結果オーライのマネジメントでいいのか? - 成果の予見可能性を高めるために

海外企業で経営者の一員として働く知人が、「利益額という結果だけで親会社から評価されマネージされるのではたまらん」と考え、Strategic Business Planを策定したという話を、前回書いた。彼は安定した成長の軌道を描くために、そして必要な経営資源を明らかにするために、苦心している訳である。では組織が「結果オーライのマネジメント」を脱して、成果の予見可能性を高めるためには、どうしたらいいのか?

答えはある意味、単純である。最終結果だけではなく、途中段階をコントロールする。すなわち、仕事を結果に至るまでの過程=プロセスに分解し、プロセスを構成するそれぞれのステップがきちんと働くようにすることである。たとえていうならば、長い釣り竿の先端を、ねらった位置にぴたりと当てるゲームを考えてみてほしい。根元だけ持って、先端の位置をコントロールするのは難しい。途中で勝手にしなるし、手元のブレや風の影響でブルブルゆれるだろう。だが、竿の途中の何カ所かに細い棒か何かで支えを入れて、その支えの位置をそれぞれ動かせれば、先端の位置決めははるかに精度が高くなる。そういうことだ。

仕事をプロセスに分解するとは、受注型営業ならば、商品説明→提案→見積→受注、という段階になるだろうし、設計作業なら要件確認→基本設計→詳細設計→試験確認、といった流れかもしれない。図では、仕事を直列な4つのステップに分けているが、べつに4でなくてもいいし、直線状ではなく分岐や並行があってもいい。
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各ステップには、それぞれの中間成果物や達成状態がある。そして各ステップには、そのパフォーマンスを左右するような、主要な導因(Key drivers)と、それを測るモノサシがあるはずだ。これが先ほどの釣り竿の例でいう、途中の支えに相当する。たとえば営業の商品説明なら、客先への訪問がKey driverだろう。それは訪問件数で測ることができる。そのステップの中間結果としては、次のステップ=提案まで持ち込める案件の比率が、達成度合いを示す。このようにプロセスを分解して、各ステップの状態を良く見分けることができれば、最終結果に至るずっと以前に、先行きの予想がつきやすくなる。つまり『予見可能性』が高まるのだ。

かりに営業の受注プロセスをよく見たら、商品説明から提案までは高い比率で進んでいくのに、その後、見積に行く段階で急に案件数が下がったとしよう。だとしたら、受注がふるわないのは、「商品力がないから」とか、「他社より価格が高いから」といった理由ではなく、「提案段階での内容・質に問題がある」ことが主要な原因だと分かるだろう。商品に興味は持ってもらえるのだ。だが、提案が顧客の期待にマッチしていない。だとしたら、提案力を上げるにはどうしたらいいかを考えることになる。

そして各ステップには、そのパフォーマンスに影響を与える環境要因がある。これもステップ毎に異なるはずだ。環境要因とは、担当者の意志や努力ではどうにも変えられない事象を指す。提案段階のパフォーマンスに影響を与えるのは、「世の中の景気」でもないし、「他社との競合の激しさ」でもあるまい。

提案力が低いのは、もしかすると設計部門が多忙すぎて提案営業に協力できない、といった内部環境なのかもしれない。あるいは単に、営業から技術部門への顧客ニーズの伝達が、うまくいっていないのかもしれない。ただ明らかなのは、「世の中の景気が落ち込んで競合が厳しくなったから受注高が上がりませんでした」という説明は、事実を正しく伝えていないということだ。こうした営業部門の言い訳は、プロセスに分解すると正当かどうか判断できる。

戦略とは、限られた経営資源をどこに集中し、どこは略すかを決めることである。だから上記のような状況では、提案能力を上げる部分に、人員や資金や技術を投入すべきだということになる。戦略は一種の賭けでもあるので、経営資源の投下が本当に期待した効果を上げているかを、Key driverと中間成果の数字で測って、適時検証しなければならない。

・・と、いうような話は、別にわたしの創意でもないし、取り立てて新しい考えでもない。結果だけを見るのではなく、結果に至るまでの段階と構成要素を見てコントロールすること、かつ全体を見て判断すること、必要ならばその仕組みを改良すること。これがシステムズ・アプローチである。原理自体はとりたてて難しいものではないし、図を見ればほとんどの人は「なるほど」と同意するだろう。プロジェクトという大きな仕事のまとまりを、構成要素であるActivityに分解するWBSという手法だって、その一例である。工場の人なら、工程単位に検査をしながら進んでいく「自工程完結方式」だな、と思うかもしれない。

だが、システムズ・アプローチを知っているということと、組織がいつでもそれを使いこなせるかどうかは、別物である。組織の構成員が無意識に従う、体系化された思考と行動の習慣を、わたしは『組織のOS』と呼んでいる。「結果オーライのマネジメント」が横行している組織では、システムズ・アプローチはまだOSレベルに至っていないな、と判断できる。そういう組織では、仕事の成果は人で決まるか、環境に左右されるか、だと信じられている。だから競争で人を選別するか、あるいは各人の頑張りで環境条件をはね返すしかない、という結論になる。

最近、とある著名な経営コンサルタントから聞いた話がある。この方は製造業の分野に強いのだが、日本企業の海外展開のあり方について気になることをいっておられた。海外に工場を建て、子会社を作るのはいいのだが、その子会社に対してまさに「利益額の結果だけで管理する」やり方をとっている企業がほとんどだ、というのだ。きいていて、ちょっとドキッとした。

かと思うと逆に、やれ稼働率だ資材購入単価だ生産性だと、部門別に細かなモノサシをたくさん指定して、それで海外工場同士を比較競争させる発想もけっこう強いらしい。「KPI経営」と、その方はよんでおられた。

KPI経営のどこがまずいのか? 企業の部門というのは、営業・資材購買・製造・物流、という風に、仕事の機能単位に、まさにプロセスで並んでいるのだから、それぞれの機能をKPIでコントロールするやり方は、まさに上に述べたシステムズ・アプローチではないか、と思う人もいるかもしれない。

だが、両者は似て非なるものである。まず、プロセス全体を見ている者がいない。日本の工場を「マザー工場」に指定して、海外工場にならわせるマザー工場制度を取るところも多いので、実質的には日本の各部門が、子会社の各部門をそれぞれ個別に指導・管理しているだけだったりする。だから、現地にも工場長はいるだろうが、日本で適切だったはずのKPIが、海外工場に同じように該当するかどうか、誰もきちんと全体を見て検証していない。

それに、上述の各ステップのパフォーマンスを左右する動因の一つは、すぐ上流側から受け取る中間成果物の品質やタイミングなのである。いってみれば上流側プロセスが、各ステップにとって最大の『環境』に相当するのだ。それなのに、上流側が勝手にそれぞれ局所最適を目指したらどうなるか。

たとえば資材購買のKPIが購入単価だったとする。つまり安ければ安いほどいい、と。いきおい、入ってくる資材は品質や納期にリスクを抱えることになる。加工課のKPIは機械稼働率だったとしよう。そしたら、とにかく機械を遊ばせないため、遅れ気味の資材が、入るはしから部品に加工したがるかもしれない。低品質な部品が、使うかどうかも不明なまま大ロットで工場倉庫に積み上がる。ところで組立課のKPIは一人あたり生産性である。そこで、できるだけ部品を作業ラインの近くに置いておきたがる。かくて、工場はモノであふれかえっているのに、必要なモノは足りなかったり、出来上がった製品の品質はさんざんだったりする・・

おわかりだろう。各ステップのKey Driversというのは、プロセス全体をとりまく状況に依存するのである。だから、システム全体を見る目と、判断する能力が必要なのだ。中小零細の工場主なら、こうしたことは理屈で知らなくても体感でわかっている。むしろ中堅以上の、分業が進んだ企業組織ほど危ない。業務を機能別に分解してKPIで働かせるだけででは、マネジメントしていることにはならない。WBSをつくって各Activityに担当者を割り振ったら、あとはプロマネなしでもプロジェクトは成功するだろうか? そうはいくまい。つねに変わりつつある内部環境や内部環境に応じて、総合的に判断する役目が必要なのだ。「総員がその持ち場で最善を尽くせば、結果は必ずついてくる」などというのは、じつはマネジメントの不在を示している。

くりかえすと、組織全体の成果の予見可能性を高めるためには、プロセス(工程)によるマネジメントとコントロールが必要である。そのためには、

・プロセスを構成する各ステップのキーとなる導因とモノサシを見定める
・モノサシと、結果のパフォーマンス(コスト、時間、品質など)との関係を推定する
・全体プロセスがうまく働くように、適切に人員や予算などの経営資源の配分を判断する

という手順を踏むことになる。こうしたことは、皆がある程度、無意識にやっている事かもしれない。いわれてみれば当たり前、あるいは「そんなの知ってるさ」という事かもしれない。だが、それを形式化し、OS化することが大切なのだ。それによって、属人的な仕事の進め方(技能)が、標準化された技術になるからだ。

そしてもう一つ。こういった原則的な知識は、字で読んだだけでは身につかない。自分自身の状況に引きつけて応用問題を考え、少しずつ試しながら理解する必要がある。たとえば上記のプロセスに、ループや分岐があったらどうしたらいいのか。どうみても数値化しにくい中間成果は、どう扱うか。

一般にマネジメントの問題には正解がないといわれる。それは、現実の仕事には環境条件や不確実性が左右して、結果に必ずしも再現性がないためである。だが同時に、『全体を見て総合的に判断する』ためには、確固とした価値観を持たなければならないからでもある。そして、こうした総合的判断の訓練のためには、学ぶ仲間がいるほうがいい。現在、わたしが主宰する研究部会では「PM教育の新しいアプローチ」を構想中だが、そこで学びのコミュニティが必要であると考えているのは、このためだ。一人だけで問題を考えると、どうしても視野が限られるが、複数人なら「三人寄れば文殊の知恵」が働くからだ。

そしてわたし自身も、まだ学びの途中である。

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# by Tomoichi_Sato | 2017-01-25 23:01 | ビジネス | Comments(0)

結果オーライのマネジメントでいいのか?

帰国した知人と久しぶりに会った。アジアの新興国で会社の経営陣の一員として働いている。日系ではなく純然たる現地企業だ。中堅規模でそれなりの業績も上げているらしい。知人の主な仕事はBusiness Development、すなわち事業分野の拡大と経営面の仕組み造りである。わたしも最近ずっと経営企画的な仕事をしているので、興味が重なり、いろいろな話を聞かせてもらった。

知人がその会社にヘッドハントされて着任したとき、真っ先に気になったのは、きちんとした中期的な経営の方針がないことだった。彼の会社は、その国の結構大きなコングロマリットの一部であり、子会社の位置づけだ。だが親会社からは、「何の指針も指示もなく、P/Lのボトムラインだけで管理されている」状態だったという。

P/Lとは財務諸表の『損益計算書』(Profit & Loss)の略称だ。損益計算書は一番上に売上収入が書かれ、その下に出費経費がずらずらとならぶ構造になっている。一番下の行には、差し引きの結果である経常利益が記載される。これを英語ではよく"bottom line"と称する。「P/Lのボトムラインで管理する」とはつまり、通期の利益額だけを見て、赤字だったら叱責され、黒字ならよしよしと言われるか、「まだ足りない」と言われるか、だけだったということを意味する。収益が大きければたぶん経営者はグループ内で地位が昇格し、赤字が続けばクビになって別の者にすげ替えられるのだろう。

だが、これだけでは、会社の経営陣として次にどういう手を打つべきか、さっぱり分からず、方向性が定まらないと知人は言う。そうだろうな、とわたしも思う。お前の会社はグループ内でこういう位置づけ、こうした役割を担っているのだから、こんな風な姿を目指せ、親会社として支援できるのはここまでで、判断基準ややり方はこうだ、というような指針が一切ない。ただ結果としての利益を出せ、と言われているだけだ。

きいていてわたしは、「甘えるな、結果が全てだ!」という標語を思い出した。わたし達の社会では、あちこちで出会うセリフである。経営者は結果が全てだ、利益を出せるかどうかだ。これは多くの株主が感じていることだろう。あるいは職場でも使う。営業は結果が全てだ、受注できるかどうかだ、という具合に。学校教育でもそうかもしれない。入試は結果が全てだ、いくら試験場で気張っても入試に通らなければ意味がない。スポーツも、参加したって勝てなければ意味がない・・

これは裏を返せば、良い結果さえ得られれば、その方法や途中経過は問わない、というメッセージでもある。そのやり方がどんなに属人的でも運頼みでも、とにかく結果さえ出れば、それで良いとほめられる。そして結果は、たいていリーダーの功績に帰せられる。だから優れた業績を上げた人は、どんどん引き上げて、より上位のポジションにつける。結果とは一種の人材選別のフィルターであって、優秀な人間を見いだしてリーダーに据えることですべてはうまくいく。そういう思想の表れである。そう考えると、わたし達の社会でやっている受験競争だとか就活だとかの大騒ぎの意味が、よく分かるではないか。試験で優秀な結果を出せた者が一流大学に進学でき、その中の成績上位者がさらに中央に引き立てられてエリートとして社会に君臨する。そのおかげで日本はここまで立派な大国になったのである、と。

でも、知人のケースに話を戻そう。結果を出すために、目の前の仕事を取りに行って、何とか完遂する。それをおえたら、また次の仕事を取りに行き、完遂する・・これの繰返しだけでは、会社は新興国の不安定な景気の波にもまれるだけで、真の成長はむずかしい。このままではまずいので、Strategic Business Planを作ることになった。それが彼に期待されたミッションの一つでもあった。ちなみに知人は元々、技術屋である。だが長らくプロジェクト・マネージャー職に従事し、さらに<マネジメント的な視点>を持っている人だ。経営関係の勉強もそれなりにしている。彼の上司にあたる社長も、技術者上がりだ(わたしは一度だけ挨拶したことがあるが、人柄を感じさせる立派な方だった)。だからこうした方面の役割を、その知人に期待したらしい。

Strategic Business Planであるから、まずは会社が中長期的に目指す姿を明らかにすることからはじめなければならない。そのためには無論、ある程度のマーケットの読みが必要である。魚のいない海に船を出してもしかたがないからだ。アジアのその国では、長い政治的低迷時代を少し前に脱し、ようやく成長過程に入っていて、エネルギーやインフラなども市場が期待できる。ただし市場は大きくても、競争をどうしのぐかが次の問題になる。せっかく豊富な漁場に出ても、周りを見渡したら、(たとえば)中国漁船がうじゃうじゃ、というのでは始末に負えまい。それから、自社の強みを明らかにして、それを向上させる技術なり人材なりの方策が必要である。漁場も良く、回りにライバル船が不在でも、自分の船にGPSもレーダーもなく、古代さながらの投げ網だけでは、収穫はしれているというものだ。

こうした仕事を進めるにあたり、すべてを自分だけで我流でやらず、社内を動員し、また外部のコンサルタントを活用したそうだ。とくに遂行面での弱みを補強するために、欧米系の超有名な、「マ」ではじまるコンサル会社を雇ったりもしたのだが、ここは期待外れだったらしい。それはさておき、彼が目指すStrategic Business Planを一通りつくり上げることができた。外部コンサルも、自分たちの頭を整理してくれる点では役に立った。なぜなら、経営計画を策定するという仕事はどこの会社にも共通しているし、経営学という学問の蓄積も一応はある訳だから、自分でゼロから車輪を再発明せずにすむ訳である。

こうして海図と羅針盤は手に入れた。だが、これからPlanを実行する段になると、別種の難しさに向き合うことになる。それは環境変化だ。

ここでちょっと考えて見て欲しい。今、AとBの二人の経営者がいるとする。彼らの会社の利益は次の通りだ。あなたが投資家だったら、どちらの会社がより投資先として好ましいと思うだろうか?
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どうやらこの国では、第2期は景気が良く、第3期はその反動で不況だったようだ。こうした環境変化はつねに起こりうる。企業の業績も、それを反映して変わるのがつねだ。それはこの表にも現れている。そしてA社・B社とも、4期合計の利益額は180億円で、結果に違いはない。

だが、A社はいかにも、業績にムラがある。これにたいしてB社の方が、より安定している。あなたが投資家だったら、B社の方が好ましいと思わないだろうか。たしかに経営者は結果が大切で、たくさんの利益を出した方が勝ちかもしれない。だが、ある期は黒字、次の期は赤字で、先々の予測がつかない経営では、ジェットコースターに乗っているようなものだ。過度のスリルを楽しみたいギャンブル的投機ならともかく、投資としてはいただけない。

つまり、組織のパフォーマンスというのは、個別の結果の良し悪しだけでなく、『予見可能性』が高いことが、社会から信用を得るためには非常に大事なのである。それはある意味、個人でも似ている。天才肌で、仕事の業績が飛び抜けて良い日もあるが、別の日はさっぱりふるわない、では組織の一員として使いにくい。何年に一度かヒット作が出れば食っていける職種もあるかもしれないが、たいていの業種はそうではない。

では、組織として、環境条件の変化にあまり左右されずに、安定してパフォーマンスを上げるためにはどうしたらいいのか。長くなってきたので、この続きは稿をあらためて、また考えよう。
(この稿続く)



# by Tomoichi_Sato | 2017-01-20 23:02 | ビジネス | Comments(0)

好きな事・上手にできる事・稼げる事・世の役に立つ事

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この図形をいつ、どこで見つけたのか、正直いって思い出せない。ネットで拾ってきたのは確かなのだが、今、検索し直してもオリジナルがどれか見つけられずにいる。でも、著作権不明なまま、掲げておこう。非常に気が利いていて、初めて見たときから面白いと感じたからだ。

言うまでもないが、これは「人生の目的」に関する、一種のベン図である。ベン図は集合の包含関係を示す図だが、日本人は視覚的な表現にたけている人が多いらしく、ほとんど説明せずに理解してくれる。この図は、わたしやあなたが、毎日している(かもしれない)ことを、大きく4つの領域に分けて示している。

図の一番上にある円が示す領域は、”You love it”である。つまり、好きな事、したい事を表す。そして、図の左側にあるのは”You are great at it”、すなわち「上手にできる事」を示す円である。さらに反時計回りに図の下側に目をやると、”You are paid for it”がくる。それは「稼げる事」だ。そして一番右にあるのは、”The world needs it”で、この円だけは説明に、二人称”you”を含まない点に注意してほしい。つまり、他者の視点をここだけに導入しているのだ。これは「世の役に立つ事」を表している。

この図が巧みなのは、隣り合う円同士が重なる領域に、さらに名称を書き入れている事だ。「好きな事」と「上手にできる事」の重なり合う領域、つまり自分が好きで、かつ上手な事は、自分にとって”Passion”(情熱)の源泉である。それはそうだろう。

「上手にできる事」で、かつ「稼げる事」の領域は”Profession”(職業)である。英語のProfessionは、単純な労働ではなく、プロとして認められる高収入な職業を示す。そして、「稼げる事」と「世の役に立つ事」の重なりは、”Vocation”(天職)となる。社会的に価値のある、お仕事である。

そして「世の役に立つ事」であって、かつ自分の「したい事」となる領域は、”Mission”(使命)という訳だ。稼ぎにはつながらないかもしれない。しかし自分がしたくて、世の役に立つ事。Missionは宣教という意味も持つが、欧米のキリスト教社会では、たしかに直接お金にならなくても、こうした活動に力を入れる人は多い。エバンジェリストなんて言葉も、この同類だ。

Passion - Profession - Vocation - Missionと、4つの言葉がいずれも高尚で、かつ脚韻を踏んでいる点にも注目してほしい。ここら辺がこの絵を見て感心したところの一つだ。

そして、全ての円が重なり合う中心の赤いスポット。これが”Purpose”であると、この図は説明する。生きる目的、という訳だ。「生きがい」と訳することも可能だろう。好きで、上手で、稼げて、世の役に立つ。そのような仕事を見つける事ができれば、たしかに大きなやりがいを感じ、熱中できるに違いない。

今年の抱負をどう決めようか。人生の中期的な目標は、どこに置こうか。年末年始の休みの間に、そういったことを考えてみた人は多いだろう。わたしもそうだ。連続した長い休みの日がないと、なかなか、重要だが緊急でない問題を考える時間が取れないものだ。そのときに、なんとなくこの図を思い出して、しばし眺めてみた。

ただし、この図は眺めるだけならば面白いが、いざ「思考の道具」として使おうとすると、あまり便利ではない事に気づく。自分の生きがいを見つけるために、では、具体的にどうしたらいいのか。

自分が今、日常の中で主にやっている事は、当然、「稼げる事」の中に入っているはずだ(利子生活とか年金生活で、一切働く必要のない人はのぞく)。そのうち、「世の役に立」たないようなこと、つまり反社会的な仕事で稼いでいるかというと、まあそんな事はないはずだと思う。だとすると、自分はもう自動的に、「天職」の中にいる事になる。あとはまあ、その中で自分が好きで上手にできる部分を探すだけだ。好きこそ物の上手なれ、だから、上手な事と好きな事は普通重なっている。だったら自分が普段やっている仕事の中で好きな事を選べば、それが「生きがい』になる・・そんな簡単なものだろうか? 何か違う気がする。

だいたい、自分が稼ぐために毎日している仕事の中に、好きでしたい事なんてほとんど無いよ、というのが、しばしばある悩みだろう。では、自分が好きで、したい事とは何なのか。多少の趣味や娯楽ならともかく、仕事になりうるもので、かつ自分がしたい事とは。それがなんだか分からないので、「自分探し」という奇妙な言葉がはやるのだろう。どこかに自分に向いた、しかも面白いことがあるに違いない、今の自分はかりそめの姿だ、今の仕事は腰掛けにすぎない・・と。

だがそもそも、自分のしたい事とは、最初からそんなに明確に自己の中に内在していて、いわば「発見されるのを待っているだけ」、という状況なのだろうか? 周囲の状況に応じて、上手に適応することを求められ続ける日本人にとって、「周囲のみんなが好きだというから」「周りから『それが似合っているね』と言われたから」、いつのまにか、“自分でも好きだと思い込んでいる”ことも結構ありそうだ。自我が強くて頑固な西洋人なら、「好きな事」はかなり明確なのかもしれない。だがわたし達の多くにとって、好きな事の輪郭はもっとぼんやりしているというのが、事実なのではないか。

そう。この図が、生き甲斐を見つけるツールとしては、必ずしも役立たない理由はそこなのだ。ベン図は物事(集合)の境界線を示す。それは1か0かであって、中なら集合に属し、外なら属さない。白黒はっきりした世界だ。だが、わたし達の「好きな事」「上手にできる事」などはもっと、なだらかにグラデーションがついた世界ではないか。ちょうど物理で言う電子雲のようなものだ。だからこの図は、4原子分子の電子雲のように表現されるべきなのだ。ま、それで分かる人が増えるかどうかはともかく・・(^^;)

だが、それでもこの図に表された概念は、チェックリストとしては非常に有用であると、わたしは考える。すなわち、自分が(たとえば)今年の抱負といて取り組もうとしている事、いろいろなアクションについて、
「それは自分が好きな事か?」
「自分が上手にできる事か?」
「稼げる事か?」
「世の役に立つ事か?」
を問うのである。そのとき、1か0か、YesかNoかで判別するのではなく、◎○△×といったグラデーションのレベルで評価してみるのだ。

そして、自分の希望するアクションリストについて、4つの軸から採点してみる。その結果、もし「好きな事」ばかりに◎がつくようなら、ちょっと自分は楽な方向に傾きすぎていないか、と疑ってみる。逆に「好きな事」が少なすぎたら、自分は何か無理をしているかな、と気づくだろう。

同様に、「上手にできる事」の色彩が強すぎるようだと、自分は他の能力を伸ばす事を怠っているのかもしれない。「稼げる事」が足りない場合、どうも趣味や使命感に走りすぎていて、生活を軽んじているかと反省してみるべきかもしれない。「世の役に立つ」ことが少なすぎると、家族や世間の付き合いを避ける傾向があるのかもしれないし、あるいはいささか身勝手になっているのかもしれない、と思ってみる。

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わたし達は、未来の自分のありたい姿と、現在のポジションとのギャップから、いろいろな課題を見つける訳だ。そして、それを埋めるべく、中期的なテーマを設定する。それが「今年の抱負」である。抱負はさらに、具体的なアクション・リストに落とし込む必要がある。ただし、今年の抱負のアクションを、総花的に10も20もリストアップしたら愚かだ。候補の中からある程度、優先順位をつけて選ぶプロセスを、わたし達はしているはずである。

そして、以前、「今年の抱負はこう作ろう」にも書いたように、こうしたアクションには、具体的なゴールのイメージと、その成功・失敗をはかる基準としての目標があった方がいい。そうしたことを、表の形にしてみる事をお勧めする。

こうしたアクションリストを年の初めに作るというのは、ちょっと大げさに言えば、わたし達の生き方において、海図と羅針盤を持つことに相当する。日々の雑事に流されがちな生活の中で、流されない自分の軸を決めるということである。

そして、実は同じような事が、会社における年度方針やアクションプランにも言えるはずなのだ。会社は稼ぐ事、利益を得る事が、もちろん第一目的ではある。しかし、不思議な事に、「お金お金」だけでは、わたし達は十分うまく働けないのだ。そこで、会社における種々のアクションについても、
・上手にできる事か(=自分たちの強みを生かしているか)
・したい事か(=モチベーションを高めるような仕事か)
・世の役に立つ事か(=市場性、コンプライアンス性は満たしているか)
をチェックしてみるといい。

アメリカの経営学者の中には、企業を、財務諸表の上の数値だけで追いかけて管理するのでは不十分なのだ、と気づいた人たちがいる。彼らは、財務に加えて、顧客の視点・業務プロセスの視点・学習と成長の視点などを取り入れた企業の通信簿=「バランス・スコアカード」(Balanced Score Card, BSC)を提唱している。これは、よく考えてみると、最初に示した図の4軸とよく似ているではないか。

わたし達は「生きがい」には、なかなか到達しないかもしれない。だが少なくとも、4つの軸のバランスをはかりながら、少しずつでも進んでいくべきなのである。


<関連エントリ>
 →「時間の中に生きる」http://brevis.exblog.jp/11897591/ (2010-01-03)
 →「今年の抱負はこう作ろう」 http://brevis.exblog.jp/21527608/ (2014-01-03)

# by Tomoichi_Sato | 2017-01-12 23:04 | 考えるヒント | Comments(0)

プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会」(1月17日)開催のお知らせ

(訂正: 最初、本文中で1月17日を金曜日と誤記してしまいましたが、正しくは火曜です。お詫びして訂正してます_o_)

「プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会」2017年の第1回会合を、下記の要領にて開催いたします。

今回は、システム開発プロジェクトのトラブルという、世の中に広く見られる問題への取組みがテーマです。
昨年、一般社団法人アドバンストビジネス協会が「システムトラブル相談センター」を解説して、話題を呼びました。発注者とITベンダーの間でこじれてしまったITプロジェクトには、どのようなパターンがあるのか。それを解決するための助言とは、どんなことか。
このセンターのキーパーソンである本間峰一氏は、ERPおよび生産情報システムにも詳しい経営コンサルタントで中小企業診断士です(また古くからの友人でもあります)。第三者の目から見た、日本のITプロジェクトの問題とはどのようなものか、興味深い話が聞けると思います。ぜひご期待ください。

<記>
■日時:2017年1月17日(火)18:30~20:30
■場所:三田キャンパス・北館会議室2(1階)(定員:28)
 キャンパスマップ・【1】

■講演タイトル:「システムトラブル相談センターの概要と開設の背景

■概要:
ERPパッケージの導入プロジェクトを中心にシステム導入トラブルに巻き込まれる企業が増えています。その原因と対策に関して一般社団法人アドバンストビジネス協会が開設したシステムトラブル相談センターの狙いなどを中心に、実際の事例をベースにお話しします。

■講師: 本間峰一(ほんま みねかず)

■講師略歴:
前職:みずほ総合研究所 コンサルティング部
現職:(株)ほんま コンサルティング部

■参加費用:無料。 ちなみに本研究部会員がスケジューリング学会に新たに参加される場合、学会の入会金¥2,000が免除されます。

会場の人数に上限があるため、参加を希望される方は、できましたら前日までに三好副幹事までご連絡ください。

以上、よろしくお願いいたします。


佐藤知一@日揮(株)

# by Tomoichi_Sato | 2017-01-06 21:24 | Comments(0)

クリスマス・メッセージ:見えるコストと見えない価値

Merry Christmas!!


大学生にプロジェクト・マネジメントを教えるのは、むずかしい仕事だ。

わたしは現在、勤務先でのフルタイムの仕事のかたわら、大学で少しばかり授業を持っている。夏学期は東大の大学院、冬学期は法政の学部3年生に、それぞれ毎週プロジェクト・マネジメントを教えてきた。今年はそれに加えて、静岡大学の社会人大学院(MOT)も集中講義を冬に持つことになった。さらに単発的に大学や企業、JAXAのような研究機構などに講師として呼ばれている。科目はプロジェクト・マネジメントが中心だが、生産マネジメントやBOM/部品表などもある。そして、自分が主宰する研究部会でも、「PMの自己育成のシステム」の構想を共同で作り始めたりと、なぜかわたし自身にとって「教育の当たり年」みたいな年だった。

しかし、それらの中でも、大学の学部生にプロジェクト・マネジメントを教えるのは飛び抜けて難しい仕事だ、というのが実感である。理由は受講生たちの学力とか理解力の問題では、たぶん、ない。そもそも人と働いた経験のない学生に、「プロジェクト・マネジメント」というのは、ピンとこないのだ。だから、学びたいという切実なニーズが、受講生の側に生まれない。これが社会人相手だと全然違う。社会人は多かれ少なかれ、他者と協業して新しいことに挑戦する仕事が、いかに大変か身にしみて分かっているからだ。

ここにマネジメントに関する「学び」とか「教育」の根本的な難点が横たわっている。プロジェクト・マネジメントのような目に見えない仕組みや技術は、それが「無くてこまった」という経験をしない限り、その価値がピンとこないのである。

普通の商品・サービスというものは、目に見える。スマホであれ飛行機チケットであれ、それを買ったらどういう便益が自分にあるかが、分かりやすい。ところがプロジェクト・マネジメントとか生産マネジメントという種類の事柄は、それとは異なる。複数の職能を持つ人々が協力して何かを生み出す仕事を、上手に導くというのが、この種の仕事だが、それが本当に上手なのか実は下手なのか、傍からも当事者からも、よく見えない。見えるのは結果としての製品や成果物だけだ。

いや、「マネジメントという意識」にもとづく行為さえ、あるのかないのか、外部からはよく見えない。わたし達の社会はある意味、とても成熟していて、個々の成員は勤勉かつ有能、おまけに与えられた枠組みの中で互いに調整しながら仕事をするのにたけている。だからマネジメントという意識的な行為が無くても、組織はそれなりになんとか動いていく。学生達はサークル活動や学園祭などのイベントを通じて、そう学んでいく。もちろん、リーダー格の人間や、責任者としての管理職者は存在するだろう。だが、この人達は「精神論のかけ声を叫ぶだけ」、「お神輿に乗っているだけ」で、マネジメント的仕事と無縁というのも、ありがちな話だ。ではなぜ組織が動いていくかというと、期日や売上などのモノサシで測られるからだ。

マネジメント能力は必須ではない。あればベターだが、なくても何とかなってしまう。ただ、その結果として「見えない非効率」が生じるだけ。これが、マネジメントへの学びをむずかしくしている。少なくとも、人びとのレベルが高く成熟した、わたし達の社会では。

組織の失敗や成功の結果を、マネジメント能力ではなく、目に見える道具や、人材の質で説明するというのも、よく行われることだ。あの仕事がうまくいった理由? それは彼らが○○○という道具を使っているからさ。あの事業がダメになった理由? だってリーダーが無能だったものね(→これは現場レベルの人の説明で、幹部レベルの説明になると「あそこの地域の奴らはダメさ! ろくに働けもしないんだ」にすり替わる)。

こういう説明は俗耳に入りやすく、分かりやすい。そこで、「××問題を解決するには、○○○を導入すればいい」というセールス文句が、がぜん威力を発揮することになる(伏せ字にはERPから人工知能まで、好きな文句を入れてください)。わかりやすさの勝利である。分かりやすい説明は、脳に余計な負担をかけないので、多くの人が好む。

これに比べて、人材の方は雇ったり取り替えたりするのはそう簡単ではない。いかにグローバル化が進展したとはいえ、まだ人の首を切ってすげかえるのは、時間がかかるからだ。ただ、昨年米国に出張した際、ある会社の幹部(たまたま英国人だった)が、こう言っていた。

「ここテキサス州では、社員の首を切るのに時間がかからない。“お前はクビだ”と通告して、オフィスからシャットアウトし、自宅待機を命じる。そして1週間分の給料を払えば、それでおしまい。あっという間に終わる。英国では、そうはいかなかった。1ヶ月以上前に事前説明する義務がある。」

そして、こう付け加えた。「テキサスでは、従業員は上司の命令にとても忠実に従う。いつ首を切られるか分からないからだ。英国では、クビにするのは簡単でない。だから、部下も上司に問題があると思うと、口に出して意見する。」

米国企業ではトップダウンで物事が進む、トップのリーダーシップが強い。それにひきかえ日本企業では・・、という説明を外資系コンサル達からよく聞くが、その背後には、じつはこうした雇用事情があったのだ。従業員を機械の部品か何かのように、取り替え可能なモノとして扱う。これが米国流の経営思想らしく、今や大きな潮流として世界を覆いつつある。

そういうことを学生達も感じているから、いかにして企業に雇ってもらうかが大学生活での第一関心事になるのである。大学3年生は年明けになると、就活で気もそぞろになる。授業にネクタイやスーツ姿で参加する学生が目立つようになる。そして百の単位のエントリーシートを手書きして送り、数十の単位の会社で面接を受け、というような今風の光景に身を投じていくのである。大学で何を学ぶかなど問題ではない。だって企業は大学名(と採用向け共通テストの点数)しかほとんど見ないからだ。こういう状況の中で、「学ぶ」だとか「教える」だとかに腐心するのは、ほとんどナンセンスであろう。

そして、こういう修行のような(あるいは拷問のような?)就活プロセスを経て社会人になった人たちが、「学び」に関して独特な考えを持つようになったとしても、不思議はない。教育とは、選別(セレクション)のための仕組みである。学ぶとは、学校や会社が期待する正解を覚えるためのプロセスである、と。一歩間違うと、すぐに首を切られて放り出されちゃうんじゃないか。・・人材育成に悩む企業は多いが、問題の背後には、じつは企業の「人材」観の変化があるように感じられる。

従業員は部品のように取り替えのきくものである。人を見たら人件費と思え。人は数字である。人はコストである。できる限り削減する方が企業経営には良い・・。

こういう考え方を一掃できる方法がある。それは、会計の方法を変える事だ。

具体的には、人件費を一種の繰延資産として資産計上するよう、ルールを変更する事である。

企業は、従業員を部署に配属するにあたり、業務プロセスを教えて仕事を覚えさせ、訓練する必要がある。つまり業務というのは、その中に一定量の「学び」を含んでおり、研修をも兼ねているともいえる。実際、OJTという言葉で、ほぼ一切の教育研修をバイパスしている企業も見かけるほどだ。

である以上、人件費の一部は労働の対価ではなく、職務能力のビルドアップ投資と考えてもよい訳である。そこで、企業の人件費の20%程度を、経費ではなく設備費として計上するよう会計ルールを変更することを提案したい。人が増え、また勤続年数が重なっていくほど、貸借対照表の上の試算額も増えていく。つまり、株主から見た企業価値が増大していく訳だ。

たとえば人件費が年間500万円だったとしよう(従業員がもらう手取りではなく、企業の側が負担する人件費の話である)。すると、1年に100万円分の資産が形成される。100人なら年に1億円である。平均10年勤続だったら10億円の資産価値になる。

この資産額は従業員一人ひとりの名前に紐づいている。だから、もしこの100人の首を切ったら、会社は10億円の除却損を計上しなければならない、という事を意味する。これは小さな金額ではない。1万人を削減したら1000億円である。しかし、仕事に慣れて能力のある従業員を切って、もっと廉価な別の従業員をどこからか雇い入れたとしても、彼らが仕事のレベルを上げるまでにはかなりの時間がいるのだから、会計上こう考えるのもおかしな話ではない。

そして、このように金額をつけて「見える化」することで、はじめて人材が財産だと実感する経営者だっているにちがいない。こういう数字の裏付けがあれば、「人財」という最近はやりの当て字も、生きてくるだろう。(ただし余談だが、「材」という漢字は、つくりの部分に「才」を含んでいることで分かるように、もともと貴重な木を意味していた。白川静によれば「才」は聖化されたものを言う。「人材」ではまるで人を材料のように扱っているから、「人財」という字にかえよう、と言い出した人たちは、最初に漢字辞典を調べるべきだった)

もちろん、わたしのこんな提案に、現実の会計士たちが乗ってくるとは思えない。「継続性の原則」を持ち出して説教されたり、国際会計基準にもそんな考え方はないと言われて一蹴されるのは、目に見えている。だが、思考実験としては意味があるだろう。働く人という存在を、単なる経費とみるか、見えないが価値ある資産とみるか、それはマネジメントのあり方を、いや最終的にはわたし達の企業文化までを左右する、大きな分かれ道なのだ。

いつもなら、ひととき平和になるはずの、この年末の季節でさえ、地球のあちこちで血なまぐさい出来事が続き、洋の西でも東でも、ヘイトの連鎖が多くの人々を駆り立てている。そうした事情の背景には、人をコストと見、取り替えのきく部品のように見る考え方が、影響を与えているように思える。だが機械部品は成長しないが、人は成長する存在だ。成長とは学びによって、新しい能力を得ることである。わたし達が部品のように扱われてお仕舞いにならないように、ぜひ学びのアンテナを研ぎ澄まし続けよう。

そして読者の皆さんの上に、平和なクリスマスがありますように。



# by Tomoichi_Sato | 2016-12-23 15:36 | ビジネス | Comments(1)

書評:「AさせたいならBと言え」 岩下修・著


AさせたいならBと言え」 岩下修・著  明治図書・教育新書(Amazon) 


人を動かすのは難しい。

マネジメントという言葉はいろいろな意味を持つ多義語だが、中核には「人を動かす」という行為がある。自分が直接手を動かして、成果物やアウトプットをつくり出すことは、立派な仕事だが、マネジメントではない。人に働いてもらうことが、マネジメントである。わたしがプロジェクト・マネジメントを人に教えるときには、最初にそのことを力説する。

現実にはマネジメントだけに専念する人は少なく、たいていは自分も手を動かしているだろう。わたし自身だって、職場ではそうだ。ただ、自分でやることと、人に頼んで動いてもらうことは、頭の中で明確に区別している。後者の場合は、計画を立て、作業分担を決め、アウトプットを指定して、やってもらわなければならない。

ところが、これが難しい。

あれほどきちんと伝えたはずなのに、ぜんぜん動いてくれない。あるいは、こちらの思ったこととは全く別のことをやろうとする。やってくれるのはいいのだが、必要以上に暴走する。問題が生じても隠してしまう。結局しかたなくプロダクトを引き取って、ほとんど一から自分で修正したりしてすると、“何のために人に頼んだんだろうなあ”、などと思わずつぶやくことになる。わたし達の問題のかなりの部分は、人が思ったように動いてくれないことから生じるなと、よく感じている。

マネジメントの第一歩は「言葉にすること」だ。これもわたしが講義などでいつも強調することである。マネジメントが人を動かすことである以上、(テレパシーでも使えない限り)わたし達は相手に、言葉で伝えなくてはならない。だから、言葉にするためのスキルが必要である、と。人に教えているくらいだから、自分でも自覚していて、それなりにはっきりと言葉にして伝えたはずなのに、なぜ相手は思ったように動いてくれないのだろうか?

マネジメントに似た概念に、『リーダーシップ』がある。リーダーシップとマネジメントの違いは別の所に書いたから繰り返さないが、ともに<人を動かす>点では共通である。ただ、リーダーシップの場合は、ふつう同じ職能集団の中で人をリードするため、影響力を行使するしかない。命令権はないのが普通だ。むしろ、自分が本来は命令できないような相手を動かす力を、リーダーシップの発揮とよぶ。

一方、マネジメントは通常、上司部下などの関係があり、業務命令や給与査定など強制力を発揮できる。従わせる力があるのだ。である以上、相手が従わないとなると、むしろ相手の態度を疑うことになる。あるいは、理解力を。

そう。この問題に対する一番簡単な解釈は、「相手は頭がわるい」と考えることだ。愚かだから、こちらの言ったことが分からないのだ。あるいは、従わないとどうなるか、考えもできないのだ、と。だが、それで問題が解決するだろうか? 右見ても左見ても、世の中馬鹿ばっかりだ、というのは真実だろうか。真実だとしても、それで自分のやりたい仕事をうまく達成できるだろうか?

そう思い悩んでいたとき、ふと、大きな書店の教育書の棚で、この本を見つけたのである。「AさせたいならBと言え」。タイトルはどういう意味だろうか。著者は小学校のベテランの先生だ。たしかに相手が小学生なら、理解力はそうとうに低いに違いない。先生という職業は、学童生徒から見ると、おおきな「権力」を持った存在である。そして毎日、理解力の足りない生徒に指示を与えなくてはならない。ここに、何かマネジメントの悩みにヒントがあるのではないか。

早速買って読んでみた。そして驚いた。序文の中で、著者は、自分の娘(小学3年生)が友達の家に遊びに行くというとき、“車に気をつけて道を渡りなさい”というかわりに、こうたずねたというのだ。

「さゆりちゃんの家に行くまでに、いくつ道路を渡るの?」(p.17)

娘さんは頭の中で道順をたどりながら、「三つ」と答える。そこで「三つ渡るんだね。気をつけて渡りなさいよ!」と送り出したらしい。こうすれば実際に道路に出てからも、やりとりを思い浮かべながら、あ、一つめだ、などと思いながら渡っていくだろう。単に“気をつけて”と指示するよりも、ずっと「言葉に中身が入ったのだった」(p.18)

わたしは舌を巻いた。単に命じずに、たずねる。そうして、相手の頭の中に、想像という知的な働きを巻き起こす。これによって、命じられたことをする、あるいは、しない、よりも別の次元に、行動を引き上げるのである。自分で考えたことは、自分自身の主体的な行動になる。

もう一つ例を引こう。朝礼のとき、並んだ子ども達を先生の方を向かせるため、まっすぐに立たせようとするとき、

「目をこちらに向けなさい」「前の人の頭を見なさい」

などとよく言ったりするが、これはあまり役に立たない。なぜなら「内面の働きがゼロだからだ」(p.41)。しかし、

「先生の後ろの1年生の教室を見なさい。部屋の中に何があるか探してください」

というと、顔が急に「知的」になる。「一年生の教室」が子どもの好奇心、遊び心をゆさぶったのである。視線を前に向けると、身体もリラックスしてくる。子ども達に、自ら思考を展開できる状態が生じる。「前の人の頭を見なさい」では、視線が統制され、次の思考の構えができない(p.93)という。

これが、『AさせたいならBと言え』の根幹である。Aさせたいときに、Aしろ、と命じても大して役に立たない。Bを問うて、頭の働きを呼び起こす。このとき、「説明・指示の言葉は、ハッとさせるような比喩の言葉を用意しよう」(p.60)という原則を、著者は提示する。これが、人を動かすときの勘所らしい。

指示だけでなく、質問を出すときも同様である。どこかに見学や旅行に行ったとき、子ども達に、気がついたこと・学んだことを、そのままたずねてもダメだ。なぜなら、目に見えないコトは、単純な心の持ち主である子ども達には理解しがたいからだ。いきなりコトを聞いても、子どもは考える手がかりがつかめない。そこで、

「一番良かった場所をいってください。その場所で、とくに心に残っていることを言ってください」(p.160)

とたずねる。つまり、抽象的なコトではなく、具体的な場所や人を手がかりに、きくべきなのである。

ちなみに、朝礼の場面では、

「おへそをこちらに向けなさい」(p.32)

というのも有効だ。顔や目(A)ではなく、おへそ(B)を向けろ、という。子どもは、小さなモノに注意が向く(p.127)からだ。

それにしても、この原則を、『AさせたいならBと言え』という単純かつ忘れがたい言葉に凝縮した点が、著者の知恵であろう。そしてBの言葉の中に、「ゆれのないモノ」の提示をせよ、という。「ゆれのないモノ」とは、具体的には、「物・人・場所・数・音・色」であるとして、種々の例を挙げる。この本はそうした、100以上の魅力的かつハッとする例がのせられている。たとえば、

合唱の時に、「(タクトの代わりをしている)先生の人差し指の爪を見なさい。ここに、みんなの声をぶつけてください。」(p.128)

体育館でざわついているとき、「みなさん、雨の音が聞こえますか。雨の音をじっと聞いてください。」(p.202)

といった具合だ。とくに著者は、「ゆれないモノ」を選ぶ基準として、地を背景に明確に浮かび上がる「特異点」としてのモノを提示せよ(p.128)という。「おへそ」などはまさに、そうした特異点である。だから子ども達の注意をひくのだ。

ただし、こうした特異な指示の言葉は、半年に一回程度しか使えない。「子どもを動かすのにいかに有効な言葉も、使いすぎると、たちまち、力は弱くなる。どんな『図』もすぐに色あせ、『地』に向かう」(p.208)からである。

そういう意味で、『AさせたいならBと言え』のBを探すためには、指示を出す側もつねに頭を使って、考え続けなければならない。「物・人・場所・数・音・色」は一種の定石、ないしガイドラインなのである。

繰り返すが、Aさせたいときに、「Aしろ」というだけでは、相手の中に知的で主体的な働きは起こらない。とくに相手が子どもではなく大人、それも「自分は知的だと信じている」大人であるときこそ、うまく言いかえなくてはならない。知的と言っても、たいていは決まり切った枠組みや方向にしばられているから、それを解きほぐすような、ハッとする比喩や意外な質問を探す必要がある。

だから、この本に出ている例は、そのままいつでも引用して使える「正解集」ではなく、わたし達の側が、頭を絞って言いかえるための題材集なのである。読者に正解(A)を言うのではなく、具体例(B)を与えて、読者の側の思考を引き起こす。おお、まさにこの本自体、『AさせたいならBと言え』という構造になっているではないか! なんと素晴らしい(^^)。


<関連エントリ>


# by Tomoichi_Sato | 2016-12-14 06:56 | 書評 | Comments(0)

ムリ・ムラ・ムダ 〜 どれが一番いけないか?

前回はムダ、ムリ、ムラについて、それぞれどういう意味かを吟味した。そこで問題の後半に移ろう。この三つ、どれが一番よくないのか?

そんなもん、甲乙つけがたい。どれもよくない点では同じだから、というのが大方の答えではないか?

それはそれで結構。一つの考え方だからだ。ただ、別の考え方をする人たちもいることを知っておこう。トヨタ自動車である。彼らの考えでは、ムラが一番よくないとされている。なぜか?

トヨタ生産方式では、周知の通り「働きに結びつかない動きをムダと呼ぶ」と定義する。そして徹底したムダ取りを行っていくのだが、このとき、「ムラがあるから、ムリをする。ムリをするから、ムダが出る」という因果関係で、物事を見る、と経験者からきいたことがある。つまり、なぜムダが生じるのか、という問題について、非常にジェネラル(汎用的)なレベルで

「ムダな動き」がある。
→なぜなら「ムリな作業」をしているからだ。
→そして、それはなぜなら「ムラのある指示」を出しているからだ。

という「なぜなぜ分析」がなされている訳だ。これが、トヨタの基本的問題意識なのだ。
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そこで仕事の改善の着眼点としては、まず「ムダ」をあぶり出すために、「見える化」を行う。トヨタにおける見える化というのは、単に何かを可視化することではなく、“問題が生じたときにすぐ検知できるようにする”ことだ。問題とは、標準から著しくはずれた状況をいう。だからこそ有名な「標準なくして改善なし」という標語がでてくるのである。

動いているのに、付加価値のある「働き」になっていないとき(前回の状況1・2の例でいえば、一生懸命仕事しているのに、やり直しが生じて結果に結びつかないとき、あるいは部品を探しに行っているため組立作業が進まないとき)、それがムダとして検知される。ムダが見つかったら、まず、現場でその支援と問題解決をする。

しかし多くの場合、ムダが生じるのは、何かムリをしているためである。たとえば、まだ上流設計が十分固まりきっていないのに下流の製作に着手したとか、組立工程に必要な部品すべてが手近にないため、必要部品を順次配膳しながら組立てることにしたとかいう、無理である。そうしたことは、レイアウトや作業の流れの改善によって解消する。

だがなぜ、適正に作ったはずのレイアウトや、よかれと思って進めた作業フローが、無理を生み出すようになっているのか? それは、レイアウトの設計思想や作業フローの前提条件から外れた、ムラのある指示が出されているからだ。たとえば、取れるだけ仕事を取りに行き、人も足りないのに短納期で受注した、とか、先行内示よりも2割も多い注文が取引先顧客から来て、受けざるを得なかったため、製造現場が予定していた段取りを変えるような指示を出した、とかいった状況である。これが根本原因になって、ムラ→ムリ→ムダを生み出す、という構図である。状況1・2は結局、次のようになる。

状況1の構造:
 人が足りないのに短納期で受注した(ムラ)
  ↓
 上流設計が固まらないうちに、下流の製作に着手した(ムリ)
  ↓
 条件が変わってやり直しが必要になった(ムダ)

状況2の構造:
 先行内示よりも2割も多い注文が来たので、製造の段取りを変えて指示を出した(ムラ)
  ↓
 組立工程に必要な部品すべてが手近にないため、配膳しながら順次組み立てた(ムリ)
  ↓
 組立作業中に足りない部品を探しに行った(ムダ)

ちなみに前回の状況3に書いた、非生産的な週次進捗ミーティングの背景に、ムラがあるかどうかは、わからない。しかし、一人ひとり進捗をきけばすむことに、全員を呼んで付き合わせたというムリはあっただろう。進捗報告だけならば、週報あるいは日報にインプットして集計する仕組みをつくっておき、全員が共有すべきタスクや問題だけを、皆を集めて話せば時間のムダは生じないはずだ。

ところで、ムダやムリは現場担当者自身が気づいて自覚できるが、ムラを無くすことは、担当者にはできない。それは指示の問題であり、すなわちマネジメントの仕事である。だからムラが一番よくない、ということになる。

それで、トヨタはムラを無くすために、「平準化」を重視するのである。つまり月間生産計画で月産台数を決めたら、それをまんべんなく、なるべく均等に作っていくようにする。当たり前のことだが、生産という仕事は、同じものを同じペースで繰り返し作っていけば、効率は最大になり、コストは最小になる。ムラが、見えない非効率と高コストを生むのである。

そして、ムラを無くすために、営業側は平準化した販売を心がけて努力する。これがトヨタの思想である。「一番安く作れるように、売ること」が営業部門の仕事なのだ。まあ、もともと自動車は季節性も少なく商品サイクルも長いため、平準化した販売に向いた商品ではある。ただ、彼らはその特性を意識して利用している。かつて'80年代に、それまで製造会社(トヨタ自工)と販売会社(トヨタ自販)に分かれていた2社が合併してトヨタ自動車が生まれるのだが、その動機の一つは、このような平準化した販売と生産の実現にあったと想像される。

もちろん、以上はトヨタの考え方である。別に、あなたはあなたの考え方を持っていい。わたしだって別に、トヨタの思想のセールスマンではない(だから「トヨタの真似だけでは儲からない」という副題を持つ本『“JIT生産”を卒業するための本』の共著者になったりしたのである^^;)。また、あなたの会社の製品は季節性や単発性が強く、平準化した受注・販売など思いもよらないのかもしれない。

だが、そういうあなただって、無理をさせられるのは真っ平だろうし、ムダだって嫌いなはずだ。だとしたら、見通し得ず準備もできないような対応を要求されたり、ルールなく気分次第で決断を下されることは、避ける努力をするべきである。少なくとも、そのことが非効率や高コストや長納期の原因になっていることを、指示を出す側に対して、明示する方が良い。

そして同じ事は、あなたのサプライヤーに対しても、するべきでないことはお分かりだと思う。サプライヤーが予見も準備もできないようなペースで発注や指示を出したら、彼らは必ずムリをして、結果としてムダを含んだコストがかかることになる。その高いコストを、結局はあなたの会社に請求してくるのだ。

とえばサプライヤーが適正に予見できないような再製作やリワークを含む発注をする場合、その予見できない分は、本当は実費精算契約にすべきである。そうすればリワーク分が「見える化」されて、あなたの側の改善のタネを与えてくれるだろう(念のためいっておくと、あなたの会社が海外に進出したら、そんなムリな注文は海外企業はふつう受けない。無理が通るのは、相手がつきあいの長い国内企業の場合だけだ)。あるいは、たとえばあなたの企業が大会社で、発注先の部品サプライヤーが中小だったら、ムリなJIT納品など要求すべきではない。むしろあなたの側で部品在庫をもって急な需要変動に対応し、サプライヤーに対してはより平準化した量を注文するようにした方が良い(後者のアイデアは、畏友・本間峰一氏による)。

ムラのある指示が、一番良くない。予見・準備ができ、実行可能な計画を作って、生産・販売が合意すること。あるいは発注者と受注者が合意すること。そして、それをお互い守ること。これこそが、わたし達を異常なムリ・ムダから守るすべなのだ。


<関連エントリ>
 →「稼働率100%をねらってはいけない」 http://brevis.exblog.jp/22236990/ (2014-07-27)
 →「ムリ・ムラ・ムダ:その意味と違いを考える」 http://brevis.exblog.jp/25009088/ (2016-12-04)


# by Tomoichi_Sato | 2016-12-09 07:18 | 考えるヒント | Comments(1)

ムリ・ムラ・ムダ:その意味と違いを考える

「受験勉強で大切なのは、計画性とペースです。ムリ・ムラ・ムダは一番いけません。」中学校3年生の時、担任だったO部先生がわたし達に、そう説いた。『ムリ・ムラ・ムダ』というセットの言葉をはじめてきいたのはその時だった。当時すでに生意気な中学生だったわたしは、“平凡な語呂合わせだな”と、心の中で思った。そしてもちろん、たいして計画性もなく、むら気を持って受験競争を渡ろうとしたので、志望校2校を立て続けに落ち、最後に公立高校しか残っていない状況になってさすがに青ざめた。

長じた後、わたしは何の因果か、計画系のエンジニアになり、あまつさえ他人に「計画的に時間を使いましょう」だとか、「プロジェクト・スケジューリングはこうです」などと伝えて歩く仕事をする立場になった。まったく我ながらいい度胸である。もっとも生まれつき計画性が高く、プランニングのセンスにたけていたら、かえって「計画にはどういう技術が必要か」などと考えることもなかったに違いない。自分が自然にできてしまうことに、理屈をもって深掘りする必要はないからだ。

さて、担任のO部先生は、ムリとムラとムダがそれぞれ、どういう意味でどう違うかについては、説明してくれなかった。自明だから常識で考えろ、ということだったのかもしれない。だが、この三つは、そんなに自明なのだろうか。仕事においても、ムリ・ムラ・ムダがいけないのは周知の事実である。しかし、ちょっと考えてみてほしい。たとえば次のシチュエーションは「ムダ」に相当するのだろうか?

状況1:
「上流側の設計条件がかわってしまったため、途中まで進めていた作業がやり直しを余儀なくされた」

状況2:
「組立て作業の途中段階で部品が足りないことに気づき、資材倉庫まで探しに行って取ってきた」

『ムダ』という言葉を、“必要のない事をすること”という風に、常識的に考えている限り、上記はどちらもムダではないことになる。なぜなら、再設計であれ部品探しであれ、必要な作業であって、それなしには仕事は完遂しないからだ。もし上記の作業に従事する人が、作業日報をつけたならば、どちらも「直接業務時間」だとするだろう。明らかに、研修だとか清掃だとか部会だとかいった「間接業務」ではないからだ。

コストダウン活動などの号令がかかり、「時間のムダ取り」による改善アクションが叫ばれるとき、まず真っ先にやり玉になるのは、上記のような間接業務の時間だったりする。こうした間接業務は、顧客に対して直接、何らかの価値を提供するのに貢献しない。逆に、設計をしたり組立作業をしたりすることは、必須の直接業務である。これが通常の感覚であろう。

しかし間接業務の全てをムダと言えるかというと、少し問題がある。たとえば会計業務は典型的な間接業務だが、じゃあ経理はムダだからやめてしまえ、という議論にはなるまい。まあ経理は法的な義務だから、ムダかどうかの議論にはなじまないとしても、人事だとか広報だとか経営企画だとかいった仕事は、顧客に何かの価値を提供しているのか? もしこれらの仕事が、全体としてムダだと思われていないのだとしたら、「間接業務=ムダ」という図式は当てはまらないことになる。

また、直接業務の中にもムダは潜んでいる。たとえば、

状況3:
「週次のプロジェクト・ミーティングでプロマネが担当者一人ひとりに進捗報告をさせている間、他のメンバーはあくびをかみ殺しながら、スマホでこっそりメールを見たりしている」

というのは、何かムダを感じる人が多いだろう。じゃあ、進捗報告は不要か? と問い詰められると、ノーとは言いにくい。たしかに必要だろう。だが、なんだか生産性が低い(もっとも中には、進捗報告を聞きながら同時にメールを見ているのだから、むしろ生産性は高い、と答える人もいるかもしれないが)。生産性が低いと感じる理由は、<担当者1→プロマネ>の進捗報告を、他の担当者が聞いても、価値のある情報が少ないことがしばしばあるためだ。

仕事における『ムダ』の概念を、直接業務であるかどうかで定義したり、必要性だけで判断するのは、なんだかそぐわない点があることは分かった。では、ムダの判別は何がキーなのか?

最初の状況1の例に戻ってみよう。もし仮に、上流工程がきちんと設計を完成させて、顧客とも十分確認してから下流側に条件を流してくれていれば、このようなやり直し作業は発生しなかったはずだ。たしかにこのやり直し作業自体は、現時点では必要である。だがもう少しさかのぼって、もっと仕事全体の段取りをうまくやっていれば、不要だったはずだ。

状況2の例も、もしも(たとえば)組立作業でちょうど必要になるタイミングで、その部品が上流工程やサプライヤーから組立場所に供給されていたら、わざわざ資材倉庫に取りに行く必要はなかった。たまたま、何らかの理由で、消費するタイミングよりも前に供給されてしまったので、やむなく倉庫に一時的に保管するしかなかったのである。あるいは見方を変えて、かりに倉庫保管はやむを得なかった(たとえばロットサイズの理由などで)としても、組立作業の着手前に、物流係が必要とする部品全てをセット組みして配膳するような作業フローだったら、こうした部品探しの手間は不要だったろう。

つまり、『無駄』とは、仕事の段取りややり方がもっとスムーズだったら、やらずにすむ作業のことを言うのである。このように定義すれば、設計や製造だけでなく、経理や広報などの間接業務にも、いろいろなムダが潜んでいる可能性があることがわかるし、だからといって間接業務は全てやめてしまえ、などという乱暴な話にはならないのである。

ちなみに企業組織における間接業務というのは、自分達の仕組みの維持や能力向上、環境改善のために行う仕事である。人事がなければ給与も払われないし、研修がなければスキルアップも望めない。広報がなければ顧客の認知度にも有能な新人の採用にも差し支えるであろう。マクロな意味では、必要な仕事である。ただ、やり方や段取りがヘタだと、ミクロにはいろいろとムダが生じてしまう。

では、仕事における『無理』とは何か? 従業員を月に100時間も残業させることか? 大型トラックの運転手に、夜間の高速道路を時速110 kmで走らせることか?

YES、と即答したい気持ちはある。だが、ちょっと待ってほしい。人づてに聞いた話だが、かつてSUN Microsystemsの創始者だったビル・ジョイが、Unixワークステーションという新カテゴリーのコンピュータを世に出したときは、仲間3人とで半年間、不眠不休で働いた結果だったと聞いたことがある。定時勤務の観念があったかどうか知らないが、残業換算で100時間はかるく働いていただろう。だが、それを人は非難しただろうか。しなかったとしたら、それは結果が大成功だったためだけではない。そもそも、SUNの創始者達が、自らの意思でやったハードワークだったからだ。

物流業界の大型トラックが、夜間の走行を行うのは、道が一番すいていて、効率がよいからだ。スムーズに流れれば、それだけ運転のストレスも少ないだろう。だから物流トラックが終夜運行をしているのは、海外でもよく見られる光景だ。むろん、夜間労働が人間にとってハードであることは、異論の余地はない。そして遵法速度で運転すべきなのは、もちろんである。

そういう意味で、ムリと「不可能」とは別のことである。可能であり、ギリギリできてしまうが、長続きできない。これがムリである。

わたしの考えでは、『無理』とは、人の能力・性質・意思に反した働かせ方をしたり、道具の設計目的・使用限界を無視した使い方を繰り返すことである。過重労働の意思がない従業員を強いて働かせたり、設計上の最高速度ギリギリで車を走らせる(あるいはローギアで高速に走らせる)のは、ムリである。ムリはもちろん、しない方が良い。かりに当人の意思による無理であっても、それは一過性のことにすべきで、繰り返すのはよくない。ムリを続けると、きっとシステムが歪んでくる。機械ならば予期せぬ故障、人ならば病気、組織ならば能力と士気の低下をもたらすだろう。

では、仕事におけるムラとな何なのか。先月100個だった製品を、今月120個作るのは、ムラといえるのだろうか?

これもわたしの考えを先にいってしまうと、ムラとは「見通し得ず準備もできないようなペース・種類・場所での対応を要求したり、ルールなく気分次第で決断を下すこと」だと理解している。もし商品が季節品で、クリスマスに向けて需要が高まるものなら、10月に100個だったものが11月に120個でも、予期できるだろう。そして準備もできたに違いない。しかし、そもそも製造機械の上限があって、増産に週単位の準備がいるときに、急に「今月は120個よろしく」というのだとしたら、それはムラである。単に比率の問題ではないのだ。また、ルールなく突然、「あの外注先は気に入らないから今度の仕事は内製でいけよ」などと決めるのが、むら気というものだ。

さて。ムダ、ムリ、ムラについて、それぞれどういう意味かを吟味した。では、この三つのうち、どれが一番よくないのか? いささか長くなってきたので、この問題は次回に考えよう。






# by Tomoichi_Sato | 2016-12-04 23:25 | 考えるヒント | Comments(2)

なぜ、製造業のIT化が進まないのか? 〜お金をちゃんと投資しよう

わたしが中小企業診断士の資格を取ったのは、もう20年以上も前のことだ。その頃、診断士の試験は「鉱工業」「商業」「情報」の3コースに分かれていた。どの試験を通っても、おなじ診断士の資格を名乗れる。わたしは情報系を選んだ。「情報」コースには、さらに専門試験科目が「流通情報」と「生産情報」の二種類あったので、わたしは「生産情報」を選んで試験を受けた。工場づくりをビジネスとするエンジニアリング会社に勤める人間としては、当然の選択であった。

ちなみに診断士試験に「情報」コースができる前は、「鉱工業」と「商業」の二種類しかなかった。これはちょっと不思議である。だって、まるで中小企業には製造業と流通業しかないみたいではないか(鉱業も入っているが、石炭産業の盛んだった戦後ならいざ知らず、鉱業にはほとんど大企業しか残っていない)。しかし、たとえば運送業にも建設業にも、中小企業はたくさんある。それなのに専門試験も、もっぱら製造業と流通業の話ばかりが出題されるのだ。

この事情はどうやら、中小企業診断士の資格を監督する「中小企業庁」が、経産省(以前の通商産業省)の下にある関係らしい。だから建設省や運輸省が管轄する業種はまあ、スルーしていたとしか思えない。実際の診断士は、どんな業種でも支援するのだが。ついでにいうと通産省は、さらに昔をさかのぼると「商工省」という名前だった。つまり、商業と工業を所轄するのだ。だとしたら診断士の資格試験とぴったり一致するではないか。

まあ、そんな裏事情はどうでもいい。とにかくわたしは、「情報」コースの、それも生産情報科目をとって受験した。資格を取った後、ちょっとだけ、後進の受験指導を頼まれたことがあった。担当科目は「生産情報」である。ところが、この科目、受講者が圧倒的に少ないのである。数回コースの講義だったが、受講生が一人も現れず、やむなく自然休講になった日さえあった。

なぜこんなに「生産情報」は人気がないのか? たしかに、受験指導をしてくれた先輩達のアドバイスも、「流通情報の方が受けやすい」だった。理由は、覚える知識範囲が少ないから、である。診断士の試験は、広く薄く知識を問う(日本の試験って、たいがいがそうだ)。そして生産情報、すなわち製造業の情報化に関わる分野は、カバーすべき範囲が広いのだ。受注管理システムから始まって、生産計画、BOM(部品表)、製造指示、在庫管理、品質管理、出荷管理、進捗管理、現物管理、POP、設計情報管理、と際限がない。それに比べ、流通情報で覚えるべきなのは販売管理、仕入在庫管理、カードくらいでよかった(当時はまだインターネットは普及していなかったのだ)。

どうして同じ情報システムに関わる科目なのに、製造業と流通業でかくも守備範囲の広さが違うのか? それは、「製造業の方が業務プロセスが多くて複雑だから」である。流通業のメインの業務プロセスは、基本的に、販売・仕入・在庫管理・顧客管理、くらいしかない(どの業種にも共通する人事・給与・会計といったバックオフィス系業務は除く)。広告・マーケティングも大事な仕事だが、ネット時代以前にはあまり情報システムの登場の余地がなかった。

ところが製造業はふつう、営業も購買部門も持っている。つまり、流通業と同じに販売・仕入・在庫管理が必要なのだ。その上に、設計と生産に関わる深くて長い業務プロセスが社内にある。試験範囲が広いのも道理であろう。これは大企業だろうと中小企業だろうと同じだ。大企業だからフルセットの業務があり、中小企業だから営業や購買や在庫管理は要らない、という訳にはいかない。どんな小さな製造業でも、フルセットの業務プロセスがある。わたしはいつも、「燕に五臓あり」という中国の古い諺を思い出す。手のひらにのるくらい小さな生き物も、すべての臓器を持っているのだ。

である以上、製造業は流通業やサービスその他の産業に比べて、より多くの情報システムを抱え、より沢山のIT費用を負担しているはずだ、と考えるのが自然であろう。ところが事実は、その逆なのだ。調べてみると、製造業は、他の産業よりも、かなり金額的に見てIT化が遅れているのだ。まず、図を見てほしい。
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これは、従業者一人当たり情報処理関係諸経費を、製造業とその他の産業とで比較したグラフである。数字の出所は、経産省の「平成26年情報処理実態調査結果」(2015年6月4日公表)よりとったものだ。
製造業が、年間一人あたり約48万円を使っているのに対し、非製造業は約59万円である。つまり、製造業は非製造業に比べて8割くらいしか、ITにお金を使っていないのである。

え? 製造業は工場に、パソコンなんか関係ないブルーカラー労働者を大勢抱えているから、従業員一人あたりの金額が薄まっているのだろう、って? そんなことはないはずだ。小売業だって運輸業だって、同様にブルーカラーの人たちをいくらでも雇っている。その点、大差はあるまい。

念のため書いておくと、日本で製造業に従事している人の総数は、1,035 万人である(2015年)。ちなみに日本の全就業者数=6,376万人だ。日本の人口は、約1億2700万人だから、ちょうど二人に一人が仕事について働いている勘定である。そして、就業者のうち、製造業で働いている人は全体の16.2%ということになる。数字の出所は、総務省「労働力調査(基本集計)」 平成28年(2016年)9月分である。

この「製造業の従事者=16.2%」という数字は注目した方が良い。およそ働く人の6人に一人が、製造業に働いている。逆に言うと6人に一人しか、製造業で働いていない。え、そんなに少ないの? 日本はたしか「ものづくり大国」なんじゃなかったの?

そう。その自称「ものづくり大国」ニッポンでは、GDPのうち製造業の占める割合がすでに2割を切り、最新の数字では18.5%である。働く人の比率16.2%に比べて、GDPすなわち付加価値を稼ぐ比率は18.5%だから、一人あたりで比較すれば多少は稼ぎがよいとも言えるが、ダントツという訳でもない。つまり製造業は、客観的に見て日本ではすでにマイナーな業種なのである。
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こういう話は、「ものづくりが日本を救う」といったメディアに流布するキャンペーンや、経団連などの団体が発信する情報になれている人たちには意外に響くだろう。ついでにいうと経団連のトップは、製造業、それも重厚長大の製造業の経営者が就任する、との不文律があるという話だ。だからといって製造業がいつまでも日本の経済界の親玉だと考えるのは、ミスリーディングなのである。

もちろん、マイナーだからダメだとか非難しているのでもない。事実を述べているだけだ。念のため海外と比較すると、ドイツの製造業GDP比率=25%である。EU平均=20%、米国=12%であるから、欧州よりやや低いが米国よりは上である。中韓は30%台だ。

ITに話を戻すが、そのGDPの2割弱を支える日本の製造業が、じつは他の産業よりもITにお金を使っていないことを問題にしたい訳だ。いったいその理由は何なのか?

ITの費用は会社ごとに定義がまちまちだから、そこが製造業と他とでぶれているのじゃないか、という当然の疑問はあるだろう。ただ、前述の「情報処理実態調査」はその点では明確で、コンピュータ・周辺機器関連費用 + 通信機器関連費用 + その他の情報機器関連費用 + ソフトウェア関連費用 + 処理サービス料、運用保守委託料、その他サービス関連支出 + その他費用、と費目ごとに個別に求め、集計している。だからモノサシは一律なはずだ。

いや、それでも、製造業の場合、現場に制御システムや自動化機械やロボットなど、かなりIT的仕組みがはいっているじゃないか、それが算出から抜け落ちているのではないか、という疑問もある。たしかにもっともである。化学プラントにおけるDCS(中央制御システム)などはまるっきりコンピュータだが、工場設備費用側に計上されて、上記の算定から漏れている可能性はある。機械制御盤のPLCなどもそうかもしれない。

しかし、では1千万円のロボットを購入したとして、それは全部IT費用なのか? そうは言えまい。ではその何割がIT費用かというと、難しい問題である。それに、そんなことを言い出したら、オフィスだって、入退室のカードシステムからビル空調・電気管理システムまで、けっこうな自動化機器が見えない場所に配置されているものだ。そうした費用だって、上記には計上されていまい。だから「機械設備に付属した制御システム」はどちらからも公平に除外されていると思っていいだろう。

だとしたら、IT費用の落差はなぜなのか。そこで、冒頭にあげた例を思い出していただきたいのだ。製造業は業務プロセスが深くて複雑である。カバーすべき範囲が多い。それを情報システム化しようとすると、いきおい、開発費用がかさむことになる。データベース設計の例にたとえると、製造業系の情報システムは、沢山のテーブルから構成され複雑なリレーションをはったようなE-R図を要求する。部分的着手もやりにくい。他方、たとえば流通系では、トランザクション量(レコード数)は多いがテーブルは少数ですむような構造だ。構造がより単純なのである。少なくとも、着手がたやすい。

ということは、同じ売上規模の企業で比べると、どうしても製造業の方が、初期開発費用がふくらむということになる。これがかえって、経営者の投資意欲をそいでいるのではないか、と想像される。そんなにお金がかかるのか? もう、製造現場は紙の帳票で回せばいいじゃないか。昔からそうやってきたんだし、「今、動いているんだからいいじゃないか」http://brevis.exblog.jp/24909011/ という訳だ。いやいや、製造業はもっとちゃんと情報化にお金を投資しよう!

・・と、ここまで書いたが、自分の中にはまだ割り切れないものがある。投資額が大きいから、かえって投資意欲が減退する、というのは本当なのだろうか? 「日本の経営者はITへの理解度が低い」というのはIT業界でずっと言われ続けてきた不満だが、それは別に業種にはかかわるまい。他方、日本の経営者の一つの特徴は、「世間がやっているならウチもやろう」と判断する点だ。だったら、なぜ製造業だけが世間から遅れていても焦らずにいられるのか? 上記調査によると、製造業のIT費用の対年間事業収入比 は0.6%だ。つまり売上の0.6%をITに使っている。ところが非製造業の平均値は1%である。明らかに世間水準から遅れていると分かるはずだ。

それなのに製造業だけIT費用が少ないのだとしたら、そこには何か別の、もっと“人間的”な要因があるのではないか。

わたしの想像だが、ITエンジニアが「製造現場を敬遠している」ためではないかと思える。わたしは仕事柄、いろいろな工場を訪れているが、工場に情報システム部がある所は少ない。「情シス」はたいてい「本社」にいて、もっぱらバックオフィス系を守備範囲としているのだ。あるいは、設計開発部門が本社にある場合は、設計系もサポートしている。だが、工場となると範囲外だ。なにせ工場は地方にあるし、行くのは遠いし、おまけになんだか3K職場でごちゃごちゃしていて、スマートでない。ハイテクの最先端技術の好きなITエンジニアが、好んで働きにいきたい場所ではなさそうだ。

そんなわけで、わたし達が生産情報システム構築で顧客と打合せをする段になると、相手は情シス部門ではなく、製造部か生産技術部の人が多いのだ。それもたいていは、「あいつ、ちょっとパソコンに詳しいから」程度で選ばれた若手エンジニアという感じである。こういう方々が、本社の情シス部門の守るERPとか、現場の頑固な職長とか、ITが苦手な工場長とかの間で板挟みになりながら、製造管理や物流管理システムの構築の仕事をしていくのである。しかもそれが最終的な自分の本業になるということでもない。これでは力を込めるのも難しいし、まして業務の全体を見通してシステムを構想するといったこともやりにくいだろう。

こうなると、心配されるのはIoT技術の行方である。機械と情報のレイヤーをつなぐIoTの技術は、欧米を中心に加速度的に進展してきている。しかし、どうみても製造現場に入り込んで、機械とダクトの間を這い回らなければ、工場にとって意味のあるIoT技術の果実は得られまい。経営トップが、「何やらモノのインターネットだとかIndustry 4.0だとか世間では注目されているが、ウチの会社はどうなっているのか?」とたずねるとき、それは現場にとっては久々の、投資への追い風であるはずだ。こんなとき、本社の「現場苦手なITエンジニア」に命題がおりたら、“えーと、IoTとかより、これからは人工知能ですよ、人工知能。顧客データにAIを応用して・・”みたいな話にねじ曲がりかねない。

むしろわたしはIT業界の側に、上記のような情報費用のギャップがあることを認識してもらう方が早道であるように思える。製造業には、一人あたり年間、59 - 48 = 11万円分の費用が足りていないのだ。300人規模の工場で、ざっと年間3,000万円である。この分がまだ、未開拓の沃野として残っているのである。人の生産性が労働装備率と共に上がることはよく知られているが、それは情報投資でも同じである。そして最初に述べたように、生産情報システムは複雑であるが故に、いったん入り込んでしまえば、他社との参入障壁も高い。競争は少なく、かつ継続的に仕事を得られるチャンスがある。おまけに製造業のよいところは、○○業界とか××業界と違って(^^;)、理屈さえ通れば一応、ちゃんと費用を払ってくれる体質があることだ。

である以上、心あるITベンダーが、再度日本の製造業の情報化のために、IoTの追い風を受けて立ち向かってくれても良さそうに思うのである。


<関連エントリ>
 →「見えない非効率 ー 今、動いているんだからいいじゃないか」 http://brevis.exblog.jp/24909011/ (2016-11-13)
 →「労働装備率とは何か」 http://brevis.exblog.jp/8897754/ (2008-11-04)

# by Tomoichi_Sato | 2016-11-27 18:21 | 工場計画論 | Comments(4)

パフォーマンス問題へのシステムズ・アプローチ

なんだかこのところ、納期遅れのクレームが増えている。営業部門から問題提起があったので、工場で原因を調べることになった。製造部や品質管理部、資材購買、生産技術など各部門からキーパーソンを集めて、対策チームを作り、まずは現状分析をはじめた。グラフを作って調べてみると、納期遵守率が落ちてきていることが数字の上でも明白だ。たしかにこれは、何らかの対策を打たねば、客先からの信頼度、ひいては受注競争力の低下につながりかねない。

そこで、最近の納期遅延事例を、それなりの件数とりあげて、原因分析をしてみた。また、メンバーも自分の気づいた経験を共有してみる。その結果、20以上の原因があがってきた。いわく、長納期部品の仕入れが遅れた、出荷前検査で不良が見つかり加工段階から削り直しになった、鋳物材料に欠陥が見つかった、設計の不具合が顧客の承認図レビューで分かった、ツールの不具合で余計に製造時間がかかった、云々・・。

検討チームは原因のリストを見て、腕組みをしてしまった。どこかの工程に問題が集中しているのではないか、という事前の期待があったのだが、当てが外れてしまったのだ。それならば対策も取り組みやすかっただろう。もちろん、リスト上の個々の問題事象に対して、対策を考えることは可能である。しかし、どれから手をつけたらいいのだろうか? 中には二つ以上の要因が複合的に作用して、納期遅れを引き起こしたものもある。たしかに、工場には何か問題があるらしい。だが、何がわるいのかよく分からないのだ。

——この例のように、個別事象はいろいろあるが、何となく全体として仕事の成果が落ちている問題を、『パフォーマンス問題』とよぶ。世の中に問題と呼ばれるものはいろいろある。学校の試験で問われる問題もその一つだ。だが、ビジネス上で出会う問題は、大きく、技術的問題とパフォーマンス問題に大別される。

個別の案件で発生するトラブルのほとんどは技術的問題だ。問題構造が明確で、原因は(きちんと時間さえかければ)分析できる。対策も(すぐできるかどうかはともかくとして)明確である。「技術」と書いたが、これは理工系の技術だけを指しているのではない。たとえば法的なトラブルなども、一種の技術的問題である。

ところが、パフォーマンス問題は少し性格が違っている。これは、コストだとか品質だとか納期だとか、いわゆるビジネス上の業績(パフォーマンス)低下にまつわる問題である。技術的問題は具体的なトラブルとして、目の前に突きつけられる。しかし、パフォーマンスの尺度は、ある期間の平均値として測られるため、その問題に気づきにくいという特徴がある。気がつくとじつはかなり深刻だった、というのもパフォーマンス問題の特徴である。

そして何より、「悪構造の問題」である点に特徴がある。つまり、問題の構造や原因が錯綜していて、分かりにくいのだ。

ある意味、個別の技術的問題が積み上がって、パフォーマンス問題を生じさせているといってもいい。だが、個別の問題をモグラたたきのように対応しているうちに、そのことにリソースや時間を取られて、目の行き届かない別の場所にまた似たようなパフォーマンス問題が発生したりする。たちがわるいのだ。

洞察力のある読者にはお分かりの通り、パフォーマンス問題というのは、システムが歪んでいるが故に生じる問題である。だから、個別のモグラたたきだけでは解決しない。システム全体の歪みを正す必要があるのだ。いわば、傾いた土台の上に立っている建物か、シャーシが傾いた自動車のようなものだ。

ちなみに工場というのは、需要情報を得て、製品という物的な形に付加価値を具現化するためのシステム=生産システムである。工場のパフォーマンス問題は、生産システムの歪みを示している。(ついでにいうと、プロジェクトというのはActivityを組み合わせて成果物という価値を生み出す、時限的なシステムである)。

さて、システムの歪みを見るためには、マクロな視点から業務プロセスを理解する必要がある。プロセスはどんな要素から成り立っているか、その各要素がどう機能しているか、それを左右する主な要因は何か。システムの歪みは、能力と負荷のアンバランスから生じていることが多い。したがって定量的な検討が不可避である。また、システムを制御するための基準尺度、つまり個別の判断のためのモノサシが、システム全体に求められる機能からズレている場合にも、歪みが生じやすい。この場合、いわゆるKPIや権限範囲を見直す必要がある。

ところで、かの工場の検討チームだが、こうしたシステムズ・アプローチに詳しいメンバーは、残念ながらいなかったらしい。まあ、よくある話である。こういうとき、誰か声の大きい人間が一人いて、一つか二つだけの「分かりやすい根本原因」を名指しして、それを解決しに走るケースも、ありがちでだ。たとえば「そもそも皆の根性がたるんでる! まずは意識改革運動が必要だ!」といった類いの『対策』である。

しかしまあ、この工場では皆がそれなりに知恵を絞って、問題事象を大きく5つのカテゴリーに集約し、対策のアクションを考えた。パフォーマンス問題はシステム全体のきしみなので、一般に複数の対策案が出てくることが多い。

A 長納期部品の遅れ → 受注前の先行手配
B 製造能力不足 → 焼鈍蔵置の増強
C 不良による再製作 → 組立前部品検査の徹底
D 材料の欠品 → 一部材料の常備品化
E 不正確な納期回答 → 工場負荷状況の可視化システム

ここまで来たときに、議論が紛糾した。この5つの対策のすべてをやっている余裕は、人員的にも時間的にも、ない。それでは、どれを優先すべきか。それぞれ自分の部門に近い問題を、まず解決したいと考えた。当然の成り行きだろう。

こういうときには、「費用対効果マトリクス」を作ってみるのが有効なテクニックである。まず、洗い出した改善アクションそれぞれについて、「実現に要するコスト・労力」と、「パフォーマンスの改善効果」について、評価してみる。そして、それを二つの軸にした平面にプロットしてみるのである。こうすると、それぞれのアクションの費用と効果の関係が一目瞭然となる。

ただしこの時点では、コストについて正確な見積は難しいし、改善効果は定量的推定がもっとできにくいだろう。だから、大・中・小の3ランク程度に、主観的に分類する程度でもいい。複数部門のキーパーソンが集まって評価すれば、これでもそれなりのランクに収まるものである。なお、「A 長納期部品の遅れ」対策として「受注前に先行手配する」というやり方は、コストとしては(結局は同じものを発注するのだから)ゼロになるように見える。しかし、受注前に先行発注してしまうのだから、客先から注文をキャンセルされたら不良在庫になるリスクがあり、まったくタダという訳ではない。だからこそ、横軸は「コスト・リスク」になっているのである。
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実を言うとこの二軸のマトリクスは、前回「見えない非効率 ー 今、動いているんだからいいじゃないか」で描いた図と同じチャートである。変化への抵抗を説明するために、この図を流用したのである。

さて、こうして出来上がったマトリクスの四角形の中では、当然ながら左上にあるもの、すなわち費用が小さくて効果が大きいものの優先順位が高くなる。まあ通例、それほど多くはないが。逆に右下の、費用が大きく効果の小さいものは、とうぜん低い優先度しかえられない。

では、右上の「費用も大だが効果も大」と、左下の「費用も小で効果も小」の、どちらを優先すべきなのか? 第三者の経営コンサルタントなら、右上をきっとおすすめするだろう。一方、当事者としては予算がかからず手をつけやすい左下領域を優先したくなる。

もちろん、手をつけやすい方から優先してかまわないのである。ただし、その中から順番を選ぶときには、右上の対策を頭に置いて、取捨選択するようにすべきである。なぜなら、右上の対策とは、システム全体に及ぶ対処法である可能性が高いからだ。そして、将来そのような対策がなされたとき、左下のアクションの中には、逆に無用になってしまうものがあるからだ。

たとえば上の例でいうと、「E 工場負荷状況の可視化システム」というのは右上にあり、実現はたいへんそうだが効果も大きいと考えられる。すなわちこの企業においては現在、工場の負荷を考えずに、営業部門が固定納期で客先にオファーしている、という習慣があるのだろう。ということは、もしかすると、このような習慣自体が、システムを歪めている大きな一因なのかもしれないのだ。だとしたら、本来目指すべきなのは、正確な納期回答であって、それが実現できるならば、「A 受注前の部品先行発注」といったリスクの高いことをする必要はなくなる(無論、正確な納期回答をしても受注競争力に大きく影響しないのならば、という条件がつくが)。

このように、改善アクションの優先順位付けは、マトリクスで視覚化するのが、一つのテクニックである。こうすると、特定の「声の大きい」人の意見だけを通しにくくなる。それだけでなく、アクションの配置をよく見ることで、問題の根本構造が見えてくることもあるのである。

なお念のために書いておくが、上に述べた工場のケースは、架空の事例である。わたしが実際に経験したいくつかの事例を元に、作り上げた話だが、フィクションであっても本質は伝わると思う。似たような問題事象はどこにでもあるからだ。それこそ小はオフィスのチームから、大は長らく不況に苦しむ日本経済まで、考えてみるべきフィールドはたくさん見つけられるのである。


<関連エントリ>
 →「見えない非効率 ー 今、動いているんだからいいじゃないか」(216-11-13)http://brevis.exblog.jp/24909011/

# by Tomoichi_Sato | 2016-11-21 00:09 | Comments(0)