書評:「読めるが話せぬ人の英会話」 渋谷達雄・著

読めるが話せぬ人の英会話」 日本能率協会・刊 (Amazon.com)
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あなたが知り合いの英米人の結婚式に呼ばれたとしよう。あるいは、その知人が日本に来ていて、「じつは、もうすぐ結婚することになったんです」と、あなたに言った場合でもいい。その時、相手に何というか。

相手が男性なら、”Congratulations!"(おめでとう!)で良い。しかし、相手が女性のとき、”Congratulations!”と言ったら、ずいぶん失礼になる。それでは、

「あなたはいろいろと旦那探しにご苦労されましたね。苦心の結果ようやく相手の承諾を得られ、ご結婚の運びに漕ぎつけられたことをお祝い申します」

という言外の意味になってしまうからだ(本書P.89)。どうやら英語圏の世界では、男性が苦労して女性を探して射止める、という暗黙の物語が文化の構造の中にある、らしい(たとえ現実は違ったとしても)。だから、女性に対しては、本当は
“I hope you will be very happy.”(お幸せにね!)
と言うべきである。

そして、こういう点が、英語でコミュニケーションするときの難しさなのだ。英語を上達したい、英会話が上手くなりたい、と願う多くの日本人(わたしもその一人だ)にとって、最も注意すべきな点は、こうした文化・習慣・発想の違いである。つまり、わたし風の言い方を許してもらえれば、『OSの違い』なのである。だから、一番学ぶべきは、こうした違いを良く知っている人から、その差分に特化したトレーニングを受けることなのだ。

ところが、たいていの人は、「ヒアリングさえできれば」「ボキャブラリー(語彙)がなあ」「文法を間違えやすくて」「発音が大事だから」といった事が、いちばんの壁だと考えている。それはもちろん、そうだろう。だが、日本人の多くの人は、中学・高校そして大学まで、長い期間にわたって英語に努力を注いでいる。だから、『読めるが話せぬ』状態にある人が、ほとんどなのだ。

「もともと、”話す、聞く”のはやさしく、”書く、読む”のはむずかしいのです。(中略)どこの国の子どもでも、まず話し、聞くことができるようになり、そしつぎに、書いたり読んだりするようになるのが当然です」(P.15-16)と、著者は書く。そして、

「現在いわれている英語習得のメソッドとしては約五十種類くらいありますが、どれも似たりよったりで、(中略)たいてい他国の人は言葉に対して赤ん坊である、という前提の教え方である」ために、「日本の中堅幹部や経営者のかたがたの"話す英語力の再建”には、必ずしも適していないと言ってよいでしょう」(P.17)

という考えの基に、著者は独自の「渋谷メソッド」と呼ばれる方法論を作り上げる。著者・渋谷達雄氏は、幼時を英人家庭で育ち、英語発音学を専攻、そして戦後、米軍司令部行政官を経て、以来30年以上にわたり、一貫して日本の財界・官僚のトップクラスを対象とする英会話講座を担当してきた。本書の後ろ見返しには、土光俊夫氏をはじめとする錚々たる大物たちによる「渋谷達雄先生」への感謝状の写真がのっている。

ちゃんとした知的教育を受けた日本人にとって、「九分九厘は、多少奇妙で国際場裡に通用しにくいが、すでに学校英語としてできている。わたしはただ、一厘お手伝いするに過ぎない」(P.20)というのが著者の主張だ。

その「一厘」の第一は、発音を徹底的に正しく、よくすることだ。「発音さえ正しければ、多少言葉が前後していても、相手にはよく通じます。何しろ相手にとっては、自分の国の言葉なのですから」(P.21)というのは、自分たちの日本語の経験に照らしても、うなづけることである。

「ヒアリングのチャンスがないから、ヒアリングができない、と言われる方が多いようですが、これもおかしいのです。(中略)自分が正しい発音ができ、英語らしいリズムで言えるようになっていれば、相手が正しい発音をしていたら、分からない方がおかしいのです。」(P.23)。これと似たことは、英語教育家だった故・中津燎子氏も言われていたと思う。

著者はそこで、毎日英語で1から50までone, two, three, .. fiftyの発音を、声を出して練習することをすすめる。この50語の中には、英語の重要な発音要素が全部入っているからだ。所要時間はせいぜい、3分。「一日に2,3分の発声発音練習もしないで上手にしゃべるようにしろといっても、あまりに無理なことです」(P.27)

ただ、そこで発音の基本的な理解やコツが大事になる。よく、LとRの区別が問題になるが、「LとRは全くのアカの他人で、Lの兄弟はTなのです。したがって、waterはワーラーとくずれやすい。littleはリルにくずれやすい」(P.26)。またRは先に"ウ"をつけて練習する。rightはウライトと言ってみる。「英語では日本人の想像以上に唇を突き出す発音が多いのです。唇を突き出して発音することになれる必要があります」(P.39)。またthirtyを「セーティ」と発音せよ(つまりir, erをエーで代用する)、というのも著者独自の工夫だろう。

しかし、発音の基礎の上に築くべき大切なことは、欧米人のものの考え方、礼儀やマナーの理解だ。本書の多くはその点に割かれている。

たとえば挨拶の最初は、"How are you?"だが、
「日本人の全部といってもよいほど不得意なことは、"How are you?”のあとに、挨拶する相手の名前を言えることです」(P.65)。
"How are you, Mr. Brown?”と、相手の名前を入れることによって、はじめて、日本語でいう「ございます」調の丁寧感がでる。これを知って、会得できるかどうかで、ずいぶんと商売上での相手の印象が変わるのだ。

あるいは、違いはお礼の言い方にも現れる。誰かにご馳走されたら、翌朝また会ったときに「昨晩はご馳走様でした」というのが日本の普通の礼儀だ。しかし、欧米人はそれをしない。そのかわり、食事の最中や終わりに、日本人の何倍となく礼を言ってほめます。「いってみれば礼の言い方が、日本人の場合は月賦払いで、むこうのは一度に現金払いというわけです」(P.86)

最後の章は、「これが英語で言えたなら…」<すぐに役立つビジネス用語集>で、とくに交渉(negotiation)に必須な言い方がたくさん載っている。これだけでも自分の身につければ、有用な武器となるだろう。たとえば、

「それはちょっとオーバーですね」 I think you’re exaggerating.
「値段については、折れ合ってもいい」 We are ready to meet you half-way regarding the matter of price.
「あなたとはどうも意見が合いませんね」 I just can’t see things your way.
「あいつは図々しい」 He (she) has a nerve.
「この契約はお互いのためになりましょう」 This contract will benefit us mutually.

こうした一つひとつに、簡単な解説がつく。それがまた簡潔明瞭で、しかも日本風と欧米との発想の違いを的確に教えてくれる。非常に有用である。さすが、日本人のビジネスマンや官僚を相手に、長らく教えてきた人だけのことはある。

実を言うと本書は、わたしが30年以上も前に、亡き父の書棚から借りたまま持っていたものである。大半は読んでいたのだが、今回、英国出張の機会に全部を読み直したので、書評を書くことにした。奥付の発行年は昭和53年。だから今では古書としてもなかなか手に入れにくい(Amazonでは書影さえないため、自分でとった表紙の写真をつけておく)。

こう書くと、「内容が古いんじゃないの?」「ブリティッシュ英語じゃ米国相手には使いにくいし」みたいな反応が、出てくるかも知れない。だが、著者も指摘するように、知的教育を受けた「頭のいい」日本人は、どんな教師教材にも何らかの批判点を見つけた上で、なぜか我流にカスタマイズし応用したがる。それによって、自らの知的優位性を確保したいのかもしれぬ。誰か他者のいうことを、そのまま受け入れて真似るのは、沽券に関わると思っているかのようである。

しかし、著者も引用する独語学者・関口存男氏の言葉にもあるように、言葉の習得というのは、ザルで水を汲むようなものである。最初は、すべて流れ落ちて、何も残らない。しかし辛抱して何百回、何千回とすくっていると、いつかはザルに苔が生え、ザルの目がつまってくる。そうしてはじめて、水をすくえるようになるのである。何かスキルを学びたかったら、良い教師を得て、原理原則を学び、あとは繰り返し練習するしかない。そこには知的背比べゴッコの入る余地はない。

すべて無益な教科書というものはない。有益にできるかどうかは、読んだ後の行動にかかっているのである。


# by Tomoichi_Sato | 2018-06-24 19:24 | 書評 | Comments(0)

エンジニアリングと技術とインテグレーションと

以前、「英国史上、最も偉大な技術リーダーに学ぶべきこと」https://brevis.exblog.jp/24622591/(2016-08-28)と題する記事で、イザムバード・ブルーネルのこと書いた。19世紀前半のイギリスで活躍した、傑出した技術者だ。たまたまロンドンに来る用事があったので、ブルーネルが作ったパディントン駅を見た。とても美しく、かつ機能的な、優れた建物である。改良の手は入れているだろうが、建築物としての骨格は、おそらく最初のままだと思われる。実物を見て、あらためてブルーネルという人の天才的なセンスを感じた。
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そのパディントン駅から多少歩いた公園・ハイドパークの南側に、「アルバート記念碑」が立っている。大英帝国の最盛期を作ったビクトリア女王が、亡き夫君のアルバート公を記念して建造を命じた、巨大なモニュメントだ。こちらはネオ・バロック様式で、すごく美的だと思うかどうかは、見る人の感受性による。

ただし、この記念碑は、あるはっきりした主張・テーゼを表現している。それは、大英帝国が支配する4大地域と、帝国の国力を支える4大産業で、それぞれがグレコローマン風の彫像群によって表現されている。帝国が支配し、あるいは強い影響を及ぼす4代地域とは、(1)ヨーロッパ大陸、(2)アジア大陸、(3)アフリカ大陸、(4)アメリカ大陸、である。ま、七つの海を支配する人たちの発想というのは、こういうスケールなのだろう。この彫像群は、記念碑の四隅の外陣を守っている。

ところで、帝国を支える産業として、19世紀中盤に彼らが選んだのは、以下の4つだ。これらが記念碑の内陣を支えている:
(1) 農業 Agriculture
(2) 商業 Commerce
(3) 製造業 Manufacture
(4) エンジニアリング Engineering
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今の日本なら、何を選ぶか。あるいは'90年頃の「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と自ら酔っていた頃なら、何を選んだか、ちょっと考えてほしい。製造業はまあ、入るだろう。農業は、微妙だ(今やGDPの数%しかない)。ただ、賭けたっていいが、4つの中に「エンジニアリング」が入る気づかいは、ない。皆無だ。

エンジニアリングとは何だろうか? アルバート記念碑についての観光案内を読むと、エンジニアリングではなく「工学」と書かれていることがほとんどだ。だが、工学は学問の一部であって、産業の呼び名ではない。だからここは、「エンジニアリング」との表記にこだわりたい。ほかに、適切な訳語が、日本語にはない。

いや、日本語だけではない。エンジニアリングに対応する欧州の言葉は、ドイツ語ならIngenieurwesen、仏語ならingénierieで、まあはっきり言うと、英語からの派生である。Engineeringという概念それ自体が、英国生まれ、英国の産物なのだ。

エンジニアリングとは何か。長年「専業エンジニアリング会社」に勤めてきたわたしでも、一言で言うのは、簡単でなない。でも強引に縮めて表現するなら、「科学の発見・発明を、具体的な形に構築し実現する仕事」だといえよう。出来上がった装置や機構、あるいは巨大なプラントなどは、利用者が使う。エンジニアリングの仕事は、それを作り上げるところまでである。

エンジニアリングの中心的な業務は設計だが、設計図だけでは仕事は終わらない。資機材や部品を調達し、組み上げ、設置しテストし運転が可能であると確認するところまで、全てを含む。

エンジニアリングは技術を中心とした仕事である。ただ、その「技術」という言葉がどこからどこまでを指すのか、またどこに価値の源泉があるのかは、案外理解されていないように思う。

たとえば、構築対象物の斬新な基本設計は、たしかに価値ある技術である。ブルーネルの革新的な広軌鉄道や蒸気船(復水器を取り入れて長期航路を可能にした)から、現代の電気自動車EVまで、そこには発想の飛躍ときらめき、創造性があり、誰にも分かりやすい。そして基本設計は、主に用途(IT風に言うと機能要件)と、性能値を目標として行われる。

これに対し、詳細設計はもっと地味な仕事だ。だが、技術は細部に宿る。鉄道を広軌にしたら、トンネルの掘削量は倍増する。長航路の船は巨大な構造を力学的に支えなければならない。ブルーネルはそうした工法・製造法(=実現法)の工夫も怠らない。もちろん、作業に当たる従事者と利用者の安全性確保も含む。こうした点は、科学法則と、運用上の経済的・社会的要請の両方を、複眼的にとらえる必要がある。そこをきちんとおさえないと、技術は社会で実用化できない。

あるはまた、わたしになじみの深い天然ガスの液化プラント(LNGプラント)を例にとろうか。基本的な原理は単純だ。天然ガスを冷やすと、液体になる。冷やすのには、冷蔵庫と同じ原理を使う。いたく単純である。だが、超低温・高気圧に耐える熱交換器や調節弁、大出力のガスタービン駆動圧縮機などを含むプラント一式を、安全にかつ安定して運転できるよう組み上げるためには、機械・電機・制御・化学・土木・建築など様々な分野での、詳細設計が必要だ。それらが、さながらオーケストラのように協調しあって、はじめてプラント・エンジニアリングという仕事が達成できる。少数の天才がいれば成り立つ仕事ではない。

そして、詳細設計や実装においては、安全性・安定性・信頼性・保守性・・といった、いわゆる「非機能要件」を満たすことが重視される。だから、「傑出した技術力」のためには、独創的な基本設計の能力だけでなく、実装の経験を、設計にフィードバックし、その改良ループを回して進化するような能力が必要とされる。

事実、ブルーネルの仕事はそうだった。かれは基本設計にも長けていた。他人の独創的な仕事を大胆に取り入れ、組み合わせることも上手だった。彼は大学を出ていなかったが、しかしきちんと科学計算の裏付けをとって設計した。そして、工事まですべて手掛けて、数々の偉業を実現したのだ。

ところで、ブルーネルが没してから150年がたった。では、現代の英国で、彼の偉業をついで、技術の進化をリードしているのは誰なのか? 英国はいまだに、世界のイノベーションの先陣を率いているのか? いや、もっと端的に言おう。あなたは、英国企業から、次の自動車でもいい、飛行機でもいい、あるいはパソコンでもいい、新製品を心待ちにしている物が何かあるだろうか?

もし、あまり見当たらないのだとしたら、この国はどこかで、技術におけるリーダー精神を失ってしまったのだ。だが、それはどこで間違ったのか?
(まあ、こんなことを書いたら、皮肉な英国人から「次のイノベーションが待ち遠しい日本のIT企業は、どこかな?」と逆襲されるかもしれないが・・)

わたしは、英国人のお得意な『専門化と細分化』が、彼らの技術開発力を奪ったのではないか、と疑っている。当地の知人によると、ロンドンには本当にありとあらゆる種類の、細部化された領域を得意とする専門家やコンサルタント達がいて、顧客のどんなニーズにも対応できるという。それはエンジニアリングの分野でもそうだし、金融や法律といった分野もそうらしい。

そのような専門分化において、彼らはさらに、一種の規制や障壁を立てる。土木建築分野における、「設計・施工分離原則」がその一つである。設計・施工分離の原則とは、設計者が建設工事をも請け負ってはいけない、という規制だ。したがって、設計は設計事務所が行い、建設(実装)は工事業者が行う、という風に分業している。見積積算は、さらに第三者のQSと呼ばれる人たちが行う。

このような原則は、19世紀後半に、英国で都市が急拡大し、建築ブームが起きた際に、あちこちで手抜き工事が発生した反省によるものだと、聞いたことがある。それまでは(つまりブルーネルの時代には)、設計者と施工者は一緒で構わなかった。しかし、手抜きや見積での嘘を防ぐため、設計→見積→工事という仕事を、異なる企業間に分断して、互いにcheck & balanceが働くような仕組みにしたのである。まことに英国的な発想ではないか(憲法だの三権分立などの社会統制原則も、かなりが彼らの発明だ)。

ちなみに日本では、官庁工事などがこの原則に従っている(日本は明治時代に、建築技術を英国からならった)。だが、民間工事では設計施工一貫の例も多く、事実、日本のゼネコンはかなり高度な設計能力を持っている。ところが、英米の工事業者は基本的に、設計機能を社内に抱えていない。

しかし、このように設計と施工を分離した結果、何が起きるか。建設工事の現場で、設計に起因した施工の難しさが生じたとき、その教訓が設計側にあまりフィードバックされにくい、ということだ。なぜなら別会社だからだ。さらに、新しい施工方法を開発して、そこからさかのぼって設計法を生み出す、という動きも働きにくい。

設計・施工分離原則は建築業界のことだが、他でも類似したことが起きているのではないか。たとえば石油ガスのプラント・エンジニアリング業界では、'80年代以降、基本設計と、詳細以降が別フェーズに分割することが普通になった(ただし同一エンジ企業が請け負うケースもありうる)。そして、かつては英国にも優れたエンジ企業が存在していた。だが、今やその多くが買収されたり解体されたりして、米国企業などの傘下に入っている。今でも英国の企業は、まあプラントの基本設計はうまいが、詳細設計・調達・建設工事を含めたプロジェクト全体をまとめる「技術のオーケストラ」機能が弱い。

こうした、いわゆる『分業病』の弊害については、英国人も気が付いているのだろう。だからこそ、マネジメントの必要性の認識が強いのだと思う。それも、専門性のないゼネラリストをマネージャー職に就けるのではなく、マネジメントのスペシャリストを育成する方向に進んでいる。まあ、優秀なオケの指揮者を育てようという訳だ。そして英国人は、マネジメントの体系化・システム化にたけている。PM分野でいえば、PRINCE2とか、Managing Successful Programme(MSP)といった英国の作成した標準は、米国PMIの同等のものより、実用的でレベルが高いと感じる。 

彼らは仕事をシステム化し、手順とアウトプットとメトリクスで動くように仕向ける。つまりプロセス(手順)を整備し、プロセス中心にする。すると、仕事から属人性がなくなる。誰でも60-75点を取れるようにすることが、システム化の目的だからだ。同時に、システムかは仕事をオーディット(監査)可能にする。冷静な第三者的オーディットこそ、英国人の得意科目なのだ。

このようなマネジメントのシステム化のメリットは大きく三つある。リピータビリティ(再現性)、ポータビリティ(可搬性)、スケーラビリティ(拡張性)だ。仕事が属人的でなくなれば、再現性が上がる(標準化できるともいう)。また、他の場所、他の国にも仕事を移しやすくなる。さらに、仕事のキャパシティを拡張しやすくなる。仕事が属人的だと、キャパを増強するにはキーマンを増やすしかなく、キーマンの育成にはひどく時間がかかるからだ。

そしてマネジメント・システムの上に、優秀なマネージャーを配置できれば、90点代の仕事もできるようになる。はずだ。

では、仕事をシステム化して、超優秀なマネージャーと、百の専門家たちで仕事を回すのがエンジニアリングの「インテグレーション」なのだろうか? 非常に大規模な仕事では、それしか方法がないかもしれない。部門間の自主的すりあわせと、「現場力」と、ブラックな労働環境のがんばりだけでは、仕事がいつ終わるのか、まったく読めないからだ。それよりは、ずっと良い。

ただ、このような発想に欠けているものが、ある。この英国式発想は、非常にプロセス中心の考えだ。インプットを、プロセスして、アウトプットする。頭文字をとって、IPOモデルともいう。仕事の効率化には、非常に役に立つ。英語風に言えば、"Do things right"だ。

問題は、プロセス志向の発想に、何をインプットしても、独創性が出てこないことだ。つまり"Do right things"が見えなくなる。そして、このことが、英国のエンジニアリング産業の限界を生んでいるのではないか。危険予測ばかりが目立つリスクマネジメント・システムの中で、冒険的な発想をためすことは困難だ。

独創性、そして進化のループは、分業化された組織の中に確保できるのか? たとえ技術のオーケストレーションが上手になっても、作曲家(基本設計者)と演奏者(実装者)が、分業したままでいいのか? 聴衆の本当のニーズを肌でつかんでいるのは、聴衆の前で演じる演奏家の方ではないか? 作曲のモチーフと、聴衆のニーズを、うまくマッチングしないと、本当にイノベーティブなものは出てこないのではないか?

そう。英国企業で、次の製品が待ち遠しい企業、わくわくして驚くような製品や技術を出してくるメーカーとして、唯一名前があがりそうなのは ダイソンくらいだろう。基本的には家電メーカーだが、ダイソンは確かに、誰も思いつかない、真にイノベーティブな製品を、出してくる。

創業者のジェームズ・ダイソン氏は、そういう意味で、現在ブルーネルの後継者の地位に一番近い人だろう。ダイソン氏は経営者ではなく、会社のCTOであり「チーフ・エンジニア」である。会社経営のマネジメントは、人に任せている。彼の作る掃除機、扇風機、ヘアドライヤーなど、いずれもまことに独創的で、かつ、美しい。

ダイソンは製造にもこだわっている。第一、精密で高性能なため、かなり自動化した製造ラインが必要だ。あの空洞型ヘアドライヤーは、毎分11万回転のモーターが中心になっている。この自動化製造ラインを作ったのは、前回の記事で紹介した、日本の平田機工である。よくありがちな英米企業のように、製造を安い受託製造業に安易に外部委託することもしない。かわりに、ダイソンは製品を高い価格で売る。高くても売れる製品を作る。

そのダイソンは今、電気自動車EVを準備しているらしい。布石に、蓄電池メーカーを買収したとも聞いている。どんな製品を出してくるのか、聞くだけでワクワクするではないか。これこそ、エンジニアリング技術の魅力でなくて何なのか。それが可能なのは、ダイソンが、単にマネジメント・システムと分業化思考だけでなく、基本設計から製造・販売まで、全部をインテグレーションする企業だからだ。

もちろん、ダイソン氏は傑出した技術リーダーだ。そうした、ビジョンを持ち、際立った力量を持つ人には、技術仕事の属人性を残し、インテグレーションの焦点になってもらった方がいい。実装まで任せて、細部にまでこだわってもらうべきなのだ。故スティーブ・ジョブズなんかも、実はそうだったのだろう。そして、普通の人、ないし、まあまあ優秀程度の人は、システムの中に組み込むべきなのだ。

一番ダメなのは、分業型組織のバケツリレーの中で仕事を回すことだ。全体ビジョンもなく、システムをマネージする人もいない。変化と進化のループも弱い(PDCAのAが、自分の分業の壁の中だけに留まる)。
結果として、その場しのぎだけが横行する。これが、ボトムの在り方だ。もしこんな組織に働いているなら、それを変えるか、脱出する努力を考えるべきだ。

英国は、エンジニアリング産業の父である。英国の技術の歴史は、欧州大陸や米国と比べても、独特である。英国の技術は、科学の単なる付属物でもなかった。金儲けの単なる道具でもなかった。科学に立脚し、お金も生み出すが、実用的でかつ、ユニークだった。それがだんだんと衰退していく姿を、わたしは見たくない。できればもっと、いい意味で驚かせてほしい。英国に学ぶべきこと。それは、「エンジニアリングとは技術のインテグレーションである」ということではないだろうか。


<関連エントリ>
 →「英国史上、最も偉大な技術リーダーに学ぶべきこと」 https://brevis.exblog.jp/24622591/ (2016-08-28)


# by Tomoichi_Sato | 2018-06-19 05:24 | ビジネス | Comments(0)

ラインビルダーとは何か、なぜ今、必要なのか

平田機工という会社を初めて訪れたのは、一昨年の夏だった。熊本の企業で、熊本市の本社の近くに、いくつもの工場が隣接・点在している。いや、本当は東証に上場している全国区の企業であり、年商はその当時すでに600億前後あったと思う。だが、3年前の熊本地震を機に、わざわざ本社を東京から発祥の地・熊本に戻していた。紹介いただいたのは、野村総研でサプライチェーンやロボティクス専門家として著名なF氏である。

平田機工は、業種分類的には、機械メーカーということになるのだろう。事実、自社で機械を設計製造している。だが、その本当の業態を表すならば、「ラインビルダー」という言葉がふさわしい。ラインビルダーとは、高度に自動化された製造ラインを、機械も制御もITも含め、丸ごと一式作って、顧客の工場に納める仕事である。

たとえば、あの米国の自動車会社GMの最新式製造ラインを、平田機工は熊本の工場で作っている。米国から技術者がきて、工場出荷前の立会検査を念入りに行い、それから機材をばらして米国に送るのだ。行って、自分の目で見て、仰天した。こんなことが日本の地方で行われているとは、ほとんど誰も知るまい。

自動車の製造ラインだけではない。加えて、半導体と、家電の製造ラインが、平田機工の三大得意分野だ。それも主要な顧客はすべて、海外の著名大企業である。英国の家電メーカー・ダイソンの新しい「ウルトラソニック」ヘアドライヤーの自動組み立てラインも、平田機工が作った(YouTubeに画像がある)。平田社長のところには、創業者ダイソン氏からも、故スティーブ・ジョブズからも、そして現在アメリカの自動車業界を大変にぎわしている某M氏からも、直接電話がかかってくる。この3人から直接、相談の電話がかかってくる人物など、日本の政財界広しといえども、他には居るまい。

平田社長によると、会社には営業マンは実質、3人しかいないのだそうだ。営業本部などというものは、存在しない。顧客がいわば門前に行列をなし、その中から好きな仕事を選べるからだ。それは、同社にしか作れない、非常にユニークな技術を多数持っているからである。事実、2~3年先まで、もう注文で仕事は埋まっているという。同じ受注ビジネスの世界に生きる者なのに、自社とのあまりの違いに頭がクラクラした。

そして、一括請負形態なのに、きわめて高収益である。いまでも返す返す残念なのは、このとき帰ってすぐ、同社の株を買っておかなかったことだ。たしかまだ5千円台だったのではないかと思う。今ではすでに倍以上である。東証で一番、過去数年間の株価上昇率が高い企業の一つなのだ。ただ、仕事の9割近くが海外で、国内ではあまり知られていない。本当に、知れば知るほど、不思議な魅力をもった企業である。

ところでその後、再度同社を訪問したわたしは、単なる一介の会社員であるにもかかわらず、上場企業の経営者である平田社長に向かって、研究会を立ち上げたいからご協力をいただけないか、とお願いした。ずいぶんと図々しい懇願だったにもかかわらず、快く応じてくださり、昨年夏から研究会組織化の活動が始まった。

平田機工に参加してもらって、いったい何をはじめたのか? それは、「次世代スマート工場の設計論」に関する研究会である。次世代、と名前につけたのは、現在の我が国の「スマート工場」には、いささか足りぬ点があると思ったからだ。それについては、先月、「『スマート工場』はスマートか?」(2018-05-26)に要点を書いたとおりだから繰り返さない。

そしてこの問題意識を、国に対し、つまり経産省に対してアピールしなければ、と考えた。研究会は民間の存在だが、わたし達の社会では、お上が何か言わないと、皆あまり聞く耳を持たない。

ところで、この動きはどうやら、とてもタイミングを得たものだったらしい。というのは、経産省自身が、日本の製造業のあり方に対して、かなり深い疑問=問題意識を持ち始めた様子だったからだ。

その問題意識は、この5月に発行されたばかりの、2018年版「ものづくり白書」に明瞭に表れている。こうした省庁発行の白書を読む習慣のない人は、多いと思う。だが、今年のものづくり白書は、非常に注目すべきである。過去に比べて、トーンが完全に変わったからだ。端的に言って、このままでは日本のものづくりは衰退する。その根本原因は、かなり根深い「思考習慣」にある、という危機感が、深層に流れているからだ。

(ちなみに「ものづくり白書」は書店でも購入できるが、経産省のサイトから無料でダウンロードできる)
2018年版ものづくり白書(PDF版)

白書は冒頭の総論で、「抜本的な変化を実現する上では、ビジネス全体を俯瞰して全体最適化を図るシステム思考の強化が」必須だ、といきなり述べる(P.2。以下、強調太字は筆者が引用時につけたもの)。

今日、景況が回復し売上増の傾向にありながら、我が国の多くの製造業は、納期遅れや品質問題にかなり苦しんでいる。なぜなら、製造現場で積み重ねてきた改善活動は、ものづくりに関わるバリューチェーン全体の中で、部分最適にとどまっているからだ。「個別の現場が主導する部分最適」は、しかし、「『現場力』の再構築を『現場』に丸投げ」した結果、生じたものだ。本来はそうではなく、「経営層主導により、バリューチェーン全体で全体最適化を図った現場力の再構築が重要」だと、白書は断言する。(P.86)

今年のものづくり白書の議論は、これまで「日本の現場力」を称賛してきた経済メディアなどの従来の論調と、完全に切れていることがお分かりになるだろう。

第1章3節で、白書はこう整理する。

 「過去:経営環境の変化が小さい時代 ⇒ 部分最適の積み上げが全体最適に」
 「今日:経営環境の変化が激しい時代 ⇒ 部分最適を積み上げても全体最適とならない」(P.170-171)

そして、「システム思考、及び学問としてのシステムズエンジニアリング(システム工学)習得の強化が求められる」(P.169)とも書く。

なんだか、まるで誰かさんのブログを読んでいるようだ(苦笑)。

また、「経営資源としての『データ』の重要性は著しく高まって」いるのに、「我が国においては、現在の状況を単に2000 年前後のIT ブームの再来と受け止める向きも一部には存在するなど、必ずしも、デジタル化のもたらす本質的な産業構造、社会構造へのインパクトが理解されていない」(P.3)という。

人材不足は昨今の課題だが、「人材育成で成果があがったとする企業においては、(中略)自社でIT人材を育成する割合が高い」(P.4/P.205)など、驚くべき指摘ではないか。別にIT業界の話を書いているのではない。ものづくり企業において、全体として人材育成が進んでいる会社は、自社でIT人材をも育てている所なのだ。

総論の中ではもう一つ、大事なことが書かれている。
「技術革新のスピード、課題の複雑化などが進む中、いわゆる『自前主義』の限界が露呈しており、全てを『競争』領域として捉えることなく、『協調』領域の拡大により、真の『競争』分野への投入リソースの集中を行うことが求められてきている」(P.3)

「競争領域と協調領域」という用語は、経産省が以前から使っていた言葉だ。日本企業はすべてにおいて互いに競争するのではなく、共通性の高い業務部分は、外部化することによって、コアの競争領域に経営資源を投入すべきだ。また外部化によって、最新の技術や知恵も利用できるようになる、と。

これは、工場における生産ラインづくりにおいても、言いうることだ。

そして、その文脈の中、第1章3節で、わたし達の「次世代スマート工場の設計論」研究会の成果も紹介されている。(P171~172)

研究会での議論の成果のうち、白書で特に強調されているのは、我が国に「ラインビルダー業界」を確立すべきだ、との提言部分である。つまり、工場づくり、あるいは生産ラインづくりを、協調領域として、もっとアウトソースするように考えるべきだし、その受け皿として、平田機工のようなラインビルダー企業をもっと認知し育てるべきだ、との提案である。

日本には、ロボットメーカーや工作機械メーカー、制御システムベンダーが多数存在し、かつ世界的にも技術レベルが高い。これらは、すべて生産ラインを構成する重要な要素、あるいは部品である。しかし、それを組み合わせて高性能な生産ラインを構築し、さらに工場全体を作り上げる「生産システムズ・インテグレーター」というべき企業は少なく、業界団体も存在しない。最近ようやく「ロボットシステム・インテグレーション協会」が立ち上がるようだが、わたしが以前指摘した「インテグレーター不在という深い谷間」は、まだまだ埋まっていない。そこで、あえてラインビルダーという言葉で、その社会的必要性をハイライトしたのである。

なお、「ラインビルダー」という言葉は、2年前のものづくり白書にも登場したが、どうやらこれは和製英語らしい(少なくとも欧州ではあまり通じなかった)。また、2016年版白書の記述を読むと、どちらかというとMESレベルの情報系インテグレーターを指している印象がある。しかし、ここでわたし達が言っているのは、もっと具体的・物理的な機械装置も含む、インテグレーションである。

日本の工場づくりには、大きく三つの問題点がある、とわたしは考えている。
(1) 空間・レイアウト・環境制御に関する考慮が足りないこと
(2) ITのインテグレーションが欠落していること
(3) 生産のスケーラビリティ(拡張性)・ポータビリティ(海外移植性)を最初から考慮して設計していないこと

上記の問題については、個別にこのサイトで触れてきたから、ここではあえて繰り返さない。しかし、それらを生み出した根本問題がある。それは、製造業における生産技術部門の弱体化である。いろいろな有識者の意見をきくと、どうも10年前のリーマンショックがきっかけで、日本の製造業は大幅に生産技術者を切ってしまったらしい。そのツケが、好況になってきた現在に、回ってきたのである。

結果として生まれたのが、全体性(システム思考)の喪失、縦割りと分業病だろう。そして、このトーンは上記の白書の記述とも合致している。むろん、もっとさかのぼれば、工場の成長と改善を担う中核の生産技術の役割を、十分理解せずに切り捨ててしまった経営者の側に責はあるのだが。

いずれにしても、今から急に生産技術を社内に再建する時間はない。だから、工場づくりの「自前主義」からの脱却こそ、解決策である。そしてアウトソース先としての、ラインビルダー業界の確立と認知が、急務であろう。これがわたし達の提言だ。

まあ、工場自前主義の脱却といっても、まだ社内にたっぷり人を抱えている超大手は別である。ここでは主に準大手・中堅企業を考えている。だが、大手でも、他社の知恵をまなぶべきときに来ていると、わたしは思う。白書にも引用されている図を見てほしい。製造業にとって、集中すべき「競争領域」は、本当に核となる自社製品の製造技術と、そのための人材育成である。それを支える周辺要素、すなわち物流・建築・ITシステムなどは、業種をまたいで共通性が高い「協調領域」であって、アウトソースする方が効率性がいい。
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そして、協調領域の要素を提供できる企業は、すでに日本国内に多数存在しているのである。それをまとめるインテグレーション業界が、必要なのだ。それがラインビルダーである。加えて言うと、こうしたラインビルダー的なビジネスは、顧客の個別要求とのすり合わせが必要とされる。相手の要望を聞き、まじめに構築する仕事だから、じつは日本人に非常に向いている。だから、ラインビルダーは新しい輸出産業となる可能性さえ、秘めているのである。

え? そもそも工場なんて自分で持たず、製品開発に特化したファブレス企業になり、製造はコストの安い中国あたりに委託する方がいい? スマイルカーブが示すように、製造などそもそも、お金の儲からない仕事だから、それが一歩進んだ製造業の経営戦略だって?

やれやれ。「スマイルカーブ」論は、さかのぼると、じつは台湾の受託製造業者が言い出した、マーケティング用の概念である。それを日本のメディアや外資系コンサルあたりが、普遍的真理であるかのように持ち上げるのは、どうかと思う。スマイルカーブが成立するのは、ある特定の条件が成り立った時だ(この話は始めると長くなるので、別の機会にしよう)。ただ、ものづくりと自社製造が本当に儲からないかどうか、ためしに冒頭にあげた平田機工の例を見てみたらどうか。

今わたしはこの文章の最後の部分を、ドイツのハノーバーに向かう飛行機の機内で書いている。海外の製造業の進展状況を見聞きするにつけ、日本の製造業が技術的にリードできる時代は、もうあまり残されていないと、よく感じる。我々に残された最後のチャンスを、できるだけしっかりつかむためにも、ラインビルダーという名のインテグレーター達が育つことを、心から願っている。


<関連エントリ>
 →「『スマート工場』はスマートか?」 https://brevis.exblog.jp/27295851/ (2018-05-26)
 →「『インテグレーター不在』という深い谷間」 https://brevis.exblog.jp/27172645/ (2018-04-01)


# by Tomoichi_Sato | 2018-06-09 23:56 | 工場計画論 | Comments(0)

ミニレビュー:二日酔いの防止サプリ「よいとき」


お酒に弱いたちである。お酒を飲みながら人と談笑するのは、けっこう好きなのだが、あいにくわずかな量のお酒でも顔が真っ赤になってしまう。経験的に、自分の許容量は生ビールをジョッキに1杯と、あと焼酎等の蒸留酒を1杯程度だと思う。

ところが、いったんお酒を飲み始めてしまうと、自制心が緩む(苦笑)。そしてつい、自分の許容量超えて飲み過ぎてしまう。翌朝は二日酔いの頭を抱えて、自分の愚かさを反省することになる。そして、お酒に強い人はいいなぁ、と内心羨んだりする。

キューピーの研究開発部門の方から、同社が開発した製品「よいとき」のことを聞いたのは数ヶ月前だ。この製品は、酢酸菌から抽出したアルコール分解酵素と、アルデヒド分解酵素が主成分になっている。

知っての通りアルコールは体内で、アセトアルデヒドを経て、酢酸に分解される。このアセトアルデヒドが曲者で、二日酔いの主原因になる。「よいとき」という製品は、このアルデヒドとアルコールを分解する作用を持っている。錠剤型のサプリになっていて、一袋2錠がワンセット、1回分である。

「よいとき」を服用するのは、お酒を飲む前でも、飲んだ後でもいい。ただ、あまり遅くなったり、翌朝になったら、手遅れだ。二日酔いを防止するのであって、「治す薬」ではないからだ。「飲み忘れないように、最初の乾杯のときに服用するといい」というアドバイスもあった。また、これを服用しても、お酒に酔わなくなる訳ではない。飲んだ翌朝が楽になる、というのが主効果である。

ともあれ、最近はつき合いで宴席に呼ばれたら、必ず服用するようにしている。そして、自分の主観的な評価だが、たしかに夜中の眠りが深くなり、翌朝が楽になったように感じる。「ウコンの力」などの他のサプリの多くは、肝臓を活性化する働きのものだから、一緒に服用することもできる。大手のコンビニでも売っている。

同じようにお酒に弱い人には、おすすめできる商品だ。


# by Tomoichi_Sato | 2018-05-31 21:12 | ビジネス | Comments(0)

「スマート工場」はスマートか?

先日、大阪で日本学術振興会の「プロセスシステム工学143委員会」という名前の会合に参加し、スマート工場に関する短い講演を行った。日本学術振興会には、産学協力のための研究委員会というのが多数あり(https://www.jsps.go.jp/renkei_suishin/index2_2.html)。プロセスシステム工学はその中で143番という番号になっているので、関係者は頭文字をとって「PSE143委員会」と略称で呼んでいる。

プロセスシステム工学といっても、なじみがない読者も多いと思う。これは化学工学の一領域である。『化学工学』(Chemical engineering)とは、化学プラントの設計論を研究する工学である。そのうち、『プロセスシステム工学』とは、プラントの全体システムの設計と制御に関わる技術分野だ。わたし自身も若い頃はその分野に携わっていたが、すでに実務から離れて随分経つ。それなのに久しぶりに呼ばれて講演などをしたのは、今回の議論のテーマが「スマート化技術で変わるプラント・工場」だったからだ。

「スマート化技術」とは何か。それが今回のテーマだが、先に少しだけ、化学産業に関連する話題に触れておく。

今回の委員会では、わたしを含め3人の講演があった。わたし自身の講演タイトルは
次世代スマート工場の新しい設計手法 ~ 生産システムズ・エンジニアリングを目指して ~
で、最近の組立加工系の工場に起きている新しい技術的な流れについて、紹介するものだった。その上で、過去10年ほどの間に起きている、日本の化学産業の大きな構造的変化についても触れ、今後の化学プラントの設計手法も変わって行かざるをえないだろう、と言うお話をした。

その変化とは、簡単にいって、大量生産的なバルクケミカルから、多品種化した機能性素材に、日本の大手化学企業の収益源が移っていることだ。扱う製品が流体から固体に変わり、さらに生産形態が大量見込み生産から、少量多品種の受注生産にシフトしている。この変化は過去15年ほどの間に顕著になった。このことが化学工場の操業のあり方にも、設計のあり方にも、大きなインパクトを及ぼすだろう。しかし従来の化学工学・プロセスシステム工学は、その変化の準備が十分できていないように思われる。

化学産業は下流への進出とともに、離散的な『ディスクリート・ケミカル』というべき生産システムへと変貌していく。その工場の操業の中心には、MES/MOMの発展系として、『中央管制システム』が来るだろう、とわたしは予測している。その上で「ディスクリート系にも適用できる、新しいプロセスシステム工学が望まれる」と話を結んだ。

この話が、参加された委員諸賢にどれほどアピールしたかはわからない。

一般の組み立て加工系の機械工場では、機械装置などにセンサーや通信機能を取り付け、状態監視や予防保全に活用すると動きが数年前から活発になっている。またロボットを導入して、人手の作業を極力自動化したり、AIでパターン認識を活用する動きも盛んだ。こうした動きを総称して、「スマート工場」とか「スマート化技術」とよんだりしている。高度な連携制御やMES(製造実行システム)の話題も増えてきた。

しかしそもそも、化学プラントの世界では、機械装置や配管のそこかしこに、流量計や圧力計などのセンサーを設置して、その信号を中央制御室に持ち込み、原料や製品の状態をリアルタイムに監視統制する仕組みを、もう何十年も前から実現している。センサーと制御システムは、ベンダーが違っても通信できるのが当たり前で、誰もつながるかどうかの心配などしない。人手による作業も極端に少ない。

そのような意味では、機械加工組立て系の分野が、ようやくプロセス産業のプラントに、工場のスマート化の面でようやく追いついてきた、とも言える。AI技術の活用については、化学系でもまだまだこれからだが、それはどの産業にとっても似たり寄ったりの状況であろう。

ではなぜ、今さら化学産業でスマート化技術についての討議が行われるのか? それは端的に言って、スマート化と言う言葉が流行語のように技術の世界を席巻しつつあるからだ。

しかし、わたしの知る限りでは、『スマート』の公式の定義は、存在しない。

ある調査によると、スマート工場に関連する研究論文数は、2014年ごろから急激に増えている。これはドイツが2013年に、「インダストリー4.0」を推進する白書を公開したことが、きっかけになっていると思われる。この白書の中には、スマートな機械とスマートな製品、との概念が二本立てで出てくる。

ところで、「スマート工場」とか、スマートな製造など言葉の源流をたどっていくと、「スマートシティ」という言葉が先行したいることに気づく。

では、スマートシティという概念が生まれるきっかけは、何だったのか? それは、実は「スマートメーター」だった。それまで、各家庭に据え付けられていたのは、単純な電力計、あるいは水道やガスの流量メーターだった。そうした電気式・機械式のアナログメーターに、小さなチップが装着され、計量した結果を蓄積したり、通信で報告できる機能を持つようになった。これがスマートメーターの始まりだ。

スマートメーターは、確かに従来の単なる計測メーターに比べれば、スマートだろう。ではスマートシティーとは、従来の都市に比べて、どこがスマートなのだろうか。

繰り返すが、「スマート」という言葉には、広く受け入れられた学問的定義があるわけではない。みんな思い思いの意義づけを込めて、勝手に使っているのだ。

単純なアナログの機械や計器にチップをつけてデジタル化し、記録や通信機能をつけることを「スマート化技術」と呼びたい気持ちは、よくわかる。そうなった機械は、古い機械よりもスマートではある。あるいは、単なる据え置き型の工作機械よりも、カメラの視覚センサーを備え、多機能的に動くロボットも、たしかにスマートではあろう。だからロボットを導入することが、スマート化技術だという。たいへん結構。

だが、一つおうかがいしたい。産業ロボットは、本当にスマートなのだろうか?

鉄腕アトムほどの知能を誇るなら、確かにスマートだといえよう。だが鉄人28号のように、リモコンで人が操作するだけならば、上手に使わない限りスマートとは言えない。

昨年見学した、ある工場を思い出す。そこでは双腕ロボットを何台も並べて、ある精密な計量的作業にあてていた。双腕ロボットは、胴体に両手がついていて、なんとなくとても人間的に見える。そして賢そうだ。だが、工程をしばらくじっと見ていると、一つの動作中に動いているアームは、つねに1本だけなのだった。一緒に行った機械屋が、「これって、何で双腕ロボットを使っているんでしょうね」とつぶやく。かりにロボットがスマートだとしても、そこの双腕ロボットの使い方は、ちっともスマートに思えなかった。

スマートとは何か。それを知りたければ、「スマートでないもの」を考えてみると、多少のヒントになる。そして、ここでは道具や機械などの単体ではなく、人間をその要素に含む仕組み、すなわち「第2種のシステム」(法政大・西岡教授の命名による)のふるまいを対象に考えてみよう。工場などは、典型的な第2種のシステムである。

スマートではない、とは、たとえばこんなことである:

(1) 現状が分からない:ふるまいの全体状況が、リアルタイムでわからない。例えばドアをバタンと閉めて部屋の外に出てしまうと、中で何が起きているか、働いているか止まっているのかすら、わからない。これではスマートとは、言えない。

(2) 過去は忘れる:過去のふるまいの記録が残っていない。あるいは、記録は残されていても、簡単に検索や分析ができない。これではスマートとは、言えない。

(3) 先を予見しない:先にどうなるかを予見しないで、ふるまう。そんなことをすれば障害につきあたるのは明らかなのに、やってしまう。そんなことをすれば障害にぶち当たるのは明らかなのに、やってしまう。これではスマートとは、言えない。

(4) 目的意識なく、受動的で後手後手:主体的な意図や、目的意識を持つことが、スマートさの1つの条件であろう。リモコンで命じられたかのように受動的で、ただその場その場で降りかかるリクエストに、後手後手で応じているだけでは、スマートとは言えない。

(5) 問題に気づかず放置する:何か局所的に問題が生じても、全体としてそれに気づかず、放置されたままになってしまう。あるいは正常であるかのように、ふるまいが続く。その結果、当然ながら解決に時間がかかり、影響がさらに波及してしまう。これではスマートとは、言えない。

(6) 価値に結びつかぬ無駄な動きだらけ:先ほどの双腕ロボットの例のように、立派なリソースを持っていながら、価値を生み出すような働きは何もしない。立派なリソースを持っていながら、価値を乱すような働きは何もしない。ムダについては、世の中に言説がたくさんあるから、これ以上は深入りしないが、無駄なふるまいは明らかに、スマートとは、言えない。

(7) 学びの枠が狭く、似たような失敗を繰り返す:経験に学び、そこから改善すること。あるいは先人の知恵や技術に学び、それを自分のふるまいに活かすこと。これが賢さの源泉である。ところが、「学び」の枠組みが狭く、視野や注意が固定されてしまうと、自分の失敗から上手に学ぶことができない。そして似たような失敗をくりかえす。こうした例を、周囲で見かけたことはないだろうか? これではスマートとは、言えない。

以上の7点について、反対概念を考えてみると、スマートさの中核が見えてくる。それは、次のようなことだ。

1. 現在を正確に把握
2. 過去を記憶
3. 将来を予見
4. 意思と目標を実現すべく計画
5. 問題にすぐ気づき解決する
6. 無駄なことはしない
7. 経験から学び、学びの枠を柔軟に拡げる

一言でまとめるなら、「全体を考えて判断し、自律的にふるまう」である。こうした人がいれば、賢い人だと思うだろうし、こうした仕組みを見たら、スマートだな、と感じる。

こうした基準を元に、たとえば工場ならば、「指示のスマートと実行のスマート」、あるいは「機械のスマートと、製品(もの)のスマート」といったテーマを敷衍することができる。が、例によって長くなってきたので、また別の機会に書くことにしよう。

「全体を考えて判断し、自律的にふるまう」のだから、部分部分が自律的でも、全体を見て判断できる仕組みがなければ、スマートとは言えない。つまり部分的なスマートを積み上げたって、全体がスマートになりはしないのである。そして、たとえ全体を見て判断する仕組みがあっても、自律性、すなわち自分自身のビジョンがなければ、やはりスマートとは言えない。

こうしたことを含めて、あらためて「スマートさ」を考え直すべきときに来ているのではないだろうか?


# by Tomoichi_Sato | 2018-05-26 11:24 | 工場計画論 | Comments(1)

「プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会」(6月7日)開催のお知らせ

各位:

「プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会」の2018年第3回会合を開催いたします。

今回は、ギルドワークス(株)代表の市谷聡啓様に、アジャイル開発プロジェクトについてご講演いただきます。

2001年に米国で「アジャイルソフトウェア開発宣言」が発議されてから、すでに17年がたち、アジャイル開発は日本のIT業界でも、かなり広く認められる手法となりました。とくに開発・実装の仕事に直接関わる人たちからは、大きな期待が寄せられています。またPMIが昨秋発表した「PMBOK Guide」第6版は、「Agile Practie Guide」との合本の形で発売され、米国のプロジェクト・マネジメント分野でも重要性が増していることが分かります。

しかし、多くの利点にもかかわらず、現実のアジャイル開発は様々な障壁やチャレンジに直面し、また不振なプロジェクトの事例を耳にすることも出てきました。その理由にはソフトウェア技術的な面から、日本におけるIT業界の構造・慣習の面まで、いろいろあるようです。IT業界がたまさか活況を呈し、人手不足も語られる今日、アジャイル開発の賢い進め方について、この分野でエヴァンジェリスト的に活躍される市谷様からお話を伺います。ご期待ください。


<記>

■日時:2018年6月7日(木) 18:30~20:30

■場所:場所:三田キャンパス 研究室棟B会議室(1F)定員:36名
※キャンパスマップの【10】
HPの下部にキャンパスマップがございますので、ご確認ください。

■講演タイトル:
アジャイル開発の実際

■概要:
 改めてアジャイル開発とは何か。そして、日本の現場ではどのように実践されているのか。
プロジェクト、プロダクト開発の運営の観点から、アジャイル開発の実際についてお話ししたいと思います。

■講師:ギルドワークス株式会社 代表・株式会社エナジャイル 代表   市谷聡啓(いちたに・としひろ)

■講師略歴:
 サービスや事業についてのアイデア段階の構想から、コンセプトを練り上げていく仮説検証とアジャイル開発の運営について経験が厚い。プログラマーからキャリアをスタートし、SIerでのプロジェクトマネジメント、大規模インターネットサービスのプロデューサー、アジャイル開発の実践を経て、ギルドワークスを立ち上げる。それぞれの局面から得られた実践知で、ソフトウェアの共創に辿り着くべく越境し続けている。著書に「カイゼン・ジャーニー」、訳書に「リーン開発の現場」がある。

■参加費用:無料。
 ちなみに本研究部会員がスケジューリング学会に新たに参加される場合、学会の入会金(¥1,000)は免除されます。
 参加を希望される方は、確認のため、できましたら当日までに三好副幹事までご連絡ください。

 以上、よろしくお願いいたします。

佐藤知一@日揮(株)

# by Tomoichi_Sato | 2018-05-19 18:49 | プロジェクト・マネジメント | Comments(0)

ミニレビュー:Lenovo Bluetooth Touch Mouse N700

Lenovo Dual Mode WL Bluetooth Touch Mouse N700 (Amazon.com)

(追記:ある方から、この並行輸入品のマウスは2.4GHz無線に関して、日本国内で「技術基準適合証明」を取得していないので違法ではないか、という指摘がありました。確かにその疑いが濃厚ですので、この記事は近いうちに削除します。Lenovo社には、早く日本国内でも正式販売してもらいたいと希望します。と同時に、旅行者は携帯使用が許されるのに、国内販売には独自の証明手続きが必要だ、という制度にも、素人ながら多少の疑問を感じる次第です)
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わたしの勤務先では、LenovoのNote PCが標準機だ。今年、軽量なタイプに変わったのを機に、マウスもコード型から、持ち運びやすい無線タイプにしたいと思い、個人で買ったのがこの製品だ。かってから1ヶ月ほど使ってみたので、レビューで紹介したい。

Bluetoothのマウスは、世の中にものすごく沢山、種類がある。値段もまあ、2千円程から1万円くらいまで、幅がある。その中から、あえてこれを選んだのは、いくつかユニークな特徴があるからだ。

(1) カッコいい
 まあ、じつに単純でミーハーな理由である(笑)。でも、よく持ち歩くモノは、やはりデザインが大切だ。PCと同じLenovoの製品で、色もスタイルもぴったり合っている。そして、マウス自体が、とてもスマートな形状である。真っ直ぐな状態のままだと、マウスには思えない。シガレットケースか何かのようだ。しかし、途中の部分をねじって回転すると、中央部分が三角形に持ち上がる。これもまだマウスには見えないが、つかんで動かしてみると、なかなか手になじむ作りだ。このデザイン性が、なかなか良い。

(2) 案外持ちやすい
 マウスとしては、ここが一番大事だ。軽いけれども、必要なだけの重さもあって、妙にぶれたりしにくい。それに、まっすぐな形状に戻すと、ポケットにも入れやすいから、持ち歩きに便利だ。これまで何年も、Note PCと一緒に有線式のマウスと、マウスパッドまで持ち歩いていて、つくづく面倒だった。今は、とてもすっきりしている。もちろん、カバンに入れても邪魔にならない。

(3) レーザーポインターにもなる
 このマウスはまっすぐな状態では、レーザーポインターとして機能する。マウスボタンは左右にあり、その真ん中には幅1cm足らずのスイッチがあって、マウスとして使っている場合は、ここが一種のスライダー機能を持つ。しかしまっすぐな形のときは、ポインターのスイッチに変わる。もちろんその際でも、左右のボタンは機能し、PowerPointのスライドの前後めくりに使える。わざわざマウスとポインターを別に持つ必要が無く、非常に便利である。

(4) Bluetoothと2.4GHz無線の2つの方式をサポートしている
 このマウスは、Bluetoothの他に、2.4GHzにも対応しており、そのために使う小型のドングル(PCのUSBポートに差す受信機)も付属している。わたし自身は普段Bluetoothを使っているのだが、他のBT未対応のPCとも接続して使える。そして、そのドングルは、このマウスの電池ホルダーの横のスペースに格納できるのである。こういう細かい配慮の行き届いている点が、デザインとして優れている。

(5) 電池はまあ持つ
 単4電池2本を内蔵するのだが、とりあえず1ヶ月は問題なく使えている。

(6) クリック音も低い
 クリック音はあまり気にならない方だと思う。クリックアクションも軽いが確実だ。すごく静音だというほどでもないが、あまりカチカチやかましいタイプではない。

(7) スライダー機能はやや動かしづらい
 あえて一つ欠点をあげると、ホイールに相当する中央部のスライダー機能の感度がやや低く、スクロールがやりにくいことだろうか。まあ、AppleのMagicマウスみたいに、やたら感度が高すぎるのも、使いにくくて不便だとは思うのだが。

中央の回転部分が、機械的にどこまで耐久性があるか、そこが購入した時点で一番心配なことだった。無論、まだ1ヶ月程度では分からないが、そんなに頻繁に回す訳でもないし、と思っている。値段はまあまあするが、とりあえず現時点では、買ってとても満足している製品である。ただ、わたしはこの製品、Amazon.comから並行輸入品を注文するしかなかった。なぜ日本国内で一般販売していないのだろうか? けっこう売れると思うのだが。


# by Tomoichi_Sato | 2018-05-15 23:15 | ビジネス | Comments(1)

プロジェクトの成功と、アウトカム

「自分がチャレンジする予定のプロジェクトでは、ゴール到達から成功失敗の判断まで半年かかることになっていますが、このような目標設定は適当ですか?」

今回は、この質問を取り上げよう。例によって、大学でプロジェクト・マネジメントの講義をしていた時、学生から出てきた問いである。そして、とても良い質問だ。

このときの講義のテーマは、「ミッション・プロファイリング」だった。この用語は、PMBOK Guideには出てこないので、なじみのない読者も多いかとは思う。プロジェクトにおけるミッション、すなわち使命を、その目的・ゴール及び目標(=成功基準)などの観点から、分析・定義し文章化する作業である。その結果がプロジェクト・チャーターになる。

授業では特に目標設定の大切さを学生に教え、修士論文や就活を題材に、プロジェクトとしての目標を考える、簡単な演習を入れている。さらに、自分がこれから将来関わるであろうプロジェクトの内容を考えて、そのゴール・目的・目標を、簡単なプロジェクト・チャーターの形に書かせている。上記の質問は、その中から出てきたものだ。

この学生はどうやら、新しい技術を使った製品開発のプロジェクトにチャレンジしようと考えているらしい。プロジェクトがゴールに到達し、すなわち製品が無事に開発完了しても、それが本当に世の中に受けられるかどうか、売れて経済的にペイするかどうかは、その後半年ぐらいしないとわからない。そういう状況下で、プロジェクトの成功基準は、どのように考えるべきか?

この質問を見て、私は3月に日経ビジネスオンラインが発表した、あるITプロジェクトの調査結果を思い出した。
プロジェクト失敗の理由、15年前から変わらずhttp://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/100753/030700005/?P=1
という記事で、著者は日経コンピュータの元編集長・谷島宣之氏である。サブタイトルに、「1745事例を調査、成功率は52.8%」とある。簡潔ながら要点をついた、良い記事であると思うので、読まれることをお勧めする。

この記事によると、日経コンピュータ誌が2003年に行った第一回の調査や、その後、数年おきに行われた調査結果から見て、日本では明確にITプロジェクトの成功率が上がってきていると言う。それ自体はとても重要で、良いニュースだ。「成功率が上がった理由の一つはプロジェクトにおける定量管理の普及だ」と記事は書いている。また、「失敗理由の筆頭はシステムの『要件定義が不十分』」というのも、うなづける内容である。

ところで、この記事における「プロジェクトの成功」とは一体どのように定義されているのだろうか? それは、「品質、コスト、納期の3点を順守できたか」である。品質をスコープに読み替えると、つまり『鉄の三角形』を守ることができたか、と問うている訳だ。

実は、この日経コンピュータ誌と同様な調査を、米国ではStandish Groupという調査会社が'90年代から継続的に行ってきた。1994年以来、3年おきに発表された調査レポートでも、プロジェクトの成功率が問われ、そして徐々にあがってきている。それはプロジェクト・マネジメントの普及による成果だと解釈されている。ちなみに、Standish Group の定義は次のようになっている。

Successful: completed on time, on budget, with all specified features.
Challenged: completed and operational, but over-budget, over time and with fewer features than specified.
Failed: the project is cancelled before completion or never implemented.

すなわち、品質・コスト・納期を計画通り満足して終わった「成功プロジェクト」と、完了したが 3 大制約条件を満たせなかった「困難なプロジェクト」、そして中断終了した「失敗プロジェクト」のクラスがある。2003年の調査では、成功プロジェクトの比率は34%だった。同じ2003年の日経コンピュータ誌調査では、日本の成功率は約27%だったから、日本は米国の後を追いかけている訳だ。

それはともかく、ここで問題にしたいのは、プロジェクトの成功を、コスト・品質・スケジュールの3点で定義していいのかということだ。それはいわば、プロマネ視点から見た成功、と言うことに過ぎない。鉄の三角形と言う大きな制約条件を満たした。それ自体は立派なことだ。だがプロジェクトとは、その成果物が価値を生み出して、初めて意義があるのではないか。

どんなに立派なシステムを開発しても、ユーザがちっとも使ってくれなかった。そういう事例は、しばしば起きる。立派な地方空港を建設したが、閑古鳥が鳴いている事例もある。「仏作って魂入れず」とは、まさにこのような状況だ。

プロマネの視点から見た、プロジェクト・マネジメントの成功だけで、プロジェクトの出来不出来を判断していいのか? ここが問われている。新製品の完成後、世に受け入れられるかどうかは、半年ぐらい経ってみないとわからない、という最初の学生の質問は、まさにこの点をついているのだ。

そこで必要となるのが、アウトプットとアウトカムの区別である。アウトプットとは、プロジェクトが直接生み出す成果物である。それは情報システムだったり、橋だったり地方空港だったりする。

では、アウトカムとは何か? それはプロジェクトの成果物を活用することでもたらされる、変化である。情報システムで生み出される、新しい業務プロセスかもしれない。橋がかけられたことで生じる、地域交通の活性化かもしれない。地方空港のもたらす、新しい経済効果かもしれない。
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図を見て欲しい。プロジェクトとは、インプットとして資機材等何らかのマテリアル、そして情報を受け取って、何らかのアウトプット=成果物を生み出す活動である。プロジェクト起動のトリガーとなるのは、何らかのオーダーなり受注であろう。プロジェクトを遂行するには、人々あるいは道具といったリソースが必要である。また、様々な要求事項や制約条件もあろう。途中段階や最後でのレポートも必要だろう。

アウトプットを生み出せば、プロジェクト自体は完了する。しかしビジネスとしては、その先に大事なステップがある。それは成果物を活用して、アウトカムを生み出すことだ。

このような構造を考えると、プロジェクトにはざっくりいって、2種類の成功があると考えられる。それは短期的成功と長期的成功だ。

プロジェクトの短期的成功とは、効率よくアウトプットを生み出すことである。プロマネ視点での成功といってもいい。これに対し、長期的成功とは、プロジェクトが価値あるアウトカムをもたらすことである。

英語ではよく、"do things right" と "do right things"という言い方で、この2つを区別する。Do things rightとは、ものごとを正しく(上手に)やること。Do right thingsとは、正しい(良い)ものごとを行うことを意味する。効率よく上手にやることが大切だが、価値あるものを作り出すことの方が、もっと重要だ。

これに関連して、KPIとKGIという言葉もあげておこう。KPI(Key Performance Indicator)とは、いうまでもないが、仕事のパフォーマンスを測るための主要なモノサシである。企業活動全体なら、売上高とか利益だとか総資本回転率といった尺度だ。何かをマネジメントしたかったら、対象を計測して数値化し、それを計画や過去の類似実績や標準値と比較し、改善活動を促していく。これが定石である。プロジェクト・マネジメントの場合ならば、進捗率だとか総工期などがあげられる。EVMS(Earned Value Management System)の中にも、CPI(Cost Performance Index)とかSPI(Schedule Performance Index)などの尺度が内蔵されているのは、ご存じの通りだ。

KGI(Key Goal Indicator)という言葉は、最近になってマーケティング、とくにWebマーケティングの分野で耳にするようになった。KPIが、途中のプロセスのパフォーマンスを表すのに対して、KGIはゴール=結果の(たとえば顧客の購買率などの)よしあしを直接示す、という風に使われる。

もしこれを、KPIはアウトプットに関するモノサシで、KGIはアウトカムに関する尺度だ、と解釈できるなら、上に述べた説明とちょうど合致する。ただ、KGIはそれを支える複数のKPIのツリー状になっている、という解説も見受けられるので、必ずしもそうもいいきれない。まあ、Webマーケティングとプロジェクト・マネジメントという異なる分野での概念なので、違っていても当然かも知れないが。

いずれにしても大事なことは、プロジェクトの成功・不成功は、そのプロジェクトが完了した時点だけでは必ずしも決まらない、と認識することだ。あるいは、プロジェクトの価値は、そのプロジェクトだけを見ていても定まらない、と言いかえても良い。もしもその「プロジェクト」が、単にアウトプットを出すまでの射程距離を指すのなら、ということだが。そしてプロジェクトの成功を本気で心配するならば、「プロジェクト後」をケアしなければならない訳だ。だから、「ユニークな製品、サービスあるいは所産」を創造するまでをプロジェクトの範囲と考えると、プロジェクトの価値論はそこから抜け落ちてしまうことになる。

仏を作って魂を込めたいならば、プロジェクト後のアウトカムの活用まで面倒見なければならない。また、活用しやすいアウトプットの要件を、最初に定義し設計することからはじめなければいけない。ここが肝要なのだ。「与えられた要件とSOWから、コスト・納期・品質の制約内で、成果物を効率よく生み出す」ことがプロジェクト・マネージャーのスコープだとすると、魂を入れる仕事は、その外側、ないし上位にある。

プロマネの上位にあって、プロジェクトの価値を本当に作り上げるのは、じつは『プログラム・マネジメント』の仕事である。プロジェクトを起動し、プロマネを任命し、途中途中でプロマネを助け、評価し、成果物を受け取り、それを元に組織能力を変えていくのも、プログラム・マネジメントの仕事だ。完成しても価値を生まない、意味の無いアウトプットを作ろうとしている問題プロジェクトに中止を命ずるのも、プログラム・マネジメントだ。

そういう意味で、わたしたちの社会で本当に足りていないのは、プログラム・マネジメントの方なのである。そこの欠落を、プロジェクトのレベルで何とか解決しようともがいているプロマネが、あまりにも多い。それはとくに、要件定義から成果物構築までの段階を、ほとんどすべて外部にアウトソースしてしまう、IT分野に著しい傾向なのかも知れぬ。

多くの人は、「プログラム」とは同時に複数のプロジェクトを束ねたものだ、と理解しているようだ(米国PMIの定義)。しかし、わたしは、たとえ単一プロジェクトでも、プログラム・マネジメントは成立するし、必要だと考えている。プログラムとは、組織が新しい能力を獲得して成長するために行う活動の仕組みである(英国MSPの定義)。つまり、組織としての成長への経路を、一歩一歩進んでいくのが、プログラム・マネジメントだ。だから、もしもプログラム・マネジメントを日本語で強引に表すなら、『成長行程管理』という言葉が適切かも知れないと、夢想するのだ。あるいは、『戦略行程管理』の方が受けるかな?


<関連エントリ>
 →「プロジェクトにとって成功とは何か ~ESC Lille PM Seminarより」 https://brevis.exblog.jp/8567708/ (2008-09-05)
 ・・10年も前の記事ですが、今回の話の原点は、ここにあります。


# by Tomoichi_Sato | 2018-05-07 23:21 | プロジェクト・マネジメント | Comments(0)

生産システム、そのパラダイム・シフト

「工場づくりが仕事です」と、よく自分のことを説明してきた。ときどき、「おたくの会社はプラント屋じゃないの?」といわれることもある。だが、英語でたとえばCar plantとは自動車工場であり、Plant Managerは工場長を指す。だから「プラント」と「工場」を区別するのは、日本独特の習慣だとも言える。

ところで、「工場」とは、そもそも何を指す言葉か? じつは、ここにいささかややこしい事情が生じる。というのも、工場とは、以下のような複数の意味合いで使われるからである:
・建物を指す場合(「工場建設」のように)
・組織を指す場合(会社組織図で、AA事業部の下に「aa工場」がある)
・機能を指す場合(「ウチの工場は納期が長くって」・・)
こうした問題があるため、工場を論じると、しばしば誤解や行き違いが生じる。まことに面倒である。

かりに、ここで工場を「生産機能」として括ったとしても、それでは、工場に製品設計の機能は含むのか、購買機能や物流出荷機能はは含むのか、という疑問が生じる。いや、工場と呼ぶからには、純粋に製造機能だけを指すべきだ、というご意見もあろう。しかし、「純粋な製造機能」だけを、はたして括り出せるのか。たとえば、部品保管や、配膳や、電気・水・ガス供給は、製造ではないのか? 等々。

そこで、わたし自身は、機能的な仕組みを表すとき、あえて「工場」ではなく、『生産システム』という言葉を使うことにしている。

(本サイトの読者には毎度の注釈で、くどいけど、「システム」とは『仕組み』を指す言葉である。コンピュータ・システムだけのことを指しているのではない)

では、生産システムとはどのようなものか。実際の工場には、機械加工もあれば組立もあれば化学も金属精錬も食品もある。すべて個性があり、ばらばらだ。それら全てに共通する「仕組み」なんて、あるのだろうか?

もちろん、ある。そうでなければ、たとえばドイツは「インダストリー4.0」なんてことを考えなかっただろう。ものごとの個別性・共通性は、相対的なものだ。林檎とオレンジは、まったく別物だともいえるが、木になる果実で、丸くて手にのるサイズだ、というレベルでは共通だとも言える。わたし達の文化はなぜか個別性にこだわりたがるが、西洋文化はわりと抽象化思考を好む。

そこで、「生産システム」についても、かなり抽象化したレベルでの、共通モデルを示すことは可能だ。システムの機能を説明するときは、インプット・プロセス・アウトプット(頭文字をとってIPOモデルと略称することもある)を理解することが鍵である。それが図だ。この図は2年前にも説明したが、あえて再掲しておく。
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生産システムのアウトプットは、製品(の形で具現化された付加価値)である。これに対し、主要なインプットは、需要情報である。需要情報とは、確定した受注かもしれないし、予測された需要の場合もあろう。そして、原料資材と、副資材・ユーティリティが、脇からのサイド・インプットとなる。

設計情報について言うならば、受注設計生産の場合は、生産システムの中で設計が行われる(設計機能がシステムに含まれる)。それ以外の生産形態(繰返受注生産や見込生産など)では、設計はすでに終わっていて、外部からインプットとして与えられることになる。設計部門はたぶん、本社に座っているのだろう。いや、工場の建物にいるのかもしれないが、そこは生産システムとは別のライフサイクルで動いている機能だ。

生産システムの主要な構成要素(構造)をあげると、以下のようになる:
・働く人
・機械設備(ツール・金型・治具等を含む)
・空間と、それを支える建築(用役供給を含む)
・情報系(伝票とコンピュータ・システム類)

この中を、モノが流れていくわけだ。いわゆる生産の「4Mといわれるもの(Man=人、Machine=機械、Material=モノ、Method=方法)のうち、加工対象のモノ(マテリアル)は機能の対象であり、仕組みそれ自身には含めない。

そして、生産システムには動的特性に応じた制御が付随する。「制御」といっても、このレベルでは、通常「生産管理」と呼ばれる機能を指す。すなわち、計画系(指示)と実績(報告)系の、両方からなるコントロールである。計画・指示のない生産管理はないし(それは管理ではなく「なりゆき」と呼ばれる)、実績・報告のない企業では、お金をきちんと勘定できない。

指示と報告の対象としては、
(1) 数量・納期の指示と結果(進捗)報告
(2) 仕様の指示と、性状(品質)の報告
があげられる。もちろん、「かんばん」のような同期化の仕組みも、制御の一種である。そして、異常の発見と処理も、制御の一部だ。

生産システムは、その要素に人間を含む第二種のシステム(法政大学西岡教授の用語)だから、制御に隣接した項目として、ルールや評価尺度も含むことになる。また、生産システムをとりまく環境・制約条件なども、考慮する必要がある。

こうした、いわば最上位レベルの機能・構造・制御は、業種や品種によらず、ほぼ共通である。ただ、実際の工場づくりに進むためには、業種業態に応じて、この下のレベルに設計(システム・デザイン)が入ることになる。

ところで、2年前の記事「生産システムとは、どういう仕組みだろうか」 https://brevis.exblog.jp/24388827/ でも書いたことだが、四半世紀前の時代は、生産というもののとらえ方は一般に、もっと単純だった。それは、「原料・部品」を主インプットとし、「用役・副資材」がサイド・インプットで、アウトプットは「製品」だった。この絵には、どこにも需要情報が登場しない。かりに描くとしても、サイド・インプットの扱いだろう。
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なぜか。それは、作れば売れたから、である。これが戦後復興期から昭和の高度成長期を経て、平成初期まで長く続いてきた、従来の考え方だった。基本的に、社会の側に、需要はある。良いものを作れば、必ず、売れる。そうした無意識の仮説が、ずっと世の中を支配してきた。

先日も、自動車業界のある大手企業に招かれて講演をした折に、上記の図をお見せしたところ、生産システムの主要なインプットが「需要情報」であるのはなぜか、との質問をいただいた。昔は、原料・部品が生産における重要な制約であったが、今は需要情報の方が大事になったので、主客逆転が起きたのだ、とお答えした。たとえ手元に十分な原料部品があり、品質について満足できる状態であっても、需要がないところで製品を作ることは、現代では無意味なのだ。

ところが、多くの日本企業では、この思考方法の転換(パラダイム・シフト)がうまくいっていない。

プル型の生産方式、という言葉は、世の中に普及するようになった。Pull型とは、すなわち、需要情報を主要なインプットとして、工場を動かす方式を言う訳だ。だから、実質的には同じ事をいっている。では、工場のマネジメントの人に、絵を描いてもらったら、上記のような絵になるだろうか? 相変わらず、原料・部品が製品に変わる絵を描くのではないか?

もう10年以上、いや15年以上も前から書いてきていることだが、「大量見込生産の仕組みを残しながら、多品種短納期の受注生産に対応しようとしてる」ことが、日本の製造業を難しくしている根本問題である。時代の変化についていくためには、生産システムの抜本的な再考・再設計が必要なのである。

そこを、多くの会社では怠ってきた。そういう問題意識で、物事を見てこなかった。

では、システムとは、どう設計すべきものなのか。それを考えるためには、システムとは、どういった性質を持つものかを理解しなければならない。

システムを考える際、まず理解すべきことは、「ミクロを積み上げてもマクロにはならない」という原理だ。全体は部分の総和ではない、と言いかえてもよい。

これはすなわち、「ベストなプレイヤーを9人集めればベストな野球チームになる」とは限らないことを示している。あるいは、「総員その持ち場で最善を尽くせ」、という類いの方針が、全体の最良のパフォーマンスを生む保証はないのだ。

むしろ余計な、ムダに見える部分を置くことで、かえって全体がよくなることがある。これを意図して行うのが、システム設計のポイントである。そもそも、限られたリソース(経営資源)を、どこに傾斜配分するかがマネジメントの鍵だ。経営資源には限りがある。

上から順にベストなメンバー9人をチームに揃えられないとき、じゃあ、どこを強くしてどこは抜くかを考えるのが、野球の監督の仕事だ。同じように、どこを手厚くし、どこは緩くしておくかを、生産システムでは考えなければならない。

そしてシステムでは、効率性(生産性)と柔軟性(追随性)は、しばしば相反する。列車の目的は移動することで、速く走れて多くの乗客を乗せられる新幹線はある意味、最高の効率をもつ。だが、その線路は簡単に引いたり変えたりすることはできない。車にたとえるならば、最高速で走れるレーシングカーは、しかし、狭い町中を小回りするには向いていないのだ。そこにはトレードオフが存在する。同じように、低コストと短納期だって、簡単には両立しない。だから、何を重視し、何を犠牲にするかについて、設計思想がいるのだ。

したがって、工場を構想する人は、システムの設計原理を知るべきである。工場づくりは、すぐれてシステムズ・エンジニアリングの問題なのである。こういう思考方法をすっ飛ばしたまま、自動車業界で有名な「なんとか生産システム」の、道具立てだけ導入しようとしても、ふつう役には立たない。無理にそんな事をトライしても、結局「コンサル疲れ」した現場が残るだけだ。

そして、わたしがここに書いたようなことは、本当は、経営レベルが理解すべき事である。

だが、世の現実を見ると、工場を監督する立場にある人は、本社の営業出身か設計出身の事業部長だったりして、「工場が生産システムである」ことを知らないことが多い。だからせめて、現場を預かる中堅技術者は、知っていなければならないと思うのである。営業云々と書いたが、これは文系・理系の問題ではなく、そういう視点を持ち得るかの問題である。

だからわたしは、工場よりも本社の多い東京・新宿で、あえて生産計画系のセミナー を引き受けているのである。「生産システムとは何か」を、ここに書いたよりは1段階詳しいレベルで、理解してもらうためだ。セミナー講師が生業ではないから、せいぜい年に1回か2回程度だが、演習を交え、多少自分の手を動かして、身につけられるようなコースにしている。こうした視点でモノを考えてみたいという方のご来聴をお待ちしている。

この1〜2年、IoTブームがきっかけとなって「スマート工場」が脚光を浴びている。さらに人手不足が深刻化したせいで、生産自動化のための投資も、久しぶりに承認を得やすい状態になってきている。そうした仕組みを考えるためにも、ぜひ「生産システムズ・エンジニアリング」の分野への関心が高まってほしいと願う次第である。


<関連エントリ>
 →「生産システムとは、どういう仕組みだろうか」 https://brevis.exblog.jp/24388827/ (2016-05-17)
 →「特別な我が社」 https://brevis.exblog.jp/2641571/ (2001-02-03)


# by Tomoichi_Sato | 2018-04-28 14:56 | サプライチェーン | Comments(0)

書評:「自由人物理」 西村肇・著


自由人物理―波動論 量子力学 原論」西村肇・著(Amazon.com)


1927年10月。数年に一度開かれる国際的な科学者の会合であるソルヴェイ会議に、錚錚たる物理学者たちが集まっていた。ニールス・ボーア、アインシュタイン、ハイゼンベルク、シュレーディンガー、パウリ、ド・ブロイ、ディラック・・。会議のテーマは原子内における電子と光について。だが、議論の内実は、量子力学の主流派であったボーア、ハイゼンベルク、ボルンらの「コペンハーゲン解釈」の主張と、それに反対するアインシュタイン、シュレーディンガーらの批判だった。

ハイゼンベルクらが行列力学と不確定性関係を提唱したのも、シュレーディンガーが波動力学を提案したのも、その会議のほんの1〜2年前のことで、原子内部の物理像については百家争鳴の状態だった。しかし、数日間の猛烈な論争は、主流派の勝利に終わった。そしてこの時以来、「粒子と波動の相補性」「不確定性原理」「波動関数の確率解釈」を中心とした物理現象の説明が、アカデミアと教科書を支配するようになる。

しかし、コペンハーゲン解釈を柱とした説明は、物理モデルとして奇妙な(直感的に理解できない)問題をいろいろと残した。それは、たとえば電子線の2スリット干渉問題であり、内部構造を持たないはずの電子の「スピン」(自転)だったりした。後に、シュレーディンガーは確率解釈を皮肉って、有名な「シュレーディンガーの猫」という思考実験を披露した。

主流派の武器はハイゼンベルクの行列力学だった。対する波動力学も、数学的には等価であると証明されたのだが、シュレーディンガー側の不備もあって、論争には負けた。ただ、ここには奇妙な現実がある:じっさいには誰も、行列力学なんか計算に使わないのだ。とくに、量子化学の分野では。

物理学は科学の帝王である、純粋科学である、という自負を、物理学者たちは内心抱いている。物理学では、すべては原理から演繹的に・連続的に導出されるよう構成されている。知識の暗記など、本来は不要である。たとえば化学はディスクリートな学問で、沢山の知識を要求する。物理はそうではない。だから物理学者は単純な基礎現象に集中したがる。素粒子を多数組み合わせた原子や分子の挙動など、「あとは化学の問題に過ぎない」と彼らは言った。

ところで、個人的なことになるが、わたしは大学入試で、物理と化学を理科の選択科目とした。そして物理は最後の1問を除き満点だったと思っているが、化学はほぼ白紙回答で提出した。それほど化学嫌いで、物理が好きだったはずなのに、大学に入ってしばらくすると、いつのまにか物理学への興味も情熱も失ってしまった。点数は赤点スレスレ。いったい、どこで道に迷ってしまったのか?

大学の物理の授業は、沢山の数学(数式)はあるが、背後の思想の説明がない。今にして思うと、それが原因だったような気がする。いったい何を目指し、どうしたいから、そんな数学的手法をつくるのか。その目的意識が分からぬまま、いわば行き先不明のまま、先人の後をついて山登りをするような気がした。当時はそんな風に言語化できず、ただ自分は理系の劣等生なのだと感じていたのだが。

たとえば、大学初年でラグランジュの解析力学を習う。ニュートン力学の微分方程式問題が、最大最小問題(変分問題)と等価であることを習い、また一般化された座標系の使い勝手を知る。だが、なぜそんな面倒な定式化を考えるのか、なぜラグランジュアンが運動エネルギーとポテンシャルエネルギーの差なのか、納得がいかないまま、授業はどんどん先に進んでしまう。わたしが知りたかったのは、研究の「いかに How」だけではなく、「なぜ Why」だったのかもしれない。

研究者とは、思想を持つ存在である。優れた研究者とは、学問における戦略性と体系化にたけている人だ。アインシュタインとか、数学のグロタンディークを思えば良い。まだ未解決の中核問題をみつけ、巧みなアプローチで攻める。また優れた学者は、概念の体系、ゴシック建築のような美しい構造物を作り上げる。それが本来の姿だろう。

しかし、現代の科学者は基本的に大学人であり、アカデミアの中で生きて競争している。その結果、支配的なパラダイムに適応する必要がある。また論文になりやすい研究をする。研究費を稼ぐ必要があるからだ。とくに、現代物理学は巨大な実験装置を必要とする学問である。研究費も組織も役職も大切である。そして、ここに一種の「淘汰圧」が働く。主流のパラダイムに適応して生き残るための、淘汰圧だ。つまり、職業人の物理学となりがちなのだ。

自由人物理』とは、独立研究者による物理学である。ただひたすら、真理の探究と理解を目的とする、物理愛好者の学問だ。どこからも研究費も報奨も出ない。発見自体が面白い、という事だけが唯一の報奨である。巨大実験を排して、思念(と数式)だけでどこまで到達できるか、が問われる。

その到達点を示すのが、本書「自由人物理 〜波動論 量子力学 原論」である。

著者の西村肇氏は、物理学者ではない(少なくとも社会的には)。氏は東大工学部の名誉教授だが、機械工学出身で、東大宇宙研で工学博士の学位をとった。そして化学工学科(現・化学システム工学科)で終生勤め上げ、とくに学会ではプロセスシステム工学のパイオニアとして著名だ。

しかし、アカデミアの分類でいえば、物理学には「素人」である。ついでながら、この人の大学での最後の10年間はバイオテクノロジー研究だったが、生物学にも素人だ。Natureに論文まで載ったが、農学部からは「生物の素人がなぜ学生に教えているのか」と抗議が来たという。

そして、定年退官後はまったくの自由人として、2001年に「水俣病の科学 増補版」を研究・執筆し、毎日出版文化賞を受賞する。

水俣病研究の最後の鍵は、工場の反応器内でのメチル水銀の生成過程だった。それまで、有毒なメチル水銀は、水俣湾の環境中で生成するという推測が多数派だったが、著者はそれをくつがした。厳密な量子化学の問題として、新しい発想で解決し、共同実験で確認した。それは「水俣病の科学」の最後の部分に書かれている。ただ、その探究の中で、著者の頭には、分子軌道(Molecular Orbitals)論とは何なのか? 電子の存在確率、そして排他律を支配する量子数=スピンとは何か? という根本的な疑問がわいてきたらしい。

著者の学風の特徴は、大胆なモデル化を用いた、複雑な系の解明と予測にある。元々、化学工学Chamical Engineering自体が、モデル化を多用する学問である。そこに、技術物理(機械工学)の発想を持ち込む点が著者のユニークな点だ(ちなみに、本書で初めて知ったのだが、旧ソ連では、物理と技術は地続きであって、純粋物理が学問として偉い、という思考は薄いらしい。著者は英語の他にロシア語も堪能だから、若い頃そちらからも影響を受けたのかもしれない)。

モデル化を武器とする学風を持つ著者が、物理学の発展という、長く複雑な対象系を分析し、「量子力学の混迷」と著者が呼ぶ中核問題に挑んだのが本書である。すなわち、非常にユニークな物理学史の記述、再構成になっている。その際に用いるのが、物理学者の思想・学風を「数学派」「物理派」に二分する大胆なモデルである。

著者によれば、数学派の代表格は、古典力学ならばニュートン、量子力学ではハイゼンベルクやフォン・ノイマン、となる。日本ならば朝永振一郎だろうか。他方、物理派の代表格は、古典力学のラグランジュ、マックスウェル、また量子力学ではシュレーディンガー、ド・ブロイ、ディラック、であるという。日本ならば武谷三男、もっと後ならば南部陽一郎だ。

そして1927年のソルヴェイ会議は、数学派と物理派の格闘であり、数学派が勝利して主流の地位を得た、というドラマであった、と解釈される。なお、ここでいう数学派・物理派とは、数学が得意だとか実験物理が得意といった、研究者の資質による分類ではない。そうではなく、この世界を数学的秩序で記述することを求めるか、それとも物理像(物理モデル)を重視するか、という基本的な思想の違いだと、著者は言う。

話は、古典力学からはじまる。

ニュートンの「プリンキピア」は、ギリシャ幾何学にならった、宇宙の公理論的な記述方法であった。しかし同時に、ニュートンという人の底意地の悪さについても、かなり詳しく書かれている。

ちなみに、著者は可能な限り原著・原典にあたり確認する姿勢を怠らない。そこはさすが学者であって、安易な孫引きに頼った、素人の印象批評ではない。ここには書斎で安楽椅子に座りながら、資料だけで事件の全容を解明していく探偵小説のような面白さがある。

ニュートンの力学から、ラグランジュの方程式(最小作用の原理)、そしてハミルトンの正準方程式というのが、大学授業での普通の説明コースである。これは、単なる数学的発展のように見える。しかし、その背後には思想的なドラマがあったことが、本書を読んではじめて理解できた。ラグランジュが、先人モペルテュイの提案した最小作用量の原理を、変分問題に発展させたのは、「質点系(剛体)の問題を、静力学と動力学を統合した形で記述したい」、という目的意識があったからだ。

それだけではない。ラグランジュが活躍したフリードリヒ大王の宮廷が、当時の啓蒙時代(著者によれば「理性革命」時代)のヨーロッパ大陸の思想界にあって、どのような地位を占めていたのか。イギリス経験論哲学からフランス革命につながる縦糸の、どの結節点に位置していたのかを、著者は大きな見取り図の中で示してくれる。数学・物理学・哲学・社会思想は、すべて一つの大きな知的活動の部分的様相にすぎないし、当時の学者はそういう意識の中で生きていた。こうした記述論的な部分こそ、本書の真骨頂であろう。
(ちなみに数式の説明もあるが、どこもごく簡略になっていて、わたし程度ではとても追い切れなかった)

古典力学は、ラグランジュによる作用量関数の定式化を経て、ハミルトン=ヤコビの方程式へと続く。ここでのポイントは、力学と光学の並行関係である。光の進む道は、最短時間の経路をたどるという「フェルマーの原理」が、光学の基礎にある。ハミルトン=ヤコビの方程式と、電磁気学のマックスウェル方程式が、量子力学への架け橋になる。

ここから本書は第2部・量子力学に入る。そして、まず「量子」概念の発見者は、プランクなのかアインシュタインなのか、という問題が提起される。実はこの論争をしかけたのはアインシュタインなのだが、彼が自分で矛を収めたため、現代ではあまり知られていない。この論争は、量子化される物理量の原像はエネルギーか、作用量か、という事を問うている。

プランクの発想のきっかけとなったのは、黒体輻射問題だった。著者はこの問題を、マクスウェルの電磁波理論・ハミルトンの正準変換・調和振動子の統計力学を援用して丁寧に分解し、作用量の離散性こそが本質であると論証する。「作用量子論は運動法則に素量を認める立場です。(中略)量子を実体の性質とみるか、運動法則と見るかで、結論は大きく変わってくる筈です」(p.151)−−これが、第2部を通した大きな布石となる。

第2部では、著者はハイゼンベルクの交換関係(pq - qp = h/πi)の発見と、ボルン、ジョルダンによる「行列力学」化についても、同じような再構成を試みている。つまり、研究者の目的意識からみた、発見の手順である。位置pと運動量qの積が可換ではない、ということは、量子力学の世界での物理量は、演算子(操作)であることを示す。これはわたしにとって、ずいぶん新鮮な学びだった。

ただ、「数学派」のハイゼンベルクらは、数学的な無矛盾性さえ達成できれば、原子内部の物理的描像については無頓着だった。「粒子でありかつ波である」とか「内部構造のない電子が自転する」といった説明が、人間の直感に反していても、「そういうものだ」で済ませてしまうのだ。

これに対し、貴族で素人物理学者だったド・ブロイの発想は違っていた。彼は、フェルマーの原理にしたがって、粒子の運動を先導する物質波というものを構想する。ある変換によって、電子の運動に対するフェルマーの原理が、モーペルテュイの最小作用量原理とまったく一致することに気づいたのだ。彼の構想を、シュレーディンガーは波動方程式へと発展させる。さらにそれを相対論化した、ディラックの波動方程式へと続く流れである。

「物理派」のアインシュタイン、ド・ブロイ、シュレーディンガー、ディラックに共通する思想とは、波動による物理像(モデル)である。それはコペンハーゲン解釈への批判でもあった。

著者はさらに、パウリの「スピン」論とディラックのスピン解釈へと、考察を進める。ここから、いよいよ分子軌道論の話になる。そして、物理学者達が「化学の問題に過ぎない」といった分子構造論について、ハイトラー・ロンドンの共有結合(波動関数の交換積分)、化学結合におけるウッドワード・ホフマン則を経て、著者による“化学と物理を結ぶ”分子軌道に関する新モデル(「分子内ド・ブロイ・モデル」)になる。ここでは、電子の「スピン」の著者流の再解釈が披露される。

「物理派」と「数学派」の対立軸で、量子力学台頭期の論争を読み解く視点は非常に面白い。ただ、「物理派」と「数学派」の対立軸を、著者は「無神論(Atheist)」と「キリスト教」の区分で捉えている。その面もあるかもしれないが、この対立はもっと深い(古い)問題に根ざしているのではないかと、わたしは思う。それは、「宇宙は単純で美しい数学的秩序から生成しているべきだ」という信念をもつかどうかの違いである。

たとえば、つい先日、物故した物理学者ホーキングを例にとってみよう。彼は先輩筋に当たるロジャー・ペンローズの著書「心は量子で語れるか」に反論を寄せて、こういう。

「私(ホーキング)は恥知らずな還元主義者であると、まず最初に言っておきます。(中略)基本的にペンローズはプラトン主義者で、唯一の観念の世界が存在すると信じている。一方、私は実証主義者で、物理理論は私たちが構築する数学モデルにすぎないと思っている。」

数学派のペンローズは、彼のツイスターという純粋に数学的着想を中心に、量子重力論という宇宙像を描き出そうと努力している。その彼を、ペンローズは「プラトン主義者」と呼ぶ。プラトン主義とは、イデアの世界の実在、ここではシンプルで美しい数学的原理から宇宙は生じた、と信じる思想だ。

ただし、このような思想は、歴史上プラトンが創始者という訳ではない。バートランド・ラッセル「西洋哲学史」によると、実はもっと古く、紀元前6世紀に活躍したピタゴラスにさかのぼる。

「ピタゴラスと共にはじまった数学と神学との結合は、ギリシャ、中世、そしてカントに至る近代における宗教哲学を特色づけた。プラトン、トマス・アクィナス、デカルト、スピノザおよびカントにおいては、宗教と理性との、無限なるものへの倫理的渇望と論理的賛美との、内密な結合があって、これはピタゴラスに発している。
プラトン主義と見えているものは、本質的にはピタゴラス主義である。感覚にではなく知性に対して啓示された永遠の世界という全概念は、彼に由来している。」(林達夫・訳より)

このような「数学と宇宙観との結合」は、ギリシャから欧州に流れ込み、西洋的な思想の一つのルーツ、あるいは特徴となっている。キリスト教は中東の片隅で誕生した宗教だが、ヨーロッパで大きく育ったため、こうした感覚を色濃く受け継いでいる。著者はハイゼンベルクを例にひいて、「数学派は必ずしも数学能力が高い人ばかりではない」といっているが、そもそも数学派とは「宇宙の基礎にはシンプルで美しい数学的原理があるはずだ」と信じる人たちなのだろう。一方、物理派とは、「数学モデルは物理現象の近似モデルに過ぎない」と考える人たちである。

あるいはW・パウリを考えてみてもいい。ユダヤ系キリスト教徒の家に生まれ、幼児洗礼ではエルンスト・マッハが名付け親になった。だが大人になり、最初の結婚に失敗した頃から、キリスト教会を離れ、「半分ユダヤ人」と自称する。ただ、彼は数秘術みたいなものに関心を持ち続け、微細構造定数が素数137の逆数である理由を、生涯探求した。そういう点で、彼はキリスト教徒ではないけれども、数学派だった。

数学的秩序が宇宙の基礎にあるはず、という感覚は、われわれ東アジアの文化圏には乏しいものだ。日本にも数学的能力の高い物理学者はいるが、彼らを単純に数学派といいきれないないのはそのためだろう。たとえば日本生まれで後に米国に帰化した南部陽一郎は、一般書「クォーク」第2版18章で、こんな風に書く。

「神が宇宙の設計をしたとき、重力、電磁力、強い力などの構成について公式に従って正確に図面をひいた。しかし弱い力に来たとき計算ちがいをしたのか、物指しを読みちがえたのか、図面のところどころにくいちがいが生じてしまった。直線は垂直に交わらず、四辺形はうまく閉じない。そして弱い力の骨組みが他の力の枠に対して少し傾いている。けれども遠くから見たのではあまり目立たないので、神はそれをそのまま使って宇宙を建ててしまった。」(p.222)

しかし南部は、宇宙がかくも不整合で美しくないからといって、当惑している様子もない。同じ著書の別の箇所で、南部は「超弦理論」を批評して、

「超弦理論だけですべてが解決するかどうかは、少なくとも私には大いに疑問である。自然はわれわれの想像以上に複雑豊富なものであると思うからだ。」(p.309)

とも述べている。ハドロンの弦モデルはもともと南部が考案したものだが、現代の超弦理論はある意味で、数学派の権化のようなところがある。南部は明らかに、そのような思考には組みしていない。

そのような訳で、著者が指摘するように、日本の物理学は式と計算に熱中する割に、あまり根っからの数学派は多くないように思われる。まあ、西洋人のいうことを信奉しやすい日本人は多いので、数学派風のパラダイムで仕事をすることに、さして疑いを持たないのだろうか。批判すべきとしたら、むしろこの点だと思う。

数学を単なるモデル化や近似の手段であるとする態度は、数学を宇宙の構造の中心におく信念とは、正反対のものだ。前者は現象から帰納的に物理法則や原理を発見しようとし、後者は原理から演繹的に物理現象を予測する。健全な科学にとって、この二つのアプローチは車の両輪だ。しかし論争となると、帰納派は演繹派よりも分がわるい。帰納は完全にロジカルではないからだ。単純で説明力の高いモデルを構築するのは、一種のアートでもある。

著者が本書で描いた二つの対立軸、
 <数学派 = コペンハーゲン解釈学派 = キリスト教> と
 <物理派 = 波動関数学派 = Atheist>
も、一種のモデルだ。こういうモデルを用いると、混迷を理解し整理しやすい。わたしはキリスト教かどうかよりも、ピタゴラス主義かどうかというパラメータを使う方が便利だと考えるが、どちらを採用しても、いろいろな例外は生じよう。しかし、例外があっても、モデルは有用なのだ。我々の理解と予測を助けるからだ。"Models are all wrong, but they are useful."という格言があるように。

わたしが西村研究室に入ったしたのは1980年。修士1年のときだった。そして、考えてみると、モデル化を重んじつつも、それに酔わない態度は、西村さんの学風に影響されて、わたし自身、身につけたものだと思える。だから、こうした態度を教えてくれたこと自体が、わたしにとって一番の財産ではないかと思う。

別にわたしが弟子だったから、本書をほめている訳ではない。本書は高度に論争的だが(そして論争的なのも西村さんの学風なのだ)、理路整然としていて内容的に非常に面白いのだ。そして、本書の一番の長所は、読むと「もっと物理を勉強したくなる」ところだろう。

ただ、本書は仙台の出版社から上梓されているが、事実上の自主出版であり、プロによる編集が足りない点が、いささか残念ではある。やはり、編集者はだてに編集をしている訳ではないのだ。

本書の最後の章は、著者自身の半生を(あるいは戦闘歴を)一瀉千里に振り返っている。東大紛争をきっかけに、化学プロセスのシステム工学から、社会システムの問題(公害)の研究に踏み出すのだが、その結果、東大を追い出される寸前までいく。しかし、著者は別に、社会運動家でも左翼思想家でもない。ただ単に、権威や権力に依存した人間の、非合理性を憎むだけだ。つねに、物理(モノのコトワリ)にこだわる人なのだ。

だからこそ、「自由人物理」なのである。


# by Tomoichi_Sato | 2018-04-23 22:14 | 書評 | Comments(0)