるまうようだと、議論は前に進まず、どうどう巡りにおちいりやすい。

また同じ議題ですか」−−これもよくある症状だろう。たしか似たような話を、2ヶ月前にも話し合ったはずじゃないか。そりゃあ、あのときは関西営業部の問題で、今度は東北工場のことかもしれない。でも、同じような問題が、あちらでもこちらでも繰り返される。毎回、対応策を議論して考える。そしてなんとか火を消し止める。だが少したつと、また煙がどこやらから立ち上りはじめる。

つまり、組織が過去の経験から学ばず、教訓(Lessons Learned = LL)が生かされないのである。少し真面目な組織なら、問題報告と始末書は一応、ドキュメント化されて、部長の判子もついて、どこかにファイルされているかもしれない。だが、それを他の部署の人は読まない。存在も知らない。同じ部署でさえ、探していなかったりする。あるいは沢山ありすぎて、読む気にならないのかも知れない。理由が何であれ、似たような問題を毎回議論していると、何のための議論だ、という気になってくる。

もう少し状況の変化を待とう」−−これは、あれこれ議論した後で、何も決めずに話を終えるパターンだ。じゃあ次回の会合で決めるのかというと、やはり「もう少し待とう」ということになる。決断の先延ばしである。

このように「待ち」の姿勢のまま、どうどう巡りする組織は、外部環境からの要請が無いと、自分からは変化できない、Event driven型の組織だと思える。江戸幕府末期もそうだったかもしれぬ。黒船が来て、はじめて慌てる。来なければ、そのままだった。いろいろと体制に問題が生じているのは自覚しているのだが、惰性が強いのだ。あるいは、自分が目指すべきビジョンとか、主体的な成長への意思が、欠けているというべきか。ただ守りと組織の維持だけが、自己目的化しているのである。

いい案が出ないなあ」−−議論におけるアイデアの枯渇症状である。何度時間をかけて議論しても、ぱっとしたアイデアが出ない。世の中には『デザイン思考』をはじめ、アイデア出しのための技法はいろいろある。そういうのを学べばいいじゃないかと、はたの人間は思ったりする。それも一理あろう。しかし、どんな技法を持ってきても、あまりブレイクスルーの生じない議題もある。

それは、問題設定の在り方自体が良くないために起きるのだ。アイデアをだしたければ、「良い問い」を立てる必要がある。これについては、エイミー・ウェブという未来予測の専門家が、面白いことを言っている。(以下、週刊ダイヤモンド『未来予測に欠かせない「社会の片隅にあるシグナル」の探し方』 http://diamond.jp/articles/-/151780?page=4より引用)

“大手自動車メーカーで仕事をしたときに、彼らは「今後20年を見据え、未来の車がどうなるのか」ということを知りたがっていました。
 ですが、私は言いました。「その問いはよくありません」と。なぜなら、自動車会社は「車社会が残っている」「車を作って売らないといけない」という前提に立っていたからです。ここで、もしシグナルを拾いたいのであれば、問いの立て方を考え直さなければなりません。
 つまり、「今後20年、人やものの運び方がどう変わるのか」について考えなければならない。シグナルを見つけるには、よりよい問いを立てることが重要なのです。
 先の航空会社の例も同じです。「未来の飛行機がどうなるのか」ではない。「今よりもはるかに早く人々が移動する未来」を考えなければなりません。そう考えれば、自動車や飛行機に限らず、社会の隅々にある情報に目が向くはずです。”

(引用終わり)

このような、どうどう巡りの議論が生じる根本原因は、その組織が持つ「思考と行動習慣の体系」(=OS)にバグがあるためだ。だが、この話は論じると長くなるため、別の機会に譲ることとし、話を先に進めよう。


2.議論というものの性質

これは何度か書いていることだが、議論をカラ回りさせないために大切なことは、事実と意見を一応、区別することである。事実は誰もが合意でき、共有できる。そして事実は検証可能だ。だから事実に関する議論は、ふつう水掛け論にはならない。

ところが意見はしばしば食い違う。これは意見というものが、事実を基にしつつ、価値観を加えて、推測や分析や評価を行った結果として現れるからだ。2018年のワールドカップで、日本は準決勝まで進めなかった。これは事実で、反論する者はいない。ただ、その事実からどんな評価や原因分析をするかは、人によって意見が分かれる。つまり、

 事実+価値観=意見

なのである。価値観は人により様々なので、それでも議論で合意に達するためには、それらの違いをカバーできる「共通価値観」をさぐる必要がある。たとえば、「何のかんの言っても、日本のサッカーが世界の上位の常連に」とか、「この会社自体がツブれたら俺たち皆、元も子もないじゃないか」といった地点まで遡るのである。

その上で、事実や意見の組み合わせから、意味のある共通仮説が議論によって生まれてくる。その仮説はさらに、事実で検証・補強されなければいけない。「今はこれこれだと決めよう。だが今後もあのデータを取って、検証を続けよう」・・こういう風に進むのが、望ましい議論のあり方だ。

そして、議論を続けていくと、ようやく結論が成熟していく。この成熟度カーブは、たいていの人は、1番目の図のような形だと、漠然と思っている。つまり、最初はあまり議論がかみ合わないが、途中から次第に進み始める。そのうち、議論が煮詰まって、あまり先に進まなくなる。全体としては、ローマ字のSカーブのようになる、と。

しかし、議論の過程をよく観察していると、じつは成熟度のカーブは一度平坦になっても、さらにジャンプして新しい水準にあがることを、断続的に繰り返す場合がある。これは、議論している中で、新しい論点の発見があることに対応している。上に引用したように、「未来の自動車とは」の議論から、「モビリティの未来像とは」という風に、新しい地平がひらけるのだと考えられる。2番目の図のパターンだ
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そして、こういう新しい論点の発見は、やはり時間をかけて議論するからこそ、生まれるのだろう。最初からその論点を思いつけば良かったじゃないか、と、後から批評することはできる。だが、実際にはいろんな角度から論点を話し合い、煮詰まりを参加者が感じたからこそ、新しい地平に移るアイデアが生きてくるのだ。(ただし、無論ここに書いていることは数値的な裏付けがない、わたしの仮説である。だから、何らかの形で観察事実を蓄積して検証する必要があると思っている)。


3.どうどう巡りを避ける知恵

では、具体的に、議論を身のあるものにするためには、どうしたら良いのか。現時点でわたしが思いつく処方箋を、いくつかあげておこう。これらすべてを、わたしがいつも実践できているとは限らない。だから自戒も込めて、ここに書くのだが。
(1) 議論の完了条件を明確に決める
これは、そもそも会議とかミーティング開催の基本的ルールである。招集したチェアパーソンは、冒頭に、打合せの議題と、どうなったらこの会議を完了できるかを宣言する。つまりタスクの完了条件である。何かを決定するとか、事実を報告し共有するとか、何らかの担当者を選ぶとか。これなしで会議をスタートしたら、ゴールも定めぬまま船出するようなものである。

(2) 議論の経過を記録(見える化)する
打合せの書記役を決め、議論で出てきた意見を、ホワイトボードでもパソコンでもいいから、途中経過を含めて筆記する。これは多少のスキルを必要とするが、とても大事なプラクティスだ。これをすることで、どこまで何を議論したのかが見えるようになり、議論の後戻りを防ぐことができる。人間の記憶力など、かなりあてにならない道案内役であって、人はしばしばさっきの議論を忘れて、また同じ話をしたりする。どうどう巡りである。地図に進んだ道を記録しておけば、人は同じ場所を何度もめぐる愚をさけられる。

(3) 議論のモード(発見/発明/評価)を区別する
前回の記事に書いたように、議論とは、人間の思考を外出しにした形態の一種である。そして思考のモードには、発見(パターン認識)的な思考、発明(論理展開)的な思考、評価(価値判断)的な思考がある。現在の論点が、どのようなモードを必要としているのか、参加者が意識した方がいい。

(4) 主観的な形容詞・副詞を避ける
ときおり、会議の結論に、「プロジェクトのリスク・マネジメントをしっかりやっていく」「コストダウンを徹底する」みたいなのを見かける。しかし結論の文章から「しっかりと」「徹底的に」といった主観的な形容詞・副詞を抜き取ってみると、「プロジェクトのリスク・マネジメントをやる」「コストダウンをする」みたいな、変哲もない当たり前の事柄になってしまう。では「しっかり」「徹底的」とは、具体的にどのようなことなのか、今までのやり方とどこが違うのか? これを明確にしないと、何も議論しなかったのと同じになってしまう。

(5) 多義的であいまいな言葉は意味を確認するわたしのこのサイトでも繰り返し問題にしているが、「品質」「進捗」「責任」「文化」「リスク」など、皆が意味を分かっているつもりで、じつはかなり理解に幅のある用語が、世の中には沢山ある。こうした言葉は、まず意味を言葉で説明してから、使う方が賢い。拙著『世界を動かすプロジェクトマネジメントの教科書』で、大事なOS要素(S+3K)の一つに、「言葉を大切にしよう」というモットーを入れたのも、このような議論の空回りとすれ違いを防ぐためである。

4.議論に臨むときの基本的な態度

以上、議論におけるテクニック的なことをいくつか述べた。だが、本当は技巧をうんぬんする以前に、参加する人たちの態度・体勢を正す方が大切だ。すなわち、自分の正しさを証明するためでなく、合意を得るために議論する、という態度である。議論を勝ち負けの場にしてしまうと、創造性や柔軟性が失われてしまう。

その上で、議論をどこで打ち切るか、を決めていく必要がある。議論は大切だが、タイムリミットもおいた方が良い。ビジネス上の問題には、何らかのタイムリミットが通常、存在するからだ。全員が合意に至るのが理想である。だが、そうでない場合に、継続/打ち切りを決める基準が望ましいのだ。

参加者の中には、ふつう、打ち切りたがる人も、続けたがる人もいる。これは、その人自身の性格による部分もあろうが、むしろ、その人が議論の帰趨に対し、感情的に納得できているかにかかっている。そして、この「感情的な納得度」を、バカにしない方が良い。これが得られないまま議論を打ち切ると、同じ問題が繰り返される原因になる。つまり、最初に述べた「またその議題ですか」という状況になるのだ。

先ほど、議論の成熟度のカーブを模式的に描いたが、もしそこに感情的な納得度のカーブも描き加えるとすると、それは理屈の成熟よりも、ずっと遅れてくるパターンになっているだろう。これを強引に、早めの段階で打ち切ってしまうと、理屈ではわかった。でも、まだ感情的に納得できていない、という参加者を大勢生み出すことになる。

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そして人間は、理屈で分かっても、納得できていない事は、うまく実行できないのだ。たとえ形の上では結論にしたがって行動しても、無意識の中で、「この結論のおかげで失敗する事例が生まれないかな」と期待していたりする。そして、そういう時には、実際に失敗が起きやすいのだ。議論に時間が必要だというのは、このためでもある。

そして、最後に書き加えておこう。これまでずっと、人びとの間の議論について考えてきた。議論は、思考を外部化したものだ。だが、逆に表現すると、思考とは、ある意味、他者との議論を内部化したものである、とも言える。だから、考え事によって良い結論を生み出したければ、自己の中に、他者の視点をも取り入れる必要があるのだ。一面的に考えず、多角的に考える。そして、新しい論点の地平を見つけられる程度に、時間をかけて考える。深く考えるとは、そういう行為である。そのためには、良いコミュニティに属して、自己の中の他者の視点を深耕する必要があるのだろう。


<関連エントリ>
 →「議論の品質を問う」 https://brevis.exblog.jp/27375732/ (2018-07-04)



# by Tomoichi_Sato | 2018-07-14 23:45 | 考えるヒント | Comments(0)

議論の品質を問う

“It was a good discussion.”(「良い議論でした」)−−欧米人と打合せした後、たまに彼らがそう感想を述べることがある。”A good meeting”(良い会議)だった、と言うケースもあるが、どちらもほぼ同じ意味で、実りある話し合いができた、ということだ。交渉の場を、この一言で締めることもあるし、普通の打合せでも使う。彼らには、打合せの結論だけでなく、議論のプロセス自体に、良し悪しの尺度があるらしい。

しかし、日本人同士で話し合う場合、打合せの終わりに、こうした吟味や感想を述べあうことは、まず、ない。もちろん普段のミーティングだって、客観的に振り返ってみれば、実際には、良い打合せせもあれば、しょうもない会議もあるのだ。だが、わたし達の社会では、他社とであれ同じ社内であれ、『議論の品質』を問う習慣がない。

最近は、ホワイトカラーの生産性に関する論議が盛んだ。「働き方改革」のかけ声にも関係するのだろう。だとしたら、ホワイトカラーの労働時間の少なからぬ部分を占める、会議・ミーティング・打合せ、などの活動の品質を上げることも、必要である。もちろん、不要な会議やミーティング自体を減らすのは、大事だ。だが、他者との議論の時間はゼロにはならない。だとしたら、ミーティングで質の高い議論ができるためには、どのような条件がいるかを考えて損はない。

なお、ここで「議論」と呼んでいるのは、組織内や組織間で行う、ビジネス上の結論を求めて行う対話的協議のことである。居酒屋で世間の事件に感想を言いあうだけとか、恋人同士の口喧嘩だとか、敵対する集団に投げつけるヤジだとか、気に入らぬ記事に140字以内でぼろくそなコメントをつける、といった行為は「議論」の範疇には入らない。あくまで対面で、かつ、顔と名前が一致する範囲で行う、有意味な話し合いについて考えている。

ところで、議論の品質を考える前に、そもそも「品質」とは何かについて、問い直してみるのもムダではあるまい。というのも、通常の工場での製造品質や、現場での工事品質とは明らかに異なるからだ。統計的品質管理手法なども、そのまますぐ使えそうにはない。

以前も書いたように、品質とは、ユーザやステークホルダの無意識の期待に合致する程度のことである。「無意識の期待」とわざわざ書いたのは、理由がある。意識され明文化された期待とは、いいかえると「性能」「仕様」「要求」であって、品質評価の基準にはならないためだ。100W規格の電球が100Wで動作するのを見て、「品質が高い」という人はいない。もちろん、「100Wの電球は60Wの電球より品質が高い」などという人もいない。

ただし、製造工程の結果が、設計書で明文化された性能や仕様を満たすよう作ることは、誰もが当然のこととして(=無意識に)期待している。だから仕様通りでない製品は「品質が低い」訳だ。この種の品質基準を「後ろ向き品質」という。

これに対して、「前向き品質」とは、あまり明確で明文化された仕様が存在しない(=自由度の高い)状況で、結果が無意識の期待以上のパフォーマンスを示したとき、使われる言葉だ。設計、ことに製品の基本設計などは、前向き品質の対象で、「質の高い設計だ」という言葉が使われる。

議論の品質も、前向き品質の一種だ。それを吟味するためには、わたし達が「議論」のどこに、何を期待するのかを明らかにしなければならない。つまり、議論という行為自体の目的(わたし達はなぜ議論するのか)である。

これには、大別して三つの期待があると思われる。

(1) 何かを見いだす、明らかにするため(発見) =帰納的思考
(2) アイデアを創出したり、結果を予測するため(発明) =演繹的思考
(3) 価値を計り、優先度をつけるため(評価) =価値的思考
 (もちろん、この3種類を、別々に単独に話し合う場合も、組み合わせて議論する場合もある)

(1)は、いろいろな事実やデータを集め、その中から特性・つながり・関係性・相似などを見つけるタイプの議論だ。事象の全体像や内部構造を見いだしたり、問題の原因を分析したり、事例をパターン分類したりすることが議論の目的となる。たとえてみれば、警察の捜査会議のようなものだ。多数のバラバラな情報を圧縮し、少数の分かりやすい説明やモデルを導き出す働きである。

これに対し(2)は、問題の解決策を探したり、予想される結果を列挙したりするタイプの議論だ。限られた要素と、その組み合わせルールから、多数の可能な予測を導き出す。ゲームの作戦会議や囲碁将棋の検討会のようなものか。発散的に情報を生成していく働きである。

そして(3)は、物事や人に対して評価をするタイプの議論だ。評価には普通、複数の評価軸がある。それらを組み合わせ、あるいは軽重を考量して、評価を下し、優先順位をつける。たとえていえば入試の審査会議(出たことないが)だろう。ここには複数の定性的事実・定量的データから、最良の者を選んだり順位を導き出す働きがある。

そして、こうした3つの議論は、我々の思考の3つのフェーズに対応している。つまり、議論とは外に出した思考なのである。一人で考えるのではなく、複数者が参加して行う思考だ。

ここから、良い議論の特性がいくつか導かれる。
(1) 創造性があること: 参加者が最初は思っていなかった地点に到達する
(2) 再現性があること: 話の経過や理路があとからたどれる
(3) 納得性があること: つまり自分が参加していても同様の結論になっただろう、と後から他者でも思える

品質の高い議論とは、参加者が(無意識に)期待したよりも、高いレベルの思考結果=結論を得て、みなが納得・共有できた状態である。

それにしても、なぜ一人で考えるより、何人かで議論して考える方が、期待よりも高い成果がでるのか。つまり、個人の思考結果の単なる足し算や、いいとこ取りよりも、優れた結果が得られるのか? 参加者のうち、一番賢い誰かの結論に従うだけなら、こうした品質の高い議論にはならないのだ。なぜ、足し算よりも価値が出るのか。

それは、ひとつには、参加者が互いに断片的な情報を持ち寄って、全体像を多面的に考えられるようになるからである。たとえば、プロジェクト・マネジメントの計画段階で行う、リスクレビューの例を考えてみれば分かる。ああ、なるほど、そういう可能性もあるのか、そんな視点もあるのか、という気づきを、こうした話し合いは与えてくれる。組織内の個人個人の視野は、どうしても限られる。でも、たとえば製造担当者と、営業担当者と、物流担当者と、設計担当者がそれぞれ情報や経験を持ち寄る。すると、一面的なデータや情報だけに頼るよりも、たしかに質が高くなる。

限られた情報に基づく私たちの見解は、常に仮説に過ぎない。したがって事実・データなどのエビデンスによる検証とアップデートが必要である。事実に基づき、仮説(推測)を形成し、価値観に従い評価する。これが客観性を作り出す基本である。

また、互いに相手のアイデアに触発され、組み合わせの妙が生まれる場合もある。評価において、異なる視点から補い合うこともある。こうしたプロセスが、「三人寄ると文殊の知恵」という諺の意味なのであろう。

そして、参加者の合意によって結論にたどりつくことも、品質の高い議論となるためには大切である。それが納得性を保証する。

ただ、どうしても合意が得られない場合は、組織では「上役」・「調整役」が決めることになる。そのかわり、その人は、意思決定の結果に責任を負うのである。

あるいは、多数決で決める場合もあろう。このとき、多数決とは、議論をつくした後の、最後の手段である。時間制約のために、やむなくとる手段である。「多数決=民主主義」みたいに誤解している人もいるが、別にそうではない。本当に質の高い議論ができれば、皆が同じ意見に収斂するので、多数決(採決)なぞ不要になる。

このような、良い議論を生み出すためには、ある種の思考習慣や態度・行動の習慣が必要になる。わたしの言葉で言えば、『組織のOS』である。それは、次のようなことだろう:

- 皆、自分の意見に対してフレキシブルでいられる
- 事実の客観的な認識の共有が出発点だと考える
- 理路・理屈をきちんと尊重する態度がある
- 議論の参加者に、お互いに対するリスペクトがある

逆に言うと、議論の結果を、勝ち負けや、損得、好き嫌い、敵味方などを基準にして決めない、ということだ。とくに議論を、勝者と敗者を決めるゲームか勝負事のように捉える考え方は、質の高い議論の敵である。品質のわるい議論とは、勝ち負けで終わる議論だ。「俺はアイツとの議論に勝った」という結果だけを求めて議論するのは、まったく「自分の意見にフレキシブル」とは対極にある。ところが、人間には競争心があるから、すぐ、こういう無意識の動機のために、議論がねじ曲がりやすい。また、短慮で全体を見ずに断定するのも、質の低い議論である。

では、良い議論を生むために必要なことは、何だろうか? たぶん、以下のようなものだ:

(1) ブレーンストーミングからデザイン思考まで、各種の技法とツール類。
(2) 練習できる場。ただし、ディベートという勝ち負けを競うスポーツは、長所短所の両面がある。
(3) 安心して議論できる仲間からなる、コミュニティ。

とくに、3番目のコミュニティの存在が、一番大切だろう。衆知を集めるには、コミュニティが必要だ。互いに相手をリスペクトできる集団である。命令・統制型のタテ社会だけでは、議論は磨かれない。

ところで、議論は思考を外的に見える化し、衆知を集める方法だと述べたが、じつは短所が一つある。それは、議論は時間がかかることだ。

ビジネスはスピードだ。即断即決で行動しいかなければ、市場をリードしていけない。・・そう信じている人にとっては、誰かリーダー1人が、すべてのことを短時間に直観的に決めていくことが、理想に思える。あるいは、お前は英米流のリーダーシップ経営を否定して、古臭い日本流のコンセンサスと合意経営を推奨するのか、という批判もあり得よう。

それに対しては、こう答えよう:わたしは、「品質の低い議論」を否定しているだけだ。品質の低い議論で全員の『合意』に達しても、そんなのは尊重に値しない。もちろん、ビジネスにも有益ではないだろう。

スピード感の点で、たしかに議論という方法は、独断即決に比べて見劣りする。しかし、より客観的である方が、より論理的な思考の結果にたどりつける。そして、きちんと衆知を集める方が、中期的には、安全性が高いとわたしは思う。それは大型プロジェクトのビジネスに、長年従事してきた者の実感だ。

そういう意味で、議論に参加しているとき、自分が感情に流されていないかをチェックする習慣を、自分で確立しようと最近は心がけている。そして、これはけっこう、いや非常に、難しい。自分自身、勝ち負けにこだわりがちな性格だし、感情のキャパシティも小さいし、そもそも直感型であまり論理的でない。

だから、ときどき背筋をまっすぐに伸ばして、考え直すよう心がけているのである。背筋をまっすぐにし、肩の力を抜いてリラックスすると、感情モードから理性モードに戻りやすいのだと、心理学は教えている。わたし達の脳は、とても身体的なのだ。少なくともわたしの脳は、そうだ。限りある乏しい知的資源を活かしていくために、だから、わたしはなるべく他者と質の高い議論をしたいと願っているのだ。


<関連エントリ>
 →「品質とは(本当は)何だろうか - (1) 問い」 https://brevis.exblog.jp/17805452/ (2012-04-18)





# by Tomoichi_Sato | 2018-07-04 23:56 | 考えるヒント | Comments(0)

書評:「読めるが話せぬ人の英会話」 渋谷達雄・著

読めるが話せぬ人の英会話」 日本能率協会・刊 (Amazon.com)
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あなたが知り合いの英米人の結婚式に呼ばれたとしよう。あるいは、その知人が日本に来ていて、「じつは、もうすぐ結婚することになったんです」と、あなたに言った場合でもいい。その時、相手に何というか。

相手が男性なら、”Congratulations!"(おめでとう!)で良い。しかし、相手が女性のとき、”Congratulations!”と言ったら、ずいぶん失礼になる。それでは、

「あなたはいろいろと旦那探しにご苦労されましたね。苦心の結果ようやく相手の承諾を得られ、ご結婚の運びに漕ぎつけられたことをお祝い申します」

という言外の意味になってしまうからだ(本書P.89)。どうやら英語圏の世界では、男性が苦労して女性を探して射止める、という暗黙の物語が文化の構造の中にある、らしい(たとえ現実は違ったとしても)。だから、女性に対しては、本当は
“I hope you will be very happy.”(お幸せにね!)
と言うべきである。

そして、こういう点が、英語でコミュニケーションするときの難しさなのだ。英語を上達したい、英会話が上手くなりたい、と願う多くの日本人(わたしもその一人だ)にとって、最も注意すべきな点は、こうした文化・習慣・発想の違いである。つまり、わたし風の言い方を許してもらえれば、『OSの違い』なのである。だから、一番学ぶべきは、こうした違いを良く知っている人から、その差分に特化したトレーニングを受けることなのだ。

ところが、たいていの人は、「ヒアリングさえできれば」「ボキャブラリー(語彙)がなあ」「文法を間違えやすくて」「発音が大事だから」といった事が、いちばんの壁だと考えている。それはもちろん、そうだろう。だが、日本人の多くの人は、中学・高校そして大学まで、長い期間にわたって英語に努力を注いでいる。だから、『読めるが話せぬ』状態にある人が、ほとんどなのだ。

「もともと、”話す、聞く”のはやさしく、”書く、読む”のはむずかしいのです。(中略)どこの国の子どもでも、まず話し、聞くことができるようになり、そしつぎに、書いたり読んだりするようになるのが当然です」(P.15-16)と、著者は書く。そして、

「現在いわれている英語習得のメソッドとしては約五十種類くらいありますが、どれも似たりよったりで、(中略)たいてい他国の人は言葉に対して赤ん坊である、という前提の教え方である」ために、「日本の中堅幹部や経営者のかたがたの"話す英語力の再建”には、必ずしも適していないと言ってよいでしょう」(P.17)

という考えの基に、著者は独自の「渋谷メソッド」と呼ばれる方法論を作り上げる。著者・渋谷達雄氏は、幼時を英人家庭で育ち、英語発音学を専攻、そして戦後、米軍司令部行政官を経て、以来30年以上にわたり、一貫して日本の財界・官僚のトップクラスを対象とする英会話講座を担当してきた。本書の後ろ見返しには、土光俊夫氏をはじめとする錚々たる大物たちによる「渋谷達雄先生」への感謝状の写真がのっている。

ちゃんとした知的教育を受けた日本人にとって、「九分九厘は、多少奇妙で国際場裡に通用しにくいが、すでに学校英語としてできている。わたしはただ、一厘お手伝いするに過ぎない」(P.20)というのが著者の主張だ。

その「一厘」の第一は、発音を徹底的に正しく、よくすることだ。「発音さえ正しければ、多少言葉が前後していても、相手にはよく通じます。何しろ相手にとっては、自分の国の言葉なのですから」(P.21)というのは、自分たちの日本語の経験に照らしても、うなづけることである。

「ヒアリングのチャンスがないから、ヒアリングができない、と言われる方が多いようですが、これもおかしいのです。(中略)自分が正しい発音ができ、英語らしいリズムで言えるようになっていれば、相手が正しい発音をしていたら、分からない方がおかしいのです。」(P.23)。これと似たことは、英語教育家だった故・中津燎子氏も言われていたと思う。

著者はそこで、毎日英語で1から50までone, two, three, .. fiftyの発音を、声を出して練習することをすすめる。この50語の中には、英語の重要な発音要素が全部入っているからだ。所要時間はせいぜい、3分。「一日に2,3分の発声発音練習もしないで上手にしゃべるようにしろといっても、あまりに無理なことです」(P.27)

ただ、そこで発音の基本的な理解やコツが大事になる。よく、LとRの区別が問題になるが、「LとRは全くのアカの他人で、Lの兄弟はTなのです。したがって、waterはワーラーとくずれやすい。littleはリルにくずれやすい」(P.26)。またRは先に"ウ"をつけて練習する。rightはウライトと言ってみる。「英語では日本人の想像以上に唇を突き出す発音が多いのです。唇を突き出して発音することになれる必要があります」(P.39)。またthirtyを「セーティ」と発音せよ(つまりir, erをエーで代用する)、というのも著者独自の工夫だろう。

しかし、発音の基礎の上に築くべき大切なことは、欧米人のものの考え方、礼儀やマナーの理解だ。本書の多くはその点に割かれている。

たとえば挨拶の最初は、"How are you?"だが、
「日本人の全部といってもよいほど不得意なことは、"How are you?”のあとに、挨拶する相手の名前を言えることです」(P.65)。
"How are you, Mr. Brown?”と、相手の名前を入れることによって、はじめて、日本語でいう「ございます」調の丁寧感がでる。これを知って、会得できるかどうかで、ずいぶんと商売上での相手の印象が変わるのだ。

あるいは、違いはお礼の言い方にも現れる。誰かにご馳走されたら、翌朝また会ったときに「昨晩はご馳走様でした」というのが日本の普通の礼儀だ。しかし、欧米人はそれをしない。そのかわり、食事の最中や終わりに、日本人の何倍となく礼を言ってほめます。「いってみれば礼の言い方が、日本人の場合は月賦払いで、むこうのは一度に現金払いというわけです」(P.86)

最後の章は、「これが英語で言えたなら…」<すぐに役立つビジネス用語集>で、とくに交渉(negotiation)に必須な言い方がたくさん載っている。これだけでも自分の身につければ、有用な武器となるだろう。たとえば、

「それはちょっとオーバーですね」 I think you’re exaggerating.
「値段については、折れ合ってもいい」 We are ready to meet you half-way regarding the matter of price.
「あなたとはどうも意見が合いませんね」 I just can’t see things your way.
「あいつは図々しい」 He (she) has a nerve.
「この契約はお互いのためになりましょう」 This contract will benefit us mutually.

こうした一つひとつに、簡単な解説がつく。それがまた簡潔明瞭で、しかも日本風と欧米との発想の違いを的確に教えてくれる。非常に有用である。さすが、日本人のビジネスマンや官僚を相手に、長らく教えてきた人だけのことはある。

実を言うと本書は、わたしが30年以上も前に、亡き父の書棚から借りたまま持っていたものである。大半は読んでいたのだが、今回、英国出張の機会に全部を読み直したので、書評を書くことにした。奥付の発行年は昭和53年。だから今では古書としてもなかなか手に入れにくい(Amazonでは書影さえないため、自分でとった表紙の写真をつけておく)。

こう書くと、「内容が古いんじゃないの?」「ブリティッシュ英語じゃ米国相手には使いにくいし」みたいな反応が、出てくるかも知れない。だが、著者も指摘するように、知的教育を受けた「頭のいい」日本人は、どんな教師教材にも何らかの批判点を見つけた上で、なぜか我流にカスタマイズし応用したがる。それによって、自らの知的優位性を確保したいのかもしれぬ。誰か他者のいうことを、そのまま受け入れて真似るのは、沽券に関わると思っているかのようである。

しかし、著者も引用する独語学者・関口存男氏の言葉にもあるように、言葉の習得というのは、ザルで水を汲むようなものである。最初は、すべて流れ落ちて、何も残らない。しかし辛抱して何百回、何千回とすくっていると、いつかはザルに苔が生え、ザルの目がつまってくる。そうしてはじめて、水をすくえるようになるのである。何かスキルを学びたかったら、良い教師を得て、原理原則を学び、あとは繰り返し練習するしかない。そこには知的背比べゴッコの入る余地はない。

すべて無益な教科書というものはない。有益にできるかどうかは、読んだ後の行動にかかっているのである。


# by Tomoichi_Sato | 2018-06-24 19:24 | 書評 | Comments(0)

エンジニアリングと技術とインテグレーションと

以前、「英国史上、最も偉大な技術リーダーに学ぶべきこと」https://brevis.exblog.jp/24622591/(2016-08-28)と題する記事で、イザムバード・ブルーネルのこと書いた。19世紀前半のイギリスで活躍した、傑出した技術者だ。たまたまロンドンに来る用事があったので、ブルーネルが作ったパディントン駅を見た。とても美しく、かつ機能的な、優れた建物である。改良の手は入れているだろうが、建築物としての骨格は、おそらく最初のままだと思われる。実物を見て、あらためてブルーネルという人の天才的なセンスを感じた。
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そのパディントン駅から多少歩いた公園・ハイドパークの南側に、「アルバート記念碑」が立っている。大英帝国の最盛期を作ったビクトリア女王が、亡き夫君のアルバート公を記念して建造を命じた、巨大なモニュメントだ。こちらはネオ・バロック様式で、すごく美的だと思うかどうかは、見る人の感受性による。

ただし、この記念碑は、あるはっきりした主張・テーゼを表現している。それは、大英帝国が支配する4大地域と、帝国の国力を支える4大産業で、それぞれがグレコローマン風の彫像群によって表現されている。帝国が支配し、あるいは強い影響を及ぼす4代地域とは、(1)ヨーロッパ大陸、(2)アジア大陸、(3)アフリカ大陸、(4)アメリカ大陸、である。ま、七つの海を支配する人たちの発想というのは、こういうスケールなのだろう。この彫像群は、記念碑の四隅の外陣を守っている。

ところで、帝国を支える産業として、19世紀中盤に彼らが選んだのは、以下の4つだ。これらが記念碑の内陣を支えている:
(1) 農業 Agriculture
(2) 商業 Commerce
(3) 製造業 Manufacture
(4) エンジニアリング Engineering
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今の日本なら、何を選ぶか。あるいは'90年頃の「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と自ら酔っていた頃なら、何を選んだか、ちょっと考えてほしい。製造業はまあ、入るだろう。農業は、微妙だ(今やGDPの数%しかない)。ただ、賭けたっていいが、4つの中に「エンジニアリング」が入る気づかいは、ない。皆無だ。

エンジニアリングとは何だろうか? アルバート記念碑についての観光案内を読むと、エンジニアリングではなく「工学」と書かれていることがほとんどだ。だが、工学は学問の一部であって、産業の呼び名ではない。だからここは、「エンジニアリング」との表記にこだわりたい。ほかに、適切な訳語が、日本語にはない。

いや、日本語だけではない。エンジニアリングに対応する欧州の言葉は、ドイツ語ならIngenieurwesen、仏語ならingénierieで、まあはっきり言うと、英語からの派生である。Engineeringという概念それ自体が、英国生まれ、英国の産物なのだ。

エンジニアリングとは何か。長年「専業エンジニアリング会社」に勤めてきたわたしでも、一言で言うのは、簡単でなない。でも強引に縮めて表現するなら、「科学の発見・発明を、具体的な形に構築し実現する仕事」だといえよう。出来上がった装置や機構、あるいは巨大なプラントなどは、利用者が使う。エンジニアリングの仕事は、それを作り上げるところまでである。

エンジニアリングの中心的な業務は設計だが、設計図だけでは仕事は終わらない。資機材や部品を調達し、組み上げ、設置しテストし運転が可能であると確認するところまで、全てを含む。

エンジニアリングは技術を中心とした仕事である。ただ、その「技術」という言葉がどこからどこまでを指すのか、またどこに価値の源泉があるのかは、案外理解されていないように思う。

たとえば、構築対象物の斬新な基本設計は、たしかに価値ある技術である。ブルーネルの革新的な広軌鉄道や蒸気船(復水器を取り入れて長期航路を可能にした)から、現代の電気自動車EVまで、そこには発想の飛躍ときらめき、創造性があり、誰にも分かりやすい。そして基本設計は、主に用途(IT風に言うと機能要件)と、性能値を目標として行われる。

これに対し、詳細設計はもっと地味な仕事だ。だが、技術は細部に宿る。鉄道を広軌にしたら、トンネルの掘削量は倍増する。長航路の船は巨大な構造を力学的に支えなければならない。ブルーネルはそうした工法・製造法(=実現法)の工夫も怠らない。もちろん、作業に当たる従事者と利用者の安全性確保も含む。こうした点は、科学法則と、運用上の経済的・社会的要請の両方を、複眼的にとらえる必要がある。そこをきちんとおさえないと、技術は社会で実用化できない。

あるはまた、わたしになじみの深い天然ガスの液化プラント(LNGプラント)を例にとろうか。基本的な原理は単純だ。天然ガスを冷やすと、液体になる。冷やすのには、冷蔵庫と同じ原理を使う。いたく単純である。だが、超低温・高気圧に耐える熱交換器や調節弁、大出力のガスタービン駆動圧縮機などを含むプラント一式を、安全にかつ安定して運転できるよう組み上げるためには、機械・電機・制御・化学・土木・建築など様々な分野での、詳細設計が必要だ。それらが、さながらオーケストラのように協調しあって、はじめてプラント・エンジニアリングという仕事が達成できる。少数の天才がいれば成り立つ仕事ではない。

そして、詳細設計や実装においては、安全性・安定性・信頼性・保守性・・といった、いわゆる「非機能要件」を満たすことが重視される。だから、「傑出した技術力」のためには、独創的な基本設計の能力だけでなく、実装の経験を、設計にフィードバックし、その改良ループを回して進化するような能力が必要とされる。

事実、ブルーネルの仕事はそうだった。かれは基本設計にも長けていた。他人の独創的な仕事を大胆に取り入れ、組み合わせることも上手だった。彼は大学を出ていなかったが、しかしきちんと科学計算の裏付けをとって設計した。そして、工事まですべて手掛けて、数々の偉業を実現したのだ。

ところで、ブルーネルが没してから150年がたった。では、現代の英国で、彼の偉業をついで、技術の進化をリードしているのは誰なのか? 英国はいまだに、世界のイノベーションの先陣を率いているのか? いや、もっと端的に言おう。あなたは、英国企業から、次の自動車でもいい、飛行機でもいい、あるいはパソコンでもいい、新製品を心待ちにしている物が何かあるだろうか?

もし、あまり見当たらないのだとしたら、この国はどこかで、技術におけるリーダー精神を失ってしまったのだ。だが、それはどこで間違ったのか?
(まあ、こんなことを書いたら、皮肉な英国人から「次のイノベーションが待ち遠しい日本のIT企業は、どこかな?」と逆襲されるかもしれないが・・)

わたしは、英国人のお得意な『専門化と細分化』が、彼らの技術開発力を奪ったのではないか、と疑っている。当地の知人によると、ロンドンには本当にありとあらゆる種類の、細部化された領域を得意とする専門家やコンサルタント達がいて、顧客のどんなニーズにも対応できるという。それはエンジニアリングの分野でもそうだし、金融や法律といった分野もそうらしい。

そのような専門分化において、彼らはさらに、一種の規制や障壁を立てる。土木建築分野における、「設計・施工分離原則」がその一つである。設計・施工分離の原則とは、設計者が建設工事をも請け負ってはいけない、という規制だ。したがって、設計は設計事務所が行い、建設(実装)は工事業者が行う、という風に分業している。見積積算は、さらに第三者のQSと呼ばれる人たちが行う。

このような原則は、19世紀後半に、英国で都市が急拡大し、建築ブームが起きた際に、あちこちで手抜き工事が発生した反省によるものだと、聞いたことがある。それまでは(つまりブルーネルの時代には)、設計者と施工者は一緒で構わなかった。しかし、手抜きや見積での嘘を防ぐため、設計→見積→工事という仕事を、異なる企業間に分断して、互いにcheck & balanceが働くような仕組みにしたのである。まことに英国的な発想ではないか(憲法だの三権分立などの社会統制原則も、かなりが彼らの発明だ)。

ちなみに日本では、官庁工事などがこの原則に従っている(日本は明治時代に、建築技術を英国からならった)。だが、民間工事では設計施工一貫の例も多く、事実、日本のゼネコンはかなり高度な設計能力を持っている。ところが、英米の工事業者は基本的に、設計機能を社内に抱えていない。

しかし、このように設計と施工を分離した結果、何が起きるか。建設工事の現場で、設計に起因した施工の難しさが生じたとき、その教訓が設計側にあまりフィードバックされにくい、ということだ。なぜなら別会社だからだ。さらに、新しい施工方法を開発して、そこからさかのぼって設計法を生み出す、という動きも働きにくい。

設計・施工分離原則は建築業界のことだが、他でも類似したことが起きているのではないか。たとえば石油ガスのプラント・エンジニアリング業界では、'80年代以降、基本設計と、詳細以降が別フェーズに分割することが普通になった(ただし同一エンジ企業が請け負うケースもありうる)。そして、かつては英国にも優れたエンジ企業が存在していた。だが、今やその多くが買収されたり解体されたりして、米国企業などの傘下に入っている。今でも英国の企業は、まあプラントの基本設計はうまいが、詳細設計・調達・建設工事を含めたプロジェクト全体をまとめる「技術のオーケストラ」機能が弱い。

こうした、いわゆる『分業病』の弊害については、英国人も気が付いているのだろう。だからこそ、マネジメントの必要性の認識が強いのだと思う。それも、専門性のないゼネラリストをマネージャー職に就けるのではなく、マネジメントのスペシャリストを育成する方向に進んでいる。まあ、優秀なオケの指揮者を育てようという訳だ。そして英国人は、マネジメントの体系化・システム化にたけている。PM分野でいえば、PRINCE2とか、Managing Successful Programme(MSP)といった英国の作成した標準は、米国PMIの同等のものより、実用的でレベルが高いと感じる。 

彼らは仕事をシステム化し、手順とアウトプットとメトリクスで動くように仕向ける。つまりプロセス(手順)を整備し、プロセス中心にする。すると、仕事から属人性がなくなる。誰でも60-75点を取れるようにすることが、システム化の目的だからだ。同時に、システムかは仕事をオーディット(監査)可能にする。冷静な第三者的オーディットこそ、英国人の得意科目なのだ。

このようなマネジメントのシステム化のメリットは大きく三つある。リピータビリティ(再現性)、ポータビリティ(可搬性)、スケーラビリティ(拡張性)だ。仕事が属人的でなくなれば、再現性が上がる(標準化できるともいう)。また、他の場所、他の国にも仕事を移しやすくなる。さらに、仕事のキャパシティを拡張しやすくなる。仕事が属人的だと、キャパを増強するにはキーマンを増やすしかなく、キーマンの育成にはひどく時間がかかるからだ。

そしてマネジメント・システムの上に、優秀なマネージャーを配置できれば、90点代の仕事もできるようになる。はずだ。

では、仕事をシステム化して、超優秀なマネージャーと、百の専門家たちで仕事を回すのがエンジニアリングの「インテグレーション」なのだろうか? 非常に大規模な仕事では、それしか方法がないかもしれない。部門間の自主的すりあわせと、「現場力」と、ブラックな労働環境のがんばりだけでは、仕事がいつ終わるのか、まったく読めないからだ。それよりは、ずっと良い。

ただ、このような発想に欠けているものが、ある。この英国式発想は、非常にプロセス中心の考えだ。インプットを、プロセスして、アウトプットする。頭文字をとって、IPOモデルともいう。仕事の効率化には、非常に役に立つ。英語風に言えば、"Do things right"だ。

問題は、プロセス志向の発想に、何をインプットしても、独創性が出てこないことだ。つまり"Do right things"が見えなくなる。そして、このことが、英国のエンジニアリング産業の限界を生んでいるのではないか。危険予測ばかりが目立つリスクマネジメント・システムの中で、冒険的な発想をためすことは困難だ。

独創性、そして進化のループは、分業化された組織の中に確保できるのか? たとえ技術のオーケストレーションが上手になっても、作曲家(基本設計者)と演奏者(実装者)が、分業したままでいいのか? 聴衆の本当のニーズを肌でつかんでいるのは、聴衆の前で演じる演奏家の方ではないか? 作曲のモチーフと、聴衆のニーズを、うまくマッチングしないと、本当にイノベーティブなものは出てこないのではないか?

そう。英国企業で、次の製品が待ち遠しい企業、わくわくして驚くような製品や技術を出してくるメーカーとして、唯一名前があがりそうなのは ダイソンくらいだろう。基本的には家電メーカーだが、ダイソンは確かに、誰も思いつかない、真にイノベーティブな製品を、出してくる。

創業者のジェームズ・ダイソン氏は、そういう意味で、現在ブルーネルの後継者の地位に一番近い人だろう。ダイソン氏は経営者ではなく、会社のCTOであり「チーフ・エンジニア」である。会社経営のマネジメントは、人に任せている。彼の作る掃除機、扇風機、ヘアドライヤーなど、いずれもまことに独創的で、かつ、美しい。

ダイソンは製造にもこだわっている。第一、精密で高性能なため、かなり自動化した製造ラインが必要だ。あの空洞型ヘアドライヤーは、毎分11万回転のモーターが中心になっている。この自動化製造ラインを作ったのは、前回の記事で紹介した、日本の平田機工である。よくありがちな英米企業のように、製造を安い受託製造業に安易に外部委託することもしない。かわりに、ダイソンは製品を高い価格で売る。高くても売れる製品を作る。

そのダイソンは今、電気自動車EVを準備しているらしい。布石に、蓄電池メーカーを買収したとも聞いている。どんな製品を出してくるのか、聞くだけでワクワクするではないか。これこそ、エンジニアリング技術の魅力でなくて何なのか。それが可能なのは、ダイソンが、単にマネジメント・システムと分業化思考だけでなく、基本設計から製造・販売まで、全部をインテグレーションする企業だからだ。

もちろん、ダイソン氏は傑出した技術リーダーだ。そうした、ビジョンを持ち、際立った力量を持つ人には、技術仕事の属人性を残し、インテグレーションの焦点になってもらった方がいい。実装まで任せて、細部にまでこだわってもらうべきなのだ。故スティーブ・ジョブズなんかも、実はそうだったのだろう。そして、普通の人、ないし、まあまあ優秀程度の人は、システムの中に組み込むべきなのだ。

一番ダメなのは、分業型組織のバケツリレーの中で仕事を回すことだ。全体ビジョンもなく、システムをマネージする人もいない。変化と進化のループも弱い(PDCAのAが、自分の分業の壁の中だけに留まる)。
結果として、その場しのぎだけが横行する。これが、ボトムの在り方だ。もしこんな組織に働いているなら、それを変えるか、脱出する努力を考えるべきだ。

英国は、エンジニアリング産業の父である。英国の技術の歴史は、欧州大陸や米国と比べても、独特である。英国の技術は、科学の単なる付属物でもなかった。金儲けの単なる道具でもなかった。科学に立脚し、お金も生み出すが、実用的でかつ、ユニークだった。それがだんだんと衰退していく姿を、わたしは見たくない。できればもっと、いい意味で驚かせてほしい。英国に学ぶべきこと。それは、「エンジニアリングとは技術のインテグレーションである」ということではないだろうか。


<関連エントリ>
 →「英国史上、最も偉大な技術リーダーに学ぶべきこと」 https://brevis.exblog.jp/24622591/ (2016-08-28)


# by Tomoichi_Sato | 2018-06-19 05:24 | ビジネス | Comments(0)

ラインビルダーとは何か、なぜ今、必要なのか

平田機工という会社を初めて訪れたのは、一昨年の夏だった。熊本の企業で、熊本市の本社の近くに、いくつもの工場が隣接・点在している。いや、本当は東証に上場している全国区の企業であり、年商はその当時すでに600億前後あったと思う。だが、3年前の熊本地震を機に、わざわざ本社を東京から発祥の地・熊本に戻していた。紹介いただいたのは、野村総研でサプライチェーンやロボティクス専門家として著名なF氏である。

平田機工は、業種分類的には、機械メーカーということになるのだろう。事実、自社で機械を設計製造している。だが、その本当の業態を表すならば、「ラインビルダー」という言葉がふさわしい。ラインビルダーとは、高度に自動化された製造ラインを、機械も制御もITも含め、丸ごと一式作って、顧客の工場に納める仕事である。

たとえば、あの米国の自動車会社GMの最新式製造ラインを、平田機工は熊本の工場で作っている。米国から技術者がきて、工場出荷前の立会検査を念入りに行い、それから機材をばらして米国に送るのだ。行って、自分の目で見て、仰天した。こんなことが日本の地方で行われているとは、ほとんど誰も知るまい。

自動車の製造ラインだけではない。加えて、半導体と、家電の製造ラインが、平田機工の三大得意分野だ。それも主要な顧客はすべて、海外の著名大企業である。英国の家電メーカー・ダイソンの新しい「ウルトラソニック」ヘアドライヤーの自動組み立てラインも、平田機工が作った(YouTubeに画像がある)。平田社長のところには、創業者ダイソン氏からも、故スティーブ・ジョブズからも、そして現在アメリカの自動車業界を大変にぎわしている某M氏からも、直接電話がかかってくる。この3人から直接、相談の電話がかかってくる人物など、日本の政財界広しといえども、他には居るまい。

平田社長によると、会社には営業マンは実質、3人しかいないのだそうだ。営業本部などというものは、存在しない。顧客がいわば門前に行列をなし、その中から好きな仕事を選べるからだ。それは、同社にしか作れない、非常にユニークな技術を多数持っているからである。事実、2~3年先まで、もう注文で仕事は埋まっているという。同じ受注ビジネスの世界に生きる者なのに、自社とのあまりの違いに頭がクラクラした。

そして、一括請負形態なのに、きわめて高収益である。いまでも返す返す残念なのは、このとき帰ってすぐ、同社の株を買っておかなかったことだ。たしかまだ5千円台だったのではないかと思う。今ではすでに倍以上である。東証で一番、過去数年間の株価上昇率が高い企業の一つなのだ。ただ、仕事の9割近くが海外で、国内ではあまり知られていない。本当に、知れば知るほど、不思議な魅力をもった企業である。

ところでその後、再度同社を訪問したわたしは、単なる一介の会社員であるにもかかわらず、上場企業の経営者である平田社長に向かって、研究会を立ち上げたいからご協力をいただけないか、とお願いした。ずいぶんと図々しい懇願だったにもかかわらず、快く応じてくださり、昨年夏から研究会組織化の活動が始まった。

平田機工に参加してもらって、いったい何をはじめたのか? それは、「次世代スマート工場の設計論」に関する研究会である。次世代、と名前につけたのは、現在の我が国の「スマート工場」には、いささか足りぬ点があると思ったからだ。それについては、先月、「『スマート工場』はスマートか?」(2018-05-26)に要点を書いたとおりだから繰り返さない。

そしてこの問題意識を、国に対し、つまり経産省に対してアピールしなければ、と考えた。研究会は民間の存在だが、わたし達の社会では、お上が何か言わないと、皆あまり聞く耳を持たない。

ところで、この動きはどうやら、とてもタイミングを得たものだったらしい。というのは、経産省自身が、日本の製造業のあり方に対して、かなり深い疑問=問題意識を持ち始めた様子だったからだ。

その問題意識は、この5月に発行されたばかりの、2018年版「ものづくり白書」に明瞭に表れている。こうした省庁発行の白書を読む習慣のない人は、多いと思う。だが、今年のものづくり白書は、非常に注目すべきである。過去に比べて、トーンが完全に変わったからだ。端的に言って、このままでは日本のものづくりは衰退する。その根本原因は、かなり根深い「思考習慣」にある、という危機感が、深層に流れているからだ。

(ちなみに「ものづくり白書」は書店でも購入できるが、経産省のサイトから無料でダウンロードできる)
2018年版ものづくり白書(PDF版)

白書は冒頭の総論で、「抜本的な変化を実現する上では、ビジネス全体を俯瞰して全体最適化を図るシステム思考の強化が」必須だ、といきなり述べる(P.2。以下、強調太字は筆者が引用時につけたもの)。

今日、景況が回復し売上増の傾向にありながら、我が国の多くの製造業は、納期遅れや品質問題にかなり苦しんでいる。なぜなら、製造現場で積み重ねてきた改善活動は、ものづくりに関わるバリューチェーン全体の中で、部分最適にとどまっているからだ。「個別の現場が主導する部分最適」は、しかし、「『現場力』の再構築を『現場』に丸投げ」した結果、生じたものだ。本来はそうではなく、「経営層主導により、バリューチェーン全体で全体最適化を図った現場力の再構築が重要」だと、白書は断言する。(P.86)

今年のものづくり白書の議論は、これまで「日本の現場力」を称賛してきた経済メディアなどの従来の論調と、完全に切れていることがお分かりになるだろう。

第1章3節で、白書はこう整理する。

 「過去:経営環境の変化が小さい時代 ⇒ 部分最適の積み上げが全体最適に」
 「今日:経営環境の変化が激しい時代 ⇒ 部分最適を積み上げても全体最適とならない」(P.170-171)

そして、「システム思考、及び学問としてのシステムズエンジニアリング(システム工学)習得の強化が求められる」(P.169)とも書く。

なんだか、まるで誰かさんのブログを読んでいるようだ(苦笑)。

また、「経営資源としての『データ』の重要性は著しく高まって」いるのに、「我が国においては、現在の状況を単に2000 年前後のIT ブームの再来と受け止める向きも一部には存在するなど、必ずしも、デジタル化のもたらす本質的な産業構造、社会構造へのインパクトが理解されていない」(P.3)という。

人材不足は昨今の課題だが、「人材育成で成果があがったとする企業においては、(中略)自社でIT人材を育成する割合が高い」(P.4/P.205)など、驚くべき指摘ではないか。別にIT業界の話を書いているのではない。ものづくり企業において、全体として人材育成が進んでいる会社は、自社でIT人材をも育てている所なのだ。

総論の中ではもう一つ、大事なことが書かれている。
「技術革新のスピード、課題の複雑化などが進む中、いわゆる『自前主義』の限界が露呈しており、全てを『競争』領域として捉えることなく、『協調』領域の拡大により、真の『競争』分野への投入リソースの集中を行うことが求められてきている」(P.3)

「競争領域と協調領域」という用語は、経産省が以前から使っていた言葉だ。日本企業はすべてにおいて互いに競争するのではなく、共通性の高い業務部分は、外部化することによって、コアの競争領域に経営資源を投入すべきだ。また外部化によって、最新の技術や知恵も利用できるようになる、と。

これは、工場における生産ラインづくりにおいても、言いうることだ。

そして、その文脈の中、第1章3節で、わたし達の「次世代スマート工場の設計論」研究会の成果も紹介されている。(P171~172)

研究会での議論の成果のうち、白書で特に強調されているのは、我が国に「ラインビルダー業界」を確立すべきだ、との提言部分である。つまり、工場づくり、あるいは生産ラインづくりを、協調領域として、もっとアウトソースするように考えるべきだし、その受け皿として、平田機工のようなラインビルダー企業をもっと認知し育てるべきだ、との提案である。

日本には、ロボットメーカーや工作機械メーカー、制御システムベンダーが多数存在し、かつ世界的にも技術レベルが高い。これらは、すべて生産ラインを構成する重要な要素、あるいは部品である。しかし、それを組み合わせて高性能な生産ラインを構築し、さらに工場全体を作り上げる「生産システムズ・インテグレーター」というべき企業は少なく、業界団体も存在しない。最近ようやく「ロボットシステム・インテグレーション協会」が立ち上がるようだが、わたしが以前指摘した「インテグレーター不在という深い谷間」は、まだまだ埋まっていない。そこで、あえてラインビルダーという言葉で、その社会的必要性をハイライトしたのである。

なお、「ラインビルダー」という言葉は、2年前のものづくり白書にも登場したが、どうやらこれは和製英語らしい(少なくとも欧州ではあまり通じなかった)。また、2016年版白書の記述を読むと、どちらかというとMESレベルの情報系インテグレーターを指している印象がある。しかし、ここでわたし達が言っているのは、もっと具体的・物理的な機械装置も含む、インテグレーションである。

日本の工場づくりには、大きく三つの問題点がある、とわたしは考えている。
(1) 空間・レイアウト・環境制御に関する考慮が足りないこと
(2) ITのインテグレーションが欠落していること
(3) 生産のスケーラビリティ(拡張性)・ポータビリティ(海外移植性)を最初から考慮して設計していないこと

上記の問題については、個別にこのサイトで触れてきたから、ここではあえて繰り返さない。しかし、それらを生み出した根本問題がある。それは、製造業における生産技術部門の弱体化である。いろいろな有識者の意見をきくと、どうも10年前のリーマンショックがきっかけで、日本の製造業は大幅に生産技術者を切ってしまったらしい。そのツケが、好況になってきた現在に、回ってきたのである。

結果として生まれたのが、全体性(システム思考)の喪失、縦割りと分業病だろう。そして、このトーンは上記の白書の記述とも合致している。むろん、もっとさかのぼれば、工場の成長と改善を担う中核の生産技術の役割を、十分理解せずに切り捨ててしまった経営者の側に責はあるのだが。

いずれにしても、今から急に生産技術を社内に再建する時間はない。だから、工場づくりの「自前主義」からの脱却こそ、解決策である。そしてアウトソース先としての、ラインビルダー業界の確立と認知が、急務であろう。これがわたし達の提言だ。

まあ、工場自前主義の脱却といっても、まだ社内にたっぷり人を抱えている超大手は別である。ここでは主に準大手・中堅企業を考えている。だが、大手でも、他社の知恵をまなぶべきときに来ていると、わたしは思う。白書にも引用されている図を見てほしい。製造業にとって、集中すべき「競争領域」は、本当に核となる自社製品の製造技術と、そのための人材育成である。それを支える周辺要素、すなわち物流・建築・ITシステムなどは、業種をまたいで共通性が高い「協調領域」であって、アウトソースする方が効率性がいい。
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そして、協調領域の要素を提供できる企業は、すでに日本国内に多数存在しているのである。それをまとめるインテグレーション業界が、必要なのだ。それがラインビルダーである。加えて言うと、こうしたラインビルダー的なビジネスは、顧客の個別要求とのすり合わせが必要とされる。相手の要望を聞き、まじめに構築する仕事だから、じつは日本人に非常に向いている。だから、ラインビルダーは新しい輸出産業となる可能性さえ、秘めているのである。

え? そもそも工場なんて自分で持たず、製品開発に特化したファブレス企業になり、製造はコストの安い中国あたりに委託する方がいい? スマイルカーブが示すように、製造などそもそも、お金の儲からない仕事だから、それが一歩進んだ製造業の経営戦略だって?

やれやれ。「スマイルカーブ」論は、さかのぼると、じつは台湾の受託製造業者が言い出した、マーケティング用の概念である。それを日本のメディアや外資系コンサルあたりが、普遍的真理であるかのように持ち上げるのは、どうかと思う。スマイルカーブが成立するのは、ある特定の条件が成り立った時だ(この話は始めると長くなるので、別の機会にしよう)。ただ、ものづくりと自社製造が本当に儲からないかどうか、ためしに冒頭にあげた平田機工の例を見てみたらどうか。

今わたしはこの文章の最後の部分を、ドイツのハノーバーに向かう飛行機の機内で書いている。海外の製造業の進展状況を見聞きするにつけ、日本の製造業が技術的にリードできる時代は、もうあまり残されていないと、よく感じる。我々に残された最後のチャンスを、できるだけしっかりつかむためにも、ラインビルダーという名のインテグレーター達が育つことを、心から願っている。


<関連エントリ>
 →「『スマート工場』はスマートか?」 https://brevis.exblog.jp/27295851/ (2018-05-26)
 →「『インテグレーター不在』という深い谷間」 https://brevis.exblog.jp/27172645/ (2018-04-01)


# by Tomoichi_Sato | 2018-06-09 23:56 | 工場計画論 | Comments(0)

ミニレビュー:二日酔いの防止サプリ「よいとき」


お酒に弱いたちである。お酒を飲みながら人と談笑するのは、けっこう好きなのだが、あいにくわずかな量のお酒でも顔が真っ赤になってしまう。経験的に、自分の許容量は生ビールをジョッキに1杯と、あと焼酎等の蒸留酒を1杯程度だと思う。

ところが、いったんお酒を飲み始めてしまうと、自制心が緩む(苦笑)。そしてつい、自分の許容量超えて飲み過ぎてしまう。翌朝は二日酔いの頭を抱えて、自分の愚かさを反省することになる。そして、お酒に強い人はいいなぁ、と内心羨んだりする。

キューピーの研究開発部門の方から、同社が開発した製品「よいとき」のことを聞いたのは数ヶ月前だ。この製品は、酢酸菌から抽出したアルコール分解酵素と、アルデヒド分解酵素が主成分になっている。

知っての通りアルコールは体内で、アセトアルデヒドを経て、酢酸に分解される。このアセトアルデヒドが曲者で、二日酔いの主原因になる。「よいとき」という製品は、このアルデヒドとアルコールを分解する作用を持っている。錠剤型のサプリになっていて、一袋2錠がワンセット、1回分である。

「よいとき」を服用するのは、お酒を飲む前でも、飲んだ後でもいい。ただ、あまり遅くなったり、翌朝になったら、手遅れだ。二日酔いを防止するのであって、「治す薬」ではないからだ。「飲み忘れないように、最初の乾杯のときに服用するといい」というアドバイスもあった。また、これを服用しても、お酒に酔わなくなる訳ではない。飲んだ翌朝が楽になる、というのが主効果である。

ともあれ、最近はつき合いで宴席に呼ばれたら、必ず服用するようにしている。そして、自分の主観的な評価だが、たしかに夜中の眠りが深くなり、翌朝が楽になったように感じる。「ウコンの力」などの他のサプリの多くは、肝臓を活性化する働きのものだから、一緒に服用することもできる。大手のコンビニでも売っている。

同じようにお酒に弱い人には、おすすめできる商品だ。


# by Tomoichi_Sato | 2018-05-31 21:12 | ビジネス | Comments(0)

「スマート工場」はスマートか?

先日、大阪で日本学術振興会の「プロセスシステム工学143委員会」という名前の会合に参加し、スマート工場に関する短い講演を行った。日本学術振興会には、産学協力のための研究委員会というのが多数あり(https://www.jsps.go.jp/renkei_suishin/index2_2.html)。プロセスシステム工学はその中で143番という番号になっているので、関係者は頭文字をとって「PSE143委員会」と略称で呼んでいる。

プロセスシステム工学といっても、なじみがない読者も多いと思う。これは化学工学の一領域である。『化学工学』(Chemical engineering)とは、化学プラントの設計論を研究する工学である。そのうち、『プロセスシステム工学』とは、プラントの全体システムの設計と制御に関わる技術分野だ。わたし自身も若い頃はその分野に携わっていたが、すでに実務から離れて随分経つ。それなのに久しぶりに呼ばれて講演などをしたのは、今回の議論のテーマが「スマート化技術で変わるプラント・工場」だったからだ。

「スマート化技術」とは何か。それが今回のテーマだが、先に少しだけ、化学産業に関連する話題に触れておく。

今回の委員会では、わたしを含め3人の講演があった。わたし自身の講演タイトルは
次世代スマート工場の新しい設計手法 ~ 生産システムズ・エンジニアリングを目指して ~
で、最近の組立加工系の工場に起きている新しい技術的な流れについて、紹介するものだった。その上で、過去10年ほどの間に起きている、日本の化学産業の大きな構造的変化についても触れ、今後の化学プラントの設計手法も変わって行かざるをえないだろう、と言うお話をした。

その変化とは、簡単にいって、大量生産的なバルクケミカルから、多品種化した機能性素材に、日本の大手化学企業の収益源が移っていることだ。扱う製品が流体から固体に変わり、さらに生産形態が大量見込み生産から、少量多品種の受注生産にシフトしている。この変化は過去15年ほどの間に顕著になった。このことが化学工場の操業のあり方にも、設計のあり方にも、大きなインパクトを及ぼすだろう。しかし従来の化学工学・プロセスシステム工学は、その変化の準備が十分できていないように思われる。

化学産業は下流への進出とともに、離散的な『ディスクリート・ケミカル』というべき生産システムへと変貌していく。その工場の操業の中心には、MES/MOMの発展系として、『中央管制システム』が来るだろう、とわたしは予測している。その上で「ディスクリート系にも適用できる、新しいプロセスシステム工学が望まれる」と話を結んだ。

この話が、参加された委員諸賢にどれほどアピールしたかはわからない。

一般の組み立て加工系の機械工場では、機械装置などにセンサーや通信機能を取り付け、状態監視や予防保全に活用すると動きが数年前から活発になっている。またロボットを導入して、人手の作業を極力自動化したり、AIでパターン認識を活用する動きも盛んだ。こうした動きを総称して、「スマート工場」とか「スマート化技術」とよんだりしている。高度な連携制御やMES(製造実行システム)の話題も増えてきた。

しかしそもそも、化学プラントの世界では、機械装置や配管のそこかしこに、流量計や圧力計などのセンサーを設置して、その信号を中央制御室に持ち込み、原料や製品の状態をリアルタイムに監視統制する仕組みを、もう何十年も前から実現している。センサーと制御システムは、ベンダーが違っても通信できるのが当たり前で、誰もつながるかどうかの心配などしない。人手による作業も極端に少ない。

そのような意味では、機械加工組立て系の分野が、ようやくプロセス産業のプラントに、工場のスマート化の面でようやく追いついてきた、とも言える。AI技術の活用については、化学系でもまだまだこれからだが、それはどの産業にとっても似たり寄ったりの状況であろう。

ではなぜ、今さら化学産業でスマート化技術についての討議が行われるのか? それは端的に言って、スマート化と言う言葉が流行語のように技術の世界を席巻しつつあるからだ。

しかし、わたしの知る限りでは、『スマート』の公式の定義は、存在しない。

ある調査によると、スマート工場に関連する研究論文数は、2014年ごろから急激に増えている。これはドイツが2013年に、「インダストリー4.0」を推進する白書を公開したことが、きっかけになっていると思われる。この白書の中には、スマートな機械とスマートな製品、との概念が二本立てで出てくる。

ところで、「スマート工場」とか、スマートな製造など言葉の源流をたどっていくと、「スマートシティ」という言葉が先行したいることに気づく。

では、スマートシティという概念が生まれるきっかけは、何だったのか? それは、実は「スマートメーター」だった。それまで、各家庭に据え付けられていたのは、単純な電力計、あるいは水道やガスの流量メーターだった。そうした電気式・機械式のアナログメーターに、小さなチップが装着され、計量した結果を蓄積したり、通信で報告できる機能を持つようになった。これがスマートメーターの始まりだ。

スマートメーターは、確かに従来の単なる計測メーターに比べれば、スマートだろう。ではスマートシティーとは、従来の都市に比べて、どこがスマートなのだろうか。

繰り返すが、「スマート」という言葉には、広く受け入れられた学問的定義があるわけではない。みんな思い思いの意義づけを込めて、勝手に使っているのだ。

単純なアナログの機械や計器にチップをつけてデジタル化し、記録や通信機能をつけることを「スマート化技術」と呼びたい気持ちは、よくわかる。そうなった機械は、古い機械よりもスマートではある。あるいは、単なる据え置き型の工作機械よりも、カメラの視覚センサーを備え、多機能的に動くロボットも、たしかにスマートではあろう。だからロボットを導入することが、スマート化技術だという。たいへん結構。

だが、一つおうかがいしたい。産業ロボットは、本当にスマートなのだろうか?

鉄腕アトムほどの知能を誇るなら、確かにスマートだといえよう。だが鉄人28号のように、リモコンで人が操作するだけならば、上手に使わない限りスマートとは言えない。

昨年見学した、ある工場を思い出す。そこでは双腕ロボットを何台も並べて、ある精密な計量的作業にあてていた。双腕ロボットは、胴体に両手がついていて、なんとなくとても人間的に見える。そして賢そうだ。だが、工程をしばらくじっと見ていると、一つの動作中に動いているアームは、つねに1本だけなのだった。一緒に行った機械屋が、「これって、何で双腕ロボットを使っているんでしょうね」とつぶやく。かりにロボットがスマートだとしても、そこの双腕ロボットの使い方は、ちっともスマートに思えなかった。

スマートとは何か。それを知りたければ、「スマートでないもの」を考えてみると、多少のヒントになる。そして、ここでは道具や機械などの単体ではなく、人間をその要素に含む仕組み、すなわち「第2種のシステム」(法政大・西岡教授の命名による)のふるまいを対象に考えてみよう。工場などは、典型的な第2種のシステムである。

スマートではない、とは、たとえばこんなことである:

(1) 現状が分からない:ふるまいの全体状況が、リアルタイムでわからない。例えばドアをバタンと閉めて部屋の外に出てしまうと、中で何が起きているか、働いているか止まっているのかすら、わからない。これではスマートとは、言えない。

(2) 過去は忘れる:過去のふるまいの記録が残っていない。あるいは、記録は残されていても、簡単に検索や分析ができない。これではスマートとは、言えない。

(3) 先を予見しない:先にどうなるかを予見しないで、ふるまう。そんなことをすれば障害につきあたるのは明らかなのに、やってしまう。そんなことをすれば障害にぶち当たるのは明らかなのに、やってしまう。これではスマートとは、言えない。

(4) 目的意識なく、受動的で後手後手:主体的な意図や、目的意識を持つことが、スマートさの1つの条件であろう。リモコンで命じられたかのように受動的で、ただその場その場で降りかかるリクエストに、後手後手で応じているだけでは、スマートとは言えない。

(5) 問題に気づかず放置する:何か局所的に問題が生じても、全体としてそれに気づかず、放置されたままになってしまう。あるいは正常であるかのように、ふるまいが続く。その結果、当然ながら解決に時間がかかり、影響がさらに波及してしまう。これではスマートとは、言えない。

(6) 価値に結びつかぬ無駄な動きだらけ:先ほどの双腕ロボットの例のように、立派なリソースを持っていながら、価値を生み出すような働きは何もしない。立派なリソースを持っていながら、価値を乱すような働きは何もしない。ムダについては、世の中に言説がたくさんあるから、これ以上は深入りしないが、無駄なふるまいは明らかに、スマートとは、言えない。

(7) 学びの枠が狭く、似たような失敗を繰り返す:経験に学び、そこから改善すること。あるいは先人の知恵や技術に学び、それを自分のふるまいに活かすこと。これが賢さの源泉である。ところが、「学び」の枠組みが狭く、視野や注意が固定されてしまうと、自分の失敗から上手に学ぶことができない。そして似たような失敗をくりかえす。こうした例を、周囲で見かけたことはないだろうか? これではスマートとは、言えない。

以上の7点について、反対概念を考えてみると、スマートさの中核が見えてくる。それは、次のようなことだ。

1. 現在を正確に把握
2. 過去を記憶
3. 将来を予見
4. 意思と目標を実現すべく計画
5. 問題にすぐ気づき解決する
6. 無駄なことはしない
7. 経験から学び、学びの枠を柔軟に拡げる

一言でまとめるなら、「全体を考えて判断し、自律的にふるまう」である。こうした人がいれば、賢い人だと思うだろうし、こうした仕組みを見たら、スマートだな、と感じる。

こうした基準を元に、たとえば工場ならば、「指示のスマートと実行のスマート」、あるいは「機械のスマートと、製品(もの)のスマート」といったテーマを敷衍することができる。が、例によって長くなってきたので、また別の機会に書くことにしよう。

「全体を考えて判断し、自律的にふるまう」のだから、部分部分が自律的でも、全体を見て判断できる仕組みがなければ、スマートとは言えない。つまり部分的なスマートを積み上げたって、全体がスマートになりはしないのである。そして、たとえ全体を見て判断する仕組みがあっても、自律性、すなわち自分自身のビジョンがなければ、やはりスマートとは言えない。

こうしたことを含めて、あらためて「スマートさ」を考え直すべきときに来ているのではないだろうか?


# by Tomoichi_Sato | 2018-05-26 11:24 | 工場計画論 | Comments(1)