時間の量から時間の質へ

自分はどちらかというと夜型の人間である。こうして、サイトにアップする文章を書いているのも夜のことが多い。まわりが暗くなり、あたりが寝静まって、音も光もレベルを落としたときが一番、思考に集中できる。以前、『静寂の価値』(「考えるヒント」2004/08/20)にも書いたが、雑音に囲まれBGMをかけながら数式や文章をひねったりするなど、まったくできない。

私の場合、朝一番にその日の仕事のTo Doリストを見ながら段取りと手順を考える(最近はこうした時間管理術の基本を「パーソナルPM」などと呼ぶ人もいるようだ)。その際、込み入った文章をつくる作業はどうしても夕方以降にスケジューリングすることになる。最近は以前より早めに出勤する習慣にかえたが、だからといって朝一番に頭が集中できる訳でもないところがつらい。夕方から用事や会合がある日の多い週は、成果物がなかなか上がらないことになる。だから、私の場合、集中できる夕方から夜の時間をいかに確保できるかが、仕事の能率を左右するわけだ。

それで、昼間は何をするかというと、いわゆる“管理”をしている。これは幸いにも、中間管理職という種類の動物には、いくらでもついて回るような仕組みになっている。プログレス・レポートの数字を集計したり、ミーティングの議事録を整理したり、出張承認をしたり、部下の設計書に些細なミスを見つけてインネンをつけたりといった、高邁ではあるがあまり集中力のいらない軽微な労働である(ジョーダンですよ社長。本気にしないでください^^;)。

しかし、管理職になる以前、すなわち会社の付加価値にもう少し直接的貢献をしていた時代には、昼間も仕様書や設計計算の仕事をしていた。そして、生産性は当然ながら夜間の集中時よりもずっと落ちていた。周囲の雑音や大声が障害になる。なにより、昼間は仕事への割り込みが多い。上司に呼ばれたり電話がかかってきたり。少し能率が上がってきたところで、すぐスローダウンしてしまう。

私の勤務する業界では、仕事量を計る基準として、マンナワー(Man-hour、人時)を使う習わしだ。むろん人日や人月ではかる業界もある。いずれの単位を取るにせよ、人数と時間の積は、人件費コストを算出する指標としては適当だろうが、仕事量の尺度としてはまったく不適当だ。それは、昼間だと2時間かかるフロー図の作成が、夜だと1時間以内でできてしまうことからも明らかだ。ましてや、集団の仕事においてはミス・リーディングでさえある。

あるまとまったプロジェクトが、5人がかりで12ヶ月、つまり60人月かかる、と仮定しよう。この仕事は、倍の10人を投入すれば6ヶ月でおわるだろうか。60人投入すれば一月で、1,800人投入すれば1日で済むか? むろん、そんなバカなことはない。人月という「量としての時間」だけでは、開始から終了までの期間という「線という時間」は出てこないのだ。では、その両者をつなぐ物は何なのか?

その答えは、「並列性」と「タスク集中度」である。並列性とは、その仕事を細かく分けて同時並行に進められる程度である(コンピュータ・アルゴリズムの世界における並列性の概念を思い出せばいい)。たとえば100通の封筒に宛名と切手を貼る仕事は、1人でやるより2人でやる方が2倍効率が良い。他の担当者と関わりなく、各自が進められるからだ。しかし、100枚のタイルに絵を描いて、大きな壁画をつくる仕事では、完全に人数に比例して効率は上がらない。どうしても他人とのインタフェースが発生するからだ。まして、ブロックを下から順に100枚積む仕事となると、並列性はさらに損なわれる。

リソースを追加投入してタスクの期間を短縮することを、PMBOK Guideでは「クラッシング」と呼ぶ。クラッシングが可能になるためには、そのタスクの並列性が高くなくてはならない。一般に力仕事の方が並列性は高い。仕事に内部構造があって、相互の連関性や依存性が高いほど、クラッシングはききにくくなる。システム設計はその典型だろう。

もう一つのポイントである「タスク集中度」は、どれだけ連続した時間を一つのタスクに集中できるかである。“集中”には二重の意味があって、雑音抜きで精神集中できる時間、という面と、複数案件のかけもちをせずに一つの仕事に専念する、という面がある。いずれも、とくに思考を要するタスクにおいて重要である。逆に言うと、ある仕事が50時間を必要とするというときは、それは「連続して集中できる50時間」が必要だ、と意識して使うべきなのだ。細切れな1時間を50回足しても、それは50時間にはならない。それが質のある時間ということである。

時間の量だけでなく時間の質を問題にしたければ、割り込みを許して時間を細切れにしてはいけない。そのためには、直近の予定は固定する必要がある。そして、自分自身を予約してしまうことだ。サラリーマンの場合、これは自分一人の努力だけではなかなか勝ち取れないだろう。だから私は、朝一番にTo Doリストを見て一日のパーソナル・スケジューリングをすることを皆にすすめるのだ。ほんのわずかな時間である。整流のために時間を取らないことが忙しさの原因だということに、みんな早く気づくべきだろう。
# by Tomoichi_Sato | 2007-04-19 23:38 | 時間管理術 | Comments(0)

時間、売ります

まだ大学生の頃のこと。サークルの部屋に、卒業した先輩が遊びに来た。役所に勤めて、ぱりっとした背広を着込んだ彼が、こう言うのだ。「働いてみたら、『就労とは自分の労働時間を売ることだ』という経済学のテーゼは、実感とは全然ちがうことがわかったよ。」--つまり仕事とは、使命感をもってするものであって、給料のために自分の時間を売買取引することではないのだ、というのが彼の説明だった。またそうでなければ、とても良い仕事なんてできやしない。そう語った彼の言葉を、今でも覚えている。

やがて、自分も就職した。同業のライバル会社に入社した同期の友人とあったら、彼は「部署に配属になったら、まずタイムシートなる表を説明された。毎日、どの仕事で、何時間働いたかを逐一記入させられる。エンジニアリング会社って、こんなところまで人を管理するのか! とあきれた。」と憤然としていた。これも忘れられないセリフだ。

ところで、私自身の感覚は少しちがった。私は働いた時間をタイムシートにつけることに抵抗はなかったし、自分は会社と契約関係にある、とも思っていた(今でもそう思っている)。たぶんこの二人に共通していて、私に欠けていたのは、“仕事とは使命感ややりがいをもってなすべき創造的活動であり、それに従事している人間は労働時間などで事細かに計って管理されるべきではない”という信念だったのだろう。自分の仕事に対する自負心、といっていいかもしれない。私が『時間管理術』という本を書いて、主人公を新米のマーケティング・マンに設定したとき、じつは最初に思い出したのがこの議論だった。

「ホワイトカラー・エグゼンプション」の議論が最近かまびすしい。ホワイトカラーは裁量範囲の多い、知的で創造的な業務についているのだから、仕事の成果で給与を測るべきであり、工場労働者のように残業したから時間給をいくら、と払うのにはそぐわない--これがホワイトカラーの“エグゼンプション(適用除外)”の主張だ。近年、フレックスタイムや年棒制、裁量労働制などの事例が増えてきたが、それをもっと徹底して、何時間働こうが残業代は一切なし、きまった給料のみ、というやり方である。成果主義とも通底する思想だ。

ところで、このホワイトカラー・エグゼンプションの主張は、上にあげた二人の考えに、内容的に共鳴することをお気づきだろうか。創造的な業務であり、細かい管理にはそぐわない。だからタイムシートなど不要だ、となる。それでは、自分たちの仕事の『成果』はどのように量るのだろうか。本当に計れるのだろうか? まさか仕様書や建議書のページ数が尺度ではないはずだ。

じつは私も新入社員の集合研修で、ある言葉を聞いた。それは、「わが社のエンジニアは、マンアワーという単位で仕事量を計り、その価値を7,500円という値段で顧客に請求してビジネスをしている」という説明だった。「だから諸君。この部屋に100人以上集まって、1時間私の話を聞いているということは、会社は100万円近くのコストとひきかえに、君達の教育に投資しているんだよ。」と言葉は続いた(値段は当時)。

労働者は会社に時間を差し出して時給をもらっている。しかし、会社もエンジニアの時間を売って商売にできる、という感覚は、そのときまで私にはなかった。でも、考えてみれば弁護士なども同じビジネスモデルではないか。勝ち負けの成功報酬や書類のページ数で料金を決めるわけではない(事実、弁護士もふつうタイムシートをつけている)。以来、私は時間を売っているという感覚から離れられない。

医師だって、本来はそうであるはずだ。診察料とは、医師の時間に対する費用のチャージである。その頃から問題になっていた「薬漬け医療」は、結局、医師の診察料が安すぎるために、薬の差益で医療ビジネスを成り立たせざるをえないことから発生していた。もし医師がきちんと診察料を得られる保険の仕組みになっていれば、ていねいに患者を診てもちゃんと引き合うはずなのだ。

およそ『プロフェッショナル・サービス』、プロと名前の付く専門職の仕事とは、そうしたものなのである。成果ではなく、時間を売る。いいかえると、モノではなく、知恵とアドバイスを売る。なぜか。それは結局、その知恵を自分の問題解決につなげられるかどうかが、それを受け取った者に依存するからなのだ。知的な仕事の成果に価値があるかどうかは、作り手だけの問題ではない。じつは作り手と受け手の共同責任なのだ。この点を、多くの議論は忘れている。忘れたまま、見かけだけの成果主義に走っている。

(ちなみに、今どき工学部出の技術者なんて二束三文だが、古代ギリシャでは、医師と法律家と技術者は3大プロフェッションとして尊敬されており、同時に高い倫理も求められていた)

それでも、たいていの会社は成果主義や年棒制に走るのを止めないだろう。1日24時間の限られた持ち時間の中で、どう会社の求める「成果」を発揮するのか、考えなくてはならない時代になったようだ。そのとき大事になるのが、(本の中にも書いたように)「長さとしての時間」と「量としての時間」の区別である。あるいは、質としての時間と量としての時間、といいかえてもいい。今回はこの問題を議論するつもりだったのだが、例によって長くなりすぎてしまった。この続きは、次回書こう。
# by Tomoichi_Sato | 2007-04-10 23:42 | 時間管理術 | Comments(0)

日数基準による発注点と安全在庫の計算法

従来の在庫理論は物量、すなわちモノの数量をベースに構築されてきた。部品資材は大量に発注して安く買いたい、発注の手間も省きたい、でも欠品も避けたい--そこでどうすべきかが、問われてきた。これは、生産管理学発祥の地である米国が、抜きがたい大量生産志向をもっていたことと、多少関係があるように思える。

ところで、すでに何度も書いてきたように、在庫とは時間の缶詰めでもある。ストック在庫を持つ理由は、あらかじめ在庫の形で時間を先取りしておいて、受注から納品までの製造リードタイムを短縮したいからだ。これを考えると、在庫理論は物量基準ではなく時間(日数)基準でアプローチしたほうが有用なこともありそうだ。事実、発注点の決め方は日数基準の方が簡単になる。今回はそれを説明しよう。

発注点方式による在庫コントロールが適するのは、ABC分析でBCランクに分類されるような、使用量が比較的小さいものだ。毎日何十個も何百個も使用される部品はむかない。どちらかというと、ぽつりぽつりと消費されていくタイプの品目が適当だ。たとえば、受注生産、それも個別受注生産の企業なら、間歇的に受注があって、そのたびに部品が必要になるから、ストック在庫の部品はこうしたパターンで消費されていくだろう。

個々の受注(=消費)が間歇的で、一定期間でならせば平均的には安定しているが、受注が互いに独立している(周期性もなく団子状態でも来ない)としよう。このとき、受注の間隔をしらべてみると面白いことがわかる。受注間隔を横軸にとり、その頻度を縦軸に(ただし対数で)とって片対数グラフを描くと、右下がりの直線になるのだ。これをポアソン到着という。単発的で比較的頻度の低い出来事はみな、ポアソン到着になることが知られている。たとえば(楽しい例ではないが)地震の生起はこの形になる。だから、大地震の直後には余震が起きやすい。間があくほど、確率は低くなる。しかし間隔の平均値は存在して、実績から計算できる。

さて、いまある部品の消費実績を調べたら、平均τ日の間隔でぽつりぽつりと使用されることがわかったとしよう。一方、この部品を購買手配してから納入されるまでの購買リードタイムはL日だとする。たとえば、鋳物部品で、使用間隔は7.5日間、購買リードタイムは1ヶ月(30日)としようか。

発注点の基準は、購買リードタイム期間中に消費される数量だ。それはL/τで与えられる。この例では4個になる。逆に言うと、4個は30日分に相当する。発注点のレベルを日数で測るなら、それはL日(すなわち30日)になるのである。

ところで、これは安全在庫を無視したときの数字だ。実際には、受注間隔に変動があり、しかも短い期間に続けてくる確率の方が高いわけである。だから安全在庫は必要だ。こちらはどう決めるべきか? そもそも安全在庫とは理屈と現実をすりあわせる潤滑油のようなもので、安全在庫のない在庫管理なんて、オイルを入れずにギアボックスをまわすも同然である。

ところで、平均間隔τ日でポアソン到着する出来事(部品使用)が、一定期間L日内に何回発生するかは、じつはL/τだけで決まる。その確率パターンはやや右に尾を引いた山形になる。上記の例では、次のようなグラフになる。つまり、1ヶ月間に3個消費される確率が約2割、4個消費される確率も2割ある。ぜんぜん出ない確率も、2%ほどある。5個以上出ていく可能性、つまり欠品の危険性も、かなり(37%)ある。

面白いことに、このグラフの形はLとτの比だけで決まるから、L=20日、τ=5日でも同じ結果になる。購買リードタイムの絶対値にはよらないのだ。このグラフの形をポアソン分布と呼ぶ。また、ポアソン分布の標準偏差は平均値の平方根になる、といった性質があるのだが、ここではちょっと忘れておこう。

さて、この例で、欠品の危険率を5%以下におさえたかったら、どうすべきだろうか。答えを先に言うと、発注点を7個におけばよい。すなわち、安全在庫=3個である。ちなみに、発注点(日数基準)をP、購買リードタイムをL、平均使用間隔をτであらわすと、

P = 1.4 L+1.1τ (日)

で近似的に求めることができる。上の例で言うと、約50日分強だ。実に簡単である。このように、日数基準の生産管理理論の可能性は、もっと研究されていい分野だと、私は考えている。
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# by Tomoichi_Sato | 2007-04-03 00:36 | サプライチェーン | Comments(0)

確定購買と見込み購買

安全在庫の項にも書いたとおり、在庫には、用途の決まっていないストック在庫と、用途の決まっている(引当済みの)フロー在庫がある。これとよく似た区別として、部品在庫管理における、常備品・引当品という呼び方もある。ただし、常備品の在庫の中にも、じつは引当済みの分(フロー)と、未引当の分(ストック)とがあるわけだから、両者は厳密には別の概念である。

ところで、購買発注を考える際にも、この二種類に対応する区別が有益である。私はこれを「見込み購買」と「確定購買」と呼んでいる。前者はストック在庫のための発注であり、後者は使用予定の決まった購買手配である(入荷してから使うまでに時間がある場合にフロー在庫となる)。なお、理屈から考えると、受注生産の企業はすべてが確定購買になるはずである。しかし、完全な受注生産という形態は実際には存在しない。どの企業も納入リードタイムを短縮するために、なんらかの見込み手配を行なっているものだ。これはちょうど、注文を聞いてから魚を釣りに行く料理屋がないのと同じである。

ところで、古典的な在庫・購買管理理論では、この両者を区別していない。というより、計画生産における購買発注論が不在だというべきかもしれない。その問題点は、<発注点>方式において典型的に現れてくる。

たとえば、向こう1ヶ月間の生産計画が確定しているとしよう(これを、計画の<タイム・フェンス>が1ヶ月であると表現する)。あなたは在庫・購買の担当者だ。さて、部品Xはこの期間内に合計120個、生産に使われる(引当)予定だ。汎用部品で消費量は比較的安定しているため、ABC分析の結果、Xは発注点方式で在庫を維持することになっている。注文すると翌日に納品される。今、現在庫量で40個あり、発注点は25個、発注ロットサイズは100個だ。さて、あなたならどうするだろうか?

在庫管理理論にしたがえば、こうだ:生産計画を見れば何日目かに在庫が25個を切る予定がわかる。その日になったら、100個発注をかける(発注書は今日、印刷しておいてもいい)。翌日以降はまた推移を見ていくわけだ。ところで、まったくの素人をここに連れてきたら、どうするだろうか? おそらく、120-40=80個の不足分を、在庫が無くなる前日に手配するだろう。月末の時点で、あなたのやり方なら40+100-120=20個の在庫をかかえ、素人は在庫ゼロである。どちらが経済的だろうか。その違いはなぜうまれたのか?

あなたのやり方は発注点方式であり、これは「見込み購買」の典型である。一方、素人のやり方は「確定購買」である。もし本当に生産計画が確定しているなら(ここがミソだが)、部品Xは確定購買でいけるはずなのだ。

ところで、部品Xの購買リードタイムが1週間だったら、どうだろうか? この場合、次の生産計画が決まるのは1ヶ月後だとしたら、素人流の確定購買では、ちょっとだけ気持ちのわるい部分ができる。それは、はたして月末在庫をゼロにしていいのか、という点だ。翌月の最初の1週間にXを使用する予定が入ったら、欠品状態になってしまう。だからあなたは素人さんに、「最低1週間分の在庫量は残しておいた方がいいよ」とアドバイスしたくなるだろう。確定購買に見込み購買の要素が入ってくるのだ。もっとも、生産計画が半月ごとに見なおされ、計画確定期間がシームレスに連続していったら(これをローリング・スケジュールという)、こうした心配は不要になる。

では、部品Xの購買リードタイムが1ヶ月以上だったら、どうなるか? 素人さん流の確定購買では、アウトである。今から手配しても、80個の不足はどうしようもない。もっとも、半月前の前回計画時点に手配してあって、その納入予定があるのなら別だが、その数量が80個以上かどうかは、(今月後半の計画は不確定だったのだから)何の保証もないことになる。一方、発注点方式のあなたの場合はどうか。現在庫量がまだ発注点を切っていないのだから、納入予定もないだろう。やはりアウトである。

まとめてみると、こうなる:
(1)購買リードタイム < 計画のタイム・フェンス の場合は、確定購買
(2)そうでない場合は、確定購買+見込み購買、または見込み購買のみ

見込み購買には不確定要素があるから、かならず余剰在庫や欠品のリスクがつきまとう。したがって、これを減らしたければ、購買リードタイムを短縮するか(それにはベンダー側の協力がいる)、あるいは計画のタイム・フェンス、つまり計画確定期間を確保するかの、いずれかの努力が必要になる。計画確定には、営業部門の協力も必須だ。だから、<S&OP>(販売・操業計画)が大事になるのである。
# by Tomoichi_Sato | 2007-03-26 23:09 | サプライチェーン | Comments(0)

流れをつくる

とある大企業の工場管理棟の一室。客先から示された図面を前にして、私と同僚は少しの間、絶句していた。図面は新工場の平面レイアウト図。作成したのはトップクラスの建築設計事務所で、背後では有名なゼネコンが手伝っているらしい。ややあってから、私は口を開いた。「入荷した物の流れがよく分からないのですが、説明していただけませんか。」

工場を見学者に説明するときは、普通どこでも物の流れにそって順番に説明して歩く。原材料を入荷して、検品して、入庫・保管して、払出して計量・裁断して、製造の上流工程からラインに供給し、加工・検査をへて付加価値のついた製品として出荷されるまで、順に見ることになる。小さなサプライチェーンと言ってもいい。工場見学とは、製造業の社内サプライチェーンを簡単にたどるツアーなのだ。

ところで、今日の工場はどこも多品種少量化が進んでいて、きまった製品を大量生産し続けるような所はほとんど無い。コンベヤラインがあっても、品種は混流で流れていたりする。だから、物の流れも情報の流れも、錯綜しやすい。それをどうさばくかが、その企業の生産管理の実力の見せ所である。また、工場のレイアウトは、その企業の生産管理思想を体現したものでもある。製品に設計思想があらわれるように、工場にはサプライチェーン・マネジメントの思想があらわれる。

その思想性は、工場を見学すると一発で明らかになる。設計思想のない(あるいは貧弱な)工場では、製造ラインしか流れが見えない。製造にはさすがに崩せない順序があって、ふつうはその順に機械や作業区がならぶからだ。しかし原材料・中間部品・製品の物流にかんしては、無思想ぶりがあらわになる。現場を見るとごちゃごちゃにモノがあふれかえっているか、あるいは無駄にスペースがあるかどちらかだ。

私が見たその新工場のレイアウト図面は後者だった。入荷した物はフロアを半分横切って保管庫(自動倉庫)にいくらしいが、入荷検品やパレット移載の手順が見えない。そこでも仮置き・滞留は必ず起きるはずだが、漠然としたスペースがあるだけだった。入り口と出口は分ける、というのが工場設計の基本である。入口と出口を分けることで、モノの流れを作るとともに、FIFO(Fisrst in, first out=先入れ先出し)を確実にし、またロケーション管理の手間を省く。こうすると、必然的に滞留時間も目に見えるようになる。こうしたことが、そのレイアウト図には何もうかがえなかったのだ。

ところで、ここまで読んでこられたあなたが、仮に開発や製品設計にたずさわるホワイトカラーで、工場とは無縁の場所に座っておられるなら、“なあんだ、こんな話、自分に関係ないや”と思われたかもしれない。しかし、じつは関係大ありなのだ(私の話はいつも前半が長くて申し訳ない)。なぜなら、モノの流れにあてはまることは、ほぼ情報の流れにもあてはまるからである。

たとえば、あなたの机の上にあるメールボックスや書類箱は、FIFOになっているだろうか? いつでも最初にきた書類が最初に手にとれるだろうか。あなたのタスクやTo Doリストは、自動的に優先順位が決まるようにできているだろうか? あるいは一日のはじめにTo Doリストの優先順位を決めたら、その日のおしまいまで、それを守っているだろうか。

今日の設計や開発の仕事もまた、複数の事案をマルチでこなさなければならないようになっている。そのとき、情報の社内サプライチェーンにかんして、設計思想はあるだろうか。おそらく、大方の会社には欠けていると想像する。だから、ホワイトカラーの執務する場所は、どこでもごちゃごちゃな印象を与えるのである。紙を捨てて各人がノートPCをもち、ペーパーレス化をすすめれば、一見オフィスの中はすっきりする。しかし、その場合、今度はサーバの中がぐちゃぐちゃになるだけだ。工場のラインはきれいに整頓されているが、倉庫の中は混沌状態、というのに似ている。

え? 私の仕事はFIFO では処理できません? それはなぜですか。上司に呼ばれたり、電話やメールで割込みがかかってくる--なるほど。でも、なぜ、いちいちメールをあけて中身をチェックするのですか。仕事のできる人ほどメール処理の時間帯をあらかじめ決めている、という米国の調査結果もありますが。いや、そもそも、仕事に集中するために、時間帯を決めて「ノー割込みタイム」を実践している会社もありますね。その間は打合もしない、電話もかけない、とらない。これがオフィスワークの設計思想というものではないでしょうか・・

工場では、FIFOで処理できないモノを保管するには、ロケーション管理が必要になる。そのためには保管場所を決めて番号をふり、またモノにも現品票を貼ってIDをふる訳である。だとしたら、設計・開発タスクにも、きまったID(すなわちWBSコード体系)が必要だ。指示票としてのTo Doリストもいることになる。サーバのフォルダ名称だってファイル名称だって、規約にしたがってつけるべきだ。電子メールのタイトルだってそうだ・・

冒頭のケースでは結局、建築構造の制約は守りながら、入荷物の通り道を確保し、倉庫への入口と出口を分けてパレットをハンドリングする仕組みを提案することになった。フローですむ部分とストックにする部分を切り分ける。そして両者はそれぞれ適したコントロール方法を考える。これが「流れをつくる」ことの基本である。そして、以前『「設計管理」の必要性』(2006/06/22)でも書いたように、これが欠如しているオフィスでは、ホワイトカラーはいつまでも多忙の乱流状態から抜け出すことができない運命なのである。
# by Tomoichi_Sato | 2007-03-18 22:52 | サプライチェーン | Comments(0)

講演のお知らせ:

来る3月22日(木)18:30から、日本能率協会(神谷町)での「生産革新フォーラム(通称MIF研究会)」で、『サプライチェーンの貢献価値を考える~業界別スマイルカーブの理由~』と題する講演を行ないます。ぜひご来聴ください
# by Tomoichi_Sato | 2007-03-16 00:07 | ビジネス | Comments(0)

To Doリストなんか書いている時間がない

日本の製造業が景気回復の手応えを感じはじめてから、もう2年近くたつ。業種・地域ごとに濃淡の差はあれども、いまはどこの会社に行っても、多忙な状況だ。10年以上続いたひどい不況の時代に、企業は可能なかぎり人減らしをすすめたから、今さら急に業容が拡大したって、体制が追いつかないのは事実だろう。

製造現場はそれでも、派遣労働者をあつめてきて何とかしのいでいるみたいだが、技術者となると、そうはいかない。その業種・その会社の技術内容をよく知った人間でないと、エンジニアはつとまらないからだ。おかげで、どの会社でもエンジニアの労働時間がふえる一方だ、このままでは過労で倒れそう、と声なき悲鳴が聞こえる昨今である。

そんな現状があるからだろう。人・モノ・金につづく経営資源の第4の要素として、『時間』があらためて注目をあびるようになった。会社組織として、時間をいかに管理していくか。それは納期短縮にも製品開発競争にも人事施策にも人件費削減にも直結する。例の「ホワイトカラー・エグゼンプション」の議論も、ある意味その一環にちがいない。

ところで、人や金といった他の経営資源とちがって、時間は管理できない。時間は所有できないからだ。万人に共通に与えられ、使わなくても手元から消えていく。お金の予算は、ゼロになれば「無い袖は振れない」となって、使えなくなる。しかし、時間は足りなくなっても無限に消費(補給)可能だ。だから、どんどんプロジェクトの予定が遅れていく訳である。ここが、タイム・マネジメントの基本的な問題点である。

いうまでもないが、時間を占有できない我々にとって可能なのは、「時間の使い方」のコントロールである。つまり、時間の「予算」(スケジュール予定)・「実行記録」(日誌とTo Doリスト)・「決算」(進捗と生産性評価)の3つが、がエンジニアのための時間管理術において、中心の技法になるのである。

ところで、こうした話をすると、よく“ぼくらは忙しすぎてTo Doリストなんて書いていられませんよ”と反論されることがある。毎日が忙しすぎる。だからうまくスケジュール管理はしたい。でも、自分がかかえているタスクのリストは書きたくない。なぜなら“忙しすぎるから”だ、と話が円環を描く。聞いているこちらは、酒飲みの国を訪問した「星の王子さま」みたいな気分になってくる。では、どうしたらいいのか?

じつは、「忙しすぎてできません」というセリフには、どんな場合にも裏側の意味がある。これは、“自分が本当に多忙かどうかはともかく、自分の優先順位評価から見ると、それは優先度が低い仕事です”といっているのだ。ウソだと思ったら、押し売りの電話に自分がどう答えるか思いだしてほしい。「今忙しいから」といわないだろうか?

To Doリストを書いたり、日誌をつけたりすることに対する“忙しすぎるからできない”との言い訳も、同じ意味である。「そんなの、やってもやらなくても仕事の結果にはかかわらない。だからやりたくない」と考えているわけだ。タイムシートはつけ忘れたら残業代にさしつかえる。しかしTo Doリストは給料に影響しない。だから自分にとって本来の仕事ではない。第一、書いている時間があったら、やってしまった方が早いじゃないか。

ここには、どうやら根本的な誤解があるらしい。それは、To Doリストは宿題(タスク)をもらった人間が書くものだ、という誤解である。もしも、あるタスクが誰かからの指示によって発生したならば、それは指示(発注)する側の人間が書きこむべきなのだ。それが、作業のオーダーという意味なのである。

考えてみてほしい。設計担当者が工場の製造現場に対して、何らかの製造指図書や作業指示書を出す場合、それはエンジニアが書くのが当然だと、誰もが思うだろう? だとしたら、ホワイトカラーが指示や依頼でタスクを他のホワイトカラーに渡したときだけは、なぜ受け取った側が紙に記録すべきだと考えるのか? 頼んだら、頼んだ側が忘れないよう心がけるべきではないか。

べつに、他人のTo Doリストに直接書き込むのではなく、ミーティング・メモやメールの形で書いてもいい。依頼した側と依頼された側が誤解なく、忘れないようになっていれば良いのである。あるいは、電子的にリストを共有する仕組みを使うのもいい。「e工程マネージャー」をはじめ、最近ではグループ内でタスク・リストを共有するツールはたくさんでている。いや、Excelで運用しても、カードに書いて渡してもいい。方法など、いくらでもあろう。

顧客からの電話での依頼はどうするか? たしかにその場合は、自分で書くしかあるまい。電話連絡票をかいて、「自分はこれこれのタスクを受け取りました」と顧客にメールで返しておく。これが由緒正しいやり方である。とくに有償サポート契約などでは、どこでもそうしているはずだ。

では、顧客や他部署からの質問はどうするか? すぐ答えられなければ、調べなくてはならない。その場合、人件費が発生するわけだ。だから、サービスフィーをもらうべし、というのが筋道になる。え? そんなの非現実的だ? --そうだろうか。たしかに、実物経済中心の今の取引慣行では、そうかもしれない。しかし、いつまでもそうでありつづけるだろうか。これだけタイム・マネジメントの意識が普及していけば、しだいに「時間のコスト」に皆が自覚的になっていくはずではないか。

人件費だけはただ、という時代は早く卒業するべきだろう。
# by Tomoichi_Sato | 2007-03-12 22:09 | 時間管理術 | Comments(0)

安全在庫とは何か

企業のもつ在庫は、引当先の決まっているフロー在庫と、引当先が未定のストック在庫とに大別できる。ストック在庫は一種の「時間の缶詰め」であり、生産リードタイムを短縮するために見込みで調達ないし生産した結果として生じるものである。さらにこれは、意図してもつ在庫と、偶発在庫(『できちゃった在庫』)に区分できる。

意図的にもつストック在庫は、さらにその意図を分析すると、中期的な計画に沿った計画在庫(たとえば季節的な作りだめや定期補修対応のための作りだめ)と、変動を吸収するためのバッファー在庫に分けることができる。いわゆる安全在庫とは、この意図的な短期バッファー在庫を指す言葉である。

在庫-┬フロー在庫(引当先の決まっている在庫・滞留)
   └ストック在庫-┬偶発在庫
           └意図的在庫-┬中期計画在庫
                  └短期バッファー在庫(安全在庫)

JISでは安全在庫を、「需要変動または補充期間の不確実性を吸収するために必要とされる在庫」と定義する。手短で簡潔な定義だが、これだけだと若干舌足らずなことにお気づきだろうか? もう少しお節介に言葉をおぎなうならば、「欠品をさける目的で」と追加したいところだ。安全在庫とは、欠品を極力さけるために置くものなのである。欠品しても平気な商売だったら(そういう「売り切れ御免」のビジネスモデルだってたくさんある)、安全在庫など必要ない。

しかし、製品販売では機会損失につながることが多いので、一般に欠品をきらう。工場でも部品材料の欠品は計画混乱要因なので、きらわれる。そこで安全在庫の必要がでてくる。

手配(購入品の場合は購買オーダー)をかけてから補充されるまで、ふつうは日数がかかる。もし在庫がゼロになってから手配していたのでは、その期間内はずっと欠品状態がつづいてしまう。そこで、補充リードタイムの期間内に消費される分を見越して発注点をきめる。1日あたり需要量が平均20個で、補充リードタイムが2週間(実質10稼働日)かかるなら、発注点は200個と決めるわけだ。

ところが、需要には変動がつきものだし、補充期間も(機械のトラブルやトラックの遅れなどで)かわることがある。手配から補充までの間に、実際は187個消費されることもあるだろうし、210個の要求がある場合もあろう。後者の場合は、途中で欠品が生じることになる。

このような変動に対応するために追加でもっておく短期バッファーが安全在庫である。安全在庫の算出方法については古くから研究があり、いろいろな提案がある。たとえば、在庫理論のわかりやすい入門書である「適正在庫のマネジメント」(勝呂隆男・著)では、古典理論の計算式として

安全在庫=安全係数×単位期間あたり需要量の標準偏差×√(最大リードタイム)

を紹介している。最大リードタイムに√がついているのは、変動に正規分布仮定をおいた結果である。安全係数は、許容欠品率に応じて決まる。欠品率1%ならば安全係数=2.33、許容欠品率2%ならば安全係数=2.06という具合である。

上記の例でいえば、平均需要量が20個/日、その標準偏差が2個/日、最大リードタイムが12日、許容欠品率を2%とすると、安全在庫=14.3個と計算できる。

いうまでもないが、「欠品ゼロ」で計算することはできない(欠品ゼロのためには無限大の安全在庫が必要になる)。このことは、生産計画には必ず失敗のリスク確率がともなうことを意味している。欠品率2%とは、補充手配を50回くりかえしたとき、1回欠品が生じる確率になる。つまり、補充手配間隔が2週間なら、2年に1度欠品になる、ということだ。

この式でむずかしいのは、『単位期間あたり需要量の標準偏差』の算定である。入出庫の実績を分析すればいい、と思われるかもしれないが、現実には間歇的な需要もあり、季節変動もあり、販売キャンペーンの影響もあり、分析はそう簡単ではない。

ところで、今日の製造業はほとんどが計画生産である。古典理論はこの点を考慮していない。季節変動や販売キャンペーン対応などは、ふつう生産計画の中であらかじめ考慮されている。したがって、安全在庫は「計画上の予測値があたらなかった場合」に対応すればいいことがわかる。この場合、次の式で在庫量を決めるればよい。
 
 安全在庫量=平均需要量×予測誤差×計画変更不可日数

くわしくは、「生産計画 ワンポイント講義」の中の『計画生産における安全在庫量の設定』を参照してほしい。
# by Tomoichi_Sato | 2007-03-06 22:48 | サプライチェーン | Comments(0)

赤信号をわたる国

知人が長い休暇を利用して、シベリア鉄道経由でヨーロッパに旅行した。シベリアを鉄道で横断して欧州に行くには、片道だけで7日間くらいかかるという。たぶんシベリア鉄道とは、それに乗ること自体が半分目的みたいなものなのだろう。列車の上でひたすら時間を無為に(有為に?)すごす点が贅沢なのだ。

帰国後の彼に感想をたずねたら、「ドイツ・フランスまで足をのばして、レンタカーで回ってきましたが、佐藤さん、フランスってのは危険な国ですね。」という。どうして?とききかえすと、「だって、あそこの国じゃみんな、赤信号でも道を渡るじゃないですか。危なくってしょうがないですよ。まったく、基本的な交通マナーも守らない。マナーが最低の国です。」というのが彼の答えだった。

そうなのだろうか。私もあそこの国に1年近く暮らしたが、幸いあまり危ない目にあった記憶がない。むしろ最近の日本の方が怖いくらいだ。しかし、彼のいいたいことはわかる。フランスでは、横断歩道の信号が赤でも、歩行者は平気でわたっていく。むろん、わたる前に、いちおう自分の目で左右は確認する。だが車が少ない、あるいは自分の足で渡りきれる、と判断したら、皆どんどん横断してしまう。自己責任でリスクテークしている、というわけだ。彼らにいわせれば、“車が一台も来ないのに赤信号で止まって待っているドイツ人はアホだ”ということになる(この両国は、お互いを馬鹿にする表現には事かかない)。

ところで、念のために統計データを調べてみると、交通事故の年間犠牲者数は日本の方がフランスより多い。ただし人口も2倍ちがうわけだから、確率でいうとフランスの方が高いのは事実だ。それでも、歩行中の事故被害にかぎって比べると、日本の方が明らかに分がわるい。赤信号をわたる国の歩行者は、轢かれる確率が日本より少ないのだった。いったい、なぜだろうか?

理由は、簡単である。あの国では、自動車の方がとまるのだ。運転する側から見ると、道路では青信号であっても、いつ人が渡ろうとしてとびだしてくるか、わからない。いきおい、歩行者のいる道では慎重になる。高速道路では気がちがったみたいに飛ばす彼らも、街なかでは安全運転せざるを得ない。だから歩行中の事故が少ないのだった。そして(ここが大事なところなのだが)、“車は止まるべきもの”と信じているから、歩行者は赤信号でも渡るのである。

逆に、日本の車は青信号では減速しない。なぜなら、歩行者は赤信号を渡らないものだという社会的な合意事項(暗黙の前提)があるからだ。日本で、赤信号を『自己責任』で毎回渡っていた日には、命がいくつあっても足りるまい。

もうおわかりだろうが、フランスと日本では、交通システムの中で、ゆずり合いのバランス点がちがうのだ。日本では歩行者が我慢し、フランスでは自動車が我慢する。これを、歩行者という一断面だけで切って、「マナーの良しあし」で比較するのはまちがっている。

ちなみに、以前紹介したイギリス風の『ラウンドアバウト』(ロータリー交差点)も、フランスには時々存在する。そしてこいつは、十分危険である。嘘だと思ったら、ためしに凱旋門の周囲をめぐるエトワールのロータリーを、あるいて渡ってみればいい。ただしその前に十分な生命保険をかけておくことをおすすめする。フランスのロータリーでは、運転者は自分の行き先の道にでることに忙しく、歩行者には注意を払っていないからだ。

交通システムは、人間と機械(自動車)と設備(道路・信号機)がつくる、典型的な多目的システムである。その中では、互いの目的を達するための相互調整(交通整理)が必要になる。調整ためには、多少のゆとり=自由度(バッファー)の存在が、システムにおいて必須となる。それが道のゆずり合いであり、あるいは車間距離である。

では、交通システムにおけるマナーとは何だろうか? それは、システムの中で自由度やバッファーを置く場所についての、無言のルールである。あるいは、暗黙の合意事項だといってもいい。そして、マナー違反とは、システムの中にリザーブされている自由度を、勝手に消費してしまうことなのだ。安定した、すぐれたシステムは、大多数の長期的な利益のために自由度を確保しておくという暗黙知を、その内部に持っている。それを個人が短期的な利益のために蕩尽しないこと、すなわち長期的利益のために短期的利益を抑制することが、「マナー」と呼ばれるものの中身である。

最近の日本の交差点では、自動車が黄信号でも赤信号でも渡りきろうとして突入してくるのをしばしば見かける。それも案外、年輩のドライバーが多い。彼らは、長年親しんだ暗黙知をどこに置き忘れたのだろうか? 社会がリザーブしている自由度を、自分の短期的利益(それもほんの数十秒の利益)のために使おうと、いつ心がわりしたのか? 

長い不況のトンネルを抜けて、日本は景気が上向きになったと言われる。しかし、その好況の中で、目前の短気利益志向がどんどん進行しているのかもしれない。私たちの社会システムは、すでに自由度を失って、きしむ音をたてはじめていないだろうか。この国の社会全体が、赤信号を渡りはじめていないだろうか? これが自分一人の杞憂であることを、私は切に願っている。
# by Tomoichi_Sato | 2007-02-25 21:53 | 考えるヒント | Comments(0)

使用者と補充者の分業

ずいぶん以前のことになるが、病院の中の調査を少し手伝ったことがある。目的は物品管理と物流動線の合理化だった。プラント・エンジニアリング会社に勤めているくせに、なぜかプラント以外の分野にしばしばかかわる巡り合わせになっているらしい。しかし、工場で用いるIE(Industrial Engineering、日本語では経営工学と呼ばれることが多い)の手法を病院内業務に用いて調べると、いろいろと面白いことがわかってくる。

その一つは、ナースの業務時間の分析である。知ってのとおり、ナースの仕事は忙しい。しかし、その中身を調べてみると、じつはベッドサイドで患者に接している看護の時間は、決して比率が高くない。それ以外に、ナースセンターにおけるさまざまな業務の時間が多く、しかもその内容をいろいろと調べてみると、申し送りや看護記録の記帳以外に、伝票書きなど雑用ともいうべきクラリカル・ワークやモノ探しの時間がばかにならないのだった。

医療の現場では、医薬品以外にも衛生材料やディスポと呼ばれる使い捨て材料、リネンなどさまざまな物品が行き交っている。いわゆる多品種少量のモノの流れである。そうしたものの多くは、ナースセンターに「現場在庫」として保管され、使用され、補充されている仕組みになっている。

そして、たいていの日本の中堅規模以下の工場と同じように、その現場在庫の管理レベルは、決して高くない。まず、在庫量が把握できていない。いや、それ以前に、モノがどこにあるか場所が決まっておらず、いちいち探さなくてはならない。見当たらないと、払出し伝票を書いて、薬局や中央材料室にもらいにいく。当然、毎回少し多めにもらってくる。使用残がでたら、ナースセンターに余剰としてストックしておき、次回にそなえるわけだ。しかし、もらってきた担当者が勝手気ままな場所におくから、シフトがかわると別の担当者は見つけられない。そこでまた払出し伝票を書いて薬局に受け取りに行く。こうして、ただでさえ狭いナースセンターは雑多な在庫品であふれかえり、しかも気づかぬ内に使用期限が過ぎてしまったりする・・。

こうした状況下で、しばしば病院の経営者は、高価な薬剤の在庫管理がいいかげんになっていることを問題視する。しかし、我々の見たところ、もっと大きな問題があるのだった。それは、ナースの時間管理上の問題、すなわち、「直接時間比率の減少」である。本来、ベッドサイドで直接、患者の看護をすることがナースの最大の仕事であるはずだ。しかし、ナースの勤務時間が、そうした直接作業とは関係のない、伝票書きだの薬局までの往復などといった間接作業についやされてしまう。これは、看護レベルの確実な低下をもたらしているにちがいない。

それでは、どうすべきか。こと物品管理に関する限り、われわれの答えは明快である。工場と同じことをすればよろしい。それは、「使用者と補充者の分業」であった。

たとえば、自動車工場を見学した人ならご存じのように、組立ラインの近くには、組立作業に必要とする多種多様な部品が、棚や箱に整理され、あるいはセット組みされて並んでいる。組立作業の従事者は、そこから部品をとって使用する。そして、ラインサイドの部品が足りなくなると、組立工とは別に、補充係の担当者が間髪を入れずに補充する仕組みとなっているのだ。だから、組立工がモノ探しだとか伝票書きだとかで直接時間を減らさずにすむ。彼らは、組立作業だけに専念できるようになっている。

物品の種類や量が増えるにしたがって、使用者と補充者を分業させるのは、最初にふれたIEの定石である。病院において、われわれの設計した解決策も、これに準じたものだった。まず、ナースセンターに物品管理に適した機能的な棚とトレーを配置する。その中に、どの物品をいくつ配備すべきか、使用実績データを分析して(ま、これが大変なのだが)決める。そして、補充作業は中央材料室の責任とする。

ナースセンターの現場在庫の在庫管理は、「定数補充」とよばれる方式がもっとも適している。これも工場と同じだ。定数補充とは、定期・不定量発注による補充だ。もっと平たくいうと、担当者が週に1~2回巡回して、トレーやボックス内の物品の残数を調べて記録する。そして、消費して足りなくなった分だけ、そこに補充するのである。在庫定数が20個だとして、今日調べたら、12個残っている(つまり前回の補充日から8個使用したわけだ)。そうしたら、8個補充して、20個に戻してやる。7個消費だったら、7個補充してやる。つねに、ナースセンターの現場在庫は一定数を確保して、品切れにならないようにするのである。あるいは、フルに物品の詰まったトレーやボックスをあらかじめ運んできて、トレーやボックスごと交換してしまい、補充詰め合わせ作業は中央材料室に持ち帰ってからやってもいい(混み合って狭いナースセンターでやるより効率的だ)。

そして、機能的な現場保管の仕組みというのは、基本的にこうしたものなのだ。これは、たとえていうならばコンビニの飲料が並んでいる冷ケース(冷蔵庫)のようなものである。買い物客はドアを開けて手前から商品を取り出し、レジに持って行く。客が使用者である。店員は、冷ケースの裏側から商品を補充する。さらにいいことは、コンビニの冷蔵庫は入れる側と出す側が分かれているため、先入れ・先出し原則が守られることだ。だから、賞味期限切れのリスクが少なくなる。

これに対し、従来の在庫管理とは、家庭の冷蔵庫のようなものだった。自分が買ってきて補充し、自分で使用する。少量の場合は、これでもよかろう。しかし、最近の家庭用冷蔵庫は容量が増えてきている。中に何と何があって、いつが賞味期限で、どれをいつ使う予定かなど、当の主婦も覚えきれなくなっているのではないか。だから、家庭でも、もしかしたら冷蔵庫の仕組みを変えていく必要があるのかもしれない。

じつは、このような定数補充方式は、わが国でははるか昔からあった。「VMIとウォールマートと富山の薬売り」(2006/10/20)でも書いたとおり、いわゆる富山の薬売り方式がそれである。しかし、そのメリットや、成立条件については、あまり正確な分析がなされてこなかったように思われる。もう一度いうが、いちばん重要なことは、使用者の直接作業時間比率が向上することなのである。在庫管理は、それ自体が自己目的化してはいけない。どれだけエンドユーザ(病院ならば患者さん)に対する付加価値生産性の向上に資するかで、判断すべきなのである。
# by Tomoichi_Sato | 2007-02-13 22:55 | サプライチェーン | Comments(0)