IoT時代のMESをもう一度考え直す 〜 (1) MES普及を妨げたもの

2000年に、中村実氏ら何人かと共著で『MES入門―ERP、SCMの世界と生産現場を結ぶ情報システム』を上梓した。わたしが担当したのは第3章「MESを中核とした垂直統合 -プロセス産業のケース-」というセクションだ。製造業、それも製造現場の情報システム化という地味なテーマの本だったが、一応、それなりの評価を得た。類書が少なかったせいもあるだろう。いまでも、あの本を読みましたよ、という方から声をかけられたりする。

ここで一応、MESとは何かについて、おさらいをしておこう。何年か前に、その名も「MESとは何か」という記事も書いたが、MESとはManufacturing Execution Systemの略で、日本語では「製造実行システム」とも訳される。だが、普通は「製造管理システム」とよんだり、あるいは略称のままMES(メス)ということも多い(ただし英語ではエム・イー・エスとスペルアウトして読むのが正式である)。

製造業のことを良く知らない人は、MESと「生産管理システム」とをよく混乱しがちだが、別のものだ。生産管理システムは全社レベルで、製品別の生産・在庫・出荷などを計画し、部品材料の調達を決め、実績を集計する。さらに原価や収益を計算したりする。だからお金に関わる人達、つまり経営者や営業部門や会計部門も、そのアウトプットを見たりする。だがこうした人達がMESの画面をのぞき込むことは、まずない。

MESの概念は、1993年に、米国の製造業向け調査コンサル企業であるAMR Research社が提唱した、3層モデルに端を発する。AMRは、製造業の機能を、
・主に本社が担当する「計画層」、
・主に工場が担当する「実行層」、
・機械等が働く「制御層」、
の3レベルにモデル化した。しかし最上位の「計画層」という言葉は分かりにくいので、「ビジネス層」と読み替えても良いと思う。ここを担うITシステムはERPである。また最下層の制御レベルで動くのは、たとえばPLCやDCSなどのシステムである。

AMRはその上で、ビジネス層(ERP)からの計画・要求を、現場の機器・制御層(PLCなど)レベルにつなぐ中間層の機能が、IT的な<ミッシング・リンク>(失われた環)になっていると指摘した。そしてこの部分を担うシステムを、Manufacturing Execution System = MESとよんだのである。

わたしは90年代の半ばから、海外プロジェクトでプロセス産業におけるERPとMES層の仕事に、従事してきた。その経験を元に上述の『MES入門』第3章を書いたのだが、その中で「8の字モデル」という概念を提案した。これはAMR Researchの3層モデルを元にしつつ、意味的には換骨奪胎したものだ。AMRは米国流トップダウンの経営思想で、本社の要求を現場に落とし込む、つなぎ機能としてMESをとらえた。だが、実際の現場を見てきたわたしには、MESはオートメーションにおけるミッシング・リンクというよりも、製造管理者の仕事を助ける道具である、という主体的な位置づけの方がふさわしいと思えた。ちなみに製造管理者とは、工場の製造部門のホワイトカラー層のことである。
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「MES入門」第3章より

さて、わたし達はさらに前述の本の姉妹版として、2004年に『図解 MES活用最前線―実践事例でわかるMES(製造実行システム)導入のポイント』という本を上梓する。この中で、かなり幅広い業種・企業から、MESによる製造現場情報化の事例を集めて紹介した。

この本には、自動車会社のALC(アセンブリー・ライン・コントロール)システム、フォークリフト製造会社の工場全体をカバーする本格的MES、そして、今や製品に内蔵したIoTシステムで有名になった建設機械メーカーのMESなど、さまざまな事例が図解付きで紹介されている。なお最後の建機メーカーのMESは、現場への指示中心でPOP的だが、現場ユーザが音声でシステムに指示を出すという点でかなりユニークな事例である。ただ、あいにく出版元の工業調査会自体がすでにないため、どちらの本も今やかなり入手困難だ。

さて、それから10年以上の歳月がたった。では、MESに関わるものごとは、どれほど進展したのか? 

工場にMESがあることが当然であり、MESが製造のほぼ全域をカバーしている、という業種は、2004年の刊行時点では、
  • 半導体工場、その応用として一部の液晶関連工場
  • 石油・化学工場
  • 医薬品工場
  • 自動車組立工場(アセンブリー・ライン)
などであった。それ以外は、製造の情報化について、部分的なトライアルが行われている、一種の事例集であった。

その事態は、2017年の今も、あまり変わっていないように思える(少なくとも日本では)。たしかに17年間でMESソフトウェア情報や、ベンダーの勢力地図は変わった。海外ITベンダーからは、今や、より統合的な(そして高価な)MESパッケージが販売されている。ただし、日本ではあまり売れていないらしい。

こうした新しい仕組みの普及度については、ざっくり三種類に分類できると思う。

(1) 一番上に来るのは、『必須レベル』である。
「それがない工場は考えられない、それがないと製造の仕事が回らない」というくらい、仕事に組み入れられている。たとえば会社のITならば、会計システムだろう。今どき、そろばんと電卓で経理している企業はもう、ない。あるいは車にたとえるなら、オートマチック・トランスミッションか。今どき、新車の98%はAT車で、マニュアル車は例外に近い。

(2) 二番目は、『普及レベル』だ。
「普通はある。ただし、なくてもなんとか仕事は回せる」がこのレベルである。車でいえば、カーナビだろうか。製造業ならば、販売管理(受注管理)システムだ。これがないと、受注番号(製番)を起こせないし、出荷遅れや請求漏れも生じかねない。あるいは設計系ならば、CADシステムだろうか(ただし、3D-CADとなるとあやしいが)。

(3) 三番目は『オプションレベル』だ。
「先進的な工場にはある。あると仕事に優位性や効率性が出る」という種類のものである。口さがない人からは、趣味だとか、好きものだとかよばれかねない。車なら自動ブレーキ、さらには夢の自動運転か。
そして、明らかにMESはまだ、このレベルにいる。

だが、なぜMESは普及しないのか?

一昨年のこと、わたしが所属する「ものづくりAPS推進機構」の委員会で、ある会話に衝撃を受けた。それは、多くの製造現場で使っている自動化された工作機械、NC(数値制御)やMC(マシニングセンタ)に関することだった。こうした高価な自動機を制御するPLCの外部通信インタフェースは、いまだにRS-232Cが主流だというのだ。RS-232C! それって、1980年代に、パソコン通信で使っていた低速のシリアル通信規格ではないか。

いや、その場にいた某大手PLCメーカの人は、「RS-232Cがついていればいい方です。旧いマシンのPLCになると、外部I/Fすらついていませんから」というのだ。だから複雑な加工のどこまで進んだかを、リアルタイムでモニタリングできない。進捗管理はある意味、ショップ・フロア・コントロールの柱だが、それができるようになっていないのだ。まあ、メーカー側ももう少し高機能なNC用I/Fは開発して出している。だがそれもPLCメーカーごとに規格が違う。

その場の話では、ドイツではこうしたI/Fは標準化が進んでいて、どこの工作機械メーカーをもってきても、すぐにつないでリアルタイムに機械の状態を監視できるということだった。わたしはしばらくディスクリート系(組立加工系)の仕事から遠ざかっていたので、日本でこうした状況が続いていることに驚いた。

しかし、NCマシンの切削状態監視どころではない。多くの組立加工系の工場では、工場出入口の扉を後ろ手に閉めて、建物の一歩外に出ると、中の機械が動いているか止まっているのかさえ、分からないのである。最近見た、日本の製造業をリードする自動車産業のTier-1サプライヤーでさえ、いまだにそうなのだ。

ただ、それでこまらなかったのは、カンバン方式に代表されるトヨタ生産システム(TPS)を実現しているためである。トラブルがあっても、「アンドン」で見える化し、現場で近くにいる人がすぐ問題解決するのが、TPSの思想である。だから建物の外から機械の稼働をリモートで監視する必要はない。NCマシンの通信I/Fが古いシリアル通信のままなのも、そういう思想が理由なのだろう。加工プログラムだけNCに送れればいい。加工中に問題が起きたら、現場の多能工がトラブルを解決する。

それは、現場の技能員が優秀ならば可能なやり方である。だからトヨタは「ものづくりは人づくり」と主張し続けているのだろう。だが、「それはトヨタ系だからできること」と、知り合いの中小企業経営者はいう。彼の会社では、現場の人にとてもそんな能力は期待できない。だから、「問題が起きたら俺を呼べ」と、つね日ごろいっているそうだ。

それにしても、現場カイゼンの得意なJITコンサルタント流のIT不要論をきいていると、まるで「熟練のドライバーなら、マニュアルミッション車を上手に運転できるし、地図も頭に入っている」という主張を聞いているようだ。なるほど、たしかに熟達の人ならば、ATやカーナビ的なシステムは不要だろう。だが、「その熟練の技、どうやって海外展開するんですか?」 と聞きたくなる。

いや、その前に、「どうやって後輩に伝えるんですか?」といいたい。・・だいたい今どき、工場に好きこのんで働きに来てくれる、優秀な若者ってどれだけいるの? 夏暑く冬寒い、外気開放の鉄骨スレートの建物の、油煙舞い立つ職場に、誰が来たがるのか。これからの工場というのは、むしろ、見学した人がみな、「ぜひここで働きたい」と思う環境でなければいけないのではないか。そう思うのだ。

いや、つい話がそれた。

製造管理に話題を戻すと、いくら現場が優秀でも、一つの現場だけでは解決しきれない問題、判断しがたい指示変更はいくらでもあるはずだ。複数工程にまたがる変更や、負荷のアンバランスなどである。そして週単位・月単位での、品質や生産性や労働安全の傾向などもそうだ。わたしの言い方でいうと、現場の個別問題は「技術的問題」である。他方、いわゆる「パフォーマンス問題」をこそ、製造管理者は発見し、解決しなければならない。

以前からMESが当たり前に導入されてきた、半導体、液晶、石油・化学、医薬品に共通することは何か。それは、製造エリアがクリーン度を要求される、あるいは危険物質を扱い防爆が必要など、現場作業に人手をかけにくいことだ。結果として、機械設備リッチな工場になる。製造のみならず搬送を含めて、広範囲に自動化される。

こういう工場は、機械との通信I/Fを含めてMESを入れやすい。むしろMESがないと工場が動かない。最初からMESの存在を前提に、工場レイアウトも設計される。だから、「製造現場を後からスマート化する」発想では、そもそもないのだ。ただ、自動車工場の最終組立ライン用ALCシステムはやや例外で、人による組み付け作業が中心になっている。しかし多数の部品と指示からなる複雑な製造システムであることは、共通である。

結局、MES普及のボトルネックはビジネス層とのつながりではなく、制御層・製造現場との接続だった。

ではなぜ、現場の機器・制御層とつなげなかったのか?。ひとつには工場の既存設備の問題があるだろう。機械制御用PLCのI/Fが乏しいばかりか、PLCを持たない単純機械や、手作業もかなり介在する。

またIT技術的な問題もある。工場内の適切な通信プロトコル標準がまだ存在しない。ネットワーク一つとっても、まだベンダー間のバトル状態である。それにセキュリティ対策の懸念もある。

そして、規制や商習慣の問題もある。電気・空調・消防系設備のシステムは、いわゆるビル・マネジメント・システム(BMS)とよばれる領域であり、製造系システムとは別業界で、共通I/Fもない。また仮に製造機械が外部からネットワークでつながったとしても、機械メーカーが外部からの制御を歓迎しない、などがあげられる。

かくして製造管理者と現場との間には、壁ないし岩盤があったのだ。そして、だからこそここに、IoT技術登場のインパクトがある。ようやく、センサーやSCADAを介して、機器やデバイスレベルのデータをとれるようになったのだ。

では、それはどのようなインパクトなのか? 長くなってきたので、続きは次回書こう。


<関連エントリ>
 →「MESとは何か」http://brevis.exblog.jp/14886701/ (2011-06-02)


# by Tomoichi_Sato | 2017-08-19 23:57 | サプライチェーン | Comments(0)

納得する、ということ

親戚の娘さんが大学受験の年を迎えた。高校からは、ある女子大に推薦をしてくれると言う。でもその娘さんは推薦入学できる大学に不満を感じた。自分はもう少し上をねらいたい。そこで推薦を断って、あえてもっと上のレベルの大学の受験をチャレンジした。

しかし残念ながら、その年の受験は不本意な結果に終わった。彼女は浪人してもう1年間勉強のチャンスをくれるよう、両親を説得した。ずいぶん前の話で、女子が浪人する事に対し、今よりも抵抗があった頃の事だ。

そして予備校に通って、1年後、今度はかなりの数の大学を受験する。でも、結果として彼女は1校を除き、全て落ちてしまった。唯一受かったのは、なんと彼女が1年前に高校の推薦を断った大学だった。結局、その女子大に入学することを決めた。

親戚の叔母が久しぶりに彼女に会って、その顛末を聞いたとき、こう尋ねたそうだ。「それで、〇〇ちゃんは納得しましたか?」

--納得しました。

「そう。それならよかった。納得できるということは、とても大切ね。入学おめでとう。」

この話を後に聞いて、感銘が深かった。というのも、その叔母さんこそ、もっと古い世代の女性で、戦後初めて共学化された国立大学に入り、その後も職業婦人として、自分でずっと道を切り開いて生きてきた人だったからだ。男尊女卑の弊風の強い特殊な技術社会に入り、偏見と闘いながら、孤軍奮闘してきた。公正なチャンスを与えられていたかどうか、わからない。だが彼女こそ、自分が納得できるように生きてきたのだった。

納得とはなんだろうか。納得は単なる理解とは違う。身をもって知る、腹落ちする、に近い。人がいちど納得した事は、二度と忘れない。教室で聞いた知識は、片端から抜け落ちていくものだ。だが納得した事は、行動に移せる。応用できるようになる。

相手が納得しなければ、説得とは言えない」という言葉もある。交渉の場、たとえばエンドユーザに何かの機能は不要だと説得する場面は、よくある。このとき、理路を尽くして相手に説明し、相手が一応了承したとしても、相手が「納得」していないと、いつかまた蒸し返してきたり、あるいは別の場面で逆襲してきたりする。

理解とはアタマで分かることであり、納得とは感情をともなって分かることだ、という人もいる。そうかもしれないが、純粋に知的なことでも、納得する経験はある。たとえば、数学みたいな分野でも。

相関係数という概念がある。

二つの量について、いくつかの測定値があったとしよう。たとえば日ごとの気温とビールの消費量でもいい。数式風に表現するなら、(x1, y1), (x2, y2), (x3, y3)...という風に表記できる。下の散布図には、7つの点がプロットしてある。このペアになった二つの変数の間に関係はあるのか、ないのか。それを相関係数Rであらわせる。相関係数Rを計算し、それが0だったら、両者の間は無相関、つまり関係がない。相関係数が1だったら、xyは完全に依存関係がある。また逆に-1だったら、逆相関、つまりxが増えるとyが必ず減る、という関係にある。相関係数Rはマイナス1からプラス1までの間の値をとる。

・・とまあ、こういう説明が統計学の教科書にあり、さらにxの標準偏差Sxyの標準偏差Sy、そしてxyの共分散Sxyという量を使って、R = Sxy / (Sx Sy) という計算式が定義してある。だが、数学が今ひとつ苦手なわたしは、この式を読んでも、ピンとこなかった。なぜ、それが-1から1の範囲に入るのか。無相関が0になるのは、なぜなのか。手順に従い、計算自体はできる。計算ソフトだって、Excelをはじめ、いくらだってある。結果を解釈することもできる。事実、卒論ではそうした。だが、腑に落ちなかった。

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ところで、その後、ある本を読んでいて、全然別の説明を見つけた。散布図は2次元に7つの点を打っている。だが、このデータを、(x1, x2, … x7), (y1, y2, … y7)という風に、7次元の二つのベクトル、と考えてみる(正確には、平均値からの偏差ベクトルをとる)。右図のように、7次元空間の中でこの2本のベクトルの角度をθとすると、両者の内積は公式から、
X・Y = |x| |y| cos θ になる。

相関係数Rとは、この式のcos θのことだ、というのがその本の説明だった。相関係数とは、二つの変量を表すベクトル同士の角度のコサインを表す。コサインだから、-1から1の範囲の値をとる。二つのベクトルの向きが全く一致しているときは、θ = 0だから、相関係数cos θは1になる。二つのベクトルが正反対の方向のときは、角度θは180度だから、相関係数cos θ = -1だ。そして両者の角度θが直角、つまり互いに全く度理屈だと、相関係数cos θ = 0になる。

こう説明されて、ようやくわたしには相関係数が納得できた。だとすると、相関係数が0.7ということは、二つのベクトルの角度は約45度、相関係数が0.5だと60度ということで、かなりバラバラの向きを向いている。なるほど。それどころか、こうした関係が分かると、多変数の因子分析だって、つまりは変数間の共分散構造を調べているのだ、という風にとらえることができる。直感型のわたしには、空間のイメージが理解の鍵だったのだ。

わたしはものごとを理解するのが遅いたちだが、それは、こうして一歩一歩納得しないと、なかなか前に進めないからだ。そのかわり知識や概念の場合、いったん自分が納得できると、他のことの理解に応用できるようになる。知識を応用するためには、納得が必要なのだ。

それと同時に、わたしはときどき、世間の頭のいい人達って不思議だ、と感じることがある。教科書に書かれたこと、先進国でいわれていること、メディアで流通している知識や解釈などを、割とスムーズに受け入れて、覚えていく。わたしが納得できずにまごまごしている間にも、そうした最新知識やらを人に語ったり使ったりしていける。すごい能力である。

わたし自身は、「コストセンター」だとか「品質」 だとか「進捗」だとか、世間で常識と思われている概念を一つひとつ確かめずにはいられないし、それをここに書いている。だが、こうした行為はある意味、皆が受け入れている知的通貨を、自分一人が疑っている訳で、かなり生意気な態度だと思われているかもしれない。うーむ。実は不器用なだけだが。

ところで、納得という言葉は、知識だけではなく、自分の決断の結果に対しても使う。

最初の娘さんの事例を思い出してほしい。彼女は、自分の意思で、浪人して勉強した。そしてその結果に納得したのだ。

ただ、誤解して欲しくないのだが、それは大学受験における学力のレベル判定がどこも極めて正確で、それが高校の判断に一致していたのだ、と言う意味ではない。逆である。入試の当落線上においては、むしろかなり運・不運が左右する。試験の内容、その日の体調、ライバルたちの存在など。第二志望に落ちて、第一志望に受かると言うことも、ときどきあることだ。だからその娘さんが納得したのは、自分の偏差値レベルについてではない。

そうではなく、彼女はできる限りの努力をしたので、その結果を受け入れられるようになった、ということなのだ。もし彼女が、高校の勧めるまま推薦入学で最初の大学に入っていたら、どうなっただろうか? たぶん、「自分ならもっと上の大学に行けたはずだ」「無理してでも試験を受ければよかった」、などとさんざん悩んだことだろう。あるいは、回りの同級生をみて、(自分はこの人たちとはホントは違うのだ)と、内心思ったかもしれない。それは、成長において決して良い結果ばかりをもたらさなかったろう。

何かを「しなかった」ことの後悔は、いつまでも心を酸のようにむしばんでいく。だが何かを自分の意思で選んだ場合は、結果としてかりに痛い思いをしても、いつかは乗りこえることができる。

彼女は自分が決めて選んだことに対して、一所懸命に努力したのだろう。合格・不合格はある意味、結果でしかない。だが、必死にチャレンジしたならば、どんな結果になろうとも、それを後悔することはあるまい。人事を尽くして天命を待つ、と言う心境に近い。そうすれば、結果に納得することができる。運不運を含めて、結果を受け入れられるようになる。

知っていることと納得することは違う。

納得感とは、自分の得た知識が、自分の世界観の欠けたピースにぴったりとハマったり、あるいは、自分の決断が価値観を補強してくれた、という感覚を得ることだ。だから行動にうつせるようになるのだ。誰も自分で納得したことでなければ、実行できない。人を動かしたかったら、納得してもらう必要がある。自分で自分を動かしたかったら、自分が納得できるようするしかないのだ。

ところで、「納得」(なっとく)という変わった音読みをするところをみると、これは仏教用語ではないかと思って調べてみると、どうやらそうらしい。仏教では出家して仏名をもらい、剃髪して僧侶になることを「得度」と呼ぶ。納得とは、この得度式を納めた、という意味らしいのである。出家するとは、自分の人生は無限ではなく、限りがあることを認めて、覚悟することである。つまり、納得とは覚悟を決めて生きようとすることなのだ。

わたしも今年、新しいチャレンジを仲間と広げようとしているところだ。それは現代のビジネス社会の中で、ともすれば過大なプレッシャーをかけられ、消耗しがちな技術者たちを応援するための取り組みだ。やるからには、せめて自分で納得がいくように努力したいと思っている。


<関連エントリ>
 →「コストセンターとは何か」(2013-03-11) http://brevis.exblog.jp/19929083/
 →「品質とは(本当は)何だろうか - (1) 問い」(2012-04-18) http://brevis.exblog.jp/17805452/
 →「進捗を把握する3つの方法」(2010-06-13) http://brevis.exblog.jp/12797525/



# by Tomoichi_Sato | 2017-08-11 23:45 | 考えるヒント | Comments(2)

物語の力と、その危険性

「ニネヴェの街に行くには、この道でいいだろうか?」

靴職人のヨナが目を上げると、見知らぬ旅人が立っていた。旅人の服は奇妙なことに、上から下まで縫い目が一つもない。ヨナがこの道だと答えると、旅人は謝礼を手渡し、消えるように去る。見ると銀貨十枚だった。思いがけぬ臨時収入を得たヨナは、仕事を切り上げ、滅多にいけぬ上等な酒場に行くが、汚れた仕事着のままの彼は、すぐ店を叩き出されてしまう。

ヨナは仕方なく古着屋に入り、仕事着の代わりを探す。すると古着屋が出してきたのは、たった今旅人から買ったという、縫い目のない衣だった。ただならぬ予感を感じながらその衣をまとい、酒場で泥酔したあと道にへたりこむヨナに、真っ暗な闇の中で神の声が幻聴のように聞こえてくる。

「立って、かの大いなる街ニネヴェに行き、よばわりてこれを責めよ。40日にしてニネヴェは亡ぶと・・」

−−『エホバの顔を避けて』(丸谷才一・著)の物語は、こんな風にはじまる。元になっているのは、旧約聖書にある「ヨナ書」である。この預言書は短いが、珍しくも神と預言者の相克を描いて、古来多くの作家の想像力を刺激してきた。

預言者とは「神の言葉を預かった者」の意味で、占いの予言者とは違う。ヨナ(英語読みはジョナ)は、堕落した大都市ニネヴェ(現在のイラク、モースルの近く)に厳しい審判を告げる言葉を託されるが、「そんな大役は荷が重すぎる」といって神から逃げ回る。そのあげく海で大魚に飲まれ、三日三晩その腹の中にいて吐き出され、ようやくあきらめてニネヴェに赴く。破滅の予告をのべ伝える者が、歓迎される訳はないと覚悟しつつ・・

預言という仕事は、変哲もない普通の人間が突然、神に呼ばれて、託される。預かるのはしばしば糾弾、世の人びとが聞きたくもない正義の糾弾である。かくて預言者は、世と対立することになる。ヨナが怖れたのはこれだ。英雄的でも何でもない普通の個人が突然、大いなる意思によって劇的な運命に巻き込まれ、日常から引き離されて、重すぎる任務を負って生きなければならない。ヨナ書が浮き彫りにしたのは、このようなストーリーの祖型であった。

良くできた物語は、人の想像力を強くかきたてる。わたしはこれを「強い物語」と呼んでいる。西洋人にとってはヨナ書の他に、モーゼのエジプト脱出だとか、キリストの受難などがある。シェークスピアの書いたハムレットも、強い物語なのだろう。我々なら、義経の逃亡や信長の戦記、あるいは忠臣蔵といったところか。こうした物語は、個性の強いキャラの配置と、カラフルなエピソードが連なり、随所にテーゼや教訓がはさまれている。

強い物語からは、多くの二次創作物が生まれる。上の小説もその一つで、縫い目のない衣を着た旅人云々は、丸谷才一の創作である。物語は人間の感情に訴えかける力を持っている。

さて、子どもを育てて分かったことが、一つある。それは、人が育つには物語の力が必要、ということだ。子どもやティーンエイジャーのころ、まだ定まらずに危うい自分を支えるには、自分を物語の登場人物に擬することが必要になる。男の子がスーパーヒーローもののTV番組を好みのはそのためだ。また女の子が、普通の主人公が光り輝くロマンス物語を好む(じっさいに育てた事がないので想像だが)のも、そのためではないか。

これは、社会に出てからも同じである。いや、むしろ、人が育つ時間は大人になってからの方が長い、ともいえる。厳しい世の荒波の中で、自分を支え、自分を励ますために、物語の力を援用する。それはなかなかすぐれた方法だろう。そのためには、多くのすぐれた物語を自分の中にストックするべきだ、との意見も聞いたことがある。なるほど。それなら、頭に映像まで浮かぶような物語の方がいいだろうとも思う。

物語は人間の心の栄養である。だから人を引きつける。そして、本当に奥深い真実は、神話的な物語を通じてでなければ、他人の魂に伝わらないことがある。

良い物語は「多層的」であり、象徴的である。たとえば主人公の多くは、複数の使命の葛藤の中に投げ込まれる。ハムレットも、ヨナの物語もそうだ。また物語は、それ自体がファンタジーであることを示すことがある。父王の亡霊や、ヨナに下る神の声のように、異界との結びつきが一瞬現れるのである。そして、 無関係な偶然と思われたエピソードの点と点が、最後につながって必然を示したりする。

それと同時に、物語は、自分が出会うできごとを理解するための、型紙(パターン)であもる。引きこもって部屋から出てこなくなった高校生の一人娘のために、日が消えてしまったように暗い家庭の話を聞いて、それは「天岩戸の物語」だなあ、と思うようなものだ。娘さんは家族の太陽だったのに、急に隠れてしまったのだ。彼女にショックを与えたのはどこの素戔嗚尊なのか。彼女が出てくるためには、どんなアメノウズメが必要なのか。物語による「見立て」は、すぐにはのみ込みにくい事柄を、あてはめて理解するための補助線なのである。

ところで、物語にはこのような力があるのだが、逆に危険性もある。それは、出会ったできごとを何でも、手近な物語の型紙、貧弱なテーマにあてはめて、理解しようとする傾向である。こうした傾向は、メディアの報道でも、ネットの解説でも横行している。

ある人が、会社で新しい取組みをはじめた。うまく回り始めたので、メディアの記者の取材に応じた。ところができてきた記事を見ると、180度違うとまでは言わないものの、45度くらい方向性の違う話になっている。メディアは広報機関ではないのだから、必ずしも自分たちの意向に沿った話にならないのは、その人も承知している。だが、なぜ言ったはずもない別の要素が(この場合はAI系技術の応用だったらしいが)付け加わっているのか? 記者が、相手の話を聞く際に、「AI技術で生産性アップ」といった、自分の中で慣れ親しんだ物語に当てはめて、解釈してしまったのではないか。

ものごとを、手垢のついた物語のテーゼにあてはめる。そうすれば、頭の節約になる。かくして、こういう話は際限なく増えていく。手近な物語の原型とは、たとえば:
- やる気さえあれば何だって可能である
- 魔法の道具を手に入れたら問題は解決する(→AIなんかはこのバリエーションだ)
- 組織のパフォーマンスはリーダーが決める
- 人は競争させれば良い結果を出す
といった信憑である。

別の例を挙げよう。これは最近ネットで読んだ記事の冒頭である。特定の記者を批判するのが目的ではないから、メディアの名前は伏せる。

「日本の産業界を暗雲のごとく覆ったバブル崩壊後の「失われた20年」において異彩を放つ進撃を続け、A業界で世界最大手に飛躍したX社。長く辣腕を振るってきたY社長が率いる経営陣は過去最高益を連続更新しても気を緩めることはない。米国でグローバル生産を加速する巨大なモデル工場を稼働させ、得意の買収でZ事業を強化するなど攻勢を仕掛ける。・・」

これで中立的報道なのだろうか。自分の目には、スポーツ新聞の出だしのように見える。スポーツ紙は(はっきりいって)報道よりも、ファンに対する読み物、物語の提供を重んじる。企業欄の読者は本当に、散文的で退屈な事実の報告よりも、感情的で血湧き肉躍る物語を求めているのだろうか。まあ、解説記事はしょせん読み物だ、客観性よりも面白さだ、というポリシーならそれはそれで良い。ただ、それを手がかりにして、投資を計画したら危うい。

こうした傾向が広まると、客観的な趨勢や、統計分析可能な傾向も、すべて「人格のドラマ」「戦(いくさ)の物語」だけで解釈される危険性がある。以前、ある商業系コンサルタントに、外食産業に関係する情報源となる参考書をたずねた。しかし、その人が教えてくれたのは、経済作家の書いた小説だった。わたしは客観的な「データ」をたずねたのに、この人は「物語」を答えたのだ。リーダーたちの物語で、チェーン店の店長たちならば鼓舞できるかもしれない。だが、それを手がかりにして、セントラルキッチンを設計できるだろうか。

自分が出会うできごとに対して、手元にあるテーゼや物語で解釈することを続けたとき、その結果として何が生まれるだろうか。「ああすればこうなる」という分かりやすい物語から、何か学びを得るだろうか? 自分がすでに「知っている」信憑が強められるだけではないか。自分に励ましや慰めは得るが、できごとを見て、はっと我に返ることがなくなる。そういう単層的な情報をいくら得ても、学びにはつながるまい。

ヨナの物語は、「ああすればこうなります」という単純なテーゼを示しているだろうか? たとえば、善行をすれば幸せになれます、という話だったろうか。神様をそんな、善行をインプットすれば恩寵を出してくれる、自動販売機のようなものに描いているだろうか。そういう単層なテーゼの行き着く先は、「俺は偉い」という単純な物語ばかりで敷き詰められた人生だ。そんな物語にとって、他者は(つまりあなたやわたしは)、使い捨てのザコキャラになってしまうだろう。

問題の根源は、現代のわたし達の想像力が痩せてしまっていることにある。それが、単純な物語性に頼る知的衰弱を生んでいる。想像力は世界観を立体的にする鍵である。わたし達はもっと、多層的で、単純でない出来事に直面する勇気を、もたなければならないんじゃないだろうか。単純な物語に還元せずに、丁寧に点と点を追うこと。仮説を得たら一つひとつ検証してみること。そうして、少しずつ想像力を磨き上げること。これはなかなか手間のかかる、面倒くさい作業である。

だが、そうしないと、本当に豊かな「良い物語」には近づけないのだ。良い物語がなかったら、誰が自分の天命を知ることができるだろうか。

天命を知るとは、自分の物語を生きることなのだから。



# by Tomoichi_Sato | 2017-07-30 23:50 | 考えるヒント | Comments(0)

職人の国の生産性を上げる、最良の方法

3月に新潟に行った際、宝山酒造(http://takarayama-sake.co.jp)という会社を訪問した。規模としては零細に近い造り酒屋だ。一応、工場見学、というか、仕込みと醸造の場所を見学させてもらった。平屋の木造で、いかにもゆかしい「酒蔵」である。それから、こうした見学のつねとして、畳敷きの小上がりの部屋に案内され、いくつか試飲させていただく。わたしはお酒に弱いたちで、日本酒の目利きなどでは全然ないが、それでもなかなか美味しいと感じた。

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試飲させてもらいながら、酒造の来歴の説明をうかがう。どこから杜氏を呼び、どんな努力の結果、満足のいくお酒ができるようになったか。また同じ酒蔵の製品でも、高級な純米大吟醸から普及版の醸造酒まで、どんな特色と違いを出しているか。小さな会社でも企業努力の種類は大手と共通している。たしかに大吟醸の虹色めいた香りの広がりから、醸造酒の新潟らしいきりっとした味わいまで、比べて飲むと面白い。

もう一つ、非常にユニークで面白いと感じたのは、「ひと飲み酒」と呼ぶ、200mlの小さな化粧ガラス瓶のパッケージである。これを2本でも3本でも、セットで買うと、黒い洒落た紙箱に入れてくれる。見かけがとても都会的になって、部屋に並べておくだけで見て楽しいし、また酒飲みでない人間にとっては、1升だの4合だのを買うよりも、ずっと手が出しやすい。とても上手なパッケージングだと感じた。

小さな造り酒屋ながら、秀れた杜氏の職人仕事に加えて、顧客のニーズに応えた製品のラインナップ、そして洒落たガラス小瓶のデザインによる、自由な小口組合せ販売など、経営上の工夫をこらしていることに感心した。かえりに自分用に買ったばかりでなく、世話になった方へのギフトにも良いな、と思いつつそこを辞した。

同じその日、新潟市の大きな展示会場では「新潟 酒の陣」と呼ばれるイベントが開催されていた。新潟中の造り酒屋が何十社もブースを構えて、自分の製品を試飲販売している。2千円の参加費を払うと、小さな試飲用のガラスのお猪口を渡されて、ブースごとに回ることができる。わたしはじつは同じ日の午前中、仲間に誘われてそちらの会場にも顔を出したのだが、なにせお酒に弱いので、せいぜい5社くらいのブースをたずね、あとはぼんやり会場を眺めていた。
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眺めながらつくづく、「日本は職人の国だな」と思った。新潟の酒造はほとんどが中小零細規模である。そこが、それぞれ自分なりの思い入れを込めて麹を仕込み、酒を造る。そして自分が手塩をかけて作ったモノに対し、情熱とこだわりを持っている。味、香り、色、のどごしなど、自分の眼・舌・鼻・手の五感をフルに動員してこそ、良い結果が生まれる。つまり酒造り職人としての技能と、製品の品質が直結するのだ。

そう。職人というのはとても素晴らしい、尊敬すべき生き方である。わたしは高度な職人仕事には、無条件で感服する。心技体そろわなければ、優れた仕事はできない。ただ、そうした職人としての生き方を全うできるためには、何が必要なのか。

さて、いつものことだが(苦笑)、話は急に飛ぶ。先週、ある会合で「日本企業の生産性の低さ」が話題となった。この種の統計は世の中にいろいろと流通していて、たとえば日本生産性本部の2016年の統計(http://www.jpc-net.jp/intl_comparison/)によれば、日本はOECD 35カ国中22位であり、また順位も低下しつつある、という。とくにホワイトカラーの生産性の低さはほぼ定説のようになっていて、いつもやり玉に挙がっている。状況を改善するために、働き方改革の政策などが、声だかに唱えられている訳だ。

だが、それは本当なのか? というのが皆の論点だった。そんなに日本企業の生産性は低いのか? じっさい、製造業の過去20年間の労働生産性の伸び率だけを取り出せば、G7諸国の中で日本は1位だという統計もある(https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2017-04-25/OOYJ9G6JTSEI01)。製造業はよくやっているじゃないか。問題なのは流通・サービス業だ、という訳だ。ただしこれは20年間の伸び率であって、たしか現時点での数値はG7中の6位である。下にいるのは経済危機のイタリアだけだ。

「他の先進国は、移民などの安い労働力を使ってうまく稼いでいるだけなんじゃないか」という人もいる。だが労働生産性の数字というのは、賃金を差し引く前の、一人あたりの付加価値を示している。ここから賃金を引いた残りが、簡単に言うと企業の収益の源泉になる。だから賃金が高いか安いかは、定義上、関係ない。

「いや、地域でも業種でも差があるのに、そもそも平均値をとって国際比較すること自体に意味があるのか」という反論もある。でも、日本の平均値が過去、さっぱり伸びていない事実とはどう向き合うのか? そもそも、偏りのある分布に対する平均という操作自体が問題だとしたら、統計自体に意味がなくなってしまう。工場単位の平均を見ることすら、できなくなるだろう。

また、「品質の差を無視して生産性を比較するのはどうか」という意見もきくことがある。日本の製品は他国より品質が高い、と自信を持っているのだろう。しかし、品質が低ければ普通は価格も安く、付加価値は小さくなるのが道理である。付加価値の中には、品質の要素も込められているというのが、ビジネスの常識だ。

念のために書いておくが、上に論じた「生産性」とは、付加価値労働生産性のことである。それは、企業活動が生み出す付加価値の総額を、それに従事する人の数で割って得られる値だ。日本の場合、最新の値は一人あたり年間783万円という数値になる。ここから賃金を引いた残りが企業の利益の源泉である。あるいは、時間あたりで計算する場合もある(国際比較の場合、そもそも年間労働時間がかなり異なる)。日本は4,439円である(日本人は一人年間1,764時間働いている計算だ)。ただし国際比較をする際には為替の問題が出てくるため、購買力平価のような指標で較正したりする。

そして、国のGDPとは、その国で生み出した付加価値の合計である。経済成長はGDPの増加率で測る。日本の勤労人口はほぼ横ばいだから、経済成長したければ労働生産性をあげるしかない。これが理屈である。

くどいけれど、国際比較の文脈でいう「労働生産性」とは、一人あたり付加価値額のことである。別に労働者一人あたり製品を何台作れるかでもなければ、プログラマが一日何行コードを書けるか、でもない。ここを誤解している人がとても多いので、あえて書く。杜氏が一人あたり、何升のお酒を造れるか、ではない。その酒屋が生み出す付加価値額(=ざっくり言って、販売金額マイナス原材料費)を、杜氏も売り子も事務方も含めて、働いている人の数で割った数字が、その酒屋の労働生産性なのだ。

 労働生産性 = 付加価値額 ÷ 従事者数 =(販売金額 − 原材料費)÷ 従事者数

である以上、労働生産性を大きく上げるためには、販売金額を上げる、すなわち製品を高く売ることが必須であると分かる。もちろん生産量自体を増やすのも、もう一つの手段だが、ふつうは人を増やさなければなるまい。一人が一日あたり作れる製品の台数、書けるコードの行数、仕込める酒の量は、急には増やせないからだ。また原材料費を下げるのも第三の手段だが、これはもう限界があるし、それでも無理に下げたら品質劣化にはねかえる。そうなったら付加価値など、元も子もなくなる。

日本の労働生産性が低いのは、生産に従事する人達の働き方がわるいのではない。儲けるのが下手なのだ。それがわたしの解釈である。一応、国際的なエンジニアリングの世界で長年働いてきた身としていうが、欧米のライバル企業で働くエンジニア達と、個人単位で能力にさしたる差があるとは思えない。製造業とて、同じだろう。それなのにもし、国際比較で生産性が低いのだとしたら、それは儲け方が下手なのだ。ドイツの工場を見学した話は前回書いたが、日本の同種の工場とそれほど大きな違いがあるとは思えなかった。違うとしたら、どこで価格競争から脱するかが、違っているのだ。

職人が安心して仕事に精を出せるのは、作ったモノが売れていき、それがきちんと利益を出して、ちゃんと職人の給料にかえるときに限られている。作っても売れず、売れても利益が出なければ、誰がよろこびを持って働き続けられるだろうか? 

日本が職人の国だと言うことは、つまり作り手の国なのだ。作ることはよく知っている。そして上手にできる。だが、有能な商売人が足りない。これがわたし達の社会の病である。足で稼ぐセールスマンは多くても、知恵のある有能な商売人が不足なのだ。必要なのは「働き方改革」などではなく、「儲け方改革」なのである。

冒頭の宝山酒造の例を思い出してほしい。良い酒を造ることは大事だ。それは必要条件だが、十分条件ではない。製品のラインアップを確立し、ボトルや商品デザインにも工夫を凝らし、ネットでも注文を受ける仕組みをつくって、はじめて企業として安定するのである。そうしたことは、杜氏だけが考えるべき仕事ではない。

職人の生産性を決めるのは商売人である。なぜなら、付加価値の大きな部分を決めるのは、売るための仕組みだからだ。もっとも商売人も職人の協力が不可欠である。ライバルと品質も性能も原価も劣るようでは、売りようがない。つまり、販売と生産がきちっと統合して回る仕組み(システム)が必要なのだ。

酒造りや工場の労働に限らない。以前から書いているように、日本には職人的な仕事の領域、職人マインドで仕事をする技術者はとても多い。ソフトウェアなどその典型だろう。日本のIT業界がふるわないのだとしたら、それは技術力の低いプログラマのせいではない。もちろんプログラマが働かないせいでもない。プログラムの機能を顧客価値に変えて、お金を儲ける仕組みを構想できる経営者が、欠けているからなのだ。

もしもちゃんと儲けたかったら、どうすべきか。当然のことだが、人と同じ事をやっていたらダメだ。必ず、価格競争に持ち込まれる。他人を見習い、他社の後をついて行ってはダメだ。他人が思いつかないことをしなければならない。競争の果てにとった個別仕様の受注設計生産なんて、労力多く利益少なしだ。同じモノを作って売る方が効率が良いに決まっている。もちろん、個別仕様品それ自体はなくなるまい。だったら、少ないモジュールの組み合わせで、幅広い使用のバリエーションを生み出せるようにすべきだ。何より、顧客のニーズをリードしないで、どうやって高い付加価値が得られるのか?

本当にきちんと生産と販売(と開発)とが統合された仕組みをもてれば、その市場でオンリーワンの製品を作り、店の前には客が行列を作るはずだ。無理な安値競争の必要はなくなる。「三社相見積もりで」などという顧客には、「どうぞ他所でお買いください」とお引き取りを願う。こうでなければ、高い付加価値など生まれるだろうか。

では、仕組みという見えないもの(こと)を作るのは誰か? それに必要な資質は? 教育は?

「仕組みとはルールだ。だから法学を学んだ者が全体をマネージすべきだ」・・これが長い間、この国を支配してきたイデオロギーだった。むろん法学を学んだ、というのは、某・旧帝大(名前はあえて書かないが)の法学部を出ることを、事実上意味してきた訳だ。まあ法学というのは一種の概念体系だから、それを学んだ人はロジカルシンキングに長けている、ことは認めよう。だがシステムの設計(デザイン)とか、ビジネスの構造は、いつ学んだのか? もっとも、法学部に限らず、そんなものを教えてくれる学部が別にあるとも思えぬが。

そう。この国には、「『仕組みをつくる人』を育てる仕組み」が欠けているのだ。二重の欠落である。わたし自身が上等な商売人だとは、もちろん口が裂けても言えぬ。だが、少しだけは取り柄もある。「システム」というものが何か、ずっと長いこと考えてきているのである。わたしはこうした問題に興味を持つ人と、問題意識を分かち合いたいと思っているし、なるべく多くの人に、知り得たことを何とか伝えたいと願っている。そうして、システムを作れる人を育てるシステムを、なんとか一緒に作っていきたいのだ。


<関連エントリ>
 →「職人的であること、エンジニアであること」 http://brevis.exblog.jp/24607574/ (2016-08-21)


# by Tomoichi_Sato | 2017-07-23 22:56 | ビジネス | Comments(0)

開催します!:「プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会」(8月8日)のお知らせ

講師急病により先月の講演を延期いたしましたが、幸い復調されましたので、あらためて8月8日(火)に開催させていただきます。
会員の皆様にはご心配をおかけいたしました。(7/19 佐藤知一・追記)
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プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会」2017年の第3回会合を、下記の要領にて開催いたします。

今回は、雪印メグミルクの松本卓夫様を講師にお迎えして、同社の企業再生のプロジェクトについてご講演いただきます。

ご承知の通り、旧・雪印乳業を中心とした雪印グループは、2002年に企業存亡の危機を迎えます。四面楚歌の中、会社に残られた方々は、生産と物流をカバーするサプライチェーンの改革に、収益回復と業績再生の希望をつなぎます。

その渦中を奔走し、改革プロジェクトをリードされた当事者である松本様から、具体的なお話を頂戴します。ある意味で、我が国が必要とするプロジェクト・マネジメントの生きた姿を示すと言っても過言ではありません。サプライチェーンの改革と企業の復活はどのようなものか、興味深いご講演に、ぜひご期待ください。


<記>
■日時:2017年8月8日(火) 18:30~20:30
■場所:慶応大学三田キャンパス 北館会議室2(1階) (定員:28)
※プロジェクターあり
キャンパスマップ・【1】

■講演タイトル:「雪印メグミルクのSCM構築と統合工場(阿見工場・総合物流センター)建設の概要

■概要:
雪印メグミルクでは雪印乳業時代の2003年から2009年にかけてSCMシステムの開発導入と業務改革を実施し、大きな収支改善を実現した。また、さらに高度なSCMの実現のため既存3工場を集約した乳製品統合工場と原料・製品保管と保税機能を有する総合物流センターを建設し、サプライチェーンの全面見直しによる収支基盤の強化を実現した。これらの取組みとプロジェクトの概要を述べる。

■講師: 雪印メグミルク(株) 松本卓夫(まつもと たかお)様
■講師略歴:
1981年 早稲田大学 理工学部 工業経営学科卒業
      雪印乳業 入社
      福岡工場 本社 技術部 装置技術部 SCM推進部 物流部
2007年 本社 生産部 担当部長
      生産設備 企画導入施工・装置開発・SCMシステム開発 総括
2011年 会社合併により、雪印メグミルク 生産技術部 副部長
2012年 乳製品統合SCMシステム構築プロジェクト統括マネージャ
      阿見工場システム構築・阿見総合物流センター建設
2015年 生産技術部 装置開発グループ 副部長
      生産設備技術開発・FA開発導入・SCM開発 総括

■参加費用:無料。 ちなみに本研究部会員がスケジューリング学会に新たに参加される場合、学会の入会金¥2,000が免除されます。

会場の人数に上限があるため、参加を希望される方は、できましたら前日までに三好副幹事(miyoshi_j@kensetsu-eng.co.jp)までご連絡ください。
以上、よろしくお願いいたします。


佐藤知一@日揮(株)


# by Tomoichi_Sato | 2017-07-19 23:14 | プロジェクト・マネジメント | Comments(0)

ビジネス・マネージャーとは何をする人か

数年前、製造業に働く方から相談を受けた。その企業では、西南アジアの某国でプロジェクトをはじめるという。プロマネ以下、何人かのチームでその国に乗り込み、現地企業と共同で新しい製品の製造ラインを作る仕事だ。そこで、何かアドバイスがあれば頂戴したいという話だった。

もちろん、わたしはその会社の製品について何も知らないから、技術的アドバイスなどしようもない。できるのはマネジメント的なアドバイス、つまりプロジェクト・マネジメント面での助言ということだろう。そこで、チーム編成やプロジェクト期間などについて少したずねた後で、わたしは申し上げた。

ビジネス・マネージャーを任命してチームに入れるべきです。
 営業畑でも、法務でもいい。文系の人を任命してください。」

技術的プロジェクトだからと言って、技術者ばかりでチームを編成するのは賢いやり方ではない。そう、わたしは申し上げた。もちろん文系といっても、英語が一応しゃべれることが望ましいですが(その国でビジネスをやるなら、英語のコミュニケーションが必要になる。大学教育は英語で行っているはずだから)。
−−でも、ビジネス・マネージャーって、何をするんですか?

それが先方の疑問だった。なるほど、知らない人には分かりにくいかもしれない。

日本には理系と文系という、諸外国にはあまり見ない不思議な制度的区分がある。理系の人は文系のことは知らなくて良いし、文系の人は技術に興味がなくてもて当然だという、思考習慣がある。MITすなわちマサチューセッツ工科大学に、経済学や言語学の講座があってもいいじゃないかと考える欧米流とは少し、ギャップがある。

ただし英語では(つまり、英語でビジネスをする業界では)、Technical と Commercial という区分がある。たとえば、きちんとした国際入札は普通、Technical Proposal と Commercial Proposalのに分冊の作成が要求される。日本語でいえば。技術提案書と商業提案書かな。

技術提案書には、設計面での提案や、遂行方針などが記される。そして商業提案書には、価格(明細・合計)、支払・保証など契約面についてが書かれる習慣だ。通常の日本の商慣習に翻訳すれば、前者が「見積仕様書」、後者が「御見積書」になるだろう。

そして国際入札では、まずTechnical Proposalの評価(技術評価)で合格した入札者のみ、Commercial Proposalが開封されるルールになっている。入札の選定は、値段だけでは決めない。いや、先に値段を見て安い応札者に対して、技術面をネゴしたりもしない。まして、技術的には優秀だが値段が二番手以下の応札者に対し、一番札の値段を教えて値引き要求をしたりもしない。これが国際的な慣習で、それを破ると業界内で信用を失う。つまり二度とまともに入札ができなくなる(応札者がいなくなる)、という仕組みである。このようなTechnicalとCommercialの区別と順位付けが、国際入札の仕組みを守っているのである。

さて、Proposal全体を取りまとめる責任者は、PM=プロマネである(あるいはProposal Managerともいう)。そしてCommercial Proposalの部分をまとめるのが、BM=ビジネス・マネージャーの仕事なのだ。

しかし、BMの仕事が一番大事になるのは、受注後の遂行段階である。そして、客先との交渉(ならびに、その準備)が主要な仕事の柱となる。追加や変更に伴う交渉においては、BMが過去の書類やメールなど、証拠(エビデンス)を全部まとめ上げる仕事をしてくれる。そして変更に伴うインパクトや、作業費用を見積もるのもBMだ。さらに過去データや外部企業の事例を探してきて、交渉の材料にするのだ。ここまで揃えば、プロマネの交渉の仕事はずいぶんやりやすく、楽になる。

なんだそれ、営業の仕事じゃないか、と思われた方もいるかもしれない。かもしれないが、貴方の会社の営業マンは、受注後もプロジェクトにはりついていられるだろうか? それも海外プロジェクトの現場で? せいぜい、たまに来て手伝うだけではないだろうか?

それに、交渉以外にもやる仕事はたくさんあるのだ BMは金銭や契約や雇用・労務に関わる一切の仕事に責任を持つ。もう少し具体的に列挙すると:

- 客先への請求と支払いに関わる事項
- 変更(Change Order)と見積・交渉に関わる事項
- プロジェクトの資金管理とキャッシュフローに関わる事項(海外プロジェクトならば外貨と為替も)
- 要員の手配・採用に関わる事項(海外ならばビザ手続きも)
- 外部発注企業に対する契約と支払いに関わる事項
- 執務環境に関する事項(海外プロジェクトならば宿舎の手配も)

こういうこと一切合切を仕切るBMがいなかったら、どうなるだろうか? こうした事柄は、いずれにせよ不可避である。避けて通れないのだ。となると、結局誰かがやるしかない。そして、それはつまりプロマネの仕事になってしまうのだ。技術に専念したい技術系プロマネにとって、こうしたことは「雑用」に思える。わたしは技術以外のことを、雑用として軽んじる見方には組みしないが、そう考える人は現実に多いだろう。

ここで、R・ハインラインの名作SF「月を売った男」 に出てくる挿話をわたしは思い出す。この物語の中で主人公は、自分が月ロケットの設計図に集中したいときにかぎって、運送業者がトラックの手配について文句を言ってくる、といって嘆く。すると彼の片腕になる男が現れて、そうした「一切の雑用」を自分が引き受けます、だからボスは技術に集中してください、と宣言するのだ。

ソフトウェア産業における生産性の問題を論じた「人月の神話」 の著者Brooks Jr.は、この「月を売った男」のエピソードを引用し、技術系PMの下に、商務に強いBMがいるのが理想だ、と書いた。たしかに一つの考え方である。

いや、ちょっとまって。ウチの会社にはそんな、営業面も法務も人事も会計も総務もわかるような、しかも英語も話せるようなスーパーマンはいないよ。そんな声も聞こえる気がする。たしかにそうかもしれない。

だが海外のライバル会社には、専門のBMがいるかもしれない。BMの交渉力やサポートが案外、赤字と黒字の分かれ目になるかもしれない。だったら、今からでも育成するしかないのだ。そのためには、まず、ビジネス・マネージャーという専門職種が必要なのだと、会社が認識することが先決だ。

以前にも書いたが、わたしは「文系」と「理系」という人材の区分をあまり認めていない。わたしの勤務先には、いわゆる文系出身ながら、エンジニアリング会社のプロマネとして立派な仕事をしている人が何人もいるし、まだ駆け出しだった若い頃について勉強した先輩も経済学部出身のエンジニアだった。またわたし自身、理系と文系の両方の資質を持った人間だと自覚している。だから、「技術屋だから契約オンチでいい」とか「営業マンだから設計の話は知りたくない」といった、自分で壁を作ってしまう人々の態度は、一種の怠惰だと思っている。

だが、文系・理系という区分は世間に流通しているし、そういう形で自己規定している人も多い。だったら、せめてその範囲内では責任感を持ってもらいたい、というのがわたしの期待だ。だから営業マンであって労務や会計は素人であっても、せめて「文系の守備領域」については、技術屋に対して自負を持ってくれるだろうと思い、冒頭に述べたような提案をしたのだ。

念のためにいうけれど、プロマネ人財だって、固有技術も管理技術もよくわかり、かつ人徳があってリーダーシップも豊富な、スーパーマンみたいな人は滅多にいないと思う。で、スーパーマンがいなくても仕事がある程度成り立つためには、仕事の仕組み(システム化)が必要なのだ。そしてプロマネを補佐したり助けたりする支援組織や専門機能が必要である。

もちろん、ちゃんとしたプロマネをまず、意識して育成しなければならない。ただプロマネは最終責任者なのだから、BMの領域についてだって、少しは知る必要がある。つまり契約や請求や会計や雇用について、せめてBMとちゃんと会話が成り立つ程度には、概念と用語の知識が必要である。そしてBMの側にとっても、営業や財務や法務など本社の専門部署からのサポートが必要なのである。

冒頭にあげた会社が、うまくBMを任命できたかどうか、残念ながらその後の話はまだ聞いていない。社内で見つけるのは、そう簡単でなかったろう。ただ海外ならば、逆に欧米人の専門家を雇う手段だってある。まあ専門家を呼べば、たぶん高給取りだろう。しかし、それで技術者達が技術に専念でき、赤字を回避できるなら、総合的には安いものだ。

それは、マネジメントの価値とコストの比較論である。マネジメントはリーダー職の片手間仕事ではない。とくに海外プロジェクトならば、なおさらである。契約社会でのプロジェクトには、「文系」的な職域に強い人材も、必要なのだ。技術力だけでは勝てない。そのことの認識が、海外に打って出るときの第一歩なのである。





# by Tomoichi_Sato | 2017-07-10 22:32 | プロジェクト・マネジメント | Comments(0)

欧州におけるIndustry 4.0 − その虚像と実相(2)

知り合いの人が最近、車を買った。人もうらやむドイツの有名な高級車である。ディーラーで購入を決め、さてオプションを選ぶ段になって、驚いたという。種々の選択肢から自由に選べないのだ。いくつかのオプション群がお仕着せのセットになっていて、そのどれかを買うしかない。高い値段を払ったのに、顧客の自由な選択権がないのだ。

「ドイツの提唱するIndustry 4.0の目標の一つが『マス・カスタマイゼーション』となっていますけど、当然だと思いました。」とその人は語った。「だって全然、お客の個別の注文に応じられる状態になってないんですから。日本の製造業の方がはるかに先を進んでいますよ。」

マス・カスタマイゼーションとは、大量に生産しつつも、個別の要望に応じたカスタマイゼーションができる生産形態のことを指す。日本ではどの自動車メーカーでも、色や内装や電装品まで多数あるオプションを、個別に自由に選べて、それできちんと納品してくるのが普通である。それに比べて、このドイツメーカーは何だ。Industry 4.0なんて、ドイツ人が日本に追いつくための活動じゃないのか? 知人はハノーバーメッセにも足を運ぶ人だけに、その思いが強かったらしい。

ただし日本車メーカーだって、海外では似たような状況かもしれないと、わたしは思った。たとえばアメリカ市場である。あの国では、顧客はディーラーにいって、店頭に現物のある車を選んで、その場で乗って家にかえる。ナンバープレートは、あとで家に郵送されてくる。そういう習慣の国である。日本のように注文から納車まで何週間も待つことはしない。だから日本車メーカーでさえ、米国にはかなりの流通在庫を置いてある。在庫は無論、個別オプションの選択肢がかなりせばまっている。

ものごとを比較するときは、ある部分だけの優劣を論じるのではなく、仕組みの全体像を理解して比べる必要がある。そういう前置きをしてから、では、前回の話を続けよう。

フィンランドのMPD 2017では、ドイツにあるGE Energy Connections社の工場刷新に関する発表があった。講演者はC. Kantner氏で、Brilliant Factory Leaderという肩書きを持つ、まだ若い中堅のエンジニアである。氏の講演は動画中心で、あいにく発表資料が公開されていないため、手元の聞き書きで再現するが、まず彼はGE社の”Brilliant Manufacturing"というコンセプトについて、

Brilliant factory = Lean + Digital

という定式化で説明した。そしてデジタル化については、"don’t digitize waste”(ゴミまでデジタル化するな)というモットーで、注意深く対象を選択すべきという(いかにも「選択と集中」のGEらしい)。その上でベルリンの自社工場の事例にうつり、工場内ロジスティクスの刷新の説明になった。部品の「倉庫をスーパーマーケットに転換する」という取り組みで、箱にRFIDを取り付けてトラッキングできるようにする。そして個別に数を数えるのでなく、フォークリフトが感知ゲートを通過すると出庫処理が自動的に完了するシステムにした。

一括ピッキングから個別フローにかえ、またフロアでもiPadでバーコードを読み取る仕組みを入れたおかげで、リードタイムは5日短縮し、在庫は約10億円削減、生産性も30%アップしたのだという。

その取り組みの動画は素晴らしい。だが説明を聞いているうちに、ちょっと不思議に思った。刷新する以前は、倉庫係に対し出庫5日前にピッキング・リストがバッチで指示されていたというのだ。5日前? 日本の製造業の常識からいうと、のんびりすぎないか。送変電設備の部品だから大きくて重たいのは分かるが、それにしても随分ゆっくりしている。彼の話はさらにERP - MES - PLM連携や、図面管理システムのアジャイル開発に進んでいったが、わたしの頭の中には「え? この程度がドイツの工場の実態なの!?」という疑問符が残ったままだった。

ともあれ、週の後半、わたしはフィンランドからドイツに飛び、ある企業のご厚意で工場を見学させていただいた。B2B製品を作る、部品工場と製品組立工場の2箇所である。この会社は年商1千億に満たない中堅規模のメーカーだが、特色ある製品を作り、毎年成長を続けている。

期待を胸に工場に入ったが、あまり自動化されていないな、というのが第一印象である。部品工場は一応、かなり機械化されたラインで構成されている。しかし手作業も残っている。組立工場の方は、日本と同じく、人間の作業が中心である。ただしベルトコンベアの流れ作業ではなく、個人単位のセル生産方式に近い感じといえば、分かっていただけるだろうか。

ちなみに、紙の現品票が部品を入れたトレイに貼付されている。見ると、作業の工順が印刷されていて、各工程作業ごとに、作業者の完了サインと日時が手書きされている。日本でもよく見かけるやり方だが、つまりアナログである。まあ生産量から見て、無理して自動化するメリットはまだ小さいのだろう。量が今の3倍になったら、もっと進捗コントロールの仕組みが必要だ。ただ工場はどこも整理がきちんと徹底されていて、とても清潔感があり、整頓も行き届いている。歩いていて気持ちが良かった。ちなみにこの企業でも「5S」概念が存在し、それは日本から学んだらしい。

それにしても、日本の工場関係者が見学したら、「なんだこんな程度か」と思うだろう。そして、日本にかえってからレポートするに違いない、「ドイツのIndustry 4.0など恐るるに足らず。日本の工場と大きな差はない」、と。

ところで、その工場は面白いレイアウトを採用していた。全体は平屋だが、中央に大きな部品倉庫があり、その周囲に作業区がぐるりと配置される、Warehouse-centered Layoutである。そして部品材料の倉庫が、ずいぶん大きい。聞くところによると、かなりの在庫日数分を保有している。日本の工場の方が、明らかにもっとずっと少ない在庫量でやりくりしているし、サプライヤーからのJIT納品などの仕組みも活用しているだろう。

なぜ、こんなに部品材料の在庫を持っているのか?

じつは「日本の教訓から学んだ」のだという。つまり、3.11の東日本大震災時の、サプライチェーン途絶の問題を見たのだ。部品メーカーの工場が被災したため、別の地方にあった完成品メーカーのラインが止まってしまった。

B2B製品を作るこの会社は、自分たちは顧客への供給責任がある、と考えた。そこで、普通よりもずっと多くの部品材料在庫を、リスクもコストも承知で抱える事に決めたのだ。

そうした思い切った決断ができたのは、この企業がオーナー企業だからである。ドイツにはどうやら、こうしたオーナー企業や同族企業形態の、中堅製造業がかなりあるようだ。そして、それぞれが特色ある製品を作っている。逆に、競合の多いレッドオーシャン的な商売には、乗り出さない。それが彼らの特徴だ。

もう一つ面白かったのは、見学した部品工場は、以前は受託製造(EMS)を行う別会社だったという事実だ。それをわざわざ買収合併して、傘下に収めたのである。日本では、工場を切り離して別会社化したり、安価な外部企業に製造を委託する動きが強い。このドイツ企業は、その真逆をやっている。なぜか?

彼らは研究開発・設計機能をもつ本社と同じ町に、自社の工場を集中させている。つまり、本社の目の届く範囲で、ドイツ人の手で、ものづくりをしているのだ。それはこの会社が、信頼性を何より要求される産業用製品を作っているからだ、と思われる。高機能を実現する製品アーキテクチャーを設計し、またインタフェースは標準化して外部に公開している。でも、高信頼性・高品質にこだわって、ものづくりをしているのだ。

高性能・オープン性・高信頼性=それがこの企業の高収益の源泉である。三つのどれか一つでも欠けたら、コアの強みが薄れてしまう。そのことを経営者が自覚して、経営している。わたしには、そう思えた。この会社にとって、安い賃金を求めて東欧あたりに工場移転することは、あまり意味がない。むしろ、高い職人仕事(マイスター)の能力をもつドイツ人の雇用を、いかに確保するかが命題と思われる。

それは、ドイツ政府のはじめたIndustrie 4.0の発想とも通底している。

Industrie 4.0は周知の通り、ドイツ科学技術アカデミーAcatechが2013年にまとめ、メルケル首相に提出した最終報告書に端を発している。元はドイツ語なので-rieというスペルになっている。報告書の説明を受けるメルケル首相の写真を見たことのある人も多いだろう(AcatechのWebサイトより引用。ちなみに隣で怪訝そうに書類を眺めているのは、ロシアのプーチン君である)。これを受けてドイツ連邦政府は、産官学共同のためにかなり巨額の予算をあてる。ついでながらメルケル首相は、理系で博士であることも書き添えておこう。
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Industry 4.0の概念が日本に伝わるにつれ、いろいろな解釈が出回った。これは無人化工場を目指すものだ、という解説もあった。いや、裏にはドイツの労働組合対策があるのだ、という指摘もあった。Cyber-Physical System (CPS)で、製品や工場の「デジタルツイン」を作る技術が中核だ、ともいわれた(ただしCPS自体はアメリカ発の概念だが)。工場内通信規格であるOPC-UAの標準化推進で主導権をとる狙いだともいわれた(ただOPCは元々Microsoftの提案だが)。米国GE社の提唱するIndustrial InternetやPredixプラットフォームの対抗馬だ、という見方も根強い。

だが結局、皆で目をつむって巨象を部分的に撫でているような感じで、訳が分からない(つまり虚像だ、というダジャレですが^^;)。

もっともドイツ人にだって、まだ「これがIndustry 4.0の生み出す結果だ」というのは分からないに違いない。なぜなら、これから(第4次)産業革命をしようとしているのだから。蒸気機関を工夫中だったJ・ワットに、将来これで鉄道も船も工場も、社会全体がかわると思いますか、とたずねたら彼は絶句したに違いない。

一つだけはっきりしているのは、彼らはドイツあるいは欧州の製造業と雇用を守るためにやっているのだ、ということだろう。

かつて聞いた話だが、ドイツから日本に視察団が来て、いろいろな工場を見学して回った。どこでも、乾いた雑巾を絞るような、徹底した現場カイゼンの実例を見せてくれる。一同は感心して見ていたが、最後にポツリと引率者にたずねたんだそうだ。「まことに素晴らしかった。だが、なぜ彼らは、わざわざ他社と同じようなモノを作って、価格競争で消耗する道を選ぶのか?」と。

工場で働く技術者や技能者にとって、一番大切なことは、じつは工場の外側にあるのだ。それは、経営における工場の位置づけである。ちょうど、プロジェクトの一番肝心な部分は、受注時点でもう決まってしまっているように。そこがズレてたら、現場でどんなにカイゼンしても追いつかない。

わたしが見学したドイツの工場についていうと、その場に行って肌に感じないと分からないことが、一つだけあった。それは工場の中の雰囲気が、明るく、かつリラックスしていたことだ。誰も、「いつ、この仕事がなくなるか分からない」「近いうちに工場移転で失職するかも」といった心配を抱えていないと感じた。むろん、数値的なエビデンスは示せない、まさに百聞は一見にしかずの、個人的印象である。

だが、その事が一番大切なのだと、わたしの直感は告げている。明るい職場、すくなくとも安心して働ける職場からしか、本当に良いものは生まれてこない。それが道理ではないか。

工場は利益のための道具なのか。それとも利益が職場を良くするためにあるのか。技術革新云々の前に、問われているのはそこなのだ。人が働くことについての思想のあり方こそ、次なる産業革命を乗りこえる鍵なのである。


<関連エントリ>
 →「欧州におけるIndustry 4.0 − その虚像と実相(1)」 http://brevis.exblog.jp/25872533/ (2017-06-25)
 →「マス・カスタマイゼーションとは何か」 http://brevis.exblog.jp/12287846/ (2010-03-10)


# by Tomoichi_Sato | 2017-07-01 19:56 | 工場計画論 | Comments(0)

欧州におけるIndustry 4.0 − その虚像と実相(1)

「フィンランドの大学では、受講している科目は何度でも試験を受け直せる、ってホントですか?」−−先月、ヘルシンキで会ったA先生に、わたしはたずねてみた。答えは、”yes”だった。毎月、試験日がある。事前に登録しておけば、会場で、複数の科目の試験を受けられる。そうして、自分が納得いく成績を取れるまで、何度でも繰り返しチャレンジすることができるのだそうだ。ただし教授の側は毎月、試験問題を出す訳だから、大変だろう。それでも、納得できるまで学べる。随分と教育を重視した制度だ。

そもそもフィンランドの大学は、4年で卒業する制度ではないらしい(年限は一応10年以内とか)。学費は交通費も文房具代まで含めて、無料である(小学校から大学まで)。だったら皆が大学に殺到するかというと、そうでもないようだ。卒業はそれなりに難しい。また、大学以外にポリテクニックなど職業訓練校の存在もある。フィンランドの教育制度は近年、日本でとみに話題になったが、良し悪しや比較の議論以前に、教育に関する考え方がかなり違う、としかいいようがない。単線のエスカレーターではなく、乗り降り自由な複線みたいな印象だ。少なくとも、日本の東大・京大を頂点としたピラミッド構造とは、随分違う。

こうしたことは、現地に行って、いろいろ見聞きしてみないと分からない。よく「百聞は一見にしかず」というが、とくに社会的な仕組み(システム)のことに関しては、そうである。

5月末から6月にかけて、ドイツとフィンランドに、短い出張に行ってきた。その時に見聞きして考えたことを、報告したい。まさに百聞は一見にしかず、の旅であった。出張の目的は、次世代の工場のエンジニアリングに関する我々のビジョンを発表すること、ならびに『Industry 4.0』の震源地であるドイツでの実相を調べること、の2点だ。

最初の目的のために、フィンランドで開催された"Manufacturing Performance Days 2017”(略称MPD 2017) https://mes.eventos.fi/event/mpd2017/pages/programme というカンファレンスにまず参加した。場所は、フィンランド第二の都市、タンペレ(Tampere)である。ここは首都ヘルシンキから高速鉄道で1時間半、東京と静岡くらいの距離にある工業都市で、湖水地帯にある。この町をはさむ二つの大きな湖の間に6mの落差があり、これを利用した水力発電設備が、町の発展の基礎となった。
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本カンファレンスには、昨年、自分が主催する研究部会のメンバーであるKさんの紹介で、来日したタンペレ工科大学のTuokko名誉教授にお目にかかったご縁があって、発表枠を得ることができた。このMPD 2017とは、小さな規模ながらレベルが高い国際会議と展示会で、今回が10年目である。ちょうどフィンランド建国100周年に当たるとかで、過去最高の約800名が参加した。主な参加者は:
- 大学および国立の研究機関(たとえばドイツのフラウンホーファー研究所や中国科学院)、
- 産学連携組織(欧州には各国にあり活発)、
- 企業:地元フィンランド企業に加えて、Siemens, SAP, Daimler, Bosch, Beckhoffらドイツ勢。さらに米GE, 仏Dassault, 米McKinsey, 英Rolls-Royce, スウェーデンのVolvoなど錚々たる企業が参加している。

ちなみに日本からは、我々日揮と、IVI(「つながる工場」で知られる日本の組織"Internet Valuechain Initiative")のエバンジェリストとして、富士通の高鹿さんが参加された。

それで、佐藤が何を講演発表したかというと、およそ以下のような骨子の話である:

(1) IoT技術の進展、およびIndustry 4.0に代表される社会的要請の二つの導因(ドライバー)により、これからの工場のあり方は大きくかわる。
(2) すなわち、中央制御室を持つ、より統合された「システムとしての工場」に進化する。
(3) そうなると、「工場のシステムズ・エンジニアリング」が必要になる。
(そして、そこにはプロセス産業での教訓も活かされるだろう)
(4) そこで、我々はその確立を目指して活動していく。

といった主旨だ。詳しくはいずれ項を改めて書くつもりだが、講演資料はネットからすべて公開されているので、興味がある方はご参照いただきたい。
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カンファレンス全般の感想を少し書いておこう。まず印象に残った発表・展示としては、
- Siemens社のIoTプラットフォームであるMIndSphereの発表デモ
- タンペレ工科大学のMinna Lanz教授によるMESの連携システム構想
- アールト大学によるIoTを使ったクレーンのスマート化実験
- GEのドイツ自社工場における"Brilliant factory"実践取組みの報告、
などを代表例としてあげておきたい。

ただし、IoT技術レベルのテクニカルな話題と、Industry 4.0関係のハイレベルな議論が多く、中間の「工場レベル」の話が少なかった。強いてあげるなら、GEの事例に加えて、我々日揮とIVIの日本勢の2発表くらいかもしれない。ここは一種のミッシング・リンクになっていると、わたしは感じた。

最終日には、タンペレ工科大学の見学もさせていただいた。人口20数万人の工業都市の大学ながら、工学系研究のレベルが高いのには目を見張った。キャンパスに着くと、完全自動運転のマイクロバスが構内を走っているのに気がつく。すでにこのレベルでは実用に供しているのだ。いくつか研究室を見せていただき、院生達とディスカッションもしたが、実験設備も研究内容も世界レベルである。ここでわたしは、はじめて金属3Dプリンタの実物を見た(院生が実験で使っていた)。

たまたま見学したのが機械系学科だったこともあるだろうが、ロボティクスや建機の自動運転研究などが面白かった(写真は多軸ロボットとヒューマンインタフェースの研究を解説するLanz教授)。フィンランドは林業の国でもあり、建機メーカーもあって実際的である。ちなみにカンファレンスでは、英Rolls-Royceと共同した、船舶の自動運転研究がトピックになっていた。フィンランド政府が、海面での規制を緩和し、船の自動航行の実験を可能にしたのである。(ついでにいっておくと、日本ではロールス・ロイスを超高級自動車メーカーだと思っている人が多いが、むしろ英国の三菱重工みたいな存在だと思えばいい)
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またタンペレ工科大学を含むフィンランドで、生産マネジメント分野の研究もしっかりしている点に感心した。スコープが広く、製造業全体の問題として考えている。これに対し日本では、近年この分野の専門家がほとんど大学にいなくなってしまった。品質管理や在庫・スケジューリングといった個別の専門家は、いるにはいるのだが、Industry 4.0のような広い文脈で、全体を語れる研究者がいないのだ(たぶん論文になりにくいからだろうが)。

大学は企業とも距離が近く、共同研究を多く行っている。上記の設備なども、企業(フィンランドだけでなくドイツ企業なども含め)との共同研究で購入しているようだ。企業は資金と機材を提供し、大学は人手と知恵を提供するサイクルが、うまく回っている。もっとも、フィンランドという国は現在、「ノキアの次」を、皆が探している感じがする。ノキアは世界市場を相手にした大企業であったから、それだけ喪失感も強いのだろう。

ところで、MPD 2017でいろいろな講演者や出展企業の人びとの話を聞くうちに、わたしはあらためて、欧州製造業におけるドイツの影響力の大きさを実感するようになった。北欧の辺境に位置するフィンランドだけでなく、スウェーデン、フランス、ベルギー、スペイン、オランダなどからの参加者とも話したのだが、その感は強い。それはたぶん、ドイツの製造大国としての存在感としてよりも、むしろ、Industry 4.0に代表される構想力と、システマティックで重厚な進め方のためだろうと感じる。

ドイツの重厚な進め方とは、どんなものか。たとえば、少し前に英国で「人工知能は将来、人間の47%の仕事を置き換える」というショッキングな研究が出された。これは日本でも話題になったが、欧州でも当然、驚きを持って受け止められた。ところでドイツでは、この問題に関して、追検証のスタディを複数の研究機関に委託した(ドイツは連邦制なので、各地の州政府が独立して動く気風がある)。

その追試研究の結果の数字はまちまちながら、ドイツでは「せいぜい1割程度」という答えとなった。それでも、その報告を重く見て、ドイツは「雇用(Arbeit) 4.0」という次の国家プロジェクトを始動した。同じ時期、日本では、この研究を客観的に再評価する指令を、国や財界が学会に下したという話を聞かない。むしろ47%という数値を、あちこちの人が我田引水や威かしのために、メディアで触れ回った印象しかない。

この例でも分かるとおり、ドイツではどうやら産→官→学のサイクルがきちんと回っている事と、総合的で実証的なアプローチによって、説得力があるのである。行く前は、正直言ってそんな風には想像していなかった。この点は自分の不明だった。しかし、それならドイツにおける製造業の実態はどうなのか?

それを知るために、カンファレンスの後、わたしはドイツに向かったのである。だが長くなってきたので、この話の続きは、また書こう。


# by Tomoichi_Sato | 2017-06-25 22:54 | 工場計画論 | Comments(1)

怒りやすい人びと・怒っていると気づかない人びと

近所の通りを歩いていたら、信号が黄色から赤に変わりはじめたのに、交差点に突っ込んできた乗用車があった。強引に右折して進んでいく。歩道近くの歩行者たちは、あわてて身をひき、皆がひやりとした。車のドライバーは、年配の男性だった。みたところ団塊の世代くらいか。車種はそれなりの中型車だった。

何を怒っているのだろう。わたしは思った。あきらかに、何かに腹を立てているかのような、乱暴な運転だった。別に渋滞でもなく、忙しい通勤の時間帯でもない。だから別のことに腹を立てているのだ。

それにしても、彼は何に怒っているのか。立派な車も持ち、たぶんきちんと家庭もあり、年齢から見て、日本の高度成長の栄光と共に生きてきたはずだ。年金だって、それなりにもらっているだろう。多くの若い人から見れば、うらやむべき境遇ではないか。

もちろん、日常生活には腹の立つ場面はたくさんある。出がけに夫婦げんかでもしたのか、あるいは、好きなチームが夕べ大敗したのか。それとも愛する日本が国際競争力ランキングで先進国中、最下位になったニュースでも見たのか? だが怒りの原因が何であれ、いったん人前に出たら、それに飲まれない分別を身につけているはずの年配ではないか。別のところで腹いせするなど恥ずかしい——それが大人だろうに。

別の経験もある。会社帰りにある店に入ってカウンターに座り、好きなギネスの黒ビールを頼んで、本を読んでいた。すると突然、近くにいた男性(彼もたまたま団塊の世代のようだった)が、「貴方は明るい方ですか、暗い方ですか?」とわたしに問いかけてきた。わたしは一瞬、訳が分からず目をぱちくりしていたと思う。冗談めかしていたが、難詰する口調だ。すぐに、“こんな洒落た店なのに一人で暗く本なんか読みやがって”、と相手が思っているらしいことが見て取れた。余計なお世話ではないか。するとマスターが(その店のマスターが英国人だった)割り込んできて、「この人はこうして静かに飲むのが好きなんでしょう」と取りなしてくれた。

この男性も、わたしに腹を立てたらしい。だが、なぜ? 飲み屋で一人、本を読むのは彼の美学には適わないかもしれないが、迷惑をかけた訳でもない。彼は本当は何か別のことに怒っているのに、はけ口を、たまたまわたしに向けたのだ。

話を、ちょっとだけビジネス方向に向けよう。以下に紹介するのは、ITエンジニアが好む話題=『生産性』をめぐる問答だ。好むといっても、わたしの体験では、多くのITエンジニアは生産性というモノサシを信じていない。かわりに、「できる奴はできない奴の10倍、生産性が高い」「いや、30倍だ」「100倍だよ」「できない奴はゼロなんだから、無限大さ!」と言う風に、モノサシの客観性を無力化する会話を好む。仕事に費やす時間と成果は無関係、天才画家が一瞬のひらめきで創作するようなものだ、という逸話がいいらしい。

——生産性が人によって10倍違うというお話ですけれど、では、参考までに具体的に測った個人別の数字かグラフを見せていただけませんか?
「そんなものは別にありませんよ。こういうのは感覚論ですから。」
——そうですか。でも感覚論だけでは、こまる事もありませんか?
「ま、人の評価というか査定はね、やはり主観で決めるしかないと思いますよ。でも特に不都合はありません。」
——査定はそうでしょう。ですが、顧客が画面を10枚追加しろと急に追加要求してきたとき、生産性の基準が無かったら、どれくらい余計に時間がかかるのか、現有人数で足りるのか、答えられますか?
「そういうのもケースバイケースですね。経験の問題です。」
——ははあ。でも以前から、FP(ファンクション・ポイント)法とかCOCOMOとか、定量的見積手法が提案されていると聞いていますが
「そんなの実務には使えませんよ。ブレが大きすぎてね。」
——うーん・・では、どうやってプロジェクト全体の期間や工数の見積をされるんですか。
「教えてあげましょうか。それはね、ウチの場合、営業マンが上の者と一緒に、表を作るんです。横軸に月数をとって、基本設計や実装といったフェーズごとに、毎月何人くらい動員するか、サブチーム単位で人数を記入して、掛け算すれば工数が出ますから。」
——ああ、マンニング(配員)の表ですね。しかし、その表を作るにしても、システム規模から見て基本設計は3ヶ月でいいとか、設計SEは10人で足りるだろうとか、何か推算はされているはずです。その基準は何ですか?
「(とつぜん怒り出して)そんなの知りませんよ! 営業が勝手に見越して決めてくるんだ! こっちがどんなに苦労しているか知りもしないで、競争に勝てないからって無理に値引きまでして。いい加減にしてくれってんだ!」

日頃から我慢にガマンを重ねて不合理に耐えつつ、そのことを口に出せずに過ごしている人は、あるきっかけで急に怒り出すことがある。怒るなら、本当はその理不尽な上司だか営業だかに向かって訴えればいい。だが組織人ゆえに、感情を押し殺している。自分の気持ちを、見て見ぬふりをしている。そうすると、憤懣の感情が圧縮されたガスのように溜まっていて、直接関係ない方向、本来の理路を指摘した第三者に向けて、突然吹き出すのだ。

エンジニアの生産性を測定するのが難しいのは、事実である。そして多くの知的作業従事者は、自分の生産性を他者に規定されたくないし、ましてや、測って給与を査定してもらいたいとも、思うまい。

しかし、だから生産性は定義できないのだとか、測定しなくていいと考えるのは、プロジェクト・マネジメントの観点からは、全く別である。作業対象の規模のスケールと、生産性の基準が無ければ、工数の見積ができない。見積れなければ、マネーを稼ぐことができず、安定したビジネスが成り立たない。ビジネスが成り立たなければ、エンジニアが落ち着いて技術に打ち込む仕事ができないのも、道理ではないか。もし営業部門がバカでなかったとしたら、見積のブレは逆に、技術屋の側にふりかかってくるのだ。

だが、どこかで、そういった「不都合な論理」は自分の心からシャットアウトして、考えないようにしてきたのだろう。自分の中でひそかに『思考停止線』を引いている人びとは、しかし、いつのまにか次第に、この世は理不尽だ、自分は不当に扱われている、と思い始めていく。

あるとき聞いた精神科医の講演によると、怒りには実は三種類あるらしい。3つのモード(様相)があるのだ、という。それは、一過性の普通の怒りと、蓄積された抑鬱性の怒りと、冷えた軽蔑の怒り、である。

最初のタイプの怒りは、イライラやムカッとした感情で、放っておくといつかは発散し沈静化する。これは普通の感情で、誰にでもあるし、生きものとして正常な防御反応であるとも言える。何か問題が生じていることを、自分や周囲に気づかせるのだ。

二番目の怒りは、とくに朝、顕著に生じるものらしい。ああ! また一日がはじまるのか。なんでこの世はこんなにしんどいんだ! 起きるとそう感じて、うめき声を上げる。継続的な恨みや怒りが原因となる抑鬱、暗さである。これは普通、怒りとは意識されない。また、起きて活動するのが非常に億劫である。だいたい鬱の傾向のある人は、朝が辛い。朝は調子いいのに、毎日午後から暗くなっていく人は、まず、いないのだそうだ。

三番目は、やたらと他人をバカにする軽蔑である。日常的・習慣的な軽蔑の態度が、薄められた怒りの一種であることは、はじめて知った。軽蔑は誰にもありうる感情だが、これは心の体温を下げていく性質がある。怒っているのに、自分が怒っていることに気づかせない、いつわりの感情らしい。そして心の病態としては、要注意なのだという。

こうした病態を持つ、怒りやすい人びとには、病識がない。つまり、自分の怒りがこじれてしまっていることに、自覚がない。この人達の心の中には、おそらく、自分は社会から正当に扱われていない、という怒りが伏流しているように思われる。(もっとも、「自分は社会から十分すぎるほど正当に評価されている」と感じる人など、世の中にほとんどいないと思うが、そこは程度の問題だ)

そして、少しずつ他者への攻撃性が高まっていく。普段の日常では栓をして押さえ込んでいるが、何かの機会で噴出する。聞いた話だが、ある種の不祥事を起こした企業がいると、そこの代表番号めがけて、直接被害を受けた訳でもない人びとから、大量の抗議の電話がかかってくるものらしい。とくにTVワイドショーなどで取り上げられると、クレーム電話は一層エスカレートする。なんであれ、他者に「不正義」があり、非難してもいい理屈がつくと、群がる人達がいるのだ。道徳や正義の顔をした、一種のいじめである。

それで、どうしたらいいのか。わたし達が怒りをこじらせないためには、何か手立てはあるのか。

わたしは専門家ではないし、人それぞれに状況は違うと思う。そこで、これから書くのは、わたし個人の考えであることをお断りしておく。

まず、自分の感情に注意を向けることが、第一歩だろう。あ、自分は腹を立ているな、と気づくことだ。これは、言うほど簡単ではない。強い感情の波は、たいてい自分自身を巻き込んでしまい、客観的な味方を難しくするからだ。それでも、練習すれば、少しずつは気づけるようになるのではないか。

また、そのためには、他人の感情にもよく気づくよう、練習するのも一法ではないだろうか。他人の感情に気づきやすくなれば、自分の感情に対する感度も上がるに違いない。

なお心理学者によると、女性の方が男性より感情的に見えるが、案外、自分の感情を見ているもう一人の自分が、心の中にいたりするらしい(わたしは女性の心理は全く不案内なので、受け売りである)。

そして、「感情は育てるものである」という認識を持つことが、第二歩ではないか。こういうことを、わたしは子どもの頃に教わったことがない。だが知的能力が育てるべきものであるのと同じように、感情も大切な心の働きであり、やはり育てるべきものなのだ。情操教育という不思議な言葉があるが、大人になっても、自分の情操を豊かにすることは、必要なのである。

そして三歩目。それは「感情をコントロールする能力」を身につける・・ではない。ここが、一番のキモなのだ。わたし達の文化では、感情は押し殺すものだ、と繰り返し(無言で)教え込まれる。義理や社会の掟に従うために、腸が煮えくりかえりそうでも、それを表に出さずに堪え忍ぶのが立派である、と。そういうドラマを、歌舞伎の「寺子屋」から東映ヤクザ映画まで、いろんなバリエーションで繰り返し提供される。

おまけに、西洋、とくにアメリカ流の近代市民社会の倫理が、「感情より理性」「感情的になってはいけない」と教えている。これをわたし達は近代に、直輸入してしまった。先生方はいまでも、学校でこの建前を教えている。さらに最近の米国流「ポジティブ・シンキング」は、怒りというネガティブな感情を忌避する傾向に、輪をかけている。

だが、わたし達は、あまりにこうした教えに従順すぎたのではないだろうか。押さえ込み、無視した感情は、心の深層に潜り込み、いつか爆発する時を待っているのではないか。わたし達は上手に感情をコントロールできるほど、まだ大人ではないのではないか。それを、素直に自覚すべきではないか。

怒るべきときには、怒るべき相手に、ちゃんと怒る方がいい。それがわたしの考えである。直接相手にぶつけるのが社会的に無理なら、そのあと一人になった時でも、あるいはその日、寝る前でもいい。心の中で、いったん止めてしまった感情を追体験する。正しい対象に対して、ちゃんと感情を解き放つ方が、人間らしい。そうすれば感情は一過性の波として、心の中を去っていく。変に感情を抑えようとすると、むしろろくな事にならない。

それでも気持ちがざわつくときは、ときに短い瞑想をすると効果的だ。心を落ち着かせ、短くても静かな時を過ごすことは、わたし達に心のレジリエンシーを回復させてくれると感じる。

わたしがこんな事を書くのは、わたし自身が、短気で怒りやすい人間だからである。とくにわたしは、利口なふりをして底の浅い会話、論理的なふりをして理屈の通らない説明が、大嫌いである。そういう場面にあたると、つい、強い尋問口調の問いかけをしてしまう。つまり怒ってしまうのだ。だが、自分が怒っていることを自覚できない。自分は正当なことを言っているつもりでいる。

でも、論理的なつもりで、じつは感情的になっている人間ほど、はたから扱いにくい者はない。こうして無用に、人間関係を傷つけてしまう。これで人生、どれだけ損をしたことか。まったく頭を抱えたくなるほどだ。

こうした感情的欠点に気づくようになったのは、本当につい最近のことだ。もっと前に理解していれば、もう少し尊敬される人間、いや、せめてもう少し親しみやすい人間になっただろうに。だから怒りについて、自戒を込めて書いているのである。

成長に価値を見いだせる人は怒りにくい、という。そうだろうな。怒ること自体は、わるいことではない。だが、上手な怒り方と、間違った怒り方があるのだ。目の前のことに怒るのではなく、自分の本当の問題原因に対して怒る方がいい。わたし達は情緒的な文化を持っているのだから、もっと感情という資源を大切にすべきだ。そしていつわりのそして感情に自分が振り回されるのは、避けた方がいい。だからわたし達は、感情に関する小さなスキルを身につけるべきなのである。自分の感情を、ひどくこじらせてしまう前に。


# by Tomoichi_Sato | 2017-06-17 09:24 | 考えるヒント | Comments(0)

講演発表のお知らせ:「ディスクリート型工場におけるプロセスシステムの設計」

直前のお知らせになり恐縮ですが、来週6月21日(水)に、東大で講演をいたします。
化学工学会の研究部会であり、かつ日中の開催ですが、製造業の今後を考える上で超重要なことをお話ししますので(大げさ? ^^;)ご都合がつく方のご来聴をぜひお待ちしております。非会員でも参加できます。また、いわゆる化学プラント業界以外の方のご参加もお待ちしております。

主催:化学工学会 システム・情報・シミュレーション部会 統合化工学分科会
日時:平成29年6月21日(水)10:00~12:00
場所:東京大学工学部3号館大会議室3(6B04号室)
会議室は建物の6階です。

テーマ:「ディスクリート型工場におけるプロセスシステムの設計

プログラム:
(1) 10:00 - 10:10 総合案内 平尾雅彦・杉山弘和(東京大学)
(2) 10:10 - 10:40 話題提供
日揮株式会社 佐藤 知一氏
「ディスクリート型工場におけるプロセスシステムの設計」
(3) 10:40 - 12:00 ディスカッション

講演要旨:
エンジニアリング会社の立場から、通常のプロセスプラントと、固体の加工組立を行うディスクリート型工場を比較すると、種々の際だった違いを見いだす。これをシステム工学の見地から分析し、両者が「密結合なシステム」と「モジュラーな集合体」と見なせることを示す。
さて、最近のIoT技術の進歩と、Industry 4.0の要請などのインパクトは、ディスクリート型工場に根底的な変化をせまる契機となっている。将来、どの工場も中央制御室を持つようになるだろう。このような変化に対応するためには、工場設計の手順を再考する必要がある。その上で、人工物のシステムの分類と、システムズ・エンジニアリングの(再)構築について論を進めたい。

ディスカッションの時間を多めに取っているのは、研究会の方向性についても議論する場とするためです。
参加を希望される方は、できましたら今週中に佐藤まで(勤務先へのメールにて)ご連絡ください。

よろしくお願いします。


佐藤知一@日揮(株)


# by Tomoichi_Sato | 2017-06-14 07:28 | 工場計画論 | Comments(0)