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書評:「怒りの葡萄」(上・下) ジョン・スタインベック著

このところ、書評を書くペースが遅くなって、なかなか読み終わるスピードに追いつかない、と昨年はじめの「書評 2016年のベスト3」 に書いた。その事情は変わっていないが、2017年は読む本の冊数自体も随分減ってしまった。これはスマホでなんとなくだらだらと、ネットを見ているからだと気がついた(わたしは主に移動時間に本を読む習慣なので)。そこで、最近は電車では可能な限り、紙の本を読書ようにしている。まあその方が情報内容に読み応えがあるし、ピンチの出版業界の助けにもなるし、何より目にも良い。

昨年読んだベスト3の内、1冊は「ケセン語訳 新約聖書 【マタイによる福音書】」(山浦玄嗣・著)だったが、これは書評をすでに書いているので、残りの2冊について早めに紹介しておきたい。もっとも2冊というのはどちも上下2巻本なので、実質的には4冊だが。「怒りの葡萄」は、そのうちの一つである。


怒りの葡萄〔新訳版〕(上)」・「怒りの葡萄〔新訳版〕(下) 」 (Amazon.com)

1930年代、アメリカ中西部から南部にかけて走る「グレート・プレーンズ(大平原)」の農業地帯は、厳しい日照りと砂嵐に見舞われる。通称「Dust Bowl」とよばれた現象である(本書では純粋に天災として書かれているが、実際には、生態系を無視した収奪的な開墾農業に起因する、人災の面が強かったことが分かっている)。

アメリカ社会はすでに1929年から、大恐慌時代に入っており、多くの農民は借金を抱えていた。そこに、この砂嵐が追い打ちをかけた。結果として彼らの多くは、借金のカタとして土地の所有権を奪われた。さらに貸し手の金融業者達は、機械化トラクターを使って、容赦なく農民たちを半暴力的に住み家から叩き出した。生活の糧を得るために、彼らは仕方なく州外に逃れなければならなかった。

この小説は、そのような難民達の物語である。そう。100年近く前の米国には、国内に、多数の経済難民を輩出していたのである。彼らの多くは、仕事がある豊かな地というイメージにひかれて、カリフォルニア州を目指した。とくにオクラホマ州は多くの農民が放浪状態になり、「オーキー」と蔑まれてよばれた。オーキーの小作農出身であるトム・ジョードが、本書の主人公だ。

彼らの多くは、自家用車を改造したトラックにありたけの荷物を積んで、ルート66と呼ばれる道路を西に向かう。そこにはアメリカの農民たちのバイタリティと、自動車のエンジン部品まで自分で修理するDIYの精神が息づいている。

だが、彼らを待っていたのは過酷な運命であった。カリフォルニアの農業は、すでに土地の大土地所有化が進み、さながら大企業かプランテーションのように、安い労働者を搾取することに慣れていた。彼らは中西部に無際限に労働者募集のビラをまいて、集まった労働者同士で競争させ、単価をさらに下げると言う方策をとっていた。加えて豊かな土地の住民にありがちな、貧しい余所者のへの差別。そして難民収容所さながらの、劣悪な生活。

その中で、貧しい者同士が団結して、単価の値上げを要求しようとするリーダーが生まれてくる。しかし大農地の所有者たちは、彼らを「アカ」と呼び、保安官を動かして彼らを逮捕、あるいはこっそり殺そうとする。この辺もまことに米国的である。

主人公のトムも、そうした中で保安官に追われる身となる。彼が母親に別れ際に言う有名なセリフ、「俺の魂はそこら中の暗闇の中にいる。飢えるのはごめんだと言って喧嘩する奴がいたら、俺はそこにいる。おまわりが誰かをぶちのめしていたら、俺はそこにいる。」--これは実は新約聖書にあるイエスの言葉、最後に弟子たちに向かって別れ際に言う言葉のもじりだ。『怒りの葡萄』というタイトル自体、この世の終わりを描写した「ヨハネの黙示録」からとられている。

本書は1939年に出版されるやいなやベストセラーとなって、賛否両論の激しい渦を巻き起こし、いくつかの州では発禁となった。またジョン・フォード監督、ヘンリー・フォンダ主演で映画化され、さらに多くの人に知られるようになる。この重厚な名作によって、後にスタインベックはノーベル賞をもらう。昔から翻訳は出ていたが、スピルバーグが再映画化するというので、出版社は新訳を出したのだろう。わたしはそちらの方で読んだ。

それにしても、ぎりぎりの賃金で苛烈な生活を送る、最下層の貧しい人びとの果敢な精神と、彼らを容赦なく利用・簒奪し、かつ差別する富める者たちという二分法の構図は、100年前どころか今も既視感のある情景である。本書はジョード一家の個別の物語と、特定の人称を持たないアメリカ社会の描写を交互に配した重層的な構成だが、話が重たいだけに、結末の不思議な、しかしある意味、苦難を超越した幕切れが印象に残るのであろう。100年前の出版ながら、いまだに今日的な意義を持つ小説である。


by Tomoichi_Sato | 2018-01-31 08:40 | 書評 | Comments(0)

サービス業の生産性と、プロ意識との関係について


久しぶりに首都圏に大雪が積もったので、いつもより朝早く起きだして、家の前の雪かきを、ささやかながら行った。既に空は晴れ上がって、少し働くと汗が出る。「雪の明日は裸で洗濯」と言う諺を思い出した。東京の下町、荒川生まれの人に教えてもらった言葉だ。関東では主に2月や3月に雪が降るが、降った翌日は良い天気になることが多い。

雪かきという仕事は相互的だ。お互いに、ちょっとずつ汗をかく。そうすると通り道ができる。隣の家がやらないんだから、うちもやらない、などと言っていた日には、街の中はちっとも歩けなくなる。家の前は公道なんだから、雪かきは行政がやるべきだ、なんて批評して待っていても、問題は解決しない。

まだ公共交通機関もうまく動いていないのに、積もった雪の轍を急ぎ足に出かけていく勤め人の人達も多い。どうしても時間通りに職場に着かなくてはならない立場なのだろう。サービス業的な職種の人達かな、とふと思った。とくに9時-17時といった時間枠を決めてサービスを提供する部門なのかもしれない。私の勤務先だってエンジニアリング会社だからサービス業だが、設計的な仕事はもう少し時間の融通が利く。

ユーティリティー的なサービス業の辛さについては、3·11の直後に「休めない人々」http://brevis.exblog.jp/14417945/ と言う記事で書いたことがある。ユーティリティーとは、電気・水・通信・交通など、常に供給されているのが前提となる、都市のインフラサービスである。

もともとサービス業の定義とは、リソースを提供する仕事である。『リソース』とは、仕事において必要とされ、その活動の間は占有されるが、活動が終わると解放されて、他の用途にまた再利用できるもののことを言う。金型・ツール・作業場所とはリソースである。コンピュータもリソースだ。また働く人も会社にとってのリソースである(Human resourceと英語では呼ぶ)。日本語では経営資源と呼ばれることもある。

例えばホテルは部屋と言うリソースを宿泊客に提供する。交通機関は移動手段を提供する。通信会社は回線を提供する。これらは皆、サービス業だ。また床屋や、マッサージ屋は人による作業を提供する。サービス業は大きく、物的リソースを提供するものと、人的リソースを提供するものに分かれる。

電力や水は、実際には消費されるが、常に供給され続けていつでも利用可能だと言う点で、こうしたリソースに準ずる。ユーティリティーがサービス業の一種なのも、この所以である。

こうしたユーティリティ的サービス業のつらさは、それがいつも提供可能であると利用者が信じているところにある。だから供給が途絶すると、ひどく怒られる。提供している間は、皆が当然だと思って誰も何も言わない。怒られはするが、感謝されない。そういう仕事だ。

特に最近は、消費者の立場になった途端、突然居丈高になる人も多い。お金と引き換えに、他人を気楽に批評し、一方的に要求する立場を、手に入れたと思っている。モンスター・クレイマーと呼ばれる人たちも増えている。それはわたし達の社会において、プロフェッショナル精神が衰弱していることの表れだと思う。売り手ではなく、買い手側のプロ意識が、である。

世の中には、単にその仕事で給料をもらっているから、「俺はプロだ」と思う人が沢山いる。だが、英語のProfessionalはもう少し条件が厳しい。通常、それは知的な仕事であって、それなりの教育と収入を伴う。たとえば医師とか弁護士とか、牧師とか、建築家とかだ。何より、高い職業意識を持つことが資格である。

でも、わたしはプロフェッショナルという言葉を、何も高収入の職業だけに限定するつもりはない。技術者だってお菓子職人だって、きちんとした職業訓練と能力をもち、プロ意識を持って行動する人が、プロフェッショナルだと考えている。

年末、都内でタクシーを拾って四谷駅に向かった。四谷駅は交差点にあるが、JRと地下鉄で入口が確か違っていたように記憶していた。そこで「丸ノ内線の四谷駅に行ってください」と頼んだら、運転手は「地下鉄に乗ったことがないので、駅が分かりません」などという。そしてJRの駅前におろされたのだが、そこから交差点を渡って回り道をしなければならなかった。

だが、そんな妙な言い訳があるだろうか。客の望むところに連れて行くのが、プロフェッショナルの仕事ではないのか。自分に小さな子どもがいなかったら、「○○小学校へ」と頼む客に、「分かりません」というのだろうか? 待ち合わせた連れ合いに、遅れた詫びを言い、タクシー運転手について文句を言ったら、「近頃はプロ意識がない人が多いの。ただ会社に使われるだけで、ちっとも将来に良いことがないから」という。思わずうなってしまった。

プロフェッショナルは、自分の職業的能力をつねに磨こうという意識をもつ。プロフェッショナルは単なるワーカーではない。ワーカーとは、言われた通りのものを作る人、言われたことしかしない人たちのことだ。またプロフェッショナルは、アーティストでもない。芸術家は自分が作りたいものを作る。プロフェッショナルは依頼に基づき、作るべきものを作る。ただし依頼に対して、自分の考え・意見を持ち、それを提案する。「言われたことだけやる人」の反対である。「やるべき事をやる人」といってもいい。

プロフェッショナルは、基本的にサービス業である。能力を売る人だから、当然だろう。特定のモノや成果物を売るのではない。医師は患者の回復を保証する訳ではないし、弁護士は顧客の勝訴を売る訳ではない。ただ、リソースとして、彼らの信頼するに足る能力を売っているのだ。どんな場合でも、つねに80点以上の仕事をする、というのがプロフェッショナルである。そこは、できばえにムラのある天才と違う。安定性と信頼を売っているのだ。

プロフェッショナルになるには、かなりの勉強と継続的学習が必要である。大学出であることが多いが、必須ではない。むしろ、社会に出てからの学びの方が大切だ。

そして、プロフェッショナルは、他の分野のプロフェッショナルを尊重する。なぜなら、専門知識というものの幅や深さを知っているし、一人前の職業能力を得るのがいかに大変か、熟知しているからだ。それを知らない人、プロ意識のない人ほど、他人の仕事に口を出したがる。わたし達の社会で、サービス業へのクレームが多くなる理由が、ここにある。

なお、元々、西洋の概念におけるプロフェッショナルは自営が基本だ。医師・弁護士・建築家など、皆そうだった。英米ではエンジニアという職種もプロフェッションの一種であり、実際カナダでは技術者は労働組合に入れない。ワーカーではないからだ。

だが現代では、専門性を持つプロフェッショナルの多くは、組織人である。たとえばエンジニアという職種は一人だけで仕事を完結できず、多の人たちとの協力連携が必要だ。まあオーケストラの音楽家のようなものだ。だが、このことが、いろいろな混乱の元となっていると、わたしは思う。たとえば、仕事はプロフェッショナルの流儀に従うのか、会社の慣習に従うのか。プロ意識が優先すべきなのか、それとも会社員の帰属意識が優先するのか?

プロフェッショナルの概念と行動規範(倫理)について、最初に議論したのはギリシャ人だったろう。それ以降、いろいろな要件があげられた。たとえば、次のようなことだ:

(1) 真実を尊ぶ(顧客に嘘はつかない。信頼が資本だから)
(2) 自分の美学を持つ
(3) 持論を持つ(思想とまではいかないにせよ)

こうした行動規範に従う代償として、社会的な尊敬を得るのである。そしてプロフェッショナルは自分の職能集団の、社会的な信用を守るのだ (自社を守る、ではなく)。

しかし、現代の企業には、経営思想にもよるが、「一部のスーパーリーダーが決めた仕組みに従って、ただ言われた通りのことだけやる人」を求める傾向がある。一方、プロフェッショナルは自分でやり方を工夫改良し、人にも教える。マニュアル通りにうごき、消耗したら部品のように交換可能な人、ではない。

単なるワーカーはプロフェッショナルではない、と書いたが、もう一つ、プロフェッショナルに程遠いのは、「お役人」である。ここで言う「お役人」とは、公務員と言う意味ではなくて、官僚主義者のことだ。常に権力や規則を振りかざして、人を従わせたがり、また序列の上に上がることばかりを考える。そういう官僚主義者は、民間企業にも多い。

彼らは2、3年ごとにポジションを変わって、ジェネラリストとして管理職に上がると言うキャリアパスを生きる。ふつう1つの職業的能力を得るのに、少なくとも10年はかかるはずだが、彼らはそうした成長への労力を、1つの専門分野につぎ込んだ経験がない。だから他人の能力に対する尊敬心も薄い。彼らが頼りにするのは、自分の能力ではなく、組織の中の自分の職位である。名刺の肩書きで仕事をしたがる。

「ワーカーになれ」というトップダウン式の淘汰圧力と、「上に行きたければジェネラリストになれ」という組織の論理にはさまれて、プロフェッショナルの領域は狭まってきている。プロフェッショナルを目指すとは、実は「業界で通用する人間になる」=「転職できるように自分の価値を上げる」だから、日本企業にとってはそもそも、両刃の剣なのだ。あまり皆に、プロ意識など持ってもらいたくないという気持ちが働く。

それでも、プロ意識を持ちつづけて仕事をする人たちだって立派にいる。彼らが、他のサービス業者に対して臨む態度は、平凡なワーカーやお役人達と、どこが違うのだろうか?

それは、「サービスとは相互的なものだ」との理解を持っている点である。サービスは、人的なものであれ物的なものであれ、信頼の上に成り立っている。その信頼は、じつはサービス提供者だけが責任を負うものではなく、相互信頼に基づくものだ。

サービスの利用者は、自分が何を望んでいるか、きちんと理解して、伝えなければならない。そうでないと、相手は適切に動けない。そして利用者は、自分の要求と、自分のやる行動とが、ちゃんと整合性・一貫性をもたなければならない。相手が口で言うことと、相手の手が求めていることが異なっていたら、何を提供すべきかわからないではないか。プロ意識のある買い手は、この点をきちんと心得ている。

そのような意味で、サービスとは協業なのである。売り手はプロフェッショナルとして、最良のサービスを提供する。買い手は、売り手の能力を最善に引き出せるよう、自分の過度な要望を制する。そして相手のやり方を尊重する。とくにサービスが不定型なものになればなるほど、相互性の度合いも増す。

サービスを買う側と提供する側は、対等である。この「対等」という概念も、現代ではとても誤解されやすい。対等とは、単なる「平等」のことではない。必要に応じて、フェアに、応分の義務を負うという意味だ。高速道路を利用するドライバーは、高速の運転ルールに従う。医師が指示したら、患者はそれに従う。金を払ったのだから、後は何をしても勝手だ、とドライバーや患者が考えるのは賢い態度ではない。もちろん、提供者は報酬をもらう以上、適切な品質の道路や治療を提供する義務がある。

道路や医師のたとえならば誰にも分かりやすいのに、設計や開発やユーティリティ提供などのサービスになると、すぐ忘れられてしまうのはどうした訳か。命じれば何でも出てくる、と思う人が増えると、サービス業全体の生産性が損なわれてしまう。それが、わたし達の社会の問題なのだろう。

サービスとは、いわば「雪かき」のようなものである。誰もが応分に、少しずつ汗をかいて歩み寄る。そうすることで、通じる道ができる。そのような形で、わたし達の社会のプロ意識を再興する希望を、持てるだろうか? 通勤に急ぐ人たちの残した足跡を見ながら、わたしは魯迅の言葉を思い出していた。

「思うに、希望とは、もともとあるものだともいえぬし、ないものだともいえない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には、道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」
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<関連エントリ>
 →「休めない人々」 http://brevis.exblog.jp/14417945/ (2011-03-12)


by Tomoichi_Sato | 2018-01-24 23:54 | ビジネス | Comments(0)

考え、気づく場としての空間を設計する


目を閉じ、頭を下げて腕組みをする。あるいは、逆に椅子の背にもたれかかって、足を組む。そして、しばらくじっとしている。ほとんど、居眠りをしているのではないかと、疑われるポーズだ。どうみても、働いている姿勢ではない。少なくとも、何かをしてるようには見えない。・・こういうことが、勤務先でのわたしには、ときどきある。

だが、こうした、傍目からは何もしていない(居眠りしている)ように見えるときが、じつは一番働いている瞬間なのだと、わたし自身は思っている。いや、別にクビにならないための言い訳をしているのではない(笑)。それは、自分が集中して考えているときの姿勢だからだ。

逆に言うと、自分がパソコンに向かって忙しくキーボードをたたいているときは、もうアウトプットの段階にいるのだ。あるいは、材料の整理の段階かもしれない。考えるときは、インプットの材料の整理が必要だ。そして、考えた結果は、アウトプットしなければ使えない。ただ、考えるプロセスそれ自体は、頭の中のできごとで、外からは見えない。

もちろん、人が考えるときの姿勢ややり方は、様々だ。部屋の中を歩き回らないと考えられない人もいる。背筋を伸ばし、首を伸ばして宙をにら人もいる。ただ、どういう姿勢でいるときが、自分にとって一番頭が回るか、自覚している方が良い。皆さんは、ご自分にとってベストな「考える姿勢」をお持ちだろうか?

ソフトウェア工学の大家トム・デマルコが、昔の友人のエピソードを、たしか『ゆとりの法則』に書いていたと記憶する。その友人は、ベル研究所の自分のデスクで、ある問題について、考えていた。アメリカ人の若い学者がよくやるように、足を机の上に投げ出し、椅子にそっくりかえって、込み入った数式の解決法を考えていたのだろう。すると彼の部屋にマネージャーが来て、「何をしてるのかね?」とたずねる。「え? 考え事をしているんです」と彼が答えると、その管理職は、

「考え事! そんなことは、家でしたまえ」

と叱りつけて、行ってしまったというのだ。その友人はあっけにとられたが、後年、研究職を離れて、会社を作り、かなり成功したという。まあ、研究所なのに、考えるのは家でやれと命じられたら、そういう気持ちになるのも無理はない。

この話を紹介しつつ、デマルコは、「時間的プレッシャーをかけても、人間は早く考えることはできない」という『リスターの法則』を紹介する。これは現代の、スピードと効率性重視の経営に対する批判でもある。人が考えるためには、集中できる時間が、ある程度持続して必要なのだ。集中して考える時間が与えられなければ、創造的なアイデアは生まれない。

ただし、アイデアを思いつくのは、机の前とは限らない。昔から、「馬上・枕上(ちんじょう)・厠上(しじょう)」という言葉がある。これらをまとめて「三上(さんじょう)」とよぶのだが、考え事をするのに適した場所、アイデアを思いつくのは、馬に乗っているとき(現代なら車の中か)、ベッドの中、そして厠(かわや=すなわちトイレ)の中だ、というのである。アルキメデスのように、風呂に入っているときひらめく、というのもあるだろう。わたし自身、かなり重要なアイデアを、出張先の新幹線のホームとか、台所で皿を洗っているときに、思いついた経験がある。

そういう意味では、考え事なら外でやれ、というデマルコの元・上司の発言も、完全に間違いとはいいきれない。ただし、事前の「仕込みの時間」がなければ、外を歩いただけでは思いつかないのも事実だ。

米国の広告業界で有名なクリエーターだった、ジェームズ・W・ヤングの『アイデアのつくり方』 は、薄いけれども非常に中身のある本だ。ヤングは、アイデアの作成技術は5つの段階がある、という。5段階とは、
(1) 資料を収集する(ヤングは、カードやスクラップブックの使用を推奨している)
(2) 資料を咀嚼し、断片的な思いつきを蓄積する
(3) いったん、問題を心の外に上手に放り出してしまう
(4) →ここで突然、真に価値のあるアイデアが生まれる
(5) 生まれたばかりの新しいアイデアを現実に適合させるために、吟味し展開する

ヤングはこの発想法のプロセスを、とても生き生きとしたエピソードで描いてみせる。有用なアイデアは第4段階で生まれるのだが、ここにいたるまでに、(1)〜(3)の準備段階を、丁寧に、かつ周到に行う必要がある。それぞれ、どういう注意が必要かは、同書をぜひお読みいただきたい。ただ、インプットと準備がないまま、漠然と腕組みして待っていたって、どんなインスピレーションも訪れないのは確かだ。

また、このようなプロセスを、組織がきちんと理解して『OS』化する方が、当然、企業の知的生産性は上がるだろう(組織のOSとは、体系化され習慣化された思考と行動規範のことを指す)。そもそも、知的生産性という事に関して、組織が関心を持ち注意を払って、施策をほどこしているかどうか。ただし、そうした施策はしばしば、人間のモチベーション研修や報奨制度など、ソフト面からのアプローチに偏りがちだ。でも、もっと別のアプローチもあるのだ。

随分前のことになるが、わたしの勤務先の大先輩から、ある顧客企業の話を聞いた。その企業は、東京近郊と、地方の学園都市に、二つ研究所を持っていた。東京近郊の研究所は、建物も小さく設備も古い。他方、学園都市の研究所の方は、もっと後から作られたのだが、広大な敷地に豊かな近代的設備を持っている。組織もでかく、若くて優秀な人も多い。

ところが、その企業の重要な新製品は、古くて狭い東京の研究所ばかりから、なぜか生まれるというのである。その先輩は、二つの研究所を実際に訪問し、何が違うのかを調べた。途中の詳細は省くが、彼がみつけた仮説は驚くべきものだった。それは、知的生産性の差は、建物のハードウェアにかなり依存しているというのだ。

古い研究所の建物は、実験設備と研究室がごっちゃに混在しているタイプのレイアウトだった。職員はその中を互いに行き交う。他方、新しい研究所の方は、近代的なアクセス・セキュリティの観点から、研究室は個室化され、また職員が自分の領域外に勝手に出入りできないよう、扉のロックがきめ細かく制御されていたらしい。もちろん、居室と実験室の動線もきれいに分離されている。

その結果、何が起きたか。古い研究所の方では、互いに異なる研究テーマを抱えた研究者達が、おもわぬところでばったりと行き会い、そこで議論や雑談が生まれる。他方、新しい研究所では、まるで団地のように、通路はあれどすべて個室はドアで閉ざされていて、思わぬ出会いのうまれる余地がない。このことが、新製品開発の知的生産性を、左右しているのだろう、というのだ。

その先輩は、論拠として、MITのトマス・アレンの研究成果を引用していた。トマス・アレンはMITのビジネススクールの教授で、製品開発プロセスについて長年研究した人である。彼は元々、航空機会社のリサーチ・エンジニアだったが、ビジネススクールに通って、どうしたら開発の生産性を上げられるかを学ぼうとした。ところが当時の経営学には、そうした問題への答えがないことを知って、みずから研究に取り組んだのである。

トマス・アレンが注目したのは、人と人とのコミュニケーションであった。アイデアは、異質なものの組み合わせで生まれる。このことは、以前から知られていたし、上記のヤングの本も指摘している。である以上、研究開発におけるアイデアの創出には、人と人のコミュニケーション量がかかわっているだろう、とアレンは推測した。彼は実際に、数多くの企業において、コミュニケーションの頻度調査を行った。

その結果、アレンが見いだしたのは、「30m理論」とよばれる法則性だった。簡単に言うと、組織内でのコミュニケーションは、人と人が実際に物理的にどれだけ離れているかに、かなり依存するのだ。頻度はちょうど惑星の引力のように距離とともに減少していき、30mを越えると、かなり無くなってしまう。

それは昔の研究だろう、今は電子メールがあるから違うはずだ、と思われる方もいるかもしれない。アレンはちゃんと、その問題もフォローしている。そして、「対面のコミュニケーションが少ない相手とは、電話や電子メールのやりとりも少ない」という統計的法則を見いだしている。不思議なことに、人間は、物理的に近くにいる人と、しゃべりたがるのだ。オフィシャルな用件の多い少ないにかかわらず。

そこから導かれる方案とは何か。それは、人の知的生産性を活性化したかったら、人と人が出会うように、組織と空間のあり方を工夫すべきだ、ということである。組織をへたに分断すると、一種のみえない壁をつくってしまうことは、よく知られている。しかし建物の中にある、物理的な壁も、けっこう人と人とを分断するのだ。経営学はこの点を見落としていた。

では、一切の壁を取り払って、全部大部屋にすれば良いのか。話はそう単純ではない。建物の構造や空調、そして実験室など部屋の機能に応じて、どうしても壁は作らざるを得ない。と同時に、人には考え事に集中できるための、雑音から切り離された空間も必要である。

集中できることと、人との出会いの機会を、どう両立させるか? ここに建築設計の知恵が登場するのである。トマス・アレンがドイツの建築家グンター・ヘンと共同で執筆した『知的創造の現場―プロジェクトハウスが組織と人を変革する』には、そうした建築上の工夫がさまざまに紹介されている。

たとえば欧米はどうしても個室志向が強く、下っ端の内は大部屋でも、リーダークラスになると2人部屋、管理職には個室、という慣習をよく見かける。しかし、個室の前面に広いガラスを用いて、静寂だがオープンな雰囲気を作ることはできる。そもそも大部屋でも小部屋でも、見渡した時「あそこに誰某君がいるな」と視認できることが、コミュニケーションを活性化する上で、大切なのである。また、人と人とが出会って立ち話ができる、導線のコーナーのような場所を作ることも大事だ。

グンター・ヘンはBMW社のために、新製品開発センターである「プロジェクトハウス」も設計している。この建物は、通常のオフィスの居室が各フロアの周囲にあり、中心部分に向かう通路がスポークのように通じている。その中心部分のスペースには、現在開発中の新車種のモデルなどが置かれており、それを見ながら皆がディスカッションしたり雑談できるようになっている。こうした建物は、従来のただ真四角の箱のような研究所とは、違った活性を持つように思える。

彼は工場にも同様に、人が他の部署の人やモノにふれあえるレイアウトを作っている。チェコのシュコダ社の自動車工場は、2本並行して走る組み立てラインの中央に、技術部門や管理部門のオフィスが並んでいて、つねに工場の製造現場を見ながら仕事できるようなレイアウトだ。こうした発想は、「現地現物主義」を標榜する日本の自動車会社にも、見かけないように思える。
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スコダ社のチェコ自動車組立工場
(T・アレン、G・ヘン「知的創造の現場」ダイヤモンド社 (2008)より引用)

「生産性革命」という掛け声が、世の中を駆けめぐっている。生産性にはいろいろな切り口があるが、創造的なアイデアの創出は、大事な尺度である。そして、その中の、意外に大きな部分を、執務空間のあり方が決めていることを、もっと多くの人に知ってもらいたいと思う。アイデアとか、イノベーションといったことは、まだ誰も知らないことを生み出す行為だ。だからそれは計画できないし、知的創造性は一切のマネジメントを拒絶する、と信じている人も、時折見かける。しかし、それは組織や建築空間の工夫によって、ちゃんと向上させることができる。

といっても、何もわたしは、知的生産性を上げるために、建物をつくりかえろと主張しているのではない。机と人の配置やパーティションの選び方でも、改善できる部分はたくさんあるのだ。ただ、一人ひとりが自分に会った熟考の姿勢を体得すると共に、組織も知的生産性を意識して、ちゃんとOS化することが大切だと申し上げているのである。












by Tomoichi_Sato | 2018-01-15 23:48 | 考えるヒント | Comments(0)

シンプル化のすすめ

最近、勤務先のPCの環境を移行・再構築せざるを得ない機会があった。まあ、一種のお引越である。面倒な作業だが、このチャンスに、少しファイルやアプリの整理をはかろうと思った。PCを数年間も使っていると、いつのまにか、ローカル環境にも、不要なもの、使わなくなったものが溜まってくる。引越は、ゴミ捨ての良い機会でもある。よし、デスクトップもクリーンにしよう。自分の環境は、できる限りシンプルにしよう。そう、考えている。

いろいろな事を、シンプル化したい。最近はそういう気持ちが強くなった。その方がすっきりして、精神衛生にも良いし、集中できるからだ。

わたしは元々、整理整頓・お片付けがそれほど得意ではない。机の上は、ほっとくとすぐ乱雑になってしまう。読んだりファイルしたりしなければならぬ書類が、どんどん積み上がっていく。そのあげく、書類探しで余計な時間を費やすことになる。忙しいから書類整理の時間がとれない、と自分では思っているのだが、その結果、生産性が下がって、さらに自分を忙しくしているのだ。こういうことを何年間も繰り返し、さすがに「このダウン・サイクルから抜け出すべきだ」と思った。

一つのきっかけは、ある方からのEメールだった。

わたしは経営企画部門の仕事をしているため、回ってくるメールの情報量が多い。わたしでこれなら、本物の経営トップの所には、さらに大量のメールが入ってくるに違いない。

ところで、昨年、ある日本でも指折りの大企業のトップに、直接メールする機会があった。そうしたら、数時間以内に当人から短い返信が返ってきて、度肝をぬかれた。当然、秘書経由で2〜3日後に返事があるんだろう、と想像していたからだ。

その後、ご本人に実際にお目にかかる機会があったが、その頭の回転の速さ、視点の戦略的なことに、また印象づけられた。だからこの会社は、低迷する同業他社を尻目に、業績を伸ばしているのだろう。それにしても、本当に仕事ができる人は、ボールをすぐ相手に打ち返して、自分のコートに止めておかないのだだな、と思った。それなのに、はるか格下のわたしが、何日も遅れて返事するのは、まことに恥ずかしいと肝に銘じた。

そこで、最近わたしが取り組んでいるシンプル化のやり方を簡単に記しておこう。けっして偉そうなことは言えないが、多少なりとも読者諸賢の参考になるかも知れない。

まず、モノのシンプル化である。

自分の持ち物は、自分なりに、ずいぶんと減らした。自分が好きで、大事なものだけを手元に残すように心がけるようになった。たとえばワードローブには、自分が気に入った服だけが並んでいる。引き出しには、いつも使う気に入りの文房具だけが入っている。こういう状態が、理想だ。

ベストセラーになった近藤麻理恵・著「人生がときめく片づけの魔法」には、不要なものを捨てる際のテクニックが、いろいろ書いてる。この著者によると、片付けの際は、自分が持っている服を、全部、床の上に並べろ、という。つまり在庫を一望できる状態に「見える化」するのだ。服全部だと多すぎる場合は、カテゴリー単位に、たとえばシャツなり上着なりを、全部棚から出してきて並べる。その上で、一つひとつ手にとって、「ときめく」かどうかを感じろ、という。ときめかなくなったものは、感謝した上で、捨てろというのだ。いかにも感性が女性的だが、とても面白い。

自分もそれにならって、いくつかのカテゴリーについて思い切った整理を行った。さて、モノが減って少なくなると、なんにもしてないのに、自然と部屋の中が整った形になってくる。これは思いもよらぬ効果だった。

実際、いろんな沢山のモノに囲まれている生活よりも、大切な少数のものを長く使う方がカッコいい。学生の頃、聞いた話がある。ヨーロッパの人は、たとえば毛皮のコートなど、仕立て直して長く着続ける。ときには、親から子に引き継ぐのだという。その後、西欧の街で短いながら暮らす機会があったが、周りを見ていると、たしかにそんな感じがあった。

本当に良いものは、長く使える。値段が多少高くても、引き合う。だから質素な暮らしぶりの人達でも、仕立ての良い服を着ている。環境派の人はリサイクルなどを盛んに言うが、それよりも、長く使える良いものを買う方が地球に優しい。すごく安いけど、買ってすぐダメになってしまう衣類を手に、出張先でため息をついた。

ただし、シンプル化の目的は、整理整頓ではない。見た目が整うことは、むしろ副次的な結果だ。けっして、美意識のためにやっているのではない。また、通常思われているように、シンプル化できるかどうかは個人の性格の問題でもない。片付けられない奴はダメな奴だ、という風には、わたしは思わない。台所はゴチャゴチャだけど、ため息が出るほど美味しい料理を出す人だっている。美観の問題ではなく、その人の大切なモノがちゃんとすぐ出てくるようにすることが、目的なのだ。つまり、シンプル化は生産性向上の問題である。

まとめよう。
(1) モノを整理するときは、カテゴリー単位に在庫の全貌を見てから取捨選択する
(2) 気に入った良いものだけに囲まれて暮らす
(3) モノが少なくなれば、必然的に部屋は整う

モノの次は、タスクのシンプル化だ。昨年わたしはシカゴに行ったときに、有名なLeo Babuta氏のサイト"ZEN habits"を読み、あらためて作業をシングルタスク化して、単純化することの大事さに感銘を受けた。("Creating the Elegance of Simplicity & Focus in Your Work Day” https://zenhabits.net/elegance/
Leo Babutaの教えは、単純だ。
・一度に一つのタスクだけに集中する。できれば10〜15分間は中断せずに。
・PCでもスマホでも、一つのアプリだけを立ち上げる。気が散らないようにするためだ。
・ブラウザのタブも、一つを残して閉じる。もし必要ならば、ブックマークしておく。
・メーラーも、メールの読み書き以外をしているときは、閉じる。

メーラーについては、わたしもかつて「メーラーを閉じろ」(2008-10-18)なる記事を書いたことがあるので、同感だった。だが、Leo Babutaの徹底ぶりは、はるかに上をいっていた。ブログには、彼のiPhone画面がのっているが、その何もないシンプルさには驚嘆した。

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彼の場合、アプリは全部、一つのフォルダの中にしまってある(それは別の頁においてあるので、画面には見えない)。ではアプリの起動はどうするかというと、検索画面から起動するのである。iPhoneでは、フロントページから1スワイプで検索窓が出てくるし、最近使ったアプリのアイコンがその下に並ぶ。だから実際やってみると、複数の画面をめくっていくより、ずっと簡単で早い。

比較のために、普通のiPhoneのホーム画面をのせよう。誰のiPhoneかは、ご想像にお任せする(笑)。残念ながら、なんとゴチャゴチャしていることか! この手のアイコン・タイルが、さらに数画面も続くのだ。
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つづいて、Eメール処理のシンプル化にも取り組もう。モノのシンプル化に比べ、メールや書類は情報だから、取り組みがやっかいだ。

まず、毎日送りつけられてくる大量のダイレクトメールは、極力、すべて購読を止める。毎日、いちいち仕分けして捨てる手間とイライラを考えれば、元から絶つ方が得だ。

つぎに、メールはタイトルやプレビュー画面をざっと見て、以下の3種類に仕分ける:
A. アクションや返信が必須のもの
B. アクションはいらないが、仕事上、必読の情報を含むもの
C. 参考的な情報

BとCは、それぞれ「必読」と「後で読む」のフォルダに移す。インボックスに残るのは、Aランクのものだけだ。一つひとつ開けて、すぐにアクションをとる。開けたメールは、しかるべきフォルダに移す。こうして、インボックスは、極力、きれいな状態にしておく。

すぐ返信できないような内容のメールは、いついつまでに回答します、とまず返信しておいて、自分のToDoリストに期限付きでタスク化する。この方が、何も言わずに数日たってからアクション結果を返信するより、ずっとシンプルだし、相手にも感じが良い。

ここでのポイントは、ToDoリストの利用だ。メールボックスというのは、実は一種のタスクリスト(=ToDoリスト)である。そこには読むべき未読メールと、返信すべき既読メールが、着信時間順に並んでいる。だが、自分にとっての優先度順には並んでいない。ここが不便なのだ。

ところで、拙著『時間管理術 (日経文庫)』にも書いたとおり、ToDoリストをきちんと回す最大の秘訣は、一つのリストに集約することである。いくつものタスクが、複数の異なるリストに入っていたら、自分がやるべきタスクの全貌が見えない。だから仕事上であれプライベートであれ、すべてのToDoを一つのリストに集約する。自分には、1日に24時間しかないのだから、当然である。

ここでも、「持っているタスクの全貌を見えるようにする」が秘訣だ。タスクを全部、ToDoリストの形で、見渡す。それを優先度順に並べ替える。そして最重要なタスクから、一度に一つずつ、取り組んでいく。ToDoリストに転記する手間が面倒に思えるが、得られる効果の方がずっと大きい。

なお、Bランクのフォルダに移した未読メールも、それを読むタスクを定期的にToDoリストに入れておく。時間は30分から、1時間程度にとどめる。Cランクのフォルダは、気が向いたときに読めば良い。

まとめよう。
(1) 一度に一つのタスクに、集中する。最低でも10〜15分間は。
(2) 集中できる環境を作るため、余計なアプリは閉じる。メーラーの通知機能もオフにする。
(3) メールはToDoリストを併用して優先度をコントロールし、読んだら極力その場で返信する。

くどいけれど、シンプル化の目的は、美学でも整理整頓でもない。知的生産性を向上させることにある。なぜ、知的生産性を上げたいのか。それは、「落ち着いて考える時間」を手に入れるためである。


<関連エントリ>
 →「メーラーを閉じろ」http://brevis.exblog.jp/8779827/(2008-10-18)


by Tomoichi_Sato | 2018-01-08 21:00 | ビジネス | Comments(0)