なぜ信号機が必要か

イギリスの都市近郊を車で走ったことがある人ならご存じだろうが、あの国には「ラウンドアバウト」なる交差点形式がある。「ロータリー」ともいうが、日本のロータリーはふつう駅前くらいにしかなく、そこは車が周回する場所というより、タクシーやバスが停車して乗客の乗り降りをさせる所というイメージだ。ところが英国のラウンドアバウトは通常の交差点に近い機能を持っている。四方からの道路が一点で交差して十字路をつくるかわりに、5-10m半径の円環路に接続している。そして車の流れは一方向(あの国は左側通行だから時計回り)にのみ進むことが許されている。

ラウンドアバウトに入った車は、必ずその流れにのって進み、自分がいきたい方向の道から円環の外にでるルールになっている。この交通システム(?)の特徴は二つあり、(1)車は止まらずに円環の流れにそって自分のいきたい方向にいける、(2)したがって信号機は必要ない、というしくみである。自由かつ闊達なるこの仕組みがイギリス人はたいそう自慢らしく、彼らの支配地域だった中東などでも、よく見かける。

たしかに、いったんなれてしまえば、これはなかなか良い仕組みだとわかる。円環路の流れに合流したり分岐したりするところは若干の運転スキルが必要だが、これにも優先の決まりがあり、危険なことはない。いかにも、紳士の国らしい大人のしきたりであるな、と感じたりする。なにより、誰にも命令指示されることなく、かつ自分が希望する方向を選べる点が、いかにも自律分散・民主的ではないか。

ところで数年前、中東で新聞を広げていたら、「トヨタ・ロータリーをつぶして、信号機を設置します」というニュースをみつけた。このロータリーは別にトヨタがつくったわけではなく、同社の大きな宣伝ポストが近くに立っていたからつけられた市民の愛称だったらしい。その親しまれたロータリーをつぶして、信号のある交差点に改造する工事をするという。数日間は交通が遮断されるから、記事になったのだろう。

では、なぜこのように素晴らしいシステムであるロータリーをつぶして、渋滞と喧噪の象徴である信号機を導入するのか。中東がイギリス支配に反抗する政治的象徴なのか? それとも民主主義など眼中にない首長国の陰謀なのか? --むろん、そんなことではない(と思う)。記事によれば、彼らの理由説明は、きわめて単純なものだった。それは、「交通量の増大」である。

英国郊外の美しい(場所によっては多少醜い)街並みを走っているときには気づかなかったが、ラウンドアバウトは、車の交通量があまり多くないときのみ、快適に機能するものなのだった。入ってくる交通量がある一点を超えて増大すると、円環の流れに合流することができずに左折待ちの車の列がだんだん増えてくる。待ち行列の理論をご存じの方ならわかるはずだが、到着する車の頻度がロータリーの円環路の最大流量に近づくにつれて、この列は加速度的に長くなっていく。つまり、ひどい渋滞現象をひきおこすのだ。こうなると、とても非能率な民主主義社会が出現する。

信号機つきの十字路は、これを指示命令方式で遮断する。そして、縦横の流れを交互にせき止めて、減速せずに通過できる直線的な流れをつくりだす。道の通行を半分の時間は止めてしまうのだから、信号はたしかに(ミクロな視点では)運転者の敵であり、道路の輸送能力をかなり減らすことになる。しかし、交差は地理的にどうしても生じるものだ。そして、信号機つき十字路は、自由闊達なラウンドアバウトよりも、さばける交通量の上限が大きいのだ。

それでも、交通量の増大とともに、信号機つき十字路もいつか限界に達することがあるだろう。そのときはどうするか? ご存じの方もあろうが、複数の信号を系統的に制御して、流れの遮断を同期化してやるのである。大きな国道沿いに(不幸にも)住んでいる人はこの事実を経験的に知っているはずだ。

さて、私は何を言おうとしているのだろうか? これまで読んでこられた方は、もううすうす気がついておられると思う。生産管理やサプライチェーン・マネジメントにおいて、集中管理と協調分散のいずれが良いかという議論が時々ある。しかし、こうした論点を単なる「あれかこれか」のドグマとして論じても、仕方がないということだ。私は、『質量転化の法則』、あるいは(自分の好きな用語で言えば)『スケールアップの法則』の信奉者である。量にしたがって、システムは質を変えるべきだと信じている。

設計の指示系統は混乱し、工場は材料や仕掛品であふれ、誰もが毎日の仕事に追われて改善どころの騒ぎではないような職場があったら、それはたぶん、車が増えすぎたロータリーなのだ。量の増大に質の変化が追いついていない、いや変化の必要性に気づいていない、ということを示している。そこには、信号機が必要である。信号機があるのに混乱しているのだとしたら、そこには信号管制システムが必要なのだ。

信号機は、マネジメントでなく、コントロール(管制)をするだけだ。プロジェクトとか生産とかを論じると、すぐマネジメントだの人材だのの話になるのが最近の傾向のようだが、私はその前に考えるべき事があると思う。それはコントロールなのだ。

プロジェクト・マネジメントではなく、まずプロジェクト・コントロールを。生産管理ではなく、生産コントロールを! 
# by Tomoichi_Sato | 2007-02-09 00:06 | 考えるヒント | Comments(0)

「マイナス在庫」の意味

サプライチェーンにおける在庫問題を考えるとき、だれしも一番違和感を感じるのは『マイナス在庫』という用語に突き当たったときではないか。「マイナス在庫を許すべきか、どうか」というような問題で、大のおとなが議論をたたかわすのは、奇妙な光景といえなくもない。だって許すも許さないも、在庫の量なんてマイナスになりようがないはずではないか。

たしかに、在庫量を「倉庫にある現物の量」と理解すれば、ゼロになることはあっても、マイナスになるはずなど無い。しかし、在庫の話は、そう単純ではないのだ。なぜなら、そこには二つの要素、帳簿在庫と引当の概念がかかわっているからだ。

まず帳簿在庫の話からしよう。これは理論在庫とも言う。“帳簿在庫”とは“実棚在庫”と対比される概念である。実棚在庫(現物在庫)は文字通り、倉庫の棚の上に実際にある数量だ。これに対し、理論在庫の方は、帳簿上の入庫と出庫の差し引きから、「現在これだけの数量があるはず」と計算された結果である。先月のおわりに、部品Xは2個あった。今月、さらに3個、サプライヤーから仕入れた。しかしすでにこれまで4個、製造に使用した。だから、

 理論在庫=前期末の在庫量+供給量-使用量
 
で、つごう2+3-4=1個残っているはずだ、と考える。ところが、たまにおかしな事が起こる。たとえば、「じつは今週さらに製造ミスで2個よけいに使用しました」という報告が追加で上がってきたりするのだ。なぜ!? そうしたら在庫量は2+3-4-2=マイナス1個になってしまうではないか。あなたはあわてて倉庫に確認に行く。すると棚にはまだ現物が2個残っていて、あなたは狐につままれたような気分になる。

こうなるケースのほとんどは、「前期末の在庫量」が正しくなかったためだ。ほんとうは、前期末には4個残っていたのだろう。上の式の表記はじつは不十分で、「前期末の理論在庫量」とすべきだ。そして、理論在庫(帳簿在庫)は実棚在庫とは必ずしも一致しない。これがいかに一致するかは、在庫精度という尺度で測る。そして両者を一致させるために、定期的に棚卸を行なうわけである。

むろん、これ以外に、供給量や使用量の数字に誤差があって、帳簿上のマイナス在庫が生じるケースもある。たとえば材料の使用量は製造ラインで機械がリアルタイムにカウントして行くが、補充による供給量は手書き伝票の転記入力で1日遅れる、などというのはよくある話だ。こうなると、その1日間は理論在庫がマイナスになってしまう。

マイナス在庫が発生する第二の要因は、『引当』である。引当とは、“今後消費する予定です”という、一種の予約行為だと思えばよい。予約であるから、現物としてはあいかわらず棚の上にある。しかし、見かけ上は12個あっても、そのうち8個は、すでに来週の生産に使う予定かもしれない。したがって、「未引当在庫」は4個という事になる。ところが、何か緊急の事態が起こって、棚の上から部品を10個出庫して、使用にまわしてしまった。このとき、現物は2個、棚の上に残っているが、未引当在庫はマイナス2個、ということになってしまう。このままでは、来週の生産に支障がでることになる。

在庫品のコントロールをコンピュータ・システムでやっているとき、もしマイナス在庫を許さなかったら、どうなるだろうか(コンピュータは帳簿の一種であり、その中の在庫数値は理論在庫量であることに注意してほしい)。そうすると、目の前に現物があっても、製造に使用できないという事態が生じる。と同時に、未引当在庫にマイナスを許したら、どうなるか。すると、製造予定を無視して出庫できることになるから、製造現場が欠品で混乱することになる。どちらもうまくないようだ。

このような矛盾が起こる根本の理由は、在庫という量を1点で、すなわち現時点で考えているためだ。じつは「引当」という行為は、その中に『未来の在庫使用』を考えている。すなわち、時間軸を伴う未来在庫の概念を内包しているのである。

在庫は時間で計るべきだ、と「時間を在庫する」(タイム・コンサルタントの日誌から、2006/12/12)で書いた。かりに在庫を数量で計る場合でも、それは時間軸に沿った数量として考える必要がある。先ほどの例でも、もしかしたら来週頭にはさらに3個、補充される予定かもしれない。だとしたら、べつに10個出庫しても、来週の生産には困らないのだ。このように、マイナス在庫の問題は、時間の視点から考えてみて、はじめて正しい方針が決められるのである。
# by Tomoichi_Sato | 2007-01-27 23:26 | サプライチェーン | Comments(0)

タイム・マネジメントの心得

イベント・ドリブン」(event driven)という形容の句をご存じだろうか。外部から飛び込んできた出来事を起点にして動くような仕事の仕方、あるいは外部に振り回されるような状態を指す言葉だ。『割込み駆動型』とも訳す。もともとはコンピュータのソフトウェア工学で生まれた用語である。ユーザによるキーボード入力やマウスのクリックやメールの到着などを、出来事(イベント)と考え、それぞれに対応する処理を設計する技法だ。

たとえばコールセンターのような仕事は、典型的なイベント・ドリブン業務である。顧客からの電話がかかってきたことを起点に、仕事がはじまる。なすべき特定のタスクを、あらかじめ自分自身が抱えているわけではない。銀行窓口をはじめ、窓口業務にはこうしたスタイルが多い。

これと対極にあるのが、「スケジュール・ドリブン」な仕事のスタイルである。あらかじめ決めた計画通り、時間表にそって進めていく。なんだか模範的受験生の生活みたいだが、多くの会社では、年次計画があり、月間目標があり、週次定例会議や日程表で仕事を動かしていくのだから、基本的にはスケジュール・ドリブンを理想としているわけだ。

たいていの技術者は、この両者が入り混じった生活をしている。計画に従い、設計作業を進めていると、上司から調べものを命じられたり、顧客からクレームの電話が飛び込んできて、しばらくその対応に追われる。一段落すると設計の図面に戻る。しかし次の日には定例進捗会議で、別のことを優先してやれと命じられる、といった具合だ。

エンジニアが自分自身の時間のマネジメント、あるいはパーソナル・スケジューリングをするにあたっての基本は、日誌をつけることだ。その目的は、自分の時間の使い方の事実を把握することにある。たいていの人は、事実を知らぬまま、忙しい忙しいと感覚だけで言っている。しかし、その忙しさの中身は、イベント・ドリブンな仕事の忙しさなのか、それともスケジュール・ドリブンな仕事の忙しさだろうか。両者はどれくらいの比率で入り混じっているか、自分はすぐに答えられるだろうか?

じつは、「忙しさ」の感覚の大半は、イベント・ドリブンな仕事から来る。スケジュールに沿って仕事を進めているときは、たとえ時間的には忙しくても、前に進んでいる達成感がある。これに対して、他人からの割込み駆動型で動かされているときは、自分で自分の時間の使い方を決められないもどかしさがある。どうしても、被害者意識のようなものが出てくる。かりに勤務時間が同じだとしても、心理的に追われている気分になるのだ。

それでは、どうしたら良いのか? 配置転換をのぞむしかないのか? いや、そんなことはない。答えは簡単である。それは、イベント・ドリブン型で発生したタスクを、日々の自分のスケジュールの中に入れてしまえばいいのだ。

これには、二つの意味がある。まず第一に、イベント・ドリブンな仕事のために、自分の時間を一定比率、空けておく。例えば私の場合、経験的に25%くらい割込み型に仕事の時間をとられる。ということは、その日や週にやらなければならない、前から決まっていた仕事があったとしても、1日6時間、週に30 時間分以上は、スケジュールに予定してはいけないということだ(実際には定例のミーティング等もあるから、スケジュール可能な時間数はもっと少ない)。かりに50時間くらいかかりそうなタスクだったら、うーん、こりゃ半月は期間が必要だな、と考えるわけである。このように、割込み時間比率をスケジュールに繰り入れるのが、第一の意味である。

そして、第二の意味は、タスクがその場ですぐ解決できないような、時間のかかるものであった場合、それをTo Doリストに、期日とともに書き込むのである。To Doリストは毎日見なおして、その日の時間の使い方を決めるためのベースだ。To Doリストに書き込まれた仕事は、すでにスケジュール・ドリブンな枠の中に収まっている。むろん、割込み仕事の中には緊急性が高くて、他の仕事の手を全部止めてかかりきりにならなければいけないものも時にはある。だが、いつもというわけではない。飛び込みではあるが、期日に余裕のあるタスクは、スケジュールに組み込んでしまえばいいのだ。これが二番目の意味である。

このようなことを実施するためには、To Doリストと日誌を一体化した運用が必要になる。これについては近著『時間管理術』の中に述べたのでくわしく説明はしないが、この両者がタイム・マネジメントに必須の心得であることは、ぜひ記憶に留めておいてほしい。
# by Tomoichi_Sato | 2007-01-16 22:49 | 時間管理術 | Comments(0)

変わりたいですか?

新年にあたって、たいていの人は、今年はこうしたいとか、ああなってほしいなどと考える。新年の誓いと期待とは、昨年までの自分のあり方から、何らかの『変化』を望む気持ちのあらわれだ。

G・ワインバーグは、機知にあふれた著書「技術コンサルタントの秘密」の中で、“コンサルタントとは人々にたいし、彼らの要請にもとづいて変化を及ぼす仕事をする人”だと書いている。これは報酬の有無にかかわらず成り立つ、うまい定義だ。クライアントは何かを変えたい、もっとうまくやりたい、変化したい、と望んで、その要請をコンサルタントにぶつける。コンサルタントはクライアントの変化の案内役を務める。だから、コンサルティング技法の中心には『変化論』が要るのだ、というのが彼の論法だ。

ところで、変化への望みには、2種類の仕方があると私はつねづね感じている。それは、何々にになりたい、という願望と、何々をしたい、という期待である。うまく変化の道をたどれるかどうかは、このどちらの種類の望み方をするかにかかっているのではないか。前者はどちらかというと夢であり、「お姫様になりたい」という女の子の夢想に近い。そこには結果像だけがあって、お姫様にはどうやったらなれるのかという、具体的プロセスが欠けている。だから「今年は業界で一番になりたい」という目標は、意外に華奢(きゃしゃ)な望みなのだ。

これに対して「今年こそみんなと一緒に鉄棒を楽しみたい」は建設的である。そのためにはどうしたら逆上がりができるようになるか、握力を強くするにはどうしたらいいか、など挑戦すべき課題が次々に出てくる。こういう風に、課題とプロセスが次々に展開してくる願望の方が、ベターなのだ。「~になりたい」は単なる夢だが、「~をしたい」は希望である。「今年は業界で一番になりたい」より、「今年は性能が5割アップの製品を作りたい」へ。つまり、「~になりたい」から「~をしたい」に、まず望みをシェイプアップすることが、変化への近道なのだ。

ちなみに「お姫様」は身分であり、「逆上がり」は活動である。この対比を、私は政治学者・丸山真男の論考「『である』ことと『する』こと」から学んだ(岩波新書「日本の思想」所収)。彼は前近代の身分制社会から、近代の機能的社会への変化を重視する人で、最初高校生の時に読んだ際には、ちょっと図式的過ぎると感じたが、最近この問題は案外奥が深いな、と思うようになった。彼は「女であること」は小説の題になりうるが、「男であること」というタイトルは少し滑稽な感じがする、と書いている。昭和まで続く伝統的思考においては、女は身分だが、男は社会性だ、ということらしい。ここらへんは、平成も20年近くなった今では、すこしずれてきているようだが。

変化論に話をもどすと、「変化」とは現在のあり方・やり方を捨てることである。捨てなければ、変化できない。ここに、変化への抵抗の源がある。現在、それなりになんとか成り立っているやり方や仕組みを捨ててしまって、本当に大丈夫なのだろうか? とりかえしのつかないことに、なりはしないか。こうした不安は、誰しもが感じる。だから結局、これまでの『やり方』を手放さないまま、新しい『あり方』だけを夢想するような、“~になりたい”目標が出てくるわけだ。

現状維持はすなわち、現状を捨てることに対するリスク判断が大きすぎる結果として、生まれる。前例がない、という役人得意の文句はその典型である。こうした組織では、変化は起こりにくい。以前「リスク確率と代替可能な仕事の価値」の中でも書いたように、リスク確率とはじつは主観確率である。現状以外にたいするリスクの主観確率が高い組織では、だから変化は決して起こらない。

その長期的結果として、どうなるのだろうか? 簡単なことだ。外界は変化していく。しかし自分は変化できない。だから、しだいに環境に適応できないようになる。そして、恐竜と同じ運命をたどることになる。変化するための小さな代償を拒んだがゆえに、自分自身の存続という最大の代償を払うのだ。

ワインバーグは上記の本の中で、「何かを失うための最良の方法は、それを離すまいともがくことだ」と書いている。変化を規制すると、失うものも多い。プロ野球の長期低迷から日本コメ農業の危機まで、その実例を私たちはあちこちで見ている。

変化とは賭けであり、賭けとは選んだ選択肢以外を捨てることである。古い皮を脱ぎ捨てなければ、自分も組織も大きくなれない。だから、新年の望みを持つならば、「~したい」という形で希望を語るようにしよう。
# by Tomoichi_Sato | 2007-01-02 15:27 | 考えるヒント | Comments(0)

時間を在庫する

「時間」を缶詰にしてストックできたら便利だろうな、と考えたことはないだろうか。忙しいときはストックから取り出せば自分にゆとりができ、ヒマなときには逆に缶詰にして将来のためにとっておく。こんな事ができたら最高である。

私は技術屋だが、最近はホワイトカラーはなぜこんなに忙しいのだろうと、よく考える。高度成長期の日本では、ブルーカラーの労働力がビジネスの制約だった。工場労働者が「金の卵」などと呼ばれた時代があったのだ。しかし私が社会人になった頃は、制約は生産設備や社会資本に移っていた。そして長い不況の間に、労働力は(いや製造自体が)外注化が進み、外から買える時代になった。今や、真の制約は、ホワイトカラーの実働時間になってしまったのではないか。そうとしか思えないほど、どの業界でも皆、忙しがっている。

そんなおり、鰻の蒲焼きを家で食べながら、ふと気がついた。こうした出来合いのお総菜を買ってくるというのは、じつは時間を買っているのではないだろうか? 鰻屋にいって蒲焼きを食べるのは、美味しいがとても時間がかかる。注文をしてから出来上がるまでの3,40分の間、肴をつまんでお酒を飲みながら待つ必要がある。今風にいえば『スローフード』の典型、ご用とお急ぎでない方の楽しみである。

鰻屋は注文を受けてから鰻を割く。個別受注生産方式というわけだ。だから時間がかかる。これがもう少し安い店になると、割いて白蒸しにした状態まで作っておき、注文を受けたら、たれにつけて焼いて出す。こうすると、鰻の歯ごたえはやや失われるが、リードタイムが他の料理なみに短くなり、メニューの幅を広げることができる。もっと庶民的な店は、あらかじめ蒲焼きにしたものを売っている。買ってきて温め直せば、すぐ食べられる。顧客の購買リードタイム最小である。一度に大量生産できるから安い。そのかわり店は売れ残りのリスクも負っている。

食品に限らず、およそ製造業では、何らかの形でストックをおいておく。原料、中間製品、あるいは製品・・その形態はさまざまだ。それは在庫と呼ばれ、個数や金額で数えられる。しかし、じつは在庫には製造リードタイムという『時間の缶詰』の意味もあるのではないか。だから、在庫量は日数分で計るのが適当なのではないか。

在庫には一般に、最終需要に引当済みの「フロー在庫」(仕掛り在庫)と、まだ未引当の「ストック在庫」(有効在庫)の二種類がある。ストック在庫のポイントを何の形でどこに置くかは、生産の仕組み作りにおいて非常に重要な問題だ。一般に、製品に近い形で置くほど、受注から納品までのリードタイムは短くなる。なぜなら、需要を見込んで、先に製造行為を済ませているからだ。先ほどの鰻屋の例を思いだしてほしい。

在庫とは見込みによる先行着手をあらわすものであり、したがって時間をストックしている。ここから、有効在庫量を日数や月数などの『時間』で計ってあらわす意味も明らかになる。よく10日分の在庫とか1.5ヶ月分の在庫回転率などというが、これはすなわち、原料手配からその在庫ポイントまでの総リードタイム合計から、その在庫日数分だけ見込み着手して短縮しました、ということを表わしている。

いま、ある在庫品目を手配してから入手するまでの実効リードタイムの平均値を「純リードタイム」とよび、原材料からその品目までの購買・製造リードタイムの総合計を「総リードタイム」と呼ぶと、次の関係式が成り立つことが分かる:

在庫品目の純リードタイム=その品目の総リードタイム-有効在庫日数

よくリードタイムという用語が誤解されることがあるが、それは『純リードタイム』と『総リードタイム』を混同することから生じる。

そして、この式からもう一つ、大事なことが分かる。それは、適正な在庫量とは、その品目の総リードタイム日数分に等しくとるべし、ということだ。いいかえれば適正な在庫量とは、純リードタイムをゼロにするような在庫量なのである。数量で言えば、総リードタイム期間中に消費されるであろう数量、つまり平均需要量×総リードタイム、となる(本当は安全在庫分の考慮が必要になるが、ここでは省略する)。在庫がこれより多ければ、無駄になる。少なければ、欠品によるリードタイムが生じて、在庫を持つ意味が薄れる。

このように、在庫量と計画手配(スケジューリング)の問題とは、表裏の関係にある。ORの学問的に言えば、最適化の『双対問題』の関係になるのだ。だから、問題を在庫で表現するか、時間で表現するかは、目的に応じて選べばいい。在庫はマイナスにならないが、時間はマイナスになりうる(納期遅れ)点がひとつのキーポイントだろう。

さて、最初のホワイトカラーに話を戻すと、われわれ非定型業務に従事する者にとって、「時間の缶詰」に相当する在庫とは何だろうか? そんなものは可能だろうか? 可能だが、いろいろと条件が付く、というのが私の答えだ。話が長くなってきたので、また別の機会に説明することにしよう。
# by Tomoichi_Sato | 2006-12-27 00:15 | 時間管理術 | Comments(0)

新著『時間管理術』のお知らせ

今月の13日に、私の新著『時間管理術』が日経文庫から出版されました。

個人のスケジュール管理からはじまって、複数人が協力するプロジェクトのスケジューリングまで、技法と考え方をやさしく解説した本です。書店で見かけたら、ぜひ手にとってみてください!
# by Tomoichi_Sato | 2006-12-14 23:54 | 書評 | Comments(0)

プロジェクト貢献価値の理論

EVMSを製品開発型プロジェクトに単純に適用しようとすると、意外な困難に見舞われる。前回それを、単純なガレージカンパニーの例題で考えてみた。いま、発明家(技術者)と実際家(セールスマン)が協力し、まず発明家が20万円の材料費で100万円相当の新装置を製作する。成功確率はフィフティ・フィフティ。つぎに実際家が買い手を捜す。9割方の確率で成功するだろう。この、2タスクからなるシンプルな製品開発プロジェクトで、「製造」タスクが成功裏に完了したとき、進捗率はいくつと算定すべきだろうか?

通常のアーンドバリュー分析は、タスクのコストをその価値と考える。「販売」タスクのコストがほとんどゼロのため、このままでは進捗率=100%という答えになってしまいそうだ。この困難を避けるためには、タスクのもつ真の『価値』を算定しないといけない。しかし、それでは真の価値とは、いったい何か?

ためしに、この問題をもっと単純化してみよう。タスクをたった一つ、「製造販売」にしてしまう。かかる費用は20万円。失敗するリスク確率は、 100%-50%×90%=100%-45%=55%となる。もし、このプロジェクトがうまくいけば、収益は100万-20万=80万円の価値を生み出す。

ところで、この単純化プロジェクトがはじまる時点では、まだ100万円の売上は確実ではない。売上の期待値は、100万×45%=45万円にすぎない。一方、失敗しても部品代20万円は確実にかかる。したがって、プロジェクトの期待価値は、45万-20万=25万円だったのである。言いかえると、この「製造販売」タスクの成功は、25万円のプロジェクト価値を、80万円の価値に増大させたわけだ。差し引き、80万-25万=55万円の価値増大に貢献したことになる。

これを別の言い方で表現すると、タスクの貢献価値とは、そのタスクの開始時点で期待されるプロジェクトの収益(=価値の期待値)と、そのタスクの完了時点での価値の期待値の差分で表現される。そして、価値の期待値とは、各タスクのもつ失敗のリスク確率と、タスク遂行に伴う費用ならびに収入(キャッシュフロー)で決まるのだ。

では、最初のように「製造」「販売」の2タスクからなるプロジェクトではどうなるか、計算してみよう。プロジェクトの期待価値は次のようになる。
「販売」完了時点:100万-20万=80万円
「製造」完了時点:100万×90%-20万円=90万-20万=70万円
「製造」着手時点:100万×90%×50%-20万円=45万-20万=25万円
したがって、
「販売」タスクの貢献価値=80万-70万=10万円
「製造」タスクの貢献価値=70万-25万=45万円

両方のタスクの貢献価値を合計すると、55万円となって、さきほど計算した1タスクのプロジェクトの貢献価値と同じになることがお分かりいただけるだろう。

さて、これで準備はできた。いま、「製造」が完了して「販売」の開始時点になった。すると、進捗率は、まさにアーンドバリュー分析の教えるとおり、その時点までに達成した価値を、価値の合計で割ることで得られる。それは、
45万円÷55万円=81.8%
となる。

よろしいだろうか? タスクの価値とは、そのタスクの前後で増えるプロジェクトの期待収益であらわされるのだ。そして、価値は、タスクのリスク確率(失敗確率)に依存する。上の例を見てほしい。「製造」の方が「販売」よりもずっと貢献価値が大きい。これは、「製造」の方がリスク確率が大きい、すなわち“難易度が高い”からである。難しい仕事ほど、価値が高いのだ。当たり前に思える常識を、貢献価値の理論は数式で証明してくれる。

ちなみに、上の例で「販売」のリスク確率を失敗ゼロ、としたらどうなるか。「販売」の貢献価値もゼロになることは、すぐ分かると思う。失敗するリスクの全くないタスクは、必要かもしれないが、貢献価値はゼロなのである。

実際のプロジェクトでは、タスク数は2よりもずっと多いし、並行するタスクも存在する。こうした複雑な系でも、貢献価値を計算する手法は構成可能だ。詳しくはProMAC 2006の拙論文を見ていただきたい。

それにしても、もう一度、上の例をよく考えてみてほしい。従来の経営論では、しばしば「製造」はコストセンターで、「販売」がプロフィットセンターと扱われてきた。そして、プロフィットセンターの営業部門の発言力が、どんどん増していった。しかし、貢献価値を比較したら、コストセンターであるはずの製造部門の方が、より大きな価値を生み出しているのだ。どちらが経営上重要であるか、明らかではないか。

そしてまた、貢献価値の理論は、従来は評価の困難だった、企業内のバリューチェーンや、複数企業をまたぐサプライチェーンの適正付加価値の計算も可能にしてくれるのである。それもこれも、「リスク確率」の概念をキャッシュフロー分析に取り入れたからである。貢献価値の理論の威力が、少しでも納得いただければ幸いである。
# by Tomoichi_Sato | 2006-12-12 17:38 | プロジェクト・マネジメント | Comments(0)

プロジェクトにおけるタスクの価値を計算する

米国PMIがまとめたプロジェクト・マネジメント知識体系の標準"PMBOK Guide"の普及にともない、日本でも次第にアーンドバリュー管理システム(EVMS)が使われるようになってきた。進捗とコストを同時におさえながら、プロジェクトのコントロールをする上では、非常に有用なツールである。日本にも『出来高』という立派な言葉と概念があったのだが、それをマネジメントの技術として普遍化・活用できなかった。日本のビジネス文化の弱点かもしれないと思うと、ちょっとくやしい気もする。

ところで、EVMSが広まるにつれ、なんとなく進捗はアーンドバリューで測ればすべてOK、という理解も広まってしまったようだ。舶来の理論をそのまま鵜呑みにしたがる風潮も、またわれらが文化の弱点かもしれない。以前、「アーンドバリュー分析の落とし穴」(『コンサルタントの日誌から』2002/10/20)などにも書いたとおり、EVMSは用法を心得て使うべきであり、決して万能の手法ではない。

EVMSの最大の弱点は、じつは製品開発型のプロジェクトに適用しようとする際に、うきぼりになる。ためしに、きわめて単純な例を考えてみよう。いま、発明家(技術者)と実際家(セールスマン)が二人でガレージカンパニーをはじめようとしている。発明家は、20万円ほどの部品を組み合わせて、100万円相当の機械と同等の機能を持つ新装置を作れる画期的アイデアを考案した。実際家は、それができたら自分が買い手を捜してやろう、ともちかける。つまり、この二人の事業は、「製造」と「販売」の2タスクからなる、きわめてシンプルな製品開発プロジェクトである。

ただ、発明家が実際にその装置を組み上げられるかどうかは、まだフィフティ・フィフティの見込みだ。一方、セールスマンは、もしその装置ができあがれば、9割方は買い手を見つけられる自信がある。製造タスクのコストは20万円。販売タスクのコストは、まあ電話代や交通費が多少かかるだろうが、ほぼゼロとしよう。

さて、ここで問題である。いま、ぶじ発明家が装置を組み上げることに成功した。つまり第1の製造タスクは完了したわけだ。ではプロジェクトの現時点の進捗率はいくつか? あなたはどう考えますか?

アーンドバリュー分析の立場から言うと、プロジェクトの進捗率とは、その時点までに完了したタスクの価値の合計を、全タスクの価値の総計(=つまりプロジェクト全体予算)で割った数値である。では、この場合はいくつか。プロジェクト全体のコストは20万円だ。そして、完了したタスクのコストも20万円だった。したがって、最初のタスクしか終わっていないのに、進捗率は100%になってしまう! はたしてこれで良いのだろうか?

はっきりしていることが一つある。それは“これでは働いている人間の実感にあわない”ということだ。実感に合わない尺度では、人をマネジメントすることはできまい。いや、問題は販売経費をゼロとしたことだ、と思う人もいるかもしれない。しかし、では販売経費をかりに千円としようか。そうしたら、進捗率は20÷20.1=99.5%となる。少数以下を切り上げると100%だ。これではなんら解決になるまい。EVMSによる進捗計算を製品開発プロジェクトに無反省に適用すると、いかに問題かおわかりになっただろうか。

この問題の本質はどこにあるのか。それは、「タスクにかかる費用を『タスクの価値』と見なす」というアーンドバリュー分析で広く用いられる前提にある。これは言いかえれば、費用のかからないタスクは価値が低い、と考えていることになる。一般に知的作業は人件費のみだからコストが小さい。それにひきかえ製造や建設や量産はコストが大きい。つまり、力仕事の方が価値が高いと評価されるわけだ。EVMSはアメリカ国防省の調達プロジェクトにおいて発達したから、コスト基準でタスクの価値をはかる考えがしみついてしまっているようだ。

コスト基準がだめだとすると、“二人の協力によるプロジェクトなのだから、半分終わったら50%と考えよう”といった解決法もあろう。しかし、これはマネジメント理論による解決というより、政治的決着というべきだ。製造作業が2人がかりだったらどうするのか。セールスに5人かかったらどうか。声の大きいタスクの方が勝つような進捗率計算など、マネジメントシステムの役には立つまい。それでは、どうすべきだろうか。

答えだけ先に言おう。『貢献価値の理論』を用いれば、タスクの真の価値を計算することが実はできる。そして上記の例では、進捗率=81.8%となるのだ。製品開発プロジェクトは、いや一般に全てのプロジェクトは、複数の人間が協力して、一度限りの目標を達成するための、リスクを伴う活動である。そこではリスク基準による貢献価値の理論が活きてくる。その考え方と具体的計算方法については、次回書こう。
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# by Tomoichi_Sato | 2006-12-04 23:39 | プロジェクト・マネジメント | Comments(0)

合理的な意志決定のつみ上げがマクロな不合理を生む(2)

前回書いた「囚人のジレンマ」の問題をセミナーなどで説明し、自分ならどの行動をとるかを聴衆にたずねてみると、過半数はやはり『自白』を選択すると答える。つまり、相棒がどちらの行動に出ても、自分のこうむるリスクを最小化する方を選ぶというのだ。すなわち、自分の損得というミクロな観点から言えば、きわめて合理的な判断である。

その同じ判断が、分業化した会社の中でもしばしば行なわれる。たとえば、こうだ:購買部門は安い資材部品を納期通りに調達することを、部門の目標として与えられている。だから、他の部門から手配部品の納期を聞かれたら、長めに答えることになる。短い納期見積を答えて、サプライヤーがそれに応じられなかったら、購買部門の失点になるからだ。リスク最小化の原理である。同じ理由で、発注ロットサイズをたずねられたら、多めに言いたくなる。その方が安く買える可能性が高いからだ。つまり、納期は長めに、発注量は多めになりがちだ。

一方、設計部門はどうか。業績評価の尺度は、設計の品質と稼働率だ。品質自体は直接測りにくいから、同じ性能や顧客仕様を満たすために、どれだけ経済設計できるかでおきかえられる。部品数が少なく、重量や肉厚がぎりぎりまでしぼってあるほど良い。こうなると設計の期間は長くなりがちだし、手配部品も個別仕様品が増えていく。でも、標準部品を使って設計マージンが大きくなりすぎたら、失点になる。多少手間はかかっても、稼働率も上がったほうが文句を言われない。客のわがままな仕様のせいにすればいい。

資材倉庫部門はどうか。材料出庫指示が来たとき欠品だと、製造部から文句を言われる。いきおい安全在庫レベルは高めにとることになる。手配も早め早めにかけることになる・・。

おわかりだろうか。どの部門もリードタイムは長め長めに、在庫量は多め多めに動くことになる。各部門がそれぞれリスク最小化のために、余分なサバ読みを行なっている。それが部門レベルで合理的に行動した結果だ。だが、その結果、会社レベルではどうなるか。あきらかに高コストで長納期、競争力のまるで無い状態に陥るのだ。分業の発達した企業では、こうしてあちこちで囚人のジレンマが発生する。全員が合理的に行動して生まれる事象だから、“馬鹿者”と一喝しても、“もっと頑張れ”と尻を叩いても、いよいよ事態は増長するばかりだ。

それでは、どうしたら良いのか? ある意味、答えは簡単だ。『囚人のジレンマ』はゲーム理論で言う「非協力ゲーム」であり、相棒と意志疎通できないことが障害になっている。一言でも話ができて、“一緒に罪状を否認しよう”と協力を合意すればジレンマを脱出できる。だから、会社だって部門間の壁を超えて話し合えば、良さそうな気がする。

しかし、月次の生販会議も毎週の設計工程会議もやっているのに、解決しないのはなぜなんだ。そう自問自答する人も多かろう。それは、皆が「非協力の結果」を理解していないからなのだ。前回の説明で、“二人のくらいこむ年数の合計”の表を見てほしい。これが、組織全体の収支の表だ。

ところが製造業の場合、誰がどういう行動をとると全体がどうなるかが、じつは直感的には分かりにくい。安全在庫水準を5割増やしたら、あるいは調達リードタイムが3週間延びたら、コスト競争力にはどう響くのか? こうしたことは、生産という巨大なシステムのふるまいを対象とした、正しい生産管理の理論を知らないと、正確には答えられない。

分業病は各部門にたいして、異なる評価尺度を与える組織に起こる病気だ。真に解決するには三つの方法しかない。一つは、全員に正しく生産管理を理解してもらうこと。これは理想だが、かなり遼遠な道である。第二は、全体を見通すコントロールセンターの部署を作って、手配指示はそこから出すようにすること。これは計画系機能の強化策である。第三は、各部門の評価尺度を、全体最適を実現できるような矛盾のないものに変えてしまうこと。組織の中の人間は、しょせんモノサシで動かされる存在である。そして、なにより、部分的な合理性をつみ上げても、全体のマクロな合理性は生まれないことを知るべきなのだ。
# by Tomoichi_Sato | 2006-11-23 23:46 | 考えるヒント | Comments(0)

合理的な意志決定のつみ上げがマクロな不合理を生む

企業が変わることは難しい。緩やかな景気拡大が続く中、新規設備投資やIT投資が行なわれるようになり、それに並行して業務を合理化しよう、生産を革新しよう、という運動も活発になってきた。しかし、目に見える工場ラインやコンピュータ導入に比べ、目に見えにくい業務運用のソフト部分は、なかなかうまく変えられない。業務改革プロジェクトを立ち上げて何度か会合を開いても、“総論賛成・各論反対”でなかなか前に進まない--こんな話を、旗振り役の部署の人から聞くことも多い。

会社が変わらないのは、従業員の頭が固くて保守的なせいなのか。はたまた企業文化や風土のせいなのか。どちらも違う、と私は考える。会社がマクロな不合理に陥っているのは、各人が合理的な意志決定をつみあげたせいなのだ。製品納期が遅れたのも、部品在庫や仕掛品が山のようにあるのも、そのくせ肝心な部品が欠品するのも、皆が残業また残業で疲弊しているのも、じつは各人が合理的にふるまったせいなのだ。

なぜそのようなことが起きるのか? その理由は、経済合理性の背後にある『リスク最小化の原理』にあるのだ。だが、理由をを紐解く前に、ちょっとこういう問題を考えていただきたい。

いま、ここにギャングXとYがいる。彼ら二人は共謀して、銀行強盗を働いたばかりだ。しかし逃走して潜伏中に、別々に警察に捕まってしまう。警察は二人が銀行強盗だとにらんでいるが、直接の物証がない。そこで微罪で別件逮捕したのだ。警察は彼らを(共謀できないように)別々の留置場に収監して、銀行強盗の自白を迫る。相手が罪状を否認しているとき、自分だけが自白すれば、司法取引により自分は無罪放免になる。逆に自分が自白を拒否して、相手がしゃべってしまえば、自分は懲役7年は覚悟せねばなるまい。

自分も相手も互いにしらを切り通せば、二人とも微罪で1年収監程度で済む。逆に二人とも自供してしまえば、改悛の情を一応見せたことで懲役5年程度ですむだろう。このような情況の時、あなたがギャングXだったら、どのような行動をとるべきか。自白か、否認か?

このような状況下での合理的な決断について、考えてみよう。相手はどう出るか分からないし、連絡もとりようがない。そこで自分の選択と、相手の選択で合計4種類のシチュエーションが想定される。それを、下記のような行列で表現する(これを利得行列と呼ぶ)。単位は年数で、懲役だからマイナス値で表示してある。

           自 分 
       | 否認 | 自白 |
       |=========|
相手  否認 | -1 |  0 |
    自白 | -7 | -5 |
       |=========|
 
もし、相手が否認した場合を想定してみよう。すると、自分も否認すると-1、自分が自白すれば0だ。したがって、刑罰のリスクが最小となるのは、自分が自白をするケースだ。また、もし相手が自白したらどうだろう? 自分が否認するとー7、自白するとー5だ。この場合も、自白の方が懲役のリスクが小さい。

したがって、相手がどう出るか分からない不確実環境下で、自分がこうむるリスクを最小化するためには(「リスク最小化の原理」)、自白することが『合理的』だと判断できる。

ところが、よく考えてほしい。相手も、同じ情況なのだ。だから、相手も自白するのが『合理的』だと判断する。その結果、どうなるか。二人とも自白して、ともに懲役5年である。二人が一緒に否認すれば、1年で済んだのに! いや、それどころか、二人の懲役年数を合計すると、次の表のようになる。

           自 分 
       | 否認 | 自白 |
       |=========|
相手  否認 | -2 | -7 |
    自白 | -7 |-10 |
       |=========|
 
これから分かることは、共に自白すると、二人組という組織にとっては最低の結果に陥ることである。リスク最小化原理に沿った“合理的”行為をつみ上げた結果が、組織にとってはもっとも不合理な結果を生む。これが、ゲーム理論で有名な「囚人のジレンマ」の物語である。

それでは、企業内にとって、いかに囚人のジレンマに似た状況が生まれてくるのか。また、そこから脱出するためにはどうしたらよいのか。少し長くなってきたので、この続きはまた書こう。
# by Tomoichi_Sato | 2006-11-13 22:05 | 考えるヒント | Comments(0)