なぜエレベーターは(そして仕事も)、一度にまとまって来るのか

デパートに買い物に行った。行きたい階は、上の方だったから(なぜ男性用のフロアはいつも上階にあるのだ)、エスカレーターだと時間がかかって面倒そうだ。エレベーターにしよう、と決めた。ところがエレベーターの所に行って待っていても、なかなか来ない。しまった、これならエスカレーターの方が早かったか、と思う。

とくにイライラしたのは、3台並んでいるエレベーターが、みな同じような階を同じ向きで動いていることだった。自分は1階にいて、6階にいきたいと思っている。ところが数台あるエレベーターは、皆なぜか、8階あたりを上に向かって進行中だ。何だこりゃ。もっとばらけて動いていたら、待たずにすむのに、と思う。

なぜ、エレベーターというのは、複数台あっても同じような動きをしていて、来ないときはずっと待たせ、来るときは一度にまとまってくるのか?

オフィスビルでも、エレベーターの待ち時間は、たぶん似たような状況にある。あるはずだ、と思う。ただ断定できないのは、最近のオフィスビルのエレベーターでは、どの階にいてどちらに動いているのかを表示せず、単に近くまで来たらランプで知らせるような仕組みが多いためだ。各エレベーターの位置や動きを表示しないのは、それを表示すると利用者がかえってイライラするからだ、と聞いたことがある。
(デパートが現在位置を表示しているのは、逆にたぶん顧客サービスの観点なのだろう。)

それにしても、エレベーターが団子のように固まって動くと、どういう状態が生じるのか? ようやく来たエレベーターに乗り込んでから、あらためて考えてみた。たとえば1分に1台ずつ来る場合と、3分に3台がまとめてくる場合の、待ち時間を比べてみよう。前者では最大待ち時間が1分なのに、後者では最大3分待たされる。そのため、エレベーターホールに並んで待つ人数が、どうしても増えてしまう。つまり、いったん団子運転の状態が生じると、待ち時間にムラが生じるのだ。

では、待っている人数が増えると、どうなるか。当然、乗り降りに余計な時間がかかることになる。すると、エレベーターが階と階の間を移動する平均速度が、どうしても遅くなってしまう。そして、さらに待ちの人数が増えることになる。悪循環である。別にここで待ち行列理論など持ち出すつもりはないが、結局、ある限度まで人数が増えたところで、平衡点に達する。その人数は、平均的に分散して動いているときよりも、ずっと多くなる。

なぜ、エレベーターは適度に分散して動かず、団子になってしまうのか? これは、よく考えてみると当然の理由がある。たとえば、複数台のエレベーターが、同じ方向を、一定間隔をおいて動いている状態を想像してみよう。さて、進行方向の先の階に、利用者がいて、ボタンを押して呼んだとする。すると、その階に一番近い箱が、止まってその客を拾うはずだ。

するとどうなるか。先頭の箱(ちなみに、英語ではエレベーターの箱のことをCarと呼ぶ)は、利用者を乗せるため、平均の移動スピードが、他の箱よりも遅くなる。たくさん乗客を乗せた箱は、降りるために止まる階も増えるだろう。各階停車になりがちだ。他方、一群で動いている最後の箱は、平均よりも速いスピードで移動する。なぜなら、ほとんどの利用者を、前に走っている箱たちが拾ってくれるからだ。

集団で移動する群れにおいて、先頭が遅く、後尾が早くなったら、団子状態が生じるのは当たり前である。だからエレベーターは、はじめは均等に動き出しても、次第に団子運転に陥っていくのだ。
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いったん団子ができると、利用者の到着がかなり減るまでは、解消しにくい。エレベーターには追い越しもあるが、追い越して先頭に行った箱は、やはり乗降客を先に拾うので遅くなる。満員通過もあるが、利用者の降りる階は通過できない。だから混んでいると各駅停車になりやすい。

そして、これと同じ事が、わたし達の仕事でも起きているはずだと、気がついた。

仕事というのは、なぜか知らないが、しばしばまとまって、やってくる。忙しいときに限って、さらに依頼だの注文だのトラブルだのが舞い込んでくるのだ。そして、これが、わたし達の仕事を、いっそう非効率で、ややこしいものにしている。

わかりやすいように、工場の例で考えてみる。建物のエレベーターではなく、工場の機械を想像しよう。機械は別に、階を移動したりはしない。しかし、かわりに、時間のなかを移動する、と考えてみる。1階ずつではなく、1日とか1時間という単位(タイム・バケット)ごとに、動いていく、と。載せるのは、利用者ではなく、加工対象のワークである。そのワークごとに、所要時間(=移動日数)が決まっていく。ちょうど利用者ごとに行き先の階が決まっているように。

ただ、エレベーターとは違い、別々の客(=異なる種類の品目)を混載することは、普通ない。だから機械の処理速度自体は、どれだけ注文が混み合って、その機械の前に未加工品の在庫の列が並んでいようと、変わらない、と思われている。いや、セットアップ・タイム(段取り時間)を考えれば、ロット数が大きいほど、むしろ全体の効率が上がるはずだ、と。

ところが、工場をよく観察していると、加工待ちの行列が増えるほど、機械の平均的な処理速度が落ちていく現象が、しばしば観察される。その主な理由は、モノ探しである。手前の行列が増えるほど、次に加工すべきワークの所在が分かりにくくなるからだ。加工速度は変わらなくても、セットアップ・タイムが長くなってしまうのだ。

とくに、個別性の高い多品種の組立加工をしている場合(今の日本ではたいていそうだが)、それに必要な部品が全部そろっていなかったり、ツールや金型を待ったりする可能性が増える。しかたなしに、製造順序を入れ替えて、別のワークを探しに行かなければならない。現場の製造順序が入れ替わると、下流工程や出荷日にまで影響が及ぶ。だから社内外の調整作業も発生する。本来そんな作業は不要だったはずなのに、余計な仕事が増えるのだ。

おまけに、機械も人もフル稼働が続くと、どうしても疲労や故障も起きやすい。忙しいプロジェクトの追い込み時期に限って、キーパーソンが倒れたり現場で事故が起こったりするのも、よく見聞きする話ではないか。

機械ではなく、人間が頭脳労働だけを担うホワイトカラー的職種も、じつは似たような事が起きる。人間だって、マルチに案件を抱えると、どうしても頭の切替えのために、一時的に集中度が落ちる。これは心理学的実験でも明らかだ。それに受注した仕事量が増えると、どうしても優先順位の判断だとか、日程の入れ替えのための調整時間が増える。

人が足りないから、他から人を入れて増員することもよくある。だが、そうすると、増員された人がその案件の状況を理解するまでの、学習時間がかかる。キャッチアップするまでの間、当然ながらその人の生産性は、最初から関わっていたときよりも落ちる。こうしたことが、仕事の繁忙に伴う、生産性の低下である。

仕事量が増えて忙しいと、平均的な生産性が下がる。でも仕事量が減ってある程度余裕ができると、処理スピードが上がる。だったら、職場全体では、適正な速度にバランスするのではないか、と思いたくなる。

ところが、そうはならないのだ。現在の原価計算では、工場の稼働率が下がると、機械の1時間あたりのコスト(賃率)が上がるしかけになっている。SIerや建設業など、受注産業では同じ事情だ。つまり、同じ仕事でも見積金額が上がるのだ。上がったら、コスト競争力が下がって、仕事がとれなくなる。

仮に賃率が据え置かれたとしても、会社というのは受注量が減ると、注文を取ろうとして、見積案件数を増やしていく。見積自体は、金にならない。だから大してヒマにならないのに、生産性(付加価値労働生産性=労働時間あたりのスループット)は下がっていく。

仕事については、もう一つの要因も考えられる。それは、繁盛している店には客が殺到し、閑散とした店は客が敬遠する、という事情だ。行列がさらに行列を呼ぶ、といってもいい。コンサルタントなども、満足した顧客による評判が、さらに顧客を集め、逆に評判の乏しい所には、あまり顧客が集まらない。つまり顧客の側に同調作用が働くのだ。株価は上がるとそれを買う人が集まってますます上がり、下がると離れる人が増えてますます下がるのと、同じ理屈だ。同調作用は、不安定性と偏りによる波を生む。

このような波が生じると、当然ながらその波は、さらに発注先の企業や業種に伝播していく。セットメーカーに波があれば、部品メーカーにも波が及ぶ。サプライチェーン全体に波が伝わっていくのだ。しかもこの波は、ブルウィップ現象によって、しばしば増幅されていく。

世の中には、「シリコン・サイクル」だとか「エチレン・サイクル」などの、業界別の設備投資の数年単位の波が観察される。こうした波も、似たようなメカニズムで生じているのかも知れない。そうでなくても、もっと細かな波は、あるいは需要の「団子現象」は、あちこちで起きやすいのだ。

こうした波の存在は、企業全体の、いや、業界全体の生産性を損なっている。波がひどすぎると、企業経営者は、人件費を固定費から変動費に切り替えたいと考えるから、派遣労働者に頼る比率が増えていく。そうなると雇用環境が不安定になって、ますます実質賃金が下がり、消費が冷え込んでいく。すると需要が下がって・・

それでは、どうしたら良いのか?

エレベーターの話に戻そう。世の中には、「AIで制御すればいいじゃないか」と、何でもAIで解決するかのように思う人もいるだろうが、そうではない。この問題の本質は、「先行する箱が、待っているすべての乗客をサービスしようとするため、平均移動スピードが下がる」「後続する箱は、客が少ないから、早く移動できる」という問題にある。この原則がある限り、AIでも団子運転はどうにもならない。

したがって、先着の箱が「すべての客をサービスする」ことをやめない限り、解決はないことが分かる。

答えは簡単である。一度に乗り降りする客数を制限して、移動速度を平均化するのだ。そんなことをしたら乗れなかったお客が怒って大変だぞ、と思うかもしれない。そこで、乗降客を、行き先の階ごとにまとめて、一つの箱に乗ってもらうよう誘導する方法が考えられる。行き先別に、2-4階、5-7階、8-10階、という風にグルーピングし、箱にもそう表示するのだ。

ただしこの場合は、エレベーターホールの上下リクエスト・ボタンを、箱ごとに個別に設定する必要がある。事実、最近のオフィスビルでは、上下ボタンではなく階別にボタンが並んでいて、自分の行き先階を個別に押すタイプも出てきている。

もっとも、この方法はハードの改造が必要だ。それがムリな場合は、人が制御するしかない。つまり、一昔前の、エレベーターガールの復活である(別にボーイでもいいが)。とにかく、意思を持って、需要量をコントロールするしかない。「恐れ入りますが、次のエレベーターをお待ち下さい」という必要がある。

では、仕事は? 仕事についても、実は同じだ。自分の適正な能力を超えて、仕事を取り過ぎないようにしなければならない。だが、たいていの企業にとって、これはとても難しい。営業部門は受注高で目標管理するのがつねだし、経営者もできる限り売上を増大して株主にアピールしたい。多くの企業にとって、自社の実際的な遂行キャパシティは、数値的によく見えていない。だから、過剰な受注でも「気合いと根性」で何とかできると思いがちだ。

ところで以前も書いたように、トヨタ生産方式の人達は、「ムラがあるからムリをする。ムリをするから、ムダがでる」という言い方で、仕事量のムラが様々な問題の根本原因と考えている。だからこそ、あれほどトヨタは平準化生産にこだわるのである。

多品種の場合も、品種ごとに数量を固めて作りだめをするのではなく、あえて数量を期間内に一定に散らして指示を出す。営業部門に対しても、平準化した受注ができれば、どれだけ工場は作りやすいかを、トヨタでは教育する。

営業部門が、平準化も何も考えずに、ただ客のいうとおり仕事を取ってきて、特急注文も変更も右から左に技術部門や工場に回すような企業では、波は防げない。だから、自社のキャパシティを、営業と技術部門とで可視化して共有するような仕組みが必要だ。それはたとえば、製造業における「生産座席予約」のような仕組みである。

と同時に、逆に、自社の波を、サプライヤーに波及させない工夫も必要だ。サプライヤーに波をかぶせると、相手の生産性を下げるわけだから、結局は高い買い物をすることになる。それよりもむしろ、自社で原材料の在庫をある程度抱えて、サプライヤーには平準化した一定量を発注するようにした方が、賢いということになる。今、あちこちの会社がやっている「JIT納品の押しつけ」とは、反対のことをやる訳だ。

「そんなことをしたら、自社だけが変動のリスクをかぶることになる」という意見が出そうだ。あらゆることを変動費化して、すべてのリスクを他者にヘッジするという、現代流の経営思想には、あまりマッチしない。外資系コンサルなどからも、賛同は得られまい。

だが、サプライチェーンの中では、自らがリスクに身をさらして、需給を調整する機能を持つところが、結局はパワーを得る。それが、サプライチェーンの原理である。団子になったエレベーター群で、誰が一番先に乗り込むか競争するよりも、団子にならないエレベーター操業を考えて守る方が、わたしは賢いと思うのだ。


<関連エントリ>
 →「とれるだけ仕事をとってはいけない」 https://brevis.exblog.jp/22850999/ (2015-03-03)
 →「ムリ・ムラ・ムダ 〜 どれが一番いけないか?」 https://brevis.exblog.jp/25029784/ (2016-12-09)
 →「BtoB企業とサプライチェーンの強者 ~これから就活をする大学3年生へ」 https://brevis.exblog.jp/19283044/ (2012-11-28)


# by Tomoichi_Sato | 2018-12-05 23:18 | サプライチェーン | Comments(0)

マネジメント的な認知症を防ぐ

何年か前、まだ肌寒い季節の夕方のことだったと記憶している。車で隣町を移動していると、ふと、助手席にいた連れ合いが、道端を指さして、「あの女の人、さっきもあのあたりを歩いていなかった?」といった。見ると、高齢の女性がぼんやりした様子で立っていたが、パジャマのような衣類の上に、薄いカーディガンを羽織っているだけで、足元はスリッパだった。

わたし達は車を止めて、その女性に声をかけてみることにした。すると、こちらが何か言う前に、女性の方から「あの、○○さんの車じゃありません?」と問いかけられた。
「いえ、○○さんという方は知りませんが、どなたかお待ちなんですか」とわたしは答えた。
「日曜日の朝は、弟が車で迎えに来てくれる筈なんですが、その車かと思いまして」と老婦人は答える。

もちろん、今は日曜の朝ではない。連れ合いと顔を見合わせて、ともあれ、その女性を車に乗せることにした。いわゆる徘徊老人なのかも知れないと思ったからだ。

「寒いでしょうからお宅までお送りしますよ。どちらにお住まいですか?」とたずねた。すると、丘を一つ越えたあたりの住所らしきものを答える。「ご親切にどうもすみません」と、その老婦人は品良くこたえる。そして、この辺りにはもう20年も住んでいる、という。車内でおしゃべりをしながら、その住所の近くに来たら、「ここでいいからおろして下さい。後は歩けますから」という。なんとも心配だったが、言い張るので結局、その女性をおろしてあげた。

帰り道、連れ合いとわたしは、その女性との対話について語り合った。言葉遣いは丁寧で、よどみなくすらすらと受け答えし、ちゃんとした会話になっていたように聞こえる。だが、よく考えてみると、住んでいる年数をはじめ、つじつまが合わない。何より、衣服などから見て、どこか施設から飛び出してさ迷っていたようにも思える。たとえ嫌がったとしても、警察に送り届けるべきだったかもしれない。

それから数日後、わたし達は、一人暮らしをしていた母のもとをたずねた。母はすでに高齢だったが、亡くなるまでずっと、頭はちゃんとしていた。その母が、何かTV番組を見たらしく、こんなことを言い出した。

「認知症になると、ものごとの全体をつなげて考えられなくなるみたいね。たとえば冷蔵庫の中にある材料を使って、今夜の献立を一揃い考える、とかができなくなるらしいわ。つまり、マネジメントができなくなるの。」

老いた母から『マネジメント』という言葉が出たので、わたしはびっくりした。母はずっと職業婦人で、記録映画や映像展示プロデュースに関わる分野において、プロジェクトに従事していた人だ。だからマネジメントとはどういう仕事か、もちろん良く知っている。でも実務の世界から引退して何年もたっていたし、ビジネスの話はあまり自分からは出さなかったので、驚いたのだ。

いま手元にある資源(=食材)を活かして、なんとか価値のある結果(=料理)を生み出すこと。それがマネジメントのだと、母はいっている。まったくその通りだ。そして、部分と部分をつなげて、全体を構想するのがマネジメントの仕事だ、とも。

わたしは、隣町で出会った認知症らしき老婦人のことを思い出した。その人の会話の特徴は、部分部分はちゃんとまともに聞こえるのに、全体としてつじつまが合っていないことだった。また、どこに向かって進んでいこうとしているかも、よく分からなかった。ただ何となく、自分が元いた(らしき)場所に戻ろうと、さ迷っているのだ。

認知症について、わたしはさほど知っているわけではない。身内にそうした人を抱えて苦労した経験も、今のところ、ない。ただ、なんとなく、認知症というのは、カメラのピントがぼやけていくように、その人の世界の認知が少しずつぼやけていくのかと想像していた。

しかしどうやら、そうした先入観は間違っているらしい。細部のピントがぼけはじめるのではない。むしろ、個々のピントは合っているのに、全体の構図が崩れはじめる、という表現の方が合っているようだ。認知症の人は、初期段階ならば、日常生活はさほど支障なくすごせるという。日々の生活でするべき、細々とした動作を、とりあえずちゃんとできるからだろう。一種の条件反射のようなものだ。歯を磨く、顔を洗う、水を飲む、食事をする。こうしたことは、すべて滞りなくできる。

話もできる。話も、一応ちゃんと筋がある(ローカルに見れば)。だが、見当識、つまり自分が誰だとか、今が何月何日だとか、ここがどこかとかいった事が、正確に言えない。事実が客観的に、認識できないのだ。自分の主観の中で再構成された、自分になじみのいい関係性だけが、事実の解釈を乗っ取ってしまう(「弟の迎えの車かと思いましたの」)。

わたしは家に戻り、書棚から、10年以上前に読んだ阿保順子・著「痴呆老人が創造する世界」を取り出して読み直して見た(この本は「認知症」という言葉が普及する前に出版されたが、現在は「認知症の人々が創造する世界」と改題され岩波現代文庫に収録されている)。本書は、看護職だった著者が、文化人類学的な手法で認知症入院患者を調査し記述した、独創的な本だ。

そして、著者の阿保氏によると、施設に入居して介護を受けつつ暮らしている老人たちは、ある意味、驚くほど「豊かな」社会生活を送っている。単に砂時計の砂が流れ落ちるように、崩壊への時を過ごしているわけではなく、架空の地理感覚や家族観念の中で、役割を演じて生きている。つまり彼らは、世界を我流に再構成しているわけだ。

とくに、コミュニケーション、つまり他者との手短かなやり取りは、本人たちの言語機能が壊れているのに、いつまでも残る。内容や意味は他者と通じていないのに、「言葉をかわす行為」自体は非常に良く保たれているのである。彼らにSNSがあったら、タイムラインは意味なきおしゃべりに満ち溢れているだろう。

医学的な認知症は、「エピソード記憶」「分割注意機能」「計画力」の機能不全として現れる。認知症は、単に物忘れがひどい、とは違う。最近の体験的記憶を保持できないのだ。自分の経験から学ばない、とも言える。ただし過去に身についた習慣や、過去の感情の記憶だけは残っている。分割注意機能の障害とは、つまり複数のことに同時に注意を向けることができないという意味だ。認知症の初期の人は、たった一つのことだけに集中しすぎる。そして「計画力」の欠如とは、上に述べたとおりだ。

ミクロには機能している。だが、マクロには方向性もつじつまも合わない。それが「マネジメントができなくなる」という事だと、母は言った。そう言われて、わたしは急に、気になることに思い当たった。

当時、わたしはひどいプロジェクトに関わっていた。ここで詳しくは書けない。だが、それこそ、「ローカルには機能しているのに、グローバルには方向性がなくバラバラ」というプロジェクトだった。個別の設計作業は、それぞれ一応は動いている。だが、全体のスケジュールやコストを守るための戦略が見えぬまま、混沌ともつれた状態のまま進んでいた。

それはたしかに、プロジェクト・マネジメントの問題だった。いや、むしろ力量不足のプロマネをちゃんと支援できない、プログラム・マネジメントのレベルの問題といっても良かった。

さらに、世の中に目を転じてみると、似たようなことはいろいろと見つかる。営業が無茶な条件で取ってきた案件を、プロマネがヒイヒイ言いながら苦心惨憺、遂行するという例は数知れぬ。営業は営業で、受注高の成績を上げなければいけない。だから厳しい競争でも取ってくる。

だが、厳しい条件でスタートするプロジェクト案件ばかりが増えたら、どうなるか。プロマネはなんとか有能な人員を囲い込んで、自分の仕事だけは守ろうとするだろう。個々には合理的に見えるふるまいだが、組織全体では筋が通らぬ。

あるいは、技術的なことについては、論理的に考えるのに、仕事全体の認識となると、とつぜん非科学的になってしまう管理職も、よく見かける。個別の設計では「これだけ負荷がかかるのに、こんなヤワな構造で設計して、持つ訳ないだろ!」と論じていた人が、沢山の仕事を受注できそうなあかつきには、人の配員の問題について「気合いと根性で乗り切れ」みたいなことを言い始める。ミクロには合理的だがマクロには不合理。まことに不思議である。

いや、ことはビジネス界だけではなさそうだ。行政の分野でも、教育の分野でも、メディアや政治の世界でも、なんだかミクロには機能しているのに、マクロにはビジョンが不在、という例を多く見かける。わたし達の社会は、そんなマネジメント的な認知症がはびこりはじめているらしい。どうしたらいいのだろうか?

医学的認知症の人は、知性は壊れているが、習慣的行動と、快不快の感情に駆動された短期的行動はとれる。マネジメント的な認知症も、これに似ている。以前からの習慣と、売上目標だとか原価低減といった目先の判断基準だけで、直近の行動が決まっていく。

加えて、医学的認知症の患者は、自分で勝手に自分の周囲に物語を、それも事実とは似て非なる物語をつくり上げる。マネジメント的な認知症も、似た傾向がある。事実を勝手に自分流に解釈し、脊髄反射的に対応する。これが症状である。

認知症は、自分では病識がない。だから、まず「これは(マネジメント的な)認知症だ」と判断することが、問題解決の出発点だ。

防ぐには、他者と交流しろ(孤独を避けよう)、運動をしろ、脳を刺激しろ、良い食事をしろ。医学的な認知症の予防には、そんなことが言われている。だが、マネジメント的な認知症には効くまい。

マネジメント的な認知症の一番の原因は、上で述べたように、自分の認知を離れて、「客観的に」「他者の視点で」事実を検証しようとする働きがないことにある。問題が起きたら、まず事実を客観的に把握する。その上で、適切な対策を計画する。こうした、あたりまえのことができるようになる必要がある。

そのためには結局、意味のある議論、品質の高い議論を、くりかえしするべきだし、できるような場を組織の中に用意すべきだ、というのが現時点でのわたしの仮説だ。すれちがいの対話やコメントの応酬ではなく、あるいは勝ち負けのある勝負事としての言い合いではなく、お互いの認識と考えを変えるための議論。それを可能とする、コミュニティの存在。縦社会の会社組織の中で作るのはむずかしいが、これを避けていると、自分たちもいつかマネジメントの立場に立ったとき、認知症に陥る危険性がある。

マネジメントは、逆境のときにこそ、重要になる。順調なときは、環境がそろえば、あまり深く考えずとも組織は成長できる。それは昭和の高度成長時代が示したとおりだ。してみるとわたし達の社会は、本当は、ずっと以前から、マネジメント的な認知症の気(け)があったのかもしれない。社会が老成してきた今こそ、わたし達は他者との議論を大切にしていくべきなのだろう。


<関連エントリ>
 →「議論の品質を問う」 https://brevis.exblog.jp/27375732/ (2018-07-04)
 →「どうどう巡りの議論を避けるために」https://brevis.exblog.jp/27411722/ (2018-07-14)




# by Tomoichi_Sato | 2018-11-27 12:24 | 考えるヒント | Comments(0)

書評:「センス・オブ・ワンダー」 レイチェル・カーソン著

珠玉のような、という形容詞は,この本のためにあるのだろう。

少し前、久しぶりに熱を出して数日間寝ていたとき、病床でこの本を読んだ。小さくて薄く、持ちやすい装丁。活字は少なく、美しい自然の写真にあふれている。ベッドの中、熱に浮かされた頭で、ポツリぽつりと読み継ぐのにちょうど良かった。そして、疲れていた心も、静かに慰められるようだった。

「ある秋の嵐の夜、わたしは一歳八か月になったばかりの甥のロジャーを毛布にくるんで、雨の降る暗闇のなかを海岸へおりていきました。
 海辺には大きな波の音がとどろきわたり、白い波頭がさけび声をあげてはくずれ、波しぶきを投げつけてきます。わたしたちは、まっ暗な嵐の夜に、広大な海と陸との境界に立ちすくんでいたのです。
 そのとき、不思議なことにわたしたちは、心の底から湧きあがるよろこびに満たされて、いっしょに笑い声をあげていました。」(P. 7)

・・この本は、こんなふうに始まる。著者のレイチェル・カーソンは海洋生物学者で、著名な作家だ。自然を深く愛した彼女は、米国の最北東端メイン州の海岸にある、小さなコテージ風の別荘に、毎夏数ヶ月を暮らしている。そして、幼いときに母を亡くした小さなロジャーと共に過ごした時間を、この短いエッセーにまとめた。

R・カーソンといえば、『沈黙の春』(The Silent Spring)が有名だ。1962年に出版されたこの本は、人間の文明活動が、見えぬ間に引き起こす環境破壊について、史上初めて、明確な形で警鐘を鳴らし、ベストセラーとなった。環境問題はその後、公害反対やエコロジー運動と結びついていくのだが、彼女自身には別に活動家という意識はなかった。ただ彼女は、自然を愛していただけなのだ。

“The Sense of Wonder”が、本書の原題である。定冠詞のtheがついている。それは、誰もが知っているはずの、あるいは知りうるはずの、ものである。「センス・オブ・ワンダー」という言葉は、SFなどの評論でよく使われたりもした。読者に驚異の感覚を与える、という程度の意味だ。でも本書では、

「センス・オブ・ワンダー = 神秘さや不思議さに目を見はる感性」

との意味で使われる(P. 23)。それは対象が自分(読者)に働きかける力ではない。自分から、対象に感じ取るべき能力、自分の中に育てるべき感受性のことを指している。目で見る視覚だけでなく、鳥の声や虫の音を聞きとる聴覚、いつまでも自分の中に忘れ得ぬ経験として残る嗅覚、ふかふかの苔の絨毯を踏んで走り回る触覚など、五感のすべてを動員して、気づき、受け入れる力だ。こういうセンスを、すべての大人達が持ってほしい、そして子どものときから育んでほしい、と著者はいう。

自然についての知識、たとえば鳥や木々の名前を知ること、星の巡りや潮の満ち干の法則を理解することは大事だ。だが彼女は、「『知る』ことは『感じる』ことの半分も重要ではないと固く信じています」(P. 24)と書く。

『美しいものを美しいと感じる感覚、新しいものや未知なものにふれたときの感激、思いやり、憐れみ、賛嘆や愛情などのさまざまな感情がひとたびよびさまされると、次はその対象となるものについてもっとよく知りたいと思うようになります。そのようにして見つけだした知識は、しっかりと身につきます」(P. 26)

これを読むと、著者のレイチェル・カーソンが(書いたときは50代に入る頃だったはずだが)、いかに深く豊かな感情を心に抱いていたかが、よくわかる。感情とは、人の心の中の資源である。それを掘り起こして、価値あるものに実らせるかどうかは、生きることの質に大きくかかわっている。

そうした感覚を育てる最良の教師は、自然とふれあうことだ、というのが著者の信じることだ。これは米国のナチュラリストの系譜に通じる考え方だろう。米国はきわめて人工的な文明を発達させた国だが、その一方で、手つかずの自然の美を大切にするナチュラリスト達の、細いけれども絶えざる流れがある。彼らの存在が、現代アメリカ文化に、ときおり細やかな陰影を与えている。

そして著者は、ナチュラリストの感性を、美しい言葉のつらなりに表現する才能に恵まれていた。ほとんど散文詩のように書かれた本書は、その結晶であろう。『沈黙の春』完成後、すぐ56年間の生涯を閉じたレイチェル・カーソン晩年の遺稿をまとめたのが、本書「センス・オブ・ワンダー」であった。

自然は驚くべき優しさをもって、小さな子どもや、傷つきやすく疲れた人びとの魂を癒やしてくれる。そういう彼女の信条を歌い上げた、最後の絶唱が、この本だ。憂うつなとき、ひどく疲れていると感じたときに、手にとって読むことをおすすめする。写真もとても美しい。


# by Tomoichi_Sato | 2018-11-17 15:24 | 書評 | Comments(0)

「プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会」(11月27日)開催のお知らせ

プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会」の2018年第5回会合を開催いたします。

当研究部会は2012年の12月に、4人の講師を招き、半日を使ってミニ・シンポジウムを開催しました。今回は、その時の講師の中で最も人気が高く反響の大きかった森茂利氏に、久しぶりにご講演いただきます。

森さんはリクルート社での長年の経験を起点に、現在はフリーのコンサルタントとして、主にサービス業のビジネス開発と組織づくりの仕事に関わっておられます。ところで、新しいサービスの開発とは、どのように進むものなのでしょうか? 周知の通り『独自の製品、サービス、所産を創造するために実施される有期性の業務』というのが、プロジェクトの一般的定義です。そして新製品開発だとかITシステム開発のように、成果物としての実質を作り出すプロジェクトについては、多く語られています。

しかし、目に見えず、顧客の利用と同時的にしか存在しえない「サービス」を開発していくプロジェクトの進め方、マネジメントのあり方は、当然かなり異なるはずです。とくに今回は、IT企業における事例をとりあげ、請負体質から脱却し、自らのビジネスをいかに創り上げていくかを、語っていただきます。またIT企業における営業のあり方には、さまざまな問題点が見受けられますが、森さんは営業・マーケティング改善のプロでもあり、その面でも、《お悩み解決》のヒントを多く聴けるはずです。

大勢の皆様のご来聴をお待ちしております。

<記>

■日時:2018年11月27日(火) 18:30~20:30

■場所:田町キャンパスイノベーションセンター 
5F スペース:509AB
(いつもの慶応大学三田キャンパスとは場所が違いますのでご注意下さい!
 JR田町駅の芝浦口から右方向の階段をおりて、50mほど先の右手の建物です)

■講演タイトル:
「IT企業 請負体質からの脱却
 〜 AIに振り回されず、お客さま起点で人材育成とサービス化推進中」

■概要:
50年続いているIT開発企業は、これまでずっと請負体質のままで商いを継続。しかし二代目社長になった年、次の成長にむけて、自立型企業への変革を一人に賭けた! この三年半の動きをお伝えします。

■講師:フリーエージェント、《稼げる力と強い組織創り》エヴァンジェリスト
森茂利(もり・しげとし)

■講師略歴:
名古屋工業大学卒
78年 リクルート入社
85年 ネットワーク起ち上げ事業に参加 技術系マネジャーとしてデータ・ 
   スーパーコンピュータ・音声サービスの技術支援部隊を統括
03年 ソフトブレーンに主席コンサルタントとして入社
15年 ソフトブレーン退社 独立コンサルタントとして、現在に至る

■参加費用:無料。
 ちなみに本研究部会員がスケジューリング学会に新たに参加される場合、学会の入会金(¥1,000)は免除されます。
 参加を希望される方は、確認のため、できましたら前日までに三好副幹事までご連絡ください。

 以上、よろしくお願いいたします。


佐藤知一@日揮(株)


# by Tomoichi_Sato | 2018-11-11 21:30 | プロジェクト・マネジメント | Comments(1)

コード体系の設計法を考える

はるか数千年前の古代中国。動物は、以下のように分類されていたという。

(a) 皇帝に属するもの、(b) 香の匂いを放つもの、(c) 飼いならされたもの、(d) 乳呑み豚、(e) 人魚、(f) お話に出てくるもの、(g) 放し飼いの犬、(h) この分類自体に含まれているもの、(i)気違いのように騒ぐもの、(j)算えきれぬもの、(k) 賂蛇の毛のごく細の毛筆で描かれたもの、(l) その他、(m)いましがた壷をこわしたもの、(n)とおくから蝿のように見えるもの。

これは哲学者M・フーコーの『言葉と物』の冒頭に紹介されている話だ。分類体系としては、いささか奇妙である。まず、皇帝に属するもので、かつ、香の匂いを放つものは、どちらに分類するのか。それに、乳飲み子から育ってしまった豚はどうするのか・・

ま、これはもちろん真面目な顔をして書かれた冗談である。調べると、どうやら元ネタは、アルゼンチンの作家ボルヘスのようだ。幻想的な作風で知られる南米の巨匠ボルヘスらしい、奇妙なウィットに富んだジョークだ。

ただ、物事を体系的に精緻に分類するのが好きな文化と、あまり分類には関心を持たぬ文化が存在するのは事実らしい。たとえばギリシャ・西欧文明は前者で、彼らの学問はしばしばカテゴリー論と認識論にこだわる。他方、東アジア・東南アジアは、後者に属するのではないかと感じている。これは個人的な感触に過ぎないが、しかしたとえば梅棹忠夫も「東南アジア紀行 」 で、タイや中国の大学研究のあり方についてそんなことを述べていた。ちなみに生物の分類学を体系化し、「学名」という命名システムを発明したのは、西洋人のリンネであった。

ところで今、分類体系とか命名システムという語を用いたが、では中国語で『系統科学』というと、何を差しているかご存じだろうか? じつはこれ、System science すなわち「システム学」の事なのである。システムとは、元々、系統あるいは体系のことを指していた。現に今でも英語では、(生物)分類学のことをSystematicsと呼んでいる。

だから我々も日本語では、システム工学とか書かずに、「系統工学」とでも呼んでおけば良かったのではないかと、時々思う。システムエンジニア(SE)ではなく、系統技術者である。漢字の方が、カタカナより、多少は分かるような、あるいは威厳を感じさせるような気がする。今日、多くの経営者が、「俺はシステムとかコンピュータとかって、サッパリ分からん」、で済ましていて、IT分野の技術者はいつも傍流扱いの金食い虫みたいに思われている事態も、少しは防げたかもしれない。

さて、前回の記事「従業員番号のない会社、あるいは、わたし達の社会のアキレス腱について」 で、コード化に関するリテラシーの低さが、わたし達の社会のアキレス腱になっていると書いた。わたし達の仕事においては、何かを追いかけコントロールしたかったら、それに整理番号のコードをふっておくべきである。これはビジネスにおける業務知識だとか技術だとかよりももっと基本的な、思考と行動の習慣であって、わたしが「OS」と呼ぶものの一部だ。

わたし達の社会は、はっきり言って、物事にコードを振る、という部分のOSが弱い。コード体系の作り方も、あまり上手ではない。いや、それ以前に、コード体系の作り方に上手下手がある、という感覚自体が薄い。「コード設計論」を、本来は大学でも教えるべきだとわたしは思うが、そんなコースを開設したというニュースを聞いたことがない。

ビジネスでは従業員番号にはじまって、製品コード、部門コード、取引先コード、受注ジョブコード(製番)、マテリアル・コード(品目コード)など、様々なコード体系が必要だ。なのに、それらは、どこか担当部門が勝手に決めているか、あるいは(例によって、ERP導入に伴う大騒ぎの際に)IT部門の若手あたりに押しつけられる仕事になっている。そして、上に述べたような、わたし達の文化に内在する「体系的分類に関する思考の弱さ」が、足を引っ張ることになる。

一例を挙げよう。ある会社では、マテリアル・コード(品目コード)を、以下のような桁区切りのシステムでとっている。

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このようなコード体系の長所は、何だろうか。そして短所は? −−先を読む前に、少しだけ考えてみていただきたい。

ちなみにこの会社は、製造業である。日本では最も一般的な、組立加工系の業種の、部品メーカーだ。それなりの技術力も持つ、業界では一目置かれる存在の企業である。そこが、このような体系を使っている。そのことについて、あなたはどう思うだろうか。

長所を挙げよう。まず、固定桁数のコードなので、コンピュータで扱いやすい。そんなの当たり前だろ、と思われるかもしれないが、放っておくと、「1, 2, 3….11, 12, 13」みたいな桁数可変の番号を振り始める人間は、いくらでもいる。

それにもう一つの長所は、部品番号を見ると、それがどの製品に使われているか、すぐに分かることだ。これは、製造現場で現品票などがきちんと添付されているならば、「この部品ってどれに使うんだっけ」といったことが、すぐ分かるメリットがある。

では、欠点は? まず思いつくことは、製品の後の部品の連番が、3桁しかないことだ。一つの製品を作るのに、999個を超える部品数が必要な、複雑な製品だったらどうするのか? ・・まあ、この会社は部品メーカーだから、この会社にとっての「製品」は、顧客である自動車メーカーや家電メーカーにとっては、小さな「部品」にすぎないので、たぶんそんなケースはないと思ったのかもしれない。だが、この会社が、将来もっと消費者に近い製品を開発して、売り出さないと、誰が決めたのか? 経営者か? そうではあるまい。

もう一つの欠点。それは、複数の製品で共通の部品を使う場合はないのか、という問題である。ボルト・ナットの類いは、おそらく共通性が高いはずだ。それはどうするのか? まさか、製品ごとに、異なる品目コードを振り直しているのか? だとしたら、合計の在庫数量は、どうやって管理しているのか。謎である。

そもそも、このような部品コード体系を考える、ということは、この会社の技術部門には、「部品の共通化」という大事な問題意識が、最初から欠落しているらしいことを示している。部品メーカーは、顧客の個別注文にいちいち応じることが、命題になっている。だが、自分たちの生産性を上げたかったら、いかに共通部品を増やし、設計を再利用するかが、ポイントとなるはずではないか。

でも、もう少し続けよう。次の例は、どうだろうか?
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このようなコード設計の長所をあげるとしたら、最初の5桁で表される製品コードの決め方が、より体系的(システマティック)であり、2桁目までで種別が明確なことだ。

では、短所は? これは、ここではあえて論じない。読者諸賢は、ご自由に考えてみていただきたい。

この例のように、コードを複数の桁の単位に区切り(見た目が分かりやすいように、ハイフンが良く使われる)、その後に連番を打つ、という方法は広く使われる。前方に置かれるのは、分類を示す記号である。それも大分類・中分類・小分類といった、複数のレベルにまたがる分類であったり、異なるカテゴリー(分野別・素材別・地域別など)の表示だったりする。

つまり、こうしたコード体系では、前半は主に人間にとって「意味」のある判別記号を表し、後半は意味のない番号になっている。問題は、そのようなコード体系の「意味」を、どこまで普遍性を持ち、かつ、長持ちできるように定義できるかだ。

最初にあげた中国の動物分類は、あまりにも馬鹿げているので、まずい体系だということは誰でも分かる。あのような体系は、MECEになっていない。MECEとは、Mutually Excludive and Completely Exhaustiveの略で、ロジカル・シンキング用語である。意味は、「お互いに重複もなく、漏れもない」という意味である。

何かを分類する人は、その分類方法が、MECEであるかどうか、意識する必要がある。ところが、これが案外、難しい。わたし達の文化では、そのような思考の訓練を、初等教育でも高等教育でも、受けていない。

それにもう一つ。西欧的な文化で育った人は、MECEには慣れている。しかし、逆に、分類というものが、時と共に移りゆく可能性のある、動的なものだという感覚が薄い。コード設計には、このMECEセンスと、分類は動的なものという感覚の、両方が必要になる。

じつをいうと、上にあげた2例は、藤井一良著『「品目コードNo.」の考え方・採り方』(日刊工業新聞社)から引用させていただいた。本書は、わたしの知る限り、この問題を正面から扱った唯一の和書である。

この中で著者は、こう指摘している:

「実際、長年パンクなど大きな不具合もなく運用され続けている体系に共通しているのは、“分類の定義設定が懲りすぎていないこと”です。コード体系は永久に継続していくことが大切なのです。」

まことに正しい指摘だ。過度に分類しすぎた体系は、時の移り変わり(事業環境やビジネス構成の変化)についていくことができなくなる。

ついでにいうと、上の文章で「パンク」と表現されているのは、『品番爆発』とよばれる現象である。品目数が、色や外形や表面処理などのバリエーションのために掛け算で増えてしまい、連番の上限を超えてしまう現象である。上の例では3桁しか連番がないから、1000以上に増えると、コード体系が破綻してしまう。

したがって、上手なコード設計では、「意味」の部分をあまり多く取り過ぎず、なるべく単純な「連番」を使う方が良い、ということになる。とはいえ、連番部分の桁数が増えすぎると、人間が覚えきれないし、入力時にミスを誘発しやすい、といった副作用が出る。しかもいったん設計に失敗すると、後でコード体系の変更などという、とんでもないコストを支払うことになる。

コード設計は、こうしたトレードオフの中で、リーズナブルな形態を決めていく、高度に知的な作業なのである。いってみればIT技術、とくに上流工程といわれるビジネス・アナリシスにおいて、きわめて重要なスキルである。なのに、こうした知恵について教える大学もなければ、書いている本もきわめて少ない。こういう知的状況を見ると、わたし達の社会のアキレス腱は本当に大丈夫かなと、いつも心配になるのである。


<関連エントリ>
 →「従業員番号のない会社、あるいは、わたし達の社会のアキレス腱について」(2018-10-19)https://brevis.exblog.jp/27603707/


# by Tomoichi_Sato | 2018-11-04 18:50 | サプライチェーン | Comments(0)

講演(計装制御技術会議・11月1日)と論文記事執筆(経営システム誌)のお知らせ

(1) 講演のお知らせ

いつもながら直前のお知らせで恐縮ですが、来る11月1日に、日本能率協会主催の「計装制御技術会議 2018」で、日本の化学産業とプロセスプラントの変貌について、講演します。

これは3日間にわたる計装制御系の会議で、三日目の「スマート化で実現するプラントの未来像」の午後一番にお話しします。かなり専門的な技術分野の会議でもあり、また申込期限まで日数がありませんが、この話題に興味をお持ちの方はぜひご来聴下さい。

<記>

題目:「ディスクリート・ケミカル工場の設計論と 中央管制システムの姿

講師:佐藤 知一 (日揮株式会社 データインテリジェンス本部 DIプランニング部 部長)
日時:2018年11月1日(木) 13:00-13:40
場所:品川フロントビル (港南2丁目3-13, 東京都)

・参加申込み・会場アクセスは下記ホームページをご参照下さい。


(2) 論文記事執筆のお知らせ

日本経営工学会の「経営システム」誌・第28巻1号に、下記の論文記事を書きました。

佐藤知一:「生産システム,そのパラダイム・シフト
 経営システム, Vol. 28, No. 1, pp. 70-75 (2018) 

紙の学会誌は7月に発行されましたが、おそらく購読されている方は少ないと思います。同誌は一応、学会のWebでも公開されています(ただし閲覧には会員登録とパスワードが必要です)。

ただし、学会誌には「別刷り」という古き良き習慣があり、読みたい人には論文のコピーを配布することができます。わたしの手元にも多少の部数がありますので、講演を聴きに来ていただいた方には、希望があれば別刷りを進呈いたします。

ちなみに 元々この記事は、拙サイトに掲載した同名の記事である、
 『生産システム、そのパラダイム・シフト』 https://brevis.exblog.jp/27223637/ (2018-04-28)
を読まれた編集委員のリクエストで、論文記事の形式にしたものです。そして下の図も、載せています。学会誌ですから内容はもっと敷衍していますが、主旨は同じですので、興味がある方は上記のエントリもご覧下さい。

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(1)と(2)のいずれも、近年わたしがずっと主張している、「工場とは生産のための仕組み(システム)であり、その設計と操業には、システム工学の視点が重要である」という事柄を論じた点では共通しています。今年の経産省『ものづくり白書』でも触れられていましたが、「システム思考」の弱さが、今日の日本の製造業の苦境をもたらした原因の一つであると、わたしは考えています。それを脱却するにはどうしたらいいかが、目下のわたしの主要なテーマです。



# by Tomoichi_Sato | 2018-10-23 22:32 | ビジネス | Comments(0)

従業員番号のない会社、あるいは、わたし達の社会のアキレス腱について

その国には、住所というものがなかった。住所表記の仕組みがないので、場所を伝える時は、X市場の前とか、XXホテルの東隣3軒目というしかない。誰かに郵便を出すには、市の名前を書いて、あとは私書箱(PO Box)の番号をつける。だから誰もが、郵便を自分で取りに行くことになる。

その国の名前を、サウジアラビアという。初めて行った時には、ずいぶん奇妙に思えた。だが、毎日の生活は、普通に行われている。最近は、いくつかの市では通りの名前と番号による、欧米式の表記もされているようだ。だが、全国的ではない。カーナビがどうなっているのか、わたしは知らない。

そんなのはごく特殊で例外的な事例だ、と思われるかもしれない。のんびりしたアラブの途上国の、それも国土の大半が砂漠である国の特殊事情だろう、と。多くの日本人は、そんな風に思うかもしれない(現実のサウジはG20のメンバーで大国だが)。

さて。

その会社には従業員番号がなかった。すべては氏名でリスト化していた。

給与台帳も姓名の五十音順だった。部署の配属も昇進も、人事管理はすべて名前ベースで管理していた。PCのログインも自分の名前だ。

こんな運営している会社は、同姓同名がいたらどうするのか、結婚して苗字が変わったらどうするのか、と、はたで余計な心配をしたくなるだろう。

そんな企業はないって? 零細企業以外はありえない? では、先に進もう。

その会社には、製品番号がなかった。製品はつねに、製品の名前と仕様(の略号)でよばれた。注文書も、製品名ベースで営業部から製造に渡された。出荷伝票も請求書も同様。半期に一度の製販予算会議には、製品名がズラリと表に並んだ。

製品カタログはないのか? あっても、顧客はどう注文を入れるのか。また、仕様を少しだけ変更したくなったらどうするのか。よく注意書きにある「予告なく仕様を変更」の類いである。あるいは製品名を変えたくなったら? そうでなくても、長い名前だったら、入力だって不便だし、間違えやすいはずだ。
だからたいていの(まともな)企業なら、製品に管理番号をつけて、「製品マスタ」を作成する。製品に関する情報の台帳である。その台帳を見れば、重要な情報は、全て分かる。それは皆が共有していて、何か変更があったら、全員が共有できる。各人が勝手にメモを持って歩いているのではない。

製品番号がない企業なんて存在しないって? 今どき、よほどの零細企業でなければ、そうか。でも、もう少し先に進もう。

その会社には、取引先リストがなかった。つまり、顧客のリストだ。取引先は、企業であれ、個人であれ、すべて名前で区別していた。同じ名前の時は、住所を参考にして区別した。

これが不便なのは、いうまでもないだろう。

会社は勝手に合併したり、分社化したり、移転したりする。大きな企業だと、事業所ごとに別々に取引が発生する。さらに厄介なのは、代理店の存在だ。実際の納入先と、金銭の支払者が異なったりする。物流と商流のズレという現象である。取引先とは与信管理もしなければならない。あまり貸し売りをしすぎて、貸し倒れになったりするリスクを避けたいからだ。

取引先にどんなコードをつけて整理したらいいかは、悩ましい問題だ。でも、お金の取りっぱぐれがあってはこまるから、やはり普通はなんらかの会社コードをふって、リスト化する。していなかったら、奇妙だ。そう、思われるだろう。

でも、そうだろうか。まあいい、もう一歩だけ、先に進ませていただく。

その会社には、資材に品目番号(部品番号)がなかった。

設計部門は、製品組立図を作り、部品図に展開し数量を拾って、仕様とリストを資材に渡す。資材購買部門は、そのリストと図面を見比べながら、「30φの真鍮の丸棒」「シールXY123相当品」といった調子の、業界内なら常識的に通じそうな記述で、注文を出していた。受け入れた資材は、担当者が、どこの場所に置いたか記憶する。

こういう会社は、実は案外多い。結構な大手でさえ、見かけたことがある。

こんなやり方が非効率なことは、考えれば明らかだ。資材台帳がないから、何を合計いくつ買ったか、よく分からない。保管場所も、各人の記憶に頼っている。つまり、まともな在庫管理ができないということだ。

それでも通用する工場があるのは、そうした品目がすべて都度手配品で、あまり在庫が残らないような生産形態の時だ。いいかえると、個別受注生産では、これでも、かろうじて回っていく。ただ、とても属人的だから、担当者が辞めたら何がどうなっているのか、訳が分からなくなる。

まあ、ここまで極端でなくても、品目コードのかわりに、部品の図面番号(図番)で代用する会社は案外、多い。これができるためには、各部品に一品一葉の図面を起こしていることが、条件になる。一品一葉の図面は、良い習慣だ。だが、工場の製造工程を考えると、図番だけでは不便であることに気づく。同型だが材質違いの部品はどうするのか。あるいは、加工段階を追って、表面処理や熱処理が進んでいく部品はどうするのか。

いや、ウチの工場は、ちゃんと加工段階を区別できるように、品目コードをつけている、という企業もあるだろう。だが、たとえば、設計部門と工場が、同じモノを別のコードで呼んでいる場合は、けっこうある。設計部品表(E-BOM)と、製造部品表(M-BOM)が、乖離しているようなケースだ。この悩みは、あちこちで聞く。

中には、E-BOMとM-BOMの品目コードの対照表をつくって、ITシステムで読み替え処理をしているところもある。その対照表は、いつ、誰がメンテするのか。その表の品質は、誰がどうやって担保するのか。まことにご苦労様である。

マテリアル(品目)にコードをとり、台帳を作るのは、正確な情報を共有するためだ。個人の記憶のかわりに台帳があれば、仕事の品質も生産性も上がるのは、明らかだろう。だが、異なる部署で違うコードを使っていたら、それは情報を共有することになるのだろうか。

マテリアルには全社共通のコードはないが、取引先コードはある。そういう会社もあるかもしれない。だが、よくよく調べると、案外問題があったりする。たとえば、顧客コードと、業者コードと、振込先コードが、別々の体系になっているケースはないだろうか? 同一の企業が顧客でもあり仕入れ先でもあるケースは、ときどき生じる。だが、受注業務と、発注業務と、支払い業務とで、別々のコード体系を使い、同一の事業所を別々のコードで呼んでいる。おかしくないだろうか?

それでも製品コードはさすがに、普通の会社はもっている。だが、国内用と輸出用で、仕様が違うのに、同じ製品コードがつけられたりしている。部品表は、どう作って維持しているのだろう。社内の部署間では共通、業務でも共通、だが国が違うと別物、という訳だ。同じコードで別物を差すというのは、言い方を変えると、コードに重複があるということだ。

そして、従業員番号である。授業員番号のない企業は、珍しい。どこでもたぶん、持っている。部門間でも、全業務でも、共通だろう。だが、その番号は、親会社・子会社を通じて、グループ内でユニーク(一意)だろうか? 

よくあるのは、新しく海外子会社を作った。そこの人事系の仕組みは、親会社のやり方をそっくり真似た。従業員番号の桁数やコード体系も、そのまま真似た。おかげで、親子間でコードが重複してしまう、という問題だ。当然、同一企業グループ内で、そこに属する従業員全体の台帳が存在しない(作れない)ことになる。系列内で、人が異動や転籍になったら、どうするのか。こういう発想の企業は、グループ全体の人材については、ケアしません、といっているのに等しいではないか。

ITエンジニアは良く知っていることだが、コードというのは、たとえ1万件のデータの中にたった一つでも重複があれば、それは識別キーとして使えないのだ。つまり、それを頼りに、マスタは構築できない。だからこそ、コード体系をどうとるのかが、データの収集と同じくらい、大切な技術になるのだ。

コード体系の設計が技術であるという認識が、そもそもわたし達の社会では、とても薄い。これが、ITリテラシーの低さ、情弱社会を象徴している。ITリテラシーというのは、何もパソコンソフトを上手に使えるというような事ではない。そんな陳腐化しやすいスキルを学校で教えて、何が得られるのかと、わたしは思う。

それより、コード化の大事さ、コード設計の基本、データの体系化と分析の重要性を教える方が、ずっと社会のためになる。ここが、わたし達の社会のアキレス腱だからだ。

何かをコントロールしたかったら、コードをつけて、整理する。そしてリスト化し、台帳を作って、皆で共有する。コードは部門にも、業務にも、国にも、資本関係にも依存せず、いつもユニークである。そうしたことは常識であり、生産性の基本だと思うのだ。

サウジアラビアに住居表示がないのは、理由がある。あの国には今でも、結構な人口のベドウィン(ラクダ遊牧民)がいるのだ。遊牧民には、固定した住所がない。テントを持って、土地から土地へと移動する。だから連絡を取りたかったら、どこか決まったオアシス(現代なら郵便局)に手紙を預けておくしかないのだ。そういう国では、私書箱の番号がアドレスのキーになるのは、当然だ。

わたし達の社会は、少し違う。わたし達は、いろんな事がいやに固定的なくせに、数字や番号やデータには無頓着な社会に、生きている。その生きにくさの一部、生産性の低さのある部分は、ちゃんと整理番号をとって情報を共有できていないことから、生じている。わたし達はもっと、コード化に関するリテラシー、データに対するインテリジェンスの高い社会に、なるべきなのだ。


<関連エントリ>
 →「意味無しコードのすすめ」 https://brevis.exblog.jp/2615881/ (2006-01-29)

# by Tomoichi_Sato | 2018-10-19 00:24 | ビジネス | Comments(0)

講演のお知らせ:「生産スケジューリングの基礎とリードタイム短縮のポイント」(12月5日)

お知らせです。12月に、生産スケジューリングとリードタイム短縮をテーマとした研修講演を行います(有償)。6月に実施した講演がお陰様でほぼ満席だったため、再企画したアンコール版です。

何度も書いていますが、わたしは長年、エンジニアリング会社で国内外の工場・プラント作りに関わってきました。また、それなりに多くの工場も見学しましたが、疑問を感じるケースも少なくありません。「なぜ、こんな所に在庫を持つのだろう?」「どうしていらないモノはたくさんあるのに、必要なモノは欠品しがちなのか?」「ここを工夫すれば、もっと効率よく、かつ楽に仕事ができるはずなのに」

そうした非効率が生じるのは、生産活動の仕組み=『生産システム』の基本デザインに問題があるからです。つまり、生産活動のシステム・エンジニアリングが欠けているのです。むろん、ここで言うシステムとは、コンピュータのことではありません。情報系も一要素ですが、むしろ働く人々と、機械設備と、物流と、それを包む建築空間のことをいっています。こうした基本的なことを抜きにして、ただ最近の流行であるAIやIoTなどの「スマート化」技術を追いかけても、部分的な改善効果しか生まないのがつねです。

また生産システムは、自社を取り巻くサプライチェーンの特性に応じて、適切な機能構成を選ばなくてはなりません。単に、業績の良い他社の物真似をしても、生産形態が違えば、役に立たないのです。

拙著「革新的生産スケジューリング入門」や「BOM/部品表入門」をお読みになった方はご承知の通り、わたしは具体的なテクニック論のみならず、原理に関する体系的な理解を重視します。そのため、生産システムをより良く運用するにはどうしたらいいかを考える『システムズ・アプローチ』をとります。そのため業種分野については、わりと間口を広くとってお話しできる点が特徴です。

普通の現場改善コンサルタントや、ITベンダー系コンサルタント達の提言に、飽き足りない気持ちでおられる技術者の皆さんの、ヒントになればと思っています。


生産スケジューリングの基礎とリードタイム短縮への活用ポイント」(12月5日)

日時: 2018年12月5日(水) 10:30 ~ 17:30
主催: 株式会社日本テクノセンター
会場: 株式会社日本テクノセンター研修室
     東京都新宿区西新宿2-7-1 小田急第一生命ビル22F
     (都営地下鉄大江戸線「都庁前」駅または丸ノ内線「西新宿」駅)

生産計画とスケジューリング、リードタイム短縮について、事例と演習を含めてお話しします。

セミナー詳細: 下記のURLをご参照ください(受講申込もここからできます)

関心のある大勢の方のご来聴をお待ちしております。


佐藤知一


# by Tomoichi_Sato | 2018-10-11 22:21 | サプライチェーン | Comments(0)

書評:「デザインのデザイン」 原研哉・著

デザインのデザイン」 原研哉・著 (Amazon.com)

美ということについて考え直したくて、本書を手に取った。信頼する職場の友人が勧めてくれた本でもある。そして事実、読む価値のある本だった。

普段のわたしは、美とは縁遠いところで仕事をしている。別に醜いものを作っているという意味ではなく、機能だとか効率だとかコストだとかいった尺度でもっぱら測られる業務、という意味だ。

それでもエンジニアリングという仕事に携わっている以上、『設計の品質』という問題にもしばしば、直面する。設計は英語でDesignである。だが、デザイナーと設計者は、日本語では違う。どこの何が違うのだろうか。設計という営為には、「サイエンス」の面と「アート」の面がある。では、工業設計におけるアートの面とは、何だろうか。それは品質と、どう関わるのか。

さらにいうと、マネジメントという仕事も、サイエンスとアートの両面を持つ、といわれる。日本ではマネジメントに科学があるという観念自体が薄いので、こういうことを言うのは主に欧米人である。ただし英語の”Art"という言葉は、日本語の「アート」や「芸術」よりもずっと守備範囲が広くて、やり方という意味もある(だから、いわゆる芸術をさす場合はあえてFine artと限定詞をつける)。だがもちろん、artは美と強く関連づけられた概念である。

マネジメントは意思決定の連続だ。ところで、人が何かを決めるときは、その人の価値観にしたがう。では、人間の価値軸には、どのようなものがあるのか? もちろん、ビジネスでは損得が真っ先に来るだろう。あるいは、ライバルとの競争では勝敗(序列)も大事だ。社会的な意識の高い人は、善悪にもこだわる。研究者なら当然、真偽も重要だ。さらに誰だって、好き嫌いというものもある。

損得、勝敗(序列)、真偽、善悪、好き嫌い・・そして、美醜。もまた、人間の価値観の大切な要素だ。損得や勝敗で決めているように見えて、じつは美意識(=美学、美に関する価値観)にしたがって動く人びとが、意外に多いのではないかと、最近のわたしは考えている。分かりやすくいうと「カッコよさ」である。

損得・勝敗・真偽・正邪などは、合理的にほぼ説明可能な基準だ。そこには一応の客観性がある。しかし美醜の判断基準は、個人差が大きい。美醜は合理性からは遠いのだ。

わたしたちが商品、とくに高額だったり身につけて大切にする商品を選ぶ場合、その機能(使用価値)の他に、美しさ(美的価値)も大事な判断材料になる。たとえばスティーブ・ジョブズは、そうした点にこだわった人だった。でも、商品における「美しさ」とは、何なのか? 設計とデザインは別のことなのだろうか。「デザイナー」とは美大の教育をうけた人のことか。工学部を出た人は「エンジニア」だが、工学部の教育に美学論は不要なのか? ・・疑問はつきない。

本書の帯には、「デザインを分かりたい人達へ。」とある(プロダクトデザイナーの深澤直人氏の推薦文)。そして本文は「デザインを言葉にすることはもう一つのデザインである」と、はじまる。これは、まさにそうした問いに向き合う本なのだ。

「21世紀を迎えた現在、テクノロジーの進展によって、ものづくりやコミュニケーションにおける価値観がゆらいでいる」(P.1)。ここではまず、デザインとは「ものづくりやコミュニケーション」のためにある、という主張がある。

「デザインの発生は、社会思想家のジョン・ラスキンやウィリアム・モリスの思想がその源流と考えられている。その源流を辿ると150年ほど前にさかのぼる。」(P.3)と、著者はまず歴史を振り返る。それはちょうど、産業革命時代の英国だった。「生活環境を激変させる産業の(機械的量産)メカニズムの中に潜む鈍感さや不成熟に対する美的な感受性の反発、これがまさに『デザイン』という思想の発端となったのである」(P.4)

そのあとデザイン史は、モダン・デザインに進んでいく。そして、その行きすぎに対抗して、ポストモダンの運動がでてくるのだが、「ポストモダンはデザイン史の転換点にはなり得ていない」(P.18)と著者はいう。

そして著者自身が中心的に関わった「リ・デザイン展」や「デザインの原形展」、そして田中一光から引き継いだ無印良品に、話は続いていく。例となる写真も多く、どれも内容は非常に面白い。

だが、相変わらず分からない点も多い。一番、自分のような技術者との違いを感じるのは、「美」が最初から、仕事の目的意識に、無条件にある点だ。その違和感は、読み続けても、なかなか消えない。

わたしがたとえば蒸留塔を設計する場合、段数とか、内径とか、温度圧力材質などを決めていく。そこで「美」が前景化することはない。デザイナーと、なぜそこが違うのか。

「デザインは問題解決である」という言い方は、時々見かける。だが、これも奇妙な定義だ。技術者だって、問題解決はしている。そればっかりの毎日だと言ってもいい。でも、美とは疎遠である。

美の概念は、ふしぎと数学の問題解決には使う。「エレガントな解法」「美しい方程式」など。でもそれ以外の理学では、あまりお目にかからない。

デザインという言葉は、ふつう音楽の作曲にはつかわない。たまに「音のデザイン」と形容してみることはあるが。詩や小説など文芸創作にもつかわない。言語(概念)操作による問題解決(法的解決や哲学など)にも、ふつうは使わない。

こうして考えてみると、デザインとは「形をつかった問題解決」であることに気がつく。

工学では、具体的な創造物(人工物)に対して、美の概念が立ち現れることはある。タービンのブレードとか、住宅建築とか、ジェット機の翼とか。どれも形による問題解決だからだ。宮崎駿の映画「風立ちぬ」で、主人公のエンジニアが、食堂で魚の骨をとりあげて、その形状の美しさに感心するシーンがあった。航空工学では、「形」は力学的構造と機械的機能の両方を満たさなければならない。機能と構造の結節点に「形」がある。

形といっても、物質的なものでなくてもいい。組織図もその一例だ。良い組織デザインという言葉には、違和感は少ない。

「デザインは『形と機能の探求』という理想主義的な思想の遺伝子をその営みの内奥に抱えており、経済というエネルギーで運動しながらもクールな求道者のような一面をも維持してきている」(P.23)と著者はいう。なるほど。

さらに著者は、「デザイナーは本来、コミュニケーションの問題を様々なメディアをどうしたデザインで治療する医師のようなものである」(P.204)ともいう。コミュニケーションは、聴覚、視覚、触覚など五感を通じて人に働きかける。理知のほかに、感覚の路を通る。感覚路を設計するのも、デザイナーの仕事なのだ。

さらに著者は、「あったかもしれない万博」として、没になった愛知万博の初期計画に関して、こう語る。

「古来より日本人は、叡智は自然の側にあり人間はそれを汲み取って生きていると考えてきた。これは人間を神の視点に近いところに位置づけて、叡智を人間の側のものとし、荒ぶる野生としての自然を人間の知性で制御しようとした西洋的な思想風土とは異なる発想である」(P.179)
「中心に人間を置いて世界に向き合うという西洋的な発想は、生きる主体の意思と責任を表明する態度であり、それなりに説得力を持ってきた。」(P.179)

だから日本のデザインは西洋のそれとは異なる解決を提供する事になるはずである、と。

それは分かるが、この本を読んでいくとデザイナーという人種には、奇妙な被害者意識と不思議なエリート意識のないまぜになった感覚がある事に気づく。これはなぜだろうか。

文明は人間に利便性をもたらし、文化は人間にアイデンティティを与えるシステムである。文明の仕組みは、標準化・規格化・単純化を志向する。大量生産は文明の生み出したものだ。しかし、アイデンティティの基礎は、他者との違い、差別化である。

規格化され単純化されたものにも、「美」はありうる。ただし、人間の感受性は、繰り返しに対して鈍感になっていく。最初は美しいと感じたものも、次第に見慣れて、当たり前になっていく。だから、本質的に「美」は差別化と個別性を志向する。ただ、それは、あまり経済的ではない。美は贅沢の要素である。

巨大化した文明は、その歯車の中に、美を作り出すデザイナーを取り込もうとする。とくに「高級感のある商品」に、美は不可欠である。商品には使用価値(期待する機能を満たす程度)の他に、美的価値(感覚的なよろこびを与える程度)も、確かに持ちうる。

しかし、それは美を、商業の目的(損得の価値基準)に従属させようとする動きだ。美醜は損得とは独立した価値だと信じ、とくに美に殉じたいと願う人達には、屈辱である。

構造と機能を取り結ぶのが、「形による問題解決」としてのデザインだ、と先ほど書いた。文明の持つ普遍性と、文化的な個別性の狭間で、両者をなんとか調和させようともがいているのが現代のデザイナーなのだ。それを知ることができただけでも、本書を手に取る価値はある。


<関連エントリ>
 →「映画評:『風立ちぬ』」 https://brevis.exblog.jp/21064033/ (2013-09-14)


# by Tomoichi_Sato | 2018-10-08 22:04 | 書評 | Comments(0)

海外プロジェクトの質的変化と、成功体験の罠

わたしが3年前に技術評論社から上梓した『世界を動かすプロジェクトマネジメントの教科書』は、製造業で働く若手エンジニアを主人公にした、ストーリー仕立ての本である。基本的な内容は、東大の大学院で教えている「プロジェクトマネジメント特論」の講義資料をベースにしているのだが、淡々とした記述のテキストなど、誰も興味をひかれないだろう。それにわたしは、対話形式の文章を書く方が、なぜか筆が進みやすい。

そこでこの本では、ある日突然、プロジェクト・マネジメントを急に学ばなくてはならなくなった若手技術者を、主役に立てることにした。それが、中堅製造業の製品設計部門に働くエンジニア、小川君である。彼の会社の社長は、出張先のとある新興国の企業経営者と意気投合し、共同でその国向けの製品開発プロジェクトをはじめることを、決めてくる。

しかしご承知の通り、製造業の組織というのは、営業・設計・生産技術・資材・製造・・という風に、機能別に縦割りになっている。製品開発プロジェクトは、これら全ての部署が、大なり小なり関わってくる。では、この海外企業との共同プロジェクトは、いったいどの部署の誰がリードするのか? 一般に、日本の製造業では、プロマネが所属すべき部署が、明確でないことが多い。小川君の会社もそうだった。

プロジェクト・マネージャーが誰なのかも不明なまま、結構な労力とリスクをはらむはずの、新プロジェクトは滑り出す。小川君自身はまだ、プロジェクト・マネージャーを張れるような職位ではないし、その経験もない。だが、会社のこの状況に危機感を抱いた彼は、久しぶりに会った大学時代の大先輩・広田氏に、プロジェクト・マネジメントの考え方を教えてほしいと頼み込む。

海外プロジェクトの経験に長けた広田氏は、何度かに分けて、小川君に基本をレクチャーしつつ、プロジェクトの状況を確かめ、アドバイスしていく。だが、海外通を任ずる常務、腰の引けた部長、妙に強気な課長などの上司の下で、プロジェクトを前に動かそうとする小川君に、つぎつぎと難題がふりかかってくる・・この本は、そういう話だ。

新製品開発という仕事それ自体は、製造業にとって珍しいことではあるまい。何度もそれを繰り返して、企業は成長してきているはずである。それなのに、海外企業との共同プロジェクトということになると、急に勝手が違ってくるばかりか、上手く回らなくなることが多い。それをたいていの会社は、言葉(英語)の壁だとか、技術基準の違いだとか、異文化のせいだとかにしたがる。

しかし、そこにはもっと本質的な、プロジェクト・マネジメント上の違いがあるのである。そして、多くの日本企業は、それを知らないまま、見えない壁のようなものに突き当たっているのだ。

図を見てほしい。横軸は、スコープの固さを示している。右側は自発型プロジェクトの世界で、スコープは自分で調整可能である。左側は受注型プロジェクトで、スコープは外部から与えられる。左に行けば行くほど、スコープは「固く」なる。自社の製品開発は、自分がかなり自由に決めることができるから、図では右側の領域にある。
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縦軸は、プロジェクト組織の規模・複雑さを示す軸だ。上は大型、下は小型プロジェクトの領域を意味する。ただし「規模」といっても、予算金額などで測ったのでは、プロジェクトの分野や種類によってかなり差が出てしまい、イメージが伝わりにくい。そこで図ではあえて、「小型プロジェクト」を、同じ行動習慣を持つ同士の協力、「大型プロジェクト」を行動習慣の異なる他社との協力、と注釈をつけた。

そうなると、従来の新製品開発は、図の右下の領域に位置づけられる。自社系列内で完結する場合もあるだろうし、サプライヤー等の他社と協力する場合もあるだろうが、それでも慣れた同士による国内プロジェクトである。

ところが、ほぼ同じ内容での製品開発プロジェクトも、小川君の会社のように、慣れない初めての海外企業と一緒にやることになると、図での位置が変わってくる。まず、海外企業との協力の場合、お互いの責任分担を文書化・契約化して、きっちり決める必要が出てくる。つまり、スコープがけっこう「固く」なるのである。

他方、これまでの慣れた同士の協力関係と違い、慣れない相手とは、コミュニケーションの言語やチャネルからはじまって、いろいろ目に見えない摩擦や障壁が生じがちだ。だからプロジェクト組織の規模・複雑性が,有意に上がることになる。

かくして、ほぼ同じ内容の筈の新製品開発プロジェクトが、図上でかなり左上にずれてしまう。そして、この図では、左上に行けば行くほど、専門的なプロジェクト・マネジメントが必要とされてくるのである。右下のエリアは、身内同士の阿吽の呼吸で進む領域であって、まあいってみれば、ジャズバンドのような世界である。誰かリーダーのもつ、気合いやリーダーシップで進めることができる。

ところが左上の領域は、いわばオーケストラの世界であって、数多くの演奏家(専門職種)と、指揮者(プロマネ)がいて、整然とことを進めなければいけない。各人がバラバラに動いたのでは、意味のある成果は出てこないのだ。スコープ制約が固く、かつ組織規模が大きい仕事とは、そういう存在だ。それなのに、プロジェクト・マネジメント技術もろくに知らぬまま、「気合いと根性」だけで海外プロジェクトをはじめたら、途中で現場が苦労の嵐に巻き込まれることになる。

これが、今、わたし達の社会のあちこちで起きている問題なのだ。そして、多くの若手エンジニア達が、さんざん苦労している。そういうことを、霞ヶ関の新進気鋭の官僚達にも知ってほしい。そう思って、レクチャーでは、前回も述べたように、スコープの話を主にしたのだが、さて、短い時間でどこまで伝わるかは、定かでない。そこで、あえて念押しとして、もう一枚、図を用意した。

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こちらの図は、左右がある意味、逆になっており、右に受注型プロジェクト、左に自発型プロジェクトを置いてある(不統一で申し訳ない)。上の欄に、(強い)←→(弱い) と書いてあるのは、スコープに対する主導権である。自発型の方が、当然ながらスコープの主導権が強い。受注型では、発注者の承認をもらわなければ、スコープ・チェンジが認められない。

こちらの図の上下は、買い手か売り手かという、商取引の立場になっている。取引では通常、お金を出す側の買い手(顧客)の方が強く、売り手の方が立場が弱い。

そして、この図表の4象限に、日本の海外ビジネスのあり方と変化を集約してある。

まず、高度成長期の’70〜80年代は、左下にある。この時代、衣料品にはじまり、家電・カメラ、そして自動車など、消費財の輸出で日本が伸びた時代であった。優秀・高品質な製品力と、円安による競争力に支えられ、大きく世界に進出していった。自分は売り手だからやや立場は弱いが、どこに何を売るかは自分で選ぶことができた。この時期は、「売ってあげる」型の輸出ビジネスだった、といえる。

それが'80年代後半~90年代前半のバブル時代に入ると、さらに勢いをかって、盛んに海外不動産を買ったり、企業買収・工場建設・営業所開設などのラッシュが続いた。舞台は欧米や豪州など先進国だ。そして自分が買い手で、かつ、自発型プロジェクトである。いわば最強の立場にあった時代だ。

ところがバブルがはじけ、不況の2000年代に入ると、海外調達・部品製造外注・オフショア開発などが、海外ビジネスの中心になってくる。まだ、立場は買い手だ。だが相手地域はアジア・中進国にシフトする。そして現地に行った技術者たちは、本社や日本国内の顧客からの勝手な指示に困惑しつつ、内心、OKY(「お前が来てやって見ろ」)と歯噛みしながら仕事をしていた。

そして2010年代。政府は「日本の新成長戦略」をとりまとめ、新興国に対するインフラ・システム輸出が、成長力回復の切り札だ、と位置づける。しかし、日本のものづくりの成果を海外に持っていくという事は、売り手で、受注型のプロジェクトを遂行することを意味する。すなわち、「買って下さい」型の輸出ビジネスになる、という訳だ。

わたしは長年プラント・エンジニアリング業界に働いてきた身として、それがいかに弱い立場であるかを知っているし、その中でいかに立ち回るべきかも、少しは承知しているつもりだ。そのための有力な武器の一つが、専門的なプロジェクト・マネジメント技術なのだ。だから、それについて本も書き、あちこちで講義したり宣伝したりして回っているのである。

繰り返しになるが、日本の海外プロジェクトは、バブル期頃までの、強い立場・先進国相手・売ってあげる型から、2000年以降の、弱い立場・新興国相手・買って下さい型へと、シフトしてきてきた。ところが、世の中にはまだ、バブル期までの過去の『成功体験』を、自らの栄光の記憶として抱えているシニア・マネージャー層がけっこう、残っている。

だが、彼らの成功体験はもう、賞味期限切れで、今の時代には使えないのである。昭和の古きよき時代はもう、とっくに終わったのだ。そして、そんな過去の成功体験にしがみついていると、現実がよく見えなくなってしまう。そのことを、日本の中枢にいる人たちにも、伝えたいのだ。昭和世代のわたしがこんなことを言うのはおかしいかも知れないが、これからわたし達の社会を担う層の人たちに活躍の場を残すためには、過去の成功体験の記憶を一度リセットして、新しい目で日本と海外を見るべきだと思う。


<関連エントリ>
 →「プロジェクトのスコープには硬軟がある」 https://brevis.exblog.jp/27558796/ (2018-09-20)
 →「海外プロジェクトの変化と、契約意識という不可視のハードル」 https://brevis.exblog.jp/18516049/ (2012-07-30)


# by Tomoichi_Sato | 2018-09-29 23:12 | プロジェクト・マネジメント | Comments(0)