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第5のリスク対応戦略を考える

皆さんはギリシャ神話に出てくるカサンドラの物語をご存じだろうか? カサンドラはトロイアの王子パリスの妹で、予言の能力を持っている。しかし彼女には、アポロンの呪いがかかっていて、誰も彼女の予言を信じない、という状況にある。

有名なトロイア戦争は、王子パリスが、スパルタ国王の王妃で絶世の美女ヘレネーを、故国トロイアに連れ帰ったことから始まる。カサンドラはこの事件が、トロイアの滅亡を招くと予言するが、残念ながら誰もそれを信じない。

カサンドラは、トロイの木馬を市民たちが受け入れたことに対しても、破滅を招くと警告する。しかしこの時も誰も信じず、結局トロイアは敗北する。そしてカッサンドラ自身も、ヘレネーの双子の姉クリュタイムネストラの手にかかって命を落とすのだ。

どんなに正確に未来を予見できても、人々がそれを信じて対応行動を取らなければ、何の価値もない。危険を予知しても、避けられなければ、もはや運命と言うしかない。ギリシャ神話は運命論の色調が強いが、カサンドラの話は、これをよく示している。

さて、以前もちょっと書いたことだが、リスクマネジメントの研修をする際に、私が必ず最初にする質問がある。それは、
「あなたは世の中に、運・不運があると思いますか?」
という問いである。

多くの人は、「あると思う」と答える。そこで私は言葉を継ぐ。「もし世の中に運・不運があるのなら、リスクマネジメントなんて、意味があると思いますか?」

運・不運があると答える人の比率は、3·11以後、とくに今回のパンデミック禍以来、かなり増えてきている。当然だろう。自分の意思だけでは左右できない、大きな世の中の出来事が、自分の仕事や生活に降りかかって影響を及ぼしてくる。そういう経験を私たちはしてきた。

それなのに、運・不運という、いわば人生観や世間知のレイヤーの概念と、近代的なはずのマネジメントや経営論の問題意識が、結びついていないのだ。そこでわたしは、運・不運という言葉を、「外乱」という、制御理論的な言葉に置き換えてみる。そうすると理科系的教育を受けてきた人は、少しだけ両者につながりを見つけられるようになる。

逆に言うと現代の経営学は、パフォーマンス的な成果が、環境条件の変化にいかに依存するか、との視点が弱いのかもしれない。ビジネスの成果は、リーダーや経営者の意識的な努力や能力によって、達成可能だ。そういう信念が、アメリカ流経営学の背後にある。なぜなら、自らの能力と努力によって、学問的競争に打ち勝ってきたと信じる人たちが、ビジネススクールで経営学者をやっているからだ。

「運・不運などない。どんなことも、自分の意思と能力で達成することができる」と考える人達にも、わたしは同じ質問を投げる。「もしもあらゆる事が『やる気』で達成可能なら、リスクマネジメントなんて、学ぶ意味はないですよね?」

プロジェクトにおけるリスクマネジメントとは、わたし達の行動能力が、環境変化や外乱によって毀損されないよう、対応をとることである。対応には、事前的な対策と、事後的な対応があり、この2つは車の両輪である。外乱と書いたが、実際にはリスクの源は、外部から降りかかることもあるし、プロジェクトチームの内部に発生するものもある。

そしてもし、わたし達が予言する能力を持ち、全てを予見できれば、リスクは存在しないことになる。もちろん中には、自分たちでは対応しきれないような、リスク事象もあり得るだろう。だが全てを予見するとは、自分側の行動の予見も含むはずである。自分が対応しきれない環境変化は、受け入れるしかない。それはある意味で確定した事実であり、リスクではない。リスクとは不確実な、すなわち予見し難い事象の可能性だからだ。、

リスクとは自分の行動能力が毀損される事象の可能性である。これがプロジェクトマネジメントにおけるリスク理解の原則だ。自分が目的に向かって主体的に進むための行動能力を毀損される。そのために目標を達成できなくなる。あるいは活動自体を、断念せざるをえなくなる。こうした可能性を最小化するために、プロジェクトのリスクマネジメントはあるのだ。

プロジェクトとは、自分が何らかの成果物を生み出したり、何らかの状態に到達するために、主体的に行動するものだ。現状のままで良いなら、変化したくないなら、プロジェクトはいらない。プロジェクトとは行動である。正確に言うなら、複数の人が協力して行う活動だから、互いに強調された行動の集合と言っても良い。

これに対して、守りのリスクマネジメントと言うべきものもある。それは、何らかの資産とか資金とか、人びとの健康とか、ITシステムとか、知的財産とか、あるいは環境といったものを、外乱から守るのが、守りのリスクマネジメントである。変化しないためのマネジメント、変化を嫌うための防備である。

この2つの指針や性格が異なるのは、当然のことだ。

なお、リスクを考える際には、リアルタイム性の概念が重要になる。なぜならリスクマネジメントは、ある種の適応行動だからだ。

リアルタイム性とは何か。これについては、以前このサイトでも説明したことがある。元は2000年刊行の「MES入門」第3章に書いた内容だが、リアルタイム性とは、対象系の時定数よりも、有意に速い反応(行動能力)のことである。

例をあげよう。住宅街の中を時速30キロで運転していたら、道の10mほど前方を、ベビーカーを押した若いお母さんが横切ろうとした。もちろんこの程度だったら、十分にリアルタイムによけることができる。だからこれは、リスクではない。

ところが、住宅街の中の夜道を60キロで飛ばしていたら、物陰から小学生の男の子が、ぱっと走り出てきた。これは避け切れない可能性が高い。リスクである。

両者の違いは何かと言うと、自分の車が、リアルタイムによけきれるかどうかだ。リスク源を検知してから、緊急避難行動をとって、間に合うかどうか。時速60キロだと、10m走るのに、0.5秒もかからない。これが前方の歩行者と、自分の車を含めた系の時定数だ。

系の時定数は、対象だけでなく、自分の側の速度や俊敏性、すなわち自分の行動能力に依存している。世の中には客観的なリスク事象と言うものはない。ある事象がリスクかどうかは、自分の側の反応速度ないし対応能力に依存しているのだ。

したがって、 自分の対応能力を上げることが、リスクマネジメントにおいて重要な要素になっていると分かる。

プロジェクト・リスクマネジメントに関する現在の標準書や教科書が述べているリスク対応戦略について、わたしが不満を感じのは、この点だ。回避・転嫁・軽減・受容の4種類が、戦略としてあげられているが、ここには自分の側の対応能力を上げる、という視点が欠けている。しいて言えば軽減戦略の中に含まれる訳だが、あまり明示的ではない。だから、対応策を考える際のガイダンスとして使いにくい。

「あのプロジェクトの最大のリスクは、プロマネが某さんだってことだよ」——こういう言い方が成り立つのは、対応能力の側に不安があるからだ。プロマネはもう決まってしまっているので、そこに不確実性は無い。確率100%だ。

では対応能力を上げるとは、具体的にどんなことなのか。そのためには問題発生時の対応行動のプロセスを考えてみればいい。具体的には5段階になるだろう。
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1 検知
 問題事象を検知する。場合によっては、事象それ自体ではなく、その前兆を検知する。なんだかポワンとするな、と感じて熱を測ってみる。うーむ、37度以上ある。これが検知である。検知のためには、何らかのモニタリング手法と、測定ポイントが確立していなければならない。

2 予測
 原因を特定し、事象の展開を予測する(場合によっては自分自身の行動予測も含まれる)。熱がちょっとあるから、風邪かもしれない。喉がひりひりして、鼻もつらい。お腹の調子も少しおかしい。まさかとは思うが、コロナ感染だろうか。いつもの風邪なら、布団をかぶって一晩寝れば、だいたい熱は収まるのだが。

3 決断
 取るべき選択肢を洗い出し、評価して、どれをとるか決定する(決断はプロマネの重要な仕事だが、組織内では権限範囲を決めてメンバーにも委譲しているはずである)。今日ははずせないミーティングがあるな。しかし熱があるからには、やはり職場には出られない。リモートで会議に参加しようか。いや、ここは医者に行って診てもらうことにして、発熱外来のある医療機関を探そう。

4 伝達
 選んだ決断を、チームメンバーに伝達する。プロジェクトは複数の人間が協力して進める活動だから、人にも動いてもらわなくてはならない。自分一人の病気とは言え、休むことは職場に伝える必要があるし、しばらく自分の仕事をカバーしてもらわなければならない。家族にも熱があるから、接触を控えるよう、伝えなければ。

5 行動
 伝達された決断に従い、組織内の各担当者が仕事上で実際の行動に移す。医者にいって検査と診察を受け、もらった薬をとりあえず飲んで半日寝たら、幸い夜には平熱に戻った。まだ鼻と喉がつらいが、明日は落ち着きそうだ。疲れが溜まっていたのかもしれない。休めと体が言ったのかな・・

検知→予測→決断→伝達→行動、をスムーズに動かすためには、良い組織づくりが必要である。検知した情報を上に伝える事と、決断・指示を各担当者に伝える事では、双方向のコミニケーション能力が大切になる。

一番クリティカルなのは、3番目の迅速な決断である。そのためには、各人の権限範囲がはっきりしている必要があるし、プロジェクトチーム自体が会社から任された責任範囲も明確になっていなければならない。もちろんプロマネその人の決断能力も問われる。だがしばしば、プロマネの権限範囲を狭めておいて、かつ、プロマネが相談できるスポンサーも不明確な組織があるのである。

とは言え、決断・伝達・行動は、リスク対応策と言うよりは、本来あるべき組織作りと言えないこともない。そこで対策として重要になるのは、検知能力と予測能力を向上することになる。

検知には、モニタリング手法と測定ポイントの確立がいる。そして予測のためには、過去のデータや経験値・教訓(L&L)へのアクセス、ならびに簡単なシュミレーターなどが必要になる。これらを合わせて、わたしは「監視」戦略と仮に名付けている。

たとえばプロジェクトで外部から購入する資機材について、予算設定時よりも高い見積がでてきたら、報告をすぐ発信するようにルール化する。あるいは、その原料相場自体が高騰してきている事を、ニュースアラートで知るよう設定する。こうしたことが監視戦略の対応策である。

市場価格それ自体は外部環境で、自分たちでコントロールすることはできない。それでも早めに検知できれば、打つ手を考えられる。

あるいは、外注した業者の品質問題や進捗遅れなども、なかなかコントロールしがたい。しかし定期的にミーティングをもってウォッチしておけば、早めに問題を検知できる。また過去のその業者の納期パターンも参考にできれば、もっと良い。こうしたモニタリングの仕組みも、リスク対応策の一つだ。

実際のリスクアセスメント・セッションをやってみると、こうした監視型の対策が、けっこう多く出てくる。従来の分類で言うと「軽減」になるが、軽減戦略はリスク事象の発生確率を抑えたり、影響度を下げるために冗長化・頑健化するイメージが強い。だが予見(=検知+予測)能力をあげる事も、俊敏な対応を可能にする点で、有用なリスク対応戦略なのである。

ギリシャ神話のカサンドラは完璧な予言能力を持ちながら、誰もそれを信じなかった(「伝達」が機能しなかった)ために、トロイアのリスク対応能力はまったく機能しなかった。カサンドラがアポロン神に呪いをかけられたのは、もともと彼女が、言い寄ってきたアポロンの心変わりを予見して拒絶したからだ。

予知するだけは危険は防げない。トロイアの対応能力を超えた悲運を見通したとき、彼女は覚悟を決めたはずだ。そこでわたしは、かつて人生の師と仰ぐR先生から聞いた言葉を思い出すのである。リスクマネジメントについて得々と語るわたしに、R先生はこう言われたのだ。

「君は覚悟を決めて、それを選ぶのか。覚悟してやらないものは、戦略ではない。たとえ裏目と出ても、その結果を自分で引き受ける。そういう覚悟ができる人のことを、真の大人というのだよ。」——一体わたしは、本当の意味で自分を大人と呼べるだろうか。予見と成熟について考えるわたしの耳の底に、いつもこの声がよみがえるのである。


<関連エントリ>



# by Tomoichi_Sato | 2021-11-27 23:36 | リスク・マネジメント | Comments(1)

再び、モノサシを疑え

モノサシを疑え」という記事を書いたのは、2004年春のことだった。4月なので、世の新入社員向けに訴える形にした。世の中が勝手に押し付けてくるモノサシ、つまり評価尺度を鵜呑みにして、それに自分を合わせようとしない方が良いよ、という趣旨だ。

わたしが自分の書いたすべての記事の中で、1本だけ選べ、といわれたら、この「モノサシを疑え」をとるだろう。アクセス数の面では、とくにヒットした訳でもない。比較的短い記事で、図表もない。だが、思考のアプローチ、価値観の持ち方、製造業を例に取ったシステムに内在するトレードオフ、そして文章のリズム感など、わたしのこだわる要素が、こもっている。

ちなみに当時わたしは、「革新的生産スケジューリング入門」というサイトをメインに運営していて、まだExciteのブログである「タイム・コンサルタントの日誌から」は始めていなかった。この記事をブログに転載したのは、2010年になってからのことである。当時のメインのサイトは、元々、2000年の4月に、同名の拙著『革新的生産スケジューリング入門』の正誤表を含む、一種のアフターサービス・ページとして出発した。スタティックなHTMLで、文章もタグも全部自分で書いていた。

何年か後に、ブログという便利な仕組みが登場したので、併用することにした。それがExciteの「タイム・コンサルタントの日誌から」である。でも結構長い間、旧サイトとを並行運用した。ブログは複数の記事を構造化し、順番をつけて読者に提示するには不便だからだ。旧サイトは2017年に、プロバイダーのサービス停止をきっかけに、WordPressを使った別サイトに移行した。しかし、どうもWordPressが肌に合わず、結局そちらは更新を止めて、アーカイブ的な位置づけになっている。

ともあれ、わたしのこのサイトは、かれこれ20年以上も続いている訳だ。週1回ペースを心がけようとしてきたが、実際には平均8〜9日おきに1本、書いている。書き続けるネタがよく尽きなかったとも思うが、何よりも、読んでくださる読者の皆様のおかげと感謝している。

これまでを振り返ってみて、「モノサシを疑え」を書いた頃は、ちょうど自分にとって転機となる時期だったと感じる。その前までは、自分はテクノロジーの進展と世の進歩を、世間並みに信じていたように思う。2000年に生産スケジューラAPSの本を書き、同時期に共著で製造実行システムMESの本も出した。その前はERPやSCMの本も、共著で書かせてもらった。情報処理技術者試験のプロマネの参考書も、出していた。

ビジネスという競争社会の中で、本も書いて名も売ったし、テクノロジーに明るい専門家として、時流に乗って先端を行けるものと、楽観的に信じていたようだ。そして新技術を適用すれば、多くの企業の問題も不況も解決できるはずだ、と。だがこの記事を書いた頃から、だんだんとわたしは、そうした楽観論に懐疑的になってきた。

問題はテクノロジーではなく、むしろ、わたし達の考え方、思考習慣の方にあるのではないか。世の中の多くの人を導く、Guiding Principle=指導原理が間違っている。それは、おかしな価値評価尺度と、競争原理とが組み合わさった形で、わたし達を方向付けようとしてくる。そこに気づかないと、問題を解決するどころか、問題を深めてしまう。そういう風に、次第に思うようになった。

一つ例を挙げよう。成長率である。「経済成長」という言葉を世間が使うとき、それはGDP(国内総生産)の成長率を意味している。この数字が上がるかどうかで、政治家も財界もメディアも一喜一憂する。

だが、GDPとは何か。これは一定期間内に、国内で新たに生み出したモノやサービスの付加価値の総計である。「国内で」だから、日本企業が海外で生み出した付加価値は含まれない。トヨタやソニーがいかに海外で活躍しようが、それはGDPには算定されない。

そして、GDPは「売上」の合計でもなければ「利益額」の合計でもない。貴方の会社が今年10億円の売上増加を達成しても、その結果2億円の経常利益を上乗せしても、それ自体は経済成長=GDP成長率にはカウントされない。GDPとは「付加価値」の合計だからである。

じゃあ、付加価値とは何か。

「付加価値の高い製品を、消費者に提供しなければ」とか、「高付加価値なサービスは、お客様を満足させられる」とかいう言い方を、よくきく。だが、残念ながら、このような言葉の使い方は、完全に間違っている。付加価値とは消費者に渡したり、顧客が感じたりできるものではない。少なくとも、経済学的な付加価値とは、そういう種類のものではない。

国内総生産GDPが付加価値の総計だ、という場合、その「付加価値」とは、売上から外部コストを差し引いた金額を指す(より厳密には「粗付加価値額」とよぶ)。あなたの会社が、外部から100円のモノを買ってきて、自社内で見事に加工して、1,000円の製品として売ることができれば、それは1,000 - 100 = 900円の付加価値を生んだのだ。社内の労務費・人件費とか、機械設備の減価償却とかは、計算に入れない。外に出て行く原材料コストだけを、問題にする。

また、もしも加工作業を、3Kでめんどくさいし、ウチは「高コスト体質」だからと、外注に出したらどうなるか。もし外注費が250円かかったら、あなたの会社の付加価値は、1,000 - 100 - 250 = 650円で、前よりも減ってしまうのだ(ただし、外注加工を受託する会社は、売上増250円の何割分か、付加価値を増やすだろうが)。

こうしてみると、「消費者は付加価値の高い製品を選ぶ」などというのは、間違いだと分かる。だって消費者にとって、そのメーカーの外部コストなど知りようもないし、選ぶ際に考慮もしないからだ。「高付加価値なサービスなのでお客様が満足する」も、同様に嘘だ。だって、サービスの元ネタを業者がいくらで買ったかなど、分からないではないか。あなたは帝国ホテルがどんな出費をしているか、知っているだろうか。それでも、東京のゴージャスな宿泊先を選ぶのには、関係ないではないか。

つまり、上記の「高付加価値な製品・サービス」という文言は、じつは「価値の高い」製品・サービスと表現すべきなのである。消費者が買う製品やサービスの価値は、買ってみれば分かる。そして、あなたの会社が、いかにゴージャスで価値の高い製品を増やそうと、それだけでは経済成長には結びつかない。ゴージャスな製品で売上は増えたが、もし原材料の外部コストも同額だけ増えたら、付加価値は変わらないのだから。

ちなみに、日本のGDP(名目)は、年間540兆円程度である。日本の勤労人口は6,000万人強だから、一人あたりの付加価値額は、約900万円ということになる。

そして企業は、この付加価値から、社員の人件費や減価償却費や税金などを支払うのだ。付加価値の内、何%を人件費にあてるかを、「労働分配率」とよぶ。日本の労働分配率は全産業平均で、65〜70%程度ということになっている。

労働分配率と成長率は、直接は関係がない。分配率は付加価値の内訳に関する数字で、成長率は付加価値全体の伸びを示す。船にたとえてみれば、積み荷の前後のバランスと、航行速度みたいに、独立したものだ。だから、「成長なくして分配なし」とか、「成長が先か分配が先か」といった議論は、あまり意味がないことが分かる。もちろん国民経済という全体システムの中では、いろいろな媒介項をへて関係し合っているから、まったく無意味とは言わないが、あまり筋のよい問題の立て方とは言えまい。

話を戻そう。30年近い不況の間、わたし達の社会は、経済成長率を主要な「モノサシ」として、政策や景気を論じてきた。モノサシの計算結果だけ、第2四半期はマイナス0.3%だったとかいう風に、天下り的に公表される。

そしてたいていの人が(政治家や経営者も含めて)、そのモノサシが具体的にはどういう意味かを疑わずに、受け入れてきた。その事は、上に書いた外注化の損得や、分配率の議論の混乱を見ればよく分かる。

数字で測られ、目標値を与えられたら、あとはその理由は問わずに、馬車馬みたいに働く。なぜ、そのモノサシなのか、なぜ、その目標なのか。そこは考えない。そういうメンタリティが、この社会ではよしとされるらしい。受験競争など、その典型だろう。「良い学歴」という謎のモノサシを、疑わずに受け入れる青少年だけが、入試のための勉強という意味不明な苦行を乗りこえて、栄冠を勝ち得ることになっている。

良い学歴を得た人は、社会に出て大企業だの官公庁だのの主要ポジションを得る。そしてまた、売上やら営業利益やら経済成長率などのモノサシを、疑わずに受け入れて、しゃにむに頑張るのである。そのモノサシは、たいていの場合、ずっと以前に設定されたまま、受け継がれているだけだ。誰がいつ設定したのか、現在の状況ではどのような意義があるのか、といった事は検討されずに棚上げになっている。

誤解しないで欲しいのだが、わたしはGDPや経済成長率といった指標をやめるべきだ、と主張しているのではない。その意味と意義を再検討しよう、と言っているだけだ。そして、もしそのモノサシだけでは偏りが生じる心配があるなら、もう少し別の指標も併用を検討したら良いと思う。

たとえば(分配に関連する議論を続けるなら)、多くの企業の経営ビジョンやら経営計画を見ても、「社員の給料をもっとずっと上げる」ことをうたったものは、ほとんどない。経済団体もそんな事は言わない。むしろ、いかに「人件費を抑制するか」に、頭をひねっている感じだ。

しかし、もし真に優秀な人材を集めたいなら、そしてすぐ転職退社されたくないのなら、高い給料を払うべきというのが、市場経済の原則ではないか。事実、すでに管理職の給与水準は、韓国やシンガポールなどに追い抜かれている。現地ではもう、本社より高いお金を払わないと、有能なマネージャーを雇えなくなった。

言うまでもないが、この日本という小さな島国には、人財しか資源がないのだ。だとしたら、人財に投じる投資=報酬を高くするにはどうしたら良いか、それでも競争力を維持するには、どんな戦略を講じるかを、必至に考えるべきだろう。言いたくはないけれど、インダストリー4.0を提唱したドイツは、そういう問題意識で考えていたよ。

わたしは「モノサシを疑え」の記事の中で、入社式で訓示する経営者を皮肉った。だが別に、会社がお金儲けをする事自体は、悪い訳ではない(当たり前だ)。ただし、お金儲けだけをずっと追求し続けると、副作用を組織の内外にもたらすことが多い。だからステークホルダー資本主義とか、インパクト加重会計といった考え方が表れてきたのだ。これは建前とか美辞麗句の話ではない。企業が生き残るためには、お金儲けというモノサシ以外にも、別のモノサシが必要なのである。

もう少しシステム工学的な言い方をするならば、たった一つの指標だけでシステムを運営するのは良くない。システムには、トレードオフが内在する。だから一つの指標だけを追いかけると、必ず歪みが生じてくる。

内部に人間系を含むシステムの場合、人びとはその指標に合わせて行動するようになり、さらに事実認識や思考方法も、次第にその指標に都合の良い風にバイアスがかかるようになっていく。正しい情報が伝わらなくなったシステムは、適応性や永続性を失う。

そうしたことを、昔の人はすでに良く知っていて、「人は神とお金という二人の主人に、同時に仕えることはできない」というような事を言ったのだろう。単純な、単線的な価値観でなく、複雑で多層的な世界との共存。それがおそらく、成熟ということなのだ。

成長だけを追い求めるのは、成長期の青少年のすることである。モノサシを疑う人は、おそらく成長から成熟へと、曲がり角を曲がろうとしているのだ。わたし達にとって成熟とは何かを、本サイトでは引き続き考えていきたい。


# by Tomoichi_Sato | 2021-11-17 23:56 | 考えるヒント | Comments(1)

お知らせ:スマート製造の新しい潮流に関するWebinar講演を行います(11月17日)

皆さんは「トレーサビリティ」という言葉をお聞きになったことがあると思います。肉屋さんに行くと、牛肉の部位や産地のみならず、生産者などについて詳しく表示してあったり、あるいはパックの値札に「個体識別番号」が印字されていたりします。あれが「牛肉トレーサビリティ制度」の仕組みです。日本では牛一頭毎に個体識別番号が付され、流通過程でも農家→と畜業者→流通業者のサプライチェーンで伝達され、記録されます。

同じようなトレーサビリティ=「追跡可能性」が、製造業の多くの分野で求められるようになってきました。これはかつてのISO9000による「品質マネジメントシステム」導入以上のインパクトを、日本企業に与える可能性が大です。さらに欧州では、これを支えるためにデータ交換基盤を作り、さらにISO8000「データ品質」の標準化が議論されています。まさに品質リスク攻め、です。

こうした動きは、現在まさに英国エジンバラで開催されているCOP26の、脱炭素・グリーン化への動きとあいまって、製造業にさらなる課題を突きつけています。しかし、受け身でこうした『外圧』に対応するだけでなく、これをバネとして自社の技術基盤を強化するきっかけにしたいと思いませんか?

今回は9月に引き続き、愛知県で製造業向け情報システム分野をリードする(株)エスツーアイさんが主催し、世界有数のMESベンダー・ダッソーシステムズさんが協賛するウェビナーで、講演を行います。わたし自身は、「スマート製造を実現する高クオリティ化とグリーン化 ~守りの業務から、攻めの技術へ~」と題し、 上記二つの潮流と対応方針についてお話しします。トレーサビリティや環境負荷物質管理の具体的なソリューションについては、エスツーアイさんとダッソー・システムズさんが説明されます。

東洋の島国に住むわたし達にとって、国際的な動きは距離感があって分かりにくいまま、ある日突然、天下り的に降ってくるように感じられる場合があります。しかし製造業にとって切実なこの課題に、どう取り組むべきか、ぜひ一緒に考えてみたいと思います。


SDGs時代の品質管理と環境負荷物質管理Webinar

日時:2021年11月17日(水) 13:30~17:00
 事前登録制、参加無料。

講演者と内容:(敬称略)
1.オープニング
2.スマート製造を実現する高クオリティ化とグリーン化 ~守りの業務から、攻めの技術へ~ ・・・ 講師:日揮ホールディングス 佐藤 知一
3.まだEXCELでやってるの? 3DEXPERIENCE Platformで実現する「品質管理」 ・・・ 講師:ダッソー・システムズ ENOVIA営業部 山本 晃司 様
4.3DEXPERIENCE Platformでできる「環境負荷物質管理」 ・・・ 講師:エスツーアイ システム開発センター 中村 条光 様
5.3DEXPERIENCE Platformは、基本ライセンス(PCS)でここまでできる! ・・・ 講師:ダッソー・システムズ ENOVIA営業部 山本 晃司 様

ウェビナー紹介サイト:

以上、大勢の方のご参加をお待ちしております。


佐藤知一@日揮ホールディングス(株)


# by Tomoichi_Sato | 2021-11-08 23:32 | サプライチェーン | Comments(0)

Risk Breakdown Structureとは何か

米国のアポロ計画は、1961年5月に、ケネディ大統領が演説の中で、「60年代中に人類を月に送る」と宣言して始まった。じつは当時、宇宙技術の点で、米国は仮想敵国ソ連に大幅に遅れをとっていた。ケネディ演説の直前の4月、ソ連のガガーリン飛行士がボストーク1号に乗り、人類初の有人宇宙飛行を実現した。彼のセリフ「地球は青かった」は、名言として今も広く知れ渡っている。

ケネディ大統領が60年代中に(つまり、それから8年7ヶ月以内に)有人月面飛行をする、と宣言したとき、米国の多くの専門家は、「そんなこと不可能」と感じていたらしい。しかし、一見不可能に見える未来像を示して、大勢の人を引っ張るタイプの楽観的リーダーシップは、当時の米国社会ではうまく作用した。1969年7月、アポロ11号は3人の宇宙飛行士を乗せて、月に向かって旅立つ。

アポロ11号というプロジェクトに、費用を全部でいったいいくら使ったのか、正確にはよく分からない。とりあえず、アポロ宇宙船とサターンロケットのみの費用は、約830億ドル(現在価値)という数字は調べることができた。これだけで軽く10兆円である。まあ、冷戦下における国家の威信をかけたプロジェクトである。10兆円なら安いのかもしれない。

ところでプロジェクト・マネジメントの感覚でいうと、費用とスケジュールは、プロジェクトのパフォーマンスを測る二大指標である。受注型プロジェクトだったら、約束の納期を守り、受注金額を下回るコストで仕上げられれば、利益が出る。自発型プロジェクトだって、結果を早くだし、出費も抑えれば成功と言える。

では、費用とスケジュールが両立しないときは、どうすべきか?

端的な例は、発注先が2社あって、A社に発注すれば費用は安いが納期がかかり、B社ならば高いけれども納期が短い、という場合だ。プロジェクト・マネージャーは、どちらに発注すべきか、決断しなければならない。品質その他の条件は、同じだとする。あなたなら、どちらを選ぶか。

答えは、いろいろあり得るだろう。だが、もしこれがアポロ11号のプロジェクトだったら、答えは明白だ。費用がかかっても、納期が短い方を選ぶはずである。なぜなら、アポロ計画全体の目標が、「60年代中」という時間設定だからだ。打ち上げ予定は1969年7月。ケネディ大統領の公約までに、残されたフロート日数は5ヶ月を切る。だとしたら、納期が遅れるリスクの方が、費用が超過するリスクよりも重大だ。これが判断の基準である。

プロジェクトのリスクとは、プロジェクトが目標を達成できなくなる事象の可能性である。プロジェクト目標は、もしかしたら複数あるかもしれない。成果物の性能や、納期、あるいはコストなどだ。もちろん、ある種のプロジェクトでは、納期やコストが目標から外れる場合もある。もし仮に、金に糸目をつけないプロジェクトなら、コスト超過リスクなどというものは存在しなくなる。

アポロ計画に予算枠があったかどうかは知らない(たぶん国家予算だからあったのだろう)。だが、コストよりも時間的目標の方がはるかに重要だった。プロジェクトの目標設定は、何をリスクと考えるかに対して、基本的な指針、枠組みを与えるのである。言いかえるならば、「客観的なリスク」などというものは、ない。リスクとは、人びとが設定したプロジェクトの目標を元にして、洗い出すべきものなのだ。

Risk Breakdown Structure(RBS)とは、リスク洗い出しのために、リスク・アセスメント・セッションで利用されるツールの一つである。

RBSは、リスク源を階層的に表示した図である。WBS(Work Breakdown Structure)やOBS(Organization Breakdown Structure)などと同じく、一番上のレベル(Level-0)には、プロジェクト・リスクの全体をおく。そしてその下に、第一階層、第二階層、と分解された要素が並んでいく。例を示そう。
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この図では、第一階層に、「外部リスク」「技術リスク」「組織リスク」「プロジェクト・マネジメント・リスク」が並んでいる。そしてその下に、たとえば外部リスクなら「市場環境変化」などの要素がぶら下がる。リスク・アセスメントの参加者は、この図を見ながら、たとえば市場環境変化に起因して生じる、リスク事象を考えていくのである。

もちろん、この図がいつも正とは限らない。客観的リスクというものが存在せず、リスクはプロジェクト実行主体の目標設定に従うのだから、RBSは本当は、プロジェクトごとに作成するべきである。とはいえ、まあプロジェクト種類毎に、組織内にテンプレートくらいは持っているのが望ましい。

ちなみにRBSは、PMBOK Guideでは、どう説明されているだろうか。

ためしに、手元にある最新版のPMBOK Guide 第7版(2021年7月発行)を見ると、こう書かれている:
「潜在的なリスク源(Potential sources of risks)を階層的に表示した図」(拙訳、英語版P.187)

この説明は、Section 4 - Models, Methods and Artifactsの下、4.6.4「階層図」のところに、WBSやOBSなどと一緒に並んでいる。ただし、上記のワンセンテンスの説明があるだけで、図はついていない。ずいぶんそっけない扱いである。これだけ読んでも、プロマネたる読者は、どうしたら良いか分からないだろう。

(なお、すでにご承知の方も多いと思うが、プロジェクト・マネジメント分野の事実上の世界標準であったPMBOK Guideは、今回の第7版で抜本的な変革を行っている。本のメイン部分は”The Standard for Project Management”となり、PMBOK Guideは後半に追いやられ、10個のマネジメント知識エリアも消失している。この変化についてはいずれ項を改めて論じたい)

ところで、わたしはPMBOK Guide 第2版(2000年発行)をまだ持っていて、ときどき参照のためひっくり返す。というのも、第2版はコンパクトながら、ある意味モダンPM論のエッセンスを凝縮していて、分かりやすいからだ。・・ということを、実はわたしの勤務先で昔、学んだのである。

で、そのPMBOK Guide 第2版には、RBSそれ自体は登場しない。かわりに、リスク分類(Risk categories)という用語がある。説明は、こうである:

「プロジェクトに良きにつけ悪しきにつけ影響を与えるリスクは、洗い出して分類整理することが可能である。リスク分類は明確に定義し、当該産業や応用分野において共通するリスク源を反映していなければならない。」(英語版P. 131)

具体的には、こんな説明が続く。

・技術上、品質上、性能上のリスク — 未検証の技術や複雑な技術、非現実的な性能のゴール、利用している技術や業界標準に対するプロジェクト中の変更など

・プロジェクト・マネジメント・リスク — 時間やリソースの割当が不十分なこと、プロジェクト・プランの品質が不適切なこと、プロジェクト・マネジメント技法の乏しさ

・組織リスク — お互いに矛盾するコスト・時間・スコープの目標、プロジェクト間の優先順位付けの欠如、予算が不十分だったり中断すること、組織内で他のプロジェクトとリソースの取り合いが生じること

・外部リスク — 法律や規制などの変化、労働問題、オーナー側の優先順位付けの変化、カントリー・リスク、気候など。とくに不可抗力リスクとは、地震、洪水、内乱などで、リスク・マネジメントよりも危機管理(Disaster recovery)を必要とする。
(以上、拙訳)

お分かりの通り、ここにあげられている4種類の分類は、ほぼそのまま、上の図の第一階層に対応している。というか、図はPMBOK Guide 第3版以降に登場するRBSを参考に、少し改変して作成したからだ。第3版のRBSは、第2版の上述の説明を継承し、敷衍して作ったものになっている。

わたしが変えた部分は、第2階層以下である。というのも、上の説明は(そして第3版以降のRBSも)、何だか奇妙だからだ。

プロジェクトのリスクが、外部リスクと内部リスクに分かれる、というのは良い。内部リスクが、さらに技術・組織・PMに分かれるのも、まあ良いとしよう。しかし、技術リスクの下にある性能リスクというのは、リスクの発生源だろうか? むしろ影響の及ぶ結果=目標値の方ではないか(ちょうど「納期遅延リスク」のように)。非現実的な性能のゴールは、技術に起因するリスクだろうか? ゴールを設定したのは自分たちなのだから、それはむしろ計画設定の不適切さ(つまりPM)に起因するはずではないか。

繰り返すが、RBSは単なるリスク分類ではない。リスク源の階層分類なのだ。だから技術に起因する要素としては、むしろ「複雑さ」(これが増えると不整合が生じやすくなる)、「サイズ」(大きすぎたり小さすぎたりすると困難性が増す)、「新規性」(技術の未成熟さを表す)などを置いたのである。

他の項目も同様である。外部リスクの「外部」とは、プロマネの計画やコントロールが及ばない範囲を指すはずだ。だとしたら、その中に、自分で選ぶはずのサプライヤーや下請け業者によるリスクが来るのは奇妙だ。もちろん、外部リスクの中に「不可抗力リスク」を置くのもおかしい。これは契約条件に依存するからだ(だから第3版からはなくなっている)・・

お分かりだろうか。RBSはある意味、単純なツールだ。だが、その単純なツールでさえ、論理的に詰めていくと、いろいろと奇妙な点が出てくる。それはなぜかというと、

 ・リスクの発生場所(発生源)と、リスクが発現する所(結果)を区別する
 ・ある事象がリスクかどうかは、プロジェクトの目標設定に依存する

という原則が十分理解されないまま、自分のなれたデフォルトのビジネス感覚を当てはめがちになるからだ。

そういう意味で、リスク・アセスメントできちんとリスクを洗い出すには、それなりのトレーニングが必要だということになる。だからこそ、前々回の記事でも紹介したように、わたし達の研究部会でも研修プログラムに組み入れることにしたのである。

現代のプロジェクト・マネジメント技法は、60年代の米国アポロ計画を通じて、非常に発展した。PMの用語のほとんどがカタカナ英語なのは、それに依るところが大きい。そして、アポロ11号についてリスクを考えるなら、未経験の環境における機材の故障・トラブル、人間の誤操作、機材の誤設計・製造不良、離着陸時の気象不良、そして未知の事象との遭遇などなど、いくらでもあげられるだろう。

だが、プロジェクトはつねに、新しい挑戦の要素を含む。だからプロジェクトを進める事とリスクをテイクする事は、表裏一体の関係にある。そこが、安全や知財やセキュリティのリスク・マネジメントと異なる点なのだ。プロジェクト遂行における最大のリスクは、機材の故障でも未知との遭遇でもない。リスクという概念を良く理解せずに、なんとなくプロジェクト計画を進めることなのである。


<関連エントリ>


# by Tomoichi_Sato | 2021-11-04 23:32 | プロジェクト・マネジメント | Comments(0)

書評:「反知性主義―アメリカが生んだ『熱病』の正体―」 森本あんり


最近読んだ中で、最も面白い本のひとつだ。

「反知性主義」という言葉はふつう、「知性に反対する態度・主張」の意味で使われている。例えば外務省出身の作家・佐藤優は、「実証性や客観性を軽んじ、自分が理解したいように世界を理解する態度」と定義しているらしい(本書の序文でそう引用されている)。当然、そこには批判的な意味が込められている。

しかしアメリカにおいては、反知性主義(Anti-intellectualism)という言葉は、必ずしも否定的な意味ばかりではない。この語を有名にしたのは、R・ホフスタッターで、1963年に出版し、後にピューリッツァー賞を受賞した「アメリカの反知性主義」らしい。彼が同書の中で使ったこの言葉の意味とは、反・知的権威主義だった。

著者も決して、否定的ではない。「反知性主義は、知性そのものに対する反感ではない。知性が世襲的な特権階級だけの独占的な所有物になることへの反感である」という(P. 235)。そういう感覚は、誰もがある程度もつものだろう。

しかし、アメリカにおける反知性主義は、社会の中でしばしば強力な、ある意味、特異な現れ方をする。その背景には、米国キリスト教の「リバイバル」(信仰復興)運動があるのだ、というのが本書の中心主題である。

いうまでもないが、アメリカの初期の植民者たち(いわゆるピルグリム・ファーザーズに代表される清教徒など)は、英国や欧州大陸の宗教的迫害を逃れて、アメリカ大陸という新天地にやってきた、という歴史がある。したがって、彼らの入植した東部ニュー・イングランドなどの地域は、キリスト教の理想を中心にした社会制度設計になっていく。

著者はここで、宗教社会学における2つの社会類型を紹介する。「チャーチ型」と「セクト型」である。チャーチ型では、その社会に生まれたものは皆、その宗教の構成員となる。

17世紀のマサチューセッツは、まさにチャーチ型の社会であった。「協会員だけが投票権を持ち、政治に参加することができる、という決まりであった」(P. 64)。また「理由なく礼拝を続けて欠席すると、罰金が科される。これは植民地の法律に定められており、罰金は協会ではなく政府が徴収する。こういう点では、当時の社会に政教分離と言う概念は存在しない」(P. 50)。

ちなみにチャーチというのは宗教社会学用語なので、キリスト教に限らない。「伝統的な日本の仏教における檀家制や神道における氏子制は、本人の意思にかかわりなくその土地に生まれたものを皆含むのでチャーチと言ってよい」(P.106)のである。

これに対して、宗教的な回心を体験した純粋な構成員だけで、教会を作ろうとする集団を、宗教社会学で「セクト」と呼ぶ。セクトは、「既存の母集団を批判して、より純粋な別集団を新たに形成しようとする人々の集まりである」(62ページ)。

ここから先は私の解釈だが、宗教には社会の維持と、個人の魂の救済と言う、2つの大きな役割がある。前者を突き詰めたものがチャーチ制であり、後者をひたすら追求していくと、セクト主義が正しいと言うことになる。

このセクト主義の米国における現れが、「信仰復興」(リバイバル)運動なのだ。それは社会周縁の大衆に向けた、説教師を中心とした回心の運動となる。そして、「およそ何らかの主義と言うものは、自分の身にそれを担って体現するヒーローがいるものである」(P. 271)。そこで著者は、リバイバル運動のヒーロー達を、エピソードを交えて、歴史順に生き生きと描き出す。

その列伝は、故レーガン大統領が崇拝した建国時代のピューリタン指導者ジョン・ウィンスロップに始まり、18世紀前半の神学者エドワーズと伝道師ホイットフィールド、19世紀第二次信仰復興運動の指導者チャールズ・フィニー、19世紀後半のムーディー、20世紀初頭の元大リーガーであるビリー・サンデーに至る。(本書執筆段階では存命だった、現代のTV伝道師ビリー・グラハムは対象外のようだ)

著者は言う。「『信仰復興』(リバイバル)は、前章で見たようなピューリタン社会の知的土壌の上に開花し、以後繰り返しアメリカ史に現れる、いわば周期的な熱病のようなものである。リバイバルの最初の大波は18世紀に訪れ、アメリカ独立革命を精神的に準備した。19世紀に再来したときには、奴隷制廃止運動や女性の権利拡張運動に指導的な役割を果たし、20世紀には公民権運動や消費者運動に影響を与えた」(P. 56)。すごい社会的影響力である。

なぜリバイバルがこうした運動の原動力となるのか。それは、「リバイバルが『平等』という極めてアメリカ的な理念を強く呼び覚ますからである。平等主義こそ、本書が追求する「反知性主義」の主成分なのである」(P. 57)。

ヨーロッパのキリスト教社会では、「神の前での平等は、この世の社会における平等を導かない」というのが近代までのごく一般的な共通理解だった(P. 101)。まあ、いかにも古き階級社会らしい考え方である。しかしアメリカ社会は、一応それを否定したところから出発する。

とはいえ、初期の植民地は、「当局の承認なしに新しい教会を立てたり、公定教会とは別の私的集会を開いて礼拝したりすると、刑事罰の対象となる」(P. 110)社会だった。そこでは、キリスト教の牧師はそれなりに知的なエスタブリッシュメントの職業で、育成は重大な社会課題だった。

わたしも本書ではじめて知ったのだが、ハーバード、イエール、プリンストン大学の東部名門三校は、「いずれもピューリタン牧師を養成することを第一の目的として設立された大学である」(P. 34) 。「ハーバードは、初めから純粋にプロテスタント的ないしピューリタン的な大学として設立されたと言う点で、中世以来の大学とは設立の理念を大きく異にしている」(P. 35)。

ただ、こうした教会の指導者たちは、「自分たちの定住開拓地で安定した社会を築くことに精一杯で、海の向こうから押し寄せてくる新しい移民をどうするかなどは、海辺の港町で考えてくれれば良い、位にしか受け止めていなかっただろう。しかし、その新参者の彼らこそ、不慣れな土地で心の糧を求める不安いっぱいな人々だったのである」(P. 66)

この人達の不安を受け止め、浄化してキリスト教に導く(=リバイバル)、というのが「福音派」と呼ばれたセクトの人びとの活動だった。

今日のアメリカのキリスト教は、大別すると、主流であるプロテスタント、少数派のカトリック、そして「福音派」からなる。福音派はプロテスタントの一種のセクトで、その代表はバプテストとメソジストである。彼らは草の根型の大衆組織力を持っていて、19世紀半ばには合わせてプロテスタント教会の7割を占めていた。

結局、チャーチ型だった初期のプロテスタント社会が、こうしたリバイバル運動を進める福音派のセクトと共存するために、信教の自由をベースとする「政教分離政策」を憲法に書き込むに至る。この潮流はさらに、エスタブリッシュメントへの反感を政治的に利用しようとする、政治家の動きにつながっていく。

米国の大統領選挙が、今日のようなお祭り騒ぎになったきっかけは、19世紀初めの直接投票制度の導入にある。この時に大衆支持の波に乗って大統領になったジャクソンは、東部の知的エスタブリッシュメントに対する批判で、多くの票を得た。

ジャクソン大統領は、「政権交代ごとに公務員を入れ替える猟官制(スポイルズ・システム)を導入して、今日のアメリカの政治制度の性格付けを行った。スポイルとは戦利品と言う意味である。これは「連邦政府を牛耳っていた東部の貴族的な政治家や金融課を引きずり下ろす」ためだった(P. 163)

19世紀後半に入ると、産業革命に伴い、アメリカは農業社会から工業社会、農村の中心から都市中心の国家へと姿を変えていった。「その変化を支えるために、さらに大量の移民が流入した」(185ページ)。無名で孤独なアメリカ大衆の誕生である。

こうした大衆の魂の不安をマーケットに、ショービジネス的な伝道集会は、ますます広がっていく。

「アメリカ人にとって宗教とは、困難に打ち勝ってこの世における成功をもたらす手段であり、有用な自己啓発の道具である。ビジネスで成功したければ、しっかりとした信仰を持ちなさい。それがあなたは道徳的にし、人格的にし、そして金持ちにしてくれる」(P. 266〜7)。宗教とは、この世での成功への道、アメリカン・ドリームの裏付けなのだ。

「アメリカンドリームの可能性は、啓蒙主義的なジェントルマンが社会を支配していた時代にはなかったし、その後の高度に産業化され専門化した都市社会の時代にもない。その間に挟まれた19世紀の一時期にだけ見られるものである。おそらくそれは、アメリカと言う国家の青年時代の記憶である。」(168ページ)

今日の米国の書店に行くと、自己啓発系のノウハウ本(Self-help)のコーナーが非常に広い。なにせ、神は自ら助けるものを助く、が信条の国なのだ。米国人の心の中では、自己啓発と宗教が、真っ直ぐつながっている。

また著者が映画「リバー・ランズ・スルー・イット」を引いて説明するように、人間の手がついていない美しい自然は、アメリカにおいては一種の宗教的な畏敬と崇拝の対象である。これをナチュラリズムと呼ぶ。その代表者は「森の生活」の著者ソローだろう。こうした感覚の背後にも、神の創造した自然を読み解くことによって、自然は神の栄光を語り出すと言うピューリタン的な理解がある。この点でも、森林を不気味な魔物の住む異教的な世界と考えた、ヨーロッパ旧世界の宗教感覚とは断絶がある。

チャーチ制とセクト主義。著者によると、アメリカ人が政府権力を見る際にも、この2つの考え方が影響を及ぼしている。多くのアメリカ人は、アメリカ国家を「地上における神の道具とみなし、積極的な社会建設を志す。これはチャーチ型の精神である。」しかし同時に、「大方のアメリカ人は、政府というものが必要だ、ということまではしぶしぶ認めるだろう。だが、それは最小限でなければならないし、本音を言えば、ないほうがいいに決まっている。」(P. 123)。これが地上の権力に対するセクト的な精神である。

著者・森本あんり氏は、プリンストン大学神学部の博士課程を出た方だ。だから、という訳でもないだろうが、大衆動員ビジネスと化したTV伝道師のような、現代の米国キリスト教の一部のあり方には批判的だ。でも、リバイバル運動に象徴される反知性主義自体は、それなりに意義を評価している。「反知性主義の本質は、宗教的使命に裏打ちされた反権威主義である」(P. 141)、「反知性主義は、知性と権力の固定的な結びつきに対する反感である」(P. 262)と、繰り返し書く。

そしてまた、大変文章の上手い人である。文体それ自体はクセのない平明なものだが、エピソードの選び方や配置、時折差しはさむユーモア、全体のリズム感など、ページの森の中で読者を導く手腕は、大したものだ。

本書はアメリカへの複眼的理解を助ける書物である。ひどく世俗的な資本主義社会なのに、キリスト教原理主義者が大勢いて、国内政治は大衆迎合的ながら、ときおり極端な道徳主義に走り、外交では人権主張と権謀術数が入り混じる、世界最大の軍事国・アメリカ合衆国。この分かりにくい超大国を、精神史の面からシャープな光を当てて、見事に分析している。

2015年の出版後、米国ではドナルド・トランプが大統領選挙で勝つ。彼もまた、アメリカの生んだ反知性主義という「熱病」の巧みな利用者だ。今は、“不正選挙”に負けておとなしくしているが、バイデン政権が失政で揺らぐと、また出番をねらうだろう。揺らぐ大国の今後を見据える際に、本書は欠かせない参考書となるはずである。


# by Tomoichi_Sato | 2021-10-24 22:32 | 書評 | Comments(0)