今年も節分が近づいてきた。何だか年を経る毎に、1月の過ぎるのがあっという間に感じられるようになってくる。 ところで、もう10年以上前から、節分になると「恵方巻き」を方々の店で売るようになった。しかも、この宣伝を始めるタイミングが、毎年だんだん早くなっている。最近では、まだ年が明けて松の内なのに、コンビニでは恵方巻のポスターが、「年賀状あります」の張り紙の横に並ぶようになった。 わたしはこの、松の内の恵方巻の広告を見るたびに、なんだかせわしなく感じて、疲れるのである。そして、B2Cビジネスで働かなくてよかった、とつくづく思ってしまう。お節料理と年賀状の次は、恵方巻と節分豆。その次はバレンタインデーのプレゼント。さらにその次は桃の節句。そして卒業式と入学祝い・・。こうして、季節ごとに次々とイベントを打ち、新しくヒットしそうな商品を並べ、その売れ行きに一喜一憂する。そういうビジネスに、自分はとても耐えられそうにない。 もちろんこれは個人的趣向を言っているだけで、B2Cはつまらない商売だとか、恵方巻は嫌いだとか批判してるのでは、もちろんない。単に、わたしは他人の頭の中を読むのが苦手なのである。特に論理ではなく、他人の感覚的な好き嫌いを、推測するのがとても下手なのだ。 もちろん、感覚的なことが好きで、他人の気持ちを読むのが上手な人は、どんどん新しい商品の企画を作って、ヒットを狙えば良い。ヒット商品とブームこそ、B2Cビジネスの花形だ。一発当たれば大きく儲かる。急成長もできる(最近では「エクスポネンシャルな」成長ともいうらしい)。
ところで話は、(いつものことだが)ちょっと飛ぶ。昨年、ある方と「AIを使って商品の価格予測ができるか」について議論になった。その方はAI技術者だが、わたしと同じくプラント系の出身である。データ・サイエンティストとして、最新の機械学習技術を駆使し、プラント分野の熱交換器の価格を、そのスペック(仕様)から推定しようと考えておられた。 熱交換器という器械は、原理的には単純だが、非常に幅広い分野で用いられる。家の冷蔵庫も、空調もカーエアコンも、熱交換器を使う。プラント分野でも多用する。 ことにプラントでは、その熱交換の要求量(Heat duty)と、流れる流体の種類、そして運転温度と圧力に応じて、サイズも材質も構造も多種多様な熱交換器を、毎回個別に設計し、製作して据え付ける。いちいち設計して、製造業者に引き合いをしないと、価格も見積もれない。おかげでプラント・エンジ会社の予算計画の手間を、非常にくってしまう。 そこで、熱交換器の基本的なスペック値を与えたら、すぐに重量と価格を推定するシステムを作れば、かなり価値があろう、というのがその方のねらいだった。実際、予備的な分析で、重量はそれなりに予測可能であることが見えていた。 しかし、わたしは言った。「重量の推定は可能だし、設計情報としても有用でしょう。しかし、価格の予測はやめた方が賢明です。少なくとも、わたしは期待しません」 相手は当然、反論してきた。「プラント用熱交換器は金属のかたまりなので、価格の大きな部分は重量、すなわち材料費に支配されるはずです。」 わたしは答えた。「だからこそ、価格を計算するためには、地金の単価を予測する必要があります。しかし、もしAIにそんなことが可能なら、ロンドン金属取引所(LME)の素材価格が予測できる事になり、相場で大儲けできるでしょう。熱交の価格推定なんかより、ずっとましですよ。」 でも現実には、どこぞのAIベンチャーがLMEの価格を支配した、なぞとは聞かない。それは、AIに相場価格が予測できないからだ。技術は進歩するから、将来も絶対に不可能だと断言するつもりはない。ただ、現時点では難しいのだ。難しいのには、理由がある。
自由市場では、価格は対数的なランダムウォークをたどる。これは確か、ノーベル賞経済学者サミュエルソンが証明したんじゃなかったか。そしてランダムウォークは、平均値の周りに正規分布になる。突飛な事は滅多に起こらない、というのがその意味だ。 ところが現実には、希にだが突飛なことが、市場では起きるのである。1998年8月のアジア通貨危機による暴落は、リーマン後の我々が見ると、まだカワイイもののように記憶しているが、あのような変動が起きる確率は、ランダムウォーク理論から言うと10万年に1度しか起きない現象だった。 フラクタル理論の提唱者であるフランスの数学者マンデルブロは、著書『禁断の市場』で、金融市場における価格の性質を説明し、「価格の予想は無理と思え、しかしボラティリティなら予測可能だ」と言っている。ボラティリティとは、価格の暴れ方の指標である。 市場価格はなぜ、アバレるのか。それは、単純な消費量と供給量だけではなく、値段の上下に関する思惑が、売買の量に影響するからだ。ある商品(株式でもいい)の価格が上昇基調にあるとする。すると売買で利ざやを得ようとする買い手が集まってくる。そのため、ますます価格が上がっていく。他人がその株の値上がりを期待すると、自分も買うことが合理化される。このように、集中強化現象が起きるのだ。もしこれが逆に働くなら、価格は一定水準の回りを安定的に上下するだけだろう。だが、ここには原因と結果の一種のループが生じて、これが不安定性を生み出す。 このプロセスは、化学でいう一種の自己触媒反応だと言ってもいい。自己触媒反応とは、A→Bという反応があるとして、その生成物であるBが、反応自体の触媒の役目を果たすケースだ。Bができると、それが反応速度を速めるから、さらにBができる。こうして反応に加速度がついていく。フラスコ内の化学反応では、原料がなくなったり、化学平衡に達したら、系は落ち着く。だが大きな市場のように外部から供給が続く流通系では、ボラティリティは簡単にはおさまらない(ついでながらボラティリティとは元々、揮発性を意味する化学用語だ)。 ![]()
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by Tomoichi_Sato
| 2023-01-31 16:43
| ビジネス
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プロジェクト・マネージャーの教育について、ときどき社外の方から相談を受けることがある。こうしてプロジェクト・マネジメントについてBlogで書いたり、あるいはPMをテーマとした研究部会を主催したりしているからだろう。「社内のプロマネをどう育成したら良いか」だとか、「ちゃんとPMの方法論を勉強したいのだが、PMBOK Guideを読むだけで良いのだろうか」といったご相談である。前者は主に、社内のPMO的な立場の方が多く、後者は個人単位の自己啓発を考えておられる方だ。 前者のような問いに対するお応えの仕方は、様々なパターンがあり、ときには先方の社内研修などを引き受けることもある。後者のような問いだったら、たとえば「基礎知識として、PMBOK Guideくらいは一応お読みになってもいいと思いますが」とは申し上げている。 だが、PMの勉強としてPMBOKで十分かというと、答えはNOだろう。PMBOKは教科書風の第6版 にせよ、かなり改変され簡略化された第7版にせよ、あらゆる種類のプロジェクトに適応可能なように、非常にジェネリックな記述をしてあるため、自分の仕事に展開応用するには、カスタマイズのための知識が必要だ。 それに、率直に言うが、プロジェクト・マネジメントというスキルを身につけるには、本を読んで知識を得るだけでは足りない。自分で考える訓練が必要で、だからPMPの資格試験でも実務経験を必須としているのだ。
当たり前だが、マネジメント業務の中核には、決断を下す、人を動かす、問題を解決する、などの仕事がある。だから意思決定能力、コミュニケーション能力、体系的な思考能力などが必須になる。これらは良い先生や手本となる人について学ぶ方が良い。 ということで、個人的な学びに対しては、このサイトでもときおり告知している、日本テクノセンターや浜松ソフト産業協議会主催の、有償セミナーなどをご案内することもある。1日ないし2日間のコースだ。でもわたし自身としては、より多面的に、かつインタラクティブにすすめるために、もう少し時間がほしい。大学のPM講義では1学期間・全15コマ(1コマ90分)を教えるが、本音ではそれくらいのペースが必要だと思う。 ちなみに、わたしが静岡大学でプロジェクトマネジメントの講義をはじめて、今年で7年になる。教えているのは大学院・総合科学技術研究科工学専攻の「事業開発マネジメント」コースである。 このコースは通称、MOT (Management of Technology=技術経営)と呼ばれる学科で、言ってみれば『理系向けのビジネススクール』のような位置づけのカリキュラムになっている。同様の学科は全国の国公立・私立大学に20あまり存在し、その多くが2000年代に設置されたものだ。 文化系のビジネススクールと同様に、MOT学科は主に社会人向けの大学院という位置づけであるため、土日や平日夜間の授業が中心になっている。わたしの「プロジェクト・マネジメント」科目は、1学期分・15コマだが、浜松キャンパスまで平日夜に毎週通うことは難しいため、月1回・土曜日に4コマを集中講義するスタイルで行っている(秋学期で10月〜1月までに4日間、最後の日だけは3コマ分)。 受講生の多くは社会人なので、講義する側も楽しい。わたしはこれまで、法政大学の学部3年生と、東京大学の大学院生に対しても、1学期間のPMを、それぞれ10年近く教えた。それはそれで面白かったが、学生や院生は、人と一緒に働いた経験が少ないし、その苦労もあまり知らない。でも社会人を2年でも3年でも経験すると、プロジェクトがずっと身近な問題と感じられるようになる。なのでPM能力の必要性も、身にしみて分かる。 学びの場において大切なのは、同じ意欲や問題意識をもった仲間の存在だ。何かを勉強すると言っても、社会人の場合は忙しいし、費用面の制約もある。だから仲間がいる方が、ずっと脱落しにくくなるのだ。そして、教える方もずっとやりがいが出る。
先週末は、静岡大学での今年度の最後の講義日だった。そこで受講生の方と議論したトピックを一つ、紹介しよう。まさにちょうど、PMBOK Guideがカバーしていない論点であった。それは、プロジェクトの安定性に関することだ。 プロジェクトは、意思決定の連続である。プロジェクトの始まりの日から完了の日まで、プロマネはたえず、様々な決断を迫られる。設計はAでいくかBにするか。ツールはXを選ぶかYにするか。発注先はN社がいいかM社がベターか。客先に追加を要求して揉めるべきか、我慢して見かけは平静な関係に続けるべきか・・ 一つひとつの決断において、分かれ道があり、結果がプラスになったりマイナスになったりする。プロジェクトの採算を指標にした場合、黒字が増えたり減ったりする。それは言ってみれば、沢山の分岐のあるネットワークを通過していくようなものだ。あるいは、もっと卑近な例にたとえると、パチンコの玉が、並んでいるピンの列の間を、左右に転がり落ちていくようなイメージかもしれない。 しかし、だとすると、プロジェクトの結果というのは、ある平均値の回りに、適度な分散を描く正規分布的な形になりそうなものである。ななめの格子状に並んだピンにパチンコ玉を上から落とせば、結果はそうなる。左右の分岐確率に違いがあっても、二項分布になるはずだろう。 ところが、実際にはそうならないのだ。わたしは勤務先で、プロジェクト・マネージャーが毎月出してくるMonthly PM Reportをレビューする仕事を何年もやったが、むしろ、プロジェクトは良い方とわるい方に、二極分化していくのである。 良い方のプロジェクトは、レポートを見ると、先月はこんな風に客先と合意できた、翌月は発注先も適切なところを選定できた、翌々月は設計が予定より早く終わりそうだ、という具合に、良い出来事の報告が続いていく。 ところが、逆のパターンもある。まずいプロジェクトでは、先月も客先から強引なクレームをもらった、翌月はサプライヤーの品質でトラブルが起きた、翌々月は現場への動員が予定より遅れた、という具合に、苦しいことばかりが続くのだ。こうなると、レビューする側でさえ、PMレポートを開けるたびに、ため息をつくことになる。
その仕事を続けるうちに、わたしは、プロジェクトとは山上のボールのようなものだと、感じるようになった。谷間に置いたボールは、左右どちらの方向から力を受けても、元の位置に戻るような性質がある。安定なのだ。しかし、山の上に置いたボールは、左右どちらかからちょっとでも力を受けると、逆の方向に転がり、いったん転がりはじめると、その方向に加速度をつけて進んでいく。 プロジェクトも同じだ。良いプロジェクトは良い結果の方向へ、まずいプロジェクトは困難な結果の方向へ、二極分化していく。不思議なことに、PMレポートには、今月は良い、翌月はまずい、翌々月は良い、という風に、良し悪しの間を行き来するものは無かった。どちらかに偏っていくのだ。 これはつまり、プロジェクトという対象が、制御工学的なダイナミクスの点では、不安定であることを示す。では、どのようなメカニズムで、それは不安定になっていくのか。安定にするには、どうしたら良いのか。今のところ、このような観点からプロジェクト・マネジメントを論じた研究や指南書は、見た記憶がない。もちろんPMBOK Guideにだって、書いてはいない。 わたしの勤務先では、IT Grand Plan 2030という長期的なIT技術開発のロードマップを発表している。その中では、「プロジェクトデジタルツインの構築とシミュレーション(将来予測) 」という項目も、目指すべき目標として謳っている。これはつまり、プロジェクトのシミュレーターを作って、その着地点(完了期日と完成コスト)を予測しようという構想だ。ちょうど台風の進路予報のように、プロジェクトの経路と着地点を予測する。ただしそれは台風の予報円のように、幅を持った予測になるだろう。 これを実現するには、プロジェクトのダイナミクスを予測できるためのモデリングが必要である。そして、それはプロジェクトの本質的な不安定性も、再現できなければならないはずだ。 だが今のところ、PM分野における着地点予測手法は、EVMS的なモデルがベースにあるから、基本的に確定的なものだ。せいぜい、ちょっと乱数シミュレーションを付加した程度のものである。こんなモデルを何万回動かしたしたところで、平均値の回りに正規分布する安定な結果しか出てこないのは、見えている。 おわかりだろうか。現在のPM論には、何か大事な部分が欠けているのである。 材料科学に携わる人たちは、「第一原理計算」という方法論を使う。これは固体の性質を、量子力学の原理(波動方程式)に基づいて計算する手法である。あいにく、PMの世界には、まだ第一原理も、そのダイナミクスを表す方程式も存在していない。 プロジェクトは人間同士の営みであり、数理モデルが万能だとは思わないが、それでも参考にはなる。わたし達がプロジェクト・マネジメントに悩むとき、そして世の中の知識体系や教科書を勉強しようと志すとき、じつはまだ、これは第一原理さえ確立していない分野なのだ、と肝に銘ずるべきではないだろうか。 <関連エントリ> →「EVMSとアーンド・スケジュール法の弱点 ~ プロジェクト予測のミクロとマクロ」 (2019-06-10) #
by Tomoichi_Sato
| 2023-01-24 06:14
| プロジェクト・マネジメント
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エンジニアとは、考える仕事である。わたし達にとって、思考は仕事の中心プロセスであり、一番大事な商売道具である。である以上、自分の思考は有用で、正確で、かつ効率的であることが望ましい。知識労働者たるべきエンジニアが、肉体労働だとか、果ては感情労働(上司や顧客や仲間との感情的なフォロー等)について忙殺されているとしたら、嘆かわしいことだ。 とはいえ、わたし達が仕事で、とくに設計で行う思考は、ちゃんとすべて論理的だろうか。 この問いに答えるには、当然ながら「論理的」とは何かが、明確になっていなければならない。論理的とは、数式の展開計算のように、あるいは記号論理の真理値表のように、確実に正しい方法論に従う手続きを進める事だろうか? 思考には、一般に二つのモードがあると言われている。演繹(deduction)と帰納(induction)である。演繹とは、前提から結果を導き出す事で、帰納とは気づき・発見のことである。「人は全て死す、故にソクラテスもプラトンも死す」と推測するのが演繹で、「ソクラテスもプラトンも死んだから、人は皆死ぬのだ」と推論するのが帰納である。 この二つの単語の語源は、どちらも「ducere(導く)」から来ている。接頭辞のin-は入る方向、de-は離れる方向を示す。つまりinduction とは知識を導き入れる事、deductionとは知識を導き出す事を意味する。 もっとも、中山元の「思考の用語辞典」 によると、帰納の方が演繹よりも弱い推論だ、という。たとえば、ウィトゲンシュタイン(元はエンジニアだった)はこう言う。「太陽が明日昇るだろうと言うのは仮説である。太陽が昇るか昇らないかを、われわれは知らないからである」(「論理哲学論考」 6.36311節)。まあ厳密にはそうかもしれないが、でも十分なエビデンスがあれば、推論は普通、それなりの説得力をもつ。 いずれにせよ、論理性とは真であること、整合性(無矛盾であること)を重んじる。つまり真を重要な価値とする。では、このような真理を追求する方法と知識を専門的に磨いているのは誰か? 答えは科学者たちである。科学者は真理に仕える。彼らは確実で、正しいことを言うことが求められる。科学研究の論文で、根拠レスなあやふやな主張を自信満々述べることは許されない。 したがって科学的知識・能力は、思考の正しさを保証する、ということになる。科学が技術の基礎であるとは、そういう意味でもあるのだ。
ところで、本当にエンジニアが思考能力を磨くためには、科学を勉強していればいいのか。わたしが受けた工学部の教育は、そういう考えで出来上がっていたように思う。と言う事は、科学こそが技術とイノベーションの母である、と言えるのだろうか? ついでにいうと、政策立案の分野では、科学と技術はよく、「科学技術」と一緒に表現される。この表現にも、わたしは、かねてから違和感があった。科学と技術は、相当に別物ではないか。 国の政策立案の中心部にいる人たちは、「科学技術」の振興が成長をうながすと考えているらしい。より具体的にいうと、研究開発に公的予算を投じれば(それも有望な最新分野と有能な研究者達に集中的に投じれば)、必ずやイノベーションを通じて、経済成長に貢献するはず、という信憑があるようだ。内閣府の戦略的イノベーション創造プログラムなどは、その代表例であろう。 だが、繰り返しになるが、エンジニアとしての実感から言うと、科学と技術は別ものである。技術では、科学的に真であること以上に、役に立つこと=有用性が求められる。科学的に証明されていなくても、経験的に裏付けられていれば、それを使うのがエンジニアだ 例えばアスピリンと言う薬がある。19世紀末にバイエル社によって発見され、鎮痛解熱作用があるので広く使われてきた。しかしこの薬がなぜ効くのか、その作用機序については、70年近く謎だった。科学的には謎でも、医師たちは処方してきた。臨床を預かる医師たちには、エンジニア同様、真であるよりも、有用性の方が大事なのだ。
話を少し戻すが、エンジニアの一番大事な仕事は設計である。では、良い設計をするためには、論理的な思考、科学的な訓練だけで充分だろうか。 よく、優れた設計能力を持つ同僚などを表して、「あの人はセンスが良い」などと表現する。ここで言うセンスとは、何なのか。あなただったら、「論理的で正確だ」と言われるのと、「センスが良い」と褒められるのと、どっちが嬉しいだろうか。 設計がどんな行為であるかについては、すでに以前、「設計とはどういう行為か、AIで設計を自動化できるか?」で論じた。設計とは、『機能を形状・構造に落としこむ』作業である。 設計対象に可動部分があったり、対象が入力を出力に変換する仕組み(システム)である場合は、その構造に、制御機構を与える作業が続く。 そして設計は、逆問題でもある。普通の問題(順問題)は、与えられた構造から、その性質や振る舞いを予測する。しかし、仕様で与えられた性質や振る舞いを示す構造とはどんなものかを考えるのが、逆問題である。 ジェームズ・ワットの蒸気機関は、その良い例だろう。それ以前に使われていた、ニューコメンの蒸気機関は、温めたり冷やしたりを繰り返すために、間欠的な動作しかしできなかった。ワットは連続して効率よく動く蒸気エンジンを作りたかった。そのために蒸気を温める部分と冷やす部分を分離し、かつ、遊星歯車や遠心調節器の機構を開発した。 彼のこのような発明は、演繹や帰納といった、論理的思考の結果だろうか? どこか、試行錯誤で発見的・探索的ではないだろうか? もう一つ、設計の事例を見よう。ワットの発明から80年近く後、19世紀半ばの「ロイヤル・アルバート橋」だ(写真はWikipedia英語版からの引用による)。340mの川幅に、30m以上の空頭高を確保するため、鋼鉄製の二重レンズ型トラスを考えて、作った。良い設計=デザインも、一種の発明と言える。設計者は、天才的技師ブルーネル。彼については、「英国史上、最も偉大な技術リーダーに学ぶべきこと」 で書いたので、ここでは繰り返さない。 こうした本当にレベルの高い設計物を見た人間は、「美しい」という。センスが良い、とは、美しい設計を生み出す能力を指している。これは、論理性とは別の能力だ。 美を生み出す人、美を大切なものとして美に仕える人を、アーティストという。彼らの仕事はアートだ。ただし、英語のArtの翻訳は、日本語の「芸術」ではない。もっと幅広い、個人的なスキルも含めた、「技芸」に近い。 よく、「経営にはサイエンスとアートの部分がある」と言われる。ビジョンを作り人を動かす経営の仕事は、科学的論理だけでは足りない、という意味だ。でも、それなら、エンジニアの設計も、科学とアートの部分がある。優れた設計の仕事には、アートと科学の、配合の妙を感じるではないか。 さらにいうとモデリングも、科学の部分とアートの部分がある。モデルは現実を再現し、予測・シミュレートできないと役に立たない。予測には確実に科学知識や論理性が必要だ(演繹の作業だから)。だが、対象系の複雑なふるまいを見事に再現・予測できるモデルが、とてもシンプルで明晰な構造になっていると、わたし達は「美しい」と感じる。あるいは、抽象度の高い少数のパラメータから、現実的で豊穣なインスタンス群を生成できると、「美しい」と感じる。
論理性とアートは、ふつう相反するもののように思われている。でも、それは少し近視眼的だ。なぜなら、論理性の権化である数学の世界で、一番の褒め言葉は「美しい」なのだから。 論理について言うと、帰納も演繹も、AIのおかげで、機械でかなりできるようになった。猫の写真を見分けられるようになって10年が経つ。いまやGTP3など、よくまあと思えるような、まことしやかな記事や論文を、自然言語で生成してくれる。しかし発明とアートの部分は、まだまだだ。というか、機械に「センス」を植え付けるようになるまでには、ずいぶん跳躍が必要そうに思える。 わたし達は、論理的で素早く思考できる人を、「頭が良い人」とよんで、感心する。だが正確で効率的であるだけでなく、美しい成果物を生み出せる人は、「賢い人」と呼ばれ、感動を呼び起こす。できるならわたし達は、賢い人を目指したいと思う。 そのためには、アート(センス)の部分を、もっと評価して伸ばしていく必要がある。あいにく、今の世の中は、アートだの芸術だのは「不要不急」だとされ、コロナ禍でもまっさきに切り落とされる領域だった。なぜ不要不急かというと、すぐお金儲けにつながらないから、という社会常識があるからだ。それが結局、わたし達の産業と製品サービスを、貧困なものにしてきたのではないか。 ただ、アートをもっと重視すると言っても、必要なのは専門家としてのアーティストと、各人の中に育てるべきアートの、両方の部分がある。アートの専門教育の場は世の中に、すでにたくさんある。だが、エンジニアに必要な素養としてのアート、技能としてのアートを育てる場は、極めて少ない。センス的な部分はすべて徒弟制度、というのがこの国の実態だ。 この状況もまた、「サーキュラーな問題」になっていて、すぐにマクロに解決できる処方はあまり思いつかない。ただ、そもそも、センスというのは個性につながっていて、ミクロなものではないだろうか。だとしたら、まず出発点とすべきなのは、わたし達一人ひとりが、もう少しだけ「アートと科学の配合の妙」に、より感覚を磨くことにあるはずだ。 <関連エントリ> 「設計とはどういう行為か、AIで設計を自動化できるか?」 https://brevis.exblog.jp/28975247/ (2020-05-07) 「英国史上、最も偉大な技術リーダーに学ぶべきこと」 https://brevis.exblog.jp/24622591/ (2016-08-28) #
by Tomoichi_Sato
| 2023-01-17 17:04
| 思考とモデリング
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今年の正月は、5日と6日も休んで、比較的長く休暇をとった。昨年、比較的多忙だったので、少しは休養を取りたいと思ったからだ。しかし残念ながら、やるべき宿題を抱えていて、あまり十分に休めなかった。いや、もっと正直に言おう。わたしはじっくり考える時間を取りたかったのだ。だが年末年始の間も、やるべきことに追われて、あまり考える時間を取れなかった。 忙しさに追われて、考える時間がない。これはわたし達の社会の、共通の病気かもしれない。忙しいから、深く考える暇がない。深く考えないから、その場しのぎの仕事が増えていく。結果としてあまり大きな成果が上がらず、瑣末な問題ばかりが増えて、その解決に時間が取られる。おかげで深く考えることができないから… ここでは問題状況が、因果関係のループを形作っていることがわかる。わかりやすく言うと、卵と鶏の関係である。では、このような問題は、どう解決すべきか。 ここで1つ、逆手を思いついた。本サイトにおいて、しばらく、思考とモデリングの技術についてテーマに取り上げ、考えを整理していこうと思うのだ。というのも、本サイトの文章を書くことも、わたしにとって、取り組まねばならない宿題の一種だからだ。 高名な国際的経営コンサルタントだった故・今北純一氏との対話について、ちょっと前に書いた。20年以上前、日本を遠く離れた異国の地で、日本の不況に関し、わたしは率直な自分の意見を答えたのだが、あの問答には、じつは続きがある。今北さんは、なぜ日本がそんな状況に陥ってしまったかについて、わたしの見解を尋ねられたのだ。 その時、わたしは答えた。「考える力の低下が、不況の根本の原因だと思います。」この考えは、今も変わっていない。 考える力の喪失、とくに深く考える力が弱まっている。そのことが、わたし達の社会における、組織や個人の行動の有効性をかなり損なっている。日本人が働かないから、怠惰だから、不況になったのではない。皆、必死に働いているのだ。それなのに成果が上がらない。エネルギーが、どこかで無駄に浪費されている。そして皆、頑張ることに疲れ果てている。 長い不況を脱し、自信と希望を強めるためには、深く考える力を再興する必要がある。その事は明らかだ。 ところでこう書くと、「ではなぜ、考える力は低下したのだ?」との質問が出てくるだろう。そして教育制度だとか、国民性だとか、多忙のせいだとか、いろいろな原因説明が行われる。 でも多忙については、すでに書いたように、原因と結果の関係が卵とニワトリのようにループになっている。他の原因説明についても、やってみれば分かるが、似たような結果になる。それら複数のループが、「思考力の低下」と言う点で交錯しているのだ。 わたし達が考えるのは、問題解決のためである。だったら、思考能力を高めるためには、問題解決技法を学べば良いではないか? 調べてみたらすぐにわかるが、問題解決技法については、すでに書籍や方法や、セミナーコースの広告やらが、うずたかく積み上がっている。あまりたくさんありすぎて、どれを選んだらいいかが、むしろ問題だ。で、この問題を解くにはどうしたら良いかというと… でもここで1冊、とても良い本を紹介しよう。「問題解決大全」。著者の名は、読書猿。ペンネームで、正体は謎のブロガーだ。でもこの人は図書館の中に住んでいるんじゃないかと思うほど、非常に浩瀚な読書歴を誇っており、その守備範囲も広い。 本書のサブタイトルは「ビジネスや人生のハードルを乗り越える37のツール」である。そして37種類の技法が詳細にわかりやすく解説されている。 ただしこの本が真にユニークなのは、全体が、第一部「リニアな問題解決」と第二部「サーキュラーな問題解決」に分かれていることである。 著者は世の中の問題解決技法を、その問題認識に従って2種類に分類する。1つ目は、リニアな問題意識、すなわち、「原因→結果」がリニア(直線的)につながっているという立場である。2番目は、原因と結果が、ループのように円環を描いている、と考える立場だ。問題解決技法をこのように分類する視点を、わたしは他に知らない。 問題とは「目指すべき目標と現状のギャップである」、としたハーバート・サイモン(ノーベル賞受賞の経営学者)の定義は、よく知られている。サイモンの認識に従えば、ギャップとなる障壁を解決するための道具や手法を用いて、進めば良いことになる。 この問題認識の延長線上には、「ロジックツリー」や「特性要因図」といった分析技法が出てくる。とてもアメリカの経営学的な、論理的でわかりやすい、かつトップダウンな方法論にフィットした考え方である。 これで解決できる問題はもちろん多いので、身に付けておくべき基本だとも言える。ただしこのサイモンの定義は、リニアな問題認識である。「なぜ」を5回繰り返す「なぜなぜ分析」も、リニアな手法の1つだ。 だがリニアな問題解決技法は、原因と結果がループを描いている種類の複雑な問題には、なかなかうまく適用できない。ここに、「サーキュラーな問題解決」と言うカテゴリーを持ち込んだ点こそ、著者の独創性があると思う。 ただし本書には37の技法が開設されているが、サーキュラーな解決技法は全体の3割しかない。やはりリニアな技法のほうがずっと多いのだ。しかもサーキュラーの問題解決技法の多くは、問題の定義や理解、そして情報収集に比較的集中していて、解決策を見いだす部分がやや弱いと言える。 一例を挙げると、TOC理論で有名なゴールドラットの「現状分析ツリー」(Current Realty Tree=CRT)がある。これ自体は図解を使ったわかりやすい技法で、例えばわたしが講師を今年度から手伝い始めた、社会人のための「ストラテジックSCMコース」(日本ロジスティクスシステム協会)でも長年、問題分析にこの方法を教えてきている。しかし実際に人にこれを描いてもらうと、リニアな因果関係図を作って満足してしまう事が多い。 とは言え、かなり幅広い分野の問題解決技法を概観できる点で、この「問題解決大全」はとても有用な本だ。いや、むしろこの本の1番価値のある部分は、著者による前書きではないかと思う。 この前書きの中で著者は、なぜリニアとサーキュラーと言う2つの区分を設けたかについて解説している。さらに、有限の問題解決技法が、無限に出てくる問題を解決できるためには、それ自身が「方法を生み出す方法」でなければならない、と指摘している。 加えて、問題解決者はその結果についての責任を、「運不運」の影響も含めて負わなければならない、だから問題解決には意志の力が必要であるという。「問題解決を学ぶ事は意思の力を学ぶことである」(p.11)との主張は、奇しくも、先にふれた故・今北氏の考えにも通じている。本書は、この比較的長い前書きを読むためだけでも買う価値がある。 ついでに言うと、深く考える能力を育てるためには、ある程度込み入った知識・文章を理解することが必要になる。だが忙しすぎる人、考える能力が低下している人は、長い話を呑み込む能力が、あまり無い。なので、ごく手軽な方法に飛びついたり、手近な成功例をそのまま真似たり、しがちである。ここにも因果のループが生じているのがわかるだろう。このように問題事象のあちこちに因果のループがあると、こじれてほどけぬ結び目のように、変革がとても困難になる。 要素と要素の間の、インプットとアウトプットの関係が、環状のループを形成している仕組みを、「システム」と呼ぶ。システムをどのように作り、どのように動かしていくか。これがシステム工学の課題である。だからこそ、思考とモデリングの技法を考える事は、すなわち、真に役立つシステム工学を考えていくことに他ならないのである。 <関連エントリ> →「問題解決への出発点とは」 https://brevis.exblog.jp/30196826/ (2022-12-14) →「意思を持つために――未来はわたし達の意思がつくる」https://brevis.exblog.jp/30153969/ (2022-10-25) #
by Tomoichi_Sato
| 2023-01-10 11:26
| 思考とモデリング
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Merry Christmas ! 受注ビジネスに従事しているので、入札に応じる経験を何度もしてきた。公的な本式の入札もあるし、私企業を相手とする略式の競争もあった。提案書を作り、値段を決めて、期限の日までに客先に提出する。客先はその日になると、各社から出てきた提案書を開封して比較し、一番良いと考える候補者を選ぶ。 本格的な国際入札になると、「技術提案書」と「商業提案書」を別々に出すことが求められる。客先は、最初に技術提案書を開封して、内容を比較吟味する。この時点で技術審査に通らないと、商業提案書は開封してもらえない。かりに1円入札、いや1ドル入札をしたとしても、技術点で落第したら仕事は取れない訳だ。 入札のことを英語でBidという(Tenderというときもある)。入札への参加要請を、Invitation to Bid、略して「ITB」という。ITBには普通、入札提案書に記載すべき要件、契約書のドラフト、そしてプロジェクトの成果物に関する技術仕様書がどっさりついてくる。ITBは、IT業界でRFQ (Request for Quotation)とかRFP (Request for Proposal)と呼ぶものに、ほぼ相当する。 我々エンジニアリング業界にいる人間にとって、ITBは一種の「神の声」である。呼ばれたら、応じる。運がよかったら、好い目を見ることができる。顧客からの「神の声」である要求内容に対し、こちら側から注文をつけることも、一応は許されるが、もし競合相手がその要求を丸呑みしたら、自分は比較審査で当然、不利になる。 長年そうした仕組みの中で仕事をしてきて、つくづく思うのは、入札の勝敗には運不運が影響する、ということだ。能力が全てだ、能力が高ければ勝ち、能力が劣るほうが負け――というほど単純ではない。顧客の嗜好、市場環境、競合相手の多さ、資機材価格や為替相場の安定性、相手国の政治環境など、数々の要素が入札結果に関わってくる。その多くは、入札する側のプロマネでは、コントロールしようもない。 プロジェクト・マネージャーが、短期的にコントロール不可能な事柄を、「環境」と呼ぶ。環境には「外部環境」と「内部環境」がある。外部環境とは、顧客や相場などの項目である。内部環境とは、社内で仕事を頼む相手部署のリソースの質や人数、自分に与えられた権限・ルール、上司の力量などなどだ。どれも自分ですぐに変えられるものではない。 プロマネだったら誰しも、ベストな顧客に恵まれ、ベストなスタッフで仕事をして、ベストなプロダクトを産み出したいと考える。だがその多くは、自分で決められない「環境条件」であり、仕事の成果はそれに左右される。それが短期的に、一番はっきり出てくるのが、入札という仕事だ。 入札に負けた経験は、自慢ではないが、たっぷりある(笑)。まあ入札というものは、3社以上で行うのが普通だし、業界内の似たレベルの企業が呼ばれるのだから、もともと勝率は3割以下ということになる。プロ野球選手の打率と似たようなものだ。それでも懸命に作った提案書で入札に負けると、かなり気分的にへこむ。 そして、負けた当初は、「運がなかったのだ」と考える。つまり、環境条件が良くなかった、という訳だ。顧客の妙な要求、競合相手の思わぬ値引き、相場の不安定・・責めるべき要因は、いろいろある。自分は懸命に頑張ったのだが、環境が許さなかったのだ、と。 だが、そうした敗北から半年経ち、1年経って振り返ってみると、少しだけ違う風景が見えてくる。「あの兆候に、なぜ気づかなかったのだろう」「そうか、あそこの、あの判断がまずかったのだ」と思い当たるところが出てくる。入札の最中は頭に血が上っているので、自分の落ち度に気づきにくい。しかし時が経って冷静になると、より客観的に見ることができるようになる。 「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」という言葉が、スポーツの世界でよく言われる。故・野村克也氏の座右の銘で著書のタイトルにもしているが、もとは平戸藩主松浦静山が『甲子夜話』に遺した言葉だったという。落ち着いて考えると、自分の入札敗北も、「あれでは、勝てなくて当たり前だったのだ」と思い当たる。 仕事の成果の何割が、当事者の能力や努力のたまものであり、何割が、環境条件に依存するのか。アイツは運良く良い仕事を割り当てられて業績を上げて出世したが、俺は割の合わない案件で苦労したのに怒られる、などと考えるのは楽しくない。だったら、「今回のこの案件の業績評価では、結果の6割が君の実力、4割が環境条件に左右される分と考える」みたいなことが決められたら、ある意味、評定も透明になると思う。 しかし、これを推定するのは、もちろん難しい。とはいえ囲碁や将棋など、ほとんど運の入る余地のないと思われるゲームでさえ、必ず優勝劣敗の結果になるとは限らないのだ。したがって、運が左右する比率は、決して小さいとは言えないのだろう。ただ、自分が負けたときの反省では、ゲームの直後には「環境が大勢を左右した」(環境7割>能力3割)と考える。しかし冷静になると、「やはり自分の実力が足りなかったのだ」(環境3割<能力7割)と気づくようになる。比率が変わるのだ。 「運も実力の内」という言葉がある。このテーゼは、(環境)⊂(能力)、すなわち「実力がほぼ10割だ」と主張している。あなたは、この主張に同意されるだろうか? 「プロマネは結果がすべて」という言葉も聞く。これも、似たようなニュアンスがある。結果が全て、運が悪かった、客が悪かった、というような言い訳をするな。すべてを自分の責任として引き受けろ。と、そう聞こえる。あなたは、それが当然だ、と思われるだろうか。 『環境条件』とは、当事者が短期的にはコントロールしがたい物事だ、と上に書いた。「結果が全て」といった言い方は、逆に言うと「どんな環境だって、頑張ればコントロールできる」とのテーゼを表している。たちの悪い客だってうまくリードできるはずだ、使う技術ツールの欠陥だって避けることができるはずだ、与えられたチーム員が無能でもお前が育てて能力を伸ばせばいい。そう、言っている。為替変動だって、(どうやるのかよく分からないが、為替予約でも使うのか)ヘッジできるはずだ。そう、主張している。 わたし個人は、このような考え方には同意しがたい。パンデミックも戦争もインフレも、個人の力量と頑張りで影響をカバーできるはずだ、との主張は、組織内の個人に過剰な負担を強いるものだ。それだと、何のために組織があるのか、よく分からない。成員が組織に貢献するのは当然としても、組織が成員を支えることがなかったら、それは単なる収奪の仕組みではないか。 もちろん、育成のために、あえて多少難しい場面を経験させることはあるだろう。だが成員が真に困難な状況に陥ったら、上位者が手をさしのべ、あるいは横でも協力して助け合うのが、本来の組織ではないだろうか。 (ちなみに、わたしは勤務先で「プロマネは結果がすべて」と言われた覚えがない。世界の僻地で巨大プロジェクトを進めるのがなりわいの企業なので、あらゆる事象をプロマネの責に帰すのは無理だと考える人が大多数なのだろう) そして、運が良いとは、『世界を動かすプロジェクトマネジメントの教科書』でも最後の方に書いたように(P. 237)、「本当につらいときに人が助けてくれる」という意味なのだ。 うまく成功したら、運がよかったのだと考える。失敗したら、自分にまずいところがあったのだと反省する。それなりに大きな仕事をしてきた人たちにはこういう共通した態度がある。 逆を考えてみればわかる。失敗したら、運が悪かっただけだと言い訳し、成功したら、自分の実力だと宣伝する。こういう人間に、他の人たちはついていきたいだろうか? 「運も実力の内」という言葉は、そういう人間の慢心をたしなめるときに使ってこそ、活きるのではないか。 「運も実力の内」との通念は、裏を返すと、不遇な人たちは自業自得だ、要するに彼らは頑張る実力が無かったから、その結果が招いた事態なのだ、という冷酷な考え方にもつながる。過度の実力主義とは、つまり、「運も実力の内」の傲慢さが支配する社会である。 クリスマスの時期になると、シャンパンを開ける機会も増える。そういうとき、昔、シャンパーニュ地方を列車で旅行した際の記憶がよみがえる。車窓からは緑で美しいぶどう畑と、丘陵地帯が見える。素晴らしい景色だ。だが、「ここの人たちは、毎年天候に一喜一憂する暮らしなのだろうな」とも思った。お日様も雨も、人間は左右しがたい。農業という古い産業は、それだけコントロールできない外部環境に依存するのだ。 だから農業社会ではどこでも、豊作を願って天に祈る。自分たちが万能でないから、祈りの心が生じるのだ。農作物だけではない。初めての子どもが生まれそうなとき、親しい人が緊急に入院したとき、家族が遠くに旅立っていくとき、そして戦争の不安が地を覆いそうなとき、わたし達は天に祈りたくならないだろうか。 宗教というものを知的レベルで批判する人は多い。たしかに地上の全ての宗教の全ての側面が、擁護可能だとはわたしも思わない。だが、わたし達の『祈りたい心』がある限り、この世から宗教が無くなることはあるまい。 「明日、何を食べ、何を着ようかと思い悩むのはやめよ。一日の悩みは、一日で足りる」と、かつて中東の宗教改革者は、山上の垂訓で人びとに説いた。この言葉には続きがある。「野の鳥を見よ。種まきも刈り取りもしないが、それでも天の父は彼らを養ってくださる。あなたがたが本当に必要とするものは、天の父はすべてご存じなのだ」と。 わたし達が左右できないものごとは、最後は天に委ねるしかない。そして、天はわたし達の本当に必要とするものは知っておられる、と信じられることが大切なのだ。 そして冬の最も暗いこのひととき、どうか、地には善意の人びとに平和がありますように。 <関連エントリ> →「クリスマス・メッセージ:フェアな社会を裏付けるもの」 (2021-12-24) #
by Tomoichi_Sato
| 2022-12-24 12:48
| リスク・マネジメント
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【著書】 「世界を動かすプロジェクトマネジメントの教科書 「時間管理術 「BOM/部品表入門 (図解でわかる生産の実務) 「リスク確率に基づくプロジェクト・マネジメントの研究 【姉妹サイト】 マネジメントのテクノロジーを考える Tweet: tomoichi_sato 以前の記事
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