「感情を知る〜感情学入門」福田正治・著 (Amazon) 前回の記事でも書いたことだが、「知的な人間はフェイクニュースや陰謀論に騙されない」といった意見を、わたしはあまり信じない。と言うのも、人を騙そうとする言説は、受け手の理性よりも、むしろ隠された感情の回路に、訴えかけるようにできているからだ。 わたし達は自分の感情の状態や、その無意識な反応の癖について、よく自覚していないことが多い。仕事においては、それが知的職業と言われるものである限り、理性に基づいて進めるべきものだと信じられている。「感情的になるなよ」といったアドバイスも、よく見かける。 家庭や趣味の世界ならいざ知らず、職場では感情を強く表出したり、感情のままに流されてはいけない、と考えられている。 かくして、わたし達は自分の感情を自分自身から遠ざけ、それをある意味、疎外しながら生きている。「自分は知的だ」と信じる人たちも案外、自分の感情面には無頓着である。だから、他人を動かしたい、説得したい、さらに他人を騙したいと思う人間は、他者の隠された底流の感情に訴える。 そのようにして、他人から操作されるのを避けたければ、自分自身の感情を知り、そのあり方や仕組みを理解しなければならない。 ところが不思議なことに、この『感情』という代物に真正面から取り組もうとすると、案外頼りになる道標がないのだ。感情については、心理学を始め、精神医学・脳科学・社会学・哲学など、 様々な学問が関わっている。その上、 小説・演劇・映画・音楽などなどの文化やアミューズメントが、題材にし舞台にしている。 にもかかわらず、じゃあ感情とは基本的に何種類あるのか、どのような相互関係や構造になっているのか、どんな生成プロセスや動力学に従っているのか、改めて問うてみると、答えはなかなか見つけにくい。不思議なことである。 感情は人類の歴史とともにあり、いや、それどころか進化論的には動物にだってあって、 行動に大きく影響しているのだが、あまり明確に分析した論述を知らない。 そのような中で、本書は感情を真正面から取り上げ、「進化論的感情階層仮説」を提出し、感情の問題を総合的に解明しようという、希有な書物である。 著書の福田正治氏は、神経生理学と行動科学の専門家で、富山大学医学薬学部の教授である(2003年出版当時)。 本書は、まず感情の分類から始まる。 西洋哲学における分類として、ギリシャ哲学・スコラ哲学・デカルト・スピノザなどに触れ、ついで中国・仏教思想の見方を紹介する。 喜怒哀楽という言葉は、儒教の「礼記」の言葉だそうだ。 仏教には感情を表す言葉は無いが、しかし苦しみの感情の原因は欲望である、という構造論を持っている。 さらに著者は心理学、動物行動学、臨床精神医学などをレビューするが、現時点では感情分類の決定打は存在していないようだ。 そこで著者は、動物を基準に「基本情動」が存在すると考え、進化論を手がかりにその階層構造をモデル化する。 マクリーンは原始爬虫類脳・旧哺乳類脳・新哺乳類脳からなる「脳の三位一体説」を唱えた。このうち、人間のみが発達した大脳新皮質を持つ。そして著者は、動物にもあるレベルの働きを『情動』、人間のみのレベルにある複雑な働きを『感情』と呼んで区別する。 図を見てほしい。一番下にある、原始情動は「快・不快」である。そして中間にある基本情動は、「喜び・愛情・怒り・恐れ・嫌悪」だとする(これらは脳の中で異なる神経回路に基礎を持つ)。そして最上層部にあるのは、人間の複雑で多様な感情である。なお、「驚き・注意・興味」は、脳の中でかなり異なった進化の系列をたどるため、図の左側に分けて描かれている。 ![]() #
by Tomoichi_Sato
| 2025-02-07 12:04
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昨年、編集者の若林恵氏が哲学者・岡本裕一朗氏を講師に迎えて企画した、『陰謀論の哲学』 という全6回のレクチャー・シリーズを聴講した。ちょうど米国大統領選挙でトランプが(接戦だというマスコミの予想報道にもかかわらず)勝った時期でもあり、タイムリーな企画だったと思う。 岡本氏の講義も、学者らしく様々な知られざる知識がちりばめられていて、なかなか面白かった。ユダヤ人陰謀説の定番「シオンの議定書」なる偽書が、いかにフランス駐在のロシア秘密警察と関係していたか、とか、『アメリカの反知性主義』のホフスタッターが、50年代のマッカーシズムの熱狂への反省・批判として、パラノイアという用語を初めて政治学で使ったとか、とても興味深い。 また、「空飛ぶ円盤」の目撃証言は世界中にあるが、国家の関与と結びつけられるのは世界中でアメリカだけだ、などは抱腹絶倒の指摘だった。陰謀論って何やら、アメリカが本場でありメッカであるらしい。
岡本氏は、「陰謀=秘密の共同謀議」と定義する。これは妥当なところだろう。その上で、陰謀論をいくつかのレベルに分けて論じていくのだが、正直いささか判りにくい。そこで以下は、岡本氏の文脈とは離れて、わたしが聞いて考え感じたことを、備忘録として書いていきたい。 まず、個別の事件に共同謀議の関与を疑うことと、一群の事件の背後に(あるいはほとんど森羅万象に)共通した謀議の存在を信じることは違う。後者の段階にまで進んだ人間だけを、『陰謀論者』と呼んで区別すべきだろう。 ケネディ大統領の暗殺はオズワルドの単独犯行だった、と信じているアメリカ人が一体どれだけいるのかは、知らない。だが、あの事件の背後にはもっと何かあったのではないか、と疑う人を全員、陰謀論者よばわりするのは、いささか不適切だろう。同時に、陰謀論に関する議論が急増するのが、'64年のケネディ事件の前後からだ、という岡本氏の指摘は重要で、たしかに世の中の何らかのターニング・ポイントが、あの頃あったらしいことを示唆している。 さて陰謀論者は、世の中の大きな事件で、公式に通用している説明は嘘で、背後に別の真実がある、と考える。そして世の中の主要な情報チャネルは操作されている(少なくとも汚染されている)、真実が我々から隠蔽されている、と考えている。この「情報チャネル」が、わたしには陰謀論の理解にとって大事なポイントに思えるのだ。
古代から中世、近世にかけて、重要な情報と真理の供給元は宗教であった。情報自体はマーケットやバザールなどの口コミや、活版以前の印刷などでも伝えられたが、流量は限られたものだった。 近代以降、情報の供給ルートを支配してきたのはマス・メディアである。出版、新聞、ラジオ、そしてテレビだ。 マス・メディアが産業として発達した背後には、大衆社会の興隆がある。近代化と産業革命によって、大衆が「消費者」として経済の中で重要な地位を占めたからだ。産業資本は、かれら消費者への情報伝達とアピールが重要な課題となった。 商品取引には、必ず商品に関する情報伝達が付随する。商品を知らなければ、商品を買わない。そこで広告が必須となる。そして広告が産業として成長するようになる。 大衆の力が強くなったのは、近代的な戦争、とくに世界大戦以来の、国民総力戦に応じた民衆のプレゼンスによる部分もある。近世以前の騎士団・武士団による戦争の時代は、そうした特権的階級だけが軍事に関わっていた。しかし国民皆兵が導入されて以来、名も無き普通の人々が動かないと、戦争に勝てなくなった。政治権力でさえ、兵士達の声を無視できない。さらに政治的なアピールの伝達も、「選挙」という名前の、販売競争では重要である。
ところで、こうしてメディアを通じて配給される情報が、本当に正しく信じるべきかどうか、受取り手の側はどう判断し対応してきたのだろうか。 かつての古き良き時代、新聞・テレビなどは「ジャーナリスト」というプロフェッショナル集団であり、その職業倫理によって行動すると信じられてきた。それが、提供する情報の客観性や真理性を裏書きしてきた。ジャーナリズムはある意味、非営利的な存在であるはずだった。 それゆえ、「新聞が書いていた」「テレビで紹介された」は、その内容が真実で信頼に足ることの保証として、受け止められてきた。つまりマス・メディアは、真理を認定するシステムでもあったのである。 メディアが発達する以前は、大学がその役割を担っていたし、今でもその名残は随所にある。「有識者」とか「知識人」とか呼ばれる人たちの、少なからぬ部分は学者、つまり大学の先生達だ。さらにもっと昔は、宗教が真理認定の役割を果たしてきたが、さすがに今日の近代社会では、その神通力は薄れている。 ともあれ、何が真理であるかを判断し裁定する権限を持つ人々を、権威者と呼び、権威者の階層的なあり方・維持の仕組みを、「権威」と呼ぶ。これらは元々、お金とか社会的権力とは、独立した存在であるはずだった。マス・メディアもまた、権威の一種としてふるまってきた。
さて、マス・メディアを通じた情報供給は、世の権力者や産業資本にとって死活的に重要である。それらは普通、広告とプロパガンダという形で、流通する。結果として、広告からの収入は次第にマス・メディアで比重が高まる。新聞書籍など媒体の販売収入よりも、広告収入がメインになっているようなスタイルを、「広告モデル」と呼ぶ。 じつは現代のメディアのほとんどは、広告モデルで運営されている。無償で情報は提供する。その費用は、広告主が負担する。それが広告モデルだ。わたしの友人に大手雑誌編集者がいるが、最盛期には誌面の約4割が、じつはスポンサーつきの記事制作だったといっていた。 そして広告モデルはゆっくりと、マス・メディアが非営利的で独立したジャーナリズム組織である、という構図を浸食していった。出版・新聞・テレビは次第に、メディア産業という、営利企業に変身していった。日本の系列化や米国のM&Aはそれを加速した。 そしてネットの登場である。ネット時代になって、今、ほとんどのアナログ・メディア産業は「生き残りをかけた」企業戦略の構築に必死になっている。だが新聞の発行部数の驚異的な急落を見ると、その命数は尽きかけていると、言わざるを得まい。かれらが広告から独立することは、ほぼ期待できない。
では、今や情報チャネルの主流となったネットは、どういう世界か。インターネット初期の、誰もが最新の正しい情報にオープンにアクセスでき、自由なデジタル民主主義の実現する場だ、というカリフォルニア風な自由幻想を、今でも信じている人はどれだけいるだろうか? ネットには真偽まじえて情報が行き交っているが、偽の方がずっと比率が多い、と感じていないだろうか? なぜなら、ネットの大手プラットフォーマー達も、じつは大多数が広告モデルで動いているからである。我々が旧マス・メディアの代わりに情報世界への窓口として使っているSNSやネット・メディアも、実は広告によって汚染されている。こう疑っている人が多い。 このような状況では、よく知っている少数の人とのクローズドなサークルに実名で閉じこもるか、逆に匿名空間でフェイクなアイデンティティを作って活動するか、といった行動の二極化が起こりやすくなる。前者はホンネと感情沼の世界、後者は見栄とハッタリの世界。どちらも平安を得にくく、精神衛生によくない。 昔と違い、情報は無料で好きなだけ手に入れることができる。わたし達は情報を、その真実性や重要性でなく、直感的な好き嫌いで選ぶようになった。好きな情報は、そのまま鵜呑みにし、好きでない情報は怪しい手形のように割り引いて読む。そんなふうに2極化しがちだ。知的な人は情報リテラシーが高い、といった論議もあるが、それほど単純ではあるまい。
いわゆる極端な陰謀論のどこが問題か。実は、その真偽ではない。あらゆる事件の背後にCIAとかユダヤ人とか宇宙人とかがいると言う説明は、真偽を決めがたい。実証もできず、反証もできないように構成されているからだ。 問題は、それが正しいかどうかではない。それが精神の健康に悪いことだ。あらゆることを説明できすぎる「万物理論」の問題が、そこにある。全てが都合よく説明可能な世界では、逆にわたし達の関与できる割合が少なくなっていく。そうした自由度の小さい中で、わたし達は精神の平衡を保つのが困難になっていくのだ。 疑う事は、それ自体は健全である。教科書を鵜呑みにしすぎる人は、マネージャーには向かないと、このサイトでは何度も書いている。だが、疑わしく真偽を決められない仮説が増えすぎると、わたし達の脳はポテンシャル不安定な状態に陥りやすい。正しいか間違っているかをさっさと決めて、早くポテンシャルの低い安定・安心状態に戻りたいのだ。情報型の社会では、特にそうなる。 多分わたし達は、そうした不安定さにある程度耐える能力を、得なければいけない。「耐えて考え続ける」能力だ。それには訓練がいる。本当は、そうした訓練を高等教育が提供するはずだが、むしろ正解を鵜呑みにすることが求められるのは残念だ。考える訓練のために、安心して議論できる場。それが今、必要とされている。そしてどうしたら作れるのか、ずっと考え続けている。 <関連エントリ> 「おじさん的議論に負けないために」 https://brevis.exblog.jp/30189360/ (2022-12-05) 「問題解決への出発点とは」 https://brevis.exblog.jp/30196826/ (2022-12-14) #
by Tomoichi_Sato
| 2025-02-01 09:57
| 考えるヒント
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このシリーズの前回記事から、半年間もギャップが開いてしまったが、また再開していきたい。プロジェクトのコスト・コントロールから、スケジューリングに話題を転換しようとしているところだった。 コスト・コントロール、そしてスケジュール・コントロールの一番大事な役割は、プロジェクトの『着地点予測』である。いつ、終わるのか。そして、全部でいくらお金がかかるのか。もしもそれが元の計画から乖離している場合は、計画していた費用と期間内に、なんとか納めるよう方策を見いだすことが、大事な役割である。 ちなみに着地点予測というのは、わたしの用語だ。モダンPM理論の世界では、他にあまり適当な用語が見当たらない(知らないだけかもしれないが)。もちろん、"at Completion"という言い方はある。Cost Estimate at Completion(完成時総原価予測)=略してCost EAC、のように。また、"to Complete"のような形で、Cost Estimate to Complete = Cost ETC(残作業コスト予測)でも使う。 ただ、そのような値を予測する作業自体を指す、適切な言葉がないので、着地点予測と呼んでいる。なお、コストの代わりに完了日程を予測する場合は、Time EACといったり、Estimated Completion Date = ECDと呼んだりもする。 ちなみにプロジェクト・コントロール業務の対象は、コストとスケジュール以外にも、スコープ、品質、ドキュメント、コミュニケーション、リソース、変更、リスク等々、いろいろある。その中で、コストとスケジュールが一番重視されるのは、もちろんお金と納期で縛られるからでもあるが、それ以外の項目には、なかなか定量化しにくいものが多い、という事情もあったりする。
さて、上記のETCとかEACの用語は、いずれも"Estimate"(見込み・見積)という言葉が使われている。なぜだろうか。なぜ、たとえば"Plan date"とか"Planned cost"という風に、Plan(計画)という言葉を使って言わないのか。 実はそこに、重要な違いがあるからだ。Estimate(見積)やForecast(予測)などは、客観的に決まる計算値のことを指す。一方、Plan(計画・予定)には、そこに計画者の意思決定が込められた数値になっている。 拙著『革新的生産スケジューリング入門』でも書いたように、 「計画=予測+意思決定」 なのである。先のことは分からないので、現状や先行きの環境について、様々な仮説がありうる。計画者はその中から、自らの価値観にとって最も適切と思えるものを選んで、予測値に補正を加える。これが計画値である。 残念ながら、わたし達の社会では多くの企業において、予測と計画の二つがきちんと区別されずに、ごっちゃに使われている。いや、それどころか、人の尻をたたくための目標の概念まで持ち込まれる。営業の持ってくる数字が、売上目標なのか、販売計画なのか、それとも需要予測なのか分からず、頭を抱える技術屋をよく見かける気がする。 予測、計画、目標は、別の概念である。予測(Forecast)は客観的なものだ。天気予報をWeather forecastと呼ぶように。開花予報の日が3月21日なら、その日に花が咲くだろう。これは、異なるプロが予測しても、そうブレたりはしないはずだ。しかし、だから完成記念パーティを3月23日にしようと計画するとしたら、これはもう意思決定が入っている。花ひらく下で、気分良く楽しみたい、と。 そして、だから(少し余裕を見て)3月20日までに完成必須だぞ、とメンバー全員に知らしめるとしたら、これは目標である。目標は多くの場合、モチベーションを引き出すため計画よりも少し「背伸びをした」数値になる。つまり理性的判断だけでなく、感情的尺度も入り込むのである。だから計画と目標は、意思決定する人によって少しずつ違う可能性が高い。
さて、客観的予測であるForecast/Estimateに戻る。プロジェクトではしばしば、計画と現実がずれていく。それもたいていは、望ましくない方向にずれていく。かりにプロジェクトの中に、上流側工程と下流側工程があり、別々のメンバーが担当するとしよう。当初、プロジェクト計画で、上流側から中間成果物を下流側に引き渡す日程を決めていた。しかし様々な理由で上流側が遅れている。では、下流側はどんなつもりで準備していたら良いか? 元々の計画における引渡の予定日は、Plan Dateである。実際に引き渡した実績日は、Actual Dateだ。かりに、Plan Dateは3月31日だったとしよう。現状を見ると、その日に引き渡すのは無理そうだ。だからまだActual Dateは空欄だ。 このときに、プロジェクト・コントロール業務の担当者は、引継ぎの『予測日』Forecast Dateが、4月12日だ、という風に下流側に告げるのである。これは計画でもない。実績でもない。その間にある概念だ。でも、プロジェクト・マネジメントには、これが必要なのである。 ところで面白いことに、サプライチェーンに関係する輸送業界では、よく類似した概念が存在する。海運や航空業界では、船や航空機の発着に関連して、2組・3段階の、合計6個の日付を使う。STD/STA, ETD/ETA, そしてATD/ATAである。 頭文字のS, E, Aはそれぞれ、Scheduled(時刻表上)/Estimated(予定)/Actual(実績)を表す。真ん中のTはTimeで共通、最期のDとAは、Departure(出発)とArrival(到着)の意味である。そして、貨物輸送や旅客輸送の業界では、やはり元々の計画であった時刻表と、過去の現実を表す実績だけでは不便で、業務を回すためにForecast Dateが必要なのである。 ![]() #
by Tomoichi_Sato
| 2025-01-25 16:19
| プロジェクト・マネジメント
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あるとき、日本のオーケストラに関する文章を読んでいたら、高名な音楽家バーンスタインのこんな発言にぶつかった。 「このオーケストラ(N響)のことは、セイジから聞いて私は知っているんだ。たとえば指揮者がフルート奏者にイントネーションが少し違うと伝えたくても、気軽に指摘することは許されない。だからこのように言わないといけないそうだよ。”あの……演奏者さま。申し訳ないのですが、あなたの演奏はイントネーションがちょっと高いようなので、できればもう少し下げて演奏してみてもらえないでしょうか?”」 (大友直人「あのN響が世界的指揮者に笑い飛ばされたワケ ~ バーンスタイン氏の痛烈なひと言」 ) 著者の大友直人氏は指揮者で、若い頃にバーンスタインから直接聞いた発言として書いている。セイジとは故・小澤征爾のことで、彼はバーンスタインの助手だったが、N響とトラブルを起こしたことがあり、だからこういう大げさな言い方をしたのだ、と推測している。つまり、大友氏はバーンスタインの批判に同意していない訳だ。 そうなのかもしれない。だが、別のところで、作曲家の久石譲氏がよく似たようなことを言っていた。久石譲氏は日本では特にジブリの映画音楽で知られているが、指揮者でもある。彼によると、海外のオーケストラに比べて、日本の楽団は非常に気をつかう。指揮者として単純に指示を出せず、「お願い」しないといけない、というのだ(別に特定の楽団を指している訳ではないらしい)。 もっとも直接本人から聞いた訳ではなく、伝聞である。しかも久石譲という人は、日本のクラシック音楽業界の感覚では、すいぶんとカーストが低い人だから、オケが軽く見てあまり言うことを聞かない、という可能性だって、ありそうだ。さそうあきらのマンガ「マエストロ」 でも、第一バイオリン奏者が怪しげな指揮者を警戒して言うではないか。「指揮者はオーケストラの敵だねっ。」・・でもまあ、外国人指揮者、それこそバーンスタインとかカラヤンとかだったら、ごく忠実に指示に従うのかもしれない。
だが、日本の楽団に関するこうした話を聞いて、なぜかわたしは工場での着手完了入力のことを思い出した。ご存じの通り、工場には複数の工程や設備が並んでおり、部品の加工や組立ては、それら一連の作業を通って、製品として完成される。 顧客から受注した製品の納期をたずねられたら、それを構成する部品群が、それぞれ工場のどこの工程まで進んでいるかを把握しなければならない。従来のアナログな工場では、加工対象の現物と、それに添付して流れる紙の現品票だけが、進捗管理の頼りだった。だから生産管理担当者は、現場をあちこち駆け回って、部品の所在と進度を確認する必要があった。こういう仕事だけを専門にやる「進捗追っかけマン」職種のいる工場だって存在する。 ところがバーコードやRFIDの普及は、この消耗で生産性に寄与しない仕事を、不要にすることができる。現品票にバーコードを印字したりRFIDを添付しておき、各工程では、作業担当者が着手時と完了時に、バーコードリーダやRFIDリーダで、それをスキャンすれば良い。現代の生産管理システムや工程管理パッケージ(製造実行システム=MES)には、こうした入力を受け付けるインタフェースを備えているものも多いから、各部品の進捗状況をリアルタイムで収集することができるはずである。 ところがこれが、日本の工場に限っては、なかなか実現できないのだ。まず、現場の抵抗に遭う。現場側は、「できない」理由をたくさん挙げてくる。技能員が機械を複数台持ちしている、現場に入力端末のための電源やWiFiが届かない、バーコードの汚れや破損時の対応が難しい・・ こうした事は、どれも技術的問題だ。だから技術的に取組めば、何とか解決可能である。だが本当の障害は、技術面にはない。本当の理由は、現場の人間の感情面にある。 「そんなの面倒くさい。今までは無かった作業の追加だ。そんなことをしても、ものづくりのコアの仕事の足しには1mmもならない。」そして、「なんで俺たちが、こんなオフィスから来た他部門のIT担当者の指示を聞かなくちゃならないんだ。」ーー口には出さないが、これが多くの本音であろう。 同じ日本企業に属する工場なのに、海外工場はパッケージソフトが導入できて、日本のマザー工場だけはうまく導入できない、というケースもよく聞く。その背後には、『ものづくり』という直接業務以外の、一切の間接業務を余計な仕事と感じる、一種職人的なメンタリティーがある。さらにその底流には、「よそ者に指示されたくない」という感情の流れがあるのではないか。
指示・決断は、マネジメントという仕事の中核である。『マネジメント』という言葉の一番根幹の意味は、「人に働いてもらうこと」にある。働いてもらうにあたっては、目標やプランを決め、迷いや問題が出たら決断しなければならない。とくに複数の人が働く組織で、分業が行われていたら、全体を見て指示・調整する役割が必要である。 つまりマネジメントとは、『役割』なのである。工場では生産管理担当セクションが、生産計画を決め、製造指図を出す。製造現場はそれに従って動く。生産管理が製造部の中にある会社も、部として横に独立している会社もあるが、とにかく生産管理は一種の役割である。生産管理者が現場の技能員の「上位」の地位にいる訳ではない。 ところで、生産管理の指示と、現場側の裁量のバランスは、日本では現場側に秤が傾いている。日単位の作業の着手順などは、現場側の裁量に任されるケースが、わたしの知る限り大多数である。また指示がなくても現場が自発的に作業に動くこともある。 ところが、これが海外工場となると(欧米であれアジア・中東であれ)、基本「指示されたことだけする」形になる。指示されたら、必ず従う。指示されないことは、必要に思えても、しない。労働契約も、そうなっている。作業の着手完了時にバーコードをスキャンしろ、と指示されたら、従う。「そんなの自分の仕事じゃない」とは言わない。 良し悪しを論じているのではない。また「日本だけ特殊だ」「遅れている」という話ではない。ただ、違いを述べている。そして、この違いを理解しないと、海外のやり方を取り入れるときに、気づかぬ障害が起きかねないと思って書いている。
ここから先はあまり数値的エビデンスのない定性的な話になるが、日本の組織は、自分が属する職能集団の上位者以外からの指示を、嫌うように思える。仕事のやり方は自分たちが一番よく知っている、だから外部から余計な指示はされたくない、と。 指示を聞くのは、「自分が属する職能集団」の先輩・権威者、というのがポイントである。きわめて職人的なメンタリティーかもしれない。現場の作業者は、直属のチーフ・係長・課長・・の指示ならば聞く。しかし斜め上とか外の部門からの指示は嫌う。 会社の仕事を大きく変えるような取組みは、普通、複数部門をまたがったクロス・ファンクショナルなプロジェクトになる。そうした取組みでは、上に役員クラスの責任者もいるだろうが、実質的にはリード役のキーパーソンがどこかの部署から出る。そして、他の部署から見ると、その人間は「外の人」である。 プロジェクトの決定事項は、この人からの決断・指示に見える。だから、心理的には聞きたくない。口には出さないが、意識下ではそういう感情が流れる。こうした感情こそが、「製造業のプロジェクトがうまく進まない、本当の理由」 にも書いた、日本の製造業の問題に通底しているのではないか。 ただし、例外が二つある。一つ目は、買い手だ。買い手からの指示は、一応ちゃんと聞く。この国では(いや、どこの国でも大抵そうだが)商取引では、売り手より買い手の方が、一般に強い。権力勾配と呼んでもいい。とにかく、お客に言われたら従う(内心不満であっても)。これが、我々の社会のエートスである。 もう一つは、青い目の外人である。明治維新この方、真の本物は、海の向こうから来ることになっている。本家・本場は、西洋にある。だから彼らに従うのは、別にプライドも傷つかない。
ところで、あなたは車を運転していて、交通整理のお巡りさんに指示されて従ったら、プライドが傷つくだろうか? そんなことはあるまい。それは別に、その警官に権力があるから、ではない。たまたまその警官は交通整理の役割をしていて、自分は運転手の役割だから、それに従ったまでだ。 つまり、指示されることとプライドが関係するのは、その指示が自分の仕事の「質」や「手間」(生産性)に関わる場合なのだ。もっと言うと、指示が仕事のスキルやプロセスに関わるときである。交差点で一時停止しても道を譲っても、それは運転の質には関わらない。製造部が生産管理セクションの指示に一応従うのも、それと同じだ。 もう一つ。交通整理のお巡りさんは、毎回変わる。固定的な関係ではない。上下関係でもない。わたし達の社会では、ほとんどの指示は「固定的な上下関係」から来る。つまり、地位だ。いわゆるタテ社会で、わたし達は地位の上下をめぐって毎日しのぎを削っている。その上下を決めるのは、仕事の質や成果だと、わたし達は思っている。それなのに、それと無関係な斜め上から指示されると、仕事の質を批判されたかのようにプライドが感じるのだ。 ここで最初のオーケストラの話に戻ろう。バーンスタインは、日本の楽団の演奏技術を批判したのではない。指示に対する体勢(スタンス)を批判したのだ。個々の演奏技術と、組織としての動きは別物である。ソロの技巧は高くても、オケ全体がバラバラでは音楽にならない。逆にアマチュアでも、一糸乱れず活き活きと演奏する姿に感動することは、よくある。 指揮者は器楽奏者に、具体的なテクニックを指示できる訳でもない。ただ、そのアウトプット(音量や音程やタイミング)の要求仕様を、伝えているだけである。全体の構造の中で必要なことを、伝えている。全体を構想して、指示を与え、形にしていくのが指揮者の仕事だからだ。指揮者は独立した専門職であって、それなりの教育と訓練を受けなければ、なれない。 そしてもちろん、指揮者はオーケストラの上司ではない。オーケストラを雇っている訳でもない。普通は任期付きの役割である。指揮者は指示し、オケは実行する役割だ。である以上、その決断と指示に従ったからと言って、演奏家=アーティストとしてのプライドが関わるだろうか? 指示と実行は、車の両輪だ。どちらが上位か下位かの問題ではない。それは役割の違いなのである。両方がそろってこそ、優れた細部と、素晴らしい全体が両立する。わたし達はそろそろ、指示・決断と上下関係とを切り離して、よりオープンな体勢(スタンス)に移行すべき時にきているのではないだろうか? <関連エントリ> 「製造業のプロジェクトがうまく進まない、本当の理由」 (2024-12-01) 「書評:『マエストロ』 さそうあきら」 (2014-09-19) #
by Tomoichi_Sato
| 2025-01-16 19:32
| ビジネス
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「プディングの味は、食べてみないとわからない」という西洋のことわざがある。物事の中には、実際に自分で体験してみないと、わからないことがある。言葉での説明が難しい、言語の伝達だけでは尽くせない何かがある、という意味のことを言っている。大抵の物事は、言語できちんと記述・伝達可能だ、と信じる西洋文化だからこそ生きる、逆説的なことわざである。 マネジメントもそういうものだと、わたしは思う。マネジメントにはいろいろな流儀やスタイルがあるし、あって良いが、明らかに上手・下手がある。自分が属する部門であれ、たまたま自分がアサインされるプロジェクトであれ、あるいは会社全体の経営であれ、マネジメントにはレベルの上下がある。できれば上手なマネジメントの下で働きたいし、自分がマネージする立場の時は、うまくやりたい。 だが実は、マネジメントが本当に上手かヘタかは、事後的にしかわからないのだ。事前にマネージャーの経歴や資格や人材スペックをいくら見たって、それで安心して評価できるだろうか? あなたが仮に、誰か外部の業者にプロジェクトを発注するとして、提案書に書かれている経歴や手順で、自信を持ってその企業のマネジメント・レベルが判断できるか? 言葉では、何でも書けるではないか。だがマネジメント能力は言葉だけでは判別できず、プディングの味は食べてみないと分からないのである。
わたしの働くエンジニアリング業界では、大型プロジェクトに取り組む際に、しばしば複数の企業(ライバル同士)が「ジョイントベンチャー」(JV)を組成する。つまり一緒に仕事をするのである。1社だけではリソースが足りないとき、あるいは1社で受けるにはリスクが大きすぎるとき、そうする。初めとの相手と組むことだって、当然ある訳だ・・ 「どうだった?」 「いやー、ビックリしました。あの会社、『コレスポンデンス・コントロール』の概念が無いんですわ」 「な、なんだそれ。」 ——海外のJV相手からの出張から帰ってきた人間が、週次ミーティングでこう報告してきた。JV相手側で調達業務がトラブっているため、調べに行ったのだ。 コレスポンデンス(略称コレポン)というのは、会社間の公式なやりとりの事である。コレポンには普通、通しのNO.が発番されており、かつ発信者と受信者の略号が付記される。そして、プロジェクトでコレポンの全リストを保持・共有する。 これにより、「貴方が何月何日に誰それに打った、No. XX番のコレスポンデンスによれば、当該系統の電源条件は○○だが・・」という風に、明確にリファー可能な形で伝達し合うのである。リクエストやオーダーの発信・受信確認や、アクションのオープン・クローズなどにも用いる。 コレスポンデンス・コントロールは、「言った・言わない」の無用なトラブルを防ぎ、かつ、だらだらと長いチェーンメールの下の方を参照するような、分かりにくいやり方を避けることができる。つまり、コミュニケーションのトレーサビリティを上げる方法である。 多くの場合、コレポンはメーリングリスト的な仕組みを媒介して伝送しあうが、Webサイトの書き込みや添付ファイルの場合もある。一昔前だったらFAXだったろうし、TELEXや紙のレターの時代から、こうしたやり方をとっている企業はあった。ところがこの現地のJV相手は、担当者間のメールだけで発注先と連絡を取り合っているという。 「発注先ベンダーが5社や10社なら、それでもいいよ。しかし数十社を超えたら、メールだけだと誰に何をいつ言ったのか、トラッキングできなくなるじゃないか?」 「そうなんですよ。小規模なプロジェクトしか、経験したことが無いんでしょうね」 「それじゃ他のマネジメント業務のクオリティも、推して知るべし、だな。プログレスの把握とリソースの掌握も、よほど注意して見ていく方が良いぞ・・」
コレスポンデンス・コントロールは、プロジェクト・マネジメントのほんの一部の領域でしかない。だが、一事が万事、である。マネジメントの分野では、一部を切り取ってダメだったら、他が格段に素晴らしいことは期待しがたい。 そして念のために言うと、上記のJVパートナー企業の設計能力がダメだという事ではない。技術的には、必要なレベルには達している(だから組んだのだ)。だがマネジメントの仕組みが足りないために、内部での情報のやりとりがグズグズになることを心配しているのである。どんなに個人個人のエンジニアが優秀でも、インプットの情報伝達が怪しければ、良い結果は出せない。 マネジメントとは舵取りであり、情報処理の仕事である(交渉と説得なども「情報」と広くとらえれば)。そして情報には、一種の『質量転化の法則』が働く。処理すべき量が増えると、質(処理の仕方)の変化を促すのである。外注先のマネジメントだって、数社相手なら担当者の記憶だけでまかなえても、数百社ならリストの共有と番号によるコントロールが必要になる。数人のチームなら、顔と名前と能力は覚えていられる。だが百人単位の組織では、職務記述と能力表が必要になる。一事が万事、なのだ。 だから、ビジネスの規模が大きくなったら、異なるマネジメントの仕組みとレベルが要求される。会社が成長するためには、ワンランク上のマネジメントがいる。記憶と主観と定性的な判断から、数値的で客観的な把握とルールベースの判断基準が望まれる。判断が属人的でなく、メトリクスと原則に基づくものになる。 こうした高度なマネジメントでは、様々な手法やテクニックが組み合わさった「方式」「システム」になっている。もちろんマネジメントにはサイエンスとアートの要素があり、マネージャーの資質やスキルに依存する部分も必ず残るが、それを余計な判断に浪費しないですむようになる。 とはいえ、こうした「マネジメントの質的な違い」は、なかなか体験してみないと分からない。企業が外部に提出する、製品・サービスとか情報(設計図等)を個別に見ても、固有技術レベルの差は見えるだろうが、企業内部のマネジメントの良し悪しは、見えにくい。 マネジメントの良し悪しは、利益すなわち財務諸表に出るはずだ、って? そうだろうか。マネジメントは判断プロセスに関わるものだ。決算は結果でしかない。それに企業業績は、とりまく市場環境に大きく左右される。好景気で市場全体が成長していたら、平凡なマネジメントでも会社はどんどん利益を拡大できる。企業内の大半の仕事はオペレーションで、マネジメント業務はごく一部である。もし現場にオペレーションを全部任せて、同じ製品を繰返し量産しても利益が出るなら、マネジメントなどお飾りでいい。 逆に言うと、マネジメントの上手下手は、逆境の時にこそ分かるのだ。なぜなら、マネジメントとは「適応能力」「問題防止能力」のためにあるからだ。
つまり、マネジメントというのは、金銭的価値だけでは評価しにくいのである。じつは、上手なマネジメントのありがたみは、「感情的価値」=安定感・信頼感にあるからだ。従業員にとってのワクワク感、顧客にとっての信頼感、投資家にとっての安心感。これらはすべて、金銭では測りにくい、主観的な価値である。 だから、わたしはよく、カーナビの例えを使う。カーナビがなかった昔と今は、何が違うか。それは安心感、ないし見通しの良さだ。カーナビをつけたって、運転それ自体がうまくなるわけではない。アクセルを踏みハンドルを切るのはドライバー自身だ。だが、現在位置を正確に表示し、目的地までのルートを提示し、到着時刻や速度などを予測してくれる。だから、ドライバーの判断の質が向上する。ここに、ナビの価値がある。 では、外から見て分かりにくい上質なマネジメントを、どうしたら知ることができるのか。考えられる方策は、三つある。 一番良いのは、ワンランク上の企業に出向して、その中で体験することだ。できれば2年程度は必要だろう。なぜならマネジメントの価値は「いざという時」こそ分かるからで、優れた企業ではそんなに緊急事態は発生しない。 ただし、この方法の問題点は、他社で体験した個人が元の組織に戻ったときに、それをうまく伝えてポート(移植)できるかどうかにある。日本の慣例として、出向に出せるのは実務層まで。部門長レベルを出向で勉強に出すことはめったにあるまい。でも知って変革をドライブすべきなのは、この層なのだ。 二番目に良い方法は、ワンランク上の企業と、一蓮托生のジョイントベンチャーをすることだ。こうすると実務層からミドル層、そしてエグゼクティブ層まで、否が応でも相手と接して、そのやり方の違いを実感することになる。JV以外でも、協力の仕方はいろいろあるが、JVは共通の財布で利害も共通する点が特徴だ。一緒に仕事し一緒に判断するためには、情報もやり方もある程度開示しなければならないからだ。 たとえて言えば、これは運転の上手な人の助手席に座らせてもらうようなものだ。どこが優れているか、どう安心か、体感できる。とはいえ、JV方式が一般的な業界ばかりではない点が、このやり方の限界かもしれない。 そして三番目の手段は、ワンランク上の企業に、マネジメント実務の一部を支援してもらうことだ。たとえば大規模プロジェクトを進める差異に、PMO的な業務を外部専門家に委託する方法である(これをプロジェクト・マネジメント・コンサルタント=PMCと呼ぶ)。エンジ業界や建設業界では、PMCを専門とする企業も海外には多く存在する。いってみれば、運転上手な人に助手席に座ってもらい、自分が運転するやり方だ。 ただしこれは、経営コンサルを雇え、という意味ではない。経営コンサルは経営層にアドバイスをするだけで、自分で手は動かしてくれない。PMCは面倒なPM実務(とくに情報収集や分析まで)やってくれる。助手席で地図をめくったり、いろいろ情報収集してナビゲーションしてくれると思えば良い。とはいえ、ハンドルを切るのは自分だ。つまり、大事な決断は自分で行わなければならない。それでも学びはそれなりに大きいはずだ。 マネジメントという仕事は、言葉で伝えにくく、外から見ても分かりにくい。その価値はお金で測りにくく、だからお金で買ってくることも難しい。体験してみるしかないのだ。どのようにして体験のチャンスを広げるかを考えることが、わたし達の能力をワンランクアップするには、ぜひ必要なのである。 <関連エントリ> 「問題はミッドスケールのシステムで生じる」 https://brevis.exblog.jp/17083095/ (2011-12-18) #
by Tomoichi_Sato
| 2025-01-08 14:10
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