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その頭の使い方は、ちょっともったいない

頭の良し悪しは、生まれつきだ、と信じる人は多い。こういう人達にとって、教育の目的とは、生徒の能力を引き出してのばす事ではなく、生まれつき高い能力を持った生徒を、選別するためにある。

ご承知の通り、受験勉強の中には、何の役に立つのか不明な知識を、沢山覚え込むような面もある。だが、『頭の良さ=生まれつき』論者は、あまり問題を感じないらしい。「記憶という知的能力を選別する事自体に意義があるのだから、試験で覚える知識が有用かどうかは、副次的な問題」という風に、考えるようだ。

また、この種の論者は、しばしば、「優秀な人は何をやらせても優秀だ」と信じる傾向がある。ということで、受験競争という選別プロセスの中で勝ち残った、優秀な人材は、将来どんな分野のどんな職種に進もうと、つねに上位のポジションを与えるべきだ、という理屈になる。

そういう意味で、こうした信憑を持つ人々は、「教育」というものの効用を、二重に信用していない訳だ。まず、教育では、個人の知的能力(頭の良さ)は向上しない。そして、学校教育で教えたこととは無関係に、社会では(優秀な個人は)自分が学んで勝手に成長していくのだ、と。そして優秀さは、大学入試の合格歴で保証される。これが、昭和時代からわたし達の社会を作ってきた、マジョリティの意見だった。

・・という書きぶりからもお分かりの通り、わたし自身は、頭の良さは生まれつきでほぼ決まる、とは考えてない。まして、有名大学卒の人間なら、皆、有能なはずだ、とも思っていない。つまり、あんまり学歴に信をおいていないのである。人の有能さは、その人が学校を出た後の、生き方に大きく依存している。

以前にも書いたことだが、わたしは、自分の勤務先について、ひとつ自慢していいと思っていることがある。それは、大学を出なくても、社長になれる、という事実である。わたしが入社したときの社長は、高専卒だった。たまたま今の社長も、高専卒である。その間にも、10年ちょっと前だったが、やはり高専卒の社長がおられた。皆、エンジニアだ。

エンジニアというのは、自分の腕前がすべてである。どんな設計を考えたか、どう作ったか、いかに人を動かしたか。それだけで仕事の評価が決まる。出身大学も学位も専攻も、そして性別も国籍も、関係ない。そういうサバサバした世界観のほうが、わたしは気持ちが良い。

まあ、たしかにどの教科もオール5、という生徒は、たまにいる。でも、それは、どの種目も上手にできるスポーツ万能の人や、どんな楽器も器用に演奏するマルチプレイヤーに似て、ちょっと特殊な才能と言えなくもない。むしろ、「一芸に秀でた」人の方が、世の中にはずっと多いのではないか。そして、その一芸を探して見つけることの方が、むしろ社会的資源の観点からいっても、効率的に思われる。

いろんな分野の事を、ムリして学ばせるのは、頭の使い方としてはちょっと、もったいない。

前回の記事「アタマが悪いんじゃない、たぶん頭の使い方が下手なだけ」 (2021-02-14)では、問題解決のために「考える」際に、わたし達がしばしば自分から、上手でない頭の使い方に陥りがちだと書いた。もったいない頭の使い方。それには、いくつかパターンがあるようだ。それはたとえば、こんな事である:

(1) 当人が心配事や不安や怒りの感情にふりまわされている場合

臓器である脳のパフォーマンスには、メンタル面も大いに影響する。メンタルな悩みごとがあると、ちゃんと問題に集中して考えることができず、いつの間にか本来の問題とは別の、自分の悩み事で頭が空回りしていたりする。脳のリソースが、感情系に多く割り当てられるのだろう。だから、考えの筋が弱くなったり、答えの方向性に無理なバイアスがかかったりする。

しかし、たいていの人間は、自分自身が感情に「乗っ取られて」いても、そうとは自覚しないものだ。「考える自分」は、あくまで理性的なつもりで、居続ける。メンタル問題に気づくのはむしろ、はたの人間である。だが、「あんた怒っているね」などと指摘しようものなら(そういう忠告はとても貴重なのだが)、かえって「怒ってなんかいません!」と逆ギレしたりする。

だからこそ、わたしは最近、「感情のマネジメント」が、仕事の問題解決と、考える能力を保つ上で、とても重要だと感じてきているのだ。そして集中して何かを考える前には、たとえば数分間でも瞑想するなり、茶の湯を立てるなり、音楽を聞くなりして、感情の波をしずめる工夫が有用なのだろう。

(2) 「頭が良い自分」を誇示する事自体が、自己目的化している場合

考えることの目的は、問題解決である。しかし人間社会では常に、競争意識が働く。誰が先にそれを考えついたか。誰が口火を切り、あるいは仕上げたか。その功績を自分のものにしたい、と欲するのが、ふつうの人間だ。要するに、問題解決それ自体よりも、「自分は他人より頭が良い」ことを誇示したい、という欲求が先に立つケースである。そして、こういう人は案外多い(わたし自身、しばしばこの罠に落ちる)。

「人よりも頭が良い」ことを誇示する方法はいくつかあるが、一番ポピュラーなのは、「人がまだ知らないことを知っている」である。知識や情報の誇示だ。いろんなことを知っている、博識な人は頭が良い、という世間的な思い込みが、それを支えている(そして受験勉強がそれを強化する)。そういう人は、しばしば「ちなみに・・」とウンチクを傾けるが、問題解決の文脈からは微妙に外れていたりする。

もう一つの方法は、議論で他者を論破することである。解決策を求めて、ブレスト的にあれこれ探っている段階で、それはダメあれは無理、と難癖をつける人も、ときどき見かける。論争というのは交渉と同じで、ある程度の技術・スキルと、結果への執着心が必要である。だから議論を「勝ち負けの場」と見る人は、議論を単なる発想の手段と思う人よりも、たいてい論戦に強い。そして、良い発想の芽を潰してしまう。

なにせ、思考の目的が、いつの間にか、問題解決から自己顕示にすり替わっているのだから、そんな態度から有効性のある解決策が生まれる可能性は低い。だから、こうした状態が生じたら、「あの人はまた有能ゲームをはじめているな」と判断して、皆で目的を再確認する作業が必須である。

(3) キーワード思考に頼っている場合

「身体がバランスをくずして、どこかに無理な力がかかっている」状態に対応するパターンが、この『キーワード思考』法である。自分がどこかで学んで、気に入っている何らかのキーワードを、解決すべき問題に無理に当てはめようとする。それは「ガラパゴス化」かもしれないし、「Win-Win」「パーパス」「アジャイル」かもしれないし、最近なら「デジタル技術」もそうだろう。

こうしたキーワードの多くは、西洋生まれで、何となくカッコいいし、使うと「頭が良く」見えるような気がする。だからつい、頼りたくなるのだろう。

問題解決は、ふつう、「気づく・発見する」フェーズと、「思いつく・発明する」のフェーズからなる。「気づく」のフェーズでは、対象となる問題を、なるべく客観的に把握しないと、原因や解決法にたどり着かない。しかし「キーワード思考」に頼る人は、どんな問題事象も強引に、慣れたラベルのついたカテゴリーに引き寄せてしまう。「あ、それはガラパゴス化だね」「オープン・イノベーションが足りないんだ」といった具合である。

また「思いつく」のフェーズでは、なるべく開放的な態度で、可能性のある選択肢をたくさん吟味し、組み合わせを探索しなければならない。しかし「キーワード思考」の人は、先回りして、教科書的な公式をあてはめ、解決策は事足れり、としがちだ。「だったらDXをすればいい」「Win-Winに持ち込むのがベストです」という調子である。

こうした習慣・態度は、わたし達の社会における受験勉強の悪影響で、生まれているのかもしれない。しかし何より、キーワードを持ち出せば、その先は考える必要がなくなり、思考がとても楽で経済的になるから、好まれるのだろう。考える行為は、脳のリソースを沢山くって、コストがかかるのだ。

でも、安上がりの解決法は、安上がりの結果しか生まないのが、この世の常である。それを避けたければ、「普通の言葉で言いかえると、具体的にどういうことかなあ」と、もう一段深掘りする習慣を、皆が身につける必要がある。

(4) 考える時間が足りない場合、考え続けることをあきらめてしまう場合

おそらくこれが、一番多いパターンではないかと思う。とにかく忙しくて、ちゃんと解決策を考える時間がない。だから手近な策に、つい頼ってしまう。あるいは、多少の時間はあっても、「もう自分には無理」とあきらめて、深く考え続けることをやめてしまうケースもある。

だが、わたし達がビジネスで直面しているほとんどの問題は、十分考えられないまま、習慣的に遂行されていることから生じる。売上が伸びない、でも今までどおり頑張って営業するしかない。納期が間に合いそうにない、だから皆が無理にでも頑張って作業するしかない。品質がプアだ、とはいえコストの安いところに任せるしかない・・

しかし、たとえ問題は複雑でも、落ち着いてちゃんと考えれば、着眼点と筋が見えてくるはずなのである。それを妨げているのは、「考える時間がない」ことだ。

わたし個人の経験からいえば、落ち着いて考えるためには、誰にも邪魔されない連続した時間が、最低でも20分、できれば45分間くらい、必要だ。そして、もう一つ、わたし達が良い結論に達するのを妨げているのは、「考えることを諦める」心理である。もう少しで向こう側の答えが得られるのに、途中で考えるのを諦めるのは、とても、もったいない頭の使い方だ。


以上の4パターンを、少しまとめよう。頭を上手に、効率よく使うためには、4つの条件が必要である。
・身体的・感情的に、「考える」ことに集中できる状態を作る
・正しい目的設定をする、つまり「問題解決」を「頭の良さの誇示」より優先する
・キーワード思考に頼って、考える行為を途中で省エネしてしまう習慣を避ける
・考える時間を作り、考えることをあきらめない
その頭の使い方は、ちょっともったいない_e0058447_22180062.jpg
とくに、最後の条件は重要だ。わたしが15年前に書いた『時間管理術』(日経文庫)で、
 「時間管理の目的は、考える時間を確保することにある
と明記したのは、このためである。

時間管理の目的は、「スキマ時間」をいろんな用途で埋め尽くすことでも、時間に吝嗇になることではない。一見すると、「何もしていないように見える」時間をつくることにある。何もしていないように見える時間とは、すなわち「考える時間」に他ならない。机に向かって、腕を組んでいるだけの時間。あるいは天井を見上げているだけの時間。さもなければ部屋の中を、あちこち歩き回っている時間。端の人間から見て、何も生み出していない、『非生産的』な時間こそ、わたし達が最も必要としているものなのである。

そして、十分に考えることを怠ったら、多忙なのに不況、という状況は決して脱せないだろう。これだけ優れた人材と豊かな文化を持つわたし達の社会において、それが何より一番もったいないのである。


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# by Tomoichi_Sato | 2021-02-22 22:36 | 考えるヒント | Comments(0)

アタマが悪いんじゃない、たぶん頭の使い方が下手なだけ

頭が良くなりたい、と思う人は多い。

もちろん、わたしも例外ではない。わたしは不注意で、うっかり大事なことを忘れたり、間違ったことを発信しがちだし、数学的能力もあまり高くない。将棋や囲碁なんて、三手詰めさえ解けない。「それなのに、どうやってプロジェクト・マネジメントなんてできるの?」と将棋の得意な友人に以前きかれて、ぐうの音も出なかった(苦笑)。

プログラミングもあまり上手ではない。今でもたまにコードを組むことがあるが、すぐにバグに突っかかって、「何でこいつ(=コンピュータ)は、思ったように動いてくれないんだろ」と独り言をいってしまう。だが計算機にしたら、「あんたの言うとおりに動いただけですよ」と、答えるに違いない。当たり前だが、バグの原因は、ほとんどがこちらの考えや思い込みが、間違っているからだ。

なぜ、頭が良くなりたい、とわたし達が願うかというと、もっと良い答えを出したいから、豊かに発想したいから、そして、効率よく考えられるようになりたいからだ。では、わたし達にとって、「考える事」の主な目的は、何か。それは、自分たちの問題を解決したいためである。つまり、考えることの主たる目的は、問題解決にある

もちろん、単に空想するだけ、想像するだけ、という頭の使い方だって、たしかにある。だが、そういう場面では、「もっと頭が良くなりたい」とは、ふつう思わない。何かの問題を解くという目的意識があって、頭を使う時こそ、「もっと頭が良ければなあ」と感じるのだろう。

そして問題解決とは、試験問題を解くことではない。
 「応仁の乱が起きたのは、西暦何年か?」
 「部分積分の公式って、どう使うんだっけ?」
こういう問いは、あとで本やネットで調べれば分かる。調べれば分かる問いは、『出題』であって、問題ではない。

わたし達を悩ませるのは、そして悩んで「あー、頭良くなりたい」と思わせるのは、調べてもすぐ答えが出ない問題である。

ちなみに資格試験か何かの勉強をしていて、教科書をよんでも分かりにくいし、なかなか覚えられない、「あー、頭良くなりたい」と思うのは、個別の出題が解けないからというよりも、資格試験をスラスラ解けるようになりたい、という一種のメタ問題に悩むからだ。

いいかえると、「資格を持つ自分」という“ありたい姿”(To-Be)と、「資格を持っていない自分」の“現在の姿”(As-Is)にギャップがある。As-IsからTo-Beに移るための、最大の障害が試験勉強だ、と認識するから、それを問題と感じるのである。

つまり、一般的にわたし達が直面する「問題」とは、“あるがままの姿”(As-Is)と、“ありたい姿・本来はこうあるべきだったはずの姿”(To-Be)との、ギャップを超える上での障害を、意味するのだ。売上を伸ばしたいとか、就職先を選びたいとか、あるいは転職すべきか決めたいとか。良い設計とかデザインというのも、優れたTo-Beの構想であるから、広い意味で問題解決のための思考に属する。

では、どうすれば、頭が良くなるのか?

それについて、思い出すことがある。わたしは数年前から、声楽家の先生について、歌を習っている。一応、合唱が趣味だったので、それまでも自分なりに、ちゃんと歌ってはきたつもりだった。だが、我流のままでは、いつまでも伸び悩む。そこで、ある出来事をきっかけに、プロについて習うことにしたのだ。

先生からはいろんなことを学んできたが、一つ分かったのは、自分はちゃんと朗々とした声を持っていた、という事だ。

そんなの当たり前、と思うかもしれない。だが、それまで自分は、「もっと声量があったら良かったのに」「もっと良い喉を持って生まれついたら良かったのに」などと、密かに感じていたのだ。それどころか、何年も前だが、別の合唱指導の大家であるS先生に、セミナーの懇親会で「合唱を歌う上で、声量って必要条件なのでしょうか?」と質問したりしたこともあった。

だが、しばらく習って気づいたことは、自分には(そして多分、誰にでも)ちゃんとした声があった、という事実だった。ただ、声の出し方、からだの使い方が下手だから、それが活きて出てこなかったのだ。

発声は身体的な事なので、文字で説明するのは、なかなか難しい。ともあれ、からだの余計なこわばりを取り除くこと。ムダな力を、喉や舌や顎などから抜くこと。そして自分の身体が、とりまく周囲の空間と一体に感じるくらいに、なんというか、バランスよく「全体的に」働くようイメージすること。そうすると、声はちゃんと響くように出てくるのだった。自分が無理して「出す」のではない。「出てくる」ものなのだ。

そして、こうした教訓は、おそらくスポーツなど、殆どの身体技法と通じているのではないかと想像する。わたしはひどい運動音痴なので、せいぜい多少楽しめるスポーツはスキーぐらいなのだが、あれもバランスと、しなやかさの競技である。斜面で無理して力を入れたら、かえって転ぶ。スキーを楽しむのに、別に並外れた筋力は要らない。からだの使い方、重心の移し方を覚えれば、あとは自然が助けてくれるのだ。

わたし達が上手にできない身体技法は、もともと力量や素質がないことよりも、ムダな力の入れ方、下手な使い方をしていて、バランスやつながりが良くないことから生じる。

そして、「考える」という行為も、ほぼ同じだと、わたしは見ている。

「考える」行為は、いろいろな要素的機能によって、支えられている。記憶する、記憶したことを思い出す、パターンを認識する、論理的に推理する、感覚的イメージを想像する、つながりや組み合わせをつくる、言語化する、等々。こうしたことの自在な組み合わせで、「考える」はできあがっている。ちょうど身体の種々の筋肉などをうまく連携させて、運動や発声などをするのと同じである。

違うのは、こうした行為がほぼすべて、脳という単一の臓器の中で行われていることだろうか。だから外から見えにくい。まあ発声だって、外からは相当見えにくいプロセスだが。

そして、人間の臓器や筋肉の基礎的能力というのは、基本的にそれほど大きな違いがある訳ではない。肺活量だって、正常な大人の間では、倍半分も違うまい。100mを10秒で走れる人はごく少数だが、20秒でなら中学生だって走れる。走る速さだけでなく、眼の良さ、肩の強さだって、素質的には桁違いの差はないのだ。

だから、思考能力の基礎的な要素も、びっくりするほどの違いはないと思われる。もちろん世の中には異常な記憶力を誇る人や、とてつもなく論理展開力の速い人もいる。だが、ここで論じているのは、そういう特殊な、天才的な人の話ではない。わたし達、ごくふつうの人間の思考能力であって、それは大差はないだろう。

では何が違いを生むのか? それは、要素的な働きが、バランスよくスムーズに連携できるかどうかと、そうした鍛錬を常日頃からやっているかどうか、なのである。

今のわたしが100mを何秒で走れるかは、自分が高校や大学のときに何秒で走れたかとは、ほとんど関係がない。それ以後の時期に、どれだけ走り込む機会があったかに依存している。同じように、考える能力は、最終学歴がどこだったかよりも、社会に出てからどれだけ考えることを続けたかに、よっているのだ。

そしてまた、脳を使うとは、きわめて身体的な作業である。身体的に疲れすぎていたり、睡眠不足だったりすると、てきめん、思考能力は落ちる。

もちろん、かりに身体的に大丈夫で、睡眠も取れているときでも、「なんだかムダな頭の使い方」になっているなあ、と自分で感じることは、けっこう多い。そして他人に対しても、「この人、もったいない頭の使い方だなあ」と(まあ余計なお世話だろうが)感じることが、時々ある。

それは、考えるという行為をするための、準備・方向・偏り・限界などに関する、必要条件をちゃんと満たしていないときに生じやすいのだ。ただ、例によってまた長くなりそうので、そうした必要条件については、稿を改めて、また書こう。

(この稿続く)


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# by Tomoichi_Sato | 2021-02-14 23:21 | 考えるヒント | Comments(0)

書評:「囚人のジレンマ―フォン・ノイマンとゲームの理論」 W・パウンドストーン著



第2次大戦終了の4年後、1949年8月に、ソビエト連邦はシベリアで核実験を行い、原子爆弾の保有国となったこ。これにより米国による核兵器の独占体制は(西側諸国の予想よりもずっと早く)終わり、世界は東西の核軍拡競争時代に突入した。

翌1950年の時点では、「アメリカや西ヨーロッパの相当数の人々が、アメリカはただちに、理由などどうでもいいから、対ソ核攻撃を考えるべきだという気持ちになって」いたという。そして、この考え方は「『予防戦争』という遠回しな名で知られ、アメリカが時機をとらえ、核の脅しと奇襲攻撃を通じて世界政府を樹立すべきだというものであった」(P.15-16)

この動きを支持した知識人は、当時たくさんおり、その中に著名な数学者も二人いた。バートランド・ラッセルと、本書の主人公ジョン・フォン・ノイマンである。ラッセルは後に平和主義に転じるが、フォン・ノイマンはよりタカ派的で、ソ連への先制核攻撃を主張した。

フォン・ノイマンはその数年前に、経済学者モルゲンシュテルンとともに『ゲームの理論』を確立したばかりで、すでに戦略研究の大家だった。また、米軍の設立した作戦研究とORのシンクタンクである「ランド研究所」の主要メンバーでもあった。

彼の影響力は当時、数学や物理学のアカデミアを超えて、軍や政界に対しても甚大であった。すでに第二次大戦中、フォン・ノイマンは原爆の使用に対する戦略的な助言を提供し、投下すべき攻撃対象のリストを作成した。その中には、「京都、広島、横浜、小倉」などの都市の名前が記されていた・・


著者ウィリアム・パウンドストーンの本はいつも、非常に面白い。わたしが最初に呼んだパウンドストーンの本は『ライフゲイムの宇宙』(原題:Recursive univers = 再帰的な宇宙)で、セル・オートマトン上のライフゲームと、最新の宇宙論を並べて論じた、印象的な科学書だった。

また『天才数学者はこう賭ける』も非常に斬新で、情報学者シャノンと、ベル研の数学者ケリーによる情報の価値に関する「ケリーの公式」とをめぐる物語が興味深かった。パウンドストーンの、重要だが世から忘れられかけている科学的発見を、科学者たちの伝記とともに蘇らせる手腕は見事である。また米国の一流のサイエンス・ライターらしく、科学全般への深い理解と、対象に多面的・実証的に迫るアプローチが素晴らしい。

ジョン・フォン・ノイマンは1903年、ハンガリーのブダペストで、裕福なユダヤ人家庭に生まれる。幼い頃から神童と呼ばれ、1925年にチューリヒ連邦工科大学で化学工学(!)の学位を得、翌年にはブタペスト大学から数学の博士号を受ける。ベルリン大学で最年少の講師になり、さらに大数学者ヒルベルトに学ぶ。

フォン・ノイマンの数学上の業績は、作用素環をはじめ集合論、エルゴード理論、論理学など多方面に渡るが、彼の名を数学の外でも有名にしたのは、「量子力学の数学的基礎」という公理論的数理物理学の研究だった。

もちろん、その他に、電子計算機の発明への貢献も忘れてはいけない。プログラムそれ自体を「データ」として扱うことで、計算手順をハードウェアの結線(Hard coding)から開放して、独立した「ソフトウェア」という分野を作ったのが彼なのだ。だから、こうした種類の計算機を「ノイマン型コンピュータ」と呼ぶ。

だが、彼がソ連への積極的先制攻撃を主張していた1950年に、ランド研究所の後輩フラッドとドレッシャーが、ある奇妙な性質を持つ「ゲーム」に関して、実験的研究に取り掛かった。それは、プレイヤーたちの合理的な決定を積み上げると、全体最適から遠く離れた結果に陥る、というゲームだった。プリンストン高等研究所の数学者タッカー(「ナッシュ均衡」で知られるJ・ナッシュの師匠)は、このゲームを「囚人のジレンマ」と名付けた。

囚人のジレンマについては、前の記事で詳しく解説したので、ここでは繰り返さない。フラッドとドレッシャーの研究は、普通の人たちに、このゲームを100回繰り返してプレーさせると、最終的に「協力」行動(これが全体最適を与える)をとるようになるのか、それとも「裏切り」行動(ナッシュ均衡解=利己的な局所最適になる)をとるのか、という実験だった。結果は、多くの場合は「協力」を選ぶというものだった。

この実験については、その後、多くの追試的研究が行われている。中でも有名なのは、1980年のアクセルロッドによる、コンピュータ同士の試合による実験だった。そこでは、相手が裏切れば次に自分も裏切り、相手が協力すれば次は自分も協力するという、「オウム返し」tit-for-tat戦略が、もっとも良い結果を生むことが示された。

ゲーム理論は、生物進化の研究分野でもよく援用されているが、アクセルロッドは競争原理が支配する集団の中で、「協調戦略」がどう発生していくかをうまく説明したのである。

すると、ゲームの理論に基づいて、核による先制攻撃を主張したフォン・ノイマンの議論は、どうなるのだろうか? 朝鮮戦争の始まった1950年以降、アメリカ世論は「予防戦争」論に急速に傾く。それを加速したのが「赤狩り」だったろう(フォン・ノイマンは反共主義者だったが、狂信的なマッカーシー議員のことは嫌っていた)。

しかしスターリン没後、1955年の軍縮交渉(未成立に終わるが)、そして62年のキューバ危機を経て、米国とソ連は冷戦的な共存状態に落ち着いていく。

逆に、ゲームの理論はどうなったか? 応用数学と経済学の分野としては、その後も発展していく。1966年、ラパポートらは単純な二人ゲームを分類し、ジレンマ(板ばさみ)状況を生じるものを明らかにした。それは、以下の4種類だ。

 行き詰まりゲーム:両者とも裏切るのが全体で最良の結果を生む
 シカ狩りゲーム:両者とも協力するのが全体で最良の結果を生むが、裏切ると自分だけ利を得る
 チキンゲーム:両者とも裏切ると全体が最悪の結果になるが、片方だけが協力すると相手の利になる
 囚人のジレンマ:両者とも裏切ると全体が最悪の結果になるが、片方だけが裏切ると自分の利になる

中でも、「囚人のジレンマ」自体は、うまい理論的な解決が与えられないままだ。戦略に関する「メタ戦略」を考える、という理論も提案されたが、あまり現実的ではない。フラッドとドレッシャーは、最初は同僚のナッシュらが解決してくれると期待していた。しかし今では「囚人のジレンマは絶対に『解決』できないだろうと考えており、ほとんどすべてのゲーム理論かも二人と同じ意見である」(p.162)。

そして本書には触れられていないが、2000年にはM・ラビンが、フォン・ノイマンとモルゲンシュテルンの「期待効用理論」自体に、深刻な問題点があることを数学的に証明した(もっとも経済学者の多くはラビンの指摘をあまり重大視していないようだが)。

では、フォン・ノイマンその人はどうなったのか。

彼が晩年にうちこんだのは、水爆の開発であった。さらに彼は1954年、アメリカ原子力委員会AECの委員に就任する。だが翌55年に、骨ガンが発見される。フォン・ノイマンはその少し前から次第に厭世的になっており、また、あれほど優れた頭脳を誇りながら、プログラミングで単純な間違いをすることもあった(彼は50行くらいのアセンブラは頭の中で組んだ)。

ちなみに原爆開発に関わった大勢の物理学者が、比較的若い時期にガンで死亡している(フェルミは53歳、オッペンハイマーは62歳で亡くなった)。フォン・ノイマンもビキニ環礁で原爆実験に立ち会っていた。

フォン・ノイマンが生まれたのは、ハンガリーの富裕なユダヤ人家庭だが、非宗教的だった。彼は最初の結婚のとき、形式的にカトリックに改宗するが、本人は徹底した不可知論者で、キリスト教などまともに信じてなどいなかった。それが最晩年にはふたたび病床で、カトリックに入信する。これには友人モルゲンシュテルンらも驚いたらしい。だが「この改宗はフォン・ノイマンにそれほど平和をもたらさなかった。フォン・ノイマンは最後まで死を恐れていた」(P.250)。彼は1957年に53歳で世を去る。

「ジレンマ」とは、あちらを立てればこちらが立たず、という板ばさみ状況を示す言葉だ。囚人のジレンマがこれほど有名になったのは、各プレイヤーが合理的なミニマックス解を選ぶと、全体としては最悪結果を得るからだ。これはゲームの理論から生まれる、一種のパラドックスであった。

パラドックス」とは、妥当に見える前提から、合理的な推論を組み合わせると、非条理としか思えない結論が出てくるような問題を示している。だから皆、何らかの理論的な「解決」を望んだ。

だが、「囚人のジレンマ」がパラドックスに見えるのは、局所的な経済合理性を積み上げたら、結果的に全体最適がもたらされるはずだという、わたし達のリニアな直感の方に、じつは問題があるからなのだ。組織やシステムというものは、そういう単純な足し算を超えた性質がある。

フォン・ノイマンのゲーム理論は、そうしたパースペクティブへの入り口を提供するはずだった。だが、彼自身はその道には踏み込まなかった。彼があまりにも頭の良い、現世的な合理主義者だったからだろう。晩年には、ゲーム理論通りに世の中が動かなかったのは、大多数の人間が愚かで非合理的だからだ、と考えていたふしがある。

もちろん、わたし達は、彼ほど知力に恵まれた存在ではない。だが、ここでカトリック思想家の言葉を一つ、思い出すのもいいだろう。「あまりにも現世的な人間には、現世のことはよく分からないのだ」(G・K・チェスタトン)。なぜなら人は、善意の協力だの道徳だの宗教だのと言った、非合理的なものを信じたがる存在だからである。


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# by Tomoichi_Sato | 2021-02-08 07:48 | 書評 | Comments(0)

ミクロな合理性を積み上げると、マクロな不合理が生まれるとき

二人組の強盗がいた。彼らはあちこちの現場で盗みを働き、世の中を荒らし回ってきたが、最後の仕上げとばかりに、「一世一代の大仕事」に取り組んだ。銀行強盗である。二人は大胆にも白昼、覆面姿で銀行に押し入り、大金を奪って逃げた。

だが、警察もメンツを潰されたまま黙ってはいない。草の根を分けて二人を追いかけ、とうとう別々の場所でほぼ同時期に、二人を逮捕した。でも二人とも、銀行から奪った大金は身につけておらず、どこかに隠してしまったらしい。二人が銀行強盗の犯人だという、客観的な証拠は見つからないのだ。

警察は彼らを勾留したものの、証拠があがっているのは別の微罪だけ。いわば、別件逮捕の形になった。とはいえ、なんとか二人に銀行強盗の罪を白状させたい。警察は、二人を別々の独房に入れ、お互いに相談できない状態にした上で、取り調べを続けた。だが、なかなか二人は自白しない。そこで、ある日、一人にこう持ちかけた。

「お前さん、このまま銀行強盗の件でシラを切り続けたら、どうなるか分かっているな? すでに証拠の上がっている窃盗罪で、確実に1年は刑務所暮らしだ。しかしな、ここで取引しよう。お前さんが、相棒と組んでやった銀行強盗の罪を、自分から認めるなら、反省して警察に協力してくれたということで、無罪放免にしてやる。」

「えっ、無罪放免。」

「そうだ。司法取引ってやつだ。銀行強盗の罪とくれば、ふつうはまず、二人とも刑期5年だろうな。だがもしお前が自分から、この銀行事件の捜査に積極的に協力してくれたら、別件の窃盗も含めて、全部チャラにしてやろう。そのときは、非協力的で反省の色がないお前の相棒は、まあ7年は食らい込むことになるだろう。」

「取調官の旦那。前にも言いましたが、そんな相棒なんてヤツのことは知りませんぜ。」

「ふっ、まだ、とぼけるつもりかよ。まあ、よく考えろ。この取引が成立するのは、お前の相棒が否認し続けた場合のことだ。お前より先に、あいつが銀行強盗の件を自白したら、どうなると思う? まるきり逆の立場になる。お前は7年の刑務所ぐらし、あいつは無罪放免だ。はやく本当のことを白状するほうが身のためだぞ。さあ、どうする?」

その国には司法取引の制度があった。だから、取調官のいうことは単なるハッタリではなさそうだ。では、この強盗は、どうすべきか。否認を続けるか、自白するか。あなたなら、どうするだろうか?

この問題が難しいのは、相方がどう出るかが、分からないためだ。ふつうのビジネス問題に置き換えれば、相手の行動は自分が決められないから、自分にとってのビジネス環境に相当する。つまり、環境条件において、リスクが有るのである。そこで、こういうときは次のような表を作って、場合分けして考えてみる方が良い。

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横軸は、自分の行動だ。否認と自白の二つがある。そして縦軸は、相方の行動である。これも、否認と自白がある。マス目の中の数字は、それぞれの行動を自分と相手が取ったときに、結果として自分が刑務所に入る年数が入っている(年数が長いほうが損なので、マイナスの数字になっている)。

こういう表を、『利得表』Pay-off matrix と呼ぶ。利得表で考えるときは、縦に見比べてはいけない。それは、自分の行動を中心にした、いわば自己中の見方だ。横に見て、比較するのである。相手がとる行動ごとに、自分はどちらをとるべきかを考える。

まず、相手が否認し続けたら、どうなるか。その場合、自分も否認すれば、銀行強盗の罪は証拠不十分で問われないけれど、別件の窃盗罪で1年の刑期となる。だが、自分が自白すれば、司法取引が成立して、無罪放免になる。

では、相手が自白したら、どうなるか。自分も自白した場合、二人そろって5年ずつ、刑務所生活を送ることになる。だが、自分が否認したら? そうなると、相棒の側に司法取引が成立し、自分は反省の色がないということで7年間のムショ暮らしになってしまう。

結局、相手が否認した場合も自白した場合も、自分は自白する方が、被害は少ないことが分かる。前者の場合は、−1年(否認) > −5年(自白) だし、後者では、0年(否認) > -7年(自白) である。

したがって、このようなケースでは、相手がどう出ようとも、自分は自白する方が合理的であることが分かる。リスクのある不確実な環境下では、自分の被害を最小化する行動が良い。これを『リスク最小化の原理』と呼ぶ。

これで意思決定の問題は解決した。一件落着。・・と、言いたいが、じつはこの話は、まだ先がある。

よく考えてみてほしい。自分と相棒の置かれた条件は、鏡に写したように、まったく同じなのである。だとしたら、相棒も同じように考えて、「自白」を選ぶはずではないか? そして、二人が「自白」を選んだら、どうなるか。二人そろって、5年間ずつ、刑務所の塀の中で過ごすのである。

次の表を見てほしい。これは、利得表の中に、二人組が課せられる刑期の年数の合計値が書いてある。
ミクロな合理性を積み上げると、マクロな不合理が生まれるとき_e0058447_21194282.jpg

これを見る限り、二人にとって一番良いのは、そろって否認し続けるケース(合計マイナス2年)である。そして最悪なのは、二人とも自白するケースで、合計マイナス10年になってしまう。

二人組は、構成員わずか2名ながら、小さな組織だと考えることができる。この表が示しているのは、組織の構成員がそれぞれ、もっとも合理的だと考える行動をとると、組織全体としては最悪の結果を生んでしまうケースが有る、という事実だ。

ミクロな最適化を積み上げても、マクロな最適は生まれない。あるいは、各人がその持ち場で最善を尽くせば、全体で最善の結果が得られる保証はない。そういう事を、この事例は示している。このようなケースを、ゲーム理論では『囚人のジレンマ』と呼んでいる。

ゲーム理論は、物理学者のフォン・ノイマンと経済学者のモルゲンシュテルンが確立した、戦略研究に関する応用数学の分野で、現在では主に経済学の中に組み入れられている。ゲーム理論では、「全プレイヤーが最適行動をとっており、かつ、どのプレーヤーも自分の戦略を変更すると期待利得が減ってしまうような、戦略の組み合わせ」を『ナッシュ均衡』と呼ぶ。ナッシュ均衡からずれた行動を選ぶと不利益が生じるので、ある種の安定した状態を示す。上の例では、二人が「自白する」ことがナッシュ均衡になっている。

ところで経済学では、「全体の利益が最大化された状態」(全体の利益を更に上げるためには、誰かを犠牲にしなければならない状態)を、『パレート最適』とよぶ。この名称は、イタリアの経済学者パレートの名前からきている。上のケースでのパレート最適は、二人が否認することである。

囚人のジレンマが「ジレンマ」と呼ばれている理由は、ミクロな合理性を積み上げるとマクロにも合理的な結果を得るはずだ、というわたし達の直感を裏切るからだ。いいかえると、ナッシュ均衡がパレート最適に一致しないので、ジレンマと感じられるのである。

囚人のジレンマに似たような例は、現実世界でも、いろいろと起こりうる。たとえば、競合する商店や企業間の、値引き競争を考えよう。同等な商品をめぐって、A社はB社よりも安値で売って、販売をあげ、利潤を出そうとする。でもB社だって、同じことを考える。そして両社はどんどんと安い価格で販売していくので、全体としてはさっぱり利益の上がらない構図になる。

あるいは、軍拡競争なども、似たような構図がある。戦争に負けるリスクを最小化しようと、お互いに仮想敵国よりも軍備を増強する。だが戦争がなければ、軍備費用など社会的コスト以外の何者でもない。そして軍事費ばかり大きくなって、国家の経済的発展が止まってしまう。

最近の例で言えば、昨年春のマスクをめぐる混乱なども、典型的な囚人のジレンマ状況である。マスクが品薄だ。マスクがないと感染症リスクが高まる。だからリスク最小化の原理にしたがって、皆がマスクの買いだめに走った。結果として、国内のサプライチェーン全体から、マスクの在庫が払底し、もっとも必要とした医療機関などが入手困難になってしまった。どうみても、社会全体のマクロな最適からは程遠い。

では、どうしたら良いのか? 囚人のジレンマを防ぐ方法はあるのか?

答えは簡単である。二人が協力すれば良いのだ。この問題の根源にある障害は、二人が別々の独房に入れられていて、お互いにコミュニケーションできないことにある。もし二人が何らかの手段で話し合えれば、互いに協力してパレート最適点、すなわち「そろって否認する」行動を取るに違いない。

つまり囚人のジレンマを避けたければ、コミュニケーションを活性化して、お互いに協力できる状況を作るべきである。

同じ一つの会社の中でさえ、縦割りでサイロ化の進んだ組織では、囚人のジレンマ状態が起きうる。たとえば営業部門は売上高を上げるために安値競争に走り、製造部門は製造コストを下げるために大ロットで生産する。これは、商品種類が少なく、作れば売れた昭和の高度成長時代には、良い戦略だったかもしれない。

だが、需要が多様化し、多品種少量生産化した現代で、こんな方策を続けたら、在庫と納期のミスマッチが多発し、利益どころでなくなってしまう。だからこそ、生産と販売の間のコミュニケーションをつなぐ、需給調整機能を確立することが、多くの企業のサプライチェーン・マネジメントで急務になっているのだ。

部門間が互いに不信感を持ち、口もきかぬ状態になっていたら、組織全体が最大のパフォーマンスを果たすことなど、望みようもない。これが、囚人のジレンマの示す明確な教訓である。

しかし、それと同時に、もう一つ大切な条件がある。それは、「たとえコミュニケーションが取れなくても、互いに協力的に行動するはずだ」、という相互信頼のネットワークをつくることだ。

コミュニケーションといっても、緊急の場合などでは取れないこともあるし、あるいはプロジェクトの中の異なるフェーズのように、そもそも違う時期に動くこともある。そんなときでも、お互いに相手が、相互利益を最大化するように動く、自己利益のために裏切らない、という信頼を持てることである。

最初の二人組の例で言えば、互いに独房に閉じ込められて連絡が取れなくても、「自分が損がするリスクも承知で、だがお互いに相手を裏切らず、全体で一番良い結果となることを目指す」ような信頼関係が二人の間にあれば、ともに否認して、たしかに組織で一番望ましい結果におちつくはずである。

このようなことは、いくつかの部署や拠点に分かれて、リモートで分散遂行していくプロジェクトなどの場合も、とても大切な条件になる。つまり、良きプロジェクト・マネジメントとは、相互信頼のある組織・人脈のネットワークの上に成り立つのだ。

コミュニケーション・チャネルの確立と、相互信頼のネットワークの維持。わたし達が社会全体で最悪の事態に陥りたくなければ(そして、パンデミック禍の今は、そのリスクが非常に高まっている訳だが)、この二つを誰もが明確に意識することが望まれるのである。


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# by Tomoichi_Sato | 2021-01-31 22:48 | サプライチェーン | Comments(0)

リスク回避か、リスク追求か、それが問題だ

人がお金に対して感じる価値は、金額それ自体に比例する訳ではないらしい。たとえば1万円しかない財産が2万円に増えるのと、1,000万円の財産が1,001万円に増えるのとでは、同じ1万円の増加ではあるが、前者のほうがありがたみが大きい。

つまり、金額の増加に対して感じる価値は、金額が大きくなるほど、少しずつ鈍くなっていく。グラフの横軸に金額を取り、縦軸に「感じる価値」をとったら、それは右上がりだが、上に凸のカーブになると思われる。

経済学では、この「感じる価値」のことを『効用』と呼び、金額が1単位増えるときの効用の増え方を「限界効用」と呼ぶ習わしだ(数学的に言えば微係数である)。つまり、限界効用は少しずつ小さくなっていく。これを「限界効用逓減の法則」という。現代の経済学では、この考え方に従って、人間の財貨に対する様々な行動を予測し説明する理論が構築されている。

そして、複数の選択肢があって、それぞれ実現される確率が推定できる場合には、全体の効用は、各々のケースの効用を、確率の重みで足したもの(=つまり効用の期待値)で測ることができる、と考える。これを『期待効用理論』と呼ぶ。経済行動の結果は不確実な場合も多いから(その典型は株式を買ったときだ)、期待効用を最大化するように、行動を決めるべきだ。経済学では、そう教えている。

効用のカーブが上に凸なので、同じ金銭的期待値を得られる場合でも、人は、確実な結果を得られる行動の方を、リスキーで不確実な「博打」的な行動よりも好むことになる。人間の「リスク回避的」な性質を、経済学ではこのように説明してきた。これは前回も書いたとおりだ。

芝居のハムレットは、「生か、死か、それが問題だ」と悩む。このまま、何事もなかったかのように生き続けることもできる。あるいは、亡き父王の雪辱を晴らす復讐に踏み込むか。その場合は結構な確率で、自分の命も危険にさらされるだろう。リスク回避か、リスク追求か、それが問題だ、と。そして多くの人は、リスク回避を選ぶのだ。

ところで、この期待効用理論に対しては、ときおり疑問が投げかけられてきた。その一つが、下のような問題だ:

「ここに、碁石の入った二つの壺がある。壺Aには、黒石と白石がちょうど50個ずつ入っている。壺Bにも碁石が100個入っているが、黒と白の比率はわからない。
 今、あなたはどちらかの壺を選んで、そこから1個碁石を取り出し、それが白石だったら1万円もらえる。あなたはAとBの、どちらの壺を選ぶだろうか?」

多くの人は、ここで壺Aを選ぶ。だが、それはなぜなのか? 数学的に見たら、どちらにも差はない。白石を選んで掛け金を得る期待値は、ともに5千円だ。もし差があるとしたら、壺Aは「確実に50%の確率」だが、壺Bは「確率50%と考えるしかない」という違いである。おかしなことに、人は、同じ確率50%に、確実か推測かという違いをつけたがるのだ。そして、確実な方を選ぶのである。

この問題を考えたのは、ダニエル・エルズバーグという経済学者なので、「エルズバーグのパラドックス」と呼ばれている(ただし上の例は、オリジナルより簡略化している)。ちなみにエルズバーグはランド研究所RAND Corporationという、米軍が設立したシンクタンクに働いていた。ランド研究所は、作戦研究(のちのOR研究)のメッカとして知られ、フォン・ノイマンやジョン・ナッシュなど、錚々たるメンバーが関わっている。

(ちなみにエルズバーグは後に、国防総省のベトナム戦争に関する秘密文書「ペンタゴン・ペーパーズ」を持ち出して、新聞に対しリークしたことで知られる。同名の映画にもなったが、つい先日、彼の協力者であった元記者が亡くなり、久しぶりにその名をメディアで見ることになった)

もう一つ、例をあげよう。後にノーベル賞を受賞するフランスの経済学者モーリス・アレは、1952年に次のような問題を提出する。

「A: 確実に100万円もらえる
 B: 10%の確率で250万円を、89%で100万円をもらえるが、1%は賞金ゼロ」

どちらを選びますか? 
たぶん、多くの読者はAを選ばれたに違いない。では、次の問題。

「C: 11%の確率で100万円もらえるが、89%は賞金ゼロ
 D: 10%の確率で250万円もらえるが、90%は賞金ゼロ」

どちらを選びますか? 
明らかに、Dの方が有利に見えるに違いない。事実、期待値を計算すると、C=11万円、D=25万円だから、Dをとるのが合理的だ。

だが、そうだとしたら、期待値はA=100万円、B=114万円なのだから、Bの方が有利ではないか。しかも、AとBの差は、CとDの差と同じ14万円なのである。なのに、なぜ多くの人はAを好んだのか?

これは、「アレのパラドックス」と呼ばれる。どちらも、期待効用理論とは異なる答えを、人々は選ぶ。わたし達はどうやら、確率の絡む問題については、なんだか数学の教えることとは違う方向を、選びたくなる傾向があるらしい。

これを単に、「理論の逸脱現象(Anomaly)だな」とか、「世の中には、合理的に考えられない連中もけっこう多いのさ」と片付けてしまっては、知識の進歩はなくなってしまう。こうした傾向の背景には、なんらかの一定したパターンと、それを生み出すメカニズムがあるはずだ、と思うほうが、知的であろう。

そういうアプローチの一つの成果が、行動経済学と呼ばれる分野の『プロスペクト理論』であった。これを確立したのは、実験心理学者のダニエル・カーネマンとエイモス・トヴェルスキーである。トヴェルスキーは50代の終わりに亡くなるが、カーネマンは後に心理学者としてはじめてノーベル経済学賞を受賞する。

プロスペクト理論が提案する、金銭に対する心理的な価値のカーブは、下の図のようになっている。図の右上の部分は、上に凸のカーブで、前回示した図とほぼ似ている。しかし、左下の部分は逆に、下に凸のカーブであり、しかも勾配が右側に比べて急になっている。左右非対称なのだ。
リスク回避か、リスク追求か、それが問題だ_e0058447_06071441.jpg
図の中心は、「参照点」と呼ばれる。これは、別に金額ゼロを意味するわけではない。意思決定を行う人が、心の中に持っている、期待する現状=「参照」の点である。まあ、普通の場合は、現在持っている財産だろうが、あるいは、同僚が受け取る給料が参照点になる場合だって、大いにありうる。

そして、マイナス(損失)側のカーブの勾配が急である、ということは、損失の方が「強く感じられる」ことを意味している。これは心理的な傾向であって、おそらく脳に起因するメカニズムから生まれてくる。

カーネマンは、「コインを投げて、裏が出たら100ドル失うが、表が出たらXXドルもらえる」というギャンブルに乗るかどうか、という問いを多くの対象者相手に実験した。その結果、利得がほぼ200ドルになる点が、100ドルの損失と釣り合う、という事がわかった。損失は利得の2倍の心理的な感度がある、ということだ。これを「損失回避倍率」という。

損失回避倍率は、1.5〜2.5の範囲にあることが分かっている。よく、「部下を育てたかったら、1回叱って、3回ほめろ」と言われるが、この法則に確かに合致している。1回叱ったら、その心理的マイナスは、2回誉めても埋まらないことが多いのである。

かくて、人がリスク回避的な思考習慣や行動傾向を持つメカニズムは、かなり明確になった。同時に、単純な期待効用理論は適用範囲に限界があることも、明らかになったわけだ。

ただ、カーネマンはプロスペクト理論が万能だとは言っていない。その一つは、「フレーミング効果」と呼ばれる現象だ。カーネマンの著書「ファスト&スロー」から引用しよう(邦訳下巻 P.201)

「アメリカはいま、アジア病という伝染病の大流行に備えていると想像してください。この流行の死者数は、放置すれば600万人に達すると見込まれています。対策として二つのプログラムが提案されています。正確な科学的予測によれば、効果は次のとおりです。
・プログラムAを採用すると、200万人が助かる
・プログラムBを採用すると、1/3の確率で600万人が助かるが、2/3の確率で一人も助からない」

この問題では、圧倒的多数の人がAを選ぶ、という。ギャンブルより確実を選ぶのである。
ところが、この問題は、次のようにもフレーミング(枠組み設定)できる:

「・プログラムAを採用すると、400万人が死ぬ。
 ・プログラムBを採用すると、1/3の確率で一人も死なずにすむが、2/3の確率で600万人が死ぬ」

こう出題すると、大半の人間が、Bのギャンブルを選ぶのだ。すなわち、「選択の結果がどちらも好ましい場合には、ギャンブルより確実性を好む傾向がある。つまり、リスク回避的になる。しかし、どう転んでも結果が悪いときは、ギャンブルを容認する。つまりリスク追求的になる」という(同書 P.202)。

(ちなみに、上の引用文は、元は「400人」だったものを、「400万人」に変更した。しかし、その他は「アジア病」という言葉まで含めて、原訳文のとおりだ。なんだかカーネマンは、今の世界的大流行状況と対策決定の論争を、まるで予見していたかのようだ)

フレーミング効果とは、ある意味では、参照点をずらす効果だと考えてもよさそうだ。だとすると、わたし達が一括請負型プロジェクトのような、一種ギャンブル性のあるビジネスになぜ、引きつけられるかも見えてくる。

SI業界でみても、受託開発の多くは一定の利益を上げるが、稀に大きな損失を出すことがある。それは、わたし達のフレーミングがマイナス側にあるからなのだろう。すなわち、「この案件に応じなければ、確実に競争相手が仕事を得てしまう。応じれば、損もありうるが、儲かる可能性のほうがずっと高い」と信じているからだ。

逆に、わたし達が、たとえば顧客や上司に何かを説得し、二つの選択肢から一つを選んでもらう場合、どちらのフレーミングを使うか、上手に考えるべきだ、ということが分かる。それによって、リスク回避的になったり、リスク追求的になったりしがちなのだ。

たとえばあなたが、成功する確率は小さいが、当たれば大きい新規提案をもっているとする。あなたは上司に、リスク追求的になってほしい。そういうときには、「投資額はかかりますが、うまくすれば儲かります」などと言ってはいけない。そしたら上司は、「もっと確実に儲かる案をもってこい」というに違いない。

むしろ、
「・この案を実行すれば、一定の確率で市場のプレゼンスを維持できます。ただ失敗すれば☓☓を失う可能性もあります。
 ・しかし、この案を実行しなければ、我々は確実に市場で○○を失います。」
という風な、損失ベースのフレーミングを提起すべきなのだ。

わたし達は合理的にふるまいたいと思っている。ただ、ふつうは経済学の理論が前提するほどには、合理的ではないのだ。もちろん、全く非合理な存在でもない。わたし達の複雑な脳が命じる程度に、複雑系的な行動をする人間たちによって、組織も社会もできあがっているのである。


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  (2021-01-17)


# by Tomoichi_Sato | 2021-01-25 07:15 | リスク・マネジメント | Comments(0)

「プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会」(2月4日)開催のお知らせ

各位:
「プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会」の2021年第1回会合を開催いたします。大都市圏が緊急事態宣言下にあるため、今回もオンライン形式となりますので、ご了承ください。

プロジェクトとは、(1)達成すべきゴールがある時限的な取り組みで、(2)利害の異なる複数の人間が協力する必要があり、(3)失敗するリスクを伴う、そんな活動だと定義することができます。そしてプロジェクトに成功したければ、活動全体を適度な段階や部分に分け、それぞれに応じた人と費用と時間を割り振って、進むべき条件を確認しながら、ことを運ぶ必要があります。

事業承継」も、そういう意味では、立派なプロジェクトの一つです。

皆さんは「事業承継」という言葉をご存知でしょうか? 簡単に言うと、会社の経営を後継者に引き継ぐことです。次の経営者を選び、社の経営権だけでなく、資産や負債、対外的な契約関係など、会社の存続に必要なすべてのものを、有効かつ確実に引き渡していかなければなりません。経営とは社員の雇用に責任を持ち、ひいては社員の家族の生活基盤を支えることでもあります。ですから、従業員にとっても、スムーズな経営の交代が望まれます。

しかし実際の会社において、経営者の代替わりはそう簡単ではありません。とくに規模がそれほど大きくなく、社長個人のリーダーシップで組織を引っ張ってきた会社ほど、後継者を選ぶのが難しく、トップの老齢化とともにビジネス存続のリスクが高くなっていきます。

今回は、自動車雑誌に長年勤めて役員を経験された後、中小企業診断士として独立し、事業承継分野を専門にご活躍中の内藤博様に、プロジェクトとしての事業承継マネジメントについてお伺いします。

「終わらないために努力する会社経営」と、「無事に終わるために努力するプロジェクト」の両面が交錯するユニークな事業継承の仕事を、どのように計画しアドバイスして、無事着地させていくのか。専門家ならではの知恵と経験に、学ぶところも大きいと思います。ぜひご期待ください。

<記>

■日時:2021年2月4(木) 18:30~20:30

■講演タイトル:
事業承継プロジェクトの全体像

■概要:
事業承継の本質的な理解を深めるためには、全体を俯瞰して見える化することが必要です。事業承継支援の体系を一枚の絵として捕まえておけば、現在の立ち位置もわかるようになり、出口の方向性を見失う事も有りません。現場で経営者と向き合ってきた事例をお話しします。
事業承継のタイミングで、多くの専門家が介在して、課題解決を図っていきますが、その中心でコーディネーターの役割を果たすのが、私が育てている「事業承継士」です。
専門家のリスキリングとして事業承継を追求する意味を、お知らせしたいと思います。

■講師:事業承継センター(株)取締役会長 内藤博
  <中小企業診断士・事業承継士・事業承継プランナー>

■講師略歴:
「実家の廃業が元でこの道に志す。事業承継の伝道師」
中小企業診断士。事業承継士。事業承継プランナー。1952年横浜生まれ。
家業の6代目に就任せず、モーターマガジン社に就職。27年間勤務。取締役を経て50才で独立。
事業承継の専門家として2,000件を超える相談と、500回を超えるセミナー実績を持つ。事業承継支援の第一人者として、日々難解な案件に全国を奔走している。事業承継士資格取得講座をスタートさせ、全国に1000人以上の事業承継支援のプロを輩出したパイオニア。
多彩な支援技術と博識で顧問先多数。「PR・広報」「マーケティング」と「自動車とオートバイ」が専門分野。

■今回は講師の希望により、zoomでの開催となります。参加希望者は、三好副幹事までご連絡ください。後ほどzoomのリンクをお送りいたします。

■参加費用:無料。
 なお、講演とQ&A終了後、希望者だけで別途、オンライン懇親会を行う予定です。
 ちなみに本研究部会員がスケジューリング学会に新たに参加される場合、学会の入会金(¥1,000)は免除されます。

 以上、よろしくお願いいたします。


佐藤知一@日揮ホールディングス(株)

# by Tomoichi_Sato | 2021-01-21 19:48 | プロジェクト・マネジメント | Comments(1)

リスク回避的な行動傾向は、どういうメカニズムで生じるのか

今、ここに二つの壺がある。左のツボには、白い碁石だけが入っている。右の壺には、白黒に種類の碁石が同数だけ入っていて、よく混ざり合っている。

さて、あなたが左の壺に手を入れて石を一つ取り出し、それが白い碁石だったら、1万円もらえる。つまり、確実に1万円だ。あなたが右の壺に手を入れて一つ取り出し、それが白い碁石だったら、あなたは2万2千円もらえる。黒い碁石だったら、何ももらえない。いわば、半々の賭けである。

あなたは左の壺を選びますか、それとも右の壺を選びますか?

たぶん、多くの人は、左の壺を選ぶと思う。わたしも同意見だ。もちろん、決める際に、一瞬は頭を働かせるだろう。左の壺は1万円得られる。右の壺で得られる金額の期待値は、1万1千円になる。だから期待値で言えば、右のほうが少し高い。それでも(その日の気分にもよるだろうが)、たぶん左を選ぶ。

つまり、多くの人は「確実」を好むのである。少なくとも、ほぼ同等の結果が期待されるときには、賭けよりも確実を望ましいと感じる。だが、なぜそう感じるのか?

この問題に取り組んだ研究者は、けっこう古くからいる。18世紀、つまり今から300年近く前に、スイスのダニエル・ベルヌーイは、人間は金銭的な額そのものではなく、その金額に対する主観的な価値にもとづいて判断するのではないかと考えた。この主観的な価値は、現在の経済学では『効用』Utilityと呼ばれる。

横軸に金額を取り、縦軸に効用をとると、その関数形は直線的ではなく、おそらく上に凸のカーブになると思われる。つまり、主観的な価値は、増え方が次第に緩やかになっていく(経済学的な用語を使えば、限界効用は逓減していく)。そして、複数の状態がありえて、それぞれに確率が見積もれる場合は、確率で重み付けした効用が(つまり効用の期待値が)、判断基準になる。
リスク回避的な行動傾向は、どういうメカニズムで生じるのか_e0058447_14305604.jpg
図を見てほしい。赤いカーブの線が、効用を表している。横軸1万円のところの高さが、左の壺を選んだときの効用である。右の壺を選ぶと、半々の確率で、ゼロと2.2万円の結果が得られる。その状態は、ゼロの効用値と、2.2万円の効用値のちょうど中間の点にくる。

ところで、効用は上に凸のカーブのため、横軸2.2万円のところの高さは、1万円の値の2.2倍よりも小さくなる。だから、右の壺を選ぶ「賭け」で期待できる効用は、1万円の確実な効用よりも小さくなってしまう。このために、多くの人は、リスクのある賭けを回避して、確実を選ぶのである。

ちなみにベルヌーイは、効用の関数形を、金額の対数だと考えた。たしかに対数関数は、ずっと上に凸だ。そして、これは、音量などの感覚信号の強さと、その主観的な影響をしらべたフェヒナーの法則にも合致する(ウェーバーとフェヒナーによる、この法則の発見は19世紀だが)。

対数ということは、つまり差ではなく、比で感じる、という意味だ。1万円が2万円に増えるときのありがたみの方が、2万円が3万円に増えるときのありがたみよりも強い。なぜなら、前者は2倍だが、後者は1.5倍に過ぎない。同じだけのありがたみは、2万円が4万円になったら、感じるだろう、と。

ちなみに、人間のリスク回避的な傾向を説明するためならば、別に対数関数でなくても、上に凸な関数ならば(つまり「限界効用逓減の法則」が成り立てば)、どんな形でもいい。だから今の経済学は、ベルヌーイの対数法則には依拠していない。

限界効用逓減の法則については、別の有名な問題を使っても、説明される。昔、どこかの大学の経済学部で出された試験問題だそうだが、

「街で売っているオレンジには、『普通』と『上等』の、二種類の商品種がある。ところで、オレンジの産地であるフロリダと、大消費地であるニューヨークを比べると、ニューヨークの方が、上等の品種の売れる比率が高い。これはなぜかを説明せよ」

この問題を見て、「都会であるニューヨークの人たちのほうが、所得レベルが高いから贅沢なんだろう」など単純に答えると、間違いになる(まあ、放っておくと、メディアやネットでは今でもこうした「解説」が流通しそうだが)。

実は、ここで価格と「効用」の関係を考えなければならない。オレンジは、産地フロリダからニューヨークまで運ぶと、当然ながら輸送費がかかる。その分、販売価格に反映しなければならない。ところでオレンジ1個あたりの輸送費は、普通だろうが上等だろうが同じ金額になる。かりに、元の産地フロリダでの価格が、「普通」は1個2ドル、「上等」が3ドルだったとしよう。ここに運賃が、たとえば1個あたり50セントかかる。するとNYでの価格は、普通が2.5ドル、上等が3.5ドルになる。

期待効用逓減の法則から考えると、NYでの価格差は、フロリダでの価格差よりも小さく感じられる。つまり、消費地での「上等」オレンジの方が、産地よりも、コストパフォーマンスが高く見えるのだ。だから、上等の売れる比率が大きくなる。こう、答えなければ、経済学での正解とは言えない。

なお、複数の状態があったときには、その効用の確率的な期待値で決まるという考え方(期待効用仮説)を打ち立てたのは、「ゲーム理論」の創始者である物理学者フォン・ノイマンと経済学者モルゲンシュテルンだった。現代経済学の「期待効用理論」は、この前提からできあがっている。

ところで、3百年前のベルヌーイは、上記の効用の考え方を用いて、損害保険というビジネスがなぜ成り立つのかも、考察した。彼の対象は、当時の大きな問題であった、輸送船の沈没に伴う保険だった。外航船が沈没すると、商人は積み荷と財産をすべて失う。シェイクスピア「ベニスの商人」にも出てくるリスクである。

損害保険というのは、基本的に、損失が出たら保証してくれる代わりに、保険代金を支払う。かりに船の10隻に1隻が沈没するとしよう。保険会社は、船荷の金額の10%以上を保険料としてもらわなければ、割に合わないはずである。海上保険会社が成立し、損害保険ビジネスが成立している訳だから、単純な期待値としては、支払う側が損をする。それなのに、なぜ保険にカネを払うのか?

理由は、損失のインパクトが、保険をかける側と引き受ける側で違うからである。たとえば1000万円分の損失は、資産総額1200万円しか持たない人と、資産10億円の人とでは、全然違う。当然ながら、前者のほうが、ずっと効用からみたインパクトが大きい。

ベルヌーイは、だから、小さな資産しか持たぬ商人がリスク回避のために保険をかけ、大きな資産をもつ商人が、その保険を引き受ける仕組みが成り立つのだ、と説明した。いいかえると、リスクを抱える普通の人たちから、お金が少しずつ富豪に集まる構図になる訳だ。

そして、余談だが、おなじ傾向が、COVID-19をめぐるワクチン問題に対しても、当てはまるのだろう。

わたしは以前から、なぜワクチンに皆があれほど期待を寄せるのか、疑問に思っていた。コロナウィルスというのは変異が多く、一つのワクチンを開発しても、効かない新種の出る可能性が常に残る。じっさい、おなじコロナウィルスであるインフルエンザにはいろいろな型があって、毎年流行が変わり、予防接種をしても効かないケースがけっこうあるではないか。

しかも、ワクチンの対象者は人口の全員だから、日本だけで1億2千万本からのワクチンを用意しなければならない。それくらいならば、COVID-19に感染して発症した患者を、有効に治療する治療法の開発に集中するほうがいい。感染者数は今日現在でも30万人に過ぎない。この人達が重症化しないような治療薬や治療法を開発するほうが、ずっと経済的ではないか。感染してもちゃんと治るのなら、安心して街を歩ける。

じっさい、インフルエンザに対しては、わたし達はそうしている。インフルエンザは、日本では診断書ベースで毎年3千人が亡くなっている深刻な病気だ(WHOの計算手法では1万人ということになっている)。それでも、わたし達がインフルエンザをあまり深刻に恐れていないのは、すでにタミフルを始めとする治療薬が発達しているからだ。

発熱して医者にかかっても、その場の検査でインフルかどうかはすぐ判別でき、薬をもらうと、多くはごく短期間で治まってしまう。インフルが怖いから電車に乗らない、職場にも行かない、という人は滅多にいない。そして、COVID-19の重症化を抑える効果のある医薬品も、すでに複数の候補があるのだ。

それなのに、なぜ、皆ワクチンの話ばかりするのか。それは一種の保険だから、なのかもしれない。米ファイザー社のワクチンは、有効度が95%だそうだ。つまり、ほぼ確実に近い印象である。

年末に、医療関係者と話したら、その人は「ワクチンは決して100%万全ではないし、副作用だってゼロではあるまい。それは分かっているけれども、患者に接する立場として、まず自分たちが接種を受けてみるしかないのだろう」と、非常にリアリスト的な見方をしていた。しかし、多くの人は、もっとふわっとした期待を込めているように思われる。

それは、わたし達の社会の多くの人にとって、『リスク最小化の原理』で行動することが身に染み付いているからなのだろう。不確実な状況下では、損失リスクを回避する方向を選ぶ人が多い、ということだ。

有効な治療法をはやく確立すること、そのために専門の治療体制を各地に作ることが急務であるし、結局はずっと経済的だと思う。感染症の専門医が、「今こそ治療法の開発に集中すべき大事な時期だから、感染症病棟を患者で溢れさせるようなことはしないでほしい」と、昨年TVで発言していたことも思い出す。

だが、いつもは社会的にコスト・コンシャスな経済学者も、あまりこういう趣旨で発言する人がいないように感じられるのは、なぜだろうか。まあ、カーネマンが「ファスト&スロー」で指摘したように、経済学者も結局は人の子、経済価値だけで判断するわけではない、ということかもしれない。

そして、期待効用理論に対しても、批判や反証がある。長くなってしまったので、これについては稿を改めて、別の機会に、また書こう。


<関連エントリ>
 →「安全と危険の境目をはかる」 (2011-04-21)


# by Tomoichi_Sato | 2021-01-17 14:48 | ビジネス | Comments(0)

トランスフォーメーション(変革)を可能にするために

去年の2月上旬頃だったが、ある証券会社の営業マンの訪問を受けた。もちろん金融商品の売り込みに来た訳だ。ちょうどそのころ、クルーズ船ダイヤモンド・プリンセス号が3700人の乗客を乗せたまま、横浜港の外に釘付けになっていた。わたしは、武漢で発生したウィルス危機は中国の外にも広がって、国際的に経済の問題をひき起こすのではないかと、懸念を口にした。すると、くだんの営業マン氏は笑って、「NYダウは史上最高値ですよ」と答えた。

わたしは結局、彼のすすめる商品には手を出さなかった。2月下旬を過ぎ、3月に入ると欧州に都市封鎖(ロックダウン)が広がり、経済的影響は明らかだった。株価は下がり、いろいろなところに損失が出た。航空分野を筆頭に、飲食・サービス業など多くの分野の企業業績が低迷した。やれやれ、言わんこっちゃないと、わたしは内心考えた。

だが、結局のところ、間違っていたのはわたしの方で、彼は正しかったのだ。なぜなら、年末の日経平均は数十年ぶりの高値を記録し、NY株価もさらに最高値を更新したのだから。

株式市場は、素人のわたしには、まことによく分からない。株価は景況の指標かと思っていたが、もしそれが正しいなら、今、わたし達は好景気の真っ只中にいるはずである。右も左も景気の良い話ばかり、人手不足でエンジニアも引く手あまた・・のはずだろう。読者諸賢はそれを実感しておられるだろうか?

実際には、景気はひどいまだら模様のようだ。状態は業種によるのである。昨年底を打ったが急回復中の業種もある一方で、出口の見えぬ需要低迷にさらされている業種もある。株式市場は公的資金の注入など、需給原理とは異なるロジックも働いているらしく、景気の実態を正確に写す鏡ではなくなっている。
 
そして、わたし達が住んでいるのは、ある分野・ある場所で発生した危機が、残りの分野や場所に、あまり伝わらない社会であるようだ。これは近年のたび重なる自然災害のときにも感じたことだ。今の社会は、まるで各部分がセルのように遮断されていて、その中だけで生き残りを問われるのである。

メディアは一応、問題の所在を報じる。だが、社会の中での、横のつながりが弱い。本来、人間社会というのは、個々には弱い存在である個人や家族、地域コミュニティが、互いに支え合うために機能するはずだ。だが、現状はあまりそうなっていない。

ちょうどそれは、縦割り組織に似ている。役所や大企業病に悩む会社では、決まった守備範囲だけをまもる、サイロ化した部門が林立していて、問題が起きたら共同で解決するどころか、互いに押し付けあっている。部門間の決まったインタフェースだけでやり取りがあり、あとは自部門の存続と利益だけを考える。そういう組織カルチャーを、わたし達は周囲に見かけていないだろうか?

昨年はデジタル・トランスフォーメーション、略してDXという言葉がとても流行した時でもあった。正直に告白するが、わたしにとってはいまだに、よく分からない概念である。DXについて語る人は世に多い。理解したければ、そういう人たちに、耳を傾ければいいはずである。

で、聴いてみると、DXという言葉は、AI、アジャイル、プラットフォーム、サブスク化などの特徴的キーワードとともに、語られる。AIもアジャイルも、プラットフォームもサブスクリプションモデルも、どれも結構なものだ。でも、適用範囲は万能ではない。だから、いざ自分のことに引きつけて理解しようとすると、よく分からなくなるのである。

なんとなく、わたしは昔の流行語だった、e-Businessだとか、SISだとか、スマートシティといった言葉を思い出した。「e-Business」というのは、2000年頃流行った言葉だ(ドットコム・ビジネスともいった)。インターネットを利用した新しいビジネス、という風な概念だったが、結局ドットコム・バブルと一緒に潰えた。

「スマートシティ」は、2010年ごろが流行のピークだったように思う。全国各地、いや世界中の色んな場所で、スマートな都市、なる構想が提案された。こちらはまだ概念的には生きているが、スマートシティで大儲けしたという企業の話は、まず聞かない。Googleも北米でトライしたが、断念したようだ。

SISというのは「戦略的情報システム」の略で、流行は90年代はじめ頃だったろうか、TVコマーシャルにもなっていた。そういえば80年代には、OA(オフィス・オートメーション)という言葉もあったな。どれもわたしには、実態のない、曖昧模糊とした雰囲気的概念に感じられた。DXがそういう蜃気楼のようなものでないことを祈るが。

ともあれ世間では、2020年は「DX元年」みたいな扱いだった。言葉は数年前から登場していたが、口にされる回数が圧倒的に増えた。

DXは、企業がなんらかの形で、ビジネスモデルの根幹を変えよう、という取り組みであるはずだ。だとしたら、既存の組織体制、とくに縦割り組織の枠組みの中で、そのような変革を成し遂げられるはずはあるまい。

なぜなら、会社レベルの変革のためには、機能別組織を横断した取り組みが必要であって、しかもそれなりのマンパワーが必要なのだ。しかし企業はどこだって、効率化したギリギリの組織で業務を回している。どこにも対して、人員的な余裕はない。そんな中、既存の縦割り組織が、余技みたいな形で動いて、実現できるのだろうか?

ソフトウェア工学で有名なトム・デマルコが、『ゆとりの法則 - 誰も書かなかったプロジェクト管理の誤解』(原題:Slack)という本の中で、分かりやすいたとえ話を出していた。子どもの頃、誰でも15パズルを遊んだことがあるだろう。たて4個×横4個に並んだ、小さな正方形のコマに、1〜15までの数字が書かれている。そして、一つだけ空白の場所があって、そこに隣接するコマを滑らせて場所を入れ替え、1から15まで順に並び替えるゲームである。

このゲームが成り立つのは、1個だけ空白の場所、つまり「ゆとり」があるからだ。もしも、「そんな空白なんてムダだ。リソース効率を最大化しよう」と、空白にピースを入れて埋めてしまったら、もはや全体を並び替えることは――つまり変革することは――できなくなる。組織が変わりたかったら、一見ムダに見えるゆとりを、あえて一定量おいておく必要がある。

既存の縦割り組織は、定常業務を回すのに最適化されている。わたし達の社会の多くの組織は、「最適化されすぎて」いると思う。だから、ある程度以上の大きな変革のニーズや、外部からきた危機的問題に、対処できなくなってしまっている。

その一番いい例が、今回のパンデミック禍への対策ではなかっただろうか。昨年のクルーズ船客への対応といい、マスク不足問題への対応のドタバタといい、お盆の帰省時期とGo Toトラベルの右往左往といい、どう見ても複数の省庁間や政府・自治体間で、きちんと連携が取れていたとは言いがたい。

マスクを例に取ると、「原材料→製造→流通→消費→廃棄(または再生)」のサプライチェーン全体を見て、どれくらいの需要があり、供給能力のボトルネックはどこで、どこを在庫ポイントに備蓄すべきか、といった分析を、サプライチェーン・マネジメントの専門家が入ってリードするべきだった。ところが、製造と流通と消費(医家向けと一般用)は、それぞれ異なる監督官庁の下にあって、横串を指して問題解決にあたる体制になっていなかった。

今月出された緊急事態宣言についても、調査によると8割の人が「遅すぎた」と感じているらしい。ただ、都市封鎖(ロックダウン)それ自体は、感染症対策ではない。それは「時間稼ぎ」なのである。何の時間を稼いでいるかというと、本来は救命に向けた医療体制を整備するためなのである。(ここら辺の感覚が、欧州と日本ではずいぶん違うように感じられる)

そして、緊急医療体制のためには、人材(医師・看護師ほか)と、場所(建物)と、医薬品と、機材(医療機器)と、給食と、資材(リネン等)と、搬送設備その他を揃えなければならない。既存の医療・介護のみならず、消防や運輸や入国管理とも連携が必要だ。これが厚労省だけで済む話でないのは、明らかではないか。

こうした危機的な問題に対処するためには、タスクフォース的な組織と、一時的な権限委譲が必須なのである。責任者を決めて、関係各部門からキーとなるメンバーを一箇所に集め、予算と権限を与えて、情報も集中化して、問題を多角的に検討し対策案を実行していく。まともな企業なら、危機的事態にはそう動くはずだろう。あいにく、国レベルでそういう体制をとったようには、わたしの目には見えなかった。

この問題は深刻である。お気づきかもしれないが、わたしのこのサイトは、経営批評や時事問題を扱わないことを基本としている。これは、記事それ自体がすぐに陳腐化しないため、また会社員として実名を晒して書いているためでもある。しかし、この問題は看過できないと感じたので、昨年の3月から4月にかけて、連続して記事を書いた。あえてCOVID-19という用語は避けた形にしたので、気づかなかった方もおられたかもしれないが。


繰り返すが、縦割り組織というのは、比較的安定した、定常的な仕事を回すためのものである。そこで発生する問題も、それぞれの機能別組織内で、解決可能なレベルのものだ、という前提でできている。そして縦割り組織は、基本的に大きな変化を想定していない。大きな危機も想定していない。

つまり機能別の縦割り組織は、安定した静的(スタティック)な業務能力発揮のためにできている。もしも何らかの意味で、大きな危機に対処したり、トランスフォーメーション(変革)を志すのならば、横串を指すようなタスクフォース型のチームを、時限的に特設するべきである。それは、いってみれば、動的な対応能力=ダイナミック・ケイパビリティのためなのである。

タスクフォース型のチームを動かしていくためには、体系的・多面的な思考習慣(システムズ・アプローチ)と、プロジェクト・マネジメント能力が問われる。この課題を、今のわたし達の社会は、まさに突きつけられている訳だ。

そしてタスクフォースが既存の母体組織とちゃんと連携するためには、人と人の「つながり」が強くなくてはならない。右手のやっていることを、左手が知らないようでは、つながりのある集団とは言えない。つながりとは、互いのへの信頼を意味する。リスクを押し付け合うのではなく、ともにリスクに立ち向かうという事が、「信頼」の意味だ。

だから、わたし達が真にトランスフォーメーションを目指すのならば、基盤になる、人と人の信頼のネットワークを強める仕組みを、同時に作らなくてはならないのである。



# by Tomoichi_Sato | 2021-01-11 22:43 | ビジネス | Comments(0)

クリスマス・メッセージ:男の子の育ちにくい時代に

Merry Christmas!

後の時代になってから振り返った時、2020年とは、どんな一年として記憶されるのだろうか。パンデミック禍が世界を覆い、都市封鎖が行われ、オリンピックも延期になった。多くの人が感染症で亡くなり、さらに沢山の人々が経済的打撃を受け、あるいは仕事を失った。なんとも厳しい変化の一年だったのは、確かだろう。なぜこんな事が、という嘆きの声が世にあふれた。

もちろん、少しは明るいきざしも見えた。テレワークが大幅に普及したことも、その一つかもしれない。セミナーも多くがオンライン形式に移行した。通勤や移動の時間的束縛が減った。ビジネス上の虚礼に近い余計なことも、多少は削ぎ落とされた。もちろん、経済的マイナスに比べて、プラスはずっと小さいが。

大学の講義もすべて今年はオンラインに移行した。わたしは現在、静岡大学をメインに筑波大学と東京大学でも多少授業を持っているが(いずれも大学院)、全部、Web授業だった。幼稚園から小中高等学校まで、学校はすべて対面授業に戻ったのに、大学だけ頑なにオンラインにこだわった理由は、部外者からはよく分からない。

授業というのは、参加する受講生に、頭を使って考えてもらうことが、いちばん大切な目的だ。一方通行的な知識の伝授が、授業なのではない(そう思っている人は多いが)。考えて、手を動かさなければ、身につかない。身につかなければ、行動は変わらない。自分の行動が変化しなければ、何も学ばなかったのと同じだ。それが、成長ということである。

わたしは、人間にとって成長が一番大切なことだと信じている。たまたま生まれつき、成長ホルモン分泌に障害を持っているので、それを強く感じる面はあるかもしれない。だが、ここでいっているのは、身体的な成長だけではない。精神も含めた、全人的な成長のことである。

そして人は社会的動物だから、つねに集団を形成して生きている。ということは、人間集団も成長が必要なのである。プロジェクトとは、そのチャレンジとアウトカムを通して、人間集団が新しい能力を獲得し、成長するための最良の手段だ。だから皆さんにプロジェクト・マネジメントを教えているのです――授業の最初には必ず、そう伝えることにしている。

それにしても、学生たちに教えながらも、つくづく、今の世の中は若者の育ちにくい時代だ、と感じることが多い。とくに、男の子が育ちにくい時代だ。女子はまだ、それなりにしっかりしていて、目指すところを持っている人が少なくない。だが男の子たちは、行き先を見いだせずに、なんとなく、さ迷っている。感覚論で、数字的なエビデンスは示せないが、そう感じるのだ。

わたし達の社会は、何か、非常に致命的な問題を抱えているのかもしれない。それが、男の子の育ちにくさに現れるのかもしれない。まあ、海外のニュースや映画などを見ていると、欧米あたりでも男の子は迷いがちで気が弱く、女の子のほうがしっかりして見えるので、あるいは日本だけの現象ではないという気もする。

だが、人を枠にはめたがる傾向は、明らかにわたし達の社会の方が強いように思えるので、心配なのだ。女の子たちと違い、男の子は枠を破って、外に出たいという潜在的傾向が強い。それを無理矢理に抑え込んでいないだろうか。

ところで個人的には今年は、一人息子が結婚したというのが、佐藤家の2020年ビッグニュースの第一位だった。春に予定していた挙式は秋まで半年のばしたが、10月初旬に無事にすんで、さすがに親としてもほっとしている。

わずか一人を育ててみて、それを一般化するのも乱暴だが、本当に人が育つというのは危うい事業だと思った。無事に普通の大人になることは、ずいぶんと際どい道のりなのだ。どこで間違って、道を踏み外すか分からない。とくにティーンエイジに入ると、親のできることなど限られている。あとは天の配剤に任すしかない。挙式に集ってくれた息子の子供時代からの友だちの面々を見ても、そう感じた。

息子は「ゆとり教育」の最初の頃の世代だった。ゆとり教育は、世評から散々に批判されているが、わたしのような当事者から見ると、じつは子どもたちから「ゆとり」を奪う教育だった。奪ったのは、不安に駆られた親たちだ。学校の授業で教える項目が減るときいて、子どもを小さいうちから塾などの時間外教育に追い立てた。夜の電車の中で、菓子パンをぱくつきながら通う小学生を見る機会が、すごく増えた。

受験勉強というのは、基本的に競争である。クラスに仲間がいるように見えても、じつは「ライバル」「競争相手」に過ぎない。助け合ったり、励まし合ったりすることも、少しはあるだろう。だが、その裏にある現実を忘れるほど、小学生というのは愚かではない。

不登校という現象も、そのようなプレッシャーと、無縁ではあるまい。「子どもが学校に行かない」事ほど、親にとってしんどい状況はないと思う。子どもが学校という場所に、あるいは教育というプロセスに、そして成長の過程に、希望を抱かない。その状況は、親にとり、まことに腹にこたえる。逆に言うと、子どもが前途に希望を持っていると、それだけで家庭は明るくなるのだ。たとえどんなに無邪気でも、希望を持つ子どもには、疲れ切った大人たちを救う力がある。

希望とは何か。それは、人生は運不運だけで決まるのではないはずだ、と思うことだ。――今からちょうど12年前に、このサイトで、わたしはそう書いた。

「(希望とは)より良い未来を期待し、それに対して自分が“働きかけることができる”と信じることだ。努力すれば報われる可能性がある、と信じることだ。夢は希望ではない。未来に自分で働きかける方法がないとき、人は夢を見るのだ。」 『クリスマス・メッセージ--夢よりも希望を語ろう』 (2008-12-24)

人が育つには、3つの条件がいる。まず、目指すべき大人の姿があること。それは教師でも親でもいいが、頼りがいのある先輩、というような姿でもいい。「ああなりたい」というモデルがないと、人はうまく成長できない。そのモデルが、自分に何かを教えてくれれば、もっといい(それが「お勉強」である必要はない)。

次に、仲間が必要だ。人は社会的動物だから、である。人とつきあい、人と協力することを知らなければ、大きくなって生きていくことが難しい。

そして、希望が必要だ。ある意味では、なりたい姿(ロールモデル)も希望の一面だが、普通は自分の境遇とギャップがあるので、それだけでは足りない。自分自身にとっての、希望を持てなくてはいけない。ただし(ここがやっかいなのだが)、希望というのは個人だけでは持ちにくい。社会全体が希望を持つ必要があるのだ。魯迅の言葉に、こうある:

「思うに、希望とは、もともとあるものだともいえぬし、ないものだともいえない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には、道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」

わたし達の社会は、人を競争と不安で駆り立てるか、お金や「安定」で釣るか、その二つの手管ばかりを繰り出してくる。それを当然だと思っている。だが競争原理は、ほんとうの意味での仲間を作ることを、難しくしてしまう。そして、社会のあらゆる細部に、「参入障壁」「既得権益」が、網の目のようにはりめぐらされていて、新しいアイデアや産業の登場を、抑え込んでいる。そのような中で、枠を破りたい男の子たちが、希望を抱くことができるだろうか?

息子の披露宴の写真の中に、中学生時代にアイスホッケーチームのキャプテンをやっていた時の姿があった。アイスホッケーは、とてもマイナーなスポーツだ。そもそもスケートリンク自体が、数少ない。だから学校の部活にチームがあるなんて例外中の例外で、ふつうは市中のクラブチームに所属することになる。息子もそうだった。ただ、学校の部活という「軍隊式」システムに組み込まれたチームでなかったことは、マイペースな性格の彼にとっては、良かったのだろう。

そしてわたしは、なんとなく中学生チームの試合を応援しに、見に行った時のことを思い出していた。ホッケーチームは6人制で、そのうち5人はリンク上を自由に動き回って、攻守ともに活躍する。一人はゴールキーパーで、ずっと、守りの位置にある。

わたした思い出したのは、そのゴールキーパー(ゴーリー)の子の姿だった。比較的小柄で、おとなしい感じの男の子だった。防具を着てぶつかりあうホッケーでは、激しい攻撃の方が目立ちやすい。だが、彼は自分でそのポジションを選んだのだろう。ゴーリーは、練習の内容さえ、他の子達とは少し違う。

アイスホッケーは展開スピードが早い。味方が敵の陣地に攻撃にいったかと思えば、あっという間にパックがこちら側に打ち返され、今度は自分のゴール前の攻防になる。ゴーリーの彼は、味方が攻めている間は声援を送り、敵が攻めてきたら、まさに自分の身を投げ出して、必死にゴールを守らなければならない。ホッケーリンクはゴールの後ろ側もプレーの場所だから、360度、どこからも対応しなければならない。

ホッケーで打つパックは硬質ゴムでできており、体にぶつかったら(防具を着ていても)けっこう痛い。彼は必死になって、敵のシュートからゴールを守ろうとする。うまく守れたら、味方は歓声を上げて喜ぶ。すきをつかれて、シュートを許してしまったときは、彼は上体を折り曲げ、両腕を氷に打ちつけて、くやしがった。ハラハラしながら、わたし達は声援を送った。

後になって、わたしはそのゴーリーの男の子が、ずっと不登校で、中学に行っていなかったことを知った。それでも、アイスホッケーの練習には、ホッケーにだけは、毎週来ていたのだ。仲間と一緒に練習し、試合で一緒に一喜一憂していた。

そして彼は、3年生の冬には受験をして、神奈川からは遠く離れた千葉の高校に、無事に入学したと聞いた。遠く離れた地にいったのは、かつての自分を知る人たちから離れたかったのかもしれない。

わたしは彼の中学校時代のことを思った。彼の前には、先生だとか、クラスメートだとか、塾の講師だとかが、入れ代わり立ち代わり現れて、厳しいシュートを次々に打ち込んでくるのだ。彼はそれを、孤独に守りきった。守りきって、そして遠く離れた地に巣立っていった。

彼ががんばれたのは、たとえ週に1回、アイスリンクの上だけでも、喜怒哀楽をともにできる仲間がいたからかもしれない。それが彼の、ちいさく壊れやすい希望を裏打ちしたのかもしれない。わたしは彼の不安と成長とを思い、どうか幸多かれと天に祈った。

そして今でも、祈り続けている。「地には善意の人に、平和あれ」と。



# by Tomoichi_Sato | 2020-12-24 23:04 | 考えるヒント | Comments(1)

冬ごもり読書のための、お薦め3冊:「ファスト&スロー」「わたしの名は紅」「ウィトゲンシュタインのウィーン」

クリスマスと年末年始のシーズンを迎えたが、現下の情勢からGo Toキャンペーンも中止となり、「冬ごもり」休暇を過ごそうと考えている方も多いと思う。そんな方のために、静かな季節にふさわしく読みごたえのある、かつ、ちょっと知的でペダンティックな(笑)3冊をご紹介したい。冬の夜に書を紐解き、思索を楽しむ時間を持つのも、たまには悪くない経験かもしれない。


「ファスト&スロー」 ダニエル・カーネマン著


何年か前、プライベートでフランスに旅行し、昔つかえていたボスに再会した(ほんの短い期間だが、仏企業に駐在して働いていたことがあるのだ)。その時、彼が、最近読んでいて面白い本、と紹介してくれたのが、この”Thinking, Fast and Slow”の原書だった。仏訳も出ていたのだろうが、彼は英語のまま読んでいた。日本に帰って、わたしも早速、翻訳を買い求めた。ただ例によって「積ん読」にしたままだったので、読み終えたのはずっと後になったが。

著者のダニエル・カーネマンは、心理学者だ。だが、彼は2002年にノーベル経済学賞を受賞する。対象の業績は、「プロスペクト理論」を中心とした、人間の意思決定に関する実験的研究で、いわゆる『行動経済学』を確立した立役者の一人である。

本書はそのカーネマンが、はじめて一般読者向けに書いた入門書である。「ファスト」と「スロー」とは、人間が思考する際に示す、二つのモードを表している。彼はこれを『システム1』(速い思考)と『システム2』(遅い思考)と呼ぶ。システム1は直感的・反射的で、単純な連想に従って動く。システム2はより論理的だが、起動にはメンタルなコストがかかり、怠け者である。

この二つのシステムがどのように発動し、どのように絡み合って、人間の思考や感情を支配するか、というテーマだけでも興味深い。本書には、それを調べるための、巧妙な心理学的実験がたくさん紹介されている。わたしはこの本を読んで、はじめて心理学者という人種の方法論や関心事が、少し分かったような気がした。

しかし著者カーネマンが、早く亡くなった共同研究者エイモス・トベルスキーとともに探求したのは、この二つの思考のシステムが、「リスク」や「財貨」や「不確実な環境」においてどう意思決定に影響するかであった。ここから、心理学は経済学とドラマチックに交錯して行く。新古典派経済学では、人間は経済合理的にふるまう、という前提から出発する。だが本当に人間の判断は「合理的」なのか?

たとえば、ワイン好きの経済学者R教授は、$35以上のワインはめったに買わなかった。逆に売ってくれと言われたときは、$100以上だったら渋々売った。しかし、あるワインが教授にとって$50の価値あるのなら、$60で売ってくれと頼まれたら売るべきだし、$40で売っていたら買うべきだ。R教授にとって、$35のワインは、自分が保有すると$100以上の価値になるらしい。これを「保有効果」と呼ぶ(下巻第27章)。

もう一例。「ある女性が$80の芝居のチケットを2枚買いました。ところが劇場についてバッグを開けるとチケットがありません。この女性はチケットを買い直すでしょうか?」(下巻第34章)

経済学における埋没原価の原理からいえば、買い直すのが正しい答えだ。だが、多くの人が、答えに迷う。ちなみにカーネマンは、「もし同額の現金をなくしたのだとしたら、あなたはチケットを買い直しますか?」との質問と比較する。後者の場合、大抵の人が「買い直すべき」と答える。だったら、最初の問にもYesと答えるべきなのだ。

「プロスペクト理論」では、人間の利得と損失に対する心理的な評価は非対称で、現状から何かを得る可能性よりも、失う可能性のほうが大きく感じられる、という事を実験的に証明している。そしてシステム2は、確率的・統計的な判断がじつは苦手なのだ。ところが、現代のビジネス上の意思決定は、多くがリスク確率や期待値などをベースに行われる(とくに金融の世界では)。それがいかに危険なことか、わかるだろう。

しかし本書の良いところは、問題提起だけでなく、2つのシステムの弱点や意思決定バイアスの罠を避けるための、実際的な方法についても、いろいろとアドバイスに満ちていることだ。だから、ビジネスとリスクと意思決定に関わる人は、本書を是非勉強すべきなのである。村井章子氏による翻訳も読みやすい。
  
「わたしの名は紅」 オルハン・パムク著


現代最高の小説家の一人(と、あえて断言してしまおう)、オルハン・パムクの代表作。最盛期を過ぎつつある16世紀オスマン・トルコの首都イスタンブール(と語尾を伸ばすのは英語風の発音で、現地ではイスタンブルと短く言う)を舞台に、イスラム細密画家たちの間で起きる謎の連続殺人事件を追う、一種の長編歴史ミステリである。

本書の冒頭は、「いまや死体だ、わたしは。」から始まる。井戸の中の冷たい死体となった被害者が、話者となって、四日前に起きた自分自身の殺人事件について、一人称で語り始める。次の章は、12年ぶりに故郷イスタンブルに帰ってきた、カラという名前の男性が語り手だ。そして、各章が異なる話者によって一人称で交代交代に語られる。だから目次は、こんな風になる:

「第1章 わたしは屍
 第2章 わたしの名はカラ
 第3章 わたしは犬
 ・・・
 第31章 わたしの名は紅」

犬も、殺人犯も、馬の絵も、そして色彩さえが、語り手の地位を得る。つまり、この物語には明確な主人公がいないのだ。もちろん、カラと、彼が恋する寡婦シェキュレとのロマンスが、この物語の重要な縦糸になるから、読者はふつう二人を主人公に擬して、感情移入しながら読むことになる。そして、「ぼくはオルハン」という幼い少年は、明らかに著者の分身である。だが全編を貫くのは、絵画という仕事をめぐる、絵師たちの願望と苦悩である。

「イスラム教が弾圧を加えた最たるものは、女性達に対してですが、もう一つは、世界や人間をあるがままに見て、それを描いたり、眺め楽しむことに対してでした」と、著者は序文『日本の読者へ』で書く。実際、偶像崇拝を厳格に禁ずるイスラム世界では、絵画は常に微妙な位置にあった。インドから中東にかけて長い伝統を誇る細密画の絵師たちも、16世紀のオスマン・トルコでは、方やイスラム原理主義(なんとこの時代からあったのだ)の脅迫、そしてルネサンスを経験した西欧美術からの影響との桎梏に、もがいていた。

イスタンブールは、誰もが知る通り、東西文明の交錯する都市である。かつては東ローマ帝国の首都で、ギリシャ風ビザンチン文化の中心地であり、またその後は長らくオスマン・トルコ帝国の首都でもあった。帝国とは諸国を包含する存在であり、帝国の首都とは、世界の中心である。だからこの街は、ヨーロッパとアジアという異なる二つの楕円の、共通の焦点なのだ。

その中にあって、東西の文化と、宗教の天地の間で、引き裂かれる芸術家たちの魂の悲劇を、著者は共感を込めつつ緻密に描く。パムク自身、小説を書き始めるまでは画家を志望していたらしい。それにしても作家の想像力とはここまでの拡がりを持ちうるのか。トルコの枠を超えて、まさに現代文学の最先端である。

オルハン・パムクは多彩な芸域の人らしく、現代トルコを舞台にした政治スリラー『』は、スピード感を持って読者をぐいぐい引っ張っていく傑作だった。しかし本書はミステリー仕立てながら、むしろじっくりと物語が展開していく。

なお、わたし自身は藤原書店版「わたしの名は紅」 (Amazon)で読んだので、上の引用もすべてここちらからとっている。藤原書店版の訳者・和久井路子氏はトルコの大学の先生で、原文の倒置法をそのまま日本語に移すなど、かなり苦心しているが、必ずしもこなれた訳とは言えなかった。その点、ハヤカワ文庫版のほうが読みやすいとの評判である。ただ、このような優れた小説を、著者がノーベル賞を受賞するよりも前に訳出し、上梓した藤原書店には、あらためて敬意を評したい。


「ウィトゲンシュタインのウィーン」 S・トゥールミン, A・S・ジャニク著


ITに関わる人は、西洋哲学を勉強するべきだ。なぜなら、ITは西洋哲学の非嫡子なのだから、と以前からこのサイトでは何度か書いている。では、具体的にどの哲学書を手にとって読めばいいのか? そうたずねられたら、「何でもいいのだけれど、理工系のエンジニアなら、まずはウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読め」、と答えるだろう。

論理哲学論考』は比較的薄くて手に取りやすいし、ウィトゲンシュタイン自身が工学者としての教育を受けた人なので、理系的なアプローチの思考に親しみやすい。そして、20世紀の現代西洋哲学に、巨大な影響を与えた。さらに、アウトライン・プロセッサで書いたような、階層的なスタイルで書かれている点も興味深い。たとえば、こんな風だ:

「1 世界は成立していることがらの総体である。
 1.1 世界は事実の総体であり、ものの総体ではない。
 1.11 世界は諸事実によって、そしてそれが事実のすべてであることによって、規定されている。
 1.12 なぜなら、諸事実の総体は、何が成立しているのかを規定すると同時に、何が成立していないのかをも規定するからである。
 1.13 論理空間の中にある諸事実、それが世界である。
 ・・・・・」(野矢茂樹訳・岩波文庫版 P.13より引用)

ちなみに、英語をいとわないなら、Project Gutenbergで無料版を(ちゃんとバートランド・ラッセルによる初版への序文付きで)読むこともできる。そして上記の和訳で受ける印象とは、ずいぶん違うことも分かるだろう。

第二次大戦直後、29歳でこれを書いたウィトゲンシュタインの問題意識は、(ITエンジニアに分かりやすい表現をすると)「モデリング・ツールとしての言語の限界を、内在的に分析できるか」であった。つまり、これはモデリング論なのである。

だが、なぜ彼はこのような問題を立てたのか? それは、彼の師匠だった論理学者のラッセルとか、その後の英米分析哲学だけを見ていても分からない。むしろ、ウィトゲンシュタインが育った中欧・ウィーンの知的伝統と混沌を背景として理解すべきだ、というのが、「ウィトゲンシュタインのウィーン」のテーマである。そして、その背景画は、それ自体がとても魅惑的なのである。

著者のS・トゥールミンは英国人で、ウィトゲンシュタインに若い頃学んだ人だ。A・S・ジャニクは米国人で、二人共、大学の先生である。彼らは広範な文献調査に加え、繊細な想像力を持って、世紀末ウィーンの知的世界を描き出す。ハプスブルグ朝のウィーンは、オーストリア帝国の首都だった。そこから、いわゆる「ウィーン学団」の論理実証主義も、フロイトの精神分析も生まれてくる訳だ。だが、彼らに大きな影響を与えたのは作家のカール・クラウスであり、物理学者のエルンスト・マッハであった。

マッハの経験論的哲学に対して、若くして亡くなった物理学者ヘルツは、一種のモデリング論を立てる。論理的無矛盾性、データとの整合、そして説明変数の単純性を、3つの基準としたヘルツの議論は、現代のAI(機械学習)のモデル論に対しても、十分通用する優れたものだった。そしてウィトゲンシュタインの『論考』は、ある意味でその議論を、「モデリング・ツール(世界記述のツール)としての言語」にまで、拡張しようとする試みだった。だから『論考』は6.4節以降で、急にスタイルを変え、これまでの哲学や神学・倫理学が、いかに無意味なことをやってきたかを、活き活きとした筆致で批判するようになる。

本書はもちろん、『論考』以後のウィトゲンシュタインの歩みも忘れない。事実、彼は後年になって『論考』の内容には否定的な立場を取るようになり、日常言語学派と呼ばれる新しい動きを生み出した。ずっと英国に住んだ彼だが、その倫理的で誠実な生き方は、むしろウィーンの良き文化を体現するものであった。

藤村龍雄氏の訳は、決して読みやすいものとは言えない。原書も一部見たことがあるが、それほど衒学的な文体ではなかったから、英語に堪能な人はそちらにトライするのもいいだろう。しかし、こういう書物は、数多くの固有名詞に関する、詳細な訳注が、情報源として有用なので、わたしはあえて日本語訳をおすすめする次第である。


# by Tomoichi_Sato | 2020-12-19 13:18 | 書評 | Comments(1)