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危機対応のマネジメントをダメにする『政治主義』とは何か


前回の記事(「危機なんて、ほんとに管理できるのか?ーー現場感覚という事」 2020-03-16)では、事前対策的なリスク・マネジメントと、事後対応的な問題管理(イシュー・マネジメント)は、全く別のものだと書いた。別のものだが、もちろんこの2つは車の両輪で、どちらも必要だ。

ただ、わたしの経験では、英米系企業は「計画万能」的な態度が強く、リスク・マネジメントを重視したがる(PMBOK Guideにも、その傾向は伺える)。他方、日本企業は「現場力」に自信を持つ傾向が強く、事前対策は軽視するきらいがある。

だからといって、日本企業は、いったん事が起きたあとの事後対応に強いかというと、一概にそうは言えまい。それは発生するトラブル事象(イシュー)の、種類と数によるのではないか。テクニカルな種類のトラブルには、比較的強いと思う。日本企業のミドルや現場の技術者・ワーカーは、概ね優秀であり、責任感も強い。だから、自分の範囲内で対応できる問題は、個別に解決して、前に進む態度を身に着けているからだ。

しかし、発生するトラブルが非常に深刻なものの場合、あるいはまだ深刻とは言えないが「テクニカルに対応しづらい」種類の、異質なトラブルの場合は、対応に余計な時間がかかるように思われる。非常に深刻なトラブルでは、現場やミドルの裁量権を超えた判断をしなければならなくなる。だが本社組織というのは、しばしば官僚主義に侵されていて、重要な例外的決断になればなるほど、どこで誰が決めるのか分からなくなりがちだ。

テクニカルに対応しづらい種類のトラブルとはなんだろうか? 一つは、通常は想定しがたい異質な他者からの介入・影響、といった問題だ。極端なことを言えば、戦争とかテロだが、そこまで言わずとも、未知の第三者や監督官庁が突然現れて、無理難題をふっかける、という事は、時々ある。

もう一つの例を挙げると、個別にはテクニカルに対応可能なトラブルなのだが、それが妙に多数起きて、組織全体のパフォーマンスが下がってくる、という種類の問題だ。たとえば製造で言えば品質問題が頻発するとか、プロジェクトで言えばジリジリと進捗が遅れて納期を割り込んでくる、といったトラブルである。こうした問題は、ゆっくりと表面化して、気づきにくい。マネジメントが気づいたときには、かなり手遅れになっている、などという事態も起こりうる。

以前も書いたことだが、どんな組織やシステムにも、自分で問題を解決して自己平衡を保つ機構が、ビルトインされている。そうでなければ、その組織は長続きしない。たとえば社会で言うなら、医療機関や保険制度などがそれにあたる。

しかし、そうした自己回復機構には、キャパシティの限界がある。それを超えると、問題を多数抱えたサブシステムが崩壊に向かって、全体のレジリエンス(危機対応能力)が失われてしまう。こういう状態になったら、もう「現場力」だけでは止めようがない。そうなる前に、気づいて手を打つのが、マネジメントの仕事である。

ところが、ここで危機対応のマネジメントに対して、重要な障害になりうる要素が登場する。それは、組織における「政治主義」(=党派主義)の存在である。前回の記事では、「官僚主義的組織」の問題を指摘したが、じつは、それ以上に障害となりうるのが、この「政治主義」的行動なのだ。

「政治主義」とは何か。それは、ビジネスにおける政治的な態度である。すなわち、「経済合理性よりも、個人や徒党の利害・権力争いを優先させる」態度をいう。企業というところは、基本、利益追求の場である。だから、経済合理性が最上位に置かれるのが本来だ。だが、政治主義的な態度の人たちが一定数いると、組織の利潤よりも、その人達の権力獲得や党勢助長が優先されるようになる。あるいは、他の政治主義的な党派との勢力争いが主眼になってしまう。世の中に時々ある、派閥争いがその典型である。

ビジネスにおける政治主義は、三つほどの特徴的な思考習慣を持っている。リーダーシップ信仰、敵失追求重視、そして現実無視の楽観主義である。ひとつひとつ見ていこう。

(1) リーダーシップ信仰

政治主義では、組織のパフォーマンスは、上に立つリーダーのみで決まる、と考える人が多い。そこには、リーダーのあり方以外に、組織の構成員や業務手順や仕組み(システム)にも問題が内在しうる、という発想がない。だから、自分(達)がリーダーになれば、万事すぐ順調になる、と楽観しがちだ。

(2) 敵失追及重視

リーダーシップがすべてを決めると信じているため、自分たちと敵対する徒党のリーダーが、組織の上に立っている場合、失敗はすべて敵であるリーダーの責任と考え、責を負わせたがる。そこで、連座制、連帯責任、任命責任、説明責任、などの概念を用いて攻撃する。

このため、政治主義では、他責的な思考のみが発達する。大きな問題が発生しても、避難措置や原因分析を軽んじ、敵であるリーダーを変えればいい、と考える。全体の利益よりも、自分たちの政治的損得が優先するのである。したがって、一致協力が必要な危機的状況でも、団結力を妨害するように動きがちだ。

(3) 現実無視の楽観主義

上とは逆に、自分たちの徒党がリーダーを出している場合、どんな状況であろうと、「すべては順調」という結論が先にくる。自分に都合の悪い事実は、調べもせず、見なくなってしまう。楽観主義故に、リスクや悲観論を口にする者は、潜在的な敵であり、危険分子と考える。リスク対策的な仕組みは、コストの無駄で、生産性の阻害要因とされ、限界まで切り詰められる事になる。

なにせ政治主義的な人たちは、党派的信条と「やる気」さえあればOK、と考えるので、結論に合わせて現実を説明したがる。だから、手近にある事例や推論は、なんでも武器にする(全体を考える必要はない)。敵の問題は「屁理屈」をこねてでも論難する。自分たちの問題は「言い逃れ」で無視、である。


上記3つの行動習慣の結果として、政治主義が招くのは、客観的・総合的な思考能力の低下だ。言葉を軽んじる者は、結局、思考も軽んじることになる。何よりも、政治主義が跋扈すると、他の集団と、「議論」が成立しなくなってしまう

そもそも「議論」とは何だろうか。まともな議論を行うためには、
・問題解決という共通目的
・客観的事実という共通認識のグラウンド
・事実とデータを積み上げながら、仮設を互いに強化しあっていく作業
が必要である。議論を通じて、複数の視点(それぞれの立場)から、状況がどう見えるかを検討するのである。

もちろん、まともな議論においては、相手のメンツという感情面も配慮することが大切だ。両者が互いに、自分たちの勝利だ、少なくとも一応満足できる、という形で決着するのが、望ましい(ちなみに、参加者の間でゼロサムゲームとなるような事態での議論を、「ネゴシエーション」と呼ぶ)。

という訳で、議論では、事実とデータを重んじ、言葉を大切にする態度が必要となる。にもかかわらず、政治主義の人たちは、言語もデータも、そして現実も軽視する傾向が強い。だから、他者との関わりにおいては、議論の代わりに、貸し借りと「裏取引」だけに長けていく。

自分たちのリーダーが政治主義的かどうかは、日々接している人ならば自然と分かる。ずっと上位の遠い存在の場合は、上に述べた3つの特徴から推測する必要がある。

そもそも、こうした政治主義(党派主義)はどこから発生し、どうして成長してくるのだろうか? 自分の地位や権力、出世を優先する態度自体は、誰の心の内にも潜在的にあると思われる。その底には、承認欲求、制御欲求といった欲求が動いている。その欲求の対象が、組織内の権力や職位に集中するのである。

ただ、このような傾向が増長するにあたっては、社会の(そして組織内の)競争原理の強さが、大きく影響する。そして、「勝った者が皆もらう(Winner takes all)」方式の、利益誘導・格差助長的ルールが、その傾向を強めるだろう。いわゆる「能力主義」「成果主義」などの言葉で今世紀になってから浸透した、あの考え方である。

能力主義自体は本来、官僚主義的な年功序列制度の毒消し、という意味を担っていたはずだ。だが政治主義的な人たちは、「能力=自己の党派に属すること」という短絡思考なので、結果として組織は序列重視、命令服従型組織(軍隊式の組織)になっていく。そして目下の人間の「自由」は、目障りに思うようになる。

政治主義的な党派間では、貸し借りと裏取引で「野合」し、勢力を拡大・膨張していく。野合なので考え方は異なるはずだが、そこは「強力なリーダー」の神話で統一する訳だ(神話なので、本当に強力なリーダーかどうかは、問わない)。危機が起きると、リーダーを批判する者たちは、「この非常時に和を乱すとは、不届きだ」といって排除される。だから、政治主義者は内心、危機を待ち望んでいたりする。

こうした政治主義的な動きを止めるには、どうしたら良いだろうか? 相手は権力を持っているので、隠密理に動き、仲間を増やして対抗しよう、と考える事になる。だが、そうなると、今後は自分たち自身が政治主義化する道を、たどることになる。何のことはない、ミイラ取りがミイラになりやすいのだ。

かくて、組織の中に一度、有力な政治主義の党派が芽生えると、それは周囲を飲み込んで拡大していき、組織全体を支配していくことも少なくない。単なる経済合理性よりも、政治主義のほうが攻撃力が強いからだ。そして、トップの地位を占めると、独裁的な権力を行使するようになりかねない。

そうなる前に、政治主義的な動きを止めるにはどうしたら良いか? 答えは明白だ。それは、リーダーの地位を決める手順のルール化と透明性である。政治的動きの最終的な目標は、権力ある地位につくことだ。だから、リーダーや昇進昇格が客観的にルール化されていることが、大切なのだ。ちょうど、中世の英国で、暗愚なジョン王の暴政にこまった諸侯が、名文化したルールであるマグナ・カルタを王に突きつけたように。

また、組織内にむやみに位階とポジションを増やさないことも大切だ。政治主義は、フラットな組織では活躍しにくいのだ。

なお、ここでいっているのは、ビジネス組織における傾向であって、「政治主義」といっても、実際の政党やら政治家たちの話をしているのではないので、誤解なきよう。ちょうど前回の記事で「官僚主義的組織」といっても、別に官庁の話をしたのではないのと同様だ。いや、実際のところ公務員でも、自分の所属する組織の官僚主義に、内心、辟易している人はけっこういる。

同じように、現実の政治に関わっている人で、自分たちの中の党派主義に不満を持つ人がいても、不思議ではない。ただ、政党政治の世界は権力闘争の面が強いから、どうしても政治主義的になりがちだ。そして、この政治主義の傾向は、信じているイデオロギーの種類に関わらない。たとえばヒトラー支配下のナチス政権と、スターリン独裁下のソ連共産党は、どちらも非常に政治主義的である点では、よく似ていたはずだ。

だが、政治主義者による独裁権力は、それ自身の内に崩壊の種を抱いている。政治主義者がリーダーの地位をとると、結果として、イエスマンばかりがリーダーを取り囲むようになるからだ。そうなると、リーダーのところに、不都合な情報が上がっていかなくなる。どんなに優秀なリーダーだって、正しい情報が入ってこなければ、正しく判断できなくなるだろう。

そういうときに、「裏取引」できない相手が登場することがある。裏取引できない相手とは、たとえば黒船のように、異世界から来た侵入者である。江戸幕府は黒船の出現で、一気に政治的権威を失墜する。黒船は、それまで幕府が知っていたテクニカルな問題対応を、拒絶する存在だった。こういう時、楽観主義に基づいて、ギリギリまで削減していた、リスク対策と保険的制度の欠如が、最終的に自分たちの首を絞めることになる。

本当の危機にあっては、自らの組織内で、あるいは近隣の組織と、一致協力する必要がある。なにか手を打つためには、事実とデータに基づき、総合的な思考能力を要する。だが、それこそ、自分たちが軽視し、組織から排除してきた能力なのだ。だから政治主義的な組織は、結局は長続きしない。

黒船の出現のあと、国論は四分五裂になり、クーデター的事変も内戦も発生した。だが、外国が介入して国が分断される事態は、なんとか避けられた。それは幸いにも、「分断は植民地化への道だ」と理解していた有能な人たちが、対立する双方の側にいたからだ。

危機対応のマネジメントで必要なのは、競争原理ではなく、協力原理に基づいた行動である。協力原理とは、自己利益の追求を一旦脇において、共同体利益を求める態度にほかならない。それは同時に、前例や権威を超えた、臨機応変な自発的な働きを必要とする。自発性こそ、政治主義を中和する最大の良薬なのである。


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(2020-03-16)


# by Tomoichi_Sato | 2020-03-23 19:56 | リスク・マネジメント | Comments(1)

危機なんて、ほんとに管理できるのか?ーー現場感覚という事

わたしのこのサイトでは、管理という言葉を極力使わないようにしている。このことはすでに何回か書いたので、あまり詳しくは繰り返さないが、日本語の管理に対応する英語は、Management, Control, Administrationの3つのレベルがあって、海の向こうでは使い分けされている。これに比べ、日本語の『管理』は語義が広すぎて、何のことを指しているのか誤解しやすい。

それでも、管理が何を指すかは、「管理できていない状態」と比べると、少しは明確になるかもしれない。管理できていない状態というのは、どんなイメージか。

70年代、ようやく少しずつ開放の始まった中国を、私の父が訪れた。父は機械エンジニア出身で、機械メーカーの役員だった。中国でいくつかの大規模な工場を訪れ、当時普及し始めたNC(数値制御)工作機械の、研究と導入について相談を受けたという。

しかしそこの工場たるや、加工品を床の上に積み上げて、通路だか物置だか分からないような状態になっていた。積み上げた加工品が崩れて、そこに何種類の部品がどれだけあるか誰もわからない。それを見た父は遠慮なく言ったらしい。「ここの工場のような管理体制のところにNCを導入してもナンセンスですよ。」

後に父は著書「実践的NCマネジメント入門」(技術評論社、1974)に、だらしない工場のあり方について書いている。

「整理整頓などと言うことは目的ではなく、しっかりした管理体制ができているかいないかの、むしろ結果の表現である。」
「何はともあれ、物には置き場が対応しなければならない。計算機には、図番と同時にその部品のありかが記録されねばならない。通路にものを置くなど論外である。(中略)工場内いたる所、足の踏み場もないほど、部品入荷待ちの半製品が散らばっており、棚の裏にでも入った日には、その部品は永久にお蔵入りで、部品がないと称して作り直である」(p95, 35)

もっともこれは、半世紀も前の話だ。今では日本でも中国でも事情はよほど違っているはずだ。ただ、問題の本質は同じである。

ものがどこにあるのか、全部でいくつあるのか、誰の所轄なのか、この先の過不足はどうなのか。そうしたことが全くわからない状態を、無管理と呼ぶ。このことには皆さん、異存はあるまい。

だとしたら、危機管理ができていないとは、どういう状態なのか。危機とは、通常のオペレーションや、日常的な生活を、全面的にストップさせてしまうような重大なトラブルであろう。すると、アナロジーで考えてこうなる:

「重大なトラブルが、どことどこに起きているのか。全部でいくつあるのか。誰が担当して、それと戦っているのか。この先どうなるのか。そうしたことが全くわからない状態にある」

世間の人が危機管理という言葉でで何を期待しているのか、わたしにはわからない。だが、少なくとも上記のようなシチュエーションでは、目的を達成できてないのは明らかだろう。

危機管理と言う言葉は、95年の阪神淡路大震災から、世間で広く使われるようになったらしい。今世紀に入り、特に3·11以降は、代わりにリスク・マネジメントと言う言葉が、多く用いられるようになった。だが本来これは、別の概念である。

もともとリスクとは、起きる可能性のある事象を指している。リスクが一旦現実化して、トラブルになってしまった場合、プロジェクト・マネジメントの分野では、それを「イシュー」と呼ぶ。潜在的な可能性だったリスクと、現実に起きたイシューは別のものである。また、イシューは放置しておくと、二次的な影響が発生して、雪だるま式に膨れていく危険性がある。

前回の記事で、対応能力には、事前対策と事後対応がある、と書いた。現実化してしまったイシューへの対応を、モダンPMの世界では「イシュー・マネジメント」と呼ぶ。リスク・マネジメントとイシュー・マネジメントは、車の両輪である。片方だけではちゃんと走れない。

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イシューはその影響によってランク付けされる。最も深刻な影響が懸念されるもの、普通、危機と呼ぶわけだ。

大規模なプロジェクトでは、イシュー(トラブル)は多数発生する。そこで普通は、「課題管理表」(Issues Log)を作って把握整理する。しかし、把握だけでは足りない。イシューの中でも、プロジェクト全体の遂行を阻害してしまう重篤なものは、他のアクティビティの手を止めてでも全力で対応しなければならない。さもないと、プロジェクト全体が崩壊してしまう。

プロジェクトを含みどんな組織でも、普通は末端の人々が、それなりに問題を解決しながら進めている。つまり、一定のレジリエンス(復旧能力)があるわけだ。しかし、重篤な危機的事象は、通常の体制が持つレジリエンシーを超えている。したがって、危機と闘う体制を整える必要がある。

そのためには、まず人を動員する事になる。人を動かすためには、ロジスティクスの手配が大事になる。つまり働く場所、働くための道具や材料、食事をしたり休んだりする場所、移動手段、宿泊手段など、様々な予算と手当がいる。

もちろん働く人の環境と安全が、第一優先である。それに、安全な退路の確保も必要だ。さらに言えば、トラブル事象に無関係な通常の人間が周囲にいる場合は、その人たちの避難(隔離)も考えなければならない。

危機のときの技術のマネジメントについては、すでに以前記事に書いているので、繰り返さない。ただ、このような時に大切になるのが、「現場感覚」であろう。わたし自身は別に危機対応の専門家ではないが、仕事柄、現場とはどういうものか、多少は知っている。

現場と言う言葉で、普通の人々がイメージするのが、どんな場所だろうか? 具体的には例えば、製造現場、建設現場、物流現場、イベント現場、医療現場、報道現場などが挙げられるだろう。こういった仕事場は、普通の場所とどこが違うのか。

現場が通常のオフィスと違う点は、大きく3つあるように思われる。それは、リアルタイム性(同時性)、危険性、対面・対物性、の3点だ。

(1) リアルタイム性(同時性): 現場の状況は、日々刻々変わっていく。分析や意思決定に、何週間もかけてはいられない。遅巧より拙速を尊ぶ、という言葉があるが、厳密に正確性より、まず手を打つことが求められる。

(2) 危険性: 製造現場や物流現場、医療現場など、どこでも大きな機械装置を使ったり、病気を相手にしたりしなければならない。だから働く人にとって、仕事は常に危険性と隣り合わせである。労働安全が最優先されるのも、そのためだ。

(3) 対面・対物性: 言葉や数字だけをやり取りすれば済むオフィスワークと違って、現場の仕事では、具体的なものや人を、目の前の対象とする。対面したら、何かをしないわけにはいかない。だからこそリアルタイム性が出てくるのである。

まあ、このほかにも、リモート性とかいくつかの特性が考えられるが、ここでは省く。

上記のような性質があるため、たいていの現場では、働く人たちに、制服による識別がなされている。さらに、位階による指示命令系統が決められている。仕事に危険性があるからだ。

しかし、リアルタイム性の要請があるため、命令がなくてもルールの規定がなくても、すぐに判断しなければならない場合が、多々ある。つまりルールより有効性が優先なのである。

夜間に患者の容体が急変したら、医師を呼んで到着を待つ間にも、看護師はどう対応するかを決めてアクションを取る。看護師が医師の指示を持ちだけで、何もアクションを取らなければ、患者の命に関わるかもしれない。それが医療の現場のリアルタイム性なのだ。経験を積んだ看護師は、エリート大学を出た若い医師よりも、はるかに重要な時がある。

さらに、現場で利用可能なリソース(人、道具、資材)には限りがある。だから、優先度をつけて着手(トリアージ)していかなければならない。そして人が限られているから、分担を超えてなんでもやる必要も出てくる。失敗の可能性と背中合わせで、賭けをするのが、現場仕事の宿命なのである。

危機対応のための現場とは、特定目的のための、一時的・時限的な組織であり、そしてリスクと共存している。

このような危機対応のための仕事のあり方は、それと対極的な組織と比較してみると分かりやすいだろう。対極的とはすなわち、日常の場所に恒常的に存在するような組織だ。

そこでは有効性よりルール、前例が大切にされる。仕事の分担は細かく規定されていて、他の領分に手出ししてはいけない。末端が自分の権限を超えて考え、判断するのも許されない。もちろん、失敗も許されない(だから前例主義になる)。事前的なリスク回避は周到に行う。そして、管理することが大好きだ。それも、管理のための管理が大好きである・・。

これを官僚主義的組織という。このような組織は別にお役所には限らず、民間企業でも、いくらでもある。組織は安定した時代に、大きくなると、官僚主義的になりがちだ。うっかりするとプロジェクト組織でさえ、そうなってしまう。

官僚主義の最終目的は、自己保全である。有用かどうかは、どうでもよくなってしまうのだ。それよりも、非難されないことが大事になる。すなわち、リスキーな決定は、排除される。誰が決めたのかも、よくわからないように、手続きの中で隠蔽される。そのため、どうしても意思決定が遅くなる。

官僚主義的組織の最大の問題は、リアルタイム性の欠如である。だから、危機に応対するには向かないのだ。

誤解しないでいただきたいが、わたしは公務員が良いの悪いのという話をしているのではない。どんな組織にも、つねに潜む傾向について語っているのだ。半世紀前の中国の工場の話を、思い出してほしい。共産党政権下の計画経済(=命令経済)での工場組織だ。官僚主義的な「管理」は万全だったに違いない。だが、部品がどこにどれだけあるか、というようなコントロールは、全然できていなかった。工場が上から命令されたアウトプットさえ出していれば、たいして機能的でなくても効率的でなくても、構わない。品質が悪くても、言い訳さえ立てばいいーーそういうメンタリティを、問題にしているのだ。

予防的なリスク・マネジメントと、事後的なイシュー・マネジメントは別物だが、どちらも重要である。ちょうど計画と統率が、車の両輪であるように。だが組織が官僚主義的になりすぎると、予防側のみが肥大化してしまう。そして「危機管理マニュアル」で全てに対応できるかのような幻想が闊歩する。できなくなると、「想定外でした」など言い訳をする。だが、わたしの知る限り、本当のイシュー・マネジメントは、マニュアルにもルールにもない状況で、どう考えるべきか、から出発するのである。


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# by Tomoichi_Sato | 2020-03-16 07:21 | リスク・マネジメント | Comments(0)

危機なんて、ほんとに管理できるのか?

「あなたは世の中には大きな運・不運があると思いますか?」

これまで学生や社会人、そして勤務先の後輩たちなど、それなりに大勢の人々に対して、リスク・マネジメントの講義をしてきた。その説明の最初に、いつも問いかけるのが、この質問である。無論、答えは様々だ。だが(少なくとも日本では)大多数の人が、「運・不運はある」と答える。「いや、ないと思います」という人は少数で、経験的に、ほとんどが20代の若者である。

そこで、念のため、もう一つ補足の質問をすることにしている。それは、

「じゃあ、あなたは人生において、本当にその気になれば、たいていの事は可能だと思いますか?」

という問いだ。こうたずねると、少なからぬ人が、虚をつかれたように「うーん」という顔をする。

当たり前だが、この2つの質問は、セットで裏表の関係にある。もし、人生において、本当にやる気になれば何でも実現可能だとしたら、運・不運なんてない、という事になる。逆に、もし運・不運があるなら、それはどんなに気合を込めて頑張っても、実現不可能なことがある、と認めることになる。

それなのに、この2つの問いかけに対して、あらためて驚き悩む人がいるのは、なぜだろうか。それは、ふだん無意識的に「運・不運がある」と感じながら、意識の面では「頑張ればたいていの事は可能だ」というテーゼに影響され、頼っているからだ。両方を言語化してみると、初めて自分の信念の中に矛盾があったことに気がつく。

そこで、(追い打ちをかける訳じゃないが)もう一問、たずねる。それは、

「じゃあ、リスク・マネジメントに意味なんてあると思いますか?」

である。“じゃあ”という接続詞は、運・不運があると思っている人にも、やる気になれば何でも可能と信じている人にも、共通して使っている。

なぜなら、もし大きな運・不運があるというなら、不運(リスク)を本当にさける方法などありえないはずだからだ。避けられるなら、それは不運だったとは言わない。人間が運・不運に翻弄される存在なら、リスク・マネジメントなど存在し得ない。

逆に、その気になれば不可能なことはない、と信じるなら、どんな事態になろうと「やる気」で打開できるはずだ。だったら小賢しいリスク対策など、時間のムダではないか。つまり、運・不運があるとの信憑も、やる気がすべてを可能にするとの信念も、ともにリスク・マネジメントを否定している点では同じだ、という事になる。だったら、なぜリスク・マネジメントを学ぼうと思うのか?

あらためてこうたずねられると、ほとんどの受講者は、「いや、でも、少しでも避けられるリスクがあるなら、それは意味あるかと思って」みたいな、曖昧で妥協的(?)な返事をしてくる。それは、ホントは意味ないんだけどさ、ちょっとは意味あるかと思って・・といっているのと同じである。そこで、わたしはトドメの一言をこう放つ。

「マネジメントって、人を動かす、とか、自分の管轄下にあってよく知っている事物を、なんとか意思に沿うよう働かせる行為でしょ? でも、リスクというのは未知の事象を指している訳です。自分がよく知りもしないリスクなんて、本当にマネジメントできると思いますか。リスク・マネジメントって、言語矛盾だと思いませんか?」

・・ここまで読んだ読者諸賢は、なんて意地悪な講師なんだ、と感じたに違いない。いや、申し訳ない。ただ、リスク・マネジメントだとか危機管理だとかいった概念は、かくも、わたし達が無意識に抱えている矛盾をあぶり出す存在なのである。でも、それを最初にやっておかないと、

「ああ、リスクって、マネジメント可能なんだな」
「危機的状況になっても、危機管理をすれば乗り切れる」

といった、妙に楽観的な(?)誤解を持ったまま、教えられることを教科書的に受け入れていく危険性が高いのである。教科書をそのまま真に受けて、暗記しようとする事ほど、本当のリスク・マネジメントから遠い態度はない。

リスク・マネジメントというのは、簡単に言うと、ふだん意識の下に押し込めている『リスク』に光をあて、その影響を評価するとともに、科学的にその対応策を考えよう、という一種の技術である。ただし、技術だが、そこには必要なマインドセットがある。それは、自分を取り巻く事態を、自分が能動的に変えられる、という主体性である。そして、技術という以上は、リスクにも一定のパターンや傾向があるはずだ、という信憑がある。

ところで、学業や仕事をする人にとって、その成果は、主に何で左右されるのか。それは「やる気」(モチベーション)である、と考える人は多い。「本当にやる気になれば何でも実現可能だ」というテーゼは、この信念を強化する。

他方、成果は外的環境に左右されることが多い、と考える人も少なくない。つまり運・不運で決まるのだ、と。そして、いや、仕事の成果はやはり、科学的な技術に裏付けられた、能力で決まるのだ、という考え方もあろう。

成果を生み出すのは、「やる気」なのか「環境」なのか「技術」なのか。もちろん、どれも必要ではあろう。それは「天の時、地の利、人の和」といった昔風の言葉にも現れている。とはいえ、どこに一番の主眼をおくのか。それは、じつは時代によって変わってきた。

昭和20年の敗戦後すぐから、昭和30年台の終わりごろまでは、「やる気」主義が中心だったように思う。この頃の社会で必要とされていたのは、食品・衣服など、日用品中心の産業だった。流通も小規模で、小売り中心だった。多くの人が、小商いで、貧しい中を、頑張って生きていた。戦後復興のある意味での到達点が、昭和39年の東京オリンピックだった。

ところで、オリンピックが終わって翌年の昭和40年になると、戦後最悪と言われた、いわゆる「40年不況」が訪れる。それまで単純な拡大路線で走ってきたビジネスは、転換点をむかえる。アメリカから、統計的品質管理(QC)などの、マネジメント技術が入ってきた。また、産業も重化学工業が高度成長をリードする形に、転換していく。

そこでは、科学技術や、ルールが大事になる。技術主義の時代である。そうなると、勉強が大事である。良い仕事に付きたければ、大学にいけ、ということになる。高度成長期には、学歴主義も強まった。

しかし、昭和が終わる頃、わたし達の社会はバブル時代に突入する。土地や株など、相場で全ての成果が決まる、という社会である。この時代を制したのは、いわば「チャンス」主義=運不運を見極めて、チャンスをつかまえ、それに乗る、という態度であった。

自分で技術を身につける自力路線から、バブルの波に乗るという、他力本願への転換が、マインドセットの世界で起こった。と同時に、運・不運で決まる社会は、世の中は不公平なものだ、という考えも広めていった。社会的公正の「建前」より、自己利益の「ホンネ」を優先する態度が主流になった。

バブル時代は短く、'95年の阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件で、平成不況へと社会は転換する。モノが売れないため、産業の主導権は、製造側から販売側に移り、コストカット(デフレ)戦略が主流になった。同時に、チャンス主義の双子の弟分である、「自己責任」主義が広められていく。そうした社会では、個人も組織も、リスクを可能な限り回避することを志向する。運・不運が重大という点ではバブル時代と変わらず、ただ格差社会の拡大が、その傾向に輪をかけていった。

さて、成果を左右するのは意思なのか(「やる気主義」)、技術能力なのか(「技術主義」)、それとも環境すなわち運不運なのか(「チャンス主義」)? 

やる気主義とチャンス主義は、最初に述べたように、リスク・マネジメントと基本的に反りが合わない。というか、論理的に矛盾している。そうした不合理に気づかないのは、成果を起点にした、自分の「意思」と「能力」と「環境」の関係を、根本から考えたことがないからだろう。いわば、哲学の貧困である。

ちなみに、このサイトの基本スタンスは、技術主義である。なにせテーマが「マネジメント・テクノロジー」なのだから当然だろう。技術だけで、全てがうまくいくわけではない。しかし、大間違いは避けられる。やる気主義やチャンス主義だけでは、大成功するかもしれないが、大間違いするリスクも孕んでいる。

では、自分にとって未知なリスクを、どうマネジメントできるのか? 本サイトでは、この問題にも、すでに答えは出してある(今、調べたらちょうど10年前の記事に書いてあった)。

まず、普通のリスク・マネジメントの考え方を説明しよう。たいていの教科書には、次の式が書かれている。すなわち、

リスクの大きさ=発生確率 × 影響度

だが、リスク事象の生起確率は、低減できる場合もあるが、コントロールできない場合の方が多い(台風の進路や、疫病の発生のように)。そうなると、わたし達が左右できるのは影響度の方だけということになる。だから、リスクへの対応戦略は、回避(避ける)か、転嫁(人に押し付ける)か、軽減(影響度を弱める)か、あるいは受容(あきらめて共存する)、の4つが中心になる。これが今の教科書の記述だ。

だが、わたしはここに大事な因子がかけていると考えている。だから、わたしの講義では次のような式でリスクを評価する、と教える。
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すなわち、リスクの大きさは、その可能性(生起確率)と、影響度の積に比例し、対応能力に反比例する
分子は教科書と同じである。違いは、分母の存在だ。分母の対応能力が大きければ、リスク自体は小さくなる。逆に、対応能力が小さいと、同じ確率・影響度のリスクも、大きなものになってしまう。だから、組織の『対応能力』をいかに高めるかが、中心課題になるのである。

よくPMOでは、「あのプロジェクトにとっての最大のリスクは、××さんがプロマネをやってることだよ」という冗談半分のコメントが出たりすることがある。これはつまり、分母の対応能力が小さい、ということをいっているのである。そうでなければ、もとの教科書の式だけでは、リスクの意味を説明できまい。

対応能力はさらに、予防的(Preventive)な 「事前計画能力」か、適応的(Adaptive)な 「事後対応能力」に分解することができよう。事前計画能力は、見通しの能力である。それはリスク・アセスメント・セッションの実施や、過去のLessons Learnedの共有などで向上できる。

事後対応能力とは一種の機動力であり、実際に発生してしまったトラブル・危機を、どう早く察知し、機敏に対応できるか、を示している。(ちなみに、現在のPMBOK Guideでは、この事後対応のためのイシュー・マネジメントの説明が、ほとんど欠落している)

そして、「危機管理」のための事後対応能力を高めるためには、組織のデザインにおいて、集権化と分権化という矛盾したポリシーをどう両立するか、という問題が控えているのだが、どうやらいつもの癖で、前提の説明が長くなりすぎたらしい。その問題については、稿を改めて、また書こう。


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(2011-01-10)



# by Tomoichi_Sato | 2020-03-08 22:18 | リスク・マネジメント | Comments(1)

「不安」の季節を生きのびて

大学の1年生を、じつは2回やった。理由は、成績不良である。理系の学部に入学したが、教養課程の理系の授業で落ちこぼれたのだ。成績表には、「不可」がいくつも並んだ。

前期後期を平均すると、かろうじて進級できない点数ではなかった。だが、わたしの入った大学では入学後も成績競争があって、良い点数を取らないと希望する学科に進学できない。「不可」のついた科目は再履修が可能で、そこで挽回すれば、平均点を上げることができる。

わたしは点数を計算し、1年生を2回やって再履修科目の試験に成功すれば、なんとか第一志望の学科に進めると踏んだ。そして、まだ4月の最初だったと思うが、教務課にいって留年の手続きを出した。自宅生で親のスネカジリで暮らしていたくせに、親に相談もしなかった。今考えると、ずいぶん身勝手な若者である。

18歳で大学に入ったのだが、だから20歳の誕生日を迎えたときも、まだ二度目の大学1年生だったことになる。その晩秋の成人の誕生日を過ぎて、少ししてから、わたしは次第にひどい精神的なスランプ状態に陥ることになった。ときおり、強い不安感情に発作的に襲われるのである。その不安とは、

「自分は精神病になるのではないか」

という恐れの感情だった。

精神の病にはいろいろな種類があるが、たとえば統合失調症(当時は精神分裂病とよばれていた)は、人口の1%近くがかかる、かなり発現率の高い病気である。そして、10代から20代の若い時期に、発病することが多い。論理的・抽象的な思考力のある知的な人も、なりうる。いったん発病すると、治りにくい。

わたしは心理学や精神医学の本をいろいろ読んで、自分はそのリスクが、かなり高いと感じた。今は正常に見えても、いつ発病するか分からない。発病すれば、最後は人格崩壊に至る。それは非常な恐怖だった。

自分はもともと、人から「多少変わっている」と思われてきたらしい。「らしい」と書いたが、まあ、事実そうであることは認めよう。ただ病的なほど変わっているかどうかは、自分ではわからない。そもそも、精神病というのは病識がない(自分が病気であることが自覚できない)点に特徴がある、といわれている。

だったら、医者に行って診察してもらえばいいじゃないか、という意見もあるだろう。だが、それはなかなかできなかった。一つには、断定的な診断が難しい、という問題がある。血液検査か何かで、「あなたは分裂病ですね」と分かるような簡単なテストは存在しない。また、現時点では正常でも、将来は発病しない保証にはならない。

それに、医者に行って白黒はっきりさせる、というのは、それ自体が不安であった。なにせ根が臆病なのである。そもそも、心配性で、怖がりな性格なのだ。もっと豪胆な性質に生まれついていたら良かったのに、と思うことも多々あった。

心理学や精神医学の本を読み漁ることは、かえってその不安をかきたてる事になっていた。だが、不安なので、やめられない。まるきり悪循環である。いったん不安の発作がはじまると、しばらくは何も手がつけられず、じっとうずくまるような状態になる。年が明けて春くらいまでの間、孤独で、非常に不安定だった。留年したのでクラスに友達もほとんどいない。親にも相談できなかった。若いうちは、妙な見栄があるのか、重大なことはかえって親に相談できないのだった。

そうした時期は、自分には、いつ果てるもなく続くと思われた。少なくとも、かれこれ4ヶ月は続いたろうか。ただ、ある時期、わたしは森田療法の本に出会い、それを読んで、少しだけ楽になったような気がした。

森田療法』というのは、慈恵医科大学の森田正馬教授が、いまから100年前の1919年に編み出した方法である。不安神経症のような、不安の強い状態に苦しむ患者たちを助ける手法で、東洋思想的な、日本独自の療法とも言える。古い療法だが、今も用いられている。

森田療法では、不安をとりのぞこうという、「はからい」をやめよ、と説く。そして、不安な気持ちを「あるがまま」として、生きることを目指す。人間の心は、ある事柄に注意を向けようとすると、それを増強する働きがある。だから、不安は不安として「気にしておく」態度をとる。不安があることを前提として、毎日の生活を生きようと言うのである。

また、人間が不安を感じる根底には、その人がより良く生きたいという、「生の欲望」がある、とポジティブに捉える。より良く生きたいと願う限り、人は不安をまったく捨てることはできない。だから、不安を邪魔者として「コントロール」しようとする代わりに、共存し、ただ自分にマイナスの害を及ぼさないようにすべきだ、といった思想がベースになっている。

わたしは専門家ではないので、あるいは正確ではないかもしれないが、森田療法では行動を通じた働きかけを重んじる。本で読んだ例では、あるとき、森田教授のもとに、重症のノイローゼに陥った青年がやってくる。その重い症状の辛さを縷々と語り、勉強も何も手につかないと訴える青年に、森田教授はまず、「来週に予定されている入学試験を受けてこい」と命ずる。青年は、言われてやむなく、試験を受けに行く。すると、なぜか幸運にも合格してしまう。

晴れて大学生になった彼は、あらためて森田博士のもとに来て感謝し、弟子入りして、やがて高弟になっていくのだが、彼の症状の基にあったのは、進学ないし将来への不安だったのだろう。だが森田博士は彼に、じっとしてその不安を直視する代わりに、具体的な行動を命ずる。それが、彼の注意を、自分の感情ではなく、具体的な外部の物事に向けたのだ。

他に、たとえば「自分の部屋を掃除する」といったことも、森田療法ではよく指導するらしい。掃除という具体的な行動と、その結果として生まれる、少し整頓されきれいになった生活環境が、不安の症状を緩和する。不安はなくなりはしない。だが、不安を感じながらも、自分に必要な行動をとることができる。そういう経験を作り出すのだ。

森田療法については、森田博士の著書をはじめ、丁寧な解説書がいくつも出ているので、素人のわたしがここで、これ以上解説することは控えよう。ただ、わたしが自分流に理解したのは、こういうことだ:表面的な不安の背景には、もっと根源的な問題への不安がある。それは生への不安である。その感情ないし心的エネルギーが、はけ口を求めて、わかりやすい対象に固着する。

自分の場合は、それが、「精神病への恐怖」だった。とはいえ、その根底にあったのは、明らかに留年して空回りしている、自分の生き方への焦りだった。学業も、サークルも、すべてがうまくいっていなかった。なのに、意識ではそれを認めようとしなかった。その心的エネルギーが選んだ出口が、病への不安発作だった。そして不安を打ち消そうともがくことで、ますます蟻地獄のような砂の深みにはまり込んだのだ。

別の心理学者は、こんなたとえを出している。新幹線の車両と車両の間には、自動ドアがついていて、ドアの前後のステップに体重を乗せると、開くようになっている。そして通り過ぎると、自動的に閉まる。だが、ときおり、ドアを開けて入ったあと、後ろを向いて、わざわざドアを閉めようと努力する人がいる。でも自分がステップの上に立っているので、自動ドアは決して閉まらない。

後ろを振り向かずに、さっさと行ってしまえば、ドアは自動的にしまる。だが、わざわざ自分で閉めようとすると、閉まらなくなる。感情のメカニズムも、これと同じだというのだ。

感情というものは、一旦生じて高まっても、自然な流れに任せておくと、弧を描くように数分から数十分の間に静まっていく。しかし、それを無理に避けようと注意を向けたり、押さえつけようとすると、かえって強まってしまう。ちょうど、意識して眠ろうとすると、かえって眠れなくなるのと同じだ。

わたし達の不安や悩みの多くは、自分がコントロールできない事を、何とかしようと、必死にもがくために生じる。人間関係とかの悩みは多いが、他人はなかなかコントロールできない。当然だろう。親でさえ、自分の子をコントロールなどできないのだ(自分と親の関係を思い出せばわかる)。まして赤の他人を、自分の望むように動かせるだろうか。

自分の感情もまた、実はうまくコントロールできないものの例だろう。不安感情は、思考によって注意を向けると、かえって思考との間に一種のハウリング現象を起こして、増幅されがちだ。

ふつう、人間は、思考→行動→感情→思考、というサイクルの中にいる。考えた結果が行いになり、行いの結果生じる事態に感情を抱く。そして感情は思考を方向づける。だから何か恐れを抱くような物事があっても、「気にしておく」だけにして、行動を変えることが、遠回りに見えても必要なのだ。
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わたしの場合、最終的に4月になり、2年生の新しい課業のサイクルがはじまって、次第に不安の発作に囚われることが少なくなった。サークルにも後輩たちが入ってくるようになった。そうなると忙しくなる。次第に自分の中で空回りしている暇がなくなった。

ちょうどその時期だったと思うが、年に数回通う、かかりつけの内科(内分泌科)の医師のところに、受診に行った。診察の後、思い切って、自分はこれこれの不安にとらわれて、数ヶ月間つらい思いをしてきた、と相談してみた。すると、その医師(日比先生という方だった)は、わたしの目をじっと見てから、優しくこうおっしゃった。

「佐藤さん。本当に精神病の患者の人は、もっと迫力が違いますよ。」

こう言われたことが自分にどれほど救いだったか、多分、はたの人には分からないだろう。別に、何かを保証してくれたわけではない。それでも、専門家の言葉や見立てには、裏付けのある重みが感じられるのだ。かくしてわたしは、実験に忙しい理系の学生の日常に戻っていった。


さて、わたしのささやかな(しかも、いささか恥ずかしい)体験をふりかえり、何か教訓をまとめてみよう。漠然とした不安を感じたり、特定の事態(病など)を恐れたりして、それで自分の平常な生活がおびやかされる時は、三つのことを守る方がいいように思う。

1.不安にかられて情報を集めすぎない

自分が集めて入手する情報は、実は自分の好みや感情のバイアスがすでにかかっている。おまけに世の中には、不安感情をあおって他人を動かそうと、たくらむ人たちが一定数いる。広告宣伝なども、一部にはそういう傾向がある。だから、情報を集めても、安心を得ることはなかなかできず、かえって飢餓感のような焦燥が増すばかりになりがちだ。

それでも、もし何かを調べたいならば、情報ではなくデータを集めるほうが、まだ良い。ナラティブ(文章的)な、定性的な意味を伝える「情報」ではなくて、具体的な数字をベースにした「データ」を集めるべきだ。その方がバイアスがかかりにくくニュートラルだし、データの読みと解釈には理性が必要なので、感情にリソースをさける余地が少なくなる。(まあ、データを読み解くには、それなりのリテラシーがいるので、誰にもおすすめできることではないが)

2.少しずつでも、具体的で現実的な行動をとる

部屋の掃除から着手するのでも構わない。とにかく何か、具体的な結果を得られるような行動を取る。あるいは、日常のルーチン的な行動のリズムを守る。じっと動かずに、自分の内面を見つめるのは、あまりおすすめできない。逆に、あまり極端でとっぴな行動も、果実を得にくいので、やめたほうがいい。

なぜなら、ネガティブな感情や悩みの根底には、自分の生き方それ自体への不安が横たわっているからだ(わたしの留年のように)。その生き方の問題自体は、急には解決できないが、何か行動を取れば、わずかなりとも状況が改善する可能性がある。少しでも成果が出れば(たとえそれが部屋の片付けでも)、自分のポジティブな感情につながっていく。

その行動を取る際に、森田療法が説くように、不安は「気にしておく」態度をとる。不安感情は、すぐには無くならない。だが、それに邪魔されつつも、自分のペースを守って行動できるようになることを目指すのがいい。

3.専門家(あるいは安定した根を持つ人)の意見を聞く

専門家というのは、やはりプロである。豊富な経験から、ノーマルと異常の範囲を、直感的に見分けるし、対処方法もよく知っている。もちろん、専門家であればあるほど、ある意味、慎重でもある。ただ、それは最初の直感を、事実とデータで裏付けるまでに時間をかける、ということでもある。

わたし達の社会では、なぜか専門家という存在をリスペクトしないで、素人が自分でいろいろ手を出したがるきらいがある。だが素人が生半可な判断をどれだけ重ねても、専門家には遠く及ばない事を知っておくべきだ。

もし、適切な専門家が近くにいないとしたら、そのかわりに、安定した根を持つ人の、側に行くのがいい。「安定した根」とは分かりにくい表現だろうが、その人の中にしっかりとしたアイデンティティを持っていて、近くにいると、なんとなく安心できる人である。こういう人は、相談しにいったはずなのに、何も大したことはしゃべらないまま、ほっとして帰ってきたりする。別にそれでいいのだ。あるいは、その人の書いたものを読む。そうして、その人の像を、自分の心の中にも育てていくのである。

それでも、そういう人さえ見つからないなら、(これはある精神科医が勧めていた方法だが)どこか公園に行き、大樹に抱きついて、もたれかかるのでもいい。とにかく、自分の外に、揺るぎのない存在があって、そこだけは健康と正気を保っている、という事を実感するべきだ。


春は希望の季節である、と以前も書いた。だが、春は不安の季節でもある。誰もが、ゆらぎある心を抱えて生きている時期だ。だから「木の芽時」などという言葉もある。不安を抱いたり、悩んだりするのは、ある意味、成長しようとしている証とも言える。ただ、自分がよくコントロール出来ないことを、あるいは不安であることを、さらに悩むのは、余計なのだ。

・・それにしても、わたしが留年した元々のねらいは、つまり点数を上げて志望の学科に進むという目的は、どうなったのか? 2年生の秋、成績の集計が終わり、キャンパスに貼り出された進学先のリストを見て、わたしは呆然となった。たしかに点数は計算通り、目標値まで上がった。だが、いかなる運命の偶然か、わたしは100点満点で、0.2点ほど、志望ラインに足りなかったのだ。進学先として「カコウ」(化工)と印字されていた、ラインプリンターの用紙を、今でも忘れない。

それでも、人生というのはまことに不思議なものだ。わたしが不承不承、選ぶことになった「化学工学=Chemical Engineering」という科目は、なぜかわたしによく合っていた。わたしはそのまま大学院まで進んで、そして、その専門職となる道を選んで就職した。ずっと後には、同じ出身学科から博士号まで取得した。今はもう化工設計の現場から遠く離れてしまったが、それでも「あなたの専門は?」と聞かれたら、ためらわず誇りをもって「化工屋です」と答えるだろう。

では、あの回り道だった2回目の1年間は、まるきり無駄だったのか? わたしはそうは思っていない。自分には辛い体験だったが、学ぶこともあった。回り道のおかげで、新しい後輩・友人たちとも巡り会う機会を得た。何よりもわたしは、身をもって知ったのだ。自分が一人だけで空回りしていのは、良くない。人間が一人でできることには限りがある。自分の根本問題は、一緒に何かを目指す仲間を得ることが最終的な解決になるのだ、と。

だからわたしは、プロジェクトという道を選ぶことになったのである。


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 →(2011-03-05)


# by Tomoichi_Sato | 2020-03-03 23:56 | 考えるヒント | Comments(0)

書評:「理解とは何か」 佐伯胖・編

理解とは何か」 佐伯胖・編(認知科学選書 4 東京大学出版会) (Amazon)


「『理解』という事について研究ができる。なんというすばらしいことだろうか。」

本書の中心にあたる、編者・佐伯胖の書く第5章「『理解』はどう研究されてきたか」は、このような一見ふしぎな言葉から始まる。そして、次のように続く。

「心理学の長い歴史を振り返ってみると、それは『理解』を研究したいという人々の熱い思いが、何度も何度もくりかえし裏切られ、『理解』とは似ていて非なるものばかりを押し付けられ、枠をはめられ、偽物であることを承知の上で無理やりに背負い込まされてきたものであることがわかる。」(P.127)

心理学の素人からすると、「理解する」というのは、人間にとって当たり前の心の働きに思える。だが、それを論じ研究することは、長らく心理学分野のタブーであったらしい。ちょっと驚きである。

だが、なぜ、そのような状態が、日本でも米国でも続いていたのか?(なみに本書は1985年の発刊だ)

佐伯胖は、自分が66〜67年に米国ワシントン大学に留学した際の、当時の米国心理学会の雰囲気をいきいきと描写しながら、その理由を説明する。それは、米国の心理学を1930年代以来ずっと支配してきた行動主義の影響らしい。行動主義とは、「科学としての心理学は、対象を客観的に観察可能な行動に限定すべき」という立場で、意識とか内観といった概念を排除していく。

佐伯胖によると、66年当時の主流派心理学者が認める、科学的研究の方法は次のような4項目であったという(P.136より要約して引用)。

(1) 実験データによる仮説の検証という手続きに基づく
(2) 観測される反応、すなわち行動を説明することが全てである
(3) 理論仮説は、データを説明するための必要かつ十分なものに限ること
(4) 説明は機能主義的説明で足りる。生体の内部構造には立ち入らず、ブラックボックスとしたまあ、その働きを正しく予測できるかどうかを問う

このようなパラダイムの中で研究を行う限り、たしかに「理解」それ自体のメカニズムを論じることは、いたって困難になる。

そうしたアメリカ心理学の強固な枠に対し、揺さぶりをかける動きも、たしかに一部は存在した。たとえば、スイスのピアジェによる発達心理学の業績である。またこれ以外に、フェスティンガーらの社会心理学、サイモンやハントらの情報処理アプローチがあるし、ボールズ、ロカードらの動物習性学・行動進化学の研究もあった。

これらを背景に、アメリカ心理学では67年ごろから「認知革命」と呼ぶべき動きが出てきたらしい。そして、上記の4項目に、さらに2項目を慎重に付け加えていった(P.136)。

(5) 内部機能に関するモデルの想定も許される(ただし実験的に検証が必要)
(6) 生物は外界の刺激に支配され、反応してるに過ぎない、と考える必要はない

わたし達のようなシステム・アナリスト(モデラー)から考えると、まあ当然のような6項目に見える。しかし、こうした変化がごくゆっくりしか起きないのは、それだけ学問研究の「パラダイム」の強さを示している。

佐伯よると、70年代は認知心理学が登場し、「知識」と「スキーマ」が研究の中心になる。72年には、ウィノグラードによる人工知能(自然言語による対話処理システムSHRDLU)が発表される。SHRDLUは積み木ブロックの世界について、人間と自然言語で対話しながら、積み木を運んだり積み上げたり、といった操作を行う。ウィノグラードはこれを心理学研究の一環として進めていた。

また、こうした動きと並行して出てきた、チョムスキー理論の心理学への影響は計り知れない、という(P.146)。チョムスキーはまず、行動主義心理学への批判を行い、さらに生得的な認知能力の仮説を立てる。そして認知過程に関する、生成変形文法という構造主義的アプローチを強める。

かくして心理学は「理解」をめぐって、認知→知識・スキーマ→自然言語、という風に主題を進めてきた。この流れは結局80年代に入り、「認知科学」に合流していく。本書自体が『認知科学選書』(東京大学出版会)の第4巻として発刊されている事が、事情をよく表していると言えるだろう。

ちなみに佐伯胖氏自身は、81〜83年に「LISPで学ぶ認知心理学」全3巻を出しているが、このタイトル自体が、ある種の時代を感じさせる。認知科学は90年代に入って、LISPの得意とする記号的人工知能から、神経回路網モデルをベースにした、コネクショニズム的なAI研究にうつっていく。それが今日のAIブームの基礎となる訳だ。

ただ、この動きはいささか、偏りすぎてきた観もある。記号による手続き的知識と、行列計算によるパターン認識的知識との間に、見えない壁がある現状は、どこかで再度パラダイム変化が必要なのではないか。

ともあれ、本書全体でいうと、マイケル・コール(UCSD教授)による第4章「リテラシー(読み書き能力)の文化的起源」も面白いが、第3章「理解におけるインターラクションとは何か」(三宅なほみ)が興味深い。これは二人以上の人が相手とやりとりしながら、建設的な問題解決をするプロセスを追った研究だ。

インターラクションの例に出すのは、「ミシンはどうして縫えるのか?」という議論だ。ミシンがなぜ布を縫えるのか。これはよく考えてみると、案外難問だ。これを二人で議論していくとき、「課題遂行係」と「モニター係」に作業分担するほうが進みやすい、など面白い知見がたくさん出てくる。

本書の1〜4章は一種のシンポジウムの講演録で、質疑応答も丁寧に収録されているため、とても読みやすい。そして第5章が編者による、まとめと展望だ。ただ時代のせいか、全体をよんでも、「理解」の心理学が、全体としてどのような戦略を持ち、どこを攻めようとしているのか、まだ作戦マップが描けるほどには概観できていないように感じた。

わたしが編者である佐伯胖氏の名前を知ったのは、「『きめ方』の論理 〜社会的決定理論への招待」(1980)をよんだ時だった。これは今でも、画期的な本だと思う。彼自身はその後、「決める」から「分かる」へ、そして「学ぶ」へと、研究分野をうつしていく。それは経営工学から出発して、心理学、さらに教育学へと進んでいく道のりだった。本書はちょうど、その分水嶺に当たる1985年、46歳のときの宣言的な業績である。だから勢いがあって、とても面白いのだ。
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# by Tomoichi_Sato | 2020-02-24 22:12 | 書評 | Comments(0)

プロジェクトの生産性と着地点を測るには

2015年7月、東芝は過去7年間に渡って、「不適切会計」で1500億円以上も利益をかさ上げしてきた、という第三者調査委員会の報告を公開した。これに伴い、田中社長を始め、歴代3社長が退任。日本の産業史上最大の不正会計事件となった。

このときの不正に、実はプロジェクトの『進捗率』の計算が、深く関わっていた。というのも、会計操作の手法の一つが、「進行基準」の悪用だったからだ。

「ああ、会計の話なんか興味ないよ。技術屋としての俺の仕事には関係ないから」とお思いの方も、その手口については、少しだけ知っておいたほうがいい。というのも、これは進捗率をどう粉飾するか、という話だからである。しかも、先々のコスト増を無視していると、結果的に売上や進捗率を粉飾したことになってしまう事があるのだ。そして売上や原価は、エンジニアたちの尻を叩くモノサシでもある。妙な叩かれ方をしたくないならば、少しはその仕掛けについて学んでおくべきだ。

一般に受注型プロジェクトの会計には、完成基準進行基準の二種類がある。そして、複数年次に渡る大規模なプロジェクトでは、進行基準が望まれる。進行基準では、プロジェクトの進捗に従って、毎期ごとに、収益(売上)が計上できる。これに対して、完成基準では、プロジェクトが完了しないと売上が立てられないからだ。普通の経営者にとっては、何よりも売上高が命であり、数年もの間「売上ゼロ」では、何も仕事していないのか、と言われてしまう。

進行基準は、「工事進行基準」とも呼ばれる。建設業会計の世界で発達した手法だからである。しかし作るものが無形のソフトウェアであろうと、工事を伴わぬ大型機械の製造だろうと、考え方は同じだ。

さて、当時の東芝は、次の計算式で工事収益を計上していた(「東芝不適切会計と工事進行基準」清和監査法人」による):

当期の工事収益 = 工事収益総額 × 工事進捗度 - 過年度工事収益計上額
 ただし、工事進捗度 = 累計工事原価発生総額 ÷ 工事原価総額

この計算式自体は、ごく普通のものだ。建設業であれ、受託ITシステム開発のSIerであれ、進行基準に従う多くの企業は、こうして計算しているはずだ。

東芝の不正手口は、「工事原価総額」を少なめに見積もることで、「工事進捗度」をかさ上げする、というやり方だった。いや、少なめに見積もる、という表現は正確ではない。じつは、プロジェクトの途中で予想されたコスト増を、無視して繰り入れなかったのだ。これによって約500億円もの根拠なき売上が立った、と言われている。そして東芝の会計監査法人は、この問題点を見過ごしていた、としか思えない。

「進捗率」を水増しすれば、架空の売上が手に入る? どうしてだろうか。

たとえば、今、受注金120億円のプロジェクトがあったとしよう。この案件は、開始から完成まで、たっぷり3年かかる。そして、プロジェクト原価は100億円、利益額は20億円と計算されていた。想定される年度別の計画は、次のようなものであった:

     発生原価  累計原価  進捗率 
1年目  20億円  20億円  20%
2年目  30億円  50億円  50%
3年目  50億円 100億円 100%

上の式で、進捗度 = 累計原価発生総額 ÷ 原価総額、とあるとおりだ。そして、各年度で、それぞれ計上できる売上と、その年度の発生原価から見た利益額を計算すると、次のようになる:

     発生原価  累計原価  進捗率  計上売上  年度利益 
1年目  20億円  20億円  20%  24億円   4億円
2年目  30億円  50億円  50%  36億円   6億円
3年目  50億円 100億円 100%  60億円  10億円

さて、このプロジェクトの1年目の終わり近くになって、問題が起こった。技術的なトラブルと、顧客側の無理難題が重なって、完成までにさらに40億円もの追加費用がかかりそうだ、という状況が判明したのだ(2年目に10億円、3年目に30億円のコスト増)。まあ、「判明」というのは、経営者にとってであって、担当者レベルでは、最初の頃から「このプロジェクトはまずいな」と思っていたのかもしれないが。

ともあれ、このままでは受注総額120億円に対し、原価総額=140億円になってしまい、赤字プロジェクトに転落である。かりにトラブルのスケジュールへの影響が小さく、なんとか3年以内に終わるとしても、正しくは次のような表になるはずだ。

     発生原価  累計原価  進捗率  計上売上  年度利益 
1年目  20億円  20億円  14%  17億円  ー3億円
2年目  40億円  60億円  43%  34億円  ー6億円
3年目  80億円 140億円 100%  69億円 ー11億円

1年目の進捗率が20%→14%に、2年目の進捗率が、50%→43%に、それぞれ下がった点に注意してほしい。これは、累計原価の総額が100億から140億円に増えたためだ。そこで、
1年後の進捗率: 20÷140=14%、
という計算になる。

だから計上できる売上も、
1年目の売上: 120×14% = 17億円
に減ってしまうのである。結局、17億の売上で、20億円のコスト発生だから、マイナス3億円の赤字になる。2・3年目も同様の計算で、売上は34億と69億、原価は40億と80億で、都合、6億円と11億円の赤字だ。

さて。この計算表を見て、不心得な経営者がこう考えたら、どうなるだろうか?
「トータル40億円のコスト増だって? そんなの、まだ確定していないじゃないか。少なくとも今期のコストはまだ増えていない。来期以降の増分は、最後に確定してから膿を出せばいいのだ」

かくて、現実を無視して累計原価の総額を2年目まで変更せず、最後に帳尻を合わようとすると、こうなる:

     発生原価  累計原価  進捗率  計上売上  年度利益 
1年目  20億円  20億円  20%  24億円   4億円
2年目  40億円  50億円  50%  36億円  ー4億円
3年目  80億円 100億円 100%  60億円 ー20億円

バンザイ! かくて当年度の売上は17億ではなく24億に増え、収支も3億円の赤字から、4億円の利益になる。経営者にとって、赤字と黒字では天国と地獄ほど違う。

お分かりだろうか? プロジェクトで今後発生しそうな(合理的に予見できる)コスト増を無視すると、進捗率も売上も、本来よりもカサ上げできるのだ。だが、結果的にそれは粉飾になる。現実の東芝で起きた事件は、米国の原子力子会社と孫会社を巻き込んでもっと複雑だが、本質だけを単純化すると、上の例のようなことになる。そして、赤字か黒字かは、各社員のボーナスの査定や昇進のみならず、事業部の存続までかかってくる問題なのである。

・・ところで、ここまで我慢して(?)読んでこられた真面目な技術者諸賢は、疑問を感じられたことだろう。「トータル40億円のコスト増って、どうやって推算したんだ? そんな事が、全部終わって金勘定を締める前に、わかるのだろうか? そんな事が分かるくらいなら、誰も苦労しないじゃないか!」

もちろん、本当に「合理的に予見可能」な原価というからには、個別のワークパッケージ単位に、追加変更のコストを積上げ、その発生する蓋然性を評価しなければならない。大規模プロジェクトでは、そこまでプロジェクト・マネジメントを徹底することが求められる。でも、読者が知りたいのは、もう少し身近なプロジェクトの場合だろう。とくに、スコープ=役務範囲の柔らかい(例えばIT系などの)、プロジェクトの場合に違いない。そんなの、本当に可能なのか、と。

ところが、将来のコスト増を、ある程度の精度を持って推算する方法があるのだ。そこにEVMSの技法が関わってくるのである。

前回の記事(「進捗率を何で測るか? −−情報処理技術者試験の問題より」)で、わたしは、「進捗率は、今までどれだけ頑張ったかではなく、あとどれくらい仕事が残っているかで測るべき」と主張した。

では、「あとどれくらい仕事が残っているか」をどうやって推算するのか。答えは、CPI (Cost Performance Index)という、プロジェクト遂行の生産性を測る指標によるのだ。プロジェクトのCPIは、次式で定義される量である:

 CPI = EV / AC

つまり、その時点までの出来高(EV)を、その時点までの実績出費累計(AC)で割った数字である。出来高EVとは、完了したアクティビティの予算の合計であった。もしEVとACの両者がぴったり一致したら、計画通りに仕事が進んでいる訳で、CPIは1になる。EVが1よりも大きければ、当初計画したよりも実績コストは小さくすんでいることになる。逆に、思ったよりお金がかかっているなら、CPIは1以下になる。

さて、米国では国防総省を中心に、EVMSに関する膨大なデータの蓄積がある。それによると、プロジェクト全体のCPIの値は、良きにつけ悪しきにつけ、全体工期の2割を超えた時点から、±10%以内の精度で安定することが分かっている。良いなら良いなりに、まずいならまずいなりに、傾向が定まるのだ。

たとえば前回の出題の例では、EV = 5.9、AC = 7.0であった(単位は人月)。だから、

 CPI = EV / AC = 84%

である。簡単に言うと、100円使って、84円分の成果しか上がらないのだ。プロジェクトの生産性が84%と言い直しても良い。

では、このプロジェクトの累計原価発生総額(完成予定額 EAC = Estimate at Completion ともいう)は、どうなるか? 元の見積では、全部で10人月で終わるはずだった(これをBAC: Budget at Completionと呼ぶ)。一方、これまでに、AC=7.0人月使ってしまった。残っている仕事量は、10 - 5.9 = 4.1人月分になる(元の見積ベースでは)。だが、これも84%の生産性で補正しなければならない。つまり

 EAC = AC + (BAC - EV) / CPI = 7.0 + 4.1 / 84% = 11.9

結局、約12人月だろう、ということになる。つまり、2割ほどコスト増が予想されるのだ。

ちなみに、プロジェクト初期の段階では、CPIの値はかなりアバレるから、まだ推算には使えない。この例では、すでに進捗率=59%なのだから、プロジェクトも中盤に入っており、CPIの値は安定すると予想できる。

なお、プロジェクトを構成する各アクティビティは、それぞれ種類も違う固有の業務内容を持っているのに、CPI値が安定するのは奇妙に思えるかもしれない。しかし、独立した変動を持つ分布を足し合わせると、全体としては分散が小さくなる、というのが統計学の教えるところだ。では、そのような推算が成り立つためには、どれくらいの要素数が必要かと統計学者に聞くと、「中心極限定理から、30以上は必要だ」と答えるだろう。

全体の2割を過ぎた時点で、30個以上のアクティビティの実績データが必要だとしたら、EVMSで完成予想額を見るためには、プロジェクト全体では150個以上のアクティビティからなるWBSを持つことが、条件になる。EVMSというのは、それなりの規模のプロジェクト向けの手法なのである。だから例題のような、トータル10人月程度のプロジェクトにEVMSを持ち出すのは、いささか「牛刀をもって鶏を割く」きらいがある。

ここまではまあ、普通のPMの教科書に書いてあることだ。ところで、この話にまだ、少しだけ先がある。12人月で終わりそうだ、という着地点の推測は、本当はまださらに、補正が必要なのである。

実を言うと、EVMSから導出されるプロジェクトの生産性指標は、もう一つある。それがSPI (Schedule Performance Index)で、次式で定義される:

 SPI = EV / PV

ここでPVは、元の計画上での進捗率である。たとえば、本来70%終わっているはずの計画だったのに、実際の出来高基準では59%しか進んでいないなら、CPI = 59/70 = 91% という事になる(ちなみに問題文には計画上の15日時点の進捗率は書かれていないから、上記の91%というのは、単なる例である)。

SPIは、スケジュール面から見た、プロジェクトの効率性を表す。先に紹介したCPIも、このSPIも、分子にEVが来ている点を覚えておいてほしい。SPIもCPIも、値が高いほどよい。1よりも大きければ、計画より効率よく遂行できていることを示す。

そして、米国で蓄積した膨大なEVMSデータによると、プロジェクトの完成予定額EACは、次の式で計算するほうが、より現実のデータに合うというのだ:

 EAC = AC + (BAC - EV) / (CPI・SPI) = 7 + (10 - 5.9) / (0.84 * 0.91) = 12.4

つまり、先ほどの推算よりも約0.5人月分、さらにコスト増になるという計算だ。

この計算式は、Flemming & Koppelman: "Earned Value Project Management, 2nd Edition", PMI, pp.136-137, 2000.(邦訳「アーンド・バリューによるプロジェクトマネジメント」)に解説されてる。ただ、日本のPM関係の教科書参考書の類では、なぜかあまり書かれていない。日本語版Wikipediaにも、現時点ではのっていない。

それにしても、残っている仕事量(BAC - EV)を、なぜCPIとSPIの両方で割るのか? 明確な理論的説明がある訳ではない。ただ、コスト超過しているプロジェクトは、スケジュールも遅れているので、全体工期が延びる分だけ、さらに余計に費用がかかるようだ、という経験知を示している訳である。

以前の記事で、わたしは「進捗率は予算消化率では測れない」と書いた。実を言うと工事進行基準とは、「進捗率=予算消化率」という定義になっている。ただ、そのかわり、「予算には、今後発生する合理的なコスト増を組み入れること」という形になっている。なので、コスト増が起きると、分母が増えて、進捗率がその分下がることになる。結果として、「残っている仕事量」が反映されるのである。

ソフトウェア開発の売上計上に工事進行基準が義務付けられるようになったのは、2009年からのことである(企業会計基準第15号「工事契約に関する会計基準」及び企業会計基準適用指針第18号「工事契約に関する会計基準の適用指針」)。その1〜2年前から、大手SIerの間で、「これからはもっと真面目に(定量的に)進捗管理をしなければならい」という議論がかわされていたのを、覚えている。

そして、さらに2021年4月以降は、ソフトウェア業界も、会計が「収益認識基準」に変更される。こちらは「もっともっと真面目に」役務項目別のコントロールが義務付けられる。これに各社は、準備対応できるのだろうか。

ちなみに上の説明で、「わずか10人月程度のプロジェクトにEVMSを適用するのは、大げさすぎる」という意味のことを書いた。しかし、そのような態度にも、一つ利点がある。社内で、大小様々なプロジェクトに関するデータが蓄積できることだ。

米国では国防総省が中心になって、EVMSの適用を進めてきた。また90年代以降、一定金額以上の公共事業にも、EVMSの適用が求められるようになった。彼らは、データを蓄積することの威力を、知っているのだ。上に述べた「工期の2割以上をすぎるとCPI値が安定する」といった知見も、そこから得られたものだ。

事実とデータに基づいて、マネジメントが予測と決断を下すこと。そうしなければ、強い軍隊や、勝てる組織などというものは、維持できないというのが、米国流の経営思想である。勇敢な兵士や鬼軍曹だけでは、戦えないのだ。正しいデータと分析が、重要だ。気合と根性だけでは、仕事はスケーラブルにならない。

EVMSという手法には限界もあって、万能ではない。しかし、その限界を知りつつ使ってデータを蓄積するのと、その手法を知らないために使いもせず、データも取らないのとでは、長い間には天と地ほどの差ができる。ITという仕事が、データから有用な情報を組み上げるためのものならば、わたし達自身の仕事についても、やはり数値化の努力をすべきだろう。


<関連エントリ>
 →「
」 (2020-02-08)


# by Tomoichi_Sato | 2020-02-18 23:36 | プロジェクト・マネジメント | Comments(0)

「プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会」(2月20日)開催のお知らせ

各位、

来る2月20日(木)に、2020年の「プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会」第1回会合を開催します。今回は、PM教育のためのゲームを開発された、日立ドキュメントソリューションズの岡田様にご講演いただきます。

プロジェクト・マネージャーの人材不足にはどこも頭を痛めており、優れたプロマネの育成研修は焦眉の急です。しかし、プロマネに必要とされる知識とスキルの幅はけっこう広く、身に付けるのは簡単ではありません。

当研究部会でも3年ほど前から「PM教育分科会」を組織して、独自の研修カリキュラムを開発してきました。ただし限られた時間内に、PMのソフトスキルとハードスキルの両面を伝えるのは、至難の技です。

日立さんのアプローチのユニークな点は、モノポリー的なカードゲームを元に、主にソフトスキルにフォーカスした問題解決力の教育を組み込まれた点です。教育における「ゲーミフィケーション」の効果は、最近つとに指摘されていますが、短時間に集中して考える取組みとして興味深いものです。またファシリテーターによる丁寧な指導も、実践的な価値を高める工夫のようです。

プロマネの育成について悩んでいる多くの方に、役立つ内容になると期待しております。開催日の直前のご案内になってしまい恐縮ですが、ぜひご来聴ください。


<記>

■日時:2020年2月20日(木) 18:30~20:30

■場所:田町キャンパスイノベーションセンター 
 5F スペース:509AB
 (JR田町駅の芝浦口から右方向の階段をおりて、50mほど先の右手の建物です)

■講演タイトル:
「ゲーミフィケーションを用いたビジネス人間力養成の取り組み」

■概要:
プロジェクトの現場において、プロジェクトマネージャは発生する問題やリスクに対して限られたリソースの中でその都度適切な意思決定を行うスキルが求められる。これらのスキルは実践訓練などを通して習得できるものであるが、習得には多くの体験を経る必要があり時間を要す。そこで、ゲームを通してチームでプロジェクトを模擬体験する実践訓練手法を開発した。ここで得られるスキルは、プロジェクトマネジメント分野に限らず、ビジネス全般に必要なソフトスキルであると考える。講演では、プロジェクトマネジメント分野以外への展開可能性や、ゲーム中の振る舞いによるプロジェクトマネージャの特性評価の取り組み、ゲームの臨場感向上のためのデジタル化/ゲーム空間の開発に関する取り組みを紹介する。
●YouTube:プロジェクトマネージャの”感性”を磨くボードゲーム「プロ・トレZ」プロモーション映像リンク先
* ダイジェスト版 ・・・・2分
* フル版 ・・・・21分

■講師:岡田 久子
 株式会社日立ドキュメントソリューションズ EPCプロジェクト本部 本部長

■講師略歴:
1998年日立製作所に入社。大規模発電所等の建設管理、および建設管理システムの運用・高度化業務を経て、
2014年より日立ドキュメントソリューションズへ移り、プロジェクトマネジメント支援業務の取り纏めに従事。

■参加費用:無料。
 ちなみに本研究部会員がスケジューリング学会に新たに参加される場合、学会の入会金(¥1,000)は免除されます。
 参加を希望される方は、確認のため、できましたら前日までに三好副幹事までご連絡ください。

 以上、よろしくお願いいたします。


佐藤知一@日揮ホールディングス(株)


# by Tomoichi_Sato | 2020-02-12 07:24 | プロジェクト・マネジメント | Comments(0)

進捗率を何で測るか? −−情報処理技術者試験の問題より

仕事の進捗(しんちょく=進み具合)を何で測り、どう数値化するか。これはいつも悩ましい問題である。

「プラント・エンジニアリング会社のように、物理的に目に見えるモノを作っている分野は、数量が測りやすいからいい。ソフトのように目に見えない成果物を作る仕事は、進捗管理がとても難しい。」

・・こういう意味のことを、IT業界の方から何度か言われたこともある。いえいえ、どういたしまして。プラント・エンジニアリングのプロジェクトでは、設計業務だけで18ヶ月〜24ヶ月もかかる。この間、膨大な図面や仕様書が生成されるが、プラント予定地では1年後にやっと、基礎工事のための穴掘りが始まる程度だ。設計作業の進捗をどう捉えるかは、同じように悩ましい。

もちろん、具体的なものづくりに携わっている企業だって、進捗をタイムリーに正確につかむのは難しい。同時並行に進む作業が多いし、その負荷の大小だって、様々だからだ。

ところで、情報処理技術者試験に「プロジェクトマネージャ」という種目がある。IPAの試験制度の中でも、いわゆる「高度」に分類される資格の一つだ(一応、わたしも持っている)。さて、今を去る2004年秋のことだが、この試験に、進捗率に関して、次のような問題が出たことがある(一部佐藤が改編して引用):

* 10本のプログラムからなるシステムを完成させるプロジェクトがある。
* 1本のプログラムを完成させるには1人月の工数がかかると見積もられた。
* 各プログラムの開発作業は、設計(20%)→コーディング(50%)→テスト(30%)のプロセスからなると推定された。
* 作業開始から15日たった時点で進捗状況を調べたら下記のとおりだった:

* 現時点での進捗率を求めよ
進捗率を何で測るか? −−情報処理技術者試験の問題より_e0058447_21440942.jpg
・・という問題である。

どうやらこのシステム、ほぼまったく同一規模のサブシステム・プログラム10本からなっていて、なおかつ、その間のインタフェースも結合テストもいらないらしい。随分とありそうにない、不自然なシステムだが、まあ試験問題だから文句を言っても仕方がない。

とにかく10個のタスク(アクティビティ)があり、それぞれが設計・コーディング・テストの3段階からなるから、全部で30個のサブタスク(サブ・アクティビティ)から構成されたプロジェクトだ、ということになる。

進捗率を問われている訳だから、なにか基準となるモノサシが必要だ。では、一番単純に考えて、「完成したプログラムの本数」を基準にしてはどうか? 全部で10本のプログラムを作らねばならない。15日たった現時点で、できあがったのは3本だけだ。だったら、3 / 10 = 30%ではないか。

これはこれで、シンプルで分かりやすい尺度である。これをかりに『完成数基準』と呼ぶことにしよう。

ところで、別の考え方もありうる。プログラムが完成まで至っていなくても、設計やコーディングがそれぞれ終わっているのなら、一定の進捗があったと言えるはずだ。で、その進捗率は、どう測るのか。それは、工数によるウェイトがいいと思う。

15日たった現時点で、設計は10本とも完了している。設計の工数はそれぞれ0.2人月と見積もられている。またコーディングは6本完了だ。1本あたり0.5人月だから、3人月分の仕事が終わっている。そしてテスト。これは3本×0.3人月で、0.9人月分。だから合計、5.9人月分の仕事までは進んだ訳だ。だから、全体工数の10人月で割ると、5.9 / 10 = 59%となる。この考え方を、『見積基準』と呼ぼう。

いやいや、よく考えてみよう。工数の見積なんて、いつでも大した精度がなく、あてにならないものだ。ウェイトをつけるなら、実際に掛かった工数を重みにすべきではないか。表によれば、設計には合計2.5人月、コーディングには4.0人月かかり、テストにも1.5人月使っている。合計7.0人月だ。だとするならば、進捗率=70%が妥当ではないか。この考えを、『実績基準』と呼ぶことにする。

結局、この問題は、次の三つのどれかを選べ、という問いになる:

3/10=30%? (完成数基準)
5.9/10=59%? (見積基準)
7.0/10=70%? (実績基準)

さて、あなたなら、どれを選ぶだろうか?

上の3つの計算例でも分かる通り、進捗には、さまざまな定義が可能である。いわば決め事の問題であって、その点で原価管理にも似ている。原価にも、様々な計算手法がありえる。その中から、どれを選ぶかは、企業のマネジメント方針次第なのである。

しかし、『進捗率』を数字で計算する以上、合理的かつ整合的な算定方法として、皆が合意できることが条件になる。

その観点から、完成数基準の計算:
 3/10=30%
を見ると、どうなるだろうか?

15日目の現時点で進捗率30%ならば、100%完成まで、15 / 30 * 100 = 50だから、あと50日かかる計算になる。じゃあ、このプロジェクトは、あと35日必要だと言えるだろうか?

進捗管理の目的は、きれいな進捗レポートを作ることではない。進捗率を測る最大の目的は、完了日を予測するためにある。完成数基準は分かりやすく単純だが、この目的のために有用だろうか?

考えてみてほしい。横軸にプロジェクト開始からの日数を取り、縦軸に進捗率をとって、グラフにプロットするとする。もしこのプロジェクトが理想的に進めば(=つまり、各プログラムが予定通り並列に開発されると)、29日目までは完成数=ゼロである。30日目に、10本のプログラムが全部、同時に完成する。

進捗率のグラフは、ずっと0%のまま29日目までx軸にはりついていて、30日目にいきなり100%になる。このグラフを見て、完了日の予測ができるだろうか? 理想的にプロジェクトが進むと、完了時点が予測できなくなるような基準は、役に立つだろうか。
進捗率を何で測るか? −−情報処理技術者試験の問題より_e0058447_21464971.jpg

では逆に、実績基準の計算:
 7.0/10=70%
は、どうか?

いま仮に、現在までにトータルで9人月かかったとすると、90%進捗、ということになる。もし12人月かかっていたら、120%進捗、という計算にならないだろうか? これは明らかに不合理である。

予算消化率で進捗率は測れない。これまで、どれだけ頑張ったか、どれだけ工数や予算を使ったか、で進捗を測ってはいけないのだ。この点はよく覚えておいてほしい。世間の人は、ここを誤解しているケースが非常に多いからだ。

進捗率は、今までどれだけ頑張ったか、ではなく、あとどれくらい仕事が残っているかで測るべきなのだ。

では、あとどれくらい仕事が残っているのか。それは、未完了の仕事(コーディング4本とテスト7本分)を見る必要がある。その仕事量は、4 * 0.5 + 7 * 0.3 = 4.1人月だと見積もられている。全体が10人月分の仕事量だったのだから、41%残っている。となると、進捗した分は、差し引き100 - 41 = 59%となる。

したがって、見積基準の計算:
 5.9/10=59%
が正解らしい、とわかる。

実を言うと、この当時、経産省主導の資格試験は、正解を公表していなかった(もっと後には公表するようになったが)。だから、上に述べたのは、あくまでも佐藤の推測した回答である。しかし、これが正解だろうと思う。なぜなら、この見積基準の進捗率とは、EVMS (Earned Value Management System)の標準的な手法だからだ。

EVMSは、モダンPMの技法の三本柱の一つだ。EVMSでは、進捗率を次のような方法で定義する。

1. 各Activityに見積った工数を、ProjectにおけるそのActivityの価値とする
2. 全Activityの価値の合計は、Project全体の価値に等しい
3. 完了したActivityの価値の合計を、「出来高」(アーンドバリュー)と呼ぶ
4. 出来高をProject全体の価値で割ったものを進捗率と定義する

この問題では、完了したサブ・アクティビティの価値(見積もられた工数)の合計は5.9人月だった。だから、5.9 / 10 = 59%になるのである。いいかえると、EVMSの進捗率計算は、見積基準なのだ。

さきほど、完成数基準で進捗率のグラフをプロットすると、値がずっとゼロのままで、使い物にならなと書いた。逆に言うと、進捗率計算の主目的が完成日予測にあるのならば、理想的な進捗の指標とは、グラフがちょうど直線で進んでいくような形だろう。これならば予測は、かなりやりやすい。

これに対してEVMSの進捗カーブの形は、通常、もう少しS字カーブ型になる。プロジェクトの最初はゆっくりと立ち上がり、やがては活況に入ってぐんぐんと進捗があるが、最後の方になるとまたカーブが寝て、ゆっくりとした収束になる。だからプロジェクトの一番初期と、一番最後の頃は、EVMSの進捗率から完了日予測を正確にするのは難しい。しかし両端の時期を除けば、まあまあ予測には使える。こういうこともあって、EVMSの進捗率計算は広く使われている(少なくとも欧米では)。
進捗率を何で測るか? −−情報処理技術者試験の問題より_e0058447_21501962.jpg

ただし、EVMSの進捗率によるコントロールは、万能ではない。この点についてはすでに何度か記事も書いたので、ここでは繰り返さない。だが、舶来の手法で、試験問題にも繰り返し出されると、なんだかそれが『正解』だと思い込み、暗記してそのまま従うような風潮が、わたし達の社会には無い訳でもない。

繰り返すが、進捗率計算というのは、いろいろな定義が可能なのである。少なくともそれが合理的で整合的である限りは、各社がいろいろと工夫して使っていい。ただ一つ言えることは、「過去こんなに頑張りました」という事をベースにして計算してはいけない、という点だけだ。

これまでの努力を言いたい気持ちは、もちろんわかる。それをきちんと、ステークホルダー達に説明する必要もある。だが、それは過去に属することだ。言ってみれば、タクシーメーターの料金なのである。ここまで、これだけ走り、料金換算でこれだけかかりました。だが、タクシーメーターをいくら懸命に見つめても、この先いつになったら目的地に到着できるかは、分からない。つまり、進捗の指標にはならないということだ。

進捗コントロールというのは、もっと未来志向の行為なのである。


<関連エントリ>
 →(2010-02-17)

 → (2019-05-26)


# by Tomoichi_Sato | 2020-02-08 21:56 | プロジェクト・マネジメント | Comments(1)

エンジニアリング・チェーンのマネジメントと、生産技術というボトルネック


エンジニアリングという仕事は基本的に、毎回毎回のプロダクトがすべてユニークであり、個別的な一過性の仕事です。それが創造的であればあるほど、「標準化とカイゼン」からなるPDCAアプローチが、とりにくくなります。そういう個別的な仕事をマネージするとは、業務を「予見(計画)可能にし」、「再利用可能(繰返し可能)にする」、の2つの事から成り立ちます。以下、具体的にご説明しましょう。

(1) まず、業務の全体像を予見できるようにすること

個別的な業務を予見可能にするとは、どういう意味でしょうか。『個別性の罠』にとらわれないためには、ユニークな業務であっても、その行き先をある程度、予測できるようにすることが必要です。かつ、望ましい形に進むよう、計らう必要があります。

それは端的に、その業務がいつぐらいまでかかり、どれくらいの費用を要し、どんな工数を必要とするのかを、つかむことです。そのためには、業務のボリュームや作業の構成を考え、全体の工期・工数・コストなどを、見積もる能力をつける訳です。そして、それに応じた体制や予算、人のアサインなどを決めていきます。つまり、計画していくということです。業務を「計画可能にする」といってもいいでしょう。これによって、いわば野放しの「野獣」を、通常の仕事の体制や予算の中に、取り込めるようにしていきます。

(2) 次に、その業務を繰り返し可能にすること

次にすべきは、個別性・一過性の業務の結果を、繰り返し(再利用)可能にすることです。仕事の成果物を出し終えたら、ほっとして一息つき、それから一件書類をどこかの机かサーバのフォルダにしまって、あとは忘れてしまう。次に似たような仕事が来たら、「えーと、前にやったあの仕事はどうだっけ」とファイルをひっくり返して探す・・こういう状態では、再利用可能とは言えません。

とくに設計に関わる仕事の場合、結果としての仕様書や図面だけでは再現するのに不十分です。「なぜこういう形になったのか」が分かるよう、検討の方針や前提条件、そして途中の計算書なども、合わせて保存される方が望ましいことは、皆さんご承知のとおりです。ですが、この部分がしばしば、ないがしろにされがちです。

もちろんできるなら、ちゃんと一件書類としての保存のフォーマットと必要なコンテンツのリストを決め、インデックスをつけて、マスターファイルに保存すべきでしょう。設計の成果物だけでなく、どれくらいの期間と工数がかかったのか、体制や担当者は誰だったのかといった、業務のパフォーマンス面でのデータも必要です。

このようなところまで持ち込めば、標準化に繋げられるようになります。いったん業務を標準化できれば、PDCAとカイゼン文化に接続できるのです。つまり、野獣だったものを「家畜」にできる訳です。

エンジニアリング・チェーンのマネジメントと、生産技術というボトルネック_e0058447_18404412.jpg

ところで、初めてチャレンジする一過性の仕事なんて、本当に「計画」できるのか、という疑問があるかもしれません。当たって砕けろ、まずは走り始めてみて、それから必要に応じて考えたらいいじゃないか。それが現場力というものだ、という考えもけっこう、強いと思います。

製造業は中期経営計画があり、年間や半期の予算計画があり、月度の生産計画やら販売計画やらがあって、という風に「計画づくし」ですが、こうした計画類はある種、サイクリックなルーチンワークです。ルーチンにはまらないものが出てくると、突然、計画立案の手を止めてしまう。あるいは思考停止になる。そして、現場力という名の「出たとこ勝負」に走ってしまう。

これは計画という仕事のプロセスや手順を、よく知らないから起きるのです。一過性の仕事の計画立案というは、次のような6つのステップを踏んで進めるべきものです。


0 何をなすべき仕事なのかを明確にする。ゴールは何か。目的・目標は何か。そして制約条件は何か。これを言葉にします。

1 次に、それを実現するために必要な要素作業(Activity)をすべて洗い出し、構造化・リスト化します。重複も、洩れもないように。

2 それぞれの要素作業(Activity)を誰がやるべきかを考え、体制図を決めます。

3 要素作業(Activity)の順序と、必要な期間を考え、タイムテーブルをつくります。

4 必要な期間と作業量から費用を求め、収支の予算を作ります。

5 リスク・アセスメントを行い、必要な事前対策を講じます(つまり、必要ならば1〜5に戻って計画を修正するということです)。

ここで大事なことは、作業(『要素作業』=Activity)を思考の中心に置くことです。製造の世界はモノを中心に考えがちです。そしてモノの構成と物量は、成果物の部品表(BOM)に従う、ということになります。しかしエンジニアリング・チェーンの仕事においては、まだ肝心の成果物の設計ができておらず、部品表(BOM)だって固まっていないのです。

ただし、エンジニアリングという仕事の特徴は、成果物が異なっても、作業のプロセスと構造はかなり共通している点にあります。必ず商品企画から始まり、製品基本設計→製品詳細設計→工程・設備設計→ライン設置→生産準備、という流れで動きます。この順序が逆になることは普通、ありえません。ここが計画化のカギになります。

各作業はさらに、サブ作業からなり、その内部の順番もあるでしょう。たとえば設備設計は機械設計・制御設計・電気設計・構造設計といったサブ作業からなり、機械の制御方式が決まらなければ電気は決まらないし、機械の重量や応力が決まらなければ指示構造設計もできません。

こうした要素作業の構成と順序関係は、設計の対象物が異なっても、変わりません。個別に変わるのは、作業量(工数)です。

そこで、上のステップ1で要素作業(Activity)を洗い出す際に、その作業の工数を左右する代表的なメトリクスを、あわせて推測します。構成機器数だとか、制御のI/O点数だとかいったものです。もちろん初期の段階ですから、ラフカットな推測に過ぎませんが、工数がわかれば、あとは投入するリソース(人員数)と生産性から、期間が分かり、費用も推算できます。これが計画のベースになるのです。

そしてステップ1から5まで進めることで、個別業務について、成果物一覧・作業リスト・体制図・スケジュール(工程表)・コスト集計表・リスク登録簿などが整備されることになります。

ステップ1のベースとなるのは、設計対象の構成と数量に関する、ざっくりとした推定です。代表的なアイテムについてのメトリクスがある程度、の精度のものです。これを「計画用BOM」と呼ぶこともあります。そしてステップ1の結果として得られる作業リストとは、すなわちエンジニアリングの「BOP = Bill of Processes」に他なりません。

そして、ここあげた計画の手順は、まさにプロジェクト・マネジメント計画書をつくる手順そのものです。プロジェクトの定義とは、「ゴールのある、個別的・一過性の仕事で、かつ失敗のリスクを伴うもの」ですから、エンジニアリング・チェーンの中の業務とは、プロジェクトそのものなのです。

ただし、以前も指摘したとおり、現在のPM標準には、調達論や品質論があるのに、肝心の設計論がありません。設計論のないPM標準では、エンジニアリング・チェーンをつなぐマネジメントは、うまくハンドリングできない点が問題だと感じています。

ところで、多くの企業がエンジニアリング・チェーンのマネジメントに悩む、もう一つの理由について、述べておきたいと思います。それは、人の問題です。

チェーンは鎖であり、鎖の強さとは、一番弱い輪で決まる、とはよく言われることです。それでは、今日の日本の製造業における、一番弱い輪とは、どこでしょうか? 

それは、生産技術の部分にある、とわたしは考えています。製造業の生産技術部門が、どこも人材的に弱体化しているのです。10年前に比べて、半分以下になっている、という指摘をする人さえあります。生産技術部門は、工程・設備設計から生産準備までを担う部門です。そして製造部品表(M-BOM)のお守り役でもあります。そこが弱体化し、エンジニアリング・チェーンのボトルネックになっている。

証拠もあります。これはやや古い調査ですが、日本機械工業連合会による「グローバルに対応する生産技術者の確保・育成に関する調査研究」(2012/03)から引用した図です。それによると、生産技術者が「不足している・どちらかというと不足している」と答えた企業は、合計で

・質的な面:    92%
・人員の量的な面: 83%

となっています。つまり、人数的にも、そして能力的にも、生産技術者が全く足りていない、という事実を示しています。
エンジニアリング・チェーンのマネジメントと、生産技術というボトルネック_e0058447_18464818.jpg
なぜこのような事態になったのでしょうか? 以下は推測ですが、やはり2008年のリーマン・ショックが一つのきっかけだったのではないかと考えます。この時、企業はかなり人減らしを行いました。ただ人員削減といっても、直接ライン部門を動かしている、製造や生産管理はなかなか切れません。また、新製品の開発を行う製品設計の部門は、優秀な人材を温存しておきたかった。

そこで、スタッフ的な業務が中心となる生産技術者を切っていくことになった、と想像しています。事実、わたしはその頃、国内メーカーでの職を失い、しかたなくアジアの新興国に行き、そこの企業で新しい製造ラインづくりや工場づくりに携わっているベテラン技術者の人を、何人も知っています。

また、仮にリストラにはあわなかったとしても、本社から海外に赴任して帰ってこない、という人も多いと思われます。海外工場展開を盛んに行っている企業では、新工場の立ち上げに生産技術者を派遣しいます。しかし、熟練工を集めにくい海外では、新工場はなかなか簡単に立ち上がりません。かくて2〜3ヶ月のつもりで出かけ、いつのまにか半年から1年2年も帰ってこられなくなる例が、多かったのではないでしょうか。

そうした中、突如、AI/IoTブームが来て、「我が社もなにかスマート工場化の取り組みをしたい」と急に経営層が思いついても、(あるいは人手不足が深刻化して「我が社もロボットを入れて自動化をしたい」と考えても、という場合もあると思いますが)、生産ラインを増強できる肝心の生産技術者が足りない、という事態が出現します。

この問題を解決するにはどうしたら良いでしょうか。首にした人々を呼び戻す? あいにく、話はそう簡単ではないと思います。また、いったん人数が半分以下になり弱体化した部門を、元の姿まで強化するのは、そう手早くできる事ではありますまい。

わたしは、生産技術部門の仕事、とくに生産設備設計から導入までの、ボリュームの大きな業務(かつ、時期的には波の大きな業務)を、自前主義からアウトソーシングに変えていくべきだと考えています。そして、アウトソースの受け皿となる業界、すなわち『工場エンジニアリング業界』(ないしラインビルダー業界)を育てるべきだと考えています。そして、ベテラン技術者の人たちが日本で再活躍できる場を提供するのです。

わたしが勤務先の業務のかたわら、(財)エンジニアリング協会で「次世代スマート工場のエンジニアリング研究会」なる活動を進めているのも、このような問題意識を持ってのことです。

エンジニアリング・チェーンをマネージする事は、地味な上に、なかなか単純ではありません。しかし、日本の製造業が再び力を得て羽ばたくために、少しでも皆さんと知恵を共有したいと考えて、こうしたお話をさせていただいている次第です。

(なお、講演におけるBOMやPLM関連の話題の部分は割愛しています。それについては、別の機会にまたご紹介できればと思います)


<関連エントリ>
 →「PMにはなぜ設計論がないのか?」 (2019-11-21)
 →「エンジニアリング・チェーンをゆるがす『個別性の罠』とは」 (2020-01-19)




# by Tomoichi_Sato | 2020-01-26 22:36 | ビジネス | Comments(0)

エンジニアリング・チェーンをゆるがす『個別性の罠』とは

前回の記事「エンジニアリングとは統合力(インテグレーション能力)である」(2020-01-12)では、エンジニアリングが複数の設計技術要素を束ねるすり合わせ型の仕事であり、そこでは設計変更(チェンジ・コントロール)が重要な機能となる、と書いた。では、もう少し具体的に、それはどのような仕事で、そういう課題があるのか。

これについて、昨年11月に、わたしは名古屋でダッソー・システムズエスツーアイ社共催のセミナーで、「BOM/部品表とエンジニアリング・チェーンのマネジメント」という講演をした。名古屋を中心とする東海地方は、日本の製造業のメッカである。そこから大手・中小の来聴者がおいでになり、一応好評だったと伺っている。そこで今回は、その講演の中から、とくにエンジニアリング・チェーンに関係するトピックの部分を取り出して、紙上講演録の形で(多少アレンジしつつも)再現し、お届けしようかと思う。

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皆さん、こんにちは。ただ今ご紹介にあずかりました、日揮ホールディングス(株)の佐藤知一です。

本日は「BOM/部品表とエンジニアリング・チェーンのマネジメント」というタイトルでお話をする訳ですが、エンジニアリング・チェーンとは、製造業における、設計業務を中心とした業務連鎖を指す言葉です。商品企画から始まり、製品設計、工程・設備設計、ライン設置、生産準備を経て、生産までをつなぐ、技術系の縦軸を指します。

製造業で設計技術に関わるエンジニアは、多くの方が、このチェーン(業務連鎖)に関わっていると言っていいでしょう。ものづくりに携わるエンジニアの、仕事の価値も悩みも、このチェーンがきちんとつながって、機能的に動いているかどうかに、かかっています。きちんと業務同士がつながり、かみあっていれば、設計の仕事も生産性高く進みますし、その価値も認められやすいでしょう。逆に鎖の輪がバラバラで、からんでいたり切れたりしていたら、仕事はやり直しと徒労が多くなり、その能力も正当に評価されない、という事態が生じかねません。

ですから、このエンジニアリング・チェーンの構造と機能をきちんと理解し、的確にマネジメントしてくれる管理職がいるかどうかで、設計技術者の働きがいも、大きく変わると言っていいでしょう。

ちなみに今、エンジニアリング・チェーンを「技術系の縦軸」といったのは、製造業には『サプライチェーン』(供給連鎖)という名の、大きな横軸があるからです。サプライチェーンとはいうまでもなく、最上流の原材料からはじまって、素材メーカー、サプライヤーからの調達、そして自社内での生産・物流、さらに流通業者を経て最終顧客におさめるまでの、業務の連鎖をこう呼びます。

サプライチェーンは自社を中心として、上流側と下流側に分かれます。APICS/SCORの用語・概念にしたがえば、上流側をマネージする仕事をSource、自社の生産をMake、そして下流側をマネージする仕事をDeliverと呼ぶことになっています。あるいは、上流側を「インバウンド・サプライチェーン」、下流側を「アウトバウンド・サプライチェーン」と呼ぶことも行われます。

サプライチェーンは、モノの動きの連鎖でもあります。ですから、これが切れると、製造業の売上と利益が止まってしまいます。いわばライン業務の中心です。なので、これが一日たりとも、切れたり止まったりしないよう、どの企業も細心の注意を払っています。

エンジニアリング・チェーンという概念は、これに対して、一種のスタッフ的業務の連鎖と呼ぶこともできます。これは、新しい製品の生産や、既存の製品・工程の改良に伴う仕事だからです。とくに、繰返し生産の業種では、注文が途絶えない限り、エンジニアリング・チェーンが一日、いや一月止まっても、あまり利益に影響は出ません。大手から図面をもらって加工するだけの、下請けの中小製造業には、エンジニアリング・チェーンが存在しない会社すら多いのが現実でしょう。
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ついでの話ですが、「エンジニアリング・チェーン」という用語は、和製英語ではないかと最近疑っております。たとえば、ガートナー社の用語集にもAPICS Dictionaryにも、英語版Wikipediaにも、そのままの形では出てこないのです(ためしにネットを英語のみに限って検索すると、いろいろと別のものが引っかかってきて、それはそれで面白いですが)。欧州系のITベンダーの資料にはときおり出てくるのですが、肝心の米国では、少なくともあまりポピュラーな用語ではないようです。

代わりに、海外では、PLM(Product Lifecycle Management)という領域が、製品設計の流れをカバーしていると考えられています。もっともPLMは、生産後の保守・廃棄までをカバーする、かなり広い領域の概念ですが。

ともあれ、製造業において、エンジニアリング・チェーン(設計系の業務連鎖)のマネジメントが、サプライチェーン・マネジメントと並んで重要であることに、変わりはありません。では、どちらがより難しいのでしょうか。

サプライチェーンのマネジメントの特徴は、基本的に複数企業にまたがっていることにあります。また、サプライチェーンはモノの流れが中心にあるため、それを構成する各機能(調達・生産・物流など)の連鎖が、モノの「在庫」で分断されがちになります。その結果、下流側の変動が上流側で増幅される「ブルウィップ現象」(→Wikipedia)などが生じ、全体のマネジメントが働きにくくなる問題があります。

他方、エンジニアリング・チェーンを構成する鎖の要素は、原則的にすべて、自社内の機能です。また、情報のやり取りが中心であって、「在庫」による分断は、基本的にないはずですね。だからサプライチェーンよりはずっと、マネージしやすいはずでしょう。

・・にもかかわらず、現実には、エンジニアリング・チェーンのマネジメントに悩む企業が多いようです。そこには大きく、2つの理由が関わっていると考えられます。

まず第一に、設計業務は個別性が高い、という事をあげましょう。

設計とは、つねに個別の、一度限りの行為です。エンジニアは、全く同じ設計図面を、繰り返し2枚も3枚も作成したりはしませんね。全く同じなら、設計し直す必要がないからです。必ず違う部分があるから、図面を作り直す訳です。作るのが図面ではなく、仕様書でも、プログラムのソースコードだろうと、同じです。全く同じなら再利用すればいいので、作り直すはずがありません。

逆に言うと、前と少しでも違えば、設計図面や仕様書を作り直す必要がある訳です。かりに、違っている箇所がほんのわずかだったとしたら、他の部分は古い設計図書からのコピー&ペーストになります。そして、エンジニアリングにおいて、まるっきり新規の設計というのは、そんなに多くないのが事実です。

ということは、設計に携わるエンジニアの仕事の多くの部分は、
(1) 古い図面を探す
(2) コピペする
(3) その一部を修正する(そして他の部分との整合性をチェックする)
という『コピペ作業』に費やされている、ということになりませんか?

そうした「コピペ・エンジニアリング」の作業は、その企業が以前からの設計情報の蓄積をもっていればいるほど、比率が増えていきます。まっさらの新規企業なら、以前の設計図面なんかないから、毎回が「新鮮なチャレンジ」になるのです(もちろん、その分、設計ミスのリスクも大きい訳ですが)。

「コピペ・エンジニアリング」の煩雑な、生産性の低い作業をどうするかは、それ自体、重要な問題です。しかし、その話は後回しにし、ここでは、設計という仕事は全て個別性の中にある、という点を注視したいと思っています。

個別性の高い業務をマネジメントするとは、具体的にどういう意味なのか。ここが実は、よく理解されていない点に、日本の製造業の抱える問題が隠されているのではないか。わたしはこれを、『個別性の罠』という言葉で呼んでみたいと思います。

製造業の方に、「マネジメントとはどういう仕事ですか?」とたずねると、「マネジメントとはPDCAサイクルを回すことだ」という答えが、よくかえってきます。継続的改善こそ、マネジメント・システムの中核にある、と。これはかなり広く共有された認識のようです。そして「標準なければカイゼンなし」の標語が示すように、標準の存在が前提となっています。

だとすると、個別性の高い、一度限りの仕事は、どのようにPDCAサイクルに乗せるのでしょうか? なるほど、既存の設計の98%を受け継ぎ、2%だけを改良するような仕事ばかりなら、たしかに見通しはつけやすく、PDCAも論じられるでしょう。しかし、技術進化の激しいこの時代にあって、そういう繰返し的設計だけしていたら、あっという間に競争から取り残されてしまうはずです。

ゼロベースからの設計のように、個別性の高い仕事。それをどう、業務の中に位置づけ、マネジメントするか。そこがよく認識されていないことが、問題の本質にありそうです。

たとえていえば、個別性の高い仕事は、農耕民にとっての野獣・害獣のようなものかもしれません。時どき襲ってきて、秩序ある畑を荒らす。取り押さえられれば、貴重な栄養源になるけれど、野放しになりがちである、と。

では、個別性・一過性の業務をマネージするとは、どういう意味なのか。それは、2つのことから成り立っています。業務を「予見(計画)可能にする」という事と、「再利用可能(繰返し可能)にする」という事の2つです。

(この項続く)


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# by Tomoichi_Sato | 2020-01-19 22:48 | ビジネス | Comments(0)