花粉症の対策として、「蒸しタオル法」を試すことをおすすめします

昨年の4月に、「わたしが花粉症の薬を飲まずにすむようになった、1日3分の簡単な習慣」http://brevis.exblog.jp/24285190/ というエントリをアップした。今年も花粉が飛びはじめ、アレルギーの人間にはしんどい季節が始まったようなので、ここにその内容を再掲しておこう。とても簡単な方法だ。わたしは毎年、医者にかかってアレルギーの薬をもらっていたが、昨年は一度もその必要がなかった。その方法とは、

毎晩、寝る前に蒸しタオルで3分間、鼻を温める

というだけである。蒸しタオル(いわゆる「おしぼり」状のもの)をつくり、仰向けになって顔の真ん中にのせて、3分間、じっと鼻筋や目のあたりを温める。すると、なんとなく顔の緊張や目の疲れが和らいで、リラックスする。それだけで、あとは眠ればいい。

蒸しタオルといっても、じっさいには乾いたタオルを水に濡らして、電子レンジでチンすれば出来上がる。あまり熱くしすぎると顔に乗せていられないが、ぬるすぎると3分たつ前に冷めてしまうから、タオルと水の量とレンジの時間は、頃合をはかる必要がある。わたしの場合はやや熱めにしておいて、(理容師さんがよくやるように)両手でぽんぽんとはたいて、表面を少し冷ますようにしている。まあ、温度や鼻筋を温める時間については、あまり神経質になる必要はないようだ。気持ちいいと感じることが大切なのだろう。

この方法で万人の花粉症が予防できるとか、治るとか言うつもりはない。たぶんその人の体質や、日々のストレスにもよって違うだろう。わたしだって今年はどうなのか、まだ分からない。ただ、昨年の春、この方法を教えて、「確かに効いた」「楽になった」という方が何人かはいたので、ここに再度書く次第だ。さしてコストがかかる訳でもないし、ひどい副作用もないと思うので、一週間程度は試してみていただきたい。もっともわたしは医師もなんでもないので、at your own riskでお願いする、と書いておこう。また、重い症状の方は、専門医にかかることをお勧めする。ただ、たった一人でもいい、この方法でどなたか読者諸賢の春の悩みが少しでも軽くなるならば、望外の喜びである。


<関連エントリ>

# by Tomoichi_Sato | 2017-02-19 09:21 | ビジネス | Comments(0)

契約音痴は、まだ続いている

10年ほど前のことになるが、プロジェクトマネジメント学会に呼ばれて「トワイライト・サロン」で講演を行ったことがある。テーマは「海外プロジェクトの共同遂行におけるリスク要因」で、海外の企業と組んで共同でプロジェクトを進める際に、どんなリスクが考えうるかと言う話だった。共同で組む場合、ジョイント・ベンチャーや、コンソーシアムなどいくつかの契約上のパターンがある。また、スコープをどう分担するかも問題だ。これらを考えた上で、最適なフォーメーションをデザインする必要がある。わたしは同僚のAさんと一緒に、来場者の前でこうした問題についての考え方をお話しした。

講演の後質疑応答の時間になって、幾人かの方が質問に立った。ところで、PM学会の参加者は昔も今も、ほとんどがIT業界の人たちである。話題も、IT開発系プロジェクトがなぜかデフォルトになってしまう。その中の1つは、プロジェクトがスタートしたしばらく後になって、顧客がいろいろ要求上の変更を持ち出し、設計が混乱しスケジュールが遅延する場合、どうすべきかと言う質問だった。これ自体はどこの業界でも起こりうる典型的な問題だ。そして、特効薬も正解もない。

正解はないが、状況に応じて、いくつかの選択肢を考え、プラスマイナスを評価して決める、というのがマネジメント問題の定石である。変更要求はコストにも納期にも影響を与えうるため、まずは顧客にそれを伝えて理解させる必要がある。ただ、その状況と伝え方次第で、対応策は変わりうる。一般論でいえる話ではない。わたし達は状況をより理解するため、質問者の方にいくつか質問を逆に返すことになった。どんな種類の成果物を作るプロジェクトなのか。規模はどれくらいか。技術的難易度はどうか、そして顧客の特性は。

こうした質問を重ねて、少しずつ全体像が分かってきた。だが、相手はいささかじれてきたのかもしれない。わたしが最後に「どんな契約条件だったのですか?」とたずねたら、「いや契約の問題なんかじゃないんです!」とほとんど金切声で叫んだ。しかたなく、わたしはそれ以上の議論をやめてしまった。

だが、もちろん、契約の問題なのである。おそらく顧客が最初に決めた一定金額以上の追加を払ってくれないから、この問題が生じているのだ。かかった費用をそのまま支払ってくれるならば、つまり今の用語で言う「準委任契約」ならば、むしろ相手が迷って要求をかえるたびに、自分の収入が増えるのだから、この質問者はむしろエビス顔だったに違いない。しかし、この人にとって、プロジェクトは技術の問題、ないし顧客の誠実さ、つまり信義の問題に思えたらしい。

今日のIT業界では、こんなこと言う人は随分減ったに違いない。要件定義と実装以降をフェーズ分けして別契約にすることは普通になったし、スコープや作業量が見積もりにくい場合は、一括請負ではなく準委任で契約することも、わりと当たり前の知恵となってきた。

今さらとは思うが解説しておくと、「一括請負契約」とは成果物を納入して一定の対価を得る契約のことである。「委任契約」は元々は民法の用語で、依頼人が弁護士などに法律行為の代行を依頼する契約である。「準委任契約」はそれに準じた形の契約で、ただ、依頼するのが法律行為ではなく、通常のビジネス上の行為である場合に用いられる。委任契約も準委任契約も、普通は働いた時間に応じて対価が支払われる。

長らく、わたし達の社会では、システム開発は一括請負契約がデフォルトであったようだ。これは元々、ソフトが計算機ハードウェアのおまけ扱いから出発したことや、元請けが計算機メーカーの場合が多かったという事情から来たのだろう。一括請負の方が、金額が最初に確定できるため、発注者側での予算措置がしやすいという面もあったに違いない。

だが、ITの世界では要求が不明確で、あとから変更の発生するケースが少なくない。一括請負の場合、途中の追加変更に対して、請負側は追加請求の権利を有する。だがお金を払う発注者の方が「お客様は神様」で、取引で有利な立場に立つことが多い。その結果、受託側が追加費用をもらえず、コストだけ負担する赤字プロジェクトが生まれる。最初の質問者のケースは、まさにこれだったのだろう。

ところで、長らくこのような状態が続くと、受託側のIT産業自体が弱ってきてしまう。そこで『カウンターベイリング・パワー』が働き、最近はIT業界の側が契約上で、いろいろな自衛手段を講じるようになった。その結果がフェーズ分けであり、また準委任契約の導入であった。これ自体は、ある意味、健全なことだ。

ところが世の中の振り子は、ときどき逆に振れすぎることがあるらしい。1月に開催された「プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会」では、コンサルタントの本間峰一氏を招いて『システムトラブル相談センターの概要と開設の背景』という講演をしていただいた。本間氏は一般社団法人アドバンストビジネス協会が開設した「システムトラブル相談センター」のキーパーソンでもある。いろいろなITプロジェクトのトラブルを見てこられたが、最近は逆にITベンダーに有利な契約のために、発注者側が難儀をするケースも出てきているという。

ここで問題になるのが、準委任契約のあり方である。一般に、IT開発の最初の要件定義と、最後の総合テストないし運用テストは、準委任契約で行われることが多くなった。最後のテストでは、かかる工数が発注者側の運用環境に依存するし、また既存のレガシーシステムとのインタフェース・テストなども含まれることが多い。だからここを準委任でやること自体は一見、適正なことに思われる。ところが、ここで交わされる準委任契約が、ともするとITベンダー側に非常に都合のいいようにできているという。

たとえば、瑕疵担保責任の所在である。実装は一括請負だが、ユーザにとって納品物を受け入れるかどうかは、最後のテストの結果を見て判断することになる。ところがそこは準委任契約だから、成果物に責任はありません、というケースがあるらしい。何かバグが見つかって直す必要があったら、ユーザがお金を払わなければならない。これでは実装の品質が低ければ低いほど、ITベンダーは収入が増えるというおかしなことになる。それに、納期の問題だ。準委任だから、完成義務はない、納期は保証しません、という。

もう一つ問題の所在となるのは、System Engineering Service(略称SES)とよばれる契約形態である。これはIT会社の元請けから、下請け会社にSEを配員してもらうために発注するサービスだが、準委任契約の業務委託になっている。しかし、その実態は派遣契約にきわめて近い。IT業界は知っての通り多重下請け構造なので、SESの再委託もある。準委任の準委任という訳だ。どこの誰に責任があるのかさっぱり分からなくなる。

ためしに質問してみた。「準委任契約というのは、プロフェッショナルなサービスを提供するための仕組みです。である以上、プロとして仕事の品質を保証する責任があるはずでは?」 だが答えは「そこが曖昧なんです」だった。

わたしは驚いた。海外プロジェクトの契約の常識から、あまりにかけ離れているからだ。わたしは数年前まで、あるプロジェクトで海外企業と実費償還契約のもとで足かけ3年半ほど働いた経験がある。実費償還(Cost Reimbursable)契約というのは、日本の準委任にほぼ対応する概念で、人件費や経費など、つかった費用に応じて支払いを受けるようになっている。

ところが、海外企業との実費償還契約というのは厳しいのだ。まず、プロジェクトへの配員は、顧客が経歴書を審査し、きちんとした経験・能力が認めることが条件だ。勝手に協力会社の人間をアサインするなど、もってのほか。また一旦、配員されても、仕事ぶりの質が低いと、欠格として解任(Disqualify)されてしまう。働いた時間に応じて対価が払われるが、毎週タイムシートを顧客に提出し、チェックと承認を受ける必要がある。出張も外出も、顧客の事前の承認がいる。

それどころかプロマネは毎週のミーティングで、消費したMan-Hour(人時)と、作成し提出した設計成果物と、進捗率計算を報告しなければならない。顧客はこれを元に、生産性をモニタリングする。生産性が低いと叱責され、キャッチアップ・プランを出させられる。契約にはスコープと成果物が明記され、全体の契約金額にも上限(Cap)が設定されている。追加変更にかかわる作業は全て、書類で申請し承認である。自分たちのミスで余計な人時やコストを浪費したときはどうするか、納期に遅れたらどうするか、等々、ことこまかに契約書で決まっている。これが、世界の常識なのだ。

契約というのは、発注者と受託者の間のリスク分担を決めるための仕組みでもある。だから、一括請負契約と実費償還(準委任)契約とは、あれかこれかの二者択一ではない。両者のあいだには、インセンティブやペナルティ、変更と単価精算など、様々なバリエーションと知恵が存在するのだ。全体として何らかの納品物にかかわるケースならば、納期条項も成果物の品質責任も、支払額の上限もついているのが当たり前というのが、わたしなどの感覚だ。

これに比べると、本間氏の説明で聞いた日本のIT業界の準委任契約は、ほとんど派遣契約も同然のゆるさである。いや、派遣の場合、二重派遣は違法になるが、SESだと何重にも委託できてしまうから、もっとまずいとも言える。ひどいケースでは、ITベンダー側の営業が、こうした契約をたてに上手く立ち回って、弱り果てた顧客からどんどん金を搾り取っているという。

こうした状況が不健全なのはいうまでもない。契約を盾にとれば、技術力の不足をごまかすことができると思うのは、明らかに間違いだ。契約を盾にとって信義にもとるようなことをするのは、契約の精神に反している。それに技術力がなければ、最終的に顧客の満足は得られない。顧客満足こそ、ビジネスの安定の最大の基盤ではないか。

ただし、誤解しないでほしいのだが、わたしはIT業界全般を責めているのではない。むしろ逆だ。IT開発プロジェクトの発注者の側が、あまりに契約について音痴であることが、問題の根本だと考えている。一括請負契約なのに、後からどんどん追加変更を言い出す、最初の質問者の事例も、その一端だ。また逆に、準委任だからといって、ベンダーに妙に有利な条件をのんでしまうのも、やはり問題だ。私たちの社会では、長らく信義則で動いていたので、契約について弱い人が多い。だから準委任契約というと、成果物責任がなく、たんに「善良な管理者の注意義務」(「善管注意義務」)があるだけです、という説明に納得してしまうのだろう。

米アリゾナ州立大のDean Kashiwagi教授はプロジェクトとアウトソーシングの専門家で、"Best Value Procurement”という方法論を創案し、数千もの顧客に対し成果を上げてきた。昨年フランスで会ったとき、彼は「外注に関わる問題の8割以上は、じつは発注者側の能力不足に起因している」と語っていた。彼の実践範囲はITに限った話ではない。だが、なかでもITプロジェクトは、どこの国でも、難しいのだ。ITの発注者側にこそ、よりきちんとしたプロジェクト・マネジメントの理解が必要なのだと、わたしも声を上げていうことにしよう。


<関連エントリ>
 →「契約なんかこわくない」(2008-07-17)



# by Tomoichi_Sato | 2017-02-13 23:00 | プロジェクト・マネジメント | Comments(0)

意外性に動じない心を持つために

大学3年生の時、専門科目の学生実験があった。わたし達の班は「流動層の伝熱測定」という課題が与えられた。流動層というのは、丸い円筒形の容器の中に、細かな粒子(粉体)を半分くらいまで入れて、容器の底のノズルから気体を送り込んでやる装置だ。気体の流量がある点を超えると、それまでは単なる粉の集まった固体のように見えた層の中に、急に泡が生じて、全体がまるで液体のようにふるまい出す。これを流動化開始速度と呼ぶ。中で起きているのは、固体と気体とが混じり合って、液のような乱流を示す現象だ。化学プラントでは、細かな触媒粒子を使う化学反応で、反応熱が大きいときに、よくこのような装置を使う。中が良く混ざるので、熱がホットスポットのように集中しないですむからだ。

さて、わたし達の班は指定された運転条件で実験装置を動かし、得られたデータを元に計算した。ところが、教科書に載っている伝熱係数の推算式と、結果が3割も違う! どうしようか。皆で相談したが名案もなく、また実験を最初からやり直す時間もなかった。わたし達は、結果の面接を担当するK教授のところに、おそるおそる行った。K先生は当時、学会長をされていた著名な学者である。にこやかな方だが、学生から見るとちょっとコワい。どうなるだろう。もしかしたら居残り再実験を命じられるだろうか・・?

ところが、K先生はわたしたちの班のレポートのグラフを見て、一言「良く合っているじゃないですか」と講評された。え、良く合ってる? だって3割もずれてしまったんですよ。すると、K先生は笑いながら、その後わたしが一生忘れない言葉を口にされた。「これだけ複雑な現象の挙動を推算する式なんだから、精度はそんなものですよ。」

わたしの専門は化学工学だ。英語で言うとケミカル・エンジニアリング Chemical Engineeringである。これは化学プラントの設計論なのだが、そうか、その中心となる反応装置の設計の精度って、ときには3割も違うことがあるのか。もちろん、わたし達の実験が拙劣だったという事情もあるだろう。だが、両対数グラフでばらつく点群から、むりやり相関をとった推算式なのだ。1〜2割程度ずれても、意外ではない。いやむしろ、これほど複雑な現象に対して、なんとか1〜2割程度の誤差で推測できるモデル式を作れる工学の力が偉大なのだ。

帰り道に、班の仲間がいった。「それにしても、電気・電子工学の連中がきいたら驚くだろうな。電気回路の実験なんか、3割どころか3%ずれたって大目玉だろ。それだけ精密な分野なんだもの。」 わたしも考えた。「彼らは、結果を正確に予測できる分野にいるのだ。あいにくぼくらは、違う。」

その後、エンジニアリング会社で働くようになったわたしは、何年かして奇妙なことに気がついた。わたし達の業界では、プロジェクト・マネージャーという職種が一番大事である。プロマネは偉い。個人が偉いのではなくて、プロマネという職種が、あらゆることの最終決定と責任を持つエラい『役割』なのだ。ただ、わたしの勤務先には百人単位のプロマネたちがいるが、有能な人、業界で名を知られて上位に上がっていく人たちには、ある傾向が見えた。

それは、有能なプロマネにはなぜか、化学工学と土木工学の出身者が多い、という事実だ。わたしは直接、統計的なエビデンスを示すことはできないが、経験的にそう感じる。エンジニアリング会社というのは工学のデパートみたいな所で、機械・電気・建築・制御・・と、ほぼありとあらゆる分野の専門技術者がいる。他方、日本には「プロジェクトマネジメント学科」をもつ大学は事実上1校しかない状態で、プロマネのキャリアは普通、別の専門技術を学んだ者がなっていく。だから、あらゆる専門の出身者がプロマネにいて良い訳だし、中には文系出身者だって立派にいる。

それなのに、なぜか先の二つの工学の出身者が、プロマネの中ではいやに目立つのである。わたしの業界には俗に「御三家」と呼ばれる大手3社があるが、何年か前は、3社の社長がそろって土木技術者、それも東北大学の土木科出身だったことがある。皆、プロマネ経験者である。国内だけではない。海外の同業他社でも、優秀なプロマネのキャリアを見ると、ああ、この人もシビル・エンジニアかケミカル・エンジニアだったんだ、と感じることが多いように思う。

(念のため言い添えておくが、この2分野だけからプロマネが出ている、などと主張しているのではない。機械出身の優秀なプロマネや電気出身の有能なプロマネだって知っているし、いろんな出身者が事実いる。だが、化工屋と土木屋がなぜか他より少し目立つのだ)

これは、なぜだろうか?

断言していいが、大学の化学工学科は、マネジメント教育にあえて力を入れたりはしていなかった。少なくともわたしの時代はそうだ。わたしは今、出身学科に頼まれて、年に2コマだけプロジェクト・マネジメントを教えているが、たぶんそれで全部だ。ではなぜ、プロマネを多く輩出できるのか?

たしかに化学プラントのプロジェクトでは、基本設計を担うのは化学工学出身者だ。プロセス産業では、最初の基本設計をプロセス設計とよび、これを担当する技術者をプロセス・エンジニアないしプロセスシステム・エンジニアという。しかし、基本設計の担当者だからプロマネになれる、というほどこの分野のプロジェクトは単純なものではない。それに、土木はどうなのか? こういっちゃ失礼に聞こえるかもしれないが、土木設計はプラント設計の中心とは、言いがたい。必須で、とても大切な仕事だ。だが、機器や配管を支えるための架構や土台の設計で、むしろ縁の下の力持ちに近い。なぜ、ここから有力なプロマネが輩出するのか?

模範的な答えは、たぶん、「シビル設計と工事は、プロジェクト全体のクリティカル・パスに乗ることが多いから」かもしれない。たしかに、架構や基礎は、最後に設計が決まって、最初に施工しなければならない。設計というのは、ふつう上から下に進む。上物の重量や位置が決まって、はじめて下の設計ができるからだ。そして工事というのは、下から上に積み上げて進むしかない。だから、シビル工事はつねに最後まで図面が決まらず、最初に手をつけなければいけない。クリティカル・パスに乗りやすいから、彼らはプロジェクト全体を見て仕事をする経験を積むことになる・・

たしかに、その通りだ。だが、クリティカルになりやすいといえば、配管だとか回転機だとかだってそうだし、制御弁だって空冷熱交だって受電設備だって、そうではないか。機械工学や計測工学や電気工学にだって、チャンス(?)はほぼ、公平なのだ。なのになぜ、化工屋と土木屋なのか。

わたしの推測は、「化学工学と土木工学では、意外な事態が出現しても、あまり動じないから」ではないか、というものだ。結果が3割違っても、化学工学者が驚かないことは、最初に紹介した通りだ。では土木は? 土木の世界では、「しょせん掘ってみないと分からない」という言葉が表している。土木工学は地面とその下を相手にする仕事だ。理論はある。推測もある。だが、地面を掘ったら何が出てくるか、じつは分からない分野なのだ。でかい石塊かもしれない。岩盤かもしれない。遺跡だったりすることもある。だが、それに一々驚いていては、シビル屋の仕事にはならない。

理論はある。推測式もある。だが、意外な事態に動じない。内心、驚きはするだろう。だが、そこからすぐに回復する。推測が当たらなかったからといって、「こんな推測はナンセンスだ」などと言いもしない。だってモデル化と推測は工学の命綱なのだ。それを捨てたら、ほんとに何の根拠もないバクチになってしまう。工学と博打は違う。似ているように見えるかもしれないが、違うのだ。

マネジメントという仕事の要件について、わたしはずっと考えているし、人に教えたりもしている。マネジメントという仕事の中核には、「人を動かす」という行為がある。他人に働いてもらって、共通の目的を達すること。自分で直接、手を動かすことはマネジメントとはいわない。このことは、本サイトでも繰り返し書いている。しかし、それと並んで、必要なことがある。それは、「先読み」と「決断」の能力である。

先を読んで、手を打つこと。これがマネジメントとして重要だ。先を読まないマネージャーなんて、何のためにいるのか分からない。ダメなマネージャーは、ただ目の前の問題つぶしだけにかかずらう。目の前のボールを反射的に追いかけるだけの、ダメなサッカー・プレイヤーのように。先を読むということは、計画を立てるということだ。計画はマネジメントの重要な一部で、だからこのサイトのテーマは『計画とマネジメントの技術ノート』なのだ。

だが、「決断」については、もう一つ、死活的に重要なことがある。それは、予想外のことが起きても動じない、ということだ。リーダーは、簡単にうろたえてはいけない。たとえ驚いても、感情的にアップセットしてはいけない。なぜなら、ネガティブな感情に動かされているときは、決して良い判断ができないからだ。

意外性に動じない心を持つために、大事なこと。それは、先読みの予測が当たらなくても、あまり驚かないこと。とくに自然現象ではなくて、人々を相手にしたときには、なおさらだ。人を動かすことの複雑さ・予想のつかなさは、流動層の比ではない。自分で予測はするが、予測の精度について限界をわきまえていること。土木と化工の二つの分野は、たぶん、こうした覚悟を早い時期から身につけざるを得ないのだ。それが、良きプロマネを生み出す土壌になっているのだろう。・・これがわたしの想像である。そういえば、GEの伝説的経営者ジャック・ウェルチも、化学工学出身だったな。

だからといってわたしは、企業がもっと土木や化工出身者を重用すべきだ、などといっているのではない。それにこのわたし自身、化学工学の出だが、業界に名の知れたプロジェクト・マネージャーという訳でもない。出身だけでは、動じない力は決まらないのだ。

では、どうしたらいいのか? 動じない心、といえば、度量の大きな人物の特徴である。まるで西郷隆盛か誰かみたいな。だが、西郷さんのような器量の大きな人物に生まれつかなかったわたし達は、どうしたらいいのか?

わたし自身が動じやすい人間だから、ここから先は、推測である。

まず、「ああすれば、こうなる」式の予測は当たらないこともある、という認識を身につけること。これは最低条件だろう。

その上で、たぶん大事なプラクティスが三つある。まず第一に、推測・予測には精度があり、その有効範囲があるということを、きちんと意識し共有することだ。工学的な推測だけではない。法律上の、あるいはビジネス上の予測についても、同様だ。当たらない可能性は1〜2割あるな、といった判断を、意識の上にのぼらせること。あるいは言葉にしておくこと。精度がわるいときには、フォールバック・プランとか保険をかけるとかいったことも、手を打っておく。そうすれば、意外な事態に驚いても、動揺は小さくなる。

二番目に、リスク・マネジメントをきちんと実施すること。とくに、事前のリスク・アセスメントを、複数の仲間で一緒に行うこと。計画している事柄について、起こりうる事象を、よってたかって洗い出し、その発生確率や影響度を、ラフでもいいから数字で考えてみる。これは一人でやるより、複数の目で見る方が、絶対に有用だ。こうすれば、想定外な事象は少なくなる。

三番目。これはなかなか難しいことだが、自分の感情をコントロールする訓練をつんでおくこと。感情筋を鍛える、とでもいおうか。リーダーにとって、一番まずいのは感情的になること、つまり自分の感情に自分が乗っ取られる事態だ。部下から見て、感情的なリーダーほど始末におえないものはない。それは誰しも経験があるだろう。

自分の感情をコントロールするにはどうしたらいいか。それには、まず、「自分は今、どのような感情を持っているか」を自覚することが大切だと、心理学は教える。自己チェックすることで、自分の感情を対象化できるからだ。対象化したからといって、すぐにその感情が消え去る訳ではないが、それでも無意識に振り回されることからは、多少避けやすくなる。こうした感情のトレーニングは、若いときに、意識して訓練をしておく方がよい。自分の経験でも、管理職に就く中年になってからでは、遅いと思う。

感情をコントロールするとは、決して感情を押し殺すことではない。また感情を表に出さぬよう、能面のように我慢することでもない。そうした無理は、むしろ害がある。感情はわたし達の生活を豊かにする、一種の資源である。わたし達はむしろ、感情を豊かに育てる必要がある。そうすることで、妙に歪んだり暴発したりしないようにできるのだ。

まあ、こんなことは、わたし達の文化や教育の中には、あまり根付いていない。わたし自身、だいぶん遅くなるまで気がつかなかった(おまけに短気だし気が小さいし、ずいぶん人に迷惑をかけたろうと思う)。ただ、一つ方法がある。それは、ネゴシエーション=交渉の練習をすることだ。交渉は感情的になったら負けだし、感情を読まれるだけでも不利になる。絶好のトレーニングの機会なのだ。だからこそ、わたしは自著「世界を動かすプロジェクトマネジメントの教科書」の最後の章に、あえてネゴシエーションの練習風景を入れたりしたのだ。

世の中のことは、なかなか、はかりがたい。余計なことだが、昨今は、海をはさんだ隣国の権力者の、予見しがたい判断や行動に、大勢が右往左往しつつあるように見える。法律や道徳やルールで権力者に枠をはめ、その行動の予見可能性を高めようとすることは、人類社会の知恵だと言っていい。予測可能にしておくことは大切だ。

だが、予測が外れたときにも、動揺して自分の判断が狂わないように、自分の心のレジリエンシーを高めることも必要なのだ。そこの重要性が、どうもわたし達の社会では、あまり認識されていない。「ああすれば、こうなる」の類いの、決まり切った予見、正解、公式ばかりが闊歩しているように見える。それはあまり安全なこととは、いえない。国家レベルのことはともかく、せめてわたし達の身の回りだけでも、もう少し「動じない心」を育てたいではないか。


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# by Tomoichi_Sato | 2017-02-07 23:12 | リスク・マネジメント | Comments(1)

お知らせ:浜松でプロマネ育成研修セミナーを開催します(3月11日・18日)

来る3月に、NPO法人浜松ソフト産業協会が主催する

 「プロジェクトマネージャー育成研修」

の講師を務めます(静岡大学大学院事業開発マネジメントコースと浜松信用金庫が協賛予定)。
 これは11日と18日の土曜日二日間にわたって開催される研修セミナーです。わたしはその初日を担当し、

 「モダンPM論への誘い — プロジェクトをマネジメントする『技術』とは何か

と題して、プロジェクト目標の設定(ミッション・プロファイリング)、WBSの作り方、アクティビティの構成要素、プロジェクト組織と役割、そしてリスク・マネジメントなどについて講義する予定です。また関ものづくり研究所の関伸一氏によるプロジェクト・ケーススタディを加え、PMに必須な基本的スキルを1日できちんと身につけられるよう、演習を交えた実践的なレクチャーを行うつもりです。

 二日目は静岡大学の八巻直一名誉教授による、PERT手法(スケジューリング)の実際などに関する研修です。

 場所は静岡県浜松市の浜松情報専門学校 6階実習室です。
  (静岡県浜松市中区中央3丁目10-31)
 定員は20名で、有償ですが、実践的で役に立つ内容となっています。

 昨年も浜松で同じタイトルのプロマネ育成研修を行いましたが、今年はさらにバージョンアップした内容になっています。なお主催はソフト産業協会ですが、内容は必ずしもIT分野のプロジェクトだけに限らず、技術リーダーを目指すエンジニアの方全般に役立つよう考えております。

 単なる資格試験のためのお勉強ではなく、本当に実務に役立つプロジェクト・マネジメントの基本を身につけたいと考えている方、上記URLにある案内パンフレットの申込先にて受け付けしております。定員が限られておりますので、お早めにお申し込みください。積極的なご来聴をお待ちしております。

  佐藤知一

# by Tomoichi_Sato | 2017-02-05 18:50 | プロジェクト・マネジメント | Comments(0)

2016年のベスト3(書評)

このところ書評を書くペースが遅くなって、読み終えた本と書評を書いた本の差が広がるばかりです。そこで昨年読んだ中のベスト3を選んで、サッと紹介することにします(といいつつ、この書評すら1月中にはかけなかったのですが^^;)。

1.山本芳久「トマス・アクィナス 肯定の哲学」(慶應義塾大学出版会) 2016/03/27 読了


素晴らしい本だった。昨年一番の収穫だろう。

トマス・アクィナスは13世紀の人だ。彼の時代はイスラム世界経由で入ってきたギリシャ哲学の衝撃に、キリスト教が大揺れした時だった。しかし彼はアリストテレスの論理性に正面から向き合い、伝統的なキリスト教観を見直すことすらためらわずに、思考の地平を広げた。そして、入門書として未完の大著「神学大全」を残した。

本書はその中で、トマス・アクィナスの『感情論』を手掛かりに、世界の動的な構成を考える。トマスは、「キリストの愛とは何か」を考えるために、まず「人間の感情とは何か」、ついで「神に感情はあるか」を検討する。そして人間の感情を11種類の原型に分類し、それと善(倫理)との関係を問うていく。最終的には、『愛』がもっとも根源の感情であり、それを善の共鳴と応答という枠組みでとらえた上で、キリストの意志と感情との間に葛藤があったのかどうか、という問題に切り込んでいく訳だ。

わたしは、マネジメント論の研究がひと段落したら(といっても、いつかわからないが…)、「感情の研究」に取り組みたいと、ずっと思っていた。それは心理学とか脳科学とかからのアプローチになるだろうと想像していたが、思わぬところに切り口があって、驚きだった。

しかし、トマス・アクィナスという人の体系化思考って本当にすごい。かねてからトマスはわたしの敬愛する人だが、まことにシステムズ・アプローチの模範である。心底敬服した。


2.オースティン・アイヴァリー「教皇フランシスコ」(明石書店) 2016/11/05 読了

教皇フランシスコ――偉大なる改革者の人と思想(Amazon.com)

たまたまキリスト教関係の本が2冊並んだが、偶然だ。それにしてもこの本は、衝撃的だった。

2013年、教皇ベネディクト16世の突然の退位を受けて、急遽集まった枢機卿たちの中から、南米アルゼンチンのホルヘ・ベルゴリオが新しい教皇に選ばれる。イタリア系移民の子とはいえ、新大陸からカトリック教会の最高位が選ばれたのは史上初だ。彼は「フランシスコ」という聖人の名前を選ぶ。滞在したローマの小さなホテルに荷物を取りに行くとき、「チェックインしたときは、別の名前だった」という名台詞を残す。ブエノスアイレスでは賃貸アパートから地下鉄で司教邸に通い、ローマにいくときはエコノミーで飛んだ彼は、その清貧さと気さくな人柄で、すぐに大きな人気を得る。

しかし、彼はアルゼンチンでは「笑わない司教」で知られていた。彼が若くしてイエズス会の管区長の地位に就いたとき、かの国は軍政による独裁の下にあった。「汚れた戦争」と呼ばれる、一種の国内対テロ戦争によって、数万の市民が誘拐され拉致され、密かに殺害される時代が長く続いた。教会は、そうした国の体制に寄り添う伝統的な保守派と、「解法の神学」を信奉し民衆の中に入り込んで政治化した改革派とに引き裂かれつつあった。ベルゴリオはその中で、細い中立の道筋を、綱渡りのように歩まなければならなかった。

彼が教皇に就任したとき、初のイエズス会出身者ということに注目が集まり、とかくの噂を立てる者もあった。しかしこの本を読むと、彼は20年間にわたりイエズス会とは断絶状態にあり、教皇就任後にようやく和解したこともわかる。それも解法の神学を奉じる左派の修道士の処遇に発した対立だった。この人は改革派の教皇とよばれることも多いし、この本の原題も「偉大な改革者」だが、しかしふるまいは非常に慎重で、ある意味、したたかである。そうでなければ自分の信念を推し進めることのできない、危険な環境にいたのだ。現代世界で最も注目されるリーダーの肖像として、また独裁社会でのサバイバルの教本として、とても面白い。


3.生井英考「ジャングル・クルーズにうってつけの日」(岩波現代文庫) 2016-12-31読了


ジャングル・クルーズにうってつけの日――ヴェトナム戦争の文化とイメージ (岩波現代文庫)(Amazon.com)

1975年4月、サイゴンが陥落してベトナム戦争は終結する。超大国アメリカが、はじめて東南アジアの小国に戦争で負けたのだ。本書はアメリカ文化を通して見た、このベトナム戦争のイメージについての本である。それは高揚から鼓舞、緊張、不安、焦燥そして困惑へとたどる道のりだった。著者は60年代初めから80年代に至るまで、本・写真・映画・ラジオ・音楽など、あらゆる文化の局面を丹念にたどって、アメリカ社会の中でのベトナム戦争のイメージをたどっていく。学者らしい丹念な調査と、とても魅力的な編集能力と文体の組み合わせが、本書の面白さをきわだたせている。

それにしても、何と奇妙な戦争だったのだろう。第1章のタイトル「戦争は9時から5時まで」に象徴されるように、米兵は夜になると戦闘をやめ、土日も週休二日で戦闘をやめ、祝日もあれば休暇もある、そういう「仕事」だった。その上、大義も目的もよく分からない、『名誉なき戦争』。危険を何とかしのいで2年間の兵役を勤め上げ、故郷に帰れば、「危険な帰還兵」扱いされる。まことに不条理である。

いまにして思えば、1975年の南ベトナム大統領府の陥落は、すなわちアメリカの国力がピークを過ぎて下り坂にさしかかったことを意味していたと気づく。その後のアメリカは好況と不況のサイクルを繰り返しつつ、次第に産業自体が空洞化していく。そして、その気分の中には奇妙な空虚が忍び込んでくる。それが、「敗戦」の経験と意味に、正面から向き合わなかった社会の運命なのだ。著者は決して、こうした病状を断罪しようとしたりしないし、勝った方が正義で負けた方が野蛮だという「戦勝史観」でものを見たりもしない。そこには、アメリカの大衆への細やかな愛着と、アメリカ社会の欺瞞に対するやりきれなさが、通奏低音のように響いているだけだ。60-80年代の米国文化に興味のある人に、強くお勧めする。

# by Tomoichi_Sato | 2017-02-02 00:12 | 書評 | Comments(0)

結果オーライのマネジメントでいいのか? - 成果の予見可能性を高めるために

海外企業で経営者の一員として働く知人が、「利益額という結果だけで親会社から評価されマネージされるのではたまらん」と考え、Strategic Business Planを策定したという話を、前回書いた。彼は安定した成長の軌道を描くために、そして必要な経営資源を明らかにするために、苦心している訳である。では組織が「結果オーライのマネジメント」を脱して、成果の予見可能性を高めるためには、どうしたらいいのか?

答えはある意味、単純である。最終結果だけではなく、途中段階をコントロールする。すなわち、仕事を結果に至るまでの過程=プロセスに分解し、プロセスを構成するそれぞれのステップがきちんと働くようにすることである。たとえていうならば、長い釣り竿の先端を、ねらった位置にぴたりと当てるゲームを考えてみてほしい。根元だけ持って、先端の位置をコントロールするのは難しい。途中で勝手にしなるし、手元のブレや風の影響でブルブルゆれるだろう。だが、竿の途中の何カ所かに細い棒か何かで支えを入れて、その支えの位置をそれぞれ動かせれば、先端の位置決めははるかに精度が高くなる。そういうことだ。

仕事をプロセスに分解するとは、受注型営業ならば、商品説明→提案→見積→受注、という段階になるだろうし、設計作業なら要件確認→基本設計→詳細設計→試験確認、といった流れかもしれない。図では、仕事を直列な4つのステップに分けているが、べつに4でなくてもいいし、直線状ではなく分岐や並行があってもいい。
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各ステップには、それぞれの中間成果物や達成状態がある。そして各ステップには、そのパフォーマンスを左右するような、主要な導因(Key drivers)と、それを測るモノサシがあるはずだ。これが先ほどの釣り竿の例でいう、途中の支えに相当する。たとえば営業の商品説明なら、客先への訪問がKey driverだろう。それは訪問件数で測ることができる。そのステップの中間結果としては、次のステップ=提案まで持ち込める案件の比率が、達成度合いを示す。このようにプロセスを分解して、各ステップの状態を良く見分けることができれば、最終結果に至るずっと以前に、先行きの予想がつきやすくなる。つまり『予見可能性』が高まるのだ。

かりに営業の受注プロセスをよく見たら、商品説明から提案までは高い比率で進んでいくのに、その後、見積に行く段階で急に案件数が下がったとしよう。だとしたら、受注がふるわないのは、「商品力がないから」とか、「他社より価格が高いから」といった理由ではなく、「提案段階での内容・質に問題がある」ことが主要な原因だと分かるだろう。商品に興味は持ってもらえるのだ。だが、提案が顧客の期待にマッチしていない。だとしたら、提案力を上げるにはどうしたらいいかを考えることになる。

そして各ステップには、そのパフォーマンスに影響を与える環境要因がある。これもステップ毎に異なるはずだ。環境要因とは、担当者の意志や努力ではどうにも変えられない事象を指す。提案段階のパフォーマンスに影響を与えるのは、「世の中の景気」でもないし、「他社との競合の激しさ」でもあるまい。

提案力が低いのは、もしかすると設計部門が多忙すぎて提案営業に協力できない、といった内部環境なのかもしれない。あるいは単に、営業から技術部門への顧客ニーズの伝達が、うまくいっていないのかもしれない。ただ明らかなのは、「世の中の景気が落ち込んで競合が厳しくなったから受注高が上がりませんでした」という説明は、事実を正しく伝えていないということだ。こうした営業部門の言い訳は、プロセスに分解すると正当かどうか判断できる。

戦略とは、限られた経営資源をどこに集中し、どこは略すかを決めることである。だから上記のような状況では、提案能力を上げる部分に、人員や資金や技術を投入すべきだということになる。戦略は一種の賭けでもあるので、経営資源の投下が本当に期待した効果を上げているかを、Key driverと中間成果の数字で測って、適時検証しなければならない。

・・と、いうような話は、別にわたしの創意でもないし、取り立てて新しい考えでもない。結果だけを見るのではなく、結果に至るまでの段階と構成要素を見てコントロールすること、かつ全体を見て判断すること、必要ならばその仕組みを改良すること。これがシステムズ・アプローチである。原理自体はとりたてて難しいものではないし、図を見ればほとんどの人は「なるほど」と同意するだろう。プロジェクトという大きな仕事のまとまりを、構成要素であるActivityに分解するWBSという手法だって、その一例である。工場の人なら、工程単位に検査をしながら進んでいく「自工程完結方式」だな、と思うかもしれない。

だが、システムズ・アプローチを知っているということと、組織がいつでもそれを使いこなせるかどうかは、別物である。組織の構成員が無意識に従う、体系化された思考と行動の習慣を、わたしは『組織のOS』と呼んでいる。「結果オーライのマネジメント」が横行している組織では、システムズ・アプローチはまだOSレベルに至っていないな、と判断できる。そういう組織では、仕事の成果は人で決まるか、環境に左右されるか、だと信じられている。だから競争で人を選別するか、あるいは各人の頑張りで環境条件をはね返すしかない、という結論になる。

最近、とある著名な経営コンサルタントから聞いた話がある。この方は製造業の分野に強いのだが、日本企業の海外展開のあり方について気になることをいっておられた。海外に工場を建て、子会社を作るのはいいのだが、その子会社に対してまさに「利益額の結果だけで管理する」やり方をとっている企業がほとんどだ、というのだ。きいていて、ちょっとドキッとした。

かと思うと逆に、やれ稼働率だ資材購入単価だ生産性だと、部門別に細かなモノサシをたくさん指定して、それで海外工場同士を比較競争させる発想もけっこう強いらしい。「KPI経営」と、その方はよんでおられた。

KPI経営のどこがまずいのか? 企業の部門というのは、営業・資材購買・製造・物流、という風に、仕事の機能単位に、まさにプロセスで並んでいるのだから、それぞれの機能をKPIでコントロールするやり方は、まさに上に述べたシステムズ・アプローチではないか、と思う人もいるかもしれない。

だが、両者は似て非なるものである。まず、プロセス全体を見ている者がいない。日本の工場を「マザー工場」に指定して、海外工場にならわせるマザー工場制度を取るところも多いので、実質的には日本の各部門が、子会社の各部門をそれぞれ個別に指導・管理しているだけだったりする。だから、現地にも工場長はいるだろうが、日本で適切だったはずのKPIが、海外工場に同じように該当するかどうか、誰もきちんと全体を見て検証していない。

それに、上述の各ステップのパフォーマンスを左右する動因の一つは、すぐ上流側から受け取る中間成果物の品質やタイミングなのである。いってみれば上流側プロセスが、各ステップにとって最大の『環境』に相当するのだ。それなのに、上流側が勝手にそれぞれ局所最適を目指したらどうなるか。

たとえば資材購買のKPIが購入単価だったとする。つまり安ければ安いほどいい、と。いきおい、入ってくる資材は品質や納期にリスクを抱えることになる。加工課のKPIは機械稼働率だったとしよう。そしたら、とにかく機械を遊ばせないため、遅れ気味の資材が、入るはしから部品に加工したがるかもしれない。低品質な部品が、使うかどうかも不明なまま大ロットで工場倉庫に積み上がる。ところで組立課のKPIは一人あたり生産性である。そこで、できるだけ部品を作業ラインの近くに置いておきたがる。かくて、工場はモノであふれかえっているのに、必要なモノは足りなかったり、出来上がった製品の品質はさんざんだったりする・・

おわかりだろう。各ステップのKey Driversというのは、プロセス全体をとりまく状況に依存するのである。だから、システム全体を見る目と、判断する能力が必要なのだ。中小零細の工場主なら、こうしたことは理屈で知らなくても体感でわかっている。むしろ中堅以上の、分業が進んだ企業組織ほど危ない。業務を機能別に分解してKPIで働かせるだけででは、マネジメントしていることにはならない。WBSをつくって各Activityに担当者を割り振ったら、あとはプロマネなしでもプロジェクトは成功するだろうか? そうはいくまい。つねに変わりつつある内部環境や内部環境に応じて、総合的に判断する役目が必要なのだ。「総員がその持ち場で最善を尽くせば、結果は必ずついてくる」などというのは、じつはマネジメントの不在を示している。

くりかえすと、組織全体の成果の予見可能性を高めるためには、プロセス(工程)によるマネジメントとコントロールが必要である。そのためには、

・プロセスを構成する各ステップのキーとなる導因とモノサシを見定める
・モノサシと、結果のパフォーマンス(コスト、時間、品質など)との関係を推定する
・全体プロセスがうまく働くように、適切に人員や予算などの経営資源の配分を判断する

という手順を踏むことになる。こうしたことは、皆がある程度、無意識にやっている事かもしれない。いわれてみれば当たり前、あるいは「そんなの知ってるさ」という事かもしれない。だが、それを形式化し、OS化することが大切なのだ。それによって、属人的な仕事の進め方(技能)が、標準化された技術になるからだ。

そしてもう一つ。こういった原則的な知識は、字で読んだだけでは身につかない。自分自身の状況に引きつけて応用問題を考え、少しずつ試しながら理解する必要がある。たとえば上記のプロセスに、ループや分岐があったらどうしたらいいのか。どうみても数値化しにくい中間成果は、どう扱うか。

一般にマネジメントの問題には正解がないといわれる。それは、現実の仕事には環境条件や不確実性が左右して、結果に必ずしも再現性がないためである。だが同時に、『全体を見て総合的に判断する』ためには、確固とした価値観を持たなければならないからでもある。そして、こうした総合的判断の訓練のためには、学ぶ仲間がいるほうがいい。現在、わたしが主宰する研究部会では「PM教育の新しいアプローチ」を構想中だが、そこで学びのコミュニティが必要であると考えているのは、このためだ。一人だけで問題を考えると、どうしても視野が限られるが、複数人なら「三人寄れば文殊の知恵」が働くからだ。

そしてわたし自身も、まだ学びの途中である。

<関連エントリ>



# by Tomoichi_Sato | 2017-01-25 23:01 | ビジネス | Comments(0)

結果オーライのマネジメントでいいのか?

帰国した知人と久しぶりに会った。アジアの新興国で会社の経営陣の一員として働いている。日系ではなく純然たる現地企業だ。中堅規模でそれなりの業績も上げているらしい。知人の主な仕事はBusiness Development、すなわち事業分野の拡大と経営面の仕組み造りである。わたしも最近ずっと経営企画的な仕事をしているので、興味が重なり、いろいろな話を聞かせてもらった。

知人がその会社にヘッドハントされて着任したとき、真っ先に気になったのは、きちんとした中期的な経営の方針がないことだった。彼の会社は、その国の結構大きなコングロマリットの一部であり、子会社の位置づけだ。だが親会社からは、「何の指針も指示もなく、P/Lのボトムラインだけで管理されている」状態だったという。

P/Lとは財務諸表の『損益計算書』(Profit & Loss)の略称だ。損益計算書は一番上に売上収入が書かれ、その下に出費経費がずらずらとならぶ構造になっている。一番下の行には、差し引きの結果である経常利益が記載される。これを英語ではよく"bottom line"と称する。「P/Lのボトムラインで管理する」とはつまり、通期の利益額だけを見て、赤字だったら叱責され、黒字ならよしよしと言われるか、「まだ足りない」と言われるか、だけだったということを意味する。収益が大きければたぶん経営者はグループ内で地位が昇格し、赤字が続けばクビになって別の者にすげ替えられるのだろう。

だが、これだけでは、会社の経営陣として次にどういう手を打つべきか、さっぱり分からず、方向性が定まらないと知人は言う。そうだろうな、とわたしも思う。お前の会社はグループ内でこういう位置づけ、こうした役割を担っているのだから、こんな風な姿を目指せ、親会社として支援できるのはここまでで、判断基準ややり方はこうだ、というような指針が一切ない。ただ結果としての利益を出せ、と言われているだけだ。

きいていてわたしは、「甘えるな、結果が全てだ!」という標語を思い出した。わたし達の社会では、あちこちで出会うセリフである。経営者は結果が全てだ、利益を出せるかどうかだ。これは多くの株主が感じていることだろう。あるいは職場でも使う。営業は結果が全てだ、受注できるかどうかだ、という具合に。学校教育でもそうかもしれない。入試は結果が全てだ、いくら試験場で気張っても入試に通らなければ意味がない。スポーツも、参加したって勝てなければ意味がない・・

これは裏を返せば、良い結果さえ得られれば、その方法や途中経過は問わない、というメッセージでもある。そのやり方がどんなに属人的でも運頼みでも、とにかく結果さえ出れば、それで良いとほめられる。そして結果は、たいていリーダーの功績に帰せられる。だから優れた業績を上げた人は、どんどん引き上げて、より上位のポジションにつける。結果とは一種の人材選別のフィルターであって、優秀な人間を見いだしてリーダーに据えることですべてはうまくいく。そういう思想の表れである。そう考えると、わたし達の社会でやっている受験競争だとか就活だとかの大騒ぎの意味が、よく分かるではないか。試験で優秀な結果を出せた者が一流大学に進学でき、その中の成績上位者がさらに中央に引き立てられてエリートとして社会に君臨する。そのおかげで日本はここまで立派な大国になったのである、と。

でも、知人のケースに話を戻そう。結果を出すために、目の前の仕事を取りに行って、何とか完遂する。それをおえたら、また次の仕事を取りに行き、完遂する・・これの繰返しだけでは、会社は新興国の不安定な景気の波にもまれるだけで、真の成長はむずかしい。このままではまずいので、Strategic Business Planを作ることになった。それが彼に期待されたミッションの一つでもあった。ちなみに知人は元々、技術屋である。だが長らくプロジェクト・マネージャー職に従事し、さらに<マネジメント的な視点>を持っている人だ。経営関係の勉強もそれなりにしている。彼の上司にあたる社長も、技術者上がりだ(わたしは一度だけ挨拶したことがあるが、人柄を感じさせる立派な方だった)。だからこうした方面の役割を、その知人に期待したらしい。

Strategic Business Planであるから、まずは会社が中長期的に目指す姿を明らかにすることからはじめなければならない。そのためには無論、ある程度のマーケットの読みが必要である。魚のいない海に船を出してもしかたがないからだ。アジアのその国では、長い政治的低迷時代を少し前に脱し、ようやく成長過程に入っていて、エネルギーやインフラなども市場が期待できる。ただし市場は大きくても、競争をどうしのぐかが次の問題になる。せっかく豊富な漁場に出ても、周りを見渡したら、(たとえば)中国漁船がうじゃうじゃ、というのでは始末に負えまい。それから、自社の強みを明らかにして、それを向上させる技術なり人材なりの方策が必要である。漁場も良く、回りにライバル船が不在でも、自分の船にGPSもレーダーもなく、古代さながらの投げ網だけでは、収穫はしれているというものだ。

こうした仕事を進めるにあたり、すべてを自分だけで我流でやらず、社内を動員し、また外部のコンサルタントを活用したそうだ。とくに遂行面での弱みを補強するために、欧米系の超有名な、「マ」ではじまるコンサル会社を雇ったりもしたのだが、ここは期待外れだったらしい。それはさておき、彼が目指すStrategic Business Planを一通りつくり上げることができた。外部コンサルも、自分たちの頭を整理してくれる点では役に立った。なぜなら、経営計画を策定するという仕事はどこの会社にも共通しているし、経営学という学問の蓄積も一応はある訳だから、自分でゼロから車輪を再発明せずにすむ訳である。

こうして海図と羅針盤は手に入れた。だが、これからPlanを実行する段になると、別種の難しさに向き合うことになる。それは環境変化だ。

ここでちょっと考えて見て欲しい。今、AとBの二人の経営者がいるとする。彼らの会社の利益は次の通りだ。あなたが投資家だったら、どちらの会社がより投資先として好ましいと思うだろうか?
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どうやらこの国では、第2期は景気が良く、第3期はその反動で不況だったようだ。こうした環境変化はつねに起こりうる。企業の業績も、それを反映して変わるのがつねだ。それはこの表にも現れている。そしてA社・B社とも、4期合計の利益額は180億円で、結果に違いはない。

だが、A社はいかにも、業績にムラがある。これにたいしてB社の方が、より安定している。あなたが投資家だったら、B社の方が好ましいと思わないだろうか。たしかに経営者は結果が大切で、たくさんの利益を出した方が勝ちかもしれない。だが、ある期は黒字、次の期は赤字で、先々の予測がつかない経営では、ジェットコースターに乗っているようなものだ。過度のスリルを楽しみたいギャンブル的投機ならともかく、投資としてはいただけない。

つまり、組織のパフォーマンスというのは、個別の結果の良し悪しだけでなく、『予見可能性』が高いことが、社会から信用を得るためには非常に大事なのである。それはある意味、個人でも似ている。天才肌で、仕事の業績が飛び抜けて良い日もあるが、別の日はさっぱりふるわない、では組織の一員として使いにくい。何年に一度かヒット作が出れば食っていける職種もあるかもしれないが、たいていの業種はそうではない。

では、組織として、環境条件の変化にあまり左右されずに、安定してパフォーマンスを上げるためにはどうしたらいいのか。長くなってきたので、この続きは稿をあらためて、また考えよう。
(この稿続く)



# by Tomoichi_Sato | 2017-01-20 23:02 | ビジネス | Comments(0)

好きな事・上手にできる事・稼げる事・世の役に立つ事

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この図形をいつ、どこで見つけたのか、正直いって思い出せない。ネットで拾ってきたのは確かなのだが、今、検索し直してもオリジナルがどれか見つけられずにいる。でも、著作権不明なまま、掲げておこう。非常に気が利いていて、初めて見たときから面白いと感じたからだ。

言うまでもないが、これは「人生の目的」に関する、一種のベン図である。ベン図は集合の包含関係を示す図だが、日本人は視覚的な表現にたけている人が多いらしく、ほとんど説明せずに理解してくれる。この図は、わたしやあなたが、毎日している(かもしれない)ことを、大きく4つの領域に分けて示している。

図の一番上にある円が示す領域は、”You love it”である。つまり、好きな事、したい事を表す。そして、図の左側にあるのは”You are great at it”、すなわち「上手にできる事」を示す円である。さらに反時計回りに図の下側に目をやると、”You are paid for it”がくる。それは「稼げる事」だ。そして一番右にあるのは、”The world needs it”で、この円だけは説明に、二人称”you”を含まない点に注意してほしい。つまり、他者の視点をここだけに導入しているのだ。これは「世の役に立つ事」を表している。

この図が巧みなのは、隣り合う円同士が重なる領域に、さらに名称を書き入れている事だ。「好きな事」と「上手にできる事」の重なり合う領域、つまり自分が好きで、かつ上手な事は、自分にとって”Passion”(情熱)の源泉である。それはそうだろう。

「上手にできる事」で、かつ「稼げる事」の領域は”Profession”(職業)である。英語のProfessionは、単純な労働ではなく、プロとして認められる高収入な職業を示す。そして、「稼げる事」と「世の役に立つ事」の重なりは、”Vocation”(天職)となる。社会的に価値のある、お仕事である。

そして「世の役に立つ事」であって、かつ自分の「したい事」となる領域は、”Mission”(使命)という訳だ。稼ぎにはつながらないかもしれない。しかし自分がしたくて、世の役に立つ事。Missionは宣教という意味も持つが、欧米のキリスト教社会では、たしかに直接お金にならなくても、こうした活動に力を入れる人は多い。エバンジェリストなんて言葉も、この同類だ。

Passion - Profession - Vocation - Missionと、4つの言葉がいずれも高尚で、かつ脚韻を踏んでいる点にも注目してほしい。ここら辺がこの絵を見て感心したところの一つだ。

そして、全ての円が重なり合う中心の赤いスポット。これが”Purpose”であると、この図は説明する。生きる目的、という訳だ。「生きがい」と訳することも可能だろう。好きで、上手で、稼げて、世の役に立つ。そのような仕事を見つける事ができれば、たしかに大きなやりがいを感じ、熱中できるに違いない。

今年の抱負をどう決めようか。人生の中期的な目標は、どこに置こうか。年末年始の休みの間に、そういったことを考えてみた人は多いだろう。わたしもそうだ。連続した長い休みの日がないと、なかなか、重要だが緊急でない問題を考える時間が取れないものだ。そのときに、なんとなくこの図を思い出して、しばし眺めてみた。

ただし、この図は眺めるだけならば面白いが、いざ「思考の道具」として使おうとすると、あまり便利ではない事に気づく。自分の生きがいを見つけるために、では、具体的にどうしたらいいのか。

自分が今、日常の中で主にやっている事は、当然、「稼げる事」の中に入っているはずだ(利子生活とか年金生活で、一切働く必要のない人はのぞく)。そのうち、「世の役に立」たないようなこと、つまり反社会的な仕事で稼いでいるかというと、まあそんな事はないはずだと思う。だとすると、自分はもう自動的に、「天職」の中にいる事になる。あとはまあ、その中で自分が好きで上手にできる部分を探すだけだ。好きこそ物の上手なれ、だから、上手な事と好きな事は普通重なっている。だったら自分が普段やっている仕事の中で好きな事を選べば、それが「生きがい』になる・・そんな簡単なものだろうか? 何か違う気がする。

だいたい、自分が稼ぐために毎日している仕事の中に、好きでしたい事なんてほとんど無いよ、というのが、しばしばある悩みだろう。では、自分が好きで、したい事とは何なのか。多少の趣味や娯楽ならともかく、仕事になりうるもので、かつ自分がしたい事とは。それがなんだか分からないので、「自分探し」という奇妙な言葉がはやるのだろう。どこかに自分に向いた、しかも面白いことがあるに違いない、今の自分はかりそめの姿だ、今の仕事は腰掛けにすぎない・・と。

だがそもそも、自分のしたい事とは、最初からそんなに明確に自己の中に内在していて、いわば「発見されるのを待っているだけ」、という状況なのだろうか? 周囲の状況に応じて、上手に適応することを求められ続ける日本人にとって、「周囲のみんなが好きだというから」「周りから『それが似合っているね』と言われたから」、いつのまにか、“自分でも好きだと思い込んでいる”ことも結構ありそうだ。自我が強くて頑固な西洋人なら、「好きな事」はかなり明確なのかもしれない。だがわたし達の多くにとって、好きな事の輪郭はもっとぼんやりしているというのが、事実なのではないか。

そう。この図が、生き甲斐を見つけるツールとしては、必ずしも役立たない理由はそこなのだ。ベン図は物事(集合)の境界線を示す。それは1か0かであって、中なら集合に属し、外なら属さない。白黒はっきりした世界だ。だが、わたし達の「好きな事」「上手にできる事」などはもっと、なだらかにグラデーションがついた世界ではないか。ちょうど物理で言う電子雲のようなものだ。だからこの図は、4原子分子の電子雲のように表現されるべきなのだ。ま、それで分かる人が増えるかどうかはともかく・・(^^;)

だが、それでもこの図に表された概念は、チェックリストとしては非常に有用であると、わたしは考える。すなわち、自分が(たとえば)今年の抱負といて取り組もうとしている事、いろいろなアクションについて、
「それは自分が好きな事か?」
「自分が上手にできる事か?」
「稼げる事か?」
「世の役に立つ事か?」
を問うのである。そのとき、1か0か、YesかNoかで判別するのではなく、◎○△×といったグラデーションのレベルで評価してみるのだ。

そして、自分の希望するアクションリストについて、4つの軸から採点してみる。その結果、もし「好きな事」ばかりに◎がつくようなら、ちょっと自分は楽な方向に傾きすぎていないか、と疑ってみる。逆に「好きな事」が少なすぎたら、自分は何か無理をしているかな、と気づくだろう。

同様に、「上手にできる事」の色彩が強すぎるようだと、自分は他の能力を伸ばす事を怠っているのかもしれない。「稼げる事」が足りない場合、どうも趣味や使命感に走りすぎていて、生活を軽んじているかと反省してみるべきかもしれない。「世の役に立つ」ことが少なすぎると、家族や世間の付き合いを避ける傾向があるのかもしれないし、あるいはいささか身勝手になっているのかもしれない、と思ってみる。

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わたし達は、未来の自分のありたい姿と、現在のポジションとのギャップから、いろいろな課題を見つける訳だ。そして、それを埋めるべく、中期的なテーマを設定する。それが「今年の抱負」である。抱負はさらに、具体的なアクション・リストに落とし込む必要がある。ただし、今年の抱負のアクションを、総花的に10も20もリストアップしたら愚かだ。候補の中からある程度、優先順位をつけて選ぶプロセスを、わたし達はしているはずである。

そして、以前、「今年の抱負はこう作ろう」にも書いたように、こうしたアクションには、具体的なゴールのイメージと、その成功・失敗をはかる基準としての目標があった方がいい。そうしたことを、表の形にしてみる事をお勧めする。

こうしたアクションリストを年の初めに作るというのは、ちょっと大げさに言えば、わたし達の生き方において、海図と羅針盤を持つことに相当する。日々の雑事に流されがちな生活の中で、流されない自分の軸を決めるということである。

そして、実は同じような事が、会社における年度方針やアクションプランにも言えるはずなのだ。会社は稼ぐ事、利益を得る事が、もちろん第一目的ではある。しかし、不思議な事に、「お金お金」だけでは、わたし達は十分うまく働けないのだ。そこで、会社における種々のアクションについても、
・上手にできる事か(=自分たちの強みを生かしているか)
・したい事か(=モチベーションを高めるような仕事か)
・世の役に立つ事か(=市場性、コンプライアンス性は満たしているか)
をチェックしてみるといい。

アメリカの経営学者の中には、企業を、財務諸表の上の数値だけで追いかけて管理するのでは不十分なのだ、と気づいた人たちがいる。彼らは、財務に加えて、顧客の視点・業務プロセスの視点・学習と成長の視点などを取り入れた企業の通信簿=「バランス・スコアカード」(Balanced Score Card, BSC)を提唱している。これは、よく考えてみると、最初に示した図の4軸とよく似ているではないか。

わたし達は「生きがい」には、なかなか到達しないかもしれない。だが少なくとも、4つの軸のバランスをはかりながら、少しずつでも進んでいくべきなのである。


<関連エントリ>
 →「時間の中に生きる」http://brevis.exblog.jp/11897591/ (2010-01-03)
 →「今年の抱負はこう作ろう」 http://brevis.exblog.jp/21527608/ (2014-01-03)

# by Tomoichi_Sato | 2017-01-12 23:04 | 考えるヒント | Comments(0)

プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会」(1月17日)開催のお知らせ

(訂正: 最初、本文中で1月17日を金曜日と誤記してしまいましたが、正しくは火曜です。お詫びして訂正してます_o_)

「プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会」2017年の第1回会合を、下記の要領にて開催いたします。

今回は、システム開発プロジェクトのトラブルという、世の中に広く見られる問題への取組みがテーマです。
昨年、一般社団法人アドバンストビジネス協会が「システムトラブル相談センター」を解説して、話題を呼びました。発注者とITベンダーの間でこじれてしまったITプロジェクトには、どのようなパターンがあるのか。それを解決するための助言とは、どんなことか。
このセンターのキーパーソンである本間峰一氏は、ERPおよび生産情報システムにも詳しい経営コンサルタントで中小企業診断士です(また古くからの友人でもあります)。第三者の目から見た、日本のITプロジェクトの問題とはどのようなものか、興味深い話が聞けると思います。ぜひご期待ください。

<記>
■日時:2017年1月17日(火)18:30~20:30
■場所:三田キャンパス・北館会議室2(1階)(定員:28)
 キャンパスマップ・【1】

■講演タイトル:「システムトラブル相談センターの概要と開設の背景

■概要:
ERPパッケージの導入プロジェクトを中心にシステム導入トラブルに巻き込まれる企業が増えています。その原因と対策に関して一般社団法人アドバンストビジネス協会が開設したシステムトラブル相談センターの狙いなどを中心に、実際の事例をベースにお話しします。

■講師: 本間峰一(ほんま みねかず)

■講師略歴:
前職:みずほ総合研究所 コンサルティング部
現職:(株)ほんま コンサルティング部

■参加費用:無料。 ちなみに本研究部会員がスケジューリング学会に新たに参加される場合、学会の入会金¥2,000が免除されます。

会場の人数に上限があるため、参加を希望される方は、できましたら前日までに三好副幹事までご連絡ください。

以上、よろしくお願いいたします。


佐藤知一@日揮(株)

# by Tomoichi_Sato | 2017-01-06 21:24 | Comments(0)

クリスマス・メッセージ:見えるコストと見えない価値

Merry Christmas!!


大学生にプロジェクト・マネジメントを教えるのは、むずかしい仕事だ。

わたしは現在、勤務先でのフルタイムの仕事のかたわら、大学で少しばかり授業を持っている。夏学期は東大の大学院、冬学期は法政の学部3年生に、それぞれ毎週プロジェクト・マネジメントを教えてきた。今年はそれに加えて、静岡大学の社会人大学院(MOT)も集中講義を冬に持つことになった。さらに単発的に大学や企業、JAXAのような研究機構などに講師として呼ばれている。科目はプロジェクト・マネジメントが中心だが、生産マネジメントやBOM/部品表などもある。そして、自分が主宰する研究部会でも、「PMの自己育成のシステム」の構想を共同で作り始めたりと、なぜかわたし自身にとって「教育の当たり年」みたいな年だった。

しかし、それらの中でも、大学の学部生にプロジェクト・マネジメントを教えるのは飛び抜けて難しい仕事だ、というのが実感である。理由は受講生たちの学力とか理解力の問題では、たぶん、ない。そもそも人と働いた経験のない学生に、「プロジェクト・マネジメント」というのは、ピンとこないのだ。だから、学びたいという切実なニーズが、受講生の側に生まれない。これが社会人相手だと全然違う。社会人は多かれ少なかれ、他者と協業して新しいことに挑戦する仕事が、いかに大変か身にしみて分かっているからだ。

ここにマネジメントに関する「学び」とか「教育」の根本的な難点が横たわっている。プロジェクト・マネジメントのような目に見えない仕組みや技術は、それが「無くてこまった」という経験をしない限り、その価値がピンとこないのである。

普通の商品・サービスというものは、目に見える。スマホであれ飛行機チケットであれ、それを買ったらどういう便益が自分にあるかが、分かりやすい。ところがプロジェクト・マネジメントとか生産マネジメントという種類の事柄は、それとは異なる。複数の職能を持つ人々が協力して何かを生み出す仕事を、上手に導くというのが、この種の仕事だが、それが本当に上手なのか実は下手なのか、傍からも当事者からも、よく見えない。見えるのは結果としての製品や成果物だけだ。

いや、「マネジメントという意識」にもとづく行為さえ、あるのかないのか、外部からはよく見えない。わたし達の社会はある意味、とても成熟していて、個々の成員は勤勉かつ有能、おまけに与えられた枠組みの中で互いに調整しながら仕事をするのにたけている。だからマネジメントという意識的な行為が無くても、組織はそれなりになんとか動いていく。学生達はサークル活動や学園祭などのイベントを通じて、そう学んでいく。もちろん、リーダー格の人間や、責任者としての管理職者は存在するだろう。だが、この人達は「精神論のかけ声を叫ぶだけ」、「お神輿に乗っているだけ」で、マネジメント的仕事と無縁というのも、ありがちな話だ。ではなぜ組織が動いていくかというと、期日や売上などのモノサシで測られるからだ。

マネジメント能力は必須ではない。あればベターだが、なくても何とかなってしまう。ただ、その結果として「見えない非効率」が生じるだけ。これが、マネジメントへの学びをむずかしくしている。少なくとも、人びとのレベルが高く成熟した、わたし達の社会では。

組織の失敗や成功の結果を、マネジメント能力ではなく、目に見える道具や、人材の質で説明するというのも、よく行われることだ。あの仕事がうまくいった理由? それは彼らが○○○という道具を使っているからさ。あの事業がダメになった理由? だってリーダーが無能だったものね(→これは現場レベルの人の説明で、幹部レベルの説明になると「あそこの地域の奴らはダメさ! ろくに働けもしないんだ」にすり替わる)。

こういう説明は俗耳に入りやすく、分かりやすい。そこで、「××問題を解決するには、○○○を導入すればいい」というセールス文句が、がぜん威力を発揮することになる(伏せ字にはERPから人工知能まで、好きな文句を入れてください)。わかりやすさの勝利である。分かりやすい説明は、脳に余計な負担をかけないので、多くの人が好む。

これに比べて、人材の方は雇ったり取り替えたりするのはそう簡単ではない。いかにグローバル化が進展したとはいえ、まだ人の首を切ってすげかえるのは、時間がかかるからだ。ただ、昨年米国に出張した際、ある会社の幹部(たまたま英国人だった)が、こう言っていた。

「ここテキサス州では、社員の首を切るのに時間がかからない。“お前はクビだ”と通告して、オフィスからシャットアウトし、自宅待機を命じる。そして1週間分の給料を払えば、それでおしまい。あっという間に終わる。英国では、そうはいかなかった。1ヶ月以上前に事前説明する義務がある。」

そして、こう付け加えた。「テキサスでは、従業員は上司の命令にとても忠実に従う。いつ首を切られるか分からないからだ。英国では、クビにするのは簡単でない。だから、部下も上司に問題があると思うと、口に出して意見する。」

米国企業ではトップダウンで物事が進む、トップのリーダーシップが強い。それにひきかえ日本企業では・・、という説明を外資系コンサル達からよく聞くが、その背後には、じつはこうした雇用事情があったのだ。従業員を機械の部品か何かのように、取り替え可能なモノとして扱う。これが米国流の経営思想らしく、今や大きな潮流として世界を覆いつつある。

そういうことを学生達も感じているから、いかにして企業に雇ってもらうかが大学生活での第一関心事になるのである。大学3年生は年明けになると、就活で気もそぞろになる。授業にネクタイやスーツ姿で参加する学生が目立つようになる。そして百の単位のエントリーシートを手書きして送り、数十の単位の会社で面接を受け、というような今風の光景に身を投じていくのである。大学で何を学ぶかなど問題ではない。だって企業は大学名(と採用向け共通テストの点数)しかほとんど見ないからだ。こういう状況の中で、「学ぶ」だとか「教える」だとかに腐心するのは、ほとんどナンセンスであろう。

そして、こういう修行のような(あるいは拷問のような?)就活プロセスを経て社会人になった人たちが、「学び」に関して独特な考えを持つようになったとしても、不思議はない。教育とは、選別(セレクション)のための仕組みである。学ぶとは、学校や会社が期待する正解を覚えるためのプロセスである、と。一歩間違うと、すぐに首を切られて放り出されちゃうんじゃないか。・・人材育成に悩む企業は多いが、問題の背後には、じつは企業の「人材」観の変化があるように感じられる。

従業員は部品のように取り替えのきくものである。人を見たら人件費と思え。人は数字である。人はコストである。できる限り削減する方が企業経営には良い・・。

こういう考え方を一掃できる方法がある。それは、会計の方法を変える事だ。

具体的には、人件費を一種の繰延資産として資産計上するよう、ルールを変更する事である。

企業は、従業員を部署に配属するにあたり、業務プロセスを教えて仕事を覚えさせ、訓練する必要がある。つまり業務というのは、その中に一定量の「学び」を含んでおり、研修をも兼ねているともいえる。実際、OJTという言葉で、ほぼ一切の教育研修をバイパスしている企業も見かけるほどだ。

である以上、人件費の一部は労働の対価ではなく、職務能力のビルドアップ投資と考えてもよい訳である。そこで、企業の人件費の20%程度を、経費ではなく設備費として計上するよう会計ルールを変更することを提案したい。人が増え、また勤続年数が重なっていくほど、貸借対照表の上の試算額も増えていく。つまり、株主から見た企業価値が増大していく訳だ。

たとえば人件費が年間500万円だったとしよう(従業員がもらう手取りではなく、企業の側が負担する人件費の話である)。すると、1年に100万円分の資産が形成される。100人なら年に1億円である。平均10年勤続だったら10億円の資産価値になる。

この資産額は従業員一人ひとりの名前に紐づいている。だから、もしこの100人の首を切ったら、会社は10億円の除却損を計上しなければならない、という事を意味する。これは小さな金額ではない。1万人を削減したら1000億円である。しかし、仕事に慣れて能力のある従業員を切って、もっと廉価な別の従業員をどこからか雇い入れたとしても、彼らが仕事のレベルを上げるまでにはかなりの時間がいるのだから、会計上こう考えるのもおかしな話ではない。

そして、このように金額をつけて「見える化」することで、はじめて人材が財産だと実感する経営者だっているにちがいない。こういう数字の裏付けがあれば、「人財」という最近はやりの当て字も、生きてくるだろう。(ただし余談だが、「材」という漢字は、つくりの部分に「才」を含んでいることで分かるように、もともと貴重な木を意味していた。白川静によれば「才」は聖化されたものを言う。「人材」ではまるで人を材料のように扱っているから、「人財」という字にかえよう、と言い出した人たちは、最初に漢字辞典を調べるべきだった)

もちろん、わたしのこんな提案に、現実の会計士たちが乗ってくるとは思えない。「継続性の原則」を持ち出して説教されたり、国際会計基準にもそんな考え方はないと言われて一蹴されるのは、目に見えている。だが、思考実験としては意味があるだろう。働く人という存在を、単なる経費とみるか、見えないが価値ある資産とみるか、それはマネジメントのあり方を、いや最終的にはわたし達の企業文化までを左右する、大きな分かれ道なのだ。

いつもなら、ひととき平和になるはずの、この年末の季節でさえ、地球のあちこちで血なまぐさい出来事が続き、洋の西でも東でも、ヘイトの連鎖が多くの人々を駆り立てている。そうした事情の背景には、人をコストと見、取り替えのきく部品のように見る考え方が、影響を与えているように思える。だが機械部品は成長しないが、人は成長する存在だ。成長とは学びによって、新しい能力を得ることである。わたし達が部品のように扱われてお仕舞いにならないように、ぜひ学びのアンテナを研ぎ澄まし続けよう。

そして読者の皆さんの上に、平和なクリスマスがありますように。



# by Tomoichi_Sato | 2016-12-23 15:36 | ビジネス | Comments(1)