プロジェクト制の要件

ソフトブレーン(株)の会長・宋文洲氏はいつだったか、持論のプロセス・マネジメントに関連して、「プロセスは線路で、プロジェクトはそこを走る個別の電車である」と言われたことがあった。これはなかなか面白い喩えだと思う。プロセスはいったん路線を引いたら固定して変わらないが、プロジェクトは運転手も、乗せている客も毎回違う。行き先だって変わることもある。“だからプロセスの設計が重要なんだ”というのが宋さんの立論である。

しかし、これはある意味では例外的なケースだとも考えられる。通常の製造業においては、まず「プロジェクト」という仕組み自体が確立していない。製品開発や受注生産といった個別の『案件』は、たとえば

企画→設計→試作→生産技術→購買→製造→物流、

という複数の機能部門の中を、上流から下流に向けて流れていくケースがほとんどだ。言いかえれば、縦割り組織の中をバケツリレーのように受け渡されていくわけだ。普通の電車の運転手は終点まで変わらないが、縦割り組織のメーカーは、ひと駅ごとに運転手が交替する鉄道に似ている。

むろん、それでずっとうまく行っているならば、何の問題もない。しかし、製品開発や個別受注生産は、複数の機能部門が関わり合う、クロス・ファンクショナルな活動である。業容を拡大したり、短納期化を進める状況下で、複数の案件が並行して進むとき、ボトルネックの作業負荷を誰が調整するのだろうか? 部門を統括する上級マネジメントか? しかし、個別の案件で設計と購買の鞘当てが起こるたびに、いちいち事業部長が介入して調整するわけにもいくまい。

たとえば、既存の部品を転用すれば、早くできるのは分かっているが、しかしオーバースペックで高いものにつく。今回用に注文し直せば安く上がるが、とうぜん手配に時間がかかる。製品出荷の早さ(納期)をとるか、製品コストを取るか。製品開発は常にトレード・オフに直面するものだ。決断には責任がともなう。誰がそのリスクをとるのか?

答えは明らかだ。プロジェクト・マネージャーが必要なのである。納期とコストの双方に最終的な責任をもつ、プロマネが判断すべきだろう。そして、そのためには、社内でまず『プロジェクト制』の確立が必須になる。バケツリレーがこんぐらがって、もう限界に達したな、と思ったら、それはプロジェクト制を導入すべき時期なのだ。

プロジェクト制、というと、なぜだかすぐ「社長直属プロジェクト」を想起する人が多い。しかし、ここではそんな、“社運を決する一大プロジェクト” だけを考えているのではない。始まりがあり、明確なゴールがあって、複数の部署の人間が協力して成し遂げなければならない仕事(しかも失敗の可能性もある仕事)は、「プロジェクト」として公式に扱おう、と決めるのだ。

プロジェクト制の要件はいくつかある。まず第一に、プロジェクト・マネージャーの指名である。プロマネに、品質・納期・予算(QCD)に関する最終的な権限と責任を与える(人事権までは与える必要はない)。

予算に責任を持つためには、プロジェクト予算体系を確立しなければならない。これを支える仕組みとして、プロジェクト番号制が望ましい。プロジェクト番号をキーとして、日報による社内人件費把握や、外部費用のプロジェクト別把握ができなければならない。

誰をプロジェクト・マネージャーに任命すべきかも、悩ましいところだろう。企画部門かもしれないし、設計部門かもしれないし、生産技術部門から出すのがいいかもしれない。タスクフォース(「工務店」型)組織か、マトリクス(「置屋」型)組織かによっても、答えは違う。だが、いずれにせよ、プロジェクト・マネジメントに関する基礎的なトレーニングは必須だろう。固有技術と、管理技術は違うからだ。この点を忘れると、プロジェクト制など、すぐに絵に描いた餅になってしまう。

スムーズな製品開発や個別受注生産にとって、「プロセス」は必要条件だが、十分条件ではないのだ。最後まで決定に責任を持つ「運転手」=プロジェクト・マネージャーが望まれるのだ。
# by Tomoichi_Sato | 2006-02-19 23:46 | プロジェクト・マネジメント | Comments(0)

PMOが最も必要とされる場所

先日、PMI東京支部のシンポジウムにパネラーとして招かれ、参加させていただいた。テーマは「PMOはPMクライシスの救世主になれるか」で、PMO組織への期待論が中心だった。参加者は私の他に、Johnson & Johnsonのマーケティング部門の方、そしてUNIYSの方で、司会進行役がIBMの神庭さんである。外資系メーカー・エンジニアリング業界・IT業界それぞれの観点から、興味深い論議になったと思う。

PMOはProject Management Officeの略語である。複数のプロジェクトを統括してマネジメントする専門部署、というほどの意味だが、最近はどうやら流行の3文字略語になってきたらしい。例によって米国で広まりはじめ、すぐわが国にも飛び火した。おそらくシンポジウムの聴衆の中にも、PMOの名刺を持つ方が少なからずいらしたに違いない。

ところでパネル・ディスカッションが進むにつれ、このPMOという組織の位置づけについてのすれ違いが明らかになってきた。それは、簡単に言うとPMOがラインを主導するのか、あるいはスタッフとして支援に徹するのか、その違いである。あるいは、プロマネはPMO部門に所属するのかしないのか、という違いだと言ってもいい。

ちなみに、私の勤務先である日揮は、PMOという名前の組織はない。プロジェクト本部という組織があり、それとは別にエンジニアリング本部という機能別組織(電機・機械・化学・建築・制御・シビル等の設計者集団)がある。プロマネはプロジェクト本部に属して、各案件(プロジェクト)ごとに機能別組織の横串を通すマネジメントを行なう。つまり、典型的なマトリクス型組織である。

マトリクス組織のプロジェクト・チーム員は、機械エンジニアなら機械専門部の部長が上司であり、固有技術はその部長が統率する。プロマネは、管理技術に徹するわけだ。ここでは固有技術と管理技術は独立して、車の両輪となっている。

ところが、IT業界のSIerは、タスクフォース型組織をとる会社が殆どである。タスクフォース型組織では、プロマネはプロジェクト・チーム員の上司に当たる。つまり、固有技術と管理技術の両方を、ある意味では同じプロマネが面倒を見なければならないわけだ。しかも、SIerでは、プログラマ→SE→サブ・リーダ→プロマネ、というようなキャリア・パスが多い。固有技術者が進化して、管理技術のマネージャーになるという、ポケモンの進化論みたいな変身が要求される。

だからこそ、管理技術の中心であるPMOの確立が「救世主」として期待されるのだろう。PMI東京支部は、IT業界の参加者が圧倒的に多い。パネル・ディスカッションのテーマも、その問題意識が反映されたのだろう。

しかし、タスクフォース中心型組織(私はこれを「工務店方式」と呼んでいる)では、プロマネはPMOの所属にはならない。したがって、PMOは必然的に支援型スタッフになる。これで複数プロジェクトを統括管理できるのだろうか? まあ、指揮系統から言ってかなり困難だろう。もし、無理にそうした役割をPMOに期待するとなると、こんどはPMOが『本社』、各プロジェクト・チームが『工場』、みたいな関係にならざるをえない。

その場合、PMOを「頭でっかちの本社組織」にしないための工夫と制限が必要だろう。ひとつの方法は、現場と人を定期的に入れかえることである。つまり、PMO勤務経験をプロマネの必須のキャリア・パスとする。また、プロジェクト実務経験者を、PMOに転属させる。要するに、固有技術と管理技術の『両刀使い』を養成するしかない。

もともとPMBOK Guideの原型は、エンジニアリング業界や航空宇宙業界の出身者が中心になって作られた。こうした業界は機能別組織が発達している。一方、IT業界は、構造的にそういう社内体制になりにくい。米国PMI風の発想が、どうしても日本ですれ違いを生みやすいのはこのためだろう。

私の見るところ、PMO組織の確立がもっとも成功するのは、じつはSIerでも建設・エンジニアリング業界でもない。製造業・流通業における、新製品開発や上市などのプロジェクト管理である。なぜなら、こうした仕事は、必ず複数の機能部門の協力を必要とする。営業企画・研究開発・製品設計・生産技術・購買・マーケティング・物流・・等々である。しかも、こうした仕事は、たいていの場合、「プロジェクト」として位置づけられておらず、単に「案件のバケツリレー」でこなされているからだ。予算についても、スケジュールについても、誰も本当の意味でのコントロールをしていない。

このような縦割り組織において横串を通し、『プロジェクト制』を確立し、効率よく短期間で製品開発・上市を進めていくためにこそ、PMOという部門が役に立つのだ。じじつ私も、最近はこうした製品開発プロジェクトのマネジメント・システム導入をお手伝いすることが増えており、かつその効果が大きいのも見てきている。

PMOは、製品開発にとってこそ「救世主」なのだ。もっとも、まれに単なるプロジェクト・チームをPMOとよんでいるケースもあるようだ。これは遂行と統括マネジメントの区別がされていないのだろう。誤解だと言うべきなのかもしれない。
# by Tomoichi_Sato | 2006-02-08 01:22 | プロジェクト・マネジメント | Comments(0)

特別な我が社

考えるヒント、2001/2/03より)

ITコンサルタントの仕事をしていると、つくづく面白いと思うことがある。仕事柄、さまざまな企業を訪問して話を聞くわけだが、訪れる会社はどこも、「自分のところの業務はひどく特殊だ、ウチは特別な会社だ」とおっしゃるのである。どの会社もどの会社も、“これこれの理由でウチはよその会社とちがう”と主張される。

いわく、「ウチの業種の製品は鮮度管理が非常にきびしいから」「ウチの製品はお客様の生命に直接かかわるものだから供給の責任があって」「ウチの業種は可燃物を大量に取り扱うので消防法のこうるさい設備検査が必要で」「ウチの業界はものすごい多品種少量で、かつ製品のライフサイクルがめちゃくちゃ短いから」「徹底したカンバン方式で工場を回しているから」「完全受注生産でリードタイムが長いから」「小さく高価で壊れやすいから」「場所ふさぎなのにひどく安価だから」etc...

“というわけで、外部の方には我々の問題の難しさはご理解いただけにくいでしょうねえ・・”と続く。

そして結論はというと、
「だから平均的な製造業向けにつくられたパッケージ・ソフトではウチの仕事はうまく取り扱えない」
という風に誘導されるのだ。特殊性を強調されたあげく、ほとんど判で押したかのように、同じ結論にたどり着くところが面白い。

そんなことはないのである。

この仕事をやってみるとわかるのだが、日本の製造業が抱えている問題点というのは驚くほど共通性が高いのだ。それは、非常に圧縮した形で表現するならば、『大量・見込み生産の体制を残したまま、多品種少量の受注生産に移行しようとしている』ということになる。だから調達から販売までのサプライチェーンのあちこちで、プルとプッシュが混在しているのである。

したがって、解決の手法も一つの事例できちんと確立してしまえば、あとはかなり応用が利く。若いコンサルタントでも、見習いで3社の事例をやってみたら、4社目からは中核の問題を自分で見つけることができるようになる(むろん、応用問題を解くにはその業種の個別知識と、人を動かし説得できるだけの知恵がいるから、経験もなしにすぐに独り立ちできるわけではないが)。

「パーキンソンの法則」で有名な経営学者C・N・パーキンソンは、「コンサルタントの仕事はミツバチに似ている」と言っている。花から花へ、花粉を運ぶ蜜蜂のように、コンサルタントはある会社で見つけた知恵を別の会社に運んでそこに植え付ける訳である。自分自身では花粉を作り出したりしない(知恵を生み出したりしない)点が面白い。こう書くと怒り出す人もいるだろうが、かなりの程度、真実に近い。

個別性・特殊性の強調は、なんとなく日本の文化に根ざしているのかな、とも思う。丸山真男が『日本の思想』で分析して見せたように、日本では「理論信仰」と「実感信仰」が表うらの関係で支え合っている。外国から直輸入した公式的理論によって現実をばっさりと切ってしまうような風潮と、逆にその防御として、個別の事象・実感をならべたてて共通論理をいっさい否定してしまう態度。まるで「パッケージに業務を合わせろ」「いや業務に合わせてすべてカスタマイズしろ」という水掛け論を聞いているかのようではないか。

面白いことに、私のつきあった範囲では、欧米の会社からはあまりこういう「ウチは特殊だから」論は出てこない。それも当然だろう。彼らはそもそも、みずからの独自性を前提として生きている。一人一人に個性がある、というところから思考は出発する。その上で、個別の事物を包含するイデアが存在する、というのが西欧の哲学だからだ。

哲学抜きで特殊論にしがみつく国には、ただ“諸行無常”の風が吹くだけかもしれない。
# by Tomoichi_Sato | 2006-02-01 22:39 | ビジネス | Comments(0)

意味無しコードのすすめ

商売柄、多くの製造業の顧客に接していると、つくづく感じることがある。それは、生産の世界はとても多様なのに、抱えている問題はだいたい似通っている、ということだ。工場と生産のあり方は、つくるモノによって非常に異なる。電子材料・精密機器・医薬品・飲料・アパレル・産業機械・化学・原子力関係・・最近かかわった業種をランダムに思いだしてみても、それぞれじつに多様な条件下で、ものづくりが行なわれている。

にもかかわらず、多くの企業で抱えている問題には共通点がある。それは一言でいってしまうとサプライチェーンの悩みであり、それをささえるマテリアル・マネジメントの変化の悩みである。工場は大量・見込み生産の形で大きくなってきたのに、販売はどんどん多品種少量・短納期受注生産のスタイルを要求される。新製品をつぎつぎに市場に投入しなければならないのに、製品開発も量産準備もそれに追いつけずにいるのだ。

それなのに、どこの会社も判で押したように「自分の問題は特殊だ」と信じ込んでいる。この滑稽さは、以前、「特別なわが社」で書いたから、今は触れない。

しかし、「会社四季報」などを見るとつくづく思うのだが、そもそも化学・繊維・機械といった『業種分類』など、いまでは住民票の“本籍地”程度の意味しかない。化学企業が電子部品を作り、繊維メーカーが医薬品で儲け、素材メーカーが飲料を売って成功をおさめているのが今日の姿である。もはや“現住所”はずいぶん離れているのだ。それだけ、日本の技術者の適応能力が高いのだ、とも言える。

しかし、それに比して、管理技術の方は、なかなか進展も変化も見せないものらしい。製品市場では世界に知られる先進企業でも、工場を子細に見ると“えっ、まだこんな方法で生産管理やっているんですか!?”と驚かされたりする。10-15年前に、本籍地から現住所に移ったときの、旧い管理の考え方が、まだそのまま残されていたりするのだ。その一番典型的な例が「意味ありコード」である。

「意味ありコード」とは何か。それは、マテリアル・マスタ(会社によっては部品マスタとか品目マスタとか種々の名前で呼ばれるが)において、それぞれのマテリアルを識別するためのキー・コードのあり方である。そのキーを発番する際、複数の桁区切りをつかって、桁ごとにいろいろな意味を持たせる。これを「意味ありコード」と呼ぶ。

たとえば、PA-C12-74901 という品目コードを持つ部品があったとする。最初のPAは、流体計器という製品ファミリを表わし、C12は製品を構成するサブ・アセンブリのコード、次の749は仕入先のコードで、01は連番、といった具合だ。よく見かける「意味ありコード」の例である。なれた人は、コードをじっと見ると、それがどのような部品で、どこから仕入れて何に用いられるのか、だいたい分かるようになる。とてもインテリジェントな、優れモノのコード体系である・・はずである。

ところが、多くのメーカーでは、これが足かせとなり桎梏となってきている。その理由は、製品の多品種化と、製品領域のシフトである。多品種化にともない、共通部品や共通原料が増えてきた。そうなると、なまじ最終製品に紐づけられた部品コードは不便になってきた。それに輪をかけるのが、製品領域のシフトである(つまり「本籍地」から「現住所」への引っ越しだ)。製品ファミリの概念さえ、次第に現実に合わなくなってくる。こうなると、なまじ「意味ありコード」だったものが、何がなんだか見てもさっぱり分からなくなってしまう。

やっかいなことに、このマテリアル・コードの意味論の混乱は、目に見えない。工場の中で部品の搬送や保管が混乱すれば、だれの目にも明らかだ。しかし、コード体系の混乱は、真面目に生産管理に従事している実務者たちにしか気づれかない。だが、この目に見えぬ混乱は、思いもよらぬ所に影響を及ぼす。それは、製品開発スピードへのブレーキである。もっと具体的に言うと、設計部品表(E-BOM)と製造部品表(M-BOM)の乖離、という形で現れてくる。これが進むと、量産準備の途上でさまざまなトラブルが発生してくる。一番良くないのは、設計部門と工場部門との部門間の軋轢が増してくることだ。

これを避ける方法は一つしかない。それは、「意味なしコード」を採用して、マテリアル・マスタを作りなおすことだ。意味なしコードとは、文字通り、桁区切りなどに意味を持たせない。単純な連番によるコード体系だ。コードだけ見ても、何かよく分からない。だが、別にそれでよいのだ。今日では、どこの端末からでも、マテリアル・コードを検索できるはずだし、今できていなくても、検索可能にすることはたやすい。人間が目で見て判別できるコードが便利だったのは、紙で台帳をつくっていた時代のことなのだ。

考えてみてほしい。あなたの社内の従業員コードは、意味ありコードになっているだろうか? その人の所属部門や年齢や出身によって決まっているだろうか? そんなことをしたら、毎年コードを変えなければならない。だから、たいていの会社は意味なしコードになっているはずである。会社で一番重要である(ということになっているはずの)社員でさえ、意味なしコードで管理しているのだ。なぜ、部品だけは意味ありコードにこだわるのか?

生産管理の仕事を頼まれた場合、私はその顧客のマテリアル・マスタのコード体系を必ず見ることにしている。その作り方で、企業の生産管理のレベル、ひいてはサプライチェーン管理のレベルがだいたい分かるからだ。ただし、意味なしコードへの移行は、単純ではあるが必ずしも簡単な仕事ではない。ある大手通信機器メーカーでは、E-BOMとM-BOMを統合するために「意味なしコード」を使ったが、統合作業自体はかなり大変だったとのことだ。無理もない。コード体系の見直しは、それ自体がプロジェクト・マネジメントを必要とする、立派なプロジェクトなのである。
# by Tomoichi_Sato | 2006-01-29 23:59 | ビジネス | Comments(0)

論理的だが、システマティックでない人

「考えるヒント」 2003/04/18 より)

私はシステム・アナリストです、と自分の仕事を紹介することが多い。アナリストという言葉を知らない人もいるから、私はシステム・エンジニアです、と言うこともある。両者は別物なのだが、それで相手はなんとなく分かった気になってくれるらしい。

そして、おきまりのように二つの質問をされる:「コンピュータのことにお詳しいんでしょう?」と、「システム関係のお仕事の人は、論理的でシステマティックな考え方を身につけておられるんでしょうね」と。

私の答えは、じつはどちらもNOである。率直にそう答えると、たいてい相手は落胆するか怪訝な顔になる。そこには、世間の人が抱いている『システム的』なるものへの偏ったイメージ、ないしは大いなる誤解が隠されているのだろう。

まず最初の質問の方だが、私はたいしてコンピュータに詳しくない。平均的な人より多少は知っているかもしれないが、アナリストの仕事の大半は、人間が何を望み何を必要としているかを考えることにあるので、計算機については一通りのことを理解しておけば済む。

しかし、システム=コンピュータ、という誤解は根強い(このサイトを読んでくれるような方ならば、こんな単純な等式は信じないだろうが)。そこで、私はよく「キャバレーの“明朗会計システム”にはコンピュータはいりませんよね」と説明することにしている。この“システム”の用語の使い方は、まったく正当なものだ。「うちの在庫管理方式はダブルビン・システムです」といって説明するのと本質的に等価である。

では、二つ目の質問はどうか? これも嘘だ。私の知っているかぎり、IT業界には、論理的だがシステマティックにものごとを考えない人たちが、沢山いる。そして、コンピュータが大好きで技術に詳しい人ほど、その傾向が強い。

システマティックな思考方法とは何か? 私自身はまだよく分からない。よく分からないから、「私はシステム思考を身につけています」などとは口が裂けても言わないことにしている。しかし、システマティックに仕事にアプローチする人々は、数多く見てきた(とくに外国で)。たとえば、「パンのみに生きるにあらず」で紹介した米国人コンサルタントだ。“この会社のミッション(使命)は何か? では、それを実現するための戦略は何と何があるのか? ならば、その戦略の実効性を計る指標KPIはどれとどれを選ぶべきか?”・・と、最終目標から手段が展開されていく。こういうのを見ていると、たしかに論理的でシステマティックなアプローチだな、と率直に感心する。

ところが、IT技術者と話していると、なかなかそうはいかない。「生産管理システムのサーバ機種ですが。」彼らの議論は、こんな風にはじまる。「私の考えでは、このトランザクション量から考えると、やはり2CPUクラスのunixマシンでしょうね。最近はLinuxベースでも安価で信頼性の高いものが出てきたから・・」と、どんどん続いていく。

なるほど、ロジカルだ。だが、彼らの思考はちっともシステマティックではない。生産管理システムを作るとしたら、従来の仕事のやり方の変革、元になる部品表や在庫データの精度、サプライヤーとの関係などなど、重要な問題は他にいくらでもある。それなのに、なぜ今サーバ機種の話なのか?

こういう人たちの特徴は、目的に比して道具に対するこだわりがアンバランスに大きいことである。全体の中の一要素(コンピュータ)だけ注目する。つまり、木を見て森を見ないのだ。

いや、コンピュータ・マニアに限らない。カー・マニアでも兵器マニアでも、何とかオタクと呼ばれる人たちは、たいていそうだ。目的を忘れて道具にのめり込む、それがこの人達の特徴だ。(念のため言っておくが、これは日本人ばかりではない。欧米にもそういう文化的傾向を持つ人はいくらでもいる)

そして、彼らとの論議には、細心の注意が必要になる。なぜなら、彼らはとても論理的だからだ。そしていろんな物をよく知っている。ただ、目的から逆算して、ことの軽重を計ることをしないのだ。部品に注目するオタクの議論にまきこまれないためには、つねにシステム全体を見渡して、大事な要素から展開するという考え方に戻す必要がある。「本当にそこのサーバの性能がプロジェクト全体のボトルネックになりますか?」

道具からの発想か、目的からの発想か。そこを忘れて、論理的な局地戦にまきこまれないよう、注意しよう。
# by Tomoichi_Sato | 2006-01-26 23:49 | ビジネス | Comments(0)

★★★ ダメな会社ほど社員をコキ使う 宋文洲

宋文洲氏は中国出身の元留学生で、今や著名な経営者である。創立した会社・ソフトブレーン(株)がまたたく間に店頭公開から東証一部まで上場したことで、経営者としてのビジョンがいかに正鵠を射たものであったか、皆が知るところになった。

しかし、宋さんは最近、そのソフトブレーン社の代表権を返上し、単なる会長職に退いてしまった。「上場した会社は公器だ。いつまでも創業者兼経営者が牛耳っているべきではない」との信念からだという。たしかに、一般にワンマン組織は、その経営者個人の器を超えて大きくなることができない。だから、この出処進退の見事さはさすがだ。だが、たいていの経営者はそれができずに、老害や後継者問題で会社をぐちゃぐちゃにしてしまう。宋さんができた理由はなぜかというと、おそらく彼は何よりも、自分の信じる理念・原則に忠実なのだ。理念原則に忠実というところこそ、工学博士号をもつこの人を理解する鍵だと思う。

その宋さんが書いた本書は、「やっぱり変だよ日本の営業」と同様、非常に面白い。その面白さは、表紙帯に描かれたマンガが象徴している。社屋ビルが描かれ、最上階では社長が「まかせるから失敗すんなよっ!」と部長に向かって怒気をあげている。中階の部長は階下の課長に向かって「おまえが責任者だから考えろっ!!」と怒鳴る。その課長は正面入り口から一般社員の背中を蹴りながら、「甘えるなっ、結果がすべてだっ!!!」と叫んでいる。これぞたしかに、ダメな会社の典型である。

それぞれのセリフはどこでも良く聞くセリフだ。では、どうしてダメか。それは、結果だけを命じて、方法を示していないからなのだ。このような思考方法を「根性論」あるいは「精神主義」と呼ぶ。精神主義と計画経済(=命令経済)の2つは、文革で若いころ辛酸をなめた宋さんがもっとも嫌うものである。

日本的経営に共通する特質の一つに、「情報」の軽視がある。そんなことはない、情報は重視している、との反論はあちこちから聞こえそうだが、はたしてそうだろうか。現代日本では情報という言葉に、どちらかというと『情け』『報い』を読みとりたがる。しかし、本来は「敵情報知」の略語だったことを、本書で初めて知った。そういう意味では、情報軽視と言うより、「データ」「客観的事実」の軽視と言うべきかもしれぬ。とにかく、敵情を知らずに作戦を立てるのだから、精神論に陥るのは必然だろう。方法や手順などのプロセスは誰も教えてくれぬ。

前著は主に営業の非能率に焦点を当て、プロセス改革をといたものだったが、本書はさらに生産計画や本社管理部門までが対象になる。そして最終的には、「ダメなマネジメント」論に到達する。“まかせるから失敗すんな”という社長は、じつは何もまかせていないに等しいのだ。とはいえ、「ダメな会社」の愚かさを真っ向から怒らず、笑いを武器にする点が何ともかしこいし、読んでいて楽しい。

こき使われる毎日で、ガンバリズムや精神主義にあきあきしたら、解毒剤に本書を読むといい。もっと有効なのは、たぶん社長室の前の廊下にわざと本書を落としておく方法だろう。もっともまだ私は試していないので、だれかやってみてから効果を教えていただきたい(^_^)。
# by Tomoichi_Sato | 2006-01-20 01:06 | 書評 | Comments(0)

製造は代替可能か

もう10年以上も昔の話だから書いてもいいと思うが、米国Apple Computer社が、初の軽量ノート型Macintosh PowerBook 100を発売したとき、実際の製造は日本のSONYが請け負っていた。

そのころ技術者から聞いたのだが、SONYは小型化・軽量化の見地から、Appleの設計部門が出してきた設計図に対し、改良提案をいろいろと出した。しかし、Appleはそれをことごとく却下し、「自分たちの設計どおりに作れ」というスタンスを曲げなかったという。いかにも米国流のエンジニアの態度ではある。つまり製造は設計の下僕である、らしい。いやなら、ソニーではなく別の安価な受託製造会社に作らせれば良いのだ。事実、AppleとSONYのMacでの関係は、PowerBook 100だけで終わった。

ある意味で似たような経験が、じつは私にもないではない。米国企業のプラント建設の仕事を請け負ったときの体験だ。当初の合意では、「バリュー・エンジニアリング」による節約の利益は、顧客と我々エンジニアリング会社が半々でシェアすることになっていた。だから我々は最初、いろいろとアイデアを提案したのだ。しかし、客先と結んだ契約書には事細かに基本設計の仕様が定められており、その中には顧客の膨大な技術標準も含まれていた。れを遵守しないと二重三重のペナルティが課せられることになっていた。

我々の提案のうち、材料や設計を軽減する案は、契約を盾にことごとく退けられた。そして少し余分な設備投資をして、運転費用を軽減する案も、結局当初予算を守るという金科玉条のもとに退けられるのだった。とにかく、彼らの決めた基本設計と技術標準を逸脱することは、決して許さないのだ。計算で根拠を示して「これでも大丈夫でしょ?」と説明しても、『契約書では』の一言につねに舞い戻る。相手との対話はエンジニア同士の会話と言うより、弁護士と話しているみたいに思えた。

どんな基本設計でも完全というものはない。われわれが詳細設計に着手する中で、矛盾に気づいたり、より経済的な案を思いつくことはいくらでもある。それがエンジニアリング会社の価値だ。そのときまで、私はそう信じていた。それなら、なぜ、改善提案を受入れないのか。それは、彼らが「詳細設計以降、調達や建設工事は力仕事であって、誰でも出きるはずのことだ」と信じ切っているからなのだった。もっと言うと、請負エンジニアリング会社が基本設計から逸脱すると、彼らスタッフ自体が評価で罰せられるのだ。

私は、エンジニアリング会社は良い下僕であるし、あるべきだと思っている。少なくとも、海外市場における石油ガス分野においては。この分野ではすでに基本設計と、詳細設計・調達・建設(頭文字をとってEPCと略称する)は分割されている。基本設計完了後は、EPCは原則として入札にかけられる。入札すると言うことは、つまり「誰がやっても同じ(代替可能だから、一番安い下僕を選ぶ」という意味なのだ。代替可能なものは、相応の値段だけで決まる。そこには、本質的な付加価値はない。

同じようなことを、米国の企業は、工場についても考えているらしい。製造は誰がやっても同じだから、安い海外企業に受託生産させる。「誰がやっても同じ」とは、言いかえれば「設計こそ価値の源泉なのだから、そこはいじらせない」という意味だ。ちょうどAppleがPowerBookについて実行したように。その結果として、米国の製造業は空洞化し、もはや、もぬけの殻の状態に近づいている。

その同じ道を歩いているのが日本だ。そうでなければ、あの「中国生産移転ラッシュ」は何だろうか。製造機能は代替可能だから、人件費の安い海外にシフトすればいいと、本社にいる頭のいい人達がみな信じた結果ではなかったか。

ところで、本当に製造は代替可能な仕事なのだろうか。そこには何の付加価値もないのだろうか。

技術の本質は、誰がやっても同じ結果になるようなプロセスを作りあげることにある。そういう意味では、日本の製造技術のレベルがきわめて高くなったために、代替可能性が高まったのだと、言えなくはない。だとしたら、日本の生産技術者達は、明らかに自分たちが不要になるように、一所懸命に努力をしてきたことになる。

だが、製造作業自体はともかく、生産マネジメントも代替可能だろうか。「製品という名のシステム、工場という名のシステム」でも書いたとおり、工場とは一個のシステムである。システムは、動的特性が身上である。工場が未来永劫、同じ製品を作りつづければいいのなら、そこには何の「改良」の余地もない。しかし、現実は、製品も変わり、原材料も変わり、環境も法規制もかわり続ける。その中で、真に適応能力を出せるかどうか、それが工場システムの動的特性の一番大切な部分だ。

たとえば、あのトヨタが自動車の製造を単に外部の工場に委託して、自分はファブレス・メーカーになることがありうるか、ちょっと想像してみるといい。「トヨタ生産方式」の生み出した原価低減の魔術を捨てて、ただ人件費の安いだけの会社に生産移転するかどうか。賭けてもいいが、彼らは決して製造が代替可能だとは思っていないに違いない。

もっとも、トヨタ自動車は生産企画部出身の社長が出る、数少ない会社だ。日本の製造業では例外的に珍しいといってもいい。ウソだと思うなら、あなたの会社の役員に、生産管理出身の重役が何人いるか数えて見ると良い。営業畑や財務や研究開発など、生産現場を知らない役員から見たら、工場は代替可能にみえても不思議ではない。

昨今、製造業の「日本回帰」が見られはじめているという。海外生産の失敗には、いくつか教訓があるはずだ。その中の一つが、「製造にも大事な価値がある」という教訓であることを、私は心から願っている。
# by Tomoichi_Sato | 2006-01-12 23:27 | ビジネス | Comments(0)

設計の価値

最初に、ブルネレスキのことからはじめよう。日本ではほとんど名前を知られていないが、初期のイタリア・ルネッサンスを代表する人物の一人だ。フィレンツェに旅行に行く人が必ず目にする、花の聖マリア大聖堂の半球形ドームは、彼が作った。



「彼が作った」という言葉を、私は意図して使っている。彼は設計しただけでなく、建設工事の責任者でもあったのだ。つまり今風に言えばプロジェクト・マネージャである。彼は石の積み方にも工夫をこらしたし、二重ドームの間に作業者が立って歩けるスペースを確保する設計にした。施工しやすい設計をしたわけだ。職人のストライキにも見事に対処した。

彼が設計者・兼・建設責任者だったことは特筆して良い。日光東照宮の左甚五郎の立場と同じである。設計者が実作も行う。それは近世以前はあたりまえのことであった。たとえばミケランジェロ作の彫刻が、じつは彼のデッサンをもとに弟子が好きに刻んだものだったとしたら、あなたは怒らないだろうか。少なくともフィレンツェ市評議会は許さなかっただろう。

設計者と施工者が分離してくるのは、近代イギリス以降のことである。産業革命以降の建築需要の増大にしたがって、設計と建設の分業が発達する。設計兼建設という大工の親方制度では、まかないきれなくなったのだろう。それは、音楽の世界で作曲家と演奏者が分業してくる時期と、妙に一致している。市民社会の勃興、聴衆の増大が、それを要求したのだ。大量生産はつねに分業を要求する。

しかし、それとともに劣悪な建築や手抜き工事が横行しはじめる。そこで設計と施工を兼任できないよう分離させ、しかも設計者に施工が図面の指示通りかチェックさせる制度が成立する。第三者によるチェックは、簡単には人を信じない「紳士の国」の性悪説文化が産み出したものだ。

建築設計書の構造計算を偽造して、鉄筋・鉄骨量を削減した建物の問題が、このところ世の中をゆさぶっている。恐ろしい話だ。しかし、設計に反した手抜き施工だったのではなく、設計自体に問題があった。設計施工分離では防げなかった所に、根の深さがある。もっとも、この国の建設行政はすべて性善説に立って運用されているようだから、氷山の一角にすぎないのかもしれない。

偽造した建築士が何を考えていたのかは、分からない。しかし、たいていの建築設計者が考えていることは、私には想像がつく。それは、「設計は建設工事の下請けじゃないはずなのに!」という怒りだ。建設業界には『設計協力』なる言葉がある。簡単にいうと、詳細設計などの力仕事の部分を、建設工事を受注する(予定の)ゼネコンが手伝うことだ。設計・施工分離の原則は、こっそり無視される。施工監理など看板だけになる。

ゼネコンによる設計協力の慣行が成立する理由は、建築設計の仕事が、通常の設計費だけでは安すぎて割に合わないからだ。一方、建設工事を請負う業者側は、設計に人を出しても利益を出せる。だから、建前はどうあれ、力関係は、
 ゼネコン>設計事務所
になる。こうして、設計が施工者の都合によってねじ曲げられる下地がつくられていく。

この国では(そして私の知っているたいていの国で)、モノにはお金を払うが、設計という知恵にはお金を払わない。いわば「実物経済」である。こうした実物経済主義は、最終的には設計の品質低下をまねくのだ。耐震強度偽装問題は、その象徴である。

そして、問題はマンション・ホテル建築の世界だけで起きてるわけではない。あらゆる「製品」という名前のモノに、それは起こり得るのだ。数値的性能はすばらしく、見た目もまあそれなりだが、全体に使いにくく、妙にこわれやすい商品を、私はいくらでも知っている。設計に個性のない製品だから、価格だけが勝負になる。その結果、韓国製や中国製にどんどん負けて行く。これこそ、「ものづくり大国」日本が、設計の価値を軽視してきたツケなのだ。

誤解しないでいただきたいのだが、私は設計者と製作(施工)者の役割は対等だと思っている。往々にして、
 建築家>建設業者
のような主張をしたがる人がいるが、私は組みしない。設計も重要だし、建設のプロジェクト・マネジメントも重要だ。ブルネレスキの例を思い出して欲しい。彼は両方を兼ねていて、だから彼の仕事は偉大なのだ。

拙著「BOM/部品表入門」の中で、設計部品表(E-BOM)と製造部品表(M-BOM)の分離背反の問題を描くため、あえて私は、ちょっといやみな設計技術者を登場させた。彼は「製品開発こそ会社のコア・コンピテンシーだ」というような、エリート意識の強い発言をする。そして本社にいて、製造の実際を知ろうとしない(これは戯画なので、この節を読んで気をわるくされた設計技術者の方がいらしたら、陳謝したい)。しかし、設計と製作が分離してしまうと、製作現場での知見や知恵が設計にフィードバックされなくなる。設計が一人よがりになる。これは決して望ましいことではない。

私が理想と考えるのは、設計と製造、設計と施工、設計と実装が、「統合」された世界である。設計の知恵と実作の知恵は性質が違うが、たがいに補い合える関係にある。たとえ組織上は区切られていても、両者がともに協力できる仕組み。その中でこそ、設計の価値も経済で認められると思うのだ。
# by Tomoichi_Sato | 2006-01-01 12:10 | ビジネス | Comments(0)

システムとは何だろうか?

京都賞」をご存じの方は多いと思う。基礎科学・先端技術・思想芸術の3部門で、毎年世界の傑出した研究者に賞が与えられている。ある意味ではノーベル賞のむこうをはっており、数学・哲学・言語学・生物学・建築・音楽など『ノーベル賞のもらえそうもない分野の人を選んで賞をあげている』という印象もある。たとえば、K・ポパー、N・チョムスキー、アラン・ケイ、J・グドールなどの人が授賞している。

今年の京都賞基礎科学部門は、生態学者のサイモン・レヴィン博士が授賞した。彼は数理生態学・空間生態学の分野で若い頃から研究分野をリードしてきた人だ。そのニュースを聞き、私はとてもうれしく思った。というのも、たまたま昔、私はレヴィン博士の知遇をえる機会があり、彼の研究室を訪ねたり、あるいは来日した時は横浜の自宅に招いたりしたこともあったのだ。だから11月12日に京都で行われた記念シンポジウムには、私もはせ参じて、授賞を祝し、再会を喜びあった。

レヴィン博士の業績の一つに、"The Problems of Scales and Patterns in Ecology"という論文がある。これは90年代を通じて最も広く引用された生態学の論文と言われる。彼の主要な研究テーマは、生態系(=エコシステムecosystem)のさまざまなスケールにおいて観察されるパターンと多様性が、いかにミクロな生物個体レベルのルールから生成するかを調べることである。生態学とは、エコシステムの機能と構造を研究する学問だが、彼はエコシステムが特定の目的と機能をもって存在するかのような目的論的見方とは異なる、パターン認識的見地から取り組んでいる。

初めて知り合ったとき、レヴィン博士はコーネル大学のCenter of Ecology and Systematicsの所長だった。私はSystematicsとは「システム科学」のことかとたずねたが、「いや、系統分類学の意味だ」との答えが返ってきた。系統分類! それをシステムと呼ぶのか。その時の驚きは、その後、英語におけるsystemの語の意味を深く知るようになるにつれ、次第に納得にかわっていった。たとえば、太陽系のことはSolar Systemと呼ぶのだ。

システム」というとコンピュータのことだと思う人は少なくない。いや、世の中の大多数だろう。技術の世界では、ガスタービン発電システムとか自動倉庫システムとか、ある種の機械的な仕組みのこともシステムと呼ぶことがある。しかし、私のように工場やら製品までをシステムと考える人間は少数派だ(「システムとしての工場、システムとしての製品」参照)。

製品がシステム? じゃあ、パン屋が焼くあんパンも、家具職人が作るテーブルもシステムだというのか? そう問いつめられると、私も、ちと違うな、と答えざるを得ない。「所定の目的を達成するために要素または系を結合した全体」「特定の機能を果たすように配置した、相互に関係するアイテムの組合せ」という定義(JIS工業用語大辞典)から見ると、4本の脚と天板からなるテーブルだってシステムに合致して良さそうなものだ。だが、どうも要素が静的に結びつけられた構造は、今ひとつ「システム」というイメージに合わないのだ。

「システム」という語がフィットするものは、どうやら動的な機能や特性をもつものに限られるようだ。ジェームズ・ワットの発明した蒸気機関は、回転数を安定化させるための巧妙な調節弁の仕組みをそなえていたが、ここらへんがシステムの始まりらしい。彼のフィードバック制御は機械要素の組合せで実現していたが、目的は力を伝達することではなく、制御にあった。

つまり、「制御」の有無こそ、システムを単なる部品の集まりから区別する鍵なのだ。そして、制御のために、一種の神経系統をもつこと。現代ではこの神経系の役割をたいていコンピュータが果しているので、「システム=コンピュータ」という思いこみが固定化したのだろう。たしかに、テーブルのように部品材料の寄せ集めだけでは、動的特性は発揮できない。

「システム」が制御機構を持つ動的な仕組みである以上、システムの『価値』も、その動的特性にある。だからこそ私は、「工場という名のシステム」は“計画・指図・報告”という制御機能のよしあしで性能が変わりうることを、くり返して主張したいのだ。

しかし、こうして見てみると、日本語の(=JISの)システム概念は、かなり「目的」「機能」にしばられていることが分かる。太陽系やら生物系統分類やらも含む英語のsystemからは、かなりずれている。英語の世界のsystemとは、せいぜい「一つ一つの要素を数え上げずとも、系統的に、頭を使わずに展開できるようなまとまり」という程度の意味しかない。

無論、生態系ecosystemの中には、全体を安定させるフィードバック的な仕組みも確かに存在する。しかし、生態系には「目的」はない。自然界に存在するものには、特定の目的はなく、しいて言えば、「存続自体を目的と見なせる」程度なのである(レヴィン博士が目的論的見方を退けるのは、この危険性があるからだろう)。企業もこれに似ていて、本来は何らかの目的があって結成されたはずなのだが、多くはもはや目的を失って、存続自体が自己目的化してしまっている。こんなところにシステムの機能論を持ち込むのは、場違いなのだ。

私は、あまりにも多義語化している「システム」の概念を、もう一度、再整理すべき時が来ているように思う。たぶん、システム・場・メカニズムなどの使い分けを、もう少しきちんとするべきなのだ。そして、それこそ「システム・アナリスト」の最重要な仕事だと思う。なぜなら、これを怠ると、システム分析の仕事自体が、ひどく混乱したものになってしまうに違いないからだ。
# by Tomoichi_Sato | 2005-11-27 23:31 | Comments(0)

製品という名のシステム、工場という名のシステム

工業製品を、その成り立ちに応じて「モジュール型」「すりあわせ型」に分類したのは、『能力構築競争』などの著書で知られる東大経済学部の藤本教授だと言われている。工業製品の種類や範疇は無数にあるが、それを経産省工業統計のような品種別の縦割り分類で考えずに、BOM(部品表)の構造上の特徴にしたがって位置づけをして見せた着眼は見事である。ほとんど構造主義的発想と言ってもいい。

「モジュール型」と「すりあわせ型」の違いは、部品を組み合わせて製品を作っていく際の設計の違いにある。前者は、部品群を単機能的な小単位(モジュール)に作り上げ、そのモジュールを組み上げて製品を作る。それに対して後者は、多数の部品を精密に組み合わせて製品を作る。モジュール型の製品においては、モジュール同士の間の界面はある程度、標準化されて決まっており、相手がどこのサプライヤーのどの製品であっても、組み合わさって機能する。これに対して、すりあわせ型の製品においては、部品はそれぞれ当該製品専用に作られており(言いかえれば個性を持っている)、組み合ってきちんと働く相手は決まっている。

PCなどはモジュール型製品の典型である。ディスプレイ、キーボード、CPU、マザーボード、HDD等々はモジュール化されており、それぞれ業界標準のインタフェースに従って接合できる。だからマルチベンダー化がたやすくできる。これに対して自動車はすりあわせ型の典型であって、フィットのボディにカローラのエンジンを載せたりすることは絶対にできない。

これをシステム・エンジニア的な視点で見れば、モジュール型の製品は疎結合のシステムであり、他方、すりあわせ型は密結合のシステムである、と考えることもできる。すると、両者の長所と短所もおのずから想像できよう。密結合のすりあわせ型システムは、効率は高いが、改良・改善となると手をつけなければならない範囲が広く、保守はメーカーに頼らざるを得ない。これに対して、疎結合のモジュール型システムでは、オープンな仕様でモジュールを選べるから、価格的には安くできる可能性が高い。しかし、組合せの不整合(相性)のリスクがあるし、効率は多少落ちることになる。それぞれの産業がどちらの方向に行くかは、市場特性や製品の発展史などで変わり、どちらかが絶対的によいわけではない。

ところで、私のように製品を「システム」として捉える考え方は、あまり多くの人はしないようだ。たいていの人々は「システム」というと、コンピュータかソフトウェアか、あるいはコンピュータを内蔵したインテリジェントな機械類だけを想像するらしい。今どき、冷蔵庫だって炊飯器だってマイコン内蔵だが、“うちのシステムからビール出してよ”と頼んでいる人はたしかに滅多にいない。“今日のシステムはいい味がするなあ”とつぶやきながらご飯を盛る人も少ないかもしれぬ。

しかし、複数の異なる機能を持つ要素を組み合わせて、特定の意図した機能を全体で実現する仕組みのことを、本来は「システム」と呼ぶのだ。そこには別にコンピュータが介在しようとしまいと関係がない。ジェームズ・ワットが発明した蒸気機関には、機関の回転数を一定にするための巧妙な弁の仕組みも内蔵されており、安定制御のためのフィードバックが行えるようになっていた。文句なしに立派なシステムである。

システムというものの特徴は、要素だけをぽんぽんと並べても、全体の機能や性能を達成できないことである。この点が、少々、普通の実物経済の思考回路をはみ出す点だ。1+1+1で3ではなく5の価値を生み出そう、というのがシステムである。よく、製品の値段交渉のときに、部品の原価に立ち戻ってあれこれいう購買部門の人がいるが、それだったらあんた、自分で最適な部品の組合せ方を見繕ってみないさいよ、という気になる。そうした「システム設計」の知恵と、組合せで正しく動く「統合」のリスク低減に、価値を認めるべきなのだ。

システムのもう一つの特徴は、使い手の使い方と、環境条件によって、パフォーマンスが異なる点だ。自動車を、高速で飛ばすのか、町中でちょこちょこ動かすのかでは、平均速度も燃費も違う。無論、適した車種も異なる。これはシステムというものが単機能でない以上、当然のことだと思う。しかしこの点も、よく見逃されているようだ。

そして、実は「工場」というものも『システム』なのだ。そんなこと、どの生産工学の教科書にも書いていないが(少なくとも私は見たことがない)。工場もまた、複数の異なる機能の生産資源を組み合わせて、いろいろな製品の産出という機能を全体で実現するための仕組みである。始末に負えないことに、生産資源の中には“人間”という、えらく気むずかしくて再現性のわるい、モジュール化しにくい要素もある。環境も、使い方(生産方針・生産計画)もいろいろと変わる。

そして、工場というものがシステムである以上、それを構成するためのシステム・エンジニアという職種と、それを支える工場作りのシステム工学がなければいけないはずなのだ。何をどう流し、どう集積し、どこでボトルネックを緩和するのか。それが上手にできている工場と、単にモノを並べただけの工場では、同じ製品を作っても、生産性には雲泥の差が出る。こうしたことを、「日本帰りの進みつつある」製造業の人々に、もう一度よく考えてみて欲しいと私は願っている。
# by Tomoichi_Sato | 2005-11-14 21:18 | ビジネス | Comments(0)