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建設通信新聞6月20日インタビュー記事「マネジメントは〝技術〟」より

今年の初めに、建設通信新聞社の取材を受けた。テーマはPM。創刊75周年記念号に使うという。実際の誌面掲載は6月20日号になったが、業界紙なので読む機会のない方も多いと思う。そこで、このサイトに少し抜粋して掲載したい。


【導入文】
多くの人を束ねる「管理」を研究対象とする学問がある。「プロジェクトマネジメント」、英語の頭文字を取ってPMと呼ばれる分野だ。達成すべきアウトプットが決まっており、複数人が協力して行い、失敗のリスクもある。こうした〝一発勝負〟の仕事をプロジェクトと定義し、現場で誰もが使える〝負けないための定石〟を理論化する。エンジニアリング、ITシステム開発などの現場で導入が進んでおり、近年、大きく発展している。多くの人が協力し、安全に工期内で現場を納めるには何が必要なのか。PMのプロに、建設業の課題解決のヒントを聞いた。

【インタビュー】
佐藤知一 氏
日揮ホールディングス(株)チーフエンジニア、筑波大学教授(グローバル教育院)
建設通信新聞6月20日インタビュー記事「マネジメントは〝技術〟」より_e0058447_20275716.jpg
Q PMでの「管理」とは、何を意味するか。

A 日本では、管理という言葉がとても幅広く使われる。ただ、英語にすると▽マネジメント▽コントロール▽アドミニストレーションと3つの言葉に分かれる。
 アドミニスレショーションは働く場所を維持する仕事を指す。総務課、庶務のようなイメージだ。例えば現場入場者の台帳制作、などの仕事を指す。
 コントロールは、工程表や予算表などの計画を立て、その進捗(しんちょく)を確認し、予定と実行を把握していくことだ。機械を運転・操作しているイメージだ。
 最後にマネジメントだが、これは暴れ馬を乗りこなすイメージがある。例えば、自分の車を前に「I can control my car」と言ったら、自分の車を正確に運転できるという意味になる。しかし「I can manage」だったら、古くて故障が多いといった問題を何とか乗り越えている、という感じになる。

Q マネジメントとは

A マネジメントの根本は人に働いてもらうことだ。施工図を書くのでも、リベットを打つのでもいいが、自分でやる仕事はマネジメントではない。人に設計図を書いてもらう、リベットやコンクリートを打ってもらう。これをマネジメントという。
 大きい構想を立て、人を組織化する。ルールを決める。当然お金のやり取りもある。構想が実現していくように持って行くのがマネジメントだ。その上で、実際のお金や進捗が予定通りに行っているかどうか確認する、これがコントロールの世界だ。出入金の伝票をつけるのはアドミニストレーションの仕事となる。
 このように三つは全部違うのに、一緒くたに管理と言ってしまうと、訳が分からなくなる。

Q 現場管理はマネジメントであるのに、PMが建設業界で馴染みが薄いのはなぜか

A マネジメントやコントロールには「技術がある」という認識が、特に日本では非常に乏しい。マネジメントやコントロール、つまり人の上に立つに当たって必要なのは気合いで、「それは本人の資質の問題だ」というのが、日本の古い考え方だ。

Q 具体的には

A 例えば「腹の据わったやつを現場所長に据える」とか、「有名な大学を出た優秀そうなやつを技術者のトップに据える」とか。これで物事がマネジメントできるというのが、日本の感覚だ。人格や出身、資質の問題で、「技術」の問題ではないと。その結果どうなるか。現場ごとにやり方が違い、デコボコの大きい業績になっていく。
 マネジメントが人格や、生まれつきの資質の問題なら、トレーニングの余地がないことになる。「生まれ変わってこい」としか言いようがなくなる。大勢の人を集めて、〝適任者〟だけを選別し、重要なポジションにつける。そうした考え方だったのだ。
 そうしたやり方は、人が無尽蔵にいた時代には成り立っていた。今は、人をきちんと育てていかなければいけない。マネジメントやコントロールを技術として教え、身につけさせる。その上で、技術を動かすための道具、ITなどを充実させていく。これが今、建設業界が向かっていくべき方向性ではないだろうか。
Q エンジニアリング業界でPMが普及する理由は

A 一般建設業界とプラントエンジニアリング業界は、非常に大きな違いがある。大手ゼネコンの多くは、江戸時代からある土着の業界だ。だがエンジニアリングは輸入業界で、アメリカで発達した産業の形を日本も導入した。日本のエンジ会社は、アメリカの同業のやり方を一生懸命学んできた。
 さらに、日本のエンジ業界大手3社(日揮ホールディングス、千代田化工建設、東洋エンジニアリング)の仕事の7、8割は海外だ。海外の顧客は「ちゃんと計画を最初に立てたか」「進捗(しんちょく)通りか、毎週・毎月レポートしろ」という。遅れたら「本当にこれで納期に間に合うのか。リカバリープランを出せ」と、こうくる。
 エンジ会社も建設業も、同じ日本人がやっているが、物の考え方、やり方が全然違う。それは海外のお客様と国内との、要求レベルの違いだ。だからプロジェクトマネジメントが重要視される。

Q 建設業は取り残されているのか

A プラントの設計は技術、これは誰も疑わない。装置を設計するのは機械学科を出た人たちで、鉄骨を設計するのは土木学科を出た人たちだ。ところが、エンジニアリング会社には、プロジェクトマネジメント部門があり、プロジェクトマネージャーという職種があって、その下にプロジェクトエンジニアがいる、というピラミッドがある。
 「この人達はプロジェクトマネジメントという技術を担って、動かしている」。そうエンジ会社は思っている。しかし、おそらくほとんどの建設会社、あるいは設計事務所もだろうが、マネジメントは技術という感覚が薄く、昭和時代の感覚のままずっときているのではないだろうか。

Q 難題は信頼関係と職人技で納める。そうした風土が足かせとなっているのか

A 人が人を動かす、人に働いてもらうには、必ずヒューマンファクターが影響する。ただ、「属人的でない技術がある」という感覚を持っているかどうか。これが一番大事な違いだ。もしも、建設業界にその感覚が薄いのであれば、労働者が減少する国内市場で生きていくのは難しくなると思う。
 昔は働く人は日本人ばかりだったが、今は外国の方も沢山いる。指示の出し方も変わっていく訳で、そこの部分も含めて「技術」として、きちんと人に伝えられるようにしていく。これが一番基本的なポイントだと思う。


【略歴】
佐藤知一(さとう・ともいち)1982年4月日揮株式会社入社。設計部門・プロジェクトマネジメント部門にて、国内外の工場・プラントづくりに従事。2012年より経営企画部門。専門書に加え、対話形式でPMを解説する「時間管理術」(日本経済新聞出版)、「世界を動かすプロジェクトマネジメントの教科書」 (技術評論社)など、初学者が手に取りやすい著書も執筆する。

# by Tomoichi_Sato | 2025-07-05 20:29 | Comments(0)

書評2冊:「ダライ・ラマ般若心経を語る」ダライ・ラマ(取材・構成 大谷幸三)、「ごまかさない仏教」佐々木閑・宮崎哲弥著

「ダライ・ラマ般若心経を語る」 ダライ・ラマ(取材・構成 大谷幸三)

色即是空、空即是色」という言葉は、たいていの日本人が聞いたことがあるに違いない。しかし、その意味をちゃんと言えるかというと、あやしいと感じる人が8割以上ではないか。わたしもそのひとりだ。『色』という言葉が、色気とか色事とは別の概念だ、ということくらいは、何となく知っている。でも、それでは『色』とは何なのか。それが『空』であるとは、どういう事なのか?


「色即是空」は、般若心経に出てくる言葉である。仏教のお経が全部でどれだけあるかは知らないが、般若心経はその中でもピカイチに有名で、実際に触れたり唱えたりする人はかなり多いと思う。それは日本だけの現象ではないらしく、だからこそ、こういう本が出るのだろう。般若心経は比較的短いし、簡潔明快ズバリと本質を説いている(・・のじゃないか、と想像される)。


しかし。わたし自身も機会があって、数回は唱えてみたりしたことがあるのだが、これがさっぱり理解できないのだ。まあ当然かもしれぬ。なにせ、わたし達が朗唱しているのは、玄奘三蔵が今から1400年も前に、原典のサンスクリット語から、唐代の中国語に翻訳したテキストである。それをまた、南方経由の呉音(ごおん)で読んでいる。我々がきいてもサッパリ分からないが、現代中国人だって、分からぬに違いない。


それでも、たとえ意味は分からなくても、一心に信じて唱えれば、仏の功徳があるのではないか。在家の多くの人は、こう考えて読経したり、あるいは写経しているのだろう。


ところが、この点に関して、ダライ・ラマの見解ははっきりしている。「経典に書かれた意味内容にまるで無知なまま、単に般若心経を唱えるだけでは、功徳があったりはしない。(中略)無論、教えに対する畏敬の念を持って般若心経を 唱えることには、それなりの価値はある。だが、そのような捉え方でことたれりとするのは間違いである。(中略)そこからより深く学ぶことを試みなければならない。」(p.21-22)


さて、なぜ般若心経を、チベット仏教のダライ・ラマに学ぶべきなのか。実は般若心経とは、深い瞑想に入った仏陀のそばで、観世音菩薩が、知恵ある弟子として知られるシャリプトラ(舎利子)に対し、真理と真言を教える、という構成になっている。そしてダライ・ラマは、観音菩薩の生まれ変わり、なのである。だから、この人以上にふさわしい語り手は、いないことになる。

ところで本書は、まるでダライ・ラマの著書みたいな装幀だが、実際にはインタビューした大谷幸三氏の構成・編集・著作でである(きっと出版社の販売戦略でこうなっているのだろう)。ただ大谷氏はノンフィクション作家だが、サンスクリットから現代インドのヒンディまで、非常に良く調べていて、感心する。むろん学者ではないから不正確な箇所もあるのかもしれないが、その代わり一般人の気持ちとニーズと疑問を共有している。だから入門書を書くにはふさわしい人だろう。


研究者によれば、般若心経の成立は起源300〜500年の間で、釈尊の時代から900年近くたった後の著作である。また、本書を読んで初めて知ったのだが、般若心経には長短2つのバージョンがあって、我々が漢語訳で読んでいるのは短縮版だという事だ。著者によるロングバージョンの日本語訳もついていて、そちらは舞台設定も登場人物達も、よりカラフルで具体的である。

さて、問題の「色」だが、サンスクリットの原語はルパで、物質一般、目に見える現象をさす。「カラーという意味も辞書にはあるが、実際に使われることはない」ようだ(p.83)。なおサンスクリット語は古代からある文語だが、別に死語ではなく、インドでは現代でもまだ、日刊新聞が4紙も発行されているという。


そして「空」とは何か。ダライ・ラマによると、「独立して存在するものは無い」という意味であって、「何もないというのではない」(p.109)。だから色即是空とは、「一切の現象には、独立して存在するものはない」・・ということになる。ちなみに巻末にE・コンゼによる英語訳がついているが、そこでは"Form is emptiness, emptiness indeed is form"となっている。Formは西洋哲学で言う「形相」のことである。


ただし、ここから先が大事なのだが、こうした「言語と概念による真理の知的理解」だけでは十分ではない、と仏教では考える。悟りには、言語を超えた直観的な把握、真理との一体化が必要であって、そのために修行があり、また瞑想・悟りによってはじめて解脱に至る、とする。


修行とは、心身両面での研鑽によって、悟りの高みに至る方法論である。こうした「修行論」がある点が、インド宗教の共通した特徴らしい。キリスト教にも修行的なものは多少あるが、信者の必須の行ではない。身体面の鍛錬抜きでは救済に至れない、という事もない。そこが中東より西側と、南インド・東アジアの宗教観を分かつところなのだろう。


ともあれ、いろいろな事を考えさせられ、様々な学びのある本だ。おすすめである。




「ごまかさない仏教」 佐々木閑・宮崎哲弥

「ごまかさない仏教:仏・法・僧から問い直す (新潮選書)」 佐々木閑・宮崎哲弥 (Amazon)


なかなか、論争的な本である。佐々木閑氏は1956年生まれ、仏教学者で花園大学教授(京大の工業化学を卒業後、文転したという点が面白い)。宮崎哲弥氏は1962年生まれ、評論家で仏教関係の著述も多い。ふつう、この種の本は、碩学に対して若手が質問し答える、という風に展開するのだが、本書はインタビューアー格の宮崎氏が、かなり自説を先回りして展開する(そして知識も相当なものだ)。

ところで、どこが論争的なのか。それはタイトルに現れている。「ごまかさない仏教」というのだから、「ごまかしている仏教」が世に存在していることになる。何を、どう、ごまかしているというのか?

序章で佐々木氏はこう述べる:「『仏・法・僧』、 この三つの要素がそろった宗教活動のことを仏教と呼びます。この定義は日本だけではなく、あらゆる仏教界に共通して通用する唯一の定義です」(p.18)。 そして、本書は、全体として仏・法・僧の3つの部から構成され、それぞれを論じていく。仏は仏陀(ブッダ)のこと、法はダルマ(ダンマ)で、その教えのことである。

ところが問題になるのは、僧なのだ。佐々木氏は僧(サンガ)について、こう述べる。「 これは一人ひとりのお坊さんのことを指すのではなく、4人以上の比丘あるいは比丘尼が集まって作る修行の組織のことを意味します」(p.19)。このサンガ組織は、「律」と呼ばれる規則に従い、運営される。律は釈尊が最初に制定し、受け継がれてきた、非常に古い体系である。そして佐々木氏は元々、この「律」の研究者だった。

釈尊は「四門出遊」のエピソードで知られる。王子だった彼は自分の城の四つの門で、それぞれ貧者・老人・病人・死者を見て、この世では老病死の苦を避けられぬ事を知り、身分も家族も捨てて出家する。ところで彼の出家とは単に世を捨てて森の中に入ったのではなく、そこにいる修行者の集団に入った事を意味する、という。つまりサンガ的組織はもっと古くから、バラモン教の伝統と共にインドに存在してきた訳だ。

釈尊は7年間の苦行を経た後に苦行を捨て、瞑想によって悟りを得る。そして梵天勧請を経て布教を志し、いわゆる初転法輪をはじめる。彼の元に集まった修行者の集団のために仏教のサンガ組織を作るのである。そして律の重要な部分は、悟りを目指す修行組織の規律であり、かつ、独身主義である。

だから佐々木氏はこう述べる。「浄土宗系の教団には、修行のための組織であるサンガなどというものはありえないのに、そのサンガに帰依するとは 一体どういうことを意味するのでしょう?」(p24)。浄土宗だけではない。日本仏教にはどの宗派も、それに類する出家者組織がない。だから、「サンガを持たない日本の仏教は、極めて特殊な、変形した仏教なのです」(p.242)となる。

仏教には、大きく分けて、初期に起源を保つ上座部(小乗)仏教、釈尊死後500年後くらいから出現する大乗仏教、そして千年後くらいに現れる密教、の流れがある。P.27に仏教伝播の地図が載っており、これは非常に有用である。インドで興った仏教は、西域で大乗化する。中国には、最初から両方が一緒に渡るが、大乗が優勢として受け入れられる。そして日本にもチベットにも、それが7世紀頃伝わる。ところがスリランカやミャンマー・タイには、上座部仏教のみが伝わった。これが世界仏教の構図である。

佐々木氏は学者であり、文献批判が仕事である。したがって「聖典は疑わない」では仕事にならない。そして源流を追いかけるので、当然初期仏教の姿に関心が強い。初期仏教は、あきらかに自力本願の修行の宗教であった。宮崎氏は龍樹(ナーガルジュナ)に傾倒する人で、その意味では大乗系の信徒であるが、仏教哲学に関心が強い。

かくて、この本の圧巻は「法」をめぐる第2部の解説にある。ただし何せ哲学の世界だから、ふつうの読者にとっては、なんだか些末な抽象的論争にも感じられるだろう(哲学とはそういうものだ)。

では日本仏教に、なぜサンガ組織が定着しなかったのか(奈良時代には中国から律の専門家の鑑真まで招聘したのに、である)。これについて明確な解説はない。といっても、著者の二人が日本仏教を否定しているのでは、もちろんない。価値を認めるからこそ、お二人とも仏教徒なのだろう。だが、日本仏教は「特殊」なのだ。その強い認識が、本書を貫いている。

そして本書を読んで感じるのは、ちょうど聖書研究が20世紀に西欧でかなり進歩したように、仏教研究もかなりのスピードで進歩中らしい、ということだ。それは、とても良いことに思える。わたし達は日本社会とその文化の中で育った以上、仏教の伝統を離れて暮らすことは無理である。だとしたら、その実相について、より理解を深めることが必要だ。だからこそ、仏教の真の姿について「ごまかさない」探求を語り合う本書に価値があるのである。


# by Tomoichi_Sato | 2025-06-29 11:10 | 書評 | Comments(0)

モダンPMへの誘い 〜 一本道プロジェクトとガントチャートの基本を考える


  • PERT/CPMと一本道プロジェクト

「PERT/CPMのスケジューリング手法なんて、現実にはプロジェクト・マネジメントに使えない」という声がときどき出る。その一つのケースは、プロジェクトが一本道のアクティビティ系列から成り立っていて、並列作業が存在しない場合だ(「モダンPMへの誘い 〜 クリティカル・パス法は役に立つのか?」 参照)。プロジェクト全てがクリティカル・パスになる訳だから、たしかにPERT/CPMは使えない。というか、そもそも持ち出す意味が無い。
モダンPMへの誘い 〜 一本道プロジェクトとガントチャートの基本を考える_e0058447_21134538.png
一本道のプロジェクトでは、全体期間は各アクティビティの期間の合計に等しい。単純である。そして遂行段階に入った後も、完成予定日は、残りのアクティビティ期間の合計だから計算は自明だ。

一本道のプロジェクトは、たとえば複数のマイルストーン(とくにゲート審査)で区切られているような「ガバナンスのよく効いた」ケースで、ときどき見かける。また一つの開発チームで、複数のイテレーションを繰り返すアジャイル開発プロジェクトなども、その範疇に入るだろう。

さらにいうと、なぜプロジェクトを複数のアクティビティに区切る必要があるのか、という疑問も浮かんでくるかもしれない。最初から、たった1本の線だけ引いておけば、いいではないか? そもそも、ガントチャートにおけるアクティビティの線(矢羽根)の区切りとは、どういう意味があるのか?


  • ガントチャートの基本 

ガントチャートはプロジェクト・マスタ・スケジュールを表現する、基本的ツールである。その割に、それをどう作るのかについて、ちゃんと教えてくれる機会が少ないように感じる。ExcelとかPowerPointで、みな我流に描いている。まあ矢羽根のスタイルとかフォント・色使いとかは、個性があっていいと思う。

だがガントチャートの作成において、アクティビティの矢羽根を描くとき、どこで、どんな単位に区切るべきなのか。そこには、ある程度共通に理解すべきルールがある。(もちろんここでは、どこか別のところで、事前にActivityリストだとかWBS辞書だとかが準備されていないケースを考える。つまり、どんな作業があるかを考えながら、白紙にガントチャートを描くような場合である)

たとえば、中間で重要な判断が入るとき、普通はその前後でアクティビティを分ける。重要な判断とは、たとえばデザインレビューやゲート審査などである。これはたいていの人がそうしているだろう。

また重要なマイルストーンをはさむときも、ふつうはアクティビティを区切る。たとえば大事な中間成果物を出すとき、逆になんらかの大切な中間インプットが入るとき、などがマイルストーンだ。第3者の関わるイベント=社外発表なども、マイルストーンかもしれない。こうした際も、矢羽根は区切るべきだ。マイルストーンの予定が変わると、アクティビティの日程もひきずられるからである。

しかしもう一つ、あまり十分認識されていないルールがある。割り当てるべきリソース(担当者や担当グループ)が変わるときである。このようなときには、アクティビティを分ける。

ガントチャートは社内や顧客・外注先とのコミュニケーション・ツールである。そして社内や外注先は、主に人の配員予定という視点で、それを見る。誰がいつからいつまで、その仕事にアサインされるのか。だからいろんなリソースがゴチャゴチャに割り当てられた矢羽根があると、混乱するのである。

もう少し言うと、ガントチャートは本来、リソースの山積みグラフとワンセットで完成する。まあそこまで作っている組織は、少ないかもしれないが。


  • こんなガントチャートを描いてはいけない

繰り返すが、別種のリソースが別種の成果物や完了状態を目指して働くアクティビティは、異なる線(矢羽根)として描く。たとえ同じタイミングに始まり、完了時期もほぼ同じとしても、並行する2本の線とする。なぜなら終われるタイミングが、異なるかもしれないからだ。

並行する2本のアクティビティの片方が5週間、もう一方が4週間かかると見込まれるとしよう。どちらも同じ先行アクティビティと後続アクティビティに囲まれている。ただし、従事する人のグループは別だとする。このような場合、本当は4週間の実働期間の実線と、1週の余裕日数(フロート日数)を表示すべきである(フロートはよく、点線で描かれる)。

だが、2本目のアクティビティも、同じ5週間の長さで引いてしまう例をしばしば見かける。もしかりに2本目の作業が4週で終わっても、後続の仕事もあるのだから、1週間だけそのグループをリリースするのは現実的ではない、と考えたりする。さらにいうと、余計に1週かけて「品質を上げる」ことをしたりするケースも、案外多い。とくに設計的なアクティビティでは、工数をかけようと思えば、いくらでもかけられる。

こういう事をプロマネはよく知っているから、同じ5週にしたくなるのだろう。そして、だとすると線を2本引くのではなく、1本にまとめても良いじゃないか、との発想になる。かくて、複数のゲートやマイルストーンをこえて進むプロジェクトは、「一本道」型になりがちになるのだ。
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だが、できればそれは、やめたほうがいい。余裕日数(フロート)がある場合は、ちゃんと表示する。なぜか。それは、フロートがチームの余力を示すからだ。そして、(おそらくこのシリーズの後の方で触れると思うが)フロートのあるアクティビティというのは、プロジェクトにとって一種の『有用な資源』と見なせるからである。


  • そもそも、プロジェクト・スケジューリングとは

プロジェクト・スケジューリングの意義は何だろうか? それは、計画段階では、プロジェクトの全体期間(工期)と納期をコミットするためにある。そして、必要なリソースの工数と費用見積のベースとするためである。また遂行段階では、プロジェクトの完成予定日を推測するためにある。

PERT/CPMという技術は、プロジェクトの役務範囲=スコープが、ある程度明確に決まっていて、そこから作業ボリュームとスケジュールを導き出すときに使用する。スコープ決定→スケジュール導出、という順番である。

逆に言うと、先にチーム体制と全体期間が決まっていて、そこから優先順位を動的に決めながらスコープを調整していくケース(アジャイル開発型のプロジェクトがその典型だ)では使えないし、不要だ。

じゃあ納期だけが先に決まっていて、そこから逆算で無理矢理にアクティビティの期間と完了日を決めていく、「気合いと根性」型のガントチャートは? むろん、これもPERT/CPMの守備範囲外である。くどいようだ、スコープ決定→スケジュール導出、というスキームを満たさない場合の、マネジメント用ツールではないのだ。

PERT/CPMは、ガントチャートにおける基本的なアクティビティの区分けを踏まえることが、正しい使用法の前提だ。そして、万能の道具ではない。どんな道具も利点と限界をわきまえて、使うべきである。しかし「PERT/CPMなんか使えない」という声が世間で聞こえるとき、そもそもそれを使うべきシチュエーションなのかどうかは、理解した方が良い。どんな道具だって、「無理が通れば道理が引っ込む」ような職場では、役に立つはずがないからだ。


<関連エントリ>
「モダンPMへの誘い 〜 クリティカル・パス法は役に立つのか?」 https://brevis.exblog.jp/33567190/ (2025-03-31)
「モダンPMへの誘い 〜 アクティビティ期間にばらつきがある場合に使うべき推定法とは」 https://brevis.exblog.jp/33602646/ (2025-04-27)



# by Tomoichi_Sato | 2025-06-18 21:19 | プロジェクト・マネジメント | Comments(2)

オンライン版・生産管理セミナー(基本編)のお知らせ(6月26日)

また、お知らせです。来る6月26日に、オンラインセミナー形式で、生産管理の基本を学ぶ場を持ちます。大阪府工業協会さんの主催で、わたし自身は大阪の事務所からzoom配信しますが、もちろん全国どこからでも参加できます。セミナーのタイトルは「生産統制」ですが、計画と統制は車の両輪で、どちらかを外しては話せないので、内容的には生産マネジメント全般をカバーしています。

このセミナーは10年近く前から、年に2回くらいのペースで続けてきました。そして内容も、時代に合わせて少しずつバージョンアップしています。古くからある生産管理という仕事の基本が、そんな10年程度の期間で変わるものか、と思われる方もおられるかもしれません。でも、実際には変わるのです。それは、生産マネジメントの方式がいろいろ存在し、何を主な課題とするかによって選ぶべき手法が違うからです。

たとえば、10年前にセミナーを始めた頃は、「在庫は悪」でした。当時はトヨタを真似た、『JIT生産』方式の影響力が強かったからでしょう。在庫は少なければ少ないほど良いと思いますか? と質問したら、受講者のほぼ全員が手を上げたので驚いた記憶があります。でも、今は違います。この数年間のサプライチェーンの混乱で、やはり購入部材はある程度、安全在庫をストックしておいた方がいい、と考える企業が増えました。

では、どういうシチュエーションで、どんな方式を取るべきか。原料や中間部品の在庫を持つにしても、どこにどれくらい置くべきか。これは、世の中の教科書には案外、書いてありません。そもそも、製造業にはどんな形態・方式とシチュエーションがあるのか、その分類自体が、あまり説明されません。だから、わたしのセミナーでは、自社の立ち位置を知るための簡単なプロファイリングからはじめるのです。

ところで、以前からこのサイトの読者だった方はご存じと思いますが、わたし自身は製造業の勤務経験はありません。エンジニアリング会社に長年勤務して、製造業のお客様のために工場作りや、生産管理系システム構築のお手伝いをしてきた者です。ですから、大手製造業出身の方のような、自分の実務経験に基づく迫力みたいなものには欠けるかもしれません。

そのかわり、かなり広い業界向けに仕事をしてきて、横断的に物事を見る目がある点には、多少の自負があります。生産分野では、自動車とか電機とか「業界別」にものを考える習慣が強いですが、それは作るモノに関わる製造技術に共通性があるだけで、実を言うと生産マネジメント的には、同じ業界内でも、ずいぶん異なる形態・方式の企業があります。

ですからむしろ、よその業界であっても、似たような問題意識を持って先行している企業から学ぶ方が、役に立ったりするのです。そういう訳で、セミナー受講者の対象業種は、とくに限定していません。

もう一つ。このセミナーのサブテーマは「納期短縮」です。QCDのうち、生産管理部門が主に決められるのは、D(納期)だからです。そしてここでも、個別のテクニックを列挙するよりも、計画の共有と在庫ポイントの配置による納期設計を学びます。それはリードタイムと在庫が表裏の関係にあるからで、こうした基本的な概念を理解する方が、テクニックを沢山知るより有効だと考えています。

そして、わたしがこのような外部セミナーで教え続けているのは、自分自身が学ぶためでもあります。今の製造現場が、主に何を課題と感じているか。そして問題構造を俯瞰し理解するには、どういった視点が必要なのか。現実はつねに教えてくれます。

なお、研修講師の経験からは、対面の方がやはり学習効率は高いと言えます。お互いの顔を見て、理解度を推察しながら進められますし、オンラインより質問しやすい。ただ、オンラインの良い点もあります。一番良い点は、大阪の会場に来なくても、全国から参加できることでしょう。工場はだいたい、大都会から離れた場所に立地しています。在来線と新幹線を乗り継いで朝早く移動しなくていいのは、受講者にとって利点ではないでしょうか。

大阪府工業協会さんの会員顧客層は中堅中小企業が中心ですが、大企業の方も多少はいらっしゃいます。ちょっと考えると不思議ですが、やはり事業環境が変化すると、従来の生産管理の方法に限界が生じて、あらためて基本を考え直したい、と思われるからでしょう。生産マネジメントを理解したい・理解し直したいと感じる大勢の方の、ご来聴をお待ちしております。

<記>

日時: 2025年6月26日(水) 9:45~16:45

テーマ: 納期遅れを起こさない 生産統制のポイント

主催: 公益財団法人 大阪府工業協会
会場: Zoom(録画配信ではなくリアルタイムです)

セミナー詳細・申込み: 下記Webサイトをご参照ください


佐藤知一

# by Tomoichi_Sato | 2025-06-07 09:31 | サプライチェーン | Comments(0)

考える技法——ディスクリートな思考方法について

  • 「考えること」について考えてみる

「佐藤さんは何も考えずにぼんやりしてる事なんか、ないんでしょ?」と言われたことがある。そうかな? 確かに、そうかもしれない。いつも、何か考えている。まあ最近は、マインドフルネスないし座禅まがいのことをしているので、その間は何も考えない・・と言いたいところだが、実は「何も考えない」のは、やってみるととても難しい。わたし達の脳は、ちょっとしたきっかけで思考のドリフトが始まるように作られているらしい。

ともあれ、わたしは、考え事が好きだ。趣味だと言ってもいい。何を考えているかって? まあ、いろいろ。とても抽象的な問題から、今夜のおかずまで。ビジネスのことから、趣味のことまで。でも具体的で直近のことより、抽象的な問題のことが多い。その同じ問題を、繰返しくりかえし考え続けている。時々、ちょっとだけ気づきがあって、少し前進する。

例えばこの、「考える技法とはどのようなものか」も、そうした問題の一つだ。抽象的だ。ちゃんと答えがあるんだかないんだか、分からない。でも考えると少しは、役に立つ。

さて、経営企画部門に移って10年以上たつが、経営計画だの戦略だのといった名札のついたサブジェクトについて、社内外の人と意見交換するうちに、気がついたことがある。それは自分と、世間の人たちの考え方や問題意識が、ずいぶん違うことだ。「なぜ、世の中の人は、こんな考え方をするのだろう?」と、よく思った。

しかし最近、問題の立て方が逆であることに気がついた。むしろ問うべきは、「自分はなぜ、世の中の人のように考えることができないのか?」なのだった。自分が世間の人のように考えられたら、コミュニケーションが通じて楽なのになあ。でも、もしかするとそれは、ディスクリートな思考方法をめぐる違いなのかもしれない、と。


  • 化学はディスクリート

きっかけは、ある会合でご一緒した東大名誉教授の幸田清一郎先生が、とても興味深い発言をされるのを聞いたときだ。「化学はディスクリートだ」という言葉が、それだ。これは物理学と化学を対比した文脈の中での発言だったと記憶する。ちなみに幸田先生は化学反応速度論の研究で知られる専門家で、前回の 書評記事で書いた「西村肇さんを忍ぶ会」にも来られていた。

化学がディスクリートだとは、具体的にどういう意味か。例えば酸素という元素がある。原子番号は8、原子量16。その直前の原子番号7は窒素で、原子量14。わたし達が毎日呼吸している空気は、この酸素と窒素が大体1対4の割合で混ざっている。

ところで、両者の性質は相当に違う。窒素は不活性で、あまり他の物質と常温では化合しない。ところが酸素は活性が高く、多数の物質と結びつき酸化してしまう働きを持ってる。原子量や原子番号がすぐ隣だからと言って、窒素の性質から酸素の性質を推測することができない。両者は極めて独立しているのだ。離散的と言っても良い。 これを幸田先生は『ディスクリート』と形容されたのだ。

これを聞いてようやく、わたしはずっと化学が苦手だった理由が分かった。わたしは化学工学科の修士を出て、化学システム工学科というところで学位をとった。だが化学は大の苦手なのだ。大学の入試では理科から2科目を選択する必要があり、物理と化学を選択したが、化学は白紙答案だった(正確に言うと、「リービッヒ・コンデンサー」という器具の名前だけは知っていたので書けた)。他の問題は解こうとすらしなかった。全部の時間は物理にあてて、最後の1問を除きすべて正解だったと思っている。

入学後もずっと化学は苦手だった。化学工学の修士課程の入試を受けるために、わたしは旺文社から出ていた高校生用の参考書をやむなく読んだくらいだ。なぜ苦手だったか。それは、推測がきかないからだ。

物理の世界では、物事は連続している。手を離して落下する物体は、距離= 4.9 x (時間)^2 の式に従って、落ちていく。2秒後と2.5秒後と3秒後の位置は、互いに関係し合っており、3.5秒後の位置も、3秒の状態から推測可能だ。だが、化学はこうはいかない。幸田先生が指摘したように、事物はディスクリートであって、窒素から酸素を推測することができない。だから、全部、暗記して覚えるしかない。わたしは暗記が大嫌いなのだった。


  • ディスクリートな思考方法は、どこが違うのか?

わたしの頭の中では、いろいろなものは、つながりあって存在している。そして互いに影響し合っている。また近隣との関係から、多少の推測ができる。比較的、相似している。しかし、ディスクリートな思考方法の頭の中では、そうではない。酸素は酸素、窒素は窒素。別の名札で、別の代物だ。英国は英国、フランスはフランス、言語も文化も全然違うね、ということになる。そりゃまあ、そうだ。

ディスクリートな思考方法の人たちを見ていると、物事は個別に独立して存在している。だから独立に、弁別や対応や解決が可能だ。AならばB、CするにはD。活気あるオフィスを作りたい。じゃあフリーアドレス制を推進しよう。プロジェクトがなんだかギクシャクしている。それはコミュニケーションが良くないからだ。成果物の品質が今ひとつだ。では検査とレビューを徹底すべきだ。そういう論理になっている。

スマート工場を実現する? じゃあ、AI/IoTを現場に導入すればいい。・・こんな風に考えられたら、楽だろうなあ。少なくとも、セールスにはとっても有利だろう。わたしみたいに、スマート工場にはMESが必須だ、なんて言ってたら商売のハードルが高くて、たまらないからだ。

納期遅れが生じている。それはスケジューリング・マネジメントができてないからだ。現場が余分なモノであふれかえっている。それはマテリアル・マネジメントが不足しているからだ・・・製造現場の2つの事象が、実は「リトルの法則」を通じてつながり合っている、などと言う事は気がつきないし、興味もない。ディスクリート思考の人たちにとって、品質QとコストCと納期Dとが、トリレンマ状態にあるなんて、当然理解の外にある。

ディスクリートな思考方法の特徴は、クローズアップと分析指向である。物事を把握し理解するには、近づいて細部をよく見ることが大切だ。細部はそれぞれ独立している。だからディスクリートな思考方法では、物事は階層的な分類、ツリー構造になりやすい。


  • ディスクリート思考とマネジメント

このようなディスクリートな思考方法には、利点がある。それは、素早く判断し、割り切りによって、余計な枝葉を切り捨てていくのに適している点だ。また、分解・分類指向だから、複雑な対象を、分担・分業化して行くのにも向いている。したがって、忙しいマネジメント職にある人間には、とても有用である。

AならばB、ということは、ルール化しやすい事も意味している。これは単なる想像だが、法学部的思考とは、かなりディスクリートな思考方法なのではないか。法学的には、窒素を見て酸素を推測する必要は、さほどあるまい。

逆に、この種の思考方法の弱点とは何だろうか? それは、端的に言うと『シナジー』という現象が出てこないことである。だって、個物は互いに独立しているのだ。部分の総和が全体である。すべては分類・分業と足し算で出来上がっている。人や組織間に関係があるとしたら、経済的ないし法的関係に過ぎない。これこそ、多くのマネージャー達が陥りがちな、思考習慣に違いない。

わたし達の社会ではペーパーテストが幅をきかせているが、それはディスクリートな思考方法が(その人の記憶力さえ良ければ)向いている。難関を突破した優秀な人たちが、マネージャー職についていく。そしてシナジー=協力という無形の価値を、見ようとしない人たちが社会を引っ張っていく。

では、ディスクリートではない思考方法とは、どのようなものか? 離散の反対概念は連続だから、「コンティニュアス思考」だろうか? いや、なんだか違うような気もする。物事のつながり、関係性を主に見ていく思考方法だとしたら、「システム思考」と呼んでも良さそうだが、どうも使い古されて、しかも実体の乏しい用語に思える。

では、どういう呼び方が良いだろうか。そして、そのような思考方法のコアの部分とは、どういうものだろうか? ――そう、まさにわたしはこういう問題を、いつも考え続けているのである。


<関連エントリ>
「頭が良くなる方法は存在するか」 https://brevis.exblog.jp/29770031/ (2021-12-05)
「知能は決断のためにある」 https://brevis.exblog.jp/33621835/ (2025-05-03)


# by Tomoichi_Sato | 2025-05-30 20:52 | 思考とモデリング | Comments(0)