設計の価値

最初に、ブルネレスキのことからはじめよう。日本ではほとんど名前を知られていないが、初期のイタリア・ルネッサンスを代表する人物の一人だ。フィレンツェに旅行に行く人が必ず目にする、花の聖マリア大聖堂の半球形ドームは、彼が作った。



「彼が作った」という言葉を、私は意図して使っている。彼は設計しただけでなく、建設工事の責任者でもあったのだ。つまり今風に言えばプロジェクト・マネージャである。彼は石の積み方にも工夫をこらしたし、二重ドームの間に作業者が立って歩けるスペースを確保する設計にした。施工しやすい設計をしたわけだ。職人のストライキにも見事に対処した。

彼が設計者・兼・建設責任者だったことは特筆して良い。日光東照宮の左甚五郎の立場と同じである。設計者が実作も行う。それは近世以前はあたりまえのことであった。たとえばミケランジェロ作の彫刻が、じつは彼のデッサンをもとに弟子が好きに刻んだものだったとしたら、あなたは怒らないだろうか。少なくともフィレンツェ市評議会は許さなかっただろう。

設計者と施工者が分離してくるのは、近代イギリス以降のことである。産業革命以降の建築需要の増大にしたがって、設計と建設の分業が発達する。設計兼建設という大工の親方制度では、まかないきれなくなったのだろう。それは、音楽の世界で作曲家と演奏者が分業してくる時期と、妙に一致している。市民社会の勃興、聴衆の増大が、それを要求したのだ。大量生産はつねに分業を要求する。

しかし、それとともに劣悪な建築や手抜き工事が横行しはじめる。そこで設計と施工を兼任できないよう分離させ、しかも設計者に施工が図面の指示通りかチェックさせる制度が成立する。第三者によるチェックは、簡単には人を信じない「紳士の国」の性悪説文化が産み出したものだ。

建築設計書の構造計算を偽造して、鉄筋・鉄骨量を削減した建物の問題が、このところ世の中をゆさぶっている。恐ろしい話だ。しかし、設計に反した手抜き施工だったのではなく、設計自体に問題があった。設計施工分離では防げなかった所に、根の深さがある。もっとも、この国の建設行政はすべて性善説に立って運用されているようだから、氷山の一角にすぎないのかもしれない。

偽造した建築士が何を考えていたのかは、分からない。しかし、たいていの建築設計者が考えていることは、私には想像がつく。それは、「設計は建設工事の下請けじゃないはずなのに!」という怒りだ。建設業界には『設計協力』なる言葉がある。簡単にいうと、詳細設計などの力仕事の部分を、建設工事を受注する(予定の)ゼネコンが手伝うことだ。設計・施工分離の原則は、こっそり無視される。施工監理など看板だけになる。

ゼネコンによる設計協力の慣行が成立する理由は、建築設計の仕事が、通常の設計費だけでは安すぎて割に合わないからだ。一方、建設工事を請負う業者側は、設計に人を出しても利益を出せる。だから、建前はどうあれ、力関係は、
 ゼネコン>設計事務所
になる。こうして、設計が施工者の都合によってねじ曲げられる下地がつくられていく。

この国では(そして私の知っているたいていの国で)、モノにはお金を払うが、設計という知恵にはお金を払わない。いわば「実物経済」である。こうした実物経済主義は、最終的には設計の品質低下をまねくのだ。耐震強度偽装問題は、その象徴である。

そして、問題はマンション・ホテル建築の世界だけで起きてるわけではない。あらゆる「製品」という名前のモノに、それは起こり得るのだ。数値的性能はすばらしく、見た目もまあそれなりだが、全体に使いにくく、妙にこわれやすい商品を、私はいくらでも知っている。設計に個性のない製品だから、価格だけが勝負になる。その結果、韓国製や中国製にどんどん負けて行く。これこそ、「ものづくり大国」日本が、設計の価値を軽視してきたツケなのだ。

誤解しないでいただきたいのだが、私は設計者と製作(施工)者の役割は対等だと思っている。往々にして、
 建築家>建設業者
のような主張をしたがる人がいるが、私は組みしない。設計も重要だし、建設のプロジェクト・マネジメントも重要だ。ブルネレスキの例を思い出して欲しい。彼は両方を兼ねていて、だから彼の仕事は偉大なのだ。

拙著「BOM/部品表入門」の中で、設計部品表(E-BOM)と製造部品表(M-BOM)の分離背反の問題を描くため、あえて私は、ちょっといやみな設計技術者を登場させた。彼は「製品開発こそ会社のコア・コンピテンシーだ」というような、エリート意識の強い発言をする。そして本社にいて、製造の実際を知ろうとしない(これは戯画なので、この節を読んで気をわるくされた設計技術者の方がいらしたら、陳謝したい)。しかし、設計と製作が分離してしまうと、製作現場での知見や知恵が設計にフィードバックされなくなる。設計が一人よがりになる。これは決して望ましいことではない。

私が理想と考えるのは、設計と製造、設計と施工、設計と実装が、「統合」された世界である。設計の知恵と実作の知恵は性質が違うが、たがいに補い合える関係にある。たとえ組織上は区切られていても、両者がともに協力できる仕組み。その中でこそ、設計の価値も経済で認められると思うのだ。
# by Tomoichi_Sato | 2006-01-01 12:10 | ビジネス | Comments(0)

システムとは何だろうか?

京都賞」をご存じの方は多いと思う。基礎科学・先端技術・思想芸術の3部門で、毎年世界の傑出した研究者に賞が与えられている。ある意味ではノーベル賞のむこうをはっており、数学・哲学・言語学・生物学・建築・音楽など『ノーベル賞のもらえそうもない分野の人を選んで賞をあげている』という印象もある。たとえば、K・ポパー、N・チョムスキー、アラン・ケイ、J・グドールなどの人が授賞している。

今年の京都賞基礎科学部門は、生態学者のサイモン・レヴィン博士が授賞した。彼は数理生態学・空間生態学の分野で若い頃から研究分野をリードしてきた人だ。そのニュースを聞き、私はとてもうれしく思った。というのも、たまたま昔、私はレヴィン博士の知遇をえる機会があり、彼の研究室を訪ねたり、あるいは来日した時は横浜の自宅に招いたりしたこともあったのだ。だから11月12日に京都で行われた記念シンポジウムには、私もはせ参じて、授賞を祝し、再会を喜びあった。

レヴィン博士の業績の一つに、"The Problems of Scales and Patterns in Ecology"という論文がある。これは90年代を通じて最も広く引用された生態学の論文と言われる。彼の主要な研究テーマは、生態系(=エコシステムecosystem)のさまざまなスケールにおいて観察されるパターンと多様性が、いかにミクロな生物個体レベルのルールから生成するかを調べることである。生態学とは、エコシステムの機能と構造を研究する学問だが、彼はエコシステムが特定の目的と機能をもって存在するかのような目的論的見方とは異なる、パターン認識的見地から取り組んでいる。

初めて知り合ったとき、レヴィン博士はコーネル大学のCenter of Ecology and Systematicsの所長だった。私はSystematicsとは「システム科学」のことかとたずねたが、「いや、系統分類学の意味だ」との答えが返ってきた。系統分類! それをシステムと呼ぶのか。その時の驚きは、その後、英語におけるsystemの語の意味を深く知るようになるにつれ、次第に納得にかわっていった。たとえば、太陽系のことはSolar Systemと呼ぶのだ。

システム」というとコンピュータのことだと思う人は少なくない。いや、世の中の大多数だろう。技術の世界では、ガスタービン発電システムとか自動倉庫システムとか、ある種の機械的な仕組みのこともシステムと呼ぶことがある。しかし、私のように工場やら製品までをシステムと考える人間は少数派だ(「システムとしての工場、システムとしての製品」参照)。

製品がシステム? じゃあ、パン屋が焼くあんパンも、家具職人が作るテーブルもシステムだというのか? そう問いつめられると、私も、ちと違うな、と答えざるを得ない。「所定の目的を達成するために要素または系を結合した全体」「特定の機能を果たすように配置した、相互に関係するアイテムの組合せ」という定義(JIS工業用語大辞典)から見ると、4本の脚と天板からなるテーブルだってシステムに合致して良さそうなものだ。だが、どうも要素が静的に結びつけられた構造は、今ひとつ「システム」というイメージに合わないのだ。

「システム」という語がフィットするものは、どうやら動的な機能や特性をもつものに限られるようだ。ジェームズ・ワットの発明した蒸気機関は、回転数を安定化させるための巧妙な調節弁の仕組みをそなえていたが、ここらへんがシステムの始まりらしい。彼のフィードバック制御は機械要素の組合せで実現していたが、目的は力を伝達することではなく、制御にあった。

つまり、「制御」の有無こそ、システムを単なる部品の集まりから区別する鍵なのだ。そして、制御のために、一種の神経系統をもつこと。現代ではこの神経系の役割をたいていコンピュータが果しているので、「システム=コンピュータ」という思いこみが固定化したのだろう。たしかに、テーブルのように部品材料の寄せ集めだけでは、動的特性は発揮できない。

「システム」が制御機構を持つ動的な仕組みである以上、システムの『価値』も、その動的特性にある。だからこそ私は、「工場という名のシステム」は“計画・指図・報告”という制御機能のよしあしで性能が変わりうることを、くり返して主張したいのだ。

しかし、こうして見てみると、日本語の(=JISの)システム概念は、かなり「目的」「機能」にしばられていることが分かる。太陽系やら生物系統分類やらも含む英語のsystemからは、かなりずれている。英語の世界のsystemとは、せいぜい「一つ一つの要素を数え上げずとも、系統的に、頭を使わずに展開できるようなまとまり」という程度の意味しかない。

無論、生態系ecosystemの中には、全体を安定させるフィードバック的な仕組みも確かに存在する。しかし、生態系には「目的」はない。自然界に存在するものには、特定の目的はなく、しいて言えば、「存続自体を目的と見なせる」程度なのである(レヴィン博士が目的論的見方を退けるのは、この危険性があるからだろう)。企業もこれに似ていて、本来は何らかの目的があって結成されたはずなのだが、多くはもはや目的を失って、存続自体が自己目的化してしまっている。こんなところにシステムの機能論を持ち込むのは、場違いなのだ。

私は、あまりにも多義語化している「システム」の概念を、もう一度、再整理すべき時が来ているように思う。たぶん、システム・場・メカニズムなどの使い分けを、もう少しきちんとするべきなのだ。そして、それこそ「システム・アナリスト」の最重要な仕事だと思う。なぜなら、これを怠ると、システム分析の仕事自体が、ひどく混乱したものになってしまうに違いないからだ。
# by Tomoichi_Sato | 2005-11-27 23:31 | Comments(0)

製品という名のシステム、工場という名のシステム

工業製品を、その成り立ちに応じて「モジュール型」「すりあわせ型」に分類したのは、『能力構築競争』などの著書で知られる東大経済学部の藤本教授だと言われている。工業製品の種類や範疇は無数にあるが、それを経産省工業統計のような品種別の縦割り分類で考えずに、BOM(部品表)の構造上の特徴にしたがって位置づけをして見せた着眼は見事である。ほとんど構造主義的発想と言ってもいい。

「モジュール型」と「すりあわせ型」の違いは、部品を組み合わせて製品を作っていく際の設計の違いにある。前者は、部品群を単機能的な小単位(モジュール)に作り上げ、そのモジュールを組み上げて製品を作る。それに対して後者は、多数の部品を精密に組み合わせて製品を作る。モジュール型の製品においては、モジュール同士の間の界面はある程度、標準化されて決まっており、相手がどこのサプライヤーのどの製品であっても、組み合わさって機能する。これに対して、すりあわせ型の製品においては、部品はそれぞれ当該製品専用に作られており(言いかえれば個性を持っている)、組み合ってきちんと働く相手は決まっている。

PCなどはモジュール型製品の典型である。ディスプレイ、キーボード、CPU、マザーボード、HDD等々はモジュール化されており、それぞれ業界標準のインタフェースに従って接合できる。だからマルチベンダー化がたやすくできる。これに対して自動車はすりあわせ型の典型であって、フィットのボディにカローラのエンジンを載せたりすることは絶対にできない。

これをシステム・エンジニア的な視点で見れば、モジュール型の製品は疎結合のシステムであり、他方、すりあわせ型は密結合のシステムである、と考えることもできる。すると、両者の長所と短所もおのずから想像できよう。密結合のすりあわせ型システムは、効率は高いが、改良・改善となると手をつけなければならない範囲が広く、保守はメーカーに頼らざるを得ない。これに対して、疎結合のモジュール型システムでは、オープンな仕様でモジュールを選べるから、価格的には安くできる可能性が高い。しかし、組合せの不整合(相性)のリスクがあるし、効率は多少落ちることになる。それぞれの産業がどちらの方向に行くかは、市場特性や製品の発展史などで変わり、どちらかが絶対的によいわけではない。

ところで、私のように製品を「システム」として捉える考え方は、あまり多くの人はしないようだ。たいていの人々は「システム」というと、コンピュータかソフトウェアか、あるいはコンピュータを内蔵したインテリジェントな機械類だけを想像するらしい。今どき、冷蔵庫だって炊飯器だってマイコン内蔵だが、“うちのシステムからビール出してよ”と頼んでいる人はたしかに滅多にいない。“今日のシステムはいい味がするなあ”とつぶやきながらご飯を盛る人も少ないかもしれぬ。

しかし、複数の異なる機能を持つ要素を組み合わせて、特定の意図した機能を全体で実現する仕組みのことを、本来は「システム」と呼ぶのだ。そこには別にコンピュータが介在しようとしまいと関係がない。ジェームズ・ワットが発明した蒸気機関には、機関の回転数を一定にするための巧妙な弁の仕組みも内蔵されており、安定制御のためのフィードバックが行えるようになっていた。文句なしに立派なシステムである。

システムというものの特徴は、要素だけをぽんぽんと並べても、全体の機能や性能を達成できないことである。この点が、少々、普通の実物経済の思考回路をはみ出す点だ。1+1+1で3ではなく5の価値を生み出そう、というのがシステムである。よく、製品の値段交渉のときに、部品の原価に立ち戻ってあれこれいう購買部門の人がいるが、それだったらあんた、自分で最適な部品の組合せ方を見繕ってみないさいよ、という気になる。そうした「システム設計」の知恵と、組合せで正しく動く「統合」のリスク低減に、価値を認めるべきなのだ。

システムのもう一つの特徴は、使い手の使い方と、環境条件によって、パフォーマンスが異なる点だ。自動車を、高速で飛ばすのか、町中でちょこちょこ動かすのかでは、平均速度も燃費も違う。無論、適した車種も異なる。これはシステムというものが単機能でない以上、当然のことだと思う。しかしこの点も、よく見逃されているようだ。

そして、実は「工場」というものも『システム』なのだ。そんなこと、どの生産工学の教科書にも書いていないが(少なくとも私は見たことがない)。工場もまた、複数の異なる機能の生産資源を組み合わせて、いろいろな製品の産出という機能を全体で実現するための仕組みである。始末に負えないことに、生産資源の中には“人間”という、えらく気むずかしくて再現性のわるい、モジュール化しにくい要素もある。環境も、使い方(生産方針・生産計画)もいろいろと変わる。

そして、工場というものがシステムである以上、それを構成するためのシステム・エンジニアという職種と、それを支える工場作りのシステム工学がなければいけないはずなのだ。何をどう流し、どう集積し、どこでボトルネックを緩和するのか。それが上手にできている工場と、単にモノを並べただけの工場では、同じ製品を作っても、生産性には雲泥の差が出る。こうしたことを、「日本帰りの進みつつある」製造業の人々に、もう一度よく考えてみて欲しいと私は願っている。
# by Tomoichi_Sato | 2005-11-14 21:18 | ビジネス | Comments(0)

工場の性能とは何か

エンジニアリング会社で工場作りの仕事に従事していると、ときどき、工場の生産能力というものに関する、奇妙な誤解に遭遇することがある。ご承知の通りエンジニアリング会社というのは、顧客のために、顧客に成り代わって工場を設計し、実現する仕事を請け負う。ある意味では、製造業における生産技術部門、あるいは工務部門のアウトソーシング先だから、しばしば顧客の新製品づくり、あるいは新製造プロセスづくりのプロジェクトに協力することになる。

エンジニアリングは具体的なモノを売っているわけではなく、あくまで工場の設計・調達・プロジェクト管理能力などの、目に見えない『能力』を商品として売る行為だ。当然ながら、仕事の成果について、どれほどの実力があるのかが問われることになる。もっと具体的に言えば、「はたして新工場は必要な量だけ製品を作る能力を持っているのか」が問題になる。これを工場の性能保証と呼ぶ。

プロセス産業の世界では、しばしば製造プロセスの特許技術を海外先進企業から有償で導入することがある。たとえば、いまや世界の主要な産油国はあらそってLNGプラントを作っているが、その中核となる深冷熱交換器とガスタービンは、事実上、米国企業が技術を握っている。LNGプロセスの性能(生産能力)が年産300万トンの計画だとすると、エンジニアリング会社は、その性能保証を求められる。その保証の根本は、中核となる深冷熱交換技術のライセンサーに依存することになる。

ところで、LNGプラントというのは、ある意味で極めて特殊な工場で、そこで生産する製品はLNG1種類しかない。単品大量生産の工場なのである。それでは、多品種少量を志向した工場(つまり、現在では殆どの工場)では、生産能力は保証できるのだろうか。そもそも、多品種少量生産工場では、何を「生産能力」として定義するのだろうか。

意外にも、この問題は生産工学の教科書などを見ても、あまり書いていない。“明白すぎる”と思われているのかも知らないが、私にはそれほど自明なこととは思えない。連続生産の化学工場ならば、たしかに化学工学が計算式を教えてくれるが、ちょっとでもバッチ操作や切替が介在すると、話は簡単ではなくなる。まして機械組立加工や、食品・医薬品その他のディスクリートの世界では、どう定義すべきなのか。

私の答えは、こうだ。工場は生産資源の集合である。そこで、もし、ある製品が原材料から最終完成型になるまでに、1個当たり平均τ時間だけ、生産資源を占有すると仮定しよう。工場内の生産資源の総量をCとする。すると、この工場がその製品だけを製造した場合、その生産能力Pは、

 P=C/τ (個/時間)

となるはずだ。この式は、生産能力は製造資源の量(たとえば加工ラインの数)に比例し、純粋な製造リードタイムに反比例することを教えている。もっとも、正確には、工場の始業・終業の効果を計算に入れなければならないが、ここでは省く。

では、複数の製品が流れるときはどうなるのか。品種間の段取替え時間を無視すれば、製品iがτiづつ製造資源を占有すると考え、積和を計算することができる。

 C=ΣPiτi

この式をよく見れば分かるとおり、工場全体の生産能力(ΣPi)というのは、どの製品をどれだけの割合で作るかによって変わってしまう。リードタイムの長い製品の割合が多ければ、能力は全体として下がるし、その逆も真なりだ。まして、品種切替の段取り時間は、現実には決して無視し得ない。

ということは、複数品種を生産する工場の「総合性能」は、生産計画に依存するわけだ。そして、工場の設計者は、もはや総合性能など保証できなくなる。なぜなら、生産計画は(誰でも知っているとおり)需要という外界の影響によって、どんどん変わりうるからだ。工場の性能は動的属性なのである。

これは、自動車の問題に置き換えてみるとよく分かる。自動車の走行速度は保証できるかといわれたら、テストコースでの最大速度だったら保証はできる。機械的性能の検証はできるからだ。しかし、町中での平均走行速度を保証しろと言われても、それはできかねる。とうぜん、道がどれくらい混んでいるかに依存するからだ。

したがって、エンジニアリング会社の立場に戻ると、できるのは単体製品の製造能力の保証だけ、ということになる。工場という物は、機械設備と作業者と空間からなる、巨大なシステムである。そのシステムの総合的パフォーマンスは、環境と運用方針によって変わる。それは静的なものではないので、せいぜいできることは、仮定をおいてシミュレーションをしてみせることなのだ。

私はこのことを、もっと多くの、製造業にたずさわる人が理解して欲しいと思う。工場の総合生産能力とは、それを運用するポリシーによって変わる。それは他人に保証させるべきものではない。どんなに高速なエンジンを積んだ車でも、10mごとに信号で止まるような環境で使っていたら、それは無用の長物というべきものなのだ。
# by Tomoichi_Sato | 2005-11-08 21:27 | ビジネス | Comments(0)

WBSのつくり方

WBSは、「仕事のBOM」である。私は最近、そう説明することにしている。プロジェクトという、始まりと終わりがある仕事の全体像を表現するには、それを構成している仕事の部分品ひとつひとつに分解して、どういう構成になっているかを示すのが一番分かりやすい。それがWBSである、と。

WBSはWork Breakdown Structureの略である。プロジェクト・マネジメントで使う用語だ。このWorkという英語はいささか多義語で、仕事(人の作業)のこともさすが、加工対象物(モノ)のことをも意味する。そのせいかどうかしらないが、WBSの作り方には従来、二通りの考えがあった。

まず、WBSは人の作業の構成表である、とする考え方がある。システム開発プロジェクトという仕事は、「要求分析」「設計」「実装」「テスト」「移行作業」などとブレークダウンしていく。「設計」はさらに「基本設計」「詳細設計」「実装設計」に分けることもできるだろう。これはある意味で、仕事の進む順序=プロセスを表現しているとも言える。別の例で言えば、製品開発プロジェクトという仕事のWBSは、「製品企画」「市場調査」「設計」「試作評価」「量産準備」というわけだ。

もう一つの流儀は、WBSを、プロジェクトの成果物の構成にしたがって作るやり方だ。在庫管理システムの開発ならば、「入出庫機能モジュール」「保管機能モジュール」「棚卸機能モジュール」「マスタ管理モジュール」といったサブシステム別にブレークしていく。入出庫機能モジュールは、さらに「入庫」「出庫」「返品」といったサブモジュールに分けられるかもしれない。これはまさに、成果物の構成部品表をイメージしているわけで、WBSは仕事のBOM、という表現にぴったり来ると感じられるかもしれない。

ところで、後者のやり方では、一つまずいことがある。それが何か、おわかりだろうか。

成果物単位にWBSをつくると、成果物全体に共通の作業が、抜け落ちがちになる弱点がある。たとえば、典型的な例は「プロジェクト・マネジメント」というタスクがそれである。プロマネの仕事は、ふつう、どれか個別のモジュールには従属しない。あるいは、製品設計ならば、「製品企画」や「市場調査」などもそれである。

前者の方式を、Functional WBS (F-WBS)と呼び、後者をProduct WBS (P-WBS)と呼んで区別することがある。そして、両者の間には、長い論争の歴史があった。

最近、Gregory T. Haugan著「WBS入門」(翔泳社・刊)という本が出版されて話題になったが、著者はP-WBSの流派の人だ。彼は長らく米国国防総省の調達対象となるような航空宇宙産業のプロジェクト・マネジメントにタッチしてきた人だから、作るべきモノが最初から明確になっている世界の人だ。航空機は胴体と主翼と尾翼とエンジンからなり・・という風に。

その彼も、この問題点は意識しており、「WBSでは『プロジェクト管理』を必ずプロジェクト直下の第1階層に置け」という意味のことを書いている。これは一種の現実的な妥協策であろう。もっとも、F-WBS流儀で仕事の構成を作る人たちの中でさえ、ときどき『プロジェクト管理』のタスクが置き忘れられていたりする。だから、これは本質的な弱点とは言えないかもしれない。

私の目から見ると、P-WBSの本当の弱点は、「WBSのマスタを作りにくい」ことにある。WBSはプロジェクトのBOMだと考えられる。そして、BOMは普通、マテリアル・マスタの中から選び出された品目の組合せによって構成される。生産管理の世界では、マテリアル・マスタがまずあって、それからBOMができるのだ。ならば、WBSを作る場合だって、"Work"のマスタから選び出して組み合わせるべきだ。

成果物は個別プロジェクトでみな異なる。だから、その要素のマスタというのは想像しにくい。しかし、仕事のプロセス自体は、開発対象が在庫管理システムであろうが受発注システムであろうが、大筋にかわりはない。したがって、要素業務のマスタがつくりやすいのである。

要素業務のマスタが作れると、どういう利点があるか。それは、仕事の標準的なデータベースを作れることを意味している。すなわち、プロジェクト計画に置いて最も重要な、工数見積や期間見積に、過去のデータが活かせるということなのだ。これが、F-WBSを用いた場合の最大のメリットなのである。

Haugan氏の「WBS入門」の最大の問題点も、そこにある。この著者は、WBSにマスタが必要であり、それは構築可能だという認識がない。いや、彼だけではない。じつは米国PMIは、そのものずばり"Work Breakdown Structure"というPractice standard(モノグラフ)を出版しているのだが、この中にも、WBSのマスタという考え方が欠落している。

WBSを作るならば、マスタが必要である。そうでないと、WBSの作り方は、プロマネ各人の恣意性にまかされてしまう。このことは、広く理解されるべきであると、私は考える。
# by Tomoichi_Sato | 2005-10-14 00:01 | プロジェクト・マネジメント | Comments(0)

プロマネの鍵、貸します

往年の名画『アパートの鍵貸します』に、忘れがたいシーンがある。終幕近く、主人公(ジャック・レモン)が上司に、いつものとおりアパートの鍵を貸してくれ、とたのまれる。彼は鍵を渡すのだが、上司はそれを見て、叫ぶ。「これは役員用バス・ルームの鍵じゃないか!」。

アメリカの会社には、どうやら役員専用のトイレがあるらしい。社長が平社員に混じって、社員食堂で平気で食事をする日本では、想像しにくい話だが、その鍵は、役員であることの象徴なのである。米国で暮らすと、あちこちに鍵が要るので、すぐ鍵束がじゃらじゃらと重くなってゆく。ことに自宅の鍵は、外敵から物理的に身を守る盾であって、決して人に貸すものではない。

そのアパートの鍵を、不倫の密会用に上司に貸すことで、主人公は代償として出世を手に入れてきた。そんな行き方がリスキーであることは、うすうす感じていただろう。しかし、その彼も、自分の部屋で、若い女性(シャーリー・マクレーン)が睡眠薬を飲んで倒れているのを発見したときに、はじめて潜在的な「リスク」が具体的な「イシュー(問題)」になって、身に降りかかったことを知るのである。

プロマネを数人、貸してくれませんか” --そんな依頼が、ときどきある。中には、“できれば派遣社員の単価で”という虫のいいオマケまでついたりする。腕のいいプロマネは利益の源泉であって、それを安い費用で貸し出したら、私の勤務先は干上がってしまう。プロマネを貸すことは、自分のアパートの鍵を貸すのと同じくらい重大なことなのだ。

それでは、プロマネの適正な価格はどのように決めるべきだろうか。これについて明確に書いた本は、まだ読んだことがない。私の会社の経営者は、腕の良いプロマネをどこからか連れてこられるのなら、1億円払っても惜しくないと考えるだろう。エンジニアリング業界では、大きなプロジェクトは予算額が1千億円を超える。プロマネがヘタをうったら、赤字だって数十億円に迫るだろう。これが仮に半分で済んだら、プロマネ代1億円だって安いものではないか。

アパートの扉や壁が、住人を外敵から物理的に守ってくれる存在なら、プロマネは巨大なリスクから会社を守ってくれる、扉の鍵にあたる存在なのである。古代の中国人は、万里の長城という途方もない壁をこしらえたが、この防護壁の機能は、門を守る将軍の一人が外敵に対して門を開いてしまったことで、完全に無に帰した。鍵は掌に握れるくらい小さい。材料でいえば原価は数百円だろう。しかし、リスクの観点から言えば、その価値はきわめて大である。プロマネも同じで、人件費単価で貸し借りできるものではない。

「プロジェクト・ダイナミクスの構造」にも以前、書いたとおり、プロジェクトの問題発生には階層的な構造がある。問題事象が最初に発見される場所は、コストである。しかし、その原因は、たいていスケジュール遅延かスコープ漏れである。それらは品質・調達・人的リソースの問題から引き起こされる。そして、遠因は、たいていリスク対処とコミュニケーションの失敗にある。リスクの感覚は、プロジェクト・マネジメントの根底課題なのである。

では、リスク感覚はどのように磨かれるのか。それは何よりも、経験の蓄積を通じて磨かれるのだ。プログラマの世界には若い天才がときどき現れるが、プロマネには若い天才は存在し得ない。それにくわえて、プロジェクト対象となる分野の固有技術についての一通りの理解がなければならない。そうでなければ、この先何が起こりそうか、どうして分かるだろうか。

プロマネに必要な三要素は、経験から得たリスク感覚と、固有技術への理解と、管理技術である。最初の二つは、組織の中で時間をかけて育てていくしかない。最後の一つだけは、座学でもある程度は身に付くし、たとえば「e工程マネージャー」のようなツールの形で借りてくることもできる。

こうしてみると、借り出したプロマネを、ぽーんと一人で見ず知らずの組織に放り込んで、プロジェクトが機能する訳がないことが分かる。プロジェクトとは複数の人間が共同して行なう仕事だ。周囲とのコミュニケーションのポイントも分からず、固有技術も分からず、過去の経験もなければ、リスクをマネージしようもない。

『アパートの鍵貸します』は、人生の危機を乗り越えたジャック・レモンが、地位や金銭を捨てて真実の愛情を手に入れるシーンで終わる。ビリー・ワイルダー監督は、その場面を繊細で美しい白黒の映像で撮っている。彼にとって一番大事なものは、貸し借りでは決して手に入らないものなのだ。
# by Tomoichi_Sato | 2005-10-07 22:56 | プロジェクト・マネジメント | Comments(0)

納期短縮三か条

私はタイム・コンサルタントである。「時間の悩み」を抱えるクライアントに対して、解決へのアプローチを示すことで、プロフェッショナルとしてのビジネスを成立させている・・・と、自己紹介には書きたい。できれば。

しかしまあ、現実はなかなかそう甘く行かない。タイム・マネジメントの仕組みを提案するだけでは、なかなかビジネスにはならないのだ。生産スケジューリングやプロジェクト・スケジューリングの仕事をしていてつくづく感じるのは、『やっぱりコスト削減が優先』という圧力の強さである。製造業や流通業向けのSCMシステム構築の課題は、物流費の削減が真っ先にくる。納期短縮は、「それもできたらやりたい」であって、部分目標でしかない。だから私は、パート・タイム・コンサルタントという存在だ。

コスト競争はすでに行き着くところまで行ってしまった。あとは非価格競争力の問題で、性能だとか品質だとかも大事だろうが、納期で勝負すべきだ。"Time is Money"にも書いたとおり、私の主張はこの点にある。

ところで、うっかり作りすぎてしまった製品は、在庫となって財務諸表に現れる。それも不思議なことに、さも資産であるかのように。ところが、納期を遅れて売り損なった注文は、財務諸表のどこにも現れない。だから、それは見えないコストとなり、経営の関心の外になる。こういう心理的メカニズムが、どこかで働いているにちがいない。

それではもし、そうした心理的な霧が晴れて、納期短縮が重要だと気づいたら、どうしたら良いのか。私だったら、3箇条の処方箋を書く。

(1)「隘路に集中すべし」

クリティカル・パス(隘路)を見つけ、その短縮に集中すること。いうまでもないが、クリティカル・パス以外の作業をいくら努力して短縮しても、全体の納期は早まらない。この原理を、皆が理解する必要がある。これはとくに、新製品開発の納期において大事だ。むろん、設計に手こずりがちな受注生産形態でも共通の処方だが。

全員の目標を、納期短縮に向けることが、何よりも重要である。設計部門は性能を、購買部門は資材コストを、製造部門は作業効率を第一に動いていたら、誰が納期に責任を持つのか?

(2)「進捗を皆に見せるべし」

進捗が見えると、事前に準備できる。じつは、これが大きいのだ。バトンリレーも、事前の助走が大事だろう。人間は賢い存在で、先読みができる。言われたことだけをやるロボットとは違う。多くの企業では、部門の壁や、事業所の地理的な分散によって、他の仕事の進捗が見えて来ない。これを見えるようにしてやるだけで、納期は1-2割程度短くなると言っても過言ではない。

進捗がいったん後退したら、その事実を直視することも重要だ。とくに設計業務は、環境変化や客先の気まぐれで、いったん決まったはずのことが元に戻ってしまうことが多い。「こういう手戻りが生じる業態では、プロジェクト・スケジューリングの道具など使えますか? 使えないでしょ?」などとセミナーで反論されたこともあるが、無論、使えるのである。

進捗というのは、“これまでどれだけ工数をかけたか(努力したか)”ではなく、“あとどれだけ仕事が残っているか”で測るべきものだからである。もし手戻りしたら、進捗率は下がるべきなのだ。それが事実なのだから、仕方がない。この質問者は、「進捗は下がってはいけない」という理屈(願望?)と現実把握を取り違えておられるのだろう。マネジメントというのは、客観的な事実認識からスタートすべきものなのだから。

(3)「時間はお金で買うものと思うべし」

納期短縮にはコストとリスクがつきまとう事を理解すること。納期を短縮するためには、ある程度先読みをして、準備や手配をかけておく必要がある。ここには推測が入るため、ずれや手戻りのリスクも生じる。急いだ分、余分なコストがかかってしまうのだ。これを逆に表現すれば、お金を節約しようとすると、時間がかかる、ということになる。

時間とお金との間には、トレードオフの関係がある。お金を取るか時間をとるか、マネジメントが指針を下すべきなのだ。「繁忙期には納期優先で考え、閑散期にはコスト優先で行こう」という顧客がいたが、これはとても立派なポリシーである。トレードオフの状況でどのような判断を下すべきかを定めた指針を、企業の「戦略」ないし「ポリシー」と呼ぶ。

そして、困ったことに、戦略もポリシーも持ち合わせていない会社が、じつはとても多いのだ。選ぶとなると必ず、目に見える「お金」になってしまう。だから私は、いつまでたっても、パート・タイム・コンサルタントでしかないのである。
# by Tomoichi_Sato | 2005-09-21 23:25 | サプライチェーン | Comments(0)

南蛮のみちⅠ 司馬遼太郎

「街道を行く」シリーズの1冊。この人の小説は、地の文章に解説や余談が多くて随筆みたいになりがちだが、随筆の方は多少の演出があってフィクティシャスに感じる。不思議な小説家だ。

日本人にとって、ながらく日本・唐・天竺の三つしかなかった文明世界に、突然飛び込んできたのが「南蛮」文明だった。しかも、面白いことに、その伝道の中心人物フランシスコ・ザビエルは、フランスでもスペインでもなく、バスクの人だった。そこで、この旅路の前半は、バスクという国をめざしてパリからフランス南西部を横切って進む。

そのバスク文化を理解するための第一の資料として、司馬遼太郎があげるのは、近代日本に宣教師としてやってきた、バスク出身のS・カンドウ神父の著作だ。「バスクは風と水と光の国だと形容される」とカンドウ神父は書く。そして、起源未詳のピレネー山脈先住民であるバスク民族の世界を、いとも魅力的に描き出す。騎士道精神と熱烈な信仰に支えられたザビエルは、その光輪の中に定置される。

バスク人は、見かけはフランス人やスペイン人とさほどちがわない。バスク名物のベレー帽も、フランス人の象徴のように思われている。彼らのアイデンティティを支えるものは、その気質と、バスク語だけである。スペイン語とは、バスク語の音韻の上に乗ったラテン語なのだが、そのスペイン王国からも、国民国家論を信奉するフランス共和国からも、存在を無視され迫害された歴史がある。

しかし、この旅行記は、そうした剣呑な雰囲気をうまく筆先でさばいて取り払い、ひたすら純朴で美しい「常世の国」バスクを描き出している。これを読んで、バスクに行きたくならない人は少ないだろうと思う。それだけ、司馬遼太郎が楽しんでいる旅行記と言えるだろう。
# by Tomoichi_Sato | 2005-09-18 15:18 | 書評 | Comments(0)

アメリカでハリケーンの被害

米国のメキシコ湾岸を襲ったハリケーンKatrinaは、史上最もひどい被害をもたらす結果となった。ニューオーリンズでは有名な旧市街French Quaterの堤防が決壊し、洪水状態となっている。上陸二日前には沿岸地帯に非常事態宣言が出され、80%の住民が避難したが、それでもかなりダメージを受けたようである。

このニュースで奇妙なのは、Katrinaが発生してからもしばらくの間、並みのクラスのハリケーンということで、さほど報道でも注目されていなかったことだ。CNNなどが騒ぎ出したのは、上陸する少し前からである。

米国のメキシコ湾岸は石油産出地帯で、沿岸には製油施設が並ぶが、その9割は操業停止状態に追い込まれた。このため、WTI原油価格は$70を突破して、史上最高値を更新した。一般消費者にとってはまさに泣き面に蜂だろう。
# by Tomoichi_Sato | 2005-08-31 12:58 | Comments(0)

スイスから東欧にかけて洪水

南欧とは逆に、スイスからドイツ東部、そしてルーマニアにかけて大雨になり、この夏は平年の5倍以上の降雨量があった。洪水や土砂崩れなどの災害で、スイス・ルーマニア・ブルガリア合わせて数十名の犠牲者が出た模様である。ドイツでも河川の氾濫で水浸しになる都市が出ている。
# by Tomoichi_Sato | 2005-08-29 22:55 | Comments(0)