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物語の力と、その危険性

「ニネヴェの街に行くには、この道でいいだろうか?」

靴職人のヨナが目を上げると、見知らぬ旅人が立っていた。旅人の服は奇妙なことに、上から下まで縫い目が一つもない。ヨナがこの道だと答えると、旅人は謝礼を手渡し、消えるように去る。見ると銀貨十枚だった。思いがけぬ臨時収入を得たヨナは、仕事を切り上げ、滅多にいけぬ上等な酒場に行くが、汚れた仕事着のままの彼は、すぐ店を叩き出されてしまう。

ヨナは仕方なく古着屋に入り、仕事着の代わりを探す。すると古着屋が出してきたのは、たった今旅人から買ったという、縫い目のない衣だった。ただならぬ予感を感じながらその衣をまとい、酒場で泥酔したあと道にへたりこむヨナに、真っ暗な闇の中で神の声が幻聴のように聞こえてくる。

「立って、かの大いなる街ニネヴェに行き、よばわりてこれを責めよ。40日にしてニネヴェは亡ぶと・・」

−−『エホバの顔を避けて』(丸谷才一・著)の物語は、こんな風にはじまる。元になっているのは、旧約聖書にある「ヨナ書」である。この預言書は短いが、珍しくも神と預言者の相克を描いて、古来多くの作家の想像力を刺激してきた。

預言者とは「神の言葉を預かった者」の意味で、占いの予言者とは違う。ヨナ(英語読みはジョナ)は、堕落した大都市ニネヴェ(現在のイラク、モースルの近く)に厳しい審判を告げる言葉を託されるが、「そんな大役は荷が重すぎる」といって神から逃げ回る。そのあげく海で大魚に飲まれ、三日三晩その腹の中にいて吐き出され、ようやくあきらめてニネヴェに赴く。破滅の予告をのべ伝える者が、歓迎される訳はないと覚悟しつつ・・

預言という仕事は、変哲もない普通の人間が突然、神に呼ばれて、託される。預かるのはしばしば糾弾、世の人びとが聞きたくもない正義の糾弾である。かくて預言者は、世と対立することになる。ヨナが怖れたのはこれだ。英雄的でも何でもない普通の個人が突然、大いなる意思によって劇的な運命に巻き込まれ、日常から引き離されて、重すぎる任務を負って生きなければならない。ヨナ書が浮き彫りにしたのは、このようなストーリーの祖型であった。

良くできた物語は、人の想像力を強くかきたてる。わたしはこれを「強い物語」と呼んでいる。西洋人にとってはヨナ書の他に、モーゼのエジプト脱出だとか、キリストの受難などがある。シェークスピアの書いたハムレットも、強い物語なのだろう。我々なら、義経の逃亡や信長の戦記、あるいは忠臣蔵といったところか。こうした物語は、個性の強いキャラの配置と、カラフルなエピソードが連なり、随所にテーゼや教訓がはさまれている。

強い物語からは、多くの二次創作物が生まれる。上の小説もその一つで、縫い目のない衣を着た旅人云々は、丸谷才一の創作である。物語は人間の感情に訴えかける力を持っている。

さて、子どもを育てて分かったことが、一つある。それは、人が育つには物語の力が必要、ということだ。子どもやティーンエイジャーのころ、まだ定まらずに危うい自分を支えるには、自分を物語の登場人物に擬することが必要になる。男の子がスーパーヒーローもののTV番組を好みのはそのためだ。また女の子が、普通の主人公が光り輝くロマンス物語を好む(じっさいに育てた事がないので想像だが)のも、そのためではないか。

これは、社会に出てからも同じである。いや、むしろ、人が育つ時間は大人になってからの方が長い、ともいえる。厳しい世の荒波の中で、自分を支え、自分を励ますために、物語の力を援用する。それはなかなかすぐれた方法だろう。そのためには、多くのすぐれた物語を自分の中にストックするべきだ、との意見も聞いたことがある。なるほど。それなら、頭に映像まで浮かぶような物語の方がいいだろうとも思う。

物語は人間の心の栄養である。だから人を引きつける。そして、本当に奥深い真実は、神話的な物語を通じてでなければ、他人の魂に伝わらないことがある。

良い物語は「多層的」であり、象徴的である。たとえば主人公の多くは、複数の使命の葛藤の中に投げ込まれる。ハムレットも、ヨナの物語もそうだ。また物語は、それ自体がファンタジーであることを示すことがある。父王の亡霊や、ヨナに下る神の声のように、異界との結びつきが一瞬現れるのである。そして、 無関係な偶然と思われたエピソードの点と点が、最後につながって必然を示したりする。

それと同時に、物語は、自分が出会うできごとを理解するための、型紙(パターン)であもる。引きこもって部屋から出てこなくなった高校生の一人娘のために、日が消えてしまったように暗い家庭の話を聞いて、それは「天岩戸の物語」だなあ、と思うようなものだ。娘さんは家族の太陽だったのに、急に隠れてしまったのだ。彼女にショックを与えたのはどこの素戔嗚尊なのか。彼女が出てくるためには、どんなアメノウズメが必要なのか。物語による「見立て」は、すぐにはのみ込みにくい事柄を、あてはめて理解するための補助線なのである。

ところで、物語にはこのような力があるのだが、逆に危険性もある。それは、出会ったできごとを何でも、手近な物語の型紙、貧弱なテーマにあてはめて、理解しようとする傾向である。こうした傾向は、メディアの報道でも、ネットの解説でも横行している。

ある人が、会社で新しい取組みをはじめた。うまく回り始めたので、メディアの記者の取材に応じた。ところができてきた記事を見ると、180度違うとまでは言わないものの、45度くらい方向性の違う話になっている。メディアは広報機関ではないのだから、必ずしも自分たちの意向に沿った話にならないのは、その人も承知している。だが、なぜ言ったはずもない別の要素が(この場合はAI系技術の応用だったらしいが)付け加わっているのか? 記者が、相手の話を聞く際に、「AI技術で生産性アップ」といった、自分の中で慣れ親しんだ物語に当てはめて、解釈してしまったのではないか。

ものごとを、手垢のついた物語のテーゼにあてはめる。そうすれば、頭の節約になる。かくして、こういう話は際限なく増えていく。手近な物語の原型とは、たとえば:
- やる気さえあれば何だって可能である
- 魔法の道具を手に入れたら問題は解決する(→AIなんかはこのバリエーションだ)
- 組織のパフォーマンスはリーダーが決める
- 人は競争させれば良い結果を出す
といった信憑である。

別の例を挙げよう。これは最近ネットで読んだ記事の冒頭である。特定の記者を批判するのが目的ではないから、メディアの名前は伏せる。

「日本の産業界を暗雲のごとく覆ったバブル崩壊後の「失われた20年」において異彩を放つ進撃を続け、A業界で世界最大手に飛躍したX社。長く辣腕を振るってきたY社長が率いる経営陣は過去最高益を連続更新しても気を緩めることはない。米国でグローバル生産を加速する巨大なモデル工場を稼働させ、得意の買収でZ事業を強化するなど攻勢を仕掛ける。・・」

これで中立的報道なのだろうか。自分の目には、スポーツ新聞の出だしのように見える。スポーツ紙は(はっきりいって)報道よりも、ファンに対する読み物、物語の提供を重んじる。企業欄の読者は本当に、散文的で退屈な事実の報告よりも、感情的で血湧き肉躍る物語を求めているのだろうか。まあ、解説記事はしょせん読み物だ、客観性よりも面白さだ、というポリシーならそれはそれで良い。ただ、それを手がかりにして、投資を計画したら危うい。

こうした傾向が広まると、客観的な趨勢や、統計分析可能な傾向も、すべて「人格のドラマ」「戦(いくさ)の物語」だけで解釈される危険性がある。以前、ある商業系コンサルタントに、外食産業に関係する情報源となる参考書をたずねた。しかし、その人が教えてくれたのは、経済作家の書いた小説だった。わたしは客観的な「データ」をたずねたのに、この人は「物語」を答えたのだ。リーダーたちの物語で、チェーン店の店長たちならば鼓舞できるかもしれない。だが、それを手がかりにして、セントラルキッチンを設計できるだろうか。

自分が出会うできごとに対して、手元にあるテーゼや物語で解釈することを続けたとき、その結果として何が生まれるだろうか。「ああすればこうなる」という分かりやすい物語から、何か学びを得るだろうか? 自分がすでに「知っている」信憑が強められるだけではないか。自分に励ましや慰めは得るが、できごとを見て、はっと我に返ることがなくなる。そういう単層的な情報をいくら得ても、学びにはつながるまい。

ヨナの物語は、「ああすればこうなります」という単純なテーゼを示しているだろうか? たとえば、善行をすれば幸せになれます、という話だったろうか。神様をそんな、善行をインプットすれば恩寵を出してくれる、自動販売機のようなものに描いているだろうか。そういう単層なテーゼの行き着く先は、「俺は偉い」という単純な物語ばかりで敷き詰められた人生だ。そんな物語にとって、他者は(つまりあなたやわたしは)、使い捨てのザコキャラになってしまうだろう。

問題の根源は、現代のわたし達の想像力が痩せてしまっていることにある。それが、単純な物語性に頼る知的衰弱を生んでいる。想像力は世界観を立体的にする鍵である。わたし達はもっと、多層的で、単純でない出来事に直面する勇気を、もたなければならないんじゃないだろうか。単純な物語に還元せずに、丁寧に点と点を追うこと。仮説を得たら一つひとつ検証してみること。そうして、少しずつ想像力を磨き上げること。これはなかなか手間のかかる、面倒くさい作業である。

だが、そうしないと、本当に豊かな「良い物語」には近づけないのだ。良い物語がなかったら、誰が自分の天命を知ることができるだろうか。

天命を知るとは、自分の物語を生きることなのだから。



by Tomoichi_Sato | 2017-07-30 23:50 | 考えるヒント | Comments(0)

職人の国の生産性を上げる、最良の方法

3月に新潟に行った際、宝山酒造(http://takarayama-sake.co.jp)という会社を訪問した。規模としては零細に近い造り酒屋だ。一応、工場見学、というか、仕込みと醸造の場所を見学させてもらった。平屋の木造で、いかにもゆかしい「酒蔵」である。それから、こうした見学のつねとして、畳敷きの小上がりの部屋に案内され、いくつか試飲させていただく。わたしはお酒に弱いたちで、日本酒の目利きなどでは全然ないが、それでもなかなか美味しいと感じた。

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試飲させてもらいながら、酒造の来歴の説明をうかがう。どこから杜氏を呼び、どんな努力の結果、満足のいくお酒ができるようになったか。また同じ酒蔵の製品でも、高級な純米大吟醸から普及版の醸造酒まで、どんな特色と違いを出しているか。小さな会社でも企業努力の種類は大手と共通している。たしかに大吟醸の虹色めいた香りの広がりから、醸造酒の新潟らしいきりっとした味わいまで、比べて飲むと面白い。

もう一つ、非常にユニークで面白いと感じたのは、「ひと飲み酒」と呼ぶ、200mlの小さな化粧ガラス瓶のパッケージである。これを2本でも3本でも、セットで買うと、黒い洒落た紙箱に入れてくれる。見かけがとても都会的になって、部屋に並べておくだけで見て楽しいし、また酒飲みでない人間にとっては、1升だの4合だのを買うよりも、ずっと手が出しやすい。とても上手なパッケージングだと感じた。

小さな造り酒屋ながら、秀れた杜氏の職人仕事に加えて、顧客のニーズに応えた製品のラインナップ、そして洒落たガラス小瓶のデザインによる、自由な小口組合せ販売など、経営上の工夫をこらしていることに感心した。かえりに自分用に買ったばかりでなく、世話になった方へのギフトにも良いな、と思いつつそこを辞した。

同じその日、新潟市の大きな展示会場では「新潟 酒の陣」と呼ばれるイベントが開催されていた。新潟中の造り酒屋が何十社もブースを構えて、自分の製品を試飲販売している。2千円の参加費を払うと、小さな試飲用のガラスのお猪口を渡されて、ブースごとに回ることができる。わたしはじつは同じ日の午前中、仲間に誘われてそちらの会場にも顔を出したのだが、なにせお酒に弱いので、せいぜい5社くらいのブースをたずね、あとはぼんやり会場を眺めていた。
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眺めながらつくづく、「日本は職人の国だな」と思った。新潟の酒造はほとんどが中小零細規模である。そこが、それぞれ自分なりの思い入れを込めて麹を仕込み、酒を造る。そして自分が手塩をかけて作ったモノに対し、情熱とこだわりを持っている。味、香り、色、のどごしなど、自分の眼・舌・鼻・手の五感をフルに動員してこそ、良い結果が生まれる。つまり酒造り職人としての技能と、製品の品質が直結するのだ。

そう。職人というのはとても素晴らしい、尊敬すべき生き方である。わたしは高度な職人仕事には、無条件で感服する。心技体そろわなければ、優れた仕事はできない。ただ、そうした職人としての生き方を全うできるためには、何が必要なのか。

さて、いつものことだが(苦笑)、話は急に飛ぶ。先週、ある会合で「日本企業の生産性の低さ」が話題となった。この種の統計は世の中にいろいろと流通していて、たとえば日本生産性本部の2016年の統計(http://www.jpc-net.jp/intl_comparison/)によれば、日本はOECD 35カ国中22位であり、また順位も低下しつつある、という。とくにホワイトカラーの生産性の低さはほぼ定説のようになっていて、いつもやり玉に挙がっている。状況を改善するために、働き方改革の政策などが、声だかに唱えられている訳だ。

だが、それは本当なのか? というのが皆の論点だった。そんなに日本企業の生産性は低いのか? じっさい、製造業の過去20年間の労働生産性の伸び率だけを取り出せば、G7諸国の中で日本は1位だという統計もある(https://www.bloomberg.co.jp/news/articles/2017-04-25/OOYJ9G6JTSEI01)。製造業はよくやっているじゃないか。問題なのは流通・サービス業だ、という訳だ。ただしこれは20年間の伸び率であって、たしか現時点での数値はG7中の6位である。下にいるのは経済危機のイタリアだけだ。

「他の先進国は、移民などの安い労働力を使ってうまく稼いでいるだけなんじゃないか」という人もいる。だが労働生産性の数字というのは、賃金を差し引く前の、一人あたりの付加価値を示している。ここから賃金を引いた残りが、簡単に言うと企業の収益の源泉になる。だから賃金が高いか安いかは、定義上、関係ない。

「いや、地域でも業種でも差があるのに、そもそも平均値をとって国際比較すること自体に意味があるのか」という反論もある。でも、日本の平均値が過去、さっぱり伸びていない事実とはどう向き合うのか? そもそも、偏りのある分布に対する平均という操作自体が問題だとしたら、統計自体に意味がなくなってしまう。工場単位の平均を見ることすら、できなくなるだろう。

また、「品質の差を無視して生産性を比較するのはどうか」という意見もきくことがある。日本の製品は他国より品質が高い、と自信を持っているのだろう。しかし、品質が低ければ普通は価格も安く、付加価値は小さくなるのが道理である。付加価値の中には、品質の要素も込められているというのが、ビジネスの常識だ。

念のために書いておくが、上に論じた「生産性」とは、付加価値労働生産性のことである。それは、企業活動が生み出す付加価値の総額を、それに従事する人の数で割って得られる値だ。日本の場合、最新の値は一人あたり年間783万円という数値になる。ここから賃金を引いた残りが企業の利益の源泉である。あるいは、時間あたりで計算する場合もある(国際比較の場合、そもそも年間労働時間がかなり異なる)。日本は4,439円である(日本人は一人年間1,764時間働いている計算だ)。ただし国際比較をする際には為替の問題が出てくるため、購買力平価のような指標で較正したりする。

そして、国のGDPとは、その国で生み出した付加価値の合計である。経済成長はGDPの増加率で測る。日本の勤労人口はほぼ横ばいだから、経済成長したければ労働生産性をあげるしかない。これが理屈である。

くどいけれど、国際比較の文脈でいう「労働生産性」とは、一人あたり付加価値額のことである。別に労働者一人あたり製品を何台作れるかでもなければ、プログラマが一日何行コードを書けるか、でもない。ここを誤解している人がとても多いので、あえて書く。杜氏が一人あたり、何升のお酒を造れるか、ではない。その酒屋が生み出す付加価値額(=ざっくり言って、販売金額マイナス原材料費)を、杜氏も売り子も事務方も含めて、働いている人の数で割った数字が、その酒屋の労働生産性なのだ。

 労働生産性 = 付加価値額 ÷ 従事者数 =(販売金額 − 原材料費)÷ 従事者数

である以上、労働生産性を大きく上げるためには、販売金額を上げる、すなわち製品を高く売ることが必須であると分かる。もちろん生産量自体を増やすのも、もう一つの手段だが、ふつうは人を増やさなければなるまい。一人が一日あたり作れる製品の台数、書けるコードの行数、仕込める酒の量は、急には増やせないからだ。また原材料費を下げるのも第三の手段だが、これはもう限界があるし、それでも無理に下げたら品質劣化にはねかえる。そうなったら付加価値など、元も子もなくなる。

日本の労働生産性が低いのは、生産に従事する人達の働き方がわるいのではない。儲けるのが下手なのだ。それがわたしの解釈である。一応、国際的なエンジニアリングの世界で長年働いてきた身としていうが、欧米のライバル企業で働くエンジニア達と、個人単位で能力にさしたる差があるとは思えない。製造業とて、同じだろう。それなのにもし、国際比較で生産性が低いのだとしたら、それは儲け方が下手なのだ。ドイツの工場を見学した話は前回書いたが、日本の同種の工場とそれほど大きな違いがあるとは思えなかった。違うとしたら、どこで価格競争から脱するかが、違っているのだ。

職人が安心して仕事に精を出せるのは、作ったモノが売れていき、それがきちんと利益を出して、ちゃんと職人の給料にかえるときに限られている。作っても売れず、売れても利益が出なければ、誰がよろこびを持って働き続けられるだろうか? 

日本が職人の国だと言うことは、つまり作り手の国なのだ。作ることはよく知っている。そして上手にできる。だが、有能な商売人が足りない。これがわたし達の社会の病である。足で稼ぐセールスマンは多くても、知恵のある有能な商売人が不足なのだ。必要なのは「働き方改革」などではなく、「儲け方改革」なのである。

冒頭の宝山酒造の例を思い出してほしい。良い酒を造ることは大事だ。それは必要条件だが、十分条件ではない。製品のラインアップを確立し、ボトルや商品デザインにも工夫を凝らし、ネットでも注文を受ける仕組みをつくって、はじめて企業として安定するのである。そうしたことは、杜氏だけが考えるべき仕事ではない。

職人の生産性を決めるのは商売人である。なぜなら、付加価値の大きな部分を決めるのは、売るための仕組みだからだ。もっとも商売人も職人の協力が不可欠である。ライバルと品質も性能も原価も劣るようでは、売りようがない。つまり、販売と生産がきちっと統合して回る仕組み(システム)が必要なのだ。

酒造りや工場の労働に限らない。以前から書いているように、日本には職人的な仕事の領域、職人マインドで仕事をする技術者はとても多い。ソフトウェアなどその典型だろう。日本のIT業界がふるわないのだとしたら、それは技術力の低いプログラマのせいではない。もちろんプログラマが働かないせいでもない。プログラムの機能を顧客価値に変えて、お金を儲ける仕組みを構想できる経営者が、欠けているからなのだ。

もしもちゃんと儲けたかったら、どうすべきか。当然のことだが、人と同じ事をやっていたらダメだ。必ず、価格競争に持ち込まれる。他人を見習い、他社の後をついて行ってはダメだ。他人が思いつかないことをしなければならない。競争の果てにとった個別仕様の受注設計生産なんて、労力多く利益少なしだ。同じモノを作って売る方が効率が良いに決まっている。もちろん、個別仕様品それ自体はなくなるまい。だったら、少ないモジュールの組み合わせで、幅広い使用のバリエーションを生み出せるようにすべきだ。何より、顧客のニーズをリードしないで、どうやって高い付加価値が得られるのか?

本当にきちんと生産と販売(と開発)とが統合された仕組みをもてれば、その市場でオンリーワンの製品を作り、店の前には客が行列を作るはずだ。無理な安値競争の必要はなくなる。「三社相見積もりで」などという顧客には、「どうぞ他所でお買いください」とお引き取りを願う。こうでなければ、高い付加価値など生まれるだろうか。

では、仕組みという見えないもの(こと)を作るのは誰か? それに必要な資質は? 教育は?

「仕組みとはルールだ。だから法学を学んだ者が全体をマネージすべきだ」・・これが長い間、この国を支配してきたイデオロギーだった。むろん法学を学んだ、というのは、某・旧帝大(名前はあえて書かないが)の法学部を出ることを、事実上意味してきた訳だ。まあ法学というのは一種の概念体系だから、それを学んだ人はロジカルシンキングに長けている、ことは認めよう。だがシステムの設計(デザイン)とか、ビジネスの構造は、いつ学んだのか? もっとも、法学部に限らず、そんなものを教えてくれる学部が別にあるとも思えぬが。

そう。この国には、「『仕組みをつくる人』を育てる仕組み」が欠けているのだ。二重の欠落である。わたし自身が上等な商売人だとは、もちろん口が裂けても言えぬ。だが、少しだけは取り柄もある。「システム」というものが何か、ずっと長いこと考えてきているのである。わたしはこうした問題に興味を持つ人と、問題意識を分かち合いたいと思っているし、なるべく多くの人に、知り得たことを何とか伝えたいと願っている。そうして、システムを作れる人を育てるシステムを、なんとか一緒に作っていきたいのだ。


<関連エントリ>
 →「職人的であること、エンジニアであること」 http://brevis.exblog.jp/24607574/ (2016-08-21)


by Tomoichi_Sato | 2017-07-23 22:56 | ビジネス | Comments(0)

開催します!:「プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会」(8月8日)のお知らせ

講師急病により先月の講演を延期いたしましたが、幸い復調されましたので、あらためて8月8日(火)に開催させていただきます。
会員の皆様にはご心配をおかけいたしました。(7/19 佐藤知一・追記)
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プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会」2017年の第3回会合を、下記の要領にて開催いたします。

今回は、雪印メグミルクの松本卓夫様を講師にお迎えして、同社の企業再生のプロジェクトについてご講演いただきます。

ご承知の通り、旧・雪印乳業を中心とした雪印グループは、2002年に企業存亡の危機を迎えます。四面楚歌の中、会社に残られた方々は、生産と物流をカバーするサプライチェーンの改革に、収益回復と業績再生の希望をつなぎます。

その渦中を奔走し、改革プロジェクトをリードされた当事者である松本様から、具体的なお話を頂戴します。ある意味で、我が国が必要とするプロジェクト・マネジメントの生きた姿を示すと言っても過言ではありません。サプライチェーンの改革と企業の復活はどのようなものか、興味深いご講演に、ぜひご期待ください。


<記>
■日時:2017年8月8日(火) 18:30~20:30
■場所:慶応大学三田キャンパス 北館会議室2(1階) (定員:28)
※プロジェクターあり
キャンパスマップ・【1】

■講演タイトル:「雪印メグミルクのSCM構築と統合工場(阿見工場・総合物流センター)建設の概要

■概要:
雪印メグミルクでは雪印乳業時代の2003年から2009年にかけてSCMシステムの開発導入と業務改革を実施し、大きな収支改善を実現した。また、さらに高度なSCMの実現のため既存3工場を集約した乳製品統合工場と原料・製品保管と保税機能を有する総合物流センターを建設し、サプライチェーンの全面見直しによる収支基盤の強化を実現した。これらの取組みとプロジェクトの概要を述べる。

■講師: 雪印メグミルク(株) 松本卓夫(まつもと たかお)様
■講師略歴:
1981年 早稲田大学 理工学部 工業経営学科卒業
      雪印乳業 入社
      福岡工場 本社 技術部 装置技術部 SCM推進部 物流部
2007年 本社 生産部 担当部長
      生産設備 企画導入施工・装置開発・SCMシステム開発 総括
2011年 会社合併により、雪印メグミルク 生産技術部 副部長
2012年 乳製品統合SCMシステム構築プロジェクト統括マネージャ
      阿見工場システム構築・阿見総合物流センター建設
2015年 生産技術部 装置開発グループ 副部長
      生産設備技術開発・FA開発導入・SCM開発 総括

■参加費用:無料。 ちなみに本研究部会員がスケジューリング学会に新たに参加される場合、学会の入会金¥2,000が免除されます。

会場の人数に上限があるため、参加を希望される方は、できましたら前日までに三好副幹事(miyoshi_j@kensetsu-eng.co.jp)までご連絡ください。
以上、よろしくお願いいたします。


佐藤知一@日揮(株)


by Tomoichi_Sato | 2017-07-19 23:14 | プロジェクト・マネジメント | Comments(0)

ビジネス・マネージャーとは何をする人か

数年前、製造業に働く方から相談を受けた。その企業では、西南アジアの某国でプロジェクトをはじめるという。プロマネ以下、何人かのチームでその国に乗り込み、現地企業と共同で新しい製品の製造ラインを作る仕事だ。そこで、何かアドバイスがあれば頂戴したいという話だった。

もちろん、わたしはその会社の製品について何も知らないから、技術的アドバイスなどしようもない。できるのはマネジメント的なアドバイス、つまりプロジェクト・マネジメント面での助言ということだろう。そこで、チーム編成やプロジェクト期間などについて少したずねた後で、わたしは申し上げた。

ビジネス・マネージャーを任命してチームに入れるべきです。
 営業畑でも、法務でもいい。文系の人を任命してください。」

技術的プロジェクトだからと言って、技術者ばかりでチームを編成するのは賢いやり方ではない。そう、わたしは申し上げた。もちろん文系といっても、英語が一応しゃべれることが望ましいですが(その国でビジネスをやるなら、英語のコミュニケーションが必要になる。大学教育は英語で行っているはずだから)。
−−でも、ビジネス・マネージャーって、何をするんですか?

それが先方の疑問だった。なるほど、知らない人には分かりにくいかもしれない。

日本には理系と文系という、諸外国にはあまり見ない不思議な制度的区分がある。理系の人は文系のことは知らなくて良いし、文系の人は技術に興味がなくてもて当然だという、思考習慣がある。MITすなわちマサチューセッツ工科大学に、経済学や言語学の講座があってもいいじゃないかと考える欧米流とは少し、ギャップがある。

ただし英語では(つまり、英語でビジネスをする業界では)、Technical と Commercial という区分がある。たとえば、きちんとした国際入札は普通、Technical Proposal と Commercial Proposalのに分冊の作成が要求される。日本語でいえば。技術提案書と商業提案書かな。

技術提案書には、設計面での提案や、遂行方針などが記される。そして商業提案書には、価格(明細・合計)、支払・保証など契約面についてが書かれる習慣だ。通常の日本の商慣習に翻訳すれば、前者が「見積仕様書」、後者が「御見積書」になるだろう。

そして国際入札では、まずTechnical Proposalの評価(技術評価)で合格した入札者のみ、Commercial Proposalが開封されるルールになっている。入札の選定は、値段だけでは決めない。いや、先に値段を見て安い応札者に対して、技術面をネゴしたりもしない。まして、技術的には優秀だが値段が二番手以下の応札者に対し、一番札の値段を教えて値引き要求をしたりもしない。これが国際的な慣習で、それを破ると業界内で信用を失う。つまり二度とまともに入札ができなくなる(応札者がいなくなる)、という仕組みである。このようなTechnicalとCommercialの区別と順位付けが、国際入札の仕組みを守っているのである。

さて、Proposal全体を取りまとめる責任者は、PM=プロマネである(あるいはProposal Managerともいう)。そしてCommercial Proposalの部分をまとめるのが、BM=ビジネス・マネージャーの仕事なのだ。

しかし、BMの仕事が一番大事になるのは、受注後の遂行段階である。そして、客先との交渉(ならびに、その準備)が主要な仕事の柱となる。追加や変更に伴う交渉においては、BMが過去の書類やメールなど、証拠(エビデンス)を全部まとめ上げる仕事をしてくれる。そして変更に伴うインパクトや、作業費用を見積もるのもBMだ。さらに過去データや外部企業の事例を探してきて、交渉の材料にするのだ。ここまで揃えば、プロマネの交渉の仕事はずいぶんやりやすく、楽になる。

なんだそれ、営業の仕事じゃないか、と思われた方もいるかもしれない。かもしれないが、貴方の会社の営業マンは、受注後もプロジェクトにはりついていられるだろうか? それも海外プロジェクトの現場で? せいぜい、たまに来て手伝うだけではないだろうか?

それに、交渉以外にもやる仕事はたくさんあるのだ BMは金銭や契約や雇用・労務に関わる一切の仕事に責任を持つ。もう少し具体的に列挙すると:

- 客先への請求と支払いに関わる事項
- 変更(Change Order)と見積・交渉に関わる事項
- プロジェクトの資金管理とキャッシュフローに関わる事項(海外プロジェクトならば外貨と為替も)
- 要員の手配・採用に関わる事項(海外ならばビザ手続きも)
- 外部発注企業に対する契約と支払いに関わる事項
- 執務環境に関する事項(海外プロジェクトならば宿舎の手配も)

こういうこと一切合切を仕切るBMがいなかったら、どうなるだろうか? こうした事柄は、いずれにせよ不可避である。避けて通れないのだ。となると、結局誰かがやるしかない。そして、それはつまりプロマネの仕事になってしまうのだ。技術に専念したい技術系プロマネにとって、こうしたことは「雑用」に思える。わたしは技術以外のことを、雑用として軽んじる見方には組みしないが、そう考える人は現実に多いだろう。

ここで、R・ハインラインの名作SF「月を売った男」 に出てくる挿話をわたしは思い出す。この物語の中で主人公は、自分が月ロケットの設計図に集中したいときにかぎって、運送業者がトラックの手配について文句を言ってくる、といって嘆く。すると彼の片腕になる男が現れて、そうした「一切の雑用」を自分が引き受けます、だからボスは技術に集中してください、と宣言するのだ。

ソフトウェア産業における生産性の問題を論じた「人月の神話」 の著者Brooks Jr.は、この「月を売った男」のエピソードを引用し、技術系PMの下に、商務に強いBMがいるのが理想だ、と書いた。たしかに一つの考え方である。

いや、ちょっとまって。ウチの会社にはそんな、営業面も法務も人事も会計も総務もわかるような、しかも英語も話せるようなスーパーマンはいないよ。そんな声も聞こえる気がする。たしかにそうかもしれない。

だが海外のライバル会社には、専門のBMがいるかもしれない。BMの交渉力やサポートが案外、赤字と黒字の分かれ目になるかもしれない。だったら、今からでも育成するしかないのだ。そのためには、まず、ビジネス・マネージャーという専門職種が必要なのだと、会社が認識することが先決だ。

以前にも書いたが、わたしは「文系」と「理系」という人材の区分をあまり認めていない。わたしの勤務先には、いわゆる文系出身ながら、エンジニアリング会社のプロマネとして立派な仕事をしている人が何人もいるし、まだ駆け出しだった若い頃について勉強した先輩も経済学部出身のエンジニアだった。またわたし自身、理系と文系の両方の資質を持った人間だと自覚している。だから、「技術屋だから契約オンチでいい」とか「営業マンだから設計の話は知りたくない」といった、自分で壁を作ってしまう人々の態度は、一種の怠惰だと思っている。

だが、文系・理系という区分は世間に流通しているし、そういう形で自己規定している人も多い。だったら、せめてその範囲内では責任感を持ってもらいたい、というのがわたしの期待だ。だから営業マンであって労務や会計は素人であっても、せめて「文系の守備領域」については、技術屋に対して自負を持ってくれるだろうと思い、冒頭に述べたような提案をしたのだ。

念のためにいうけれど、プロマネ人財だって、固有技術も管理技術もよくわかり、かつ人徳があってリーダーシップも豊富な、スーパーマンみたいな人は滅多にいないと思う。で、スーパーマンがいなくても仕事がある程度成り立つためには、仕事の仕組み(システム化)が必要なのだ。そしてプロマネを補佐したり助けたりする支援組織や専門機能が必要である。

もちろん、ちゃんとしたプロマネをまず、意識して育成しなければならない。ただプロマネは最終責任者なのだから、BMの領域についてだって、少しは知る必要がある。つまり契約や請求や会計や雇用について、せめてBMとちゃんと会話が成り立つ程度には、概念と用語の知識が必要である。そしてBMの側にとっても、営業や財務や法務など本社の専門部署からのサポートが必要なのである。

冒頭にあげた会社が、うまくBMを任命できたかどうか、残念ながらその後の話はまだ聞いていない。社内で見つけるのは、そう簡単でなかったろう。ただ海外ならば、逆に欧米人の専門家を雇う手段だってある。まあ専門家を呼べば、たぶん高給取りだろう。しかし、それで技術者達が技術に専念でき、赤字を回避できるなら、総合的には安いものだ。

それは、マネジメントの価値とコストの比較論である。マネジメントはリーダー職の片手間仕事ではない。とくに海外プロジェクトならば、なおさらである。契約社会でのプロジェクトには、「文系」的な職域に強い人材も、必要なのだ。技術力だけでは勝てない。そのことの認識が、海外に打って出るときの第一歩なのである。





by Tomoichi_Sato | 2017-07-10 22:32 | プロジェクト・マネジメント | Comments(0)

欧州におけるIndustry 4.0 − その虚像と実相(2)

知り合いの人が最近、車を買った。人もうらやむドイツの有名な高級車である。ディーラーで購入を決め、さてオプションを選ぶ段になって、驚いたという。種々の選択肢から自由に選べないのだ。いくつかのオプション群がお仕着せのセットになっていて、そのどれかを買うしかない。高い値段を払ったのに、顧客の自由な選択権がないのだ。

「ドイツの提唱するIndustry 4.0の目標の一つが『マス・カスタマイゼーション』となっていますけど、当然だと思いました。」とその人は語った。「だって全然、お客の個別の注文に応じられる状態になってないんですから。日本の製造業の方がはるかに先を進んでいますよ。」

マス・カスタマイゼーションとは、大量に生産しつつも、個別の要望に応じたカスタマイゼーションができる生産形態のことを指す。日本ではどの自動車メーカーでも、色や内装や電装品まで多数あるオプションを、個別に自由に選べて、それできちんと納品してくるのが普通である。それに比べて、このドイツメーカーは何だ。Industry 4.0なんて、ドイツ人が日本に追いつくための活動じゃないのか? 知人はハノーバーメッセにも足を運ぶ人だけに、その思いが強かったらしい。

ただし日本車メーカーだって、海外では似たような状況かもしれないと、わたしは思った。たとえばアメリカ市場である。あの国では、顧客はディーラーにいって、店頭に現物のある車を選んで、その場で乗って家にかえる。ナンバープレートは、あとで家に郵送されてくる。そういう習慣の国である。日本のように注文から納車まで何週間も待つことはしない。だから日本車メーカーでさえ、米国にはかなりの流通在庫を置いてある。在庫は無論、個別オプションの選択肢がかなりせばまっている。

ものごとを比較するときは、ある部分だけの優劣を論じるのではなく、仕組みの全体像を理解して比べる必要がある。そういう前置きをしてから、では、前回の話を続けよう。

フィンランドのMPD 2017では、ドイツにあるGE Energy Connections社の工場刷新に関する発表があった。講演者はC. Kantner氏で、Brilliant Factory Leaderという肩書きを持つ、まだ若い中堅のエンジニアである。氏の講演は動画中心で、あいにく発表資料が公開されていないため、手元の聞き書きで再現するが、まず彼はGE社の”Brilliant Manufacturing"というコンセプトについて、

Brilliant factory = Lean + Digital

という定式化で説明した。そしてデジタル化については、"don’t digitize waste”(ゴミまでデジタル化するな)というモットーで、注意深く対象を選択すべきという(いかにも「選択と集中」のGEらしい)。その上でベルリンの自社工場の事例にうつり、工場内ロジスティクスの刷新の説明になった。部品の「倉庫をスーパーマーケットに転換する」という取り組みで、箱にRFIDを取り付けてトラッキングできるようにする。そして個別に数を数えるのでなく、フォークリフトが感知ゲートを通過すると出庫処理が自動的に完了するシステムにした。

一括ピッキングから個別フローにかえ、またフロアでもiPadでバーコードを読み取る仕組みを入れたおかげで、リードタイムは5日短縮し、在庫は約10億円削減、生産性も30%アップしたのだという。

その取り組みの動画は素晴らしい。だが説明を聞いているうちに、ちょっと不思議に思った。刷新する以前は、倉庫係に対し出庫5日前にピッキング・リストがバッチで指示されていたというのだ。5日前? 日本の製造業の常識からいうと、のんびりすぎないか。送変電設備の部品だから大きくて重たいのは分かるが、それにしても随分ゆっくりしている。彼の話はさらにERP - MES - PLM連携や、図面管理システムのアジャイル開発に進んでいったが、わたしの頭の中には「え? この程度がドイツの工場の実態なの!?」という疑問符が残ったままだった。

ともあれ、週の後半、わたしはフィンランドからドイツに飛び、ある企業のご厚意で工場を見学させていただいた。B2B製品を作る、部品工場と製品組立工場の2箇所である。この会社は年商1千億に満たない中堅規模のメーカーだが、特色ある製品を作り、毎年成長を続けている。

期待を胸に工場に入ったが、あまり自動化されていないな、というのが第一印象である。部品工場は一応、かなり機械化されたラインで構成されている。しかし手作業も残っている。組立工場の方は、日本と同じく、人間の作業が中心である。ただしベルトコンベアの流れ作業ではなく、個人単位のセル生産方式に近い感じといえば、分かっていただけるだろうか。

ちなみに、紙の現品票が部品を入れたトレイに貼付されている。見ると、作業の工順が印刷されていて、各工程作業ごとに、作業者の完了サインと日時が手書きされている。日本でもよく見かけるやり方だが、つまりアナログである。まあ生産量から見て、無理して自動化するメリットはまだ小さいのだろう。量が今の3倍になったら、もっと進捗コントロールの仕組みが必要だ。ただ工場はどこも整理がきちんと徹底されていて、とても清潔感があり、整頓も行き届いている。歩いていて気持ちが良かった。ちなみにこの企業でも「5S」概念が存在し、それは日本から学んだらしい。

それにしても、日本の工場関係者が見学したら、「なんだこんな程度か」と思うだろう。そして、日本にかえってからレポートするに違いない、「ドイツのIndustry 4.0など恐るるに足らず。日本の工場と大きな差はない」、と。

ところで、その工場は面白いレイアウトを採用していた。全体は平屋だが、中央に大きな部品倉庫があり、その周囲に作業区がぐるりと配置される、Warehouse-centered Layoutである。そして部品材料の倉庫が、ずいぶん大きい。聞くところによると、かなりの在庫日数分を保有している。日本の工場の方が、明らかにもっとずっと少ない在庫量でやりくりしているし、サプライヤーからのJIT納品などの仕組みも活用しているだろう。

なぜ、こんなに部品材料の在庫を持っているのか?

じつは「日本の教訓から学んだ」のだという。つまり、3.11の東日本大震災時の、サプライチェーン途絶の問題を見たのだ。部品メーカーの工場が被災したため、別の地方にあった完成品メーカーのラインが止まってしまった。

B2B製品を作るこの会社は、自分たちは顧客への供給責任がある、と考えた。そこで、普通よりもずっと多くの部品材料在庫を、リスクもコストも承知で抱える事に決めたのだ。

そうした思い切った決断ができたのは、この企業がオーナー企業だからである。ドイツにはどうやら、こうしたオーナー企業や同族企業形態の、中堅製造業がかなりあるようだ。そして、それぞれが特色ある製品を作っている。逆に、競合の多いレッドオーシャン的な商売には、乗り出さない。それが彼らの特徴だ。

もう一つ面白かったのは、見学した部品工場は、以前は受託製造(EMS)を行う別会社だったという事実だ。それをわざわざ買収合併して、傘下に収めたのである。日本では、工場を切り離して別会社化したり、安価な外部企業に製造を委託する動きが強い。このドイツ企業は、その真逆をやっている。なぜか?

彼らは研究開発・設計機能をもつ本社と同じ町に、自社の工場を集中させている。つまり、本社の目の届く範囲で、ドイツ人の手で、ものづくりをしているのだ。それはこの会社が、信頼性を何より要求される産業用製品を作っているからだ、と思われる。高機能を実現する製品アーキテクチャーを設計し、またインタフェースは標準化して外部に公開している。でも、高信頼性・高品質にこだわって、ものづくりをしているのだ。

高性能・オープン性・高信頼性=それがこの企業の高収益の源泉である。三つのどれか一つでも欠けたら、コアの強みが薄れてしまう。そのことを経営者が自覚して、経営している。わたしには、そう思えた。この会社にとって、安い賃金を求めて東欧あたりに工場移転することは、あまり意味がない。むしろ、高い職人仕事(マイスター)の能力をもつドイツ人の雇用を、いかに確保するかが命題と思われる。

それは、ドイツ政府のはじめたIndustrie 4.0の発想とも通底している。

Industrie 4.0は周知の通り、ドイツ科学技術アカデミーAcatechが2013年にまとめ、メルケル首相に提出した最終報告書に端を発している。元はドイツ語なので-rieというスペルになっている。報告書の説明を受けるメルケル首相の写真を見たことのある人も多いだろう(AcatechのWebサイトより引用。ちなみに隣で怪訝そうに書類を眺めているのは、ロシアのプーチン君である)。これを受けてドイツ連邦政府は、産官学共同のためにかなり巨額の予算をあてる。ついでながらメルケル首相は、理系で博士であることも書き添えておこう。
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Industry 4.0の概念が日本に伝わるにつれ、いろいろな解釈が出回った。これは無人化工場を目指すものだ、という解説もあった。いや、裏にはドイツの労働組合対策があるのだ、という指摘もあった。Cyber-Physical System (CPS)で、製品や工場の「デジタルツイン」を作る技術が中核だ、ともいわれた(ただしCPS自体はアメリカ発の概念だが)。工場内通信規格であるOPC-UAの標準化推進で主導権をとる狙いだともいわれた(ただOPCは元々Microsoftの提案だが)。米国GE社の提唱するIndustrial InternetやPredixプラットフォームの対抗馬だ、という見方も根強い。

だが結局、皆で目をつむって巨象を部分的に撫でているような感じで、訳が分からない(つまり虚像だ、というダジャレですが^^;)。

もっともドイツ人にだって、まだ「これがIndustry 4.0の生み出す結果だ」というのは分からないに違いない。なぜなら、これから(第4次)産業革命をしようとしているのだから。蒸気機関を工夫中だったJ・ワットに、将来これで鉄道も船も工場も、社会全体がかわると思いますか、とたずねたら彼は絶句したに違いない。

一つだけはっきりしているのは、彼らはドイツあるいは欧州の製造業と雇用を守るためにやっているのだ、ということだろう。

かつて聞いた話だが、ドイツから日本に視察団が来て、いろいろな工場を見学して回った。どこでも、乾いた雑巾を絞るような、徹底した現場カイゼンの実例を見せてくれる。一同は感心して見ていたが、最後にポツリと引率者にたずねたんだそうだ。「まことに素晴らしかった。だが、なぜ彼らは、わざわざ他社と同じようなモノを作って、価格競争で消耗する道を選ぶのか?」と。

工場で働く技術者や技能者にとって、一番大切なことは、じつは工場の外側にあるのだ。それは、経営における工場の位置づけである。ちょうど、プロジェクトの一番肝心な部分は、受注時点でもう決まってしまっているように。そこがズレてたら、現場でどんなにカイゼンしても追いつかない。

わたしが見学したドイツの工場についていうと、その場に行って肌に感じないと分からないことが、一つだけあった。それは工場の中の雰囲気が、明るく、かつリラックスしていたことだ。誰も、「いつ、この仕事がなくなるか分からない」「近いうちに工場移転で失職するかも」といった心配を抱えていないと感じた。むろん、数値的なエビデンスは示せない、まさに百聞は一見にしかずの、個人的印象である。

だが、その事が一番大切なのだと、わたしの直感は告げている。明るい職場、すくなくとも安心して働ける職場からしか、本当に良いものは生まれてこない。それが道理ではないか。

工場は利益のための道具なのか。それとも利益が職場を良くするためにあるのか。技術革新云々の前に、問われているのはそこなのだ。人が働くことについての思想のあり方こそ、次なる産業革命を乗りこえる鍵なのである。


<関連エントリ>
 →「欧州におけるIndustry 4.0 − その虚像と実相(1)」 http://brevis.exblog.jp/25872533/ (2017-06-25)
 →「マス・カスタマイゼーションとは何か」 http://brevis.exblog.jp/12287846/ (2010-03-10)


by Tomoichi_Sato | 2017-07-01 19:56 | 工場計画論 | Comments(0)