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マネジメントの仕事・地位・パワーを混同してはいけない

ある朝、目が覚めると、あなたはノルウェー国王になっていた。いったいどうしてこんな事になったのか。あなたは自分の名前も、生まれ育った日本の町も経歴も、全部ちゃんと覚えている。なのに、ノルウェー国王になったつい最近のいきさつだけは、すっぽりと記憶から落ちている。

呆然としながらも身支度を終え、質素ながらも立派な朝食を食べて人心地ついたあなたの前に、宰相がやってくる。彼は礼儀正しくあなたに挨拶をすると、いくつかの紙の束を取り出して、あなたの前に置く。「国王陛下。これが本日、発布いただきたい法律と政令です。どうか、ご署名ください。」

念のために言っておくと、北欧の国ノルウェーは、完全な民主主義国家である。法律は国民の選出した議員が国会で決める。だが、すべての法令は、国王の名前で公布するしきたりになっているときく。宰相があなたにサインを求めてきたのは、そのためである。あなたの前には、法令書類一式と、国王用の立派なペンが置かれている。

さて、ここで問題である。あなたは、法案にサインして交付することにした。あなたのしている事は、マネジメントだろうか?

・・これは、わたしが大学の授業でプロジェクト・マネジメントを教える際に、学生に問いかける質問の一つである。プロジェクト・マネジメントの講義であるから、最初はまず、プロジェクトとは何か、そしてマネジメントとは何か、について、簡単にレクチャーするところからはじめる。プロジェクトとは、(1)終わりのある仕事であり、(2)複数の人間が協力する必要があり、(3)失敗のリスクがともなうような種類の仕事である、とまず説明する(これはPMBOK Guideの”A project is an endeavoir …"という抽象的な定義を、わかりやすく言いかえたものだ)。

ついで、マネジメントとは多義語だが、その中核にある原義は、

 「人に働いてもらって、目的を達成する事」

だと教える。人を動かすことがマネジメントであって、自分の手を動かして何かを産出することは、(それ自体は尊い仕事だが)マネジメントとはよばない。

他に二つ、マネジメントとして大事な要件がある。それは、先読みとリスクテークを含む「決断」を必要とすることだ。不確実な状況下で決断しない人、決断できない人、先延ばしにする人は、マネジメントに向かない。また、計画を立て、現実との差異から学ぶことも、マネジメントに必須の仕事だ。 計画立案と現実の統率は「マネジメント」の車の両輪である 。だから、

「人を動かせない・決めない・見通せない・学ばない上司やボスに、皆さん方は将来、出会うかもしれません。だが、その人がたとえ立派な役職についていようとも、そういう人の仕事ぶりは『マネジメント』からはほど遠いというべきです」

という話をしてから、上記の質問をするのである。ある朝気がつくと、あなたはノルウェー国王になっていた。さて、法案にサインし交付するあなたの仕事は、マネジメントか? と。

こういう聞き方をすると、マネジメントではないと思います、と答える学生がほとんどだ。なぜ? とわたしは聞き返してみる。たいがいは、こう答える。
「だって、人を動かしている訳でもないし、自分で決断している訳でもないでしょう。」

でも念のため、わたしは意地悪く質問を重ねる。・・そうかなあ。法律を定めたっていうことは、ノルウェーのすべての人がそれにしたがって動くということじゃない? つまり、人を動かしている訳だ。それにあなたは、自分の意志でペンを取って、サインすると決めたんでしょ?

「でも、法案にサインしない、っていう選択肢はないんだとしたら、それは決断とは言えないと思います」

その通りだ。ノルウェー国王には、こんな法案は気に入らないから、別のものを持ってこい、と議会に命じる権限はない。拒否権はないのだ。それに、法律が人を動かすのは事実としても、それは国王が意図した目的のために作られる訳でもない。だから「人を動かして目的を達する」ことにはならない。

念のためにいうと、ノルウェー国王は、元首である。国内で、彼(彼女)よりも偉い人はいない。人々の上に立つ、トップリーダーだ。だが、人の上に立つということと、マネジメントをする事とは、まったく別である。この単純な事実を理解してもらいたくて、わたしはこんな変な質問を学生にするのだ。

というのは、「管理職の地位に就く」ことと、「マネジメントの仕事をしている」ことを、人はしばしば混同するからだ。何らかの地位にあるのは、英語で言えば to be 〜である。しかし、マネジメントをするのは、英語なら to do 〜だ。イコールにはならない。

さらにいうなら、マネジメントは、管理職になるよりずっと前から、たいていの人に必要となる仕事なのである。「人に働いてもらって目的を達成すること」である以上、入社後まださほど年数もたたない若手技術者が、仕様書を書いて外注先に発注し、仕事をしてもらったら、明らかにこの人はマネジメントをしている訳である。あるいは、同僚や先輩の協力を得て店を決め、得意先との楽しい飲み会をセットし幹事の仕事を全うできたら、マネジメントの初歩をしているのだ。いや極端に言えば、朝の食卓でお母さんに「そこのお塩とって」と頼んで、お塩をとってもらったら、その瞬間は母親をマネジメントしたのだ。

もっとも、「立っている者は親でも使え」の諺にしたがって、母親にお塩とってと頼んだら、「何いってるの、あんたが自分でとりなさいよ、この不精者!」と逆襲される可能性は多々ある。あなたには、母親を動かす『強制力』がないからである。上長はふつう、部下に命じて動かす強制力を持っている。なぜなら上司には、部下の査定と予算承認の権限があるからだ。部下が著しく不従順ならば、査定で給料を抑えたり他部門に飛ばしたりすることも可能だ。発注書だって管理職の判子がなければ普通は効力を持たない。

こうした強制力のことを、英語ではパワー(Power)とよぶ。いいかえれば、『権力』である。管理職は部下に対する権力を持っている。とくにアメリカ英語は簡潔かつ即物的だから、権力を持つ人のことをパワフル(Powerful)だと表現する。かつて黒人女性としてはじめて国務長官の地位に就いたライス女史のことを、有名誌が「世界で最もパワフルな女性」と表現したが、これは単に彼女がエネルギッシュであることを述べただけではない。実際に世界で(米国大統領を除けば)もっとも権力を持っていて、他国を否が応でも動かせる立場にいることを意味したのである。

さて、世の中のたいていの組織は、地位についてピラミッド型の階層構造を持っている。どうしてこういう形の組織が生まれるのか、本当にこうした位階秩序は合理的なのか。この問題については、ノーベル賞を受賞した経営学者ハーバート・サイモンをはじめ、多くの研究と説明があるが、ここでは省こう。ともかく、上に行けば行くほど椅子の数は少なく、職位が上の方が名誉も大きいとされている。人間には生まれ持った競争心があるから、組織人はつねに、上に行きたいという気持ちを抱いて働くことになる。

昇進への欲望をモチベーションにして、人を働かせるという方策は、たいへん良くできた仕掛けであって、これまで十分な効果をあちこちで示してきた。昇進もなく、将来への希望も全くない職場だと、どれくらい仕事の質や効率が落ちるか、容易に想像できると思う。

しかし、このような仕掛けには、まずい点が一つある。それは、地位・権力(=パワー)と、「人を動かし、見通しを持って計画し決断して、目的を達成していく」仕事(=マネジメント)とが、混同されやすい点である。くどいようだが、地位・権力は、"to be" とか "to have” で表現するもので、マネジメントは “to do”で語るべきものだ。

だが、管理職という地位・権限と、マネジメントという職能を等号で結びつけてしまったがゆえに、
「マネジメントは管理職がするもの」
「管理職だからマネジメントしているはず」
「自分は技術者だから(管理職じゃないから)マネジメントは関係ない」
といった誤解と錯覚が、あちこちで無限に増殖していく。

マネジメントは一種の専門的な技量であり、それをきちんと行うためには専門的技術(「管理技術」)を学ぶ必要がある、というような認識は、出世街道とピラミッドからなる組織図からは生まれにくい。まして、「プロジェクト・マネージャーとは、マネジメントという仕事を専任で引き受ける、一種の『役割』(Role)である」という概念など、非常に縁遠くなる。

プロマネとは一時的な(=有期性の)役割である、というのは、現代PM理論の世界では常識的な概念だ。ちょうど演劇で、今回の芝居ではこの人が国王役、と決めるように、そのたびごとに決める役割である。そして、いったん役割が決まったら、たとえそのプロマネが自分より年下であろうが、技術的には自分の方がずっと知識があろうが、最終的にはプロマネの計画や判断に従って動いていく(むろん、途中で意見のやりとりはあるだろう、当然だが)。なんとなれば、プロジェクトの最終的成果、価値への責任はプロマネが負っているからだ。責任を負うから、権限も委ねる。「権限=責任」の等式の両辺は一致させる。そのかわり、マネジメントのための管理技術の体系を学ばせる。これがまあ、現代流の(あるいは西洋流の)PM理論の考え方である。

ここでは、マネジメントをする「個人」と「ポジション」と「管理技術」が、それぞれ独立している(DB技術風にいうと、独立したエンティティになっている)。ところが、出世街道ピラミッド型の組織論で、すべてのマネジメントをまわそうとすると、
「優秀な個人」←→「上の立場・権力」←→「マネジメントの仕事」
という風に、ひとつながりになってしまう。

ここからさらに派生して、「部下を動かすのが上司の権限」=部下を不合理にいじめて上司風を吹かせるのも有能なる自分の特権の一部、と合点するパワハラ不心得者さえ、一定数、出現する。

ピラミッド型組織で、このような不都合を防ぐには、どうしたら良いのか。解決策は、二つある。一つは、管理職位ごとに、きちんと細かくルールを設定することだ。どういう人間ならばその職位につけるのかという、能力による品質基準(Qualification)。その職位がなすべき機能と権限の範囲。そして機能が要求する技術・知識・スキル。こうしたことを、個別に設定する。これを、ガバナンスとよぶ。

ただし、この処方箋の困難な点は、社内ルールを制定する権限もまた、上位職者が握っていることだ。だから「マネジメントには独立した管理技術がある」なんて意識がこれっぽっちもない方々が経営層に多い場合、こうしたルール制定は不可能だろう(そんなルールを敷いたら、まず自分たちが真っ先に不適格になってしまう)。本当は株主がガバナンスを要求すべきなのだ。だが、利益が出て株価が高ければ、あとは興味のない株主も多い。

もう一つの方策は? それは、「外を見る」ことである。自社のありようは自社のありようとして、外ではどうなっているのか。目前のライバルだけでなく、広く視野を世界に求めて、世の中ではどうしているのかを、学ぶ。これは日本企業が、これまで以上に海外と接するようになった今日、むしろ日々得られる体験でもある。

その昔、咸臨丸にのって米国を視察してきた勝海舟に、江戸城で幕府の重役がたずねた。かの米国と我が国の違いは何かと。海舟は、人間のすること古今東西同じもので、アメリカとて別に変わったことはありません、と答える。しかしそれでも何かの違いはあるであろう、と繰り返したずねた重役に対し、
「さよう、少し眼につきましたのはアメリカでは、政府でも民間でも、およそ人の上に立つものは、皆その地位相応に利口でございます。この点ばかりは、全くわが国と反対のように思いまする」
と答えた。するとご老中が目を丸くして、「この無礼もの。控えおろう!」と怒鳴ったという(「氷川清話」による)。

わたし達は勝海舟ほど剛胆ではあるまい。だが、米国の実情が彼のいう通りかどうかはともかく、他者を見て改めて我を振り返る、というのはわたし達に共通した特性である。勝自身、さまざまな身分の浮沈をくりかえし経験した人間であった。だからこそ彼には、地位と職務の違いが見えていたのである。

追記:
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ネットで検索すると、現在のノルウェー国王ハーラル5世は、この方である。Wikipediaによれば、なんでもノルウェー生まれの国王は、500年ぶりらしい。ときには自国の言葉もしゃべれない他所者を国王に招いたりするヨーロッパの人たちの王室感覚というのは、よく分からないものである。国王というのも、あるいは一種の『役割』なのだろうか・・?
# by Tomoichi_Sato | 2016-08-11 18:21 | プロジェクト・マネジメント | Comments(0)

書評:「アルベマス」 フィリップ・K・ディック著

アルベマス (創元SF文庫)」大滝 啓裕・訳 (Amazon.com)

カリフォルニア州バークレイの街の住民ニコラス・ブレイディは、やや気むずかしい妻と小さな息子、それに猫と一緒につつましく暮らしていた。市内の大学にも通ったのだが中退し、レコード店の店員として平凡に過ごす彼の日常は、ある日、奇妙な神秘体験とともに激変することになった。啓示のように下った指示に従い、彼は住み慣れたバークレイの街を離れ、南カリフォルニアのオレンジ郡にうつって「プログレッシブ・レコード」社に上級職を得たばかりか、6歳の息子に先天的疾患があることを見抜いて治療を受けさせる。こうした一連の神のような啓示を与える主体を、ニコラスは「巨大にして能動的な生ける情報システム」Vast Active Live Intelligence System = VALISと名付け、人工衛星を中継した星からの通信であると信じるに至る。(「情報」はInformationではなく、Intelligenceである点に注意)

その頃、南カリフォルニア出身の上院議員フレマントは、政敵たちを巧みに葬り去り、反共主義をバックにして、大統領の座に上りつめる。トップの地位に就いた彼は、「アラムチェック」という地下組織がアメリカ国家をおびやかす重大な脅威になっていると宣言する。そして、右翼の青年グループを組織して、「アメリカの友」FAPという、武装して制服を身につけた若者たちの集団を作り上げる。彼らは警察の別働隊として、警察の黙認のもと、疑わしい人物を召喚尋問したり襲撃したりするようになる。

ニコラスもある日、FAPのメンバーにオフィスを訪問され、プログレッシブ・レコード社を訪れる反体制傾向のある歌手志望者を密告するよう要請される。だが、彼らの口ぶりから、真の狙いがVALISの把握と破壊にあると察知したニコラスは、友人の作家フィルに相談する。しかしフィルもまた、麻薬常習者の疑いをかけられ、FAPによる尋問や秘密の家宅捜査をうけているところだった。彼は麻薬は一切手を出していないのだが、仲間のハーラン・エリスンが序文で不用意にも彼の作品を、「マリファナの影響下で書かれた小説」などと紹介したために、FAPのブラックリストに載ってしまったのだった。その彼はまさにSF小説を一本、書き上げたところであった。ソヴィエトの強制労働収容所をモデルに、アメリカが警察国家になってしまう話だ。題名は『流れよ我が涙、と警官は言った』だった・・

本書は、フィリップ・K・ディックの遺作となった『ヴァリス』に先立ち、その数年前に書かれた姉妹作品である。同じテーマ・同じ登場人物名を持つけれど、生前は発表されなかった曰く付きの作品だ。彼がなぜこの小説をお蔵入りにしたのかは分からない。たしかに第二部の最初の部分はややだれるし、ディックお得意の現実崩壊感覚には乏しいが、後半のサスペンスの盛り上がりと緊迫感は、さすがストーリーテラーである。ディックの小説を読むのは本当に久しぶりだけれど、なかなか面白かった。

この小説は、(視点は一般市民の側から書かれているが)「独裁国家の作り方マニュアル」という点でも一級品だろう。フレマントは動乱の’60年代を生き延び、ケネディ大統領や弟ロバートの暗殺の後の政治的空白をついて、選挙で合法的に大統領の地位に就く。同時に、仮想的な地下組織という国家の敵を設定する。そして武装した若者による親衛隊的組織を作り上げ、警察や諜報部門からの情報を与えて、反体制活動家たちを襲撃・無力化していく。

彼らは教育・メディア・宗教・司法を影響下におき、さらに国民の間に相互監視と密告のためのシステムを作り上げて、国民がお互いに対して疑心暗鬼になり、団結できないような社会的素地を生んでいく。これは皆、20世紀のファシスト党やポルトガルのサラザール政権が、巧みに実践したことだ。その時代、もはや企業も役所も、支配するのは名義上の経営者や署長ではなく、党であった。ここまで行けば、あとは党内反対派の粛正、そして非服従民族の強制移住による絶滅策に進むだけで、これはナチス党やスターリンの共産党が邁進した政策だ。文化やイデオロギーの違いにかかわらず、独裁国家のやることが似ている点は、不気味である。

ディックが晩年抱いた「ヴァリス」VALISというイマジネーションは、こうした恐怖社会を中和し解体するための「神の助言」システムであるらしい。本書のニコラスの生い立ちや、神秘体験で息子の疾病を予言したことなどは、じつはディック自身の体験である。それをきっかけに、彼は初期キリスト教、とくにグノーシス主義(極端な禁欲主義と二元論を奉じる一派で、後に異端と断じられた)のシンパになっていく。本書にも「魚のシンボルをつけてギリシャ語を話す若い女性」など、随所にその影響を感じることができる。だから本書でも後半、ニコラスと友人フィルは、VALISからフレマント大統領の意外な正体について、啓示を得ることになる。

結局、ディックはこの小説を下敷きにしながら、ほぼ同じ登場人物とプロットで、あの哲学的で難解な『ヴァリス』を創作する。それはまあ、本書の変奏だといえよう。だが彼は続いて、遺作となった『聖なる侵入』を書く。これは邪悪な社会システムに支配される地球に、再度、神性が侵入し救済しようとするストーリーだ。わたしが今のところディックで一番好きな作品だが、ある意味SFとしては、本書の真の意味での「転生」だといえるだろう。

本書はサンリオSF文庫の最後の一冊でもあった。奥付を見ると、87年刊行となっている。この後、サンリオSF文庫はすべて絶版となった。わたしが買ったのがいつだったかは覚えていないが、買ってからたぶん20年以上、積ん読状態だったと思う。本はワインのように熟成する訳ではない。だが、読む時機を得ると、ある種の小説は迫真性を増すのだと、あえて付け加えておこう。
# by Tomoichi_Sato | 2016-08-07 18:18 | 書評 | Comments(0)

全体像を見るために 〜 インテグレートされた工場の作り方

前回、『最適解を組み合わせても、良い生産システムは作れない』というテーマの話を書いたら、知り合いの方から「専門じゃないので理解しにくいが、面白そうなので簡単にわかりやすく教えてほしいい」という主旨の質問をいただいた。その方は音楽好きなので、わたしはこうお答えした。

「例えば音楽にたとえてみます。合唱では、あるパートが最初から最後までずっと全力で歌ってもダメですよね。休むところは休み、手を抜くところは上手に手を抜く。それで全体としては、流れのある良い音楽になるのです。」

合唱では(オーケストラなどでも同じだと思うが)、すべてのパートが常に全力で歌っていたら、やかましくて音楽としては聞くに堪えない。「全力で」のところを、「ピアノ・フォルテの強弱はつけるが、一つひとつの音符にすべてきっちり気合いを込めて」にかえても、結果は似たり寄ったりであろう。やはり全体としては、力んだだけで陰影に乏しい演奏になる。強弱だけでなく、間合い、リズム、音程、音質など、すべてが各声部の間でちゃんと調和して、はじめて美しい音楽が生まれるのである。

だから、よく素人が錯覚するように、「才能ある上手な歌い手が集まれば、良い演奏ができる」という訳にはいかない。曲の全体像を見て、ここはソプラノが主役だから中声部は和声の支えに回るべし、とか、テナーがテーマの旋律を歌い始めたら女声は動きを目立たせるな、といった協力関係が必要になるのだ。こうした指示を与えるのが指揮者の役割なのである。指揮者の仕事とは、全体の中で部分を位置づけ、部分のできることを見て全体を構築していくことにある。これをインテグレーションの能力とよぶ。アンサンブルが小さければ、あるいは皆が知っている短い曲ならば、指揮者なしでもなんとか音楽をまとめることはできる。だが楽曲が大きくなり、メンバーが多くなると指揮者が必要になる。

ただ、ここで素人にはしばしば、第二の誤解が生まれる。それは、「全体の構想は指揮者だけが分かっていれば良い。あとの大勢は、指揮棒にしたがって動けば十分だ」という誤解である。誰かスーパーマン的なリーダーがいて、その指示と命令のもと、大きな組織が機敏に動く。これが組織の理想像だ、という思い込みは結構根強い。こうした組織の動かし方を、”Command and Control”という。軍隊的な組織はその典型である。

しかし、こういうモデルは現実にはうまく機能しない。それは別にリーダーの能力不足のためではない。そもそも「指示と命令」型の組織では、“指示されない限り自分では何も動かない・考えない”タイプの人間が量産される傾向が強い。現場の末端が先を読んで行動しないので、問題はすべてリーダーが対処することになる。しかしリーダーが強烈であればあるほど、その周辺にはイエスマンばかりが集まり、都合の悪い情報は上がらなくなる。だから問題の数がある臨界値を超えてしまうと、組織は急激に機能不全に陥っていく。普段は良くても、大変なときに限ってぽっきり折れやすい、レジリエンシーの低い組織モデルなのだ。

だから実際には、組織の構成員が、皆ちゃんと全体を理解した上で、自分の役割を果たすべきだということになる。合唱のたとえに戻すと、一人一人が、楽曲全体の構造を分かった上で、自分のパートを歌うのが望ましい、ということになる。全体像を示し、各人に伝えるのは、指揮者の役目である。また逆に、歌い手側の中にも、全体像に対する独自の意見を持つ者がいるだろう。中には、指揮者が気がつかなかった提案だってあるかもしれない。だからそうした意見を聞くことも大事である。採用するかは、最終的には指揮者の判断になるだろうが。

こうした点を踏まえた上で、前回紹介した、典型的な(下手な)工場の作り方を見ると、「指揮者のいない演奏会」のような状態になっていることに気がつく。製造機械と、周辺設備と、建築の三つのパートが、全体像を見ないまま並行して進んでいく。だから途中で手戻りが多くなりがちだし、できた者に一貫性が欠けているため、見えない非効率の温床になりがちなのだ。

どうしてこういう仕事の進め方になるかというと、「工場という名の生産システム」の全体像を見て、それを最適化しようという視点が足りないからだ。工場を、システムではなく、「機械」と「周辺設備」と「建屋」の単なる集合体としてとらえている。各部分を別の部署で担当し、足し算の論理で作り上げようとしている。

では、より良い工場の作り方は、どうすすめられるのか? ここで、エンジニアリング会社が得意とする、石油や化学といったプロセス産業でのやり方を、参考までにご紹介しよう。それはこんな風に進む:
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(0) まず、工場要件の概要から出発する。ここは前回紹介したディスクリート型工場とほぼ同様である。ただ海外企業の場合、ここに「デザイン・フィロソフィー」文書が加わることが多い
(1) 次に、プロセス設計部門のエンジニアが、工場全体の『プロセスシステム』の基本設計を行う

プロセスシステムの基本設計を担当する専門職を、「プロセス・エンジニア」とよぶ。この業界では世界共通の用語であり、わたしの勤務先にも100人単位で技術者がいる。このプロセスシステム設計は、もう少し詳しく言うと、二段階からなっている

 (1-1) 工場内を流れる物質の流量バランス(物質収支)と熱エネルギー収支の最適化
 (1-2) 制御方式の設計(測定点の決定と制御ロジックの決定)

さて、このようにシステム全体の機能と流れが確定すると、次にシステムの構成要素の設計に進む。

(2) 機械設計部門が、要素機器の詳細設計を進める

システムの機能構成と要素が決まったら、そのつながりにしたがって空間的配置を設計しなければならない。そこはさらに二段階に分かれる:

(3) 配管・建築・シビル設計の各部門が、空間設計を順に協力して進める(通常、3D-CADを利用する)
 (3-1) まず、機械エンジニアが配管レイアウトの最適化を行う
 (3-2) ついで、架構・建築・基礎設計などの構造設計が上物→基礎の順に行われる

そして、設計から具体的なものづくり段階へと進んでいく。

(4) 調達部門・工事管理部門が、資機材の調達と建設・試運転 を行う(時間的にはこの段階が一番長い)

おわかりだろうか。(0)〜(4)まで、仕事は「要件→システム→構成要素→空間配置→調達→建設→試運転」という風に、一本の線として順に進む。そして、こうした全体の流れに齟齬がないよう、リサイクル・ワークが発生しないように管制塔の役割を果たす存在がいる。

(5) プロジェクト・マネジメント部門のプロマネとそのスタッフからなるチームが、全体の流れを統括する

管制塔機能とはすなわち、指揮者であり、インテグレーションの仕事である。プロマネ配下でプロジェクト・マネジメントに専門的に関わるチームを、Project Management Team = PMTとよぶ。小さな工場案件では、プロマネが一人で面倒を見るケースもあるが、大規模案件では複数人が必要になるからだ。

前回紹介した工場づくりのワークフローとの最大の違いは、工場全体が「システム」であるという概念が存在すること、そして「プロジェクト・マネジメント」という管制塔機能が存在することである。

まあ、上で示した流れは、実際には1,000以上のWBSアクティビティからなる流れをかなり簡略化したもので、現実にはもっと複雑だし、リサイクル・ワークも発生しがちだ。だが、全体の流れを統括して、妙な手戻りは極力無くそうと最初から努力はしている。そのためにPMTのメンバーは、設計上しばしば発生する小さな変更が、他の設計・調達・建設を通じて、どのような影響を及ぼし、コスト・スケジュールでどれほどインパクトを生じるかを、つねに予測しながら判断を行う。

そして、このような流れは、わたしの勤務先だけではなく、世界的なプロセス産業全体での共通理解になっている。発注者側も、これを求めるし、これを実現するために、エンジニアリング会社という業種が存在する。そして、そこにはプロセス・エンジニアや、プロジェクト・マネジメントの専門家が多数いる。こうした人材を、工場のオーナー企業が雇っても、数年に一度しかないプラントの新設・拡張だけに従事させるのでは非効率だから、アウトソースするのだ。

もちろん、こういう仕組みだから、すべてのプロジェクトがうまくいく、などと言うつもりはない。我々も正直、手痛い失敗をいくつも経験している。ただ、プロジェクトにとって最大の失敗は、コスト超過でもスケジュール遅延でもない。使い物になる成果物が生み出せないことである。そして、少なくともプロセス産業では、「非効率で使い物にならない工場ができあがった」という失敗はない。全体システムの最適設計を最初に行うからだ。

こういう手順を踏むため、プロセスプラント系の工場の作り方は、必然的にウォーターフォール型になる。最初にとにかく、全体像を決める。今回は反応系、次は回収系、という風に、部分部分を計画しては継ぎ足していくようなやり方はできないのだ。プラント系のプロジェクトにアジャイル型が不向きなのは、決して実物の工事があるためではない。プラントが単なる機械装置の集合体ではなく、インテグレーションされた密結合のシステムだからだ。

わたしがこのところ、ずっと「仕組み」だとか「システムズ・アプローチ」だとかにしつこくこだわっているのも、結局のところ、わたしのキャリアの出発点がプロセス・エンジニアだったことに由来しているのかもしれない。わたしの入社した頃の仕事は、石油リファイナリーの工場全体を、線形計画法を使って最適化設計し、経済性評価する仕事だった。その後いろいろなキャリアの紆余曲折はあったが、どの分野の仕事でも「システムの全体像」にこだわり続けているのは、その影響なのだろう。

ただ、そうだとしても、これまでずっと専門分野を深掘りしてきた中堅エンジニアが、「全体像を見る」ためには、どうしたら良いだろうか? いまさら畑違いのプロセスシステム工学など、学んでいる暇もあるまい。

わたしがおすすめするのは、二種類の『見方の練習』である。最初の練習はまず、「上司の上司の立場になって仕事のあり方を考えてみる」ことである。自分の上司の立場を想像することは、それほど難しくない。居酒屋談義でサラリーマンが「俺が課長だったら・・」みたいなセリフを吐くシーンは、珍しくあるまいし、ある程度は正鵠を得ているものだ。だが上司の上司となると、難しい。あなたが主任だったら、課長ではなく、部長になったつもりで、仕事をどう変えるべきか、考えてみる。あなたが課長だったら、本部長の立場で、どう仕事の仕組みをつくるか、考える。これは簡単ではない。かなり視点を背伸びして、高い位置から関連する仕事の全体を見なければならないからだ。

そしてもう一つの練習は、「顧客の顧客の要求を考えてみる」である。自分の目の前の顧客の要求は、毎日接しているし、闘ったりもしているので、良く知っている(つもりになりやすい)。ところが、その顧客だって、じつはさらに顧客がいるのだ。そして彼らだって、顧客の要求に悩まされている。たとえばあなたが部品メーカーで、顧客はセットメーカーだとしよう。顧客はあなたに、つねに無理なコストダウンやJIT納品を要求してくる。

だが、その顧客だって、じつは流通側のチェーンストアや量販店から、めまぐるしい需要変動への対応を要求されているのかもしれない。だから、あなたは「顧客が要求して言ってくること」の背後に、顧客自身が悩んでいる「隠れたペイン」を見通すべきなのである。それはいいかえると、「サプライチェーンの中で、自社の位置を理解する」ことにも通じる。そういう視点を獲得できれば、あなたが日々直面している問題に対しても、別の見方、別の解決策が見えてくるかもしれない。たとえ見えてこなくても、感情的なフラストレーションは、少しは薄まるはずだ。相手を、同じ手足のついた人間として見ることが、相互リスペクトの第一歩ではないか。

こうした二種類の見方を、折に触れて練習してみること。これが「全体を見る」能力を育てるための方法だと、わたしは信じている。そうした能力は、今すぐには無用に見えても、長いキャリアの中では、きっと役立つときが来るはずなのだ。


<関連エントリ>

 →「設計思想(Design Philosophy)とは何か」 (2012-03-26)
 →「最適解を組み合わせても、良い生産システムは作れない」 (2016-07-25)
# by Tomoichi_Sato | 2016-08-02 22:24 | 工場計画論 | Comments(0)

最適解を組み合わせても、良い生産システムは作れない

先週の7月20日に「生産革新フォーラム」で行った講演『上手な工場見学の見方・歩き方 〜エンジニアリング会社の視点から〜』には、幸い大勢の方が来場され、このテーマに対する関心の高さをうかがうことができた。そして同時に、「工場設計」という重要な仕事に関する、世間での情報源の少なさも、あらためて再認識することになった。工場づくりのポイントを学びたいと思っても、世の中には殆ど教科書・参考書の類いがないのだ。

たとえば、前回も書いたとおり、機械組立加工系の工場レイアウトには、やっかいな典型的問題がある。それは上下動線の錯綜と分断の問題である。「材料受入→部品加工→組立→検査→梱包出荷」という工程の順序のうち、前半の部品加工はしばしば大型で重い機械設備が必要になり、後半の組立検査は人手中心の作業である。だから、敷地の制約で二階建て以上の工場を計画する場合、重い機械を要する部品加工工程を1階におき、組立検査工程を上階に配置することが普通だ。重たい機械を2階以上に設置するには、床の耐荷重を上げなければならず、建築コストが上昇するからだ。

ところが、原材料搬入も製品出荷も普通はトラックで行うから、搬入搬出口は1階に設置する。そして倉庫も、(それが材料倉庫・中間部品倉庫・製品倉庫のどれであっても)重たいので1階におく。かくして、工場の中には、1階→2階→1階→2階→1階というような縦の物流動線が複数必要になる。そればかりでなく、生産の流れが複数フロアにまたがって分散すると、全体としてどこに滞留が生じているか分かりにくくなるし、どこかで問題が生じても、他のフロアは気づかずに操業を続け、結果として仕掛品の山とワークロードの不均衡を生み出してしまう。「流れをつくる・流れを見せる」が工場レイアウトの基本なのに、それにそむくことになるのだ。

この問題の一つの解決法は、前回ご紹介したN社の事例のように、製品搬出口を2階に持って行く方法である。1階から搬入した材料は1階で部品に加工する。そして2階で組み立てた製品は、2階から梱包出荷する。N社の場合、上流側の部品加工はNCを用いたロット加工であり、下流側は個別受注生産になるため、必ず中間部品在庫が生じる。そこで中間部品在庫用の立体自動倉庫を置き、自動倉庫に縦搬送機能を持たせることによって、工場全体の中に1階→2階という明確な流れをつくったのである。「入口と出口を分けて、流れをつくる」は物流倉庫の基本だが、それを工場全体で実現したのである。

もう一つの解決法が、講演で説明したK社の工場レイアウトだ。K社は我々が数年前に見学した、川口市にある歯車メーカーである。従業員数約200名、年商数十億 の中堅企業だ。K社の工場は3階建てだが、製品種別にしたがってフロアを分けている。大型歯車は1階で、小型歯車は2階で、それぞれ全工程を完結できるようにしてある。したがって、2階にも重量のある機械を置いている。建築の素人であるわたしの目から見ても、床の耐荷重は大きめの構造になっていた。 建築費が上がることは承知の上 でのレイアウトである。

だが、一つの品種の製造の流れが、フロア内で見通せることのメリットの方が、建築費の節減よりも大きいという判断があったのだろう。大変立派な判断だと、わたしは思う。K社を見学に行ったのはたしかリーマンショックの直後だったと思うが、急激な受注減を受けても、ちゃんと持ちこたえて経営されていた。「製造は労賃の安い中国で」というのが常識のごとくメディアで宣伝され、「日本の中小製造業は、大企業の新製品開発サポート業務くらいしか生き残る道はない」と経済産業省が勝手に決めつけていた時代を、ちゃんと生き延びているのだ。

じつは、K社を良く知る知人の指摘によると、K社にはもう一つ首都圏に工場があり、そちらは何とN社と同じような、2階搬出口によるレイアウトになっているという。同社にはこの他にも、学ぶべき立派な事がいくつもあって、講演でもその一端を紹介した。まともな工場を作り、まともな方針で経営している企業は、サステイナブルに事業を継続できるのだと、強く印象づけられた工場見学だった。

それにしても、N社やK社などの創造的な中堅企業ではずっと前から実現できているレイアウトが、なぜ全国の大企業の工場ではできていないのだろうか。工場の規模が違いすぎるから? わたしはそうは思わない。というのは、現代日本ではどこの製造業も、多品種少量生産を否応なく迫られていて、個別の製品群で見ると、そんなに巨大大量生産の工場というのは無いからである。大企業には創造性の高い人材が少ないから? いや、中小企業の経営者たちは口を揃えて、優秀な学生は大企業にばかり入りたがる、というであろう。

わたしは、「部門の縦割り(サイロ化)の弊害が、非効率な工場設計を生んでいる」のではないかと疑っている。企業が大きくなればなるほど、組織構造は立派になり、分業が進み、それぞれの部門が明確な責任範囲を受け持つ体制が発達する。小さな企業では、一人がいろんな事を見なければならない。だが大きな組織では、守備範囲にしたがって、工場づくりなどの仕事も進められる。

そのような分業体制の中で、「各人がその持ち場で最善を尽くす」ことにより、企業全体として最良の結果を得る。——これが一般に信じられている原則だ。たとえば、工場設計においては、機械類は生産技術部門が、建物は総務部門が担当するケースが多い。機械は最高のパフォーマンスのものを導入し、建物は最も安価で堅牢なものをつくる。かくして素晴らしい工場ができあがる、はずである。

しかし、そうではないのだ。N社やK社の例を見ればわかるとおり、建設費の点ではむしろ、外周スロープや耐荷重などで余計なコストをかけている。とうてい最適解とはいえはない。しかし、ある部分ではあえて最適から外すことで、全体としては効率とフレキシビリティを兼ね備えた優れた工場(生産システム)に仕上がる。これが「システム」を設計する仕事の妙味である。なまじ分業化を進めると、こうした視点が消え失せてしまうのだ。

わたしの見た限りでは、日本のディスクリート型製造業における工場づくりは、典型的には次のような流れで進む。

(1) まず、生産技術部門の機械エンジニアが、製造工程の中核となる製造機械装置の基本設計を行う
(2) 続いて、生産技術部門が機械メーカーを選定し、そのメーカーとともに詳細設計を進める
(3) さらに、生産技術部門は資材部門の協力の下、汎用機など補助製造設備の選定を行う

ところで上述の通り多くの企業では、「建物は総務部門の管轄」という決まりになっている。そこで、

(4) 上の流れに並行して、総務部門は設計事務所をよんで、建屋の建築レイアウトをすすめる
(5) ついでゼネコンが入ってきて、建築の実施設計にむけた作業を続ける

ただし工場は建屋と製造機械だけでは成り立たない。保管用の倉庫や搬送装置など、物流搬送設備が必要だし、あるいは電力・水・圧縮空気などのユーティリティも必要だ。というわけで、

(6) 生産技術部門が、製造機械の設計を追う形で、物流搬送設備等の基本設計をすすめる
(7) ついで、生産技術部門が物流メーカーを選定し、そのメーカーとともに詳細設計を進める

で、その結果どうなるか。技術を良く知らない総務部門の事務屋さんが設計事務所に命じて描かせた、ガランドウの建屋プランの中に、生産技術のメインとサブのグループが、エンジニアの視点でそれぞれ選んできた機械設備を配置しようとする。答えはご想像の通りだ。きれいに収まる訳がない。しかたなく、それぞれ基本設計に戻ってやり直しとなる。かくて目に見えぬ無駄な時間が浪費されていく。
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こうした再調整のリワークを避けるたければ、あらかじめ、機械 – 建築 – 設備の間の取り合い(インタフェース)に、かなり余裕を見ておくしかない。インタフェースとはすなわち、耐荷重、電力容量、貫通孔などなどである。だが、当然これはコストアップを意味する。よほど余裕のある工場でなければ(あるいは総括原価方式などで顧客にコスト転嫁可能な企業でなければ)できる相談ではない。

しかし、それよりも問題なのは、「建築コスト最小」と「機械パフォーマンス最高」の足し算の方程式を無理やり解いた結果、全体の流れが錯綜した空間構造、レイアウト変更が容易でない空間構造になってしまう点である。これが、操業後の見えない非効率の温床になる。分業と「すり合わせ型」意志決定が、全体の設計思想なき工場を生んでしまうのだ。

おわかりだろうか。A. 大きな問題を、複数の小さなサブ問題に分解する。→ B. そして、それぞれのサブ問題に対して、最適解を求める。→ C. それらを組み合わせて、全体に対する最良の解を得る・・というのは、いつでも成立する訳ではないのだ。このアプローチは有用だが、元の問題が「足し算の論理」で評価できる場合にしか、成り立たない。そして、わたしの言う『生産システム』は、そうした足し算だけでは評価できない典型なのだ。そこでは、もっと別のアプローチ、すなわちモデリングとシミュレーションを使ったシステムズ・アプローチが必要になる。有用性・冗長性・安定性など複数の評価尺度を考えながら、システムの構成員である人間のふるまいを予測し、導くような設計論が必要なのだ。

そして、だからこそ工場見学は面白いのである。そこには相矛盾する複数の問題に対する、知恵が込められている。込められている、はずである。少なくとも、現場近くで実際の仕事を見ているエンジニア達は感じているはずなのだ。ただ部門単位での局所最適を足したって、全体として良い仕組みは生まれないのだ、と。


<関連エントリ>
 →「工場レイアウト設計の典型的問題と、そのエレガントな解決法」 (2016-06-16)
# by Tomoichi_Sato | 2016-07-25 22:37 | 工場計画論 | Comments(0)

工場レイアウト設計の典型的問題と、そのエレガントな解決法

工場見学ほど面白いものはない。なぜなら、工場はそれ自体が大きくて複雑なシステムそのものであり、そのシステム作りに各社独自の工夫も盲点も現れてくるからだ。——そういう意味のことを、これまで何度も書いてきた。また、すでにお知らせしたとおり、来る7月20日(水)に「生産革新フォーラム」(通称「MIF研」)で『上手な工場見学の見方・歩き方 〜エンジニアリング会社の視点から〜』というタイトルでお話ししたいのも、その点だ。だが、もう少し具体的に、わたしがよその工場を訪問したら、最初にどこを見るかについて書いてみたい。

ものづくりの方式やプロセスにはいろいろバリエーションがあるが、機械組立加工系を例にとると、だいたい次のような工順(工程順序)をふんでいる:

 材料受入 → 部品加工 → 組立 → 検査 → 梱包出荷

この途中に通常、「在庫保管」も入るが、どこに入るかは工場の方針次第のため、ここでは省略しておく。

効率的で作業しやすい工場設計・レイアウトを考える場合、上記の5つの作業を行うワークセンターを、どこにどう配置するべきかが問われる。普通、工場は建屋の中に入っているから、建築面における空間設計と、生産技術面での機械配置の折り合いが必要になる訳だ。これは日本国内の既存の工場の場合も、海外に新工場を作る場合も同じである。

とくに土地代の高い日本や、一部のアジア都市近郊部では、敷地面積が限られるため、どうしても工場は2階建て以上の多層階構造になる。すると、どの階にどの工程を配置するかで、頭を悩ませることになる。

このレイアウトを考える際、制約条件が一つある。あまり重い機械・装置は、上の階に乗せたくない、という制約だ。建築には、床の「耐荷重」という概念があり、m2あたり500kgとか1 tonとかいった数字で表す。これが大きくなればなるほど、当然ながら構造に剛性を持たせなければならない。柱や梁は太くなり、床・スラブは厚くなり、斜めにブレース補強なども必要になるだろう(慣れた人になると、柱・梁の太さや配置を見ただけで、耐荷重がどれくらいの値か見当をつけることができる)。つまり、「耐荷重=建設コスト」なのである。だから、あまり重たいモノは、2階以上には配置したくない。

ところで多くの場合、「部品加工」の段階はかなり加工機械・装置を使うことになる。プレスマシンだとかマシニングセンターだとかFMSだとかいった大型の機械装置である。そして重い。他方、組立作業とか検査作業は人間の手作業が中心だ。だからそれほど大がかりな機械はいらない(せいぜい搬送用コンベヤ程度だ)。

こう考えると、自然、部品加工のワークセンターは1階に置き、組立・検査工程は2階以上に配置しよう、という方針が出てくる。実際、わたしが見た日本の多くの機械系工場は、こういう発想でレイアウトされている。

ところが、ここに問題が一つ生じるのだ。それは「モノの流れ=動線」の問題だ。

いうまでもないが、外部から購入した原材料・部品は、トラックで運んでくる訳だから、当然1階に受入口を持つことになる。また自社で生産した製品も、トラックに載せて搬出する訳だから1階に出口がいる。いきおい、出荷梱包のスペースも1階におくことになる。かくて、モノは1階から入って、加工され、途中で2階以上に持ち上げられて組立・検査を受け、また1階におろされる。縦方向の物流動線が、最低でも往復2パス必要になる。

それだけではない。上ではワザと省略したが、「在庫」の位置の問題がある。倉庫という設備も、かなり重たい代物だ。だから、上層階に大きな倉庫を置くと、金がかかる。いきおい、原材料倉庫も、中間品倉庫も、製品倉庫も、1階におくことになる。じゃあ、工程間に生じる仕掛かり在庫は? 物量にもよるだろうが、多ければやはり1階になる。

かくて、複数の上下動線が必要になる。エレベーターを使うにせよ、ダムウェイターや垂直コンベヤを使うにせよ、上下階を貫通する位置が建築上必要になる。いきおい、各階のレイアウトが制約される。そして物流動線が複雑化する。

それだけではないのだ。もっと深刻な問題は、モノの流れが見えにくくなって、どこで何が滞留し、どの工程で問題が生じているのかが分かりにくくなってしまうことだ。ちょっと想像してみてほしい。あなたの家の台所が、上下2階に別れているとする。1階には流しや冷蔵庫が、2階にはコンロや電子レンジや盛りつけ場がある。かりにその間はオシャレな螺旋階段か何かで結ばれているとしても、いかに非効率かわかるはずだ。この非効率を、工場規模で実演しているのが、日本の多くの工場なのだ。まあ、そうした非効率に気づかずにいる“シアワセな人”が工場長の場合も、よく見かけるが。

こういう問題が生じる遠因は、企業内の縦割り組織にもある。多くの会社では、製造機械は生産技術部門の所管だが、建物それ自体の発注は、総務部門の事務屋さんたちの管轄になっている。かくて、機械は機械、建物は建物で計画されて、全体を「システム」の効率の問題としてとらえる視点が欠けているのだ。

では、どう解決するべきか。よほどお金のある工場、あるいはクリーン度が必要とされて人手の作業を嫌う半導体や医薬品工場などは、「立体自動倉庫」を導入して、複数階からの出し入れ可能にするかもしれない。スタッカー式クレーンをもつ立体自動倉庫は、縦搬送と保管の両面の機能を持つすぐれた仕組みである。だが、高価だ。その上、これが故障すると(あるいは定期メンテに入ると)工場全体の機能が止まってしまう。だからバックアップの搬送の仕掛けが必要になる。さらに建築設計面から言うと、レイアウト上の大きな制約事項になる。「在庫が見なくなる」という理由で、これを嫌うJITコンサルも多い。

工場内の物流動線は、「流れをつくる」が基本である。モノの流れをつくり、滞留が見えるようにする。これが「見える化」の本流だ。なのに土地が狭く多層階の工場では、その実現が難しい。どうしようか。こういう点が、エンジニアの知恵や工夫の発揮すべき場所である。

この問題に対して、エレガントな回答を与えた例を一つ紹介しよう。東京近郊にある、N社の工場である。この工場では、セオリー通り、1階に重量の大きな加工機械設備を置き、1階に組立・検査エリアをおいた。工夫したのは、あえて2階に製品搬出口をもうけたことだ(念のために書くが、平地に建っている工場である)。これを可能にするために、建物の側面に長いスロープを周回させ、搬出用トラックが2階にアプローチできるようにした。原材料の搬入口は1階にした。原材料倉庫も1階だ。

ところで、この工場は多品種少量の受注生産形態だ。ただし部品はGT(グループテクノロジー)を応用し、NCでロット加工をする。だから、組立工程との間に、必ず中間部品の在庫が発生する。そこで、1階と2階を貫通する形で、小規模な立体自動倉庫を置き、ここを中間部品倉庫・兼・上方向搬送路とした。かくして、1Fの受入から2Fの搬出まで、流れができた訳だ。モノの見通しは、抜群に良くなった。
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お分かりだろうか。これが工場の「システム・デザイン」なのだ。サプライチェーン上の要求と、機能要素(各工程)の関係と、空間配置の制約とを同時に解いて、人間が判断しやすく働きやすい仕組みをつくる。こういう設計思想の明確な工場を見ると、勉強になった、見て得したな、という気持ちになる。

ついでにいうと、この工場は、機械工場であるにもかかわらず、全館空調である。鉄骨スレートでは断熱性が悪いので、鉄筋コンクリート構造だ。そして空調のために、煙の出やすい切削油を全て水性にかえたという。当然、切削条件がかわってしまい熟練工のノウハウが生かせなくなる訳だが、快適な労働環境のためには当然という判断だった。こうした点が認められ、この工場は日本建築学会賞をとったときいている。

え? そんな素晴らしい工場なら、ぜひ見学してみたい? 残念ながら、もはや不可能だ。なぜなら、この事例は45年前のものだからだ。同じ敷地はまだ残っているが、業容拡大に伴って建物自体はかなりの増改築があり、元の姿は残っていない。ただ、世の中にはいまだ鉄骨スレートぶき、外気とツーツーで寒暖激しい労働環境の機械工場がゴマンとある。たとえ空調はあっても、動線は複雑、可視性は最低、そして欠品と納期遅れで右往左往、という工場だらけだ。もっとずっと前に、こうした先進事例の発想に学んでおけば、自社の改善にも役立っただろうに。

なぜ他の工場に学ばないのか? 先賢に学ぶことこそ、我々が成長する最大の近道ではないか。たしかに同業ライバルの見学はお断りという会社は多い。だが少しでもものごとを抽象化してとらえる能力さえあれば、別の業界の工場からも、学べる点はたくさんあるのだ。そして、(少しだけ宣伝めいたことを言わせてもらえば)多数の工場づくりにかかわってきた工場づくりのプロ=エンジニアリング会社の価値だって、そこにあるのである。

20日の研究会では、こうした点をお話ししようと思う。ちなみに、上に述べたN社の例は、解決法のひとつに過ぎない。機械組立加工系でも、別の解決法もあるのだ。それがK社の事例である。K社はどのようにこの問題を解決したのか? 興味を持たれた方は、ぜひ会場にお越しいただきたい。もしかしたら満席になるかもしれないので、ぜひ駆け足で(笑)。


<関連エントリ>
 →「工場見学ほど面白い物はない」 (2007-06-15)・・・この記事を書いてから、もう10年近く過ぎましたが、はたして予言が当たりましたかどうか。
# by Tomoichi_Sato | 2016-07-16 21:32 | 工場計画論 | Comments(0)

講演のお知らせ:『プロに学ぶ、上手な工場見学の見方・歩き方』

例によって直前のお知らせで恐縮ですが、研究会で講演します。
来る7月20日(水)18時30分より、わたしが幹事の一員をつとめる中小企業診断士協会「生産革新フォーラム」で、

プロに学ぶ、上手な工場見学の見方・歩き方

と題する講演を行います(場所は日本橋堀留町公民館の予定です)。

わたしは工場づくりのプロ集団であるエンジニアリング会社に長年勤めておりますが、同時に工場見学も大好きで、機会があれば国内外のいろいろな工場を見学してきました。

製造業は業種や製品によってバラエティが大きく、たとえば日本では「工場」と「プラント」を別物のように考えています。が、英語ではどちらもPlantで、工場長はPlant Managerです。実際、見た目は両者でかなり違いますが、共通点も多く、また悩みや課題、そして解決の方向性も共通しています。

多くの工場(とくに消費財メーカー)は、顧客や地域社会との良好な関係づくりのために、工場見学の標準メニューや見学コースも用意しています。そういうコースを歩いて、「見た気分」になるのは簡単ですが、本当に大事なのは、その工場がどのようなレベルにあるのか、どのような設計思想でつくられているのか、どこに仕組み(システム)上の工夫があるのか、そしてどこに非効率やカイゼンのタネが潜んでいるのかを、見抜く力です。

このサイトでも以前、「超入門:上手な工場見学の見方・歩き方」と題するエントリを書きましたが、今回の講演ではこの内容をバージョンアップし、工場を「生産システム」ととらえることで、目に見えにくい仕組みを見抜くとともに、工場の未来の姿についても考えます。本研究会は診断士でなくても自由に参加できますので、工場作りに関心のある大勢の方のご来聴をお待ちしております。


佐藤知一@日揮(株)
# by Tomoichi_Sato | 2016-07-12 12:31 | 工場計画論 | Comments(2)

トラブルには技術的原因と、マネジメント的原因がある

トラブルの原因分析について、このところ2回にわたって考えてきた(「熱気球の浮上、または原因分析のシステムズ・アプローチについて」・「経験から学びすぎることの危険 ~ゆらぎある事象の原因分析について」 )。原因分析の手法にこだわっているのは、それが「学び」と「成長」の鍵だからである。自らの能力を向上させ、成長するためには、仕事の結果(成果)から学ぶべきだと、わたしは信じている。個人も、組織集団も、である。

仕事の結果としてトラブルが生じたら、そこから素直に学ぶ。成功からも学べるが、失敗から学ぶ方が、記憶に強く残るからだ。そして(当然ながら)すべてに成功できる人なんていない。あの本田宗一郎だって、「自分は失敗ばかりしていた」と言っているくらいだ。他人から見たら成功でも、自分ではそこに足りない点を見る、というのがこの経営者の卓越した点だったのだろう。

さて、繰り返すが、『根本原因』Root Causeとは、トラブル事象を因果関係で最上流までさかのぼって、「わたし達がコントロールし改善できる要因とみなせる事柄」を言う。自分が改善できない範囲の要因を、根本原因ととらえてはいけない。たとえば「不況のせいだから」とか「経営者がアホだから」というのは、根本原因にはならない(居酒屋談義ではよくきく説明だが)。

わたし達の意志の及ばない範囲のことは、ふつう「環境」とよぶ。市場環境とか自然環境とか職場(内部)環境といった言葉である。環境はわたし達の行動に影響を及ぼして、仕事の結果(成果)をけっこう左右する。「行動」と「環境」が成果を決める二大因子なのだ。

成果 = 行動 + 環境

そして、わたし達の行動は、実際には、わたし達が持つ「能力」と、「道具」と、わたし達の「意志」(決断)によって決まる。

行動 = 能力 + 道具 + 意志(決断)

能力とは潜在的なもので、多くの場合は結果を達成した確率から間接的に測られる。野球の打率のようなものだ。確率になるのは、環境がそのたびごとに変動する(相手の投手だとか体調だとか球場だとか)からである。以前の記事で、「チャレンジ行動」と「冒険的行動」を区別して書いたが、じつはどちらも確率的なものであって、単に失敗のリスク確率がリーズナブルか非常に大きいかの違いでしかない。リスク確率が高くて、無謀に思える冒険的行動をとるのは、「意志」(決断)でそう決めたからだ。もちろん、能力は使う道具にも依存する(良い道具を選んで使いこなすことは能力の一部である)。
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さて、トラブル事象の原因分析をしていくと、原因には大きく二種類あることに気がついてくる。第一は、直接の技術的原因(きっかけ)である。それは、

(1) 能力に関わるもの:単純ミス、担当者の能力の低さ
(2) 道具に関わるもの:道具の故障、不適切な道具の使用
(3) 人間の意志(判断)に関わるもの:問題行動、悪意
(4) 環境に関わるもの:危険な環境、無理な制約

といったことだ。いずれも、上の方程式にある項目と関連している。

ところが、大きなトラブル事象の場合、直接の技術的原因(きっかけ)以外に、「マネジメント的な原因」が存在するのが常である。マネジメント的原因とは何か。それは、技術的原因(きっかけ)で生じかけたトラブルが、そのまま仕事の成果に出ないような「仕組み」を作ることを怠った、あるいは仕組みが機能しないのに放置していた、ということである。

たとえば、上記(1)の単純ミスについて考えよう。人間はミスをおかす生き物である。ミスをしない人はいない。だから、ポカよけ・多重チェック・インターロックなどの仕組みを講じるべきなのだ。乾電池を逆向きに入れられない形に設計する、といった工夫がポカよけであり、外側の扉を閉めないと内側のドアが開かない暗室の入り口のような仕組みが、インターロックである。一般に、人間のミスや誤判断を防ぐ仕組みを総称して「フールプルーフ」とよぶ。

また、(2)道具や機械は必ず故障するものである。故障が生じたとき、それが重大事故や製品の欠陥に結びつかないようにする仕組みを「フェイルセーフ」とよぶ。本質的安全設計、多重化・冗長化、バックアップ、ニンベンのついた自働化、工程内検査(自工程完結)などがその例だ。

(3)の人間の問題行動については、たとえばルール・契約・教育研修などによって低減できる。「無知」というのは問題行動の大きな源泉だが、まさに過去のLessons Learnedから「学び」を共有することが、最大の対抗策である。

(4)の危険環境については、人間が危険な環境(作動中の機械なども含む)に直接触れないよう、防護柵を設置するなどの「セーフガード」が必要である。「作業環境」を清潔・快適に保つことが大事なことは、言うまでもない。また自然災害についても、発生を極力リアルタイムに検知・予測できるような仕組みをつくる、あるいは保険をかけて事後の回復を容易にする、などの手段がある。

トラブルや問題発生の可能性を予見して、フールプルーフ・フェイルセーフ・訓練・保険・セーフガードなどの対策を講じること。これを、一般に『リスクの事前対策』とよぶ。リスクの事前対策は、トラブル発生時の事後対応、そしてトラブル終結後の原因分析・学びとならんで、リスク・マネジメントの三本柱である。

大きなトラブル事象の原因分析をすると、たいていの場合、上に記したリスクへの事前対策が適切にとられていなかったこと、つまり「マネジメント的原因」が見つかる。逆にいうと、大きなトラブルは、直接の技術的原因(きっかけ)と、マネジメント的原因が同時に組み合わさったときに起きるのだ。もちろん、マネジメント的原因を見つけるためには、仕事の仕組み(システム)を見とおす能力がいる。

トラブルに学んで成長するためには、まず、起きた事実を、利害や好き嫌いなどの感情を離れて、できるだけ客観的に見る必要がある。そして現実と、意図した結果(約束や目標)からの乖離を見る訳である。ここが曖昧だと、原因分析のプロセスが起動しないため、何も学ぶことができなくなってしまう。また、かりに原因分析をしたとしても、マネジメント的原因の方を見過ごすと、一切の責任は、直接のきっかけを作った担当者にかぶさってしまう。あるいは不運な環境のせい、ということになってしまう。そして次のトラブルの根本原因は残ったままだ。だから担当者が変わっても、いつも似たようなトラブルの繰り返しということになる。いつも似たトラブルを繰り返すときは、「マネジメント的原因」の存在を疑うべきである。

今回の話は、ここで終わりにしてもいい。しかし(いつものくせで)もう一言だけつけくわえておこう。じつは、こうした「学びのサイクル」を阻害するものが、身近にあるのだ。思考習慣の上の問題、あるいは組織のOSのバグと言ってもいい。

それは、仕事の成果を、すべてリーダーの人格だけで説明する議論である。「あの仕事はうまくいった、それはリーダーのAさんが立派だったからだ。」「この仕事は失敗だ、なぜならリーダーのX氏がダメな奴だからだ。」・・こうした議論は、実質的に何も生まない。そもそも人の性格なんてすぐには変えられないのだから、結局、「リーダーを取り替える」しか、処方箋が出てこない。

こうした議論は、派閥や権力争いのある場所で生じやすい。そういった人間集団では、トラブル事象は、つねに「敵を攻撃する材料」としてとらえられる。結果として、不都合な事実やトラブルは、しばしば隠されることになる。こうした状況を皆さんはご覧になったことはないだろうか? たしかに人間集団には、権力争いがつねにつきまとう。だが、こんな組織で学びや成長がありうるだろうか?

こうした不都合を防ぐために、『ガバナンス』の仕組みが生まれたのである。ガバナンスとは、マネージャーをマネジメントする仕組みである。あるいは、リーダーの勝手気ままを牽制する仕組みといってもいい。

ガバナンスの仕組みでは、ルールや目標を明文化し、リーダーの恣意的判断や結果への言い逃れを防ぐ。ルールによって、リーダーや組織全体の行動の予見可能性を高めるのである。また記録をとり、第三者によるチェックを可能にすることも重視される。無論、必要に応じてはリーダーその他のポジションを入れ替えることもある。株主総会と取締役会というのは、代表的なコーポレート・ガバナンスの仕組みだが、まさにこういう仕掛けになっている。

こうしたガバナンスを構築することは、たしかにめんどくさいし、余計な間接業務が増える。日本版J-SOX と内部監査とで、いらん仕事が増えたと感じている向きも多いだろう。現在のJ-SOXのあり方を、全面的に弁護するつもりなど、わたしにもない。また、あれだけ守っておけばガバナンスは十分だというつもりもない。上に縷々述べたとおり、ガバナンスの仕組みとは、組織が学んで成長するために必要な、後戻り防止装置なのである。

わたし達は、お殿様が何でも独り決めできた、昔の時代に生きている訳ではない。ガバナンスは、組織の現代化には必須の仕組みなのである。かつての時代、殿様が無能だと、組織は何も学べなかった。わたし達は違う。仕事の成果を客観的に見て、目標値と比べて評価し、問題があれば原因分析を行って、仕事のシステムを改善することのできる時代に生きている。こうした仕組みこそ、やれ戦略だとかなんだとかいう前に押さえるべき、基本中の基本なのである。

<関連エントリ>
 →「熱気球の浮上、または原因分析のシステムズ・アプローチについて」(2016-06-15)
 →「経験から学びすぎることの危険 ~ゆらぎある事象の原因分析について」(2016-06-23)
 →「ハイボールと、本質的安全設計の教え」(2014-01-19)
# by Tomoichi_Sato | 2016-07-09 15:48 | リスク・マネジメント | Comments(0)

映画評:★★★ 「スティーブ・ジョブズ」

2016/06/07
機内TVにて。
監督:ダニー・ボイル、脚本:アーロン・ソーキン、編集:エリオット・グレアム、音楽:ダニエル・ペンバートン
出演:マイケル・ファスベンダー(スティーブ・ジョブズ)、ケイト・ウィンスレット(ジョアンナ・ホフマン)、セス・ローゲン(スティーブ・ウォズニアック)、ジェフ・ダニエルズ(ジョン・スカリー)、マイケル・スタールバーグ(アンディ・ハーツフェルド)、パーラ・ヘイニー=ジャーディン(19歳のリサ・ブレナン)、他
2015年アメリカ映画

スティーブ・ジョブズ (DVD)」 (Amazon.com)

近頃、これほど面白い、引きつける力の強い映画を観たことがない。機内TVの小さな画面で、ほんの試しに選んでみただけだったが、あっという間に引き込まれて一気に見てしまった。

映画の構成はシンプルである。ジョブズの生涯で最も重要な三つの製品発表であった、1984年のMacintosh、 1988年のNeXT、そして1998年のiMacの、プレゼンテーション開始直前のそれぞれ40分間を描く三部構成。登場人物たちもかなり重なっているので、時こそ飛躍はあるが、ほとんど古典演劇の三一致原則のような完成度を感じる。この単純なプロットで、スティーブ・ジョブズの公私にわたる複雑な物語と人格の成熟とを描き切った脚本・編集・そして演出の手腕は見事である。

ジョブズが傑出した人物だったことは多くの人が認めるだろう。だが個人的には自惚れが強く気まぐれで傲慢で独裁的で、しかも非常に傷つきやすい人間だった。自分のボスには到底仰ぎたくないタイプである。Macintoshプロジェクトの生みの親だったジェフ・ラスキンは、「現実歪曲フィールド」という、重力場をもじった造語で彼を形容している。それくらい強引なのだ。Macintoshは結局ジョブズが乗っ取って、マウスとGUIを前提としたコンピュータにしてしまう。

この映画では、シテ役のジョブズに対して、ツレ役のジョアンナ・ホフマンが連れ添って、彼と現実界のインタフェースを引き受ける。このケイト・ウィンスレットの演技はとても良い。ジョアンナは最初のApple時代に「ジョブズにもっと果敢に逆らった社員」賞を二度も受賞した人だ。広報マーケティング担当者として出てくるが、元はラスキンがMac開発チームに雇った人で、彼女がMacintosh User Interface Guidelineの最初のドラフトを書いたと、映画を見た後で知った。それはさておき彼女が、プレゼン前で極端に興奮するジョブズをなだめ、娘のリサと和解させようとしたり、次々とバックステージを訪れてくるウォズやスカリーらと話させる。この趣向が面白い。

もっとも、プレゼン前40分間という枠組みのため、とにかく皆を楽屋裏に呼び寄せなくてはならず、そこに無理があるとも言える。娘のリサが3回とも見に来ていた、などというのも明らかに脚色だろう。事実を元にした実名フィクションなのだから、その脚色の手腕をほめるべきだが、うっかりすると全て現実にあった話だと誤解する観客も出てくる。そこであえて廊下の壁に連想的な映像を映し出したりして、これはフィクションですと告げる。さすがである。

ビジネスマンとしてのジョブズのキャリアは、失敗続きだった。初期のApple II販売の成功を除くと(開発したのはウォズだ)、Lisaで失敗し、Apple IIIからも拒絶され、起死回生のMacintoshも高くて遅くて大赤字だった。プレゼン最初の音声デモは、アンディ・ハーツフェルドがメモリを512KBにこっそり増設して、やっと乗り切ったと映画は描いている。

結局彼は自分が呼んだスカリーに逆に追い出され、AppleをクビになってNeXT社を作る。だが肝心の製品Cubeは発表後1年経ってようやく売り出され(つまり未完成のままボストンであのプレゼンをやったのだ)、これも大赤字。しかしNEXTSTEP OSをAppleが買収する形で、古巣に舞い戻る。そこでも赤字のため首切りリストラを実行し、3度目の起死回生としてiMacを開発する。

iMacの成功によってジョブズは再び時の人となり、その後の快進撃は誰もが知っている。だから映画はその後は描かない。この映画の優れているところは、ジョブズ生涯の最後の成功を、彼の人間としての成熟に結びつけて暗示している点だ。その象徴として、娘のリサが三度にわたり登場する。いったんは親子の認知を拒否し、そのくせ新型コンピュータにはLisaの名前をつけ、しかし母子が経済的に困窮してもたいして面倒を見るわけでもない。

こうした彼の矛盾と弱さは、シリア人男性とアメリカ人女性の間の私生児として生まれ、里子として「返品された」という彼の出生時のトラウマに、そのまま直結している。その「返品」劇は、Appleの臨時役員会で彼が解任される時に、もう一度再演されるのだ。

大人になってから彼が経験する二度目の拒絶=Apple追放は、しかし赤ん坊の時と違って、本人が呼び寄せたものだ。彼があまりにも他人の感情を理解せず、無視したことから生じている。現実歪曲場の中心には、自分の感情だけしか存在しなかったのである。仕事の成果のみが彼の存在証明で、そのくせ、仕事では他人に働いてもらうことが必要だった。

じっさいジョブズほど、シリコンバレーで珍しい経歴の持ち主はいない。彼はエンジニアでも天才プログラマでもなく、MBAあがりのプロの経営者でもない。そうした仕事は彼の仲間だったウォズや、アンディ・ハーツフェルドや、スカリーが受け持ち、また逆の意味で旧敵ビル・ゲイツなどが果たしていたのだ。

では、スティーブ・ジョブズとは何者だったのか。大学も出ておらず、モノも製作できず、審美眼はあるかもしれないが、自分で絵を描いたりデザインをするわけでもなく、大企業の勤務経験もなく、技術も素人だ。こんなキャリアで成功できた人間が、シリコンバレーで他にいただろうか?

ジョブズにできたこと、ジョブズが持っていたこと、そして他の人間に足りないものが、一つだけあった。それは「一貫性」への強い執念である。あらゆる細部にわたって、彼は自分の思想と趣向にこだわった。ハードと、OSと、ソフトと、デザインがすべて首尾一貫していることを、彼は求めた。それがジョブズの製品と、大勢の亜流たちとの決定的な違いだった。そのことは、三回のプレゼンの準備過程にとてもよく現れている。思想の一貫性こそ、ジョブズがいつまでも現役でいられた秘密である。彼に比べるとウォズもスカリーも、いやビル・ゲイツでさえもはや過去の人だ、という印象をわたし達はぬぐえない。

ただし最初のMacも、二度目のNeXTも、一貫性の魅力はあったが、バランスに欠けていた。それが製品としての弱さだった。

iMacこそ、彼の製品がバランスを備えはじめた最初の例だ。それは彼の精神が、試練を経て、中庸を得始めたことの表れであると、描かれている。その証拠に、三度目のプレゼンに望む主演マイケル・ファスベンダーの顔は、実際の映像に残っているまだ中年のジョブズではなく、病気で痩せて哲人の風貌を帯びはじめた晩年のジョブズの顔をしているからだ。これこそ、演出上の最大のトリックであろう。それまで一切、他人の感情に歩み寄ることがなかった彼が、ようやく娘リサへの愛情に動かされて、和解に向けて足を踏み出してゆく。

だからその後、実際にiMacがヒットしたかどうかは、ストーリーとしては本当はどうでもいいことなのだ。彼が他者に愛情を与えることを通して、自分が必要とされていることを確信するところで、映画は終わる。そのことこそ、誰にも共通な、真の成功に向けた一歩だったからである。
# by Tomoichi_Sato | 2016-07-04 22:36 | 映画評・音楽評 | Comments(0)

「プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会 (2016年7月14日)開催のお知らせ

プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会」の2016年第4回会合を、以下の要領にて開催いたします。

今回は、グローバル企業のマネジメントのあり方・手法そして人材について、ドイツ系企業の日本社長であるへレウス株式会社・土屋淳様にご講演いただきます。 土屋様は元々技術者で機能性材料の開発等に携わられましたが、日本企業を振り出しに、その後、米国企業・ドイツ企業の経営者を経験され、
「欧米のグローバル企業といっても、いろいろな違いがある。その中心にはエトス(納得感)のあり方の差がある。実はグローバル化は外資企業にとっても難しい」
という趣旨の論文を昨年『化学工学』第11号・12号に発表されています。

実際のグローバル・ビジネスの世界で活躍中の経営者から、具体的で臨場感のあるお話が聞ける、またとないチャンスです。ぜひご参加ください。


<記>

■日時:2016年7月14日(木) 18:30~20:30

■場所:
慶応大学 三田キャンパス・北館・会議室3(地下1階)
    アクセス (http://www.keio.ac.jp/ja/access/mita.html)
    ※キャンパスマップの【1】になります

■講演タイトル:
グローバル人材に求められるもの

■概要:
日本企業、米、独外資系企業での経験、体験から、グローバルビジネスにおいて相互理解のための総合的なコミュニケーションスキルの重要性を言及する。コミュニケーションによって得られる納得感こそが組織の価値向上のために不可欠な要素であり、違う文化を背景に持つ者同士が同じベクトルを向くことができると思う。

■講師:土屋 淳(へレウス株式会社・代表取締役社長)

■講師略歴:
1952年生まれ。 1981年東京大学工学部合成化学科博士課程卒業、工学博士
職歴:1981-1984 米国国立研究所
    1984-2002 三菱化学 (1989-2000年米国駐在)
    2002-2006 米国企業 Rohm and Haas Japan 取締役
    2007- ドイツ企業 Heraeus Japan 代表取締役社長

■参加費用:無料。
ちなみに本研究部会員がスケジューリング学会に新たに参加される場合、学会の入会金(¥1,000)は免除されます。

参加を希望される方は、確認のため、できましたら当日までに佐藤までご連絡ください。なお会場には定員があるため、場合によってはお断りせざるをえないケースも考えられますので、ご了承ください。


佐藤知一@日揮(株)
# by Tomoichi_Sato | 2016-06-29 18:37 | プロジェクト・マネジメント | Comments(0)

経験から学びすぎることの危険 ~ゆらぎある事象の原因分析について

1973年、第四次中東戦争が勃発した。イスラエルに対してアラブ国側が先制攻撃をしかけて始まったこの戦争は、緒戦段階でエジプト軍の地対空ミサイルが効果を上げ、イスラエル空軍機を多数撃墜した。戦争は結局、米国の後押しを得たイスラエル側が、ある程度まで押し返して、わずか2週間ほどで終わる。ただ、この時の余波で第一次石油ショックが起こり、油価の暴騰とエネルギー供給危機に、日本を含む西側諸国は大きな動揺を経験する。

イスラエルの側も、それまで過去の戦争ではアラブ側を圧倒していたのに、大きく面目をつぶした。とくに空軍の損失は甚大で、しかも損失の出方は偏っているようにみえた。たとえば、同じ基地から飛び立った二つの飛行中隊のうち、片方は4機を失ったが片方は無傷だった。このため、損害を被った飛行中隊のどこが悪かったのか見つけようと、調査が開始されていた。しかし一方の中隊がとくにすぐれていると考えるべき理由はなかった。作戦にも違いはなかった。かくして、調査はパイロット一人ひとりの生活や態度に向かっていった・・。

しかし、後にノーベル経済学賞を受賞することになるダニエル・カーネマンは、この調査をやめさせるようイスラエル空軍に進言した。カーネマンはもともと心理学者である。ただ、かれのアドバイスはもっと単純なものだった。「この違いの説明について、最もあり得る答えは『偶然』である。あるかどうかも分からない原因を求めて調査するのは意味がない上、パイロットたちには、自分や死んだ戦友に落ち度があったのではないかと感じさせ、さらによけいな重荷を背負わせることになるだろう」、と。

この話は、D・カーネマン著「ファスト&スロー 〜あなたの意思はどのように決まるか?」に書かれているエピソードである(邦訳上巻・p.171)。ところで、彼のこのアドバイスの意味は、お分かりだろうか? わたしも、最初ちょっとよんだときには理解できなかった。だが、これは統計の大数の法則を思い出してみると、分かるようになる。たとえば、いま、サイコロを振って、出た目の数が5〜6なら○、1〜4の間なら×、だとしよう(○が出る確率は1/3だ)。では、次の二つのうち、どちらがより珍しい事象だろうか?

(1) サイコロを4回振って、全部○が出る
(2) サイコロを10回振って、全部○が出る

誰だって、(2)の方が起こりにくいことは知っている。サイコロをふって、1/3の確率が4回続くのと、10回続くのでは、当然ながら10回の方が珍しい。

これを逆に言うと、4回振って全部○になる(1)の方が、10回セットの(2)よりも起こりやすい訳だ。母数が少ない場合には、偏った結果の出る確率が高い。大数の法則とは、「試行の回数が多いほど結果は平均値に近づく」というものだが、「母数が少ない場合は、平均値よりもずっと偏った結果の出る確率が、相対的に高い」と表現することもできる。カーネマンは、だから、小数の飛行中隊のサンプルから、むりに差を見つけようとするのはやめた方がいい、と進言したのである。

カーネマンの著書には、さらにこんな例も紹介されている(p.160)。「全米にある3,141の郡部で、腎臓の重篤な病気の出現率を調べたところ、顕著なパターンが発見された。出現率が低い郡の大半は、中西部・南部・西部の農村部にあり、人口密度が低く、伝統的に共和党の地盤である」--これをよんだ人は、「いなかのきれいな環境のおかげで腎臓の病気が少ない」と、つい考えやすい。

では、その病気の出現率が高い郡はどこか。正反対の環境にあるところ、すなわち東海岸や西海岸の大都市・近郊で、人口密度が高く、民主党支持層の多いリベラルな地域だろう、と普通は考える。しかし、答えは正反対である。じつは、出現率が特に高い郡もまた、「中西部・南部・西部の農村部にあり、人口密度が低く、伝統的に共和党の地盤」にあるのだ。

これは一体どういうことなのか? 病気の出現率が特に高い地区も、特に低い地区も、似たようなところにあるとは。いなかの環境は健康にいいのか、悪いのか?

説明は簡単である。人口密度の低い郡は、つまり母数となる人口が少ない地区である。だから、平均値よりもかなり外れた統計値(高低いずれも)が現れる確率が高いのだ。もっと人口の多い郡では、ずっと平均値に近づく。ちょうどサイコロを4回振るのと10回投げるのでは、後者の方が平均的結果に近づくように。それ以外の因子、たとえばロケーションや農業や政治的スタンスは、あまり腎臓に強い関連性はないらしい。

わたし達の脳は、ちょっとした出来事にもパターンを見つけ出す能力を持っている。その一方で、確率というのは、直感的に分かりにくい概念である。その結果、わたし達はしばしば、偶然のゆらぎがもたらす確率的な現象を、何かの必然性がもたらした結果だと考えやすい。

病気に対する投薬の効果も、確率的なものである。「8割の方の症状が軽減しました」というような広告を、よく目にする。それはつまり、「効かないケースも2割くらいある」訳で、つまり人間に対する薬の効果は確定的ではないのだ。患者の身体には一人ずつ個性があるからだろう。だが、「医師たちにおいては不確実性よりも自信を示す方が好まれる」(同書p.50)。このため、患者が健康を回復したのはこの薬が効いたのだ、と素人は思い込みがちだ。

もう一つだけ例を挙げよう。男性は女性より背が高い、という命題を考えてみる。一般論としては、たしかにそうだ。ただ、男性も女性も背の高さの分布には幅がある。だから個別にはもちろん、奥さんより背の低い旦那さんだっていくらも存在する。任意の成人男女のペアを取り出した場合、男性の方が背がつねに高い訳ではなく、90何%かの確率で高い、としかいいようがない。このように、統計的分布の中から個体をとりだして比較する場合、状態を表す命題も確率で表現することになる。背の高さばかりではない、世によく言われる「男は女よりも○○だ」という命題も(性別でなく人種や出身地でも)、基本は確率的である。

さて、原因分析とは、
(1) AならばBである、という知識と、
(2) XはBであった、という事実から
(3) Xの原因はAだろう、と推論すること、
である。さらにそこから、
(4) ××の状況ではAすべき(あるいはAを避けるべき)と学ぶこと
が、いわゆる教訓(Lessons Learnt)であり、これが組織のPDCAサイクルを支えている。

ところで、(1)の「AならばBである」、の多くは、確率的なゆらぎを伴う事象である。したがって原因分析も確率的な推論になるべき、ということになる。

物知りな方は、ここで「ベイズ推計」という手法を思い出すだろう。ベイズの定理の説明などは省略するが、結果に対する情報から、その原因となる仮説の「確からしさ」を確率で計算する手法である。通常の確率は、サイコロを繰り返し投げるようなときに、特定の状態が将来起きる頻度を推定するものだ。つまり将来の予測である。どれくらいの頻度で起きるかを論じるので、頻度論ともよばれる。ところがベイズ推計の確率は、過去どういう状態だったのかを推定するもので、同じ確率といっても意味が違う。「Xの原因はAだ」という仮説の確からしさ=信頼度を、ゼロから1までの値で示している。これを『主観確率』という。

ちょっと分かりにくいので、簡単な例を挙げて占めそう。新製品ライン設置のプロジェクトは、設計・製造・据付の三つの工程をへて遂行される。ただし新規の仕事なので、各工程で20%の確率でミスが発生する危険性がある。前工程でミスが生じても、次工程の側では気づけない。さて、今この新製品ラインを試運転したところ、うまく動かないないことが分かった。このとき、不良発生の原因が製造工程のミスだった確率はいくらか?

直感的に考えると、三つの工程どこでも等しくミスが発生するのだから、その確率は1/3 = 33.3%じゃないかと思える。あるいはもう少し注意深い人なら、「最初の設計工程でミスが発生しない確率は4/5だ。次に製造工程で不良が発生する確率は1/5。だから第2工程が原因である確率は4/5 x 1/5 = 4/25 = 16%だ」と計算するかもしれない。

だが、どちらも間違いである。「上流から不良が送られてきたら、次工程は不良の根本原因にはならない」のだから、三つの工程は平等はでないはずだ。二番目の推論は、「この新製品ラインが正しく動かない」という結果情報をすでに得ていることを無視している。

正しくは、こうなる:ラインが正しく動く確率は、4/5 x 4/5 x 4/5 = 64/125だ。逆に言うと正しく動かない確率は 1 - 64/125 = 61/125 である。他方、製造工程で最初にミスが発生する確率は4/25である。したがって、「トラブルが発生した際に、製造が不良の根本原因だった」(=最初に不良が発生したのは製造工程だった) 確率は、4/25 ÷ 61/125 = 20/61 = 32.8%で、1/3よりは少し小さい。

過去の事象は、すでに確定している。このプロジェクトの失敗が製造工程で生じたのか、真実はYesかNoか、ゼロか1かの、いずれかだ。だがその真実は、わたし達には知り得ない。わかるのは、「ミスは製造工程で生じた」という関する仮説の確からしさ(主観確率)で、それがこの場合、32.8%なのである。

主観確率とは奇妙な概念だが、それでも数学的には確率の公理論を満たせるので、確率とよばれる。頻度論とちがい、一度限りの事象に関する仮説の確からしさを、周辺の観測事実を援用しながら計算し更新していくので、主観確率の概念はプロジェクト・リスク分析などにも用いられる。プロジェクトは個別でユニークな仕事であり、そこで起きる事象はつねに一度限りだからだ。プロジェクトの事後に行われる原因分析も、だから本当は確率的な推論なのである。

しかし、わたし達の思考習慣は、そういう風になっていないことが多い。たとえば、一般に法律論は確定的な因果律を求めたがる。「AはXの原因と断定できるか」が、法律家の問いだ。そして断定できなければ無罪放免とする。「疑わしきは罰せず」の原則である。これは法制度の安全弁となっている訳だが、その代わり、昔の公害と疾病発生のように、因果関係が立証できないと、免責されがちになる(放射線量と健康被害の議論などもその同類で、確定的な因果関係があるとも、ないとも、断定するのは困難だろう)。法的責任がからむと、そもそも客観的事実を共通認識する事自体が難しくなる。

だから、という訳ではないが、これが組織ではしばしば逆転して「疑わしきは原因を探せ」「疑わしきは担当者を責めろ」の原則(?)が生まれる。原因分析の推論は「責任追及」に支配されがちとなるため、「疑わしき」リスクは排除する方向に、皆が動く。さもないと自分が責任を問われ、組織から排除されかねないからである。こうした習慣は、わたしが「安全第一主義」と名付けた組織文化をもつところでは普通に行われている。「前例」を求める役人、「完璧」を求める購買担当者、「大手」にしか発注しないIT部門、皆このたぐいだ。トラブルが発生したら、疑わしき部門や担当者を必死に探し出し、皆が自分以外の誰かの責任だといいたてる。こんな組織では人々が防御的・責任回避的になるだけで、失敗の経験から本当に学ぶことは難しい。

そこまでひどくない場合でも、トラブル事象が起きると、性急にその「原因説明」をしたがる人は多い。新製品ラインがトラブった。詳しく調べると製造工程の人の判断ミスだった。やっぱり! 前にも似たトラブルはあったなあ。子会社化されて以来、工場のやる気が落ちているんじゃないのか? そこで担当者を含む部署に訓示が出され、チェックを徹底するよう指示が出された・・

これで安心するのは早計である。人はミスをする存在だからだ。そしてミスは上流工程ほど影響が大きい。先ほどの計算の続きをしめすと、失敗が生じたとき、根本原因が設計工程にある確率は41.0%、製造工程起因が32.8%、据付工程起因が26.2%だ。たまたま今回は製造で問題が生じたが、つぎに問題が起きたら、設計から疑ってみるべきである。わずか1、2回の経験で原因を決めつけるのは性急に過ぎるのだ。
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教訓は単純である。それは、確率的なゆらぎが絡む問題については、学びは長期的・統計的でなければならない、ということだ。個別の結果に対して、すぐ原因を特定して性急に学ぼうとしてはいけない。それは初動で戦友を失った空軍のパイロットをさらに詮索するようなものだ。野球では強打者でさえ、打率は3割程度である。だとしたら、イチローが個別の打席で凡打だった原因を毎回議論して役に立つか、ということだ。少なくとも数試合、傾向を見なければ調子は論じられない。

ゆらぎのある事象の原因分析においては、大きな傾向・パターンを見るべきである。人は確率的存在だ。そして一定確率でミスをする。それを防ぐにはシステムが必要で、システムを考えるには時間をかけた観察が大切だ。経験から性急に学びすぎない態度が肝心なのである。

(追記)
上記の3工程の問題は、その昔、早稲田の入試に出たという問題を下敷きにしたものだ。元の問題は「5回に1回の割合で帽子を忘れるくせのある人が、正月にA、B、Cの3軒を順に年始回りをして家に帰ったとき、帽子を忘れていることに気がついた。2番目の家Bに忘れてきた確率を求めよ」
だった。計算すると、
- Aの家に忘れてきた確率=41.0%、
- Bの家に忘れてきた確率=32.8%、
- Cの家に忘れてきた確率=26.2%
になる。だから、帽子を忘れてないかを最初にたずねるべきは、Aの家だということになる。三つの家は同じ条件のなのに、確率が違うのは直感的に奇妙に思えるだろう。だが、いったん前の家で帽子を忘れたら、次の家ではもう忘れようがないのだ。わたし達の直感は、かくのごとく確率的事象に惑わされやすいのである。

<関連エントリ>
 →「熱気球の浮上、または原因分析のシステムズ・アプローチについて」 (2016-06-15)
# by Tomoichi_Sato | 2016-06-23 22:19 | リスク・マネジメント | Comments(0)