製品アーキテクチャー分析--付加価値を高めるためには

日本の製造業の花形は自動車と電子情報機器である。作り手のほとんどは大企業で、一般消費者にアピールする製品を作っているから、知名度も高く宣伝も多い。いきおい、マスコミのクローズアップ報道や、生産管理の解説書は、こうした産業に焦点を当てがちになる。いずれも消費者にBtoCで販売する製品であるから、そのベースは見込み生産である。その結果、多品種だが大量生産の工場を、どう上手にグローバル展開するか、といった面ばかりが喧伝される。

しかし、日本の製造業の9割は、じつは顧客の個別仕様に応じた品目をつくる、受注生産の形態をとっている。自動車メーカー1社に対して、それを支える膨大な系列部品メーカーの存在を考えてみれば、容易に想像がつくはずだ。自動車部品は「すりあわせ型」である。だから部品メーカーはほとんどが受注生産になる。一次部品メーカーに対する二次サプライヤーも同様の立場で、最終顧客の仕様にあう素材を提供しなければならない。

受注生産の特徴は、自分の都合で生産計画を立てることができない点だ。来た注文を、納期に合うように、端からこなしていかなければならない。つまり、イベント・ドリブンな企業形態なのである。設計自体は最初の製品開発と初期流動の時点で済んでいる。だから繰返し受注生産のかたちになる。

さて、繰返し受注生産は儲かる業態だろうか? 製造の効率化は、計画性と、設計の標準化と、購買先の自由度、そして生産の平準化などから生まれる。しかし、この業態ではどれもアウトだ。計画も立てられず、設計は顧客次第、購買先も(個別注文だから)複数から安いものを選ぶのに手間がかかる。唯一、平準化だけは、顧客次第では可能かもしれない(むろん一個流しなどの工程改善の努力は必要だが)。だから、この業種では付加価値を高くとることがかなり困難だ。

するとやはり、最終消費者向けの製品をつくらなければ儲からないのだろうか? じつは、それも早計なのだ。スーパーやドラッグストアなど、安売りチェーンストアに並ぶ商品は、すべて消費財である。誰でも作れて、特色を持たぬ商品は、すぐに価格競争に巻き込まれる。パソコンなどもそうだ。パソコンのような、モジュール化された汎用部品・中間製品を組み合わせて作る「モジュール型」製品には、誰もが参入できる。世界市場相手の価格競争から抜け出すのは容易ではない。

このようなわけで、前回の図表にも説明したとおり、製品アーキテクチャーが「製品=すりあわせ型、部品=すりあわせ型」のタイプと、「製品=モジュール型、部品=モジュール型」のタイプは、付加価値を大きくとることがむずかしいと考えられる(以上は私自身の分析であって、必ずしも藤本教授の学説ではない。念のため)。

そこで、モジュール型製品を作る場合は、部品はきっちり最適設計を徹底し、すりあわせ型部品から作ることで原価低減とリードタイム短縮をはかるべきだ。一方、すりあわせ型製品を作る業界では、オプション仕様の組合せをうまく取り入れて、見かけ上の個別仕様を実現すると共に、部品レベルの共通化を図ってモジュール型を指向すべきだ、ということになる。

どちらも、言うは易く行なうは難し、である。なぜなら、特定の部署だけの努力でどうにかなる話ではないからだ。設計も、販売も、調達も、製造も、みなが協力し合って進むしかない。そして、そうした決断のみが、『経営戦略』の名で呼ばれるにふさわしい決断なのである。
# by Tomoichi_Sato | 2006-08-18 11:38 | ビジネス | Comments(0)

製品アーキテクチャー分析--儲かる製品と部品の組合せ

東大経済学部の藤本隆宏教授といえば、『能力構築競争』(中公新書)など、主に自動車業界の徹底した調査に立脚した、ものづくり理論で有名である。藤本教授の創見は「製品アーキテクチャー論」で、ひらたく言えば“すりあわせ型”部品構成と“モジュール型”部品構成の区別にある。

「すりあわせ型」の部品構成とは、すなわち製品を個々の部品から構成するときに、個別に部品を細かく仕様決め・設計して、それらを組み合わせてつくるタイプだ。その典型は自動車であり、自動車の部品は、たとえ同じ企業であっても、車種によってばらばらである。カローラのシートはクラウンには使えない。つまり、他の部品との組合せは限られており、その中で重量や強度や材質などを最適化してある。

一方、「モジュール型」の部品構成とは、製品を標準的なモジュールの組合せで実現するタイプだ。その典型はパソコンで、CPU・マザーボード・筐体・モニタ・キーボードなど、それぞれ単機能で完結したモジュール(サブアッセンブリー)の組合せで製品を作る。それぞれのモジュール間のつなぎ方(インタフェース)は業界の中で標準化されており、IBMのパソコンにEIZOのモニタをつないでも、ちゃんと表示してくれる。

製品の持つBOM(部品表)の構造を、このように分析する視点はそれ以前にはなかった。そして、製品自体も、すりあわせ型商品とモジュール型商品に大別することができる。すりあわせ型商品は、顧客の個別の細かなニーズにぴったりと“すり合う”ように作られた商品である。モジュール型商品とは、カタログの中から選ぶタイプの商品だ。寿司屋で言えば「おこのみ」か「おまかせ」かの違いと言っていい。むろん、すりあわせ型商品は受注生産になり、モジュール型商品は見込み生産になる。これが生産管理手法の違いを生む根本要因なのだ。

ところで、藤本教授によれば、儲かる産業と儲からない産業の違いは、製品と部品のアーキテクチャーによって傾向づけられる、という。これは、どういうことだろうか。

たとえば、自動車製造が、今日もっとも付加価値を生む産業であることは疑えない。ところで、自動車という商品は、基本的にカタログ商品である。さまざまなオプションをお好みで選ぶことは可能であるが、車種という基本モデルの枠組みは決まっている。つまり、モジュール型商品である。一方、その部品は、既にのべたようにすりあわせ型部品からなっている。

ひるがえって、造船・エンジニアリングはどうか。自分の属する業界だからよく知っているが、この業種は(今現在は中東の石油バブルで受注が多いが)基本的に付加価値の小さい仕事だ。粗利が小さく、リスクは大きい。この業種の特徴は、個別仕様のすりあわせ型の機械・資材を買って、プラントという個別注文のすりあわせ型の商品をつくる。

パソコン業界はどうだろうか。90年代はじめには“電子立国”などと自称していた日本だったが、今やデスクトップPCで大きな利潤を上げる会社は、ほとんど無くなってしまった。パソコンはカタログで選ぶモジュール型商品である。そして、構成部品もモジュール化されている。

ところで、ご存じの方は少ないようだが、今の日本は電子材料製造の業界では、非常に強力なパワーを持っている。シリコン半導体ウェハや液晶材料は、日本のメーカーが世界市場の半分以上を占めており、かつ大きな利潤を上げている。いまや電子材料立国なのだ。そして、商品は個別仕様のすりあわせ型だが、原材料は一般化学の産物であり、モジュール型である。

以上をまとめると、次の図のようになる。

+--------------------------+
|            |モジュール型商品|すりあわせ型商品
+--------------------------+
|モジュール型部品 | パソコン・家電 | 電子材料    |
|            |           |           |           
|            |(付加価値 小) |(付加価値 大) |
+--------------------------+
|すりあわせ型部品 | 自動車     | 造船・エンジ  |
|            |           | ニアリング   |
|            |(付加価値 大) |(付加価値 小) |
+--------------------------+

おわかりだろうか。BOM(部品表)の形を見ると、儲かる業界かどうかが、ある程度わかるのである。そして、同じタイプの商品・部品の組合せは儲からないのだ。上の図で言うと、左下か、右上に行かなければならない。

これが部品表構造の視点から見た、選ぶべき企業戦略なのだ。世に出回っている経営評論の如きと、いかに違うかお分かりだろうか。経営者の資質だとか、工場の世界展開とか、マーケティングの巧拙とか、そうした要因も大事かもしれない。しかし、儲かるか儲からないかは、製品のアーキテクチャーで構造的に決まってしまうのだ。

では、なぜこうなるのか。そして、左上や右下にいる企業は、どうしたら儲かるようになっていけるのか。長くなってきたので、この続きはまた書こう。
# by Tomoichi_Sato | 2006-07-30 11:24 | ビジネス | Comments(0)

付加価値生産性とは何か

付加価値とは、企業が生産を通じて新しく生み出した価値であり、端的に言えば販売額から材料購入費を差し引いたものだ。材料購入費はサプライヤーに対して支払う金額であり、そのサプライヤーにとっては販売額になる。したがって、付加価値の計算は、買い手と売り手の分を合計すると、取引額が相殺されていく関係になる。もし、ある企業が工場を分社化して子会社とし、そこから製品を仕入れて販売する形態に変わったとしても、親会社と子会社の付加価値の合計額は変わらない。

この計算を、サプライチェーンのずっと源流までたどって集計していくとどうなるか。ちょっと考えればわかるはずだが、これは国民総生産(GDP)に等しくなるのである。つまり、一国のGDPとは、その国が生み出した付加価値の総計になるのである。だから、計算上は儲かるからと言って、製造やサービスの仕事を単価の安い海外にアウトソースしてしまったらどうなるか、容易に想像がつくだろう。その国の経済全体がしぼんでいくのである。これはすでに米国で起こりつつある現象だ。

さて、生産管理の主要なテーマは、最小の在庫で納期を守ることである。納期を守るというのは、顧客との約束を守ることであり、それ自体は“できて当たり前”のことだ。納期厳守を実現するために、どれだけ費用を使ってもいいなら、誰も苦労はしない。問題は必要最小限の在庫で、の部分である。在庫とは、その期に外部から購入する材料の結果であるから、材料購入費に集約される。言いかえれば、生産管理の主要なテーマとは、納期通りの出荷を達成し、外部からの材料購入費を下げること、つまり付加価値の増大にあるのだ。

生産管理の主題が付加価値の増大にある、ということは特筆されて良い。なぜなら、この基本中の基本が、どうやらしばしば生産現場で忘れられているからだ。その典型例が生産性の定義をめぐる混乱である。

最新鋭の機械を導入した、あるいは、一人屋台方式やセル生産を導入した、だから生産性が何割上がりました、といった議論をよく見かける。生産性とは何か。生産高を人員数で割ったものなのか。つまり、人が減れば生産性向上なのか。それだったら、最終組立工程以外は全部外注員にしてしまえば、労賃は元のままでも生産性が上がることになる。いや、工場長以外、全員外注にしてしまえば世界一の生産性であろう。これが生産管理の目標とは、誰も思うまい。

あるいは逆に、一人屋台生産にして直接作業比率が上がり、仕掛り在庫が減りました、という議論はどうか。部品を配膳・供給する仕事は分業させて、誰か別の人間に振り分けた訳であろう。これも、最終組立工程の能力を最大限活用する面では有意義だが、工場全体の人数は(とくに自社内で材料部品加工まで行なっていれば)動線をぐっと短縮しない限り大きく減ることはない。

こういう、社員一人あたりの生産額(販売額)の議論を続けていく限り、かならず行き着く先はアメリカと同じ、全面アウトソーシングである。そして、国内の失業率増大と国民所得減少ばかりに貢献することになる。

それでは、生産性を何で計るべきか。答えは、労働時間あたりの付加価値額なのである。労働人員あたりの付加価値額で計算する場合もあるが、派遣社員やパート比率が大きくなると、比較できなくなるので、最近は時間あたりの方が良く用いられる。つまり、作業者一人1時間あたり、どれだけ付加価値に貢献しているかを測るのだ。

こうすると、単なる外注化では、生産性向上ができなくなる。内製工程を丸ごと外注すれば、材料購入費にはねかえって、全体の付加価値が落ちてしまう。工場労働者を派遣社員に切り替えても、労務費は付加価値の計算に影響しないので効果がない。

そこで、まじめに生産を計画し、需要と必要在庫を予測し、指示を同期化し、不良率を下げ、レイアウトと工程作業を工夫して、地道に一人1時間あたりの付加価値を上げて行くしかない。つまり、普通にいわれている生産管理を実行するしかないのだ。もし外注化で生産性を向上したければ、賃金の低いものを出すのではなく、「付加価値への貢献の低いもの」を出した方が良い。

ちなみに、一人1時間あたりの付加価値額と、1時間あたりの労働賃金の比率を、『労働分配率』という。労働分配率は、日本の全企業平均では50%程度だが、製造業では60%近い(つまり生産性が低い)。これが100%を超えたら、賃金を払えず事業が成り立たないない訳であるから、付加価値生産性は、その事業が人を養う力があるかを示すことになる。だからこそ、これをいかに大きくするかが、工場の最大のテーマなのである。
# by Tomoichi_Sato | 2006-07-21 23:10 | ビジネス | Comments(0)

付加価値--問題な日本語

いつだったか、「タクシーはとても付加価値の高い乗り物です」という広告を見たことがある。マンガ風の絵で、自動車がお客さんをおぶって走っている。タクシーは楽だ、と言いたいのだろう。しかし、私は可笑しくて吹き出したくなった。付加価値が高いとは、売値に比べて儲けの比率が高いことを意味する。これでは、宣伝の意図とは逆に、“タクシーは実はとても原価の安い乗り物です”と主張してることになるからだ。

『付加価値』という言葉は、かくのごとく誤解されやすい。付加価値が高いというのは、売り手にとって重要なことだが、買い手は商品の価値そのものしか興味がない。買う価値のあるモノだから、買うのだ。だから上の広告は、本来なら「タクシーはとても価値の高い乗り物です」と書くべきだった。いや、もしかしたら、低賃金を抗議するために、運転手がわざとそんな広告を貼ったのかもしれないが。

こんな誤解がまかり通るようになったのは、長かった不況の時代に、“いかにして製品の付加価値を上げるか”という議論を皆がしてきたからだろう。その結果、付加価値を上げることが善であるばかりか、買い手にとっても善であることになってしまったらしい。そもそもの目的や意義を忘れて手段ばかりを議論しがちな、我らが社会ではよく見かける現象である。

さて、製造業における付加価値とは、簡単に言うと次の式で定義される:

 付加価値=販売高-材料購入費

製造業とは、マテリアルを加工し、付加価値を付けて販売するビジネスだ。付加価値こそ、利益や賃金や設備投資をはじめとする全ての資金の源泉なのだ。だから、この式の左辺をいかに大きくすべきかを、必死に工夫しなくてはならない。

その付加価値の源泉とはどこにあるのか? 反応や精製だ、と化学工業の人は答えるかもしれない。加工や組立だ、と機械工業の人は考えるだろう。いずれもモノの形や性質を変える製造工程が価値の源泉だと信じている。

一方、搬送だの保管だの検査だのといった作業は、モノに直接の影響を与えない。だから、物流や品管部門は付加価値を生み出さない、余計者のように扱われがちだ。事実、物流部門はまっさきにアウトソーシングと人員削減の対象にあげられる。

ところで、よく考えてほしい。顧客に製品を販売するとき、その製品が消費地から500km離れた地点にあったら、顧客は買ってくれるだろうか。その製品が壊れやすかったら、誰が喜んで買うだろうか。だから、顧客が必要なときに、必要な場所で、必要な信頼性を提供する物流や品管の仕事は、あきらかに価値を付加しているのだ。

付加価値はふつう、製品仕様の差別化で生み出されると考えられている。それは確かに事実だ。しかし、提供場所と時間(納期)や、安心料(保険料)もまた、付加価値をつける有力な手段なのだ。

そして、もうひとつ、誰もが忘れがちな点がある。それは、販売業務それ自体は、製品に価値をほとんど付加しないという点である。だから、営業部門が物流部門を下に見るような組織があったら、その企業はどこかおかしいと考えた方が良いだろう。
# by Tomoichi_Sato | 2006-07-13 00:02 | ビジネス | Comments(0)

「設計管理」の必要性(2)--海外リソースの使い方

“名選手必ずしも名監督ならず”--野球のことわざだ。プレイヤーとしての個人技量がいかに優れていても、それが必ずしもチームの采配の上手さを意味するものではない、とこの言葉はいっている。サッカーでも、たぶん事情は同じなのだろう。似たような言い回しが映画の世界にあるかどうかは知らないが、映画監督で俳優出身者は少なく、名優となるとデ・シーカやチャップリンなど、数えるほどしかいない。

日本の製造業における設計部門は、監督のいない映画のようだ、と前回書いた。設計、ことに基本設計は、かなりの程度まで個人の技量や創造性に左右される。しかし、今日、設計者が一人だけで、ものづくりの全てを決めることなどできない。さまざまな設計関連作業が、チームワークを保って、段取り良く進まなければならない。この、映画監督にあたる役割が、専門職として認知されていないのである。

その弱点は、日本企業がアジアなど海外に設計協力を求める段になってくると、てきめん表われてくる。中国であれマレーシアであれインドであれ、海外の会社に設計を外注するのが、はっきりいって下手だ。相手が独立企業や合弁だから言うことをきかない、との言い訳もときおり聞くが、100%子会社だって御しにくいのだ。だから、せっかく海外に設計拠点を作ってコスト削減をするつもりが、日本から大勢を支援のため派遣して、費用は元の木阿弥、かえって時間はよけいにかかった、という例が少なくない。

その理由は、しばしば相手国の文化のせいにされる。中国人は自分勝手な“砂の民”だ、インド人は理屈っぽく尊大で、マレーシア人は南洋の怠け者、という訳だ。不思議なことにわが国では、文化人類学を学んだ訳でもないのに、文化を語りたがる技術者がやたら多い。文化論に見えてそのじつ、たんなるアジア人への偏見を合理化しているのに過ぎないのだが。

しかし、オフショア設計外注がうまくいかない本当の理由は、異文化ギャップではない。それは、同じ業界の欧米企業と比べてみると明瞭だ。彼らは、すくなくとも我々より上手にアジアのリソースを使いこなしている。文化の差異なら彼らの方がハンデが大きいはずなのに。

その差はすなわち、『設計管理』能力の差なのだ。彼らのやり方は、たとえばこんな風だ:

* 設計という大きな仕事を、基本設計・電気設計・機械設計・・といった小さな職務単位に分解すること(WBS化)、
* それぞれの職務単位で、インプットとアウトプットと計算ツールを明確にすること、
* 進捗のプロセスを定義すること、
* 納期から逆算して各作業期限を設定し、隘路(クリティカル・パス)を把握すること、
* 文書と図面のリストを最初に作成し、図面番号と検索手段を定義すること、
* 要確認事項のトラッキング・リスト(To Do List)を作って追うこと、
* 設計上のリスク・ファクターを明確にすること、
* 設計者間の行き違いやコンフリクトを調整し、意志決定権限と責任範囲を定めること、

そして,

* 以上のプロセスを文書で明文化し、誰でも及第点のレベルでは遂行できるようにすること

である。

ひとつひとつをとれば、やっていることにそれほどの違いはない。だが、ここには設計者個人の力量に依存しないための方法論がある。少なくとも、設計はマネジメントが必要だ、という醒めた認識がそこにはある。エンジニアが年功序列で管理職になれば、そのまま管理ができるはずだ、とは単純に考えない。

現実には、欧米人にだってマネジメントの上手下手は歴然と存在するし、だからDilbertのマンガみたいな笑い話も生まれるのだろう。私の見聞きした経験では、英米の企業はどちらかというと組織でシステマティックに設計を進めるのがうまいし、フランス・イタリアあたりの企業では、ごく少数の天才的なエンジニアが発想して大多数がそれにしたがって実現する、という印象を受ける。そういう意味では、彼らの間だって文化のギャップは存在する。

だが、少なくとも彼らが文化のギャップを理由にして、設計マネジメントの不在を言い訳した例をきいたことがない。マネジメントは、プロセスである。職位や人格や文化ではないのだ。

(追記)筆者の勤務先である日揮には、幸か不幸か「エンジニアリング・マネジメント部」という部署が今のところ存在する。これはエンジニアリング会社の得意なマトリクス型組織の一例である。
# by Tomoichi_Sato | 2006-07-01 12:49 | ビジネス | Comments(0)

「設計管理」の必要性

私の好きな米国のマンガ"Dilbert"にこんな話があった。セクレタリー(秘書業)の低い地位にいやけがさした若い女の子が、技術職になりたいと思い立ち、同僚の女性エンジニアであるアリスに相談に行く。アリスは彼女にこういう。

アリス「あなた、エンジニアになるには、何年もの訓練が必要なのよ。」(ふと上司を思い出して)「・・でも、エンジニアのボスになるには、何の訓練もいらないの。あれって、スキル不要の、苦労なき労働なのよね。」

すると彼女はこたえる。「だったら、私にもできそうね。」 

米国のハイテク企業を舞台にしたマンガ"Dilbert"には、無能を絵に描いたような部長が出てきて、よく私たちを笑わせてくれる。この部長ときたら、ネットワーク回路図とプロジェクト工程図を見分けられるかどうかさえ疑問だが、それでも『リーダーシップとは』などと経営論の片言を口にして、必要もないのに部下を休日出勤させたりするのだ。

上司は部下を管理するものだと、誰でも思っている。このマンガでは、技術を知らない上司が、部下を管理したつもりになっていることの愚かしさを描く。しかし、それでは、設計の固有技術をよく知っている人間ならば、設計部門をうまく管理できるのだろうか。たとえば電磁流体解析や熱応力計算が上手なエンジニアは、他のエンジニア達をうまく采配できるのだろうか?

生産工程には生産管理が必要であり、設置工事には工事管理が必要であると、誰もが知っているし、たいていの会社にはそうした名称の部署がある。ところが、「設計管理部」という部署がある企業には、まだお目にかかったことはない。ちょっと考えると不思議である。設計は管理しなくともうまく進むのか。設計が遅れて困ったり、設計の品質が低くて現場が混乱するケースは、希少な例外なのだろうか。

むろん、そんなことはあるまい。しかし、設計管理部の必要性が議論されない理由は、想像がつく。それは「管理」という語の曖昧性、そして設計者がホワイトカラーという(元)エリート階層に属することにより、おおいかくされてしまっているのだ。

いったい、管理とは何だろうか。以前も書いたように、私自身は、この曖昧な多義語がきらいなので、自分では滅多に使わない(「マネジメントと管理はどこが違うか」参照)。かわりに、マネジメントとかコントロールとかスーパービジョンとか、英語にあるカタカナ言葉を使うようにしている。しかし世間では、上司は部下を「管理している」と思っている。上司という立場になれば、部下への命令や、業績評定や、アドバイスや、宴席で上座に座る権限などを、手に入れられる。しかし、Dilbertのマンガにあったように、なんの訓練もスキルもなしで、本当に部下を「管理」できているのか? 

その典型例は、ソフトウェア産業の組織にしばしば見られる、奇妙な進化論である。平社員のプログラマが、少し経験をへるとになるとSEクラスのリーダーになり、SEもだんだんとベテランになると課長兼プロジェクト・マネージャーになる。そして、クリティカル・パスもWBSも知らないまま、プロジェクトの戦場に突入していく。引率される兵隊こそいい迷惑である。

ここには、「管理」のためには「管理技術」が必要である、という認識が欠けている。そこで、ようやく最近はPMO(プロジェクト・マネジメント・オフィス)なる別組織を作って、設計・開発の固有技術以外に、プロジェクト管理技術の専門担当者をおく企業が増えてきた。

ところがひるがえって、一般の製造業ではどうか。まだまだ、設計管理という問題意識が乏しい。その理由は、社内の人種階層制にある。生産管理部や工事管理部が存在するのは、じつをいうと製造現場や工事現場のブルーカラーを監督し統率するため、と考えられているからだ。一方、設計部門は社内でもエリート集団の場所である。一丁目一番地に住む人々が、なぜ他の部署から監督統率されなければならないのか。

そのくせ、製造業はどんどん見込生産から受注生産へとシフトしている。ますます、個別案件での設計のかかわりが増えている。製品開発設計のスピードも、しばしばネックとなっている。だから、生産システム全体を見渡すと、あきらかに設計にも課題が増えてきているのだ。

ここで、映画監督を思い出してほしい。監督は自分では演技しない。必ずしもベテラン俳優が監督になっていくわけでもない。しかし、スター俳優にシナリオを渡し、演出を指導する。そして、映画撮影の進行をコントロールする。

このような役割の人間が、製造業でも必要ではないか。多くの会社の現状は、監督のいない映画撮影のようだ。一人一人は努力し、苦心している。だが、ちっともハーモニーもストーリーもないのだ。それも、困るのが設計部門だけなら、まだしも自分のまいた種と言えるだろう。しかし、設計で発生した問題は、購買や、生産技術や、製造や、物流や、販売や、あちらこちらの離れた場所で火をふくのだ。

それでは、具体的には『設計管理』のために、いったい何をしたらいいのか。長くなってきたので、項をあらためて、また書こう。
# by Tomoichi_Sato | 2006-06-22 23:14 | ビジネス | Comments(0)

製造管理とは何か

日本の生産管理系の用語はややこしい。その最たるものが、この「製造管理」だろう。生産管理と、製造管理とは、同じなのか、違うのか。同じなら、なぜ二つの用語が並立しているのか。違うとしたら、何が違うのか。生産と製造はそもそも違うものなのか。疑念は尽きない。

生産管理』が、製造業において生産システムをつかさどるために必要な、すべての間接業務をあらわす風呂敷みたいな概念だということは、すでに書いた。生産システムの中には、工場内の生産活動みならず、設計や調達や物流にかかわる活動も、しばしば含まれる(どこまでが含まれるかは、その企業の生産形態による。個別受注生産・見込生産・繰返受注生産・連続生産・ファブレス企業等々で、そのバリエーションと守備範囲がことなってくる)。

また、同じ製造業といっても、企業の規模は様々である。社長自身が額に汗して働く町工場からはじまって、工場と本社が同居している企業、本社や営業機能がわかれて工場は生産に専念している企業、複数工場を持っている企業、そして全世界に生産・物流拠点をもっている企業まで、広いスペクトルがある。

一般に企業組織は、量的に大きくなればなるほど、機能別に分化していく性質をもっている。したがって、生産に直接間接にかかわる部門の範囲は、大企業になるほど多くなる。設計や、集中購買や、物流や、生産計画などの諸機能が、工場の外に行ってしまっているケースは珍しくない。

そのため、こうした広義の「生産」にかかわる活動と、工場内で直接作業に従事するための活動とを、区別する必要が出てくる。その場合、後者をしばしば『製造』と呼ぶ。生産は広義の概念で、製造が狭義の概念に相当するのである。そして、その製造を支えるための間接活動を指して、製造管理と呼ぶのだ。

ちなみに、英語では生産はProduction、製造はManufacturingであるが、この両者を広義と狭義で厳密に使い分けているかというと、必ずしもそうではない。たとえばMRPⅡはManufacturing Resource Planningの略と言うことになっているが、カバーしている範囲は明らかに購買も受注(販売)も含む広義の生産活動である。

もう一つ、MESという言葉もある。これは情報システム系の用語で、Manufacturing Execution Systemの略だ。もともとはAMR Researchという機関による造語で、日本語では製造実行システムと訳しているが、なんだかあまりしっくりこない。そこでしばしばこれは、『製造管理システム』とも呼ばれる。ここにも製造管理が出てくる。

しかし、これは実はなかなか穿った訳語なのである。もともとAMR Researchでは、製造業の情報システムとして、「三層モデル」というものを考える。最上位層は、本社レベルにおける生産のマクロな計画と管理である(これを「計画層」Planning Layerとよぶ)。最下位層は、工場現場における機械設備の運転と制御である(「制御層」Control Layer)。そして、その中間に、工場の製造手配と進捗把握のための活動が来る(これを「実行層」Execution Layerとよぶ)。

これらの階層は、そのまま働く人間の職位につながっている。計画層は本社の生産企画部門、実行層は工場のホワイトカラー管理職、制御層は現場の職工である。また、情報システム的に言うと、最上位のERPシステムと、現場の制御システムをつなぐ立場として、製造実行システムMESが来る、という位置づけになる。整理すると次のような形だ。

(1)計画層-本社管理者-年月単位・工場単位・製品群単位のマクロな視点-ERP
(2)実行層-工場管理者-月週日単位・工程単位・品目単位の視点-MES
(3)制御層-現場運転員-週日時単位・機械単位・ツール単位の視点-PLC

むろん、これは類型化したモデルであって、いつもこの通りとは限らない。本社で、時間単位のスケジューリングをしている会社もあれば、現場班長が半月分の差立てを決めている会社も知っている。ただ、こう整理すると分かりやすいのだ(詳しくは、工業調査会・刊「MES入門」をご参照いただきたい)。

そして、(1)が広義の生産管理、(2)が狭義の製造管理、にそれぞれ対応していることが分かるだろう。広義とか狭義とかは、すなわちマネジメントのスコープ(責任範囲)のことを差しているのだ。

だから、ERPシステムで生産管理までやるべきだ、とか、いや無理だ、とかいった議論は、そもそもナンセンスなのである。生産管理といい製造管理といったとき、どこまでが必要な管理の粒度(視点の細かさ)なのか、そして判断の自由度をどこまで下ろすべきなのか、それは生産システムの質に依っている。そこの議論を抜かしたまま、情報システムベンダーや経営雑誌の批評に自分の判断をゆだねては、いけない。
# by Tomoichi_Sato | 2006-06-12 00:18 | ビジネス | Comments(0)

科学の子

JR高田馬場駅のホームで乗り降りしたら、耳慣れた曲が聞こえた。電車の発着のベルのかわりに、アニメ「鉄腕アトム」の主題歌が聞こえたのだ。谷川俊太郎作詞・高井達夫作曲の、あの“空を超えて~、ラララ、星の彼方~♪”という歌である。この駅だけ、なぜ鉄腕アトムなのかは、よく知らない。もしかしたら手塚治虫の虫プロが、かつてこの地にあったのかもしれない。いずれにせよあのメロディは、昭和30年代に生まれた男の子なら、誰でも知っていた。

この歌を想い出してみると、もう少し先で、“心優し~、ラララ、科学の子~♪”という風に音階が盛り上がっていく。「科学の子」! 今日の世界では、決して思いつかないフレーズだなあ。若いときの谷川俊太郎は才能があったのだろう。いずれにせよ、今ではこんな言葉、誰もロマンチックには感じまい。

科学というものが、ロマンチックな性質を持つことを、もはや皆が忘れているらしい。エンジニアはみな、科学を学ぶ。技術は科学の裏付けがなければ、たんなる職人の手仕事にとどまってしまう。技術者を志す大きなモーメントは、科学というものの持つ限りない可能性と、理知的な精神の結びついた、ロマンチックな性質だったはずだ。

最近、情報系の学科は入学希望者がたてつづけに減ってきている。知り合いの大学教授から、そう聞いた。さもありなん、とも思う。IT産業はこの20年間というもの花形だったが、それを支えるソフトウェア技術者は過酷な労働環境を強いられる職業だと、誰もが思うようになった。技術者というより、ソフトウェア労働者と呼んだ方がふさわしい。しかも、それで大金が儲かる確率は、もはや極めて小さい。企業は中国かインドに仕事をアウトソースしようと虎視眈々だ。経済産業省が鉦と太鼓で育成の音頭をならそうとも、誰がそんなしんどいばかりの仕事に就きたいと思うだろうか?

似たようなことは、工学部全般に言える。青少年の理工系離れを防ぐために、いろいろな人が策を提言しているが、私は悲観的だ。なぜなら、エンジニアという職種は、今の産業界では、たいして報われないからだ。嘘だと思うなら、製造業の役員リストを調べて、その中に生産畑・研究畑出身がどれほど少ないかを見てみればいい。彼らの科学知識は、彼らのキャリアを豊かにするために、どれだけ役に立ったか? こうした事実に目をつぶったままで、青少年だけを、使いやすい歯車として育てようというのは虫が良すぎる。

つい先日、同年代のエンジニアで飯を食いに行って、しばらく雑談した。話は彗星にロケットを打ち込んで、そこから物質サンプルを持ち帰るプロジェクトの成功と失敗要因に至り、おおいに花が咲いた。こういう話は楽しい。もっている科学知識をあれこれ動員して、想像力の翼を多少なりと羽ばたかせることができる。こういう議論をしていると、ああ、自分たちはまだ科学の子の意識が、少しは残っているな、と感じる。わずかなりともそこには、歳を忘れさせるロマンティックな香りがある。

リスク確率にもとづく貢献価値理論について、最近あれこれと考えている。その中で、タスクの貢献価値の比率は、その仕事の難易度(つまり代替可能性の小ささ)に比例することを証明できた。これを応用すると、コストセンターの生産部門の貢献価値が、プロフィットセンターの営業部門よりも大きくなる条件も示せる。お金を使うばかりの部署でも、価値の源泉であることが示せるのだ。こういう発見こそ、科学的アプローチの醍醐味だろう。

製造は代替可能ではない、と私は言い続けている。設計もそうだ。こうした仕事は単なるコストセンターだから、さっさと海外に移転すべきだと考える今日の経営思想に、私は反対だ。販売はプロフィット・センターであり、マーケット・インの環境下で強い発言権をもつのは当然だ、と多くの人は思っているらしい。私はこれにも完全には同意しない。モノの感覚に裏打ちされた科学のセンスを失うと、組織はしばしば言葉の上だけで空回りを始める。言葉では何でも言える。だが、言葉による論理の暴力に対抗できる力を持つのは、検証可能な事実に即して考える訓練を経た者、すなわち科学を身につけた者だけなのである。
# by Tomoichi_Sato | 2006-06-05 00:33 | ビジネス | Comments(0)

稼働率のパラドックス

現在の日本の製造業が抱えている問題構造は、業種が違ってもしばしば似ている。それは、見込生産向けの工場で、受注生産をこなそうとしていることから生まれる。あるいは、より正確に書けば、「市場からの要求によって、大量見込生産から受注生産に工場はシフトせざるを得なくなってきたのに、企業の管理はあいかわらず見込生産の考え方で行なおうとしている」ことだ。この問題は、以前「特別なわが社」にも書いた。

見込生産から受注生産にシフトしてきた理由は、簡単に言うと、物不足の時代からモノ余りの時代になってきて、需要家・消費者の要求が細かく個別化してきたからだ。プロダクト・アウトからマーケット・インの時代になったといってもいい。こうして、一つの工場の中に、自社の予定で作る標準製品と、顧客の要求で作るカスタム製品が、混在するようになった。

工程や生産ラインも、これに合わせて少しずつ変えて行かなくてはならない。品種の切替が増えて小ロット化するから、治具や設備やレイアウトも変えなければならない。新製品の導入もめまぐるしい。生産技術部は大忙しである。

ところが、困るのは、管理者側の尺度が見込生産時代のままであることだ。その典型が、「稼働率」である。

見込み生産では、工場の設備稼働率は高い方がいい。たくさん作れば、それだけ生産効率は上がって原価が下がる。そう考えられてきた。作れば売れるから、少しくらい製品在庫が増えてもかまわない。だから必然的に大ロットを追求することになる。生産管理者は、努力して稼働率を上げればほめられた。

ところが、受注生産ではこれが逆なのだ。受注生産では、努力すると稼働率は低くなる。なぜか。それは、同じ100個の製品を作るのに、4時間でできる場合と、5時間かかる場合を想定してみれば分かる。1時間あたりの生産量は、25個と20個だ。当然、4時間で作れる方が、生産性は高い。だが、1日8時間労働だとしたら、5時間働いている方が稼働率は高くなるではないか。

どうしてこういうパラドックスが生まれるかというと、受注生産では、工場が作るべき量が最初から定められているからだ。生産量は工場側の意思では決められない。では誰が決めるのかというと、営業部門である。だから、今日の多くの企業では、営業部門が工場に対する発言権を多く持つようになってきた。

これに対して、工場側での意思や努力は、生産効率を上げること、すなわち稼働率を下げることに現れるのである。だが、不思議なことに、今日でも、稼働率を下げたからといってほめられる企業はめったにない。生産管理者は、逆のことを求められるのである。

求められて、どうすればいいのだろうか? どうみたって、稼働率は生産量を生産効率で割った数字で決まってしまう。つまり、稼働率は生産量の従属変数なのだ。そして、生産量は工場側ではコントロールできないのだ。

そこで、工場側では仕方なく、労働者を削減したり、外注工程を切ったりして、対応することになる。こうして、長時間労働と、モラール低下と、サプライヤーとの関係劣化が生まれてくる。

稼働率で管理してはいけない。これは以前も書いたことだ。しかし、もう一度、声を大にして言おう。受注生産が少しでもある工場では、稼働率で管理してはいけない。
# by Tomoichi_Sato | 2006-05-25 00:08 | ビジネス | Comments(0)

なぜ原価が下がらないのか

生産管理の最重要課題は「最小の在庫で顧客の納期を守ること」、すなわち、需要と供給の線を一致させるよう、生産システムを運用することだ、と先週の「生産管理とは何か」で書いた。

ところで、たいていの企業では、生産管理の目的は原価低減だ、と考えられている。まず何よりコスト削減が主題。それから、品質の確保。納期は三の次である。というか、納期はたくさんの在庫によって守られているため、問題意識にあまりのぼらないようになっている。

なぜ、そうなりがちかというと、背景には会社の目標管理と分業主義がある。製造業は大きく販売部門と生産部門に分かれる。そして、販売は売上高、生産は原価で管理することが当然だと経営者は信じている。なぜなら、企業の利益は

 売上高-製造原価=利益

という式で決まるから、との理解だ。利益を上げるためには、売上高を増加させ、製造原価を下げる必要がある。したがって営業も工場も、各々の持ち場で最善をつくすべし。そういう三段論法が、ここにはある。(じつは、この式には逸失利益の項が入っていないのだが、その問題はまたいつか別のときに論じよう)

ところで、上の式には「納期」のような時間の項目が入っていないことに注意してほしい。納期の項とは、生産量の項と言いかえてもいい。なぜなら、工場のキャパシティが一定ならば、総生産量は平均生産リードタイムに反比例するからだ。つまり、生産量の項がない上記の式は、1個あたりの単価計算でも、1期あたりの総量計算でも、関係は同様に成り立つとの見方をあらわしている。だが、はたしてこの前提は正しいだろうか?

もともと直接原価の3要素といえば、材料費+労務費+経費、である。材料費は確かに、生産量にほぼ比例する。部品費が1個1円なら、100個で100円のはずだ(まとめ買いをすれば少しは安くなるかもしれないが)。では、労務費はどうか。これも、10個の製品を組み立てるのに必要な工数は、1個の工数の10倍だと考えてよさそうだ。部品加工になると、段取り替え時間などがあるので、大ロットの方が少し有利にはなるが。

だが、ちょっと待ってほしい。たいていの工場では、生産量は月によって変動する。つねにフル稼働、という工場は滅多にない。では、工場の人件費は、生産量に比例して変動するだろうか? いうまでもないが、そうはならない。給与は(残業分をのぞけば)固定費だからだ。大昔の日本や、あるいは現在の中国の一部では、生産の出来高で労賃を払うような雇用形態があった。これなら確かに労務費は生産量に比例する。

だが、現在の日本では、そうではない。生産量の低いとき、工場の人は何をしているのか。あくびをしているのか? むろん、彼らだって遊んでいるわけではないことを、十分に示す必要がある。つまり、その分、目に見えにくい間接作業が増えるのである。ツールを研いだり、材料を配膳したり、運搬したり、欠品表を書いて資材部にかけ合ったり、清掃したり修繕したり、仕事はいくらでも生み出される。彼らもタイムカードに押した分、給料をもらう権利があるからだ。

これは直接労働に従事するブルーカラーに限らない。そもそも、生産管理や品質管理や在庫管理など、いわゆる管理と名の付く間接業務にたずさわるホワイトカラーだって、負けていられない。工程会議をやったり営業に納期回答のFAXを書いたり納入業者を怒鳴ったり工場長に月報を出したり、ひどく多忙なのだ。

私の見るところ、日本の多くの工場で製造原価が下がらない理由は、直接作業以外の人件費にかなりを依っている。無駄な人が多すぎるのだ。いや、この言い方は正しくない。人の動きに無駄が多すぎるため、生産量が上がらないのだ。月産500台の工場に100人が働いていたとしよう。無駄を減らしてスループットをあげれば、月産1000台が可能になったら、明らかに原価は劇的に下がるはずだ。

そして、工場に対して生産量を与えるのは、営業の仕事だ。つまり、原価を低減したかったら、たくさん売る必要があることになる。そして工場側の責務は、現状の設備やリソースを活用して、どれだけスループット(生産量)を上げられるようにするか、となる。おわかりだろうか。売上増大と原価低減は、互いに関係しあっており、独立に操作できる変数ではないのだ。

管理会計学は欧米で発達したが、彼らのものの考え方の特徴は(あるいは癖は)いつも『分析的』であることだ。対象を分析し、部分品に分けて、それぞれの特性を把握し、操作していく。問題があれば部位を切り分けて、外科医学的に対処していく。部分は互いに独立しているのだ--たとえそれが企業という人間組織であっても。ある部分を操作したら、とんでもない部分に影響が出るかもしれない、などという漢方医学風の発想は、管理会計学にはない。

だが、こと製造業に関しては、こうした“風が吹けば桶屋が喜ぶ”式の発想--いいかえるならば「生産システムとしての発想」が必要なのだ。そして、それを実践するのが、生産管理の本来の業務なのである。
# by Tomoichi_Sato | 2006-05-16 23:55 | ビジネス | Comments(0)