ホワイトボードの謎 - 在庫の「見える化」の効用

私は世界中のオフィス事情を知っているわけではないが、「電子黒板」は他国に比べて日本が圧倒的に普及率が高いように感じる。米国のオフィスはあいかわらずフリップ・チャート(flip chart)が主流だ。フリップ・チャートとは、油絵のイーゼルみたいな台木の上に、白い紙を何枚も重ねたもので、1枚書き終わるとめくって次の紙を出すようになっている。なぜか彼らはこのローテクで安価な道具がお好きだ。フランスとか、ヨーロッパではホワイトボードをよく見かけたが、複写機能がないので、結局それをまたノートに写さなくてはいけない。せっかくきれいな図を書き終えて、さて、と思ったら複写できないのに気づき、がっかりしたことは一度や二度ではない。

それにひきかえ、わが国では電子黒板(正確には電子白板か)がよく普及している。何年か前、米国の自動化システムベンダーが私の勤務先に来て、あちこちで電子黒板を活用しているのに感心して帰った。しばらくしてから彼らのオフィスを訪問したら、真新しい電子黒板をうれしそうに見せて、“これでやっと俺達の会社も21世紀に仲間入りだ”とジョークを言っていた。

ところで、これほど便利なホワイトボードだが、私はその米国のオフィスで実際に打合に使おうとして、日本と全く同じ問題点を発見して、びっくりした。フェルトペンが、書けないのだ。書こうとすると、すぐにインクがかすれてしまう。別のペンを手に取ってみるが、そちらも同じだ。5,6本おいてあった中で、まともに書けたペンは1本もなかった。

このホワイトボード用ペンのインク切れ現象は、わが日本でもいたる所で遭遇する。どこかの秘密結社の陰謀か嫌がらせではないかと思うくらいだ。電子黒板を用いた打合の生産性は、おそらくインク切れ問題のために、どこでも2割くらい低下しているのではないか。日本でもアメリカでも、なぜ、この問題を放置しておくのだろうか? 不思議である。というのも、この問題を解決する、ごく簡単な方法を私は知っているからだ。

その方法だが、まず、透明なビニール袋を用意する。それを、電子黒板の枠にぶら下げる。そして、インクが減って書けなくなってきたペンは、そのビニール袋の中に、即座に捨てるのだ。そして、事務用品の担当者は、毎日、各部屋の電子黒板を見て回り、袋にペンが捨てられていたらそれを回収し、同じ色の新品のペンを置いておくのだ。ペンは、各色2本ずつ電子黒板に置いておく。こうすれば1本が書けなくなっても、まだ残りの1本は使える状態にある。

いつも不思議に思うのは、使えなくなったペンを捨てずにトレイに残しておくことだ。だから毎回、使おうとしても使えない問題に皆が遭遇する。たぶん、インクがある時点からすっぱり無くならないで、少しずつかすれていくから、捨てにくい心理が働くのだろう。だから捨て場と、補充の流れを作ってやれば、問題は解決する。

しかし、この問題の根本は、ペンに残っているインクの「在庫量」が見えないことにある。もしもインクの残量を外から見えるように何か工夫したら(フェルト式だから難しいとは思うが)、たぶんインク切れのペンがトレイに残っていることはなくなるはずだ。

「見える化」という言葉はトヨタ自動車が使っているおかげで、ずいぶんと普及した。しかし、ホワイトボードの謎を見ると、まだまだ本当の意義は浸透していないのかな、とも感じる。たとえば、見えない在庫量を見えるようにしてやれば、それだけでいくらでも工夫の余地が生まれてくるのだ。見えないと、誰も改善しない。

いや、もう少し正確に言おう。「見える化」の効用は、在庫削減や生産効率の向上もさることながら、イライラ感の減少にたいへん役立つのだ。ちょうど書けないペンを持ってイライラすることが減るように。それはカッコよく言えば、リスクの減少である。事実を見せれば、人間は馬鹿ではないから、落とし穴は避けて通れるのだ。

リスクのある環境では、われわれは余計な思考の労力と心配を必要とする。それを無くすることは、単なる能率の向上以上に、価値があるのだ。それは、以前ここに書いた「静寂の価値」にも通じることだ。在庫の「見える化」は何よりもまず、この点に意義を見いだすべきなのである。
# by Tomoichi_Sato | 2006-09-15 23:32 | サプライチェーン | Comments(0)

生産管理には理論がある

あなたは、20万トン級タンカーを運転したことがあるだろうか? ま、私だって、むろん無い。しかし、昔、大学に入りたてのころ、大学祭で船舶工学科の学生が作った「タンカー・シミュレーション」をさわらせてもらったことがある。当時まだパソコンが普及しておらず、そのシミュレーターは大学の大型計算機に接続されており、船の位置はX-Yプロッターに書き出すようにできていた。手のひらに載るゲーム機でフライト・シミュレータが動いてしまう今からは、信じられぬほど大昔の話だ。

しかし、タンカー・シミュレーションの仕組みはそれでも十分、実用的なリアルタイム性をもっていた。なぜなら、タンカーの運転はとてもゆっくりした作業だからだ。シミュレータ上には運河の線が描かれており、その曲がった岸壁にぶつからないように舵を切っていかねばならない。しかし、何度やっても私のタンカーは曲がりきれずに岸壁にぶつかって沈没してしまう。タンカーの反応が非常に遅いからだ。右に面舵をとっても、船体がちょっと右に曲がるまで何十秒もかかる。巡航速度は結構速いから、その間に何十メートルも進んでしまう。タンカーはきわめて運転の難しい乗り物なのだった。

船舶工学科の学生がその時教えてくれたのは、船の運航方法には理論がある、ということだった。まず、船には慣性がある。動力と舵があり、水面との摩擦がある。海流や風による一定方向に外力がかかる。波などのランダムな外乱もある。舵を切ってから船体の向きが完全に変わるまでの時定数は、こうして決まる。タンカーは重量が大きいから、時定数はかなり長い。すぐに方向転換できるヨットとは運転の仕方が違うのだ。f=m・aという力学の公式を、私は妙に実感を込めて思い浮かべた。

船の運転には理論があり、それを学ばないと船長になれない。それは当たり前のことに思える。しかし、(このサイトの読者の方ならばもう話の流れは分かったと思うが)陸の上の会社の世界では、理論を知らないまま管理者の地位についている人が少なくない。そもそも、生産管理だとかプロジェクト管理だとか販売管理だとかに「理論」があることさえ知らない管理者が多いのだ。不思議なことである。

生産管理には理論がある。船の運航が重量や速度や動力や水・風の外力にしばられるように、生産はその在庫量や速度や生産資源や需要・技術動向にしばられる。そこにはf=m・aに相当するきちんとした関係性がある。

しかし生産管理に理屈があることは、なかなか気づきにくい。なぜなら、工場というものは巨大な仕組みであり、その『時定数』が長いからだ。舵を切ってから右に曲がるまで、あるいは動力を上げてからスピードが上がるまで、時間がかかるので因果関係が分かりにくい。しかも、生産とは営業から物流までの一貫した機能から成り立つシステムである。言ってみれば一隻のタンカーというより、複数の船からなる船団のようなものだ。ある場所で起きた事象が、思いもよらぬ別のところに波及したりする。因果関係が直感的でない。

でも、一応大学で経営工学などの講義をちょっとでも聴いたことがある人なら、理論を知っておこうという意思は持つだろう。困るのは、理論を知ろうとしない人の方である。「知ろうとしない人」が管理者になると、乗組員は大変だ。船長、あと20mで岸壁です、このままではぶつかります、と報告しても、“馬鹿者、気合いと根性で曲がるんだ!”と怒鳴り返される。なにしろ、運行は理屈ではないのだ。ぶつかったら、航海士や機関士が根性がなかったことにされてしまう。

生産のマネジメントとは予測(リスクの先読み)とフィードフォワードである。その基礎には、生産システムの力学がある。これから数回に分けて断続的に、在庫理論を例にとり、それを説明していきたいと思う。
# by Tomoichi_Sato | 2006-09-02 10:55 | ビジネス | Comments(0)

MRPは受注生産形態に適用できるか

日本の製造業の9割は、受注生産形態である。たしかに自動車や家電・情報機器といった花形産業の製品は見込生産品で、メーカーはいずれも世界的に有名な大企業だ。また、われわれが日常生活で触れる食品や衣料なども見込生産品だから、日本では見込生産形態が主流のように思えるかもしれない。

だが、こうした産業を支えている膨大な数の部品・材料製造業は、ほとんど受注生産の形態で運用されている。それらはしょせん中小の系列あるいは下請け企業だと勘違いしている人もいるが、巨大な製鉄所だって受注生産形態で運用されている。企業規模の大小の話ではない。“メーカー”というと、最終消費者の手に届く品物を作るスター企業で、あとは部品製造の中小下請けだ、だから受注生産は特殊な例外だ、という奇妙な錯覚は、生産管理の世界では、まず捨てた方が良い。

さて、生産管理の世界では、もう一つ奇妙な神話ないし誤解がある。それは、MRPは生産管理をコンピュータの仕組み上にのせるための、ベスト・プラクティスである、というものだ。これは、主にERPパッケージを販売するIT企業のSEたちに信奉されている。もうちょっと気の利いたSEだと、この上にAPS(革新的生産スケジューラ)という上級コースもあるが、通常の顧客にはMRPで十分だ、と割り切って考えている。

現在のERPパッケージのほとんどは、MRP(もう少し正確にいうとMRPⅡ)をベースに生産管理機能をつくっている。そして米国生まれのMRPは計画生産の思想、つまり見込生産形態の考え方が濃厚にある。むろん、MRP自体は、きちんと慎重に運用すれば受注生産でも立派に使えるし、それは米国でも実証済みである(米国だって受注生産企業はいくらでもある)。

しかし、受注生産の企業、とくに製番管理で工場を動かしている企業にMRPを導入するにあたっては、必ず注意しなければならない点が二つある。それは、購入部品の在庫ポリシー、ならびに個別設計と先行手配の関係だ。いずれも購買に関係していることに気づいてほしい。

MRPは、各部品に標準リードタイムを設定する。購入部品の場合は、外部に発注してから納入されるまでのリードタイムを設定する。この納入リードタイムがくせもので、我が国の取引慣行では月締めが原則だから、じつは発注タイミングによって納入までの期間は案外変動する。そこでいきおい安全サイドにとって、最大値を設定することになる。だから製造全体の標準期間が長くなる。

するとどうなるか。MRPでは出荷日から逆算してすべての手配スケジュールを決めるから、部品手配のリードタイムを長く取ると、とうぜん、設計に使える期間が短くなる。しかし顧客の個別仕様は昨今、ぶれてなかなか決まらない。購買手配しようにも、設計が決まらなくては手配できない。もう一つ困ったことに、MRPはBOM(部品表)ありき、の発想でできている。設計が完了して、部品表がすべてそろわないと、MRPは購買手配オーダーを発行してくれない。一部の長納期品だけ先行手配、という運用がきかない。

その結果、一部の部品がどうしても当初の予定通りに工場に納入されなくなる。工場は、材料のモノがそろわなくては製造できない。にもかかわらず、MRPは元の予定通りに、製造オーダーを現場に対して発行する。こうして、不可能なミッションを与えられて現場の班長は円形脱毛症になってしまう。

もともと日本の製番管理は、あまり常備品在庫を持たず、毎回、個別手配をかける方式である。一方、MRPは常備品在庫とロットまとめの思想を前提としている。だから、購買品が届かないために製造スケジュールをフォワードでずらす、という仕組みがない。BOMの完成を待たずに、部分的に先行発注する発想もない。

最近私が見聞きした経験では、こうした生産形態の違いに無自覚なまま、生産管理分野にMRPを導入しようとするケースが目立つように思える。ようやく不況を脱しつつある我が国の製造業では、10年以上にわたった投資の空白期間を埋めるために、ERPパッケージの適用分野を生産部門にも広げようとする動きが多い。しかし、繰り返すが、MRPを受注生産に適用するには、かなりの注意と、業務の変更が必要なのだ。それは、“パッケージのベスト・プラクティスに業務を合わせ、BPRを推進する”といったカッコいい主張とは、まったく別の次元の話である。
# by Tomoichi_Sato | 2006-08-19 10:56 | サプライチェーン | Comments(0)

製品アーキテクチャー分析--付加価値を高めるためには

日本の製造業の花形は自動車と電子情報機器である。作り手のほとんどは大企業で、一般消費者にアピールする製品を作っているから、知名度も高く宣伝も多い。いきおい、マスコミのクローズアップ報道や、生産管理の解説書は、こうした産業に焦点を当てがちになる。いずれも消費者にBtoCで販売する製品であるから、そのベースは見込み生産である。その結果、多品種だが大量生産の工場を、どう上手にグローバル展開するか、といった面ばかりが喧伝される。

しかし、日本の製造業の9割は、じつは顧客の個別仕様に応じた品目をつくる、受注生産の形態をとっている。自動車メーカー1社に対して、それを支える膨大な系列部品メーカーの存在を考えてみれば、容易に想像がつくはずだ。自動車部品は「すりあわせ型」である。だから部品メーカーはほとんどが受注生産になる。一次部品メーカーに対する二次サプライヤーも同様の立場で、最終顧客の仕様にあう素材を提供しなければならない。

受注生産の特徴は、自分の都合で生産計画を立てることができない点だ。来た注文を、納期に合うように、端からこなしていかなければならない。つまり、イベント・ドリブンな企業形態なのである。設計自体は最初の製品開発と初期流動の時点で済んでいる。だから繰返し受注生産のかたちになる。

さて、繰返し受注生産は儲かる業態だろうか? 製造の効率化は、計画性と、設計の標準化と、購買先の自由度、そして生産の平準化などから生まれる。しかし、この業態ではどれもアウトだ。計画も立てられず、設計は顧客次第、購買先も(個別注文だから)複数から安いものを選ぶのに手間がかかる。唯一、平準化だけは、顧客次第では可能かもしれない(むろん一個流しなどの工程改善の努力は必要だが)。だから、この業種では付加価値を高くとることがかなり困難だ。

するとやはり、最終消費者向けの製品をつくらなければ儲からないのだろうか? じつは、それも早計なのだ。スーパーやドラッグストアなど、安売りチェーンストアに並ぶ商品は、すべて消費財である。誰でも作れて、特色を持たぬ商品は、すぐに価格競争に巻き込まれる。パソコンなどもそうだ。パソコンのような、モジュール化された汎用部品・中間製品を組み合わせて作る「モジュール型」製品には、誰もが参入できる。世界市場相手の価格競争から抜け出すのは容易ではない。

このようなわけで、前回の図表にも説明したとおり、製品アーキテクチャーが「製品=すりあわせ型、部品=すりあわせ型」のタイプと、「製品=モジュール型、部品=モジュール型」のタイプは、付加価値を大きくとることがむずかしいと考えられる(以上は私自身の分析であって、必ずしも藤本教授の学説ではない。念のため)。

そこで、モジュール型製品を作る場合は、部品はきっちり最適設計を徹底し、すりあわせ型部品から作ることで原価低減とリードタイム短縮をはかるべきだ。一方、すりあわせ型製品を作る業界では、オプション仕様の組合せをうまく取り入れて、見かけ上の個別仕様を実現すると共に、部品レベルの共通化を図ってモジュール型を指向すべきだ、ということになる。

どちらも、言うは易く行なうは難し、である。なぜなら、特定の部署だけの努力でどうにかなる話ではないからだ。設計も、販売も、調達も、製造も、みなが協力し合って進むしかない。そして、そうした決断のみが、『経営戦略』の名で呼ばれるにふさわしい決断なのである。
# by Tomoichi_Sato | 2006-08-18 11:38 | ビジネス | Comments(0)

製品アーキテクチャー分析--儲かる製品と部品の組合せ

東大経済学部の藤本隆宏教授といえば、『能力構築競争』(中公新書)など、主に自動車業界の徹底した調査に立脚した、ものづくり理論で有名である。藤本教授の創見は「製品アーキテクチャー論」で、ひらたく言えば“すりあわせ型”部品構成と“モジュール型”部品構成の区別にある。

「すりあわせ型」の部品構成とは、すなわち製品を個々の部品から構成するときに、個別に部品を細かく仕様決め・設計して、それらを組み合わせてつくるタイプだ。その典型は自動車であり、自動車の部品は、たとえ同じ企業であっても、車種によってばらばらである。カローラのシートはクラウンには使えない。つまり、他の部品との組合せは限られており、その中で重量や強度や材質などを最適化してある。

一方、「モジュール型」の部品構成とは、製品を標準的なモジュールの組合せで実現するタイプだ。その典型はパソコンで、CPU・マザーボード・筐体・モニタ・キーボードなど、それぞれ単機能で完結したモジュール(サブアッセンブリー)の組合せで製品を作る。それぞれのモジュール間のつなぎ方(インタフェース)は業界の中で標準化されており、IBMのパソコンにEIZOのモニタをつないでも、ちゃんと表示してくれる。

製品の持つBOM(部品表)の構造を、このように分析する視点はそれ以前にはなかった。そして、製品自体も、すりあわせ型商品とモジュール型商品に大別することができる。すりあわせ型商品は、顧客の個別の細かなニーズにぴったりと“すり合う”ように作られた商品である。モジュール型商品とは、カタログの中から選ぶタイプの商品だ。寿司屋で言えば「おこのみ」か「おまかせ」かの違いと言っていい。むろん、すりあわせ型商品は受注生産になり、モジュール型商品は見込み生産になる。これが生産管理手法の違いを生む根本要因なのだ。

ところで、藤本教授によれば、儲かる産業と儲からない産業の違いは、製品と部品のアーキテクチャーによって傾向づけられる、という。これは、どういうことだろうか。

たとえば、自動車製造が、今日もっとも付加価値を生む産業であることは疑えない。ところで、自動車という商品は、基本的にカタログ商品である。さまざまなオプションをお好みで選ぶことは可能であるが、車種という基本モデルの枠組みは決まっている。つまり、モジュール型商品である。一方、その部品は、既にのべたようにすりあわせ型部品からなっている。

ひるがえって、造船・エンジニアリングはどうか。自分の属する業界だからよく知っているが、この業種は(今現在は中東の石油バブルで受注が多いが)基本的に付加価値の小さい仕事だ。粗利が小さく、リスクは大きい。この業種の特徴は、個別仕様のすりあわせ型の機械・資材を買って、プラントという個別注文のすりあわせ型の商品をつくる。

パソコン業界はどうだろうか。90年代はじめには“電子立国”などと自称していた日本だったが、今やデスクトップPCで大きな利潤を上げる会社は、ほとんど無くなってしまった。パソコンはカタログで選ぶモジュール型商品である。そして、構成部品もモジュール化されている。

ところで、ご存じの方は少ないようだが、今の日本は電子材料製造の業界では、非常に強力なパワーを持っている。シリコン半導体ウェハや液晶材料は、日本のメーカーが世界市場の半分以上を占めており、かつ大きな利潤を上げている。いまや電子材料立国なのだ。そして、商品は個別仕様のすりあわせ型だが、原材料は一般化学の産物であり、モジュール型である。

以上をまとめると、次の図のようになる。

+--------------------------+
|            |モジュール型商品|すりあわせ型商品
+--------------------------+
|モジュール型部品 | パソコン・家電 | 電子材料    |
|            |           |           |           
|            |(付加価値 小) |(付加価値 大) |
+--------------------------+
|すりあわせ型部品 | 自動車     | 造船・エンジ  |
|            |           | ニアリング   |
|            |(付加価値 大) |(付加価値 小) |
+--------------------------+

おわかりだろうか。BOM(部品表)の形を見ると、儲かる業界かどうかが、ある程度わかるのである。そして、同じタイプの商品・部品の組合せは儲からないのだ。上の図で言うと、左下か、右上に行かなければならない。

これが部品表構造の視点から見た、選ぶべき企業戦略なのだ。世に出回っている経営評論の如きと、いかに違うかお分かりだろうか。経営者の資質だとか、工場の世界展開とか、マーケティングの巧拙とか、そうした要因も大事かもしれない。しかし、儲かるか儲からないかは、製品のアーキテクチャーで構造的に決まってしまうのだ。

では、なぜこうなるのか。そして、左上や右下にいる企業は、どうしたら儲かるようになっていけるのか。長くなってきたので、この続きはまた書こう。
# by Tomoichi_Sato | 2006-07-30 11:24 | ビジネス | Comments(0)

付加価値生産性とは何か

付加価値とは、企業が生産を通じて新しく生み出した価値であり、端的に言えば販売額から材料購入費を差し引いたものだ。材料購入費はサプライヤーに対して支払う金額であり、そのサプライヤーにとっては販売額になる。したがって、付加価値の計算は、買い手と売り手の分を合計すると、取引額が相殺されていく関係になる。もし、ある企業が工場を分社化して子会社とし、そこから製品を仕入れて販売する形態に変わったとしても、親会社と子会社の付加価値の合計額は変わらない。

この計算を、サプライチェーンのずっと源流までたどって集計していくとどうなるか。ちょっと考えればわかるはずだが、これは国民総生産(GDP)に等しくなるのである。つまり、一国のGDPとは、その国が生み出した付加価値の総計になるのである。だから、計算上は儲かるからと言って、製造やサービスの仕事を単価の安い海外にアウトソースしてしまったらどうなるか、容易に想像がつくだろう。その国の経済全体がしぼんでいくのである。これはすでに米国で起こりつつある現象だ。

さて、生産管理の主要なテーマは、最小の在庫で納期を守ることである。納期を守るというのは、顧客との約束を守ることであり、それ自体は“できて当たり前”のことだ。納期厳守を実現するために、どれだけ費用を使ってもいいなら、誰も苦労はしない。問題は必要最小限の在庫で、の部分である。在庫とは、その期に外部から購入する材料の結果であるから、材料購入費に集約される。言いかえれば、生産管理の主要なテーマとは、納期通りの出荷を達成し、外部からの材料購入費を下げること、つまり付加価値の増大にあるのだ。

生産管理の主題が付加価値の増大にある、ということは特筆されて良い。なぜなら、この基本中の基本が、どうやらしばしば生産現場で忘れられているからだ。その典型例が生産性の定義をめぐる混乱である。

最新鋭の機械を導入した、あるいは、一人屋台方式やセル生産を導入した、だから生産性が何割上がりました、といった議論をよく見かける。生産性とは何か。生産高を人員数で割ったものなのか。つまり、人が減れば生産性向上なのか。それだったら、最終組立工程以外は全部外注員にしてしまえば、労賃は元のままでも生産性が上がることになる。いや、工場長以外、全員外注にしてしまえば世界一の生産性であろう。これが生産管理の目標とは、誰も思うまい。

あるいは逆に、一人屋台生産にして直接作業比率が上がり、仕掛り在庫が減りました、という議論はどうか。部品を配膳・供給する仕事は分業させて、誰か別の人間に振り分けた訳であろう。これも、最終組立工程の能力を最大限活用する面では有意義だが、工場全体の人数は(とくに自社内で材料部品加工まで行なっていれば)動線をぐっと短縮しない限り大きく減ることはない。

こういう、社員一人あたりの生産額(販売額)の議論を続けていく限り、かならず行き着く先はアメリカと同じ、全面アウトソーシングである。そして、国内の失業率増大と国民所得減少ばかりに貢献することになる。

それでは、生産性を何で計るべきか。答えは、労働時間あたりの付加価値額なのである。労働人員あたりの付加価値額で計算する場合もあるが、派遣社員やパート比率が大きくなると、比較できなくなるので、最近は時間あたりの方が良く用いられる。つまり、作業者一人1時間あたり、どれだけ付加価値に貢献しているかを測るのだ。

こうすると、単なる外注化では、生産性向上ができなくなる。内製工程を丸ごと外注すれば、材料購入費にはねかえって、全体の付加価値が落ちてしまう。工場労働者を派遣社員に切り替えても、労務費は付加価値の計算に影響しないので効果がない。

そこで、まじめに生産を計画し、需要と必要在庫を予測し、指示を同期化し、不良率を下げ、レイアウトと工程作業を工夫して、地道に一人1時間あたりの付加価値を上げて行くしかない。つまり、普通にいわれている生産管理を実行するしかないのだ。もし外注化で生産性を向上したければ、賃金の低いものを出すのではなく、「付加価値への貢献の低いもの」を出した方が良い。

ちなみに、一人1時間あたりの付加価値額と、1時間あたりの労働賃金の比率を、『労働分配率』という。労働分配率は、日本の全企業平均では50%程度だが、製造業では60%近い(つまり生産性が低い)。これが100%を超えたら、賃金を払えず事業が成り立たないない訳であるから、付加価値生産性は、その事業が人を養う力があるかを示すことになる。だからこそ、これをいかに大きくするかが、工場の最大のテーマなのである。
# by Tomoichi_Sato | 2006-07-21 23:10 | ビジネス | Comments(0)

付加価値--問題な日本語

いつだったか、「タクシーはとても付加価値の高い乗り物です」という広告を見たことがある。マンガ風の絵で、自動車がお客さんをおぶって走っている。タクシーは楽だ、と言いたいのだろう。しかし、私は可笑しくて吹き出したくなった。付加価値が高いとは、売値に比べて儲けの比率が高いことを意味する。これでは、宣伝の意図とは逆に、“タクシーは実はとても原価の安い乗り物です”と主張してることになるからだ。

『付加価値』という言葉は、かくのごとく誤解されやすい。付加価値が高いというのは、売り手にとって重要なことだが、買い手は商品の価値そのものしか興味がない。買う価値のあるモノだから、買うのだ。だから上の広告は、本来なら「タクシーはとても価値の高い乗り物です」と書くべきだった。いや、もしかしたら、低賃金を抗議するために、運転手がわざとそんな広告を貼ったのかもしれないが。

こんな誤解がまかり通るようになったのは、長かった不況の時代に、“いかにして製品の付加価値を上げるか”という議論を皆がしてきたからだろう。その結果、付加価値を上げることが善であるばかりか、買い手にとっても善であることになってしまったらしい。そもそもの目的や意義を忘れて手段ばかりを議論しがちな、我らが社会ではよく見かける現象である。

さて、製造業における付加価値とは、簡単に言うと次の式で定義される:

 付加価値=販売高-材料購入費

製造業とは、マテリアルを加工し、付加価値を付けて販売するビジネスだ。付加価値こそ、利益や賃金や設備投資をはじめとする全ての資金の源泉なのだ。だから、この式の左辺をいかに大きくすべきかを、必死に工夫しなくてはならない。

その付加価値の源泉とはどこにあるのか? 反応や精製だ、と化学工業の人は答えるかもしれない。加工や組立だ、と機械工業の人は考えるだろう。いずれもモノの形や性質を変える製造工程が価値の源泉だと信じている。

一方、搬送だの保管だの検査だのといった作業は、モノに直接の影響を与えない。だから、物流や品管部門は付加価値を生み出さない、余計者のように扱われがちだ。事実、物流部門はまっさきにアウトソーシングと人員削減の対象にあげられる。

ところで、よく考えてほしい。顧客に製品を販売するとき、その製品が消費地から500km離れた地点にあったら、顧客は買ってくれるだろうか。その製品が壊れやすかったら、誰が喜んで買うだろうか。だから、顧客が必要なときに、必要な場所で、必要な信頼性を提供する物流や品管の仕事は、あきらかに価値を付加しているのだ。

付加価値はふつう、製品仕様の差別化で生み出されると考えられている。それは確かに事実だ。しかし、提供場所と時間(納期)や、安心料(保険料)もまた、付加価値をつける有力な手段なのだ。

そして、もうひとつ、誰もが忘れがちな点がある。それは、販売業務それ自体は、製品に価値をほとんど付加しないという点である。だから、営業部門が物流部門を下に見るような組織があったら、その企業はどこかおかしいと考えた方が良いだろう。
# by Tomoichi_Sato | 2006-07-13 00:02 | ビジネス | Comments(0)

「設計管理」の必要性(2)--海外リソースの使い方

“名選手必ずしも名監督ならず”--野球のことわざだ。プレイヤーとしての個人技量がいかに優れていても、それが必ずしもチームの采配の上手さを意味するものではない、とこの言葉はいっている。サッカーでも、たぶん事情は同じなのだろう。似たような言い回しが映画の世界にあるかどうかは知らないが、映画監督で俳優出身者は少なく、名優となるとデ・シーカやチャップリンなど、数えるほどしかいない。

日本の製造業における設計部門は、監督のいない映画のようだ、と前回書いた。設計、ことに基本設計は、かなりの程度まで個人の技量や創造性に左右される。しかし、今日、設計者が一人だけで、ものづくりの全てを決めることなどできない。さまざまな設計関連作業が、チームワークを保って、段取り良く進まなければならない。この、映画監督にあたる役割が、専門職として認知されていないのである。

その弱点は、日本企業がアジアなど海外に設計協力を求める段になってくると、てきめん表われてくる。中国であれマレーシアであれインドであれ、海外の会社に設計を外注するのが、はっきりいって下手だ。相手が独立企業や合弁だから言うことをきかない、との言い訳もときおり聞くが、100%子会社だって御しにくいのだ。だから、せっかく海外に設計拠点を作ってコスト削減をするつもりが、日本から大勢を支援のため派遣して、費用は元の木阿弥、かえって時間はよけいにかかった、という例が少なくない。

その理由は、しばしば相手国の文化のせいにされる。中国人は自分勝手な“砂の民”だ、インド人は理屈っぽく尊大で、マレーシア人は南洋の怠け者、という訳だ。不思議なことにわが国では、文化人類学を学んだ訳でもないのに、文化を語りたがる技術者がやたら多い。文化論に見えてそのじつ、たんなるアジア人への偏見を合理化しているのに過ぎないのだが。

しかし、オフショア設計外注がうまくいかない本当の理由は、異文化ギャップではない。それは、同じ業界の欧米企業と比べてみると明瞭だ。彼らは、すくなくとも我々より上手にアジアのリソースを使いこなしている。文化の差異なら彼らの方がハンデが大きいはずなのに。

その差はすなわち、『設計管理』能力の差なのだ。彼らのやり方は、たとえばこんな風だ:

* 設計という大きな仕事を、基本設計・電気設計・機械設計・・といった小さな職務単位に分解すること(WBS化)、
* それぞれの職務単位で、インプットとアウトプットと計算ツールを明確にすること、
* 進捗のプロセスを定義すること、
* 納期から逆算して各作業期限を設定し、隘路(クリティカル・パス)を把握すること、
* 文書と図面のリストを最初に作成し、図面番号と検索手段を定義すること、
* 要確認事項のトラッキング・リスト(To Do List)を作って追うこと、
* 設計上のリスク・ファクターを明確にすること、
* 設計者間の行き違いやコンフリクトを調整し、意志決定権限と責任範囲を定めること、

そして,

* 以上のプロセスを文書で明文化し、誰でも及第点のレベルでは遂行できるようにすること

である。

ひとつひとつをとれば、やっていることにそれほどの違いはない。だが、ここには設計者個人の力量に依存しないための方法論がある。少なくとも、設計はマネジメントが必要だ、という醒めた認識がそこにはある。エンジニアが年功序列で管理職になれば、そのまま管理ができるはずだ、とは単純に考えない。

現実には、欧米人にだってマネジメントの上手下手は歴然と存在するし、だからDilbertのマンガみたいな笑い話も生まれるのだろう。私の見聞きした経験では、英米の企業はどちらかというと組織でシステマティックに設計を進めるのがうまいし、フランス・イタリアあたりの企業では、ごく少数の天才的なエンジニアが発想して大多数がそれにしたがって実現する、という印象を受ける。そういう意味では、彼らの間だって文化のギャップは存在する。

だが、少なくとも彼らが文化のギャップを理由にして、設計マネジメントの不在を言い訳した例をきいたことがない。マネジメントは、プロセスである。職位や人格や文化ではないのだ。

(追記)筆者の勤務先である日揮には、幸か不幸か「エンジニアリング・マネジメント部」という部署が今のところ存在する。これはエンジニアリング会社の得意なマトリクス型組織の一例である。
# by Tomoichi_Sato | 2006-07-01 12:49 | ビジネス | Comments(0)

「設計管理」の必要性

私の好きな米国のマンガ"Dilbert"にこんな話があった。セクレタリー(秘書業)の低い地位にいやけがさした若い女の子が、技術職になりたいと思い立ち、同僚の女性エンジニアであるアリスに相談に行く。アリスは彼女にこういう。

アリス「あなた、エンジニアになるには、何年もの訓練が必要なのよ。」(ふと上司を思い出して)「・・でも、エンジニアのボスになるには、何の訓練もいらないの。あれって、スキル不要の、苦労なき労働なのよね。」

すると彼女はこたえる。「だったら、私にもできそうね。」 

米国のハイテク企業を舞台にしたマンガ"Dilbert"には、無能を絵に描いたような部長が出てきて、よく私たちを笑わせてくれる。この部長ときたら、ネットワーク回路図とプロジェクト工程図を見分けられるかどうかさえ疑問だが、それでも『リーダーシップとは』などと経営論の片言を口にして、必要もないのに部下を休日出勤させたりするのだ。

上司は部下を管理するものだと、誰でも思っている。このマンガでは、技術を知らない上司が、部下を管理したつもりになっていることの愚かしさを描く。しかし、それでは、設計の固有技術をよく知っている人間ならば、設計部門をうまく管理できるのだろうか。たとえば電磁流体解析や熱応力計算が上手なエンジニアは、他のエンジニア達をうまく采配できるのだろうか?

生産工程には生産管理が必要であり、設置工事には工事管理が必要であると、誰もが知っているし、たいていの会社にはそうした名称の部署がある。ところが、「設計管理部」という部署がある企業には、まだお目にかかったことはない。ちょっと考えると不思議である。設計は管理しなくともうまく進むのか。設計が遅れて困ったり、設計の品質が低くて現場が混乱するケースは、希少な例外なのだろうか。

むろん、そんなことはあるまい。しかし、設計管理部の必要性が議論されない理由は、想像がつく。それは「管理」という語の曖昧性、そして設計者がホワイトカラーという(元)エリート階層に属することにより、おおいかくされてしまっているのだ。

いったい、管理とは何だろうか。以前も書いたように、私自身は、この曖昧な多義語がきらいなので、自分では滅多に使わない(「マネジメントと管理はどこが違うか」参照)。かわりに、マネジメントとかコントロールとかスーパービジョンとか、英語にあるカタカナ言葉を使うようにしている。しかし世間では、上司は部下を「管理している」と思っている。上司という立場になれば、部下への命令や、業績評定や、アドバイスや、宴席で上座に座る権限などを、手に入れられる。しかし、Dilbertのマンガにあったように、なんの訓練もスキルもなしで、本当に部下を「管理」できているのか? 

その典型例は、ソフトウェア産業の組織にしばしば見られる、奇妙な進化論である。平社員のプログラマが、少し経験をへるとになるとSEクラスのリーダーになり、SEもだんだんとベテランになると課長兼プロジェクト・マネージャーになる。そして、クリティカル・パスもWBSも知らないまま、プロジェクトの戦場に突入していく。引率される兵隊こそいい迷惑である。

ここには、「管理」のためには「管理技術」が必要である、という認識が欠けている。そこで、ようやく最近はPMO(プロジェクト・マネジメント・オフィス)なる別組織を作って、設計・開発の固有技術以外に、プロジェクト管理技術の専門担当者をおく企業が増えてきた。

ところがひるがえって、一般の製造業ではどうか。まだまだ、設計管理という問題意識が乏しい。その理由は、社内の人種階層制にある。生産管理部や工事管理部が存在するのは、じつをいうと製造現場や工事現場のブルーカラーを監督し統率するため、と考えられているからだ。一方、設計部門は社内でもエリート集団の場所である。一丁目一番地に住む人々が、なぜ他の部署から監督統率されなければならないのか。

そのくせ、製造業はどんどん見込生産から受注生産へとシフトしている。ますます、個別案件での設計のかかわりが増えている。製品開発設計のスピードも、しばしばネックとなっている。だから、生産システム全体を見渡すと、あきらかに設計にも課題が増えてきているのだ。

ここで、映画監督を思い出してほしい。監督は自分では演技しない。必ずしもベテラン俳優が監督になっていくわけでもない。しかし、スター俳優にシナリオを渡し、演出を指導する。そして、映画撮影の進行をコントロールする。

このような役割の人間が、製造業でも必要ではないか。多くの会社の現状は、監督のいない映画撮影のようだ。一人一人は努力し、苦心している。だが、ちっともハーモニーもストーリーもないのだ。それも、困るのが設計部門だけなら、まだしも自分のまいた種と言えるだろう。しかし、設計で発生した問題は、購買や、生産技術や、製造や、物流や、販売や、あちらこちらの離れた場所で火をふくのだ。

それでは、具体的には『設計管理』のために、いったい何をしたらいいのか。長くなってきたので、項をあらためて、また書こう。
# by Tomoichi_Sato | 2006-06-22 23:14 | ビジネス | Comments(0)

製造管理とは何か

日本の生産管理系の用語はややこしい。その最たるものが、この「製造管理」だろう。生産管理と、製造管理とは、同じなのか、違うのか。同じなら、なぜ二つの用語が並立しているのか。違うとしたら、何が違うのか。生産と製造はそもそも違うものなのか。疑念は尽きない。

生産管理』が、製造業において生産システムをつかさどるために必要な、すべての間接業務をあらわす風呂敷みたいな概念だということは、すでに書いた。生産システムの中には、工場内の生産活動みならず、設計や調達や物流にかかわる活動も、しばしば含まれる(どこまでが含まれるかは、その企業の生産形態による。個別受注生産・見込生産・繰返受注生産・連続生産・ファブレス企業等々で、そのバリエーションと守備範囲がことなってくる)。

また、同じ製造業といっても、企業の規模は様々である。社長自身が額に汗して働く町工場からはじまって、工場と本社が同居している企業、本社や営業機能がわかれて工場は生産に専念している企業、複数工場を持っている企業、そして全世界に生産・物流拠点をもっている企業まで、広いスペクトルがある。

一般に企業組織は、量的に大きくなればなるほど、機能別に分化していく性質をもっている。したがって、生産に直接間接にかかわる部門の範囲は、大企業になるほど多くなる。設計や、集中購買や、物流や、生産計画などの諸機能が、工場の外に行ってしまっているケースは珍しくない。

そのため、こうした広義の「生産」にかかわる活動と、工場内で直接作業に従事するための活動とを、区別する必要が出てくる。その場合、後者をしばしば『製造』と呼ぶ。生産は広義の概念で、製造が狭義の概念に相当するのである。そして、その製造を支えるための間接活動を指して、製造管理と呼ぶのだ。

ちなみに、英語では生産はProduction、製造はManufacturingであるが、この両者を広義と狭義で厳密に使い分けているかというと、必ずしもそうではない。たとえばMRPⅡはManufacturing Resource Planningの略と言うことになっているが、カバーしている範囲は明らかに購買も受注(販売)も含む広義の生産活動である。

もう一つ、MESという言葉もある。これは情報システム系の用語で、Manufacturing Execution Systemの略だ。もともとはAMR Researchという機関による造語で、日本語では製造実行システムと訳しているが、なんだかあまりしっくりこない。そこでしばしばこれは、『製造管理システム』とも呼ばれる。ここにも製造管理が出てくる。

しかし、これは実はなかなか穿った訳語なのである。もともとAMR Researchでは、製造業の情報システムとして、「三層モデル」というものを考える。最上位層は、本社レベルにおける生産のマクロな計画と管理である(これを「計画層」Planning Layerとよぶ)。最下位層は、工場現場における機械設備の運転と制御である(「制御層」Control Layer)。そして、その中間に、工場の製造手配と進捗把握のための活動が来る(これを「実行層」Execution Layerとよぶ)。

これらの階層は、そのまま働く人間の職位につながっている。計画層は本社の生産企画部門、実行層は工場のホワイトカラー管理職、制御層は現場の職工である。また、情報システム的に言うと、最上位のERPシステムと、現場の制御システムをつなぐ立場として、製造実行システムMESが来る、という位置づけになる。整理すると次のような形だ。

(1)計画層-本社管理者-年月単位・工場単位・製品群単位のマクロな視点-ERP
(2)実行層-工場管理者-月週日単位・工程単位・品目単位の視点-MES
(3)制御層-現場運転員-週日時単位・機械単位・ツール単位の視点-PLC

むろん、これは類型化したモデルであって、いつもこの通りとは限らない。本社で、時間単位のスケジューリングをしている会社もあれば、現場班長が半月分の差立てを決めている会社も知っている。ただ、こう整理すると分かりやすいのだ(詳しくは、工業調査会・刊「MES入門」をご参照いただきたい)。

そして、(1)が広義の生産管理、(2)が狭義の製造管理、にそれぞれ対応していることが分かるだろう。広義とか狭義とかは、すなわちマネジメントのスコープ(責任範囲)のことを差しているのだ。

だから、ERPシステムで生産管理までやるべきだ、とか、いや無理だ、とかいった議論は、そもそもナンセンスなのである。生産管理といい製造管理といったとき、どこまでが必要な管理の粒度(視点の細かさ)なのか、そして判断の自由度をどこまで下ろすべきなのか、それは生産システムの質に依っている。そこの議論を抜かしたまま、情報システムベンダーや経営雑誌の批評に自分の判断をゆだねては、いけない。
# by Tomoichi_Sato | 2006-06-12 00:18 | ビジネス | Comments(0)