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クリスマス・メッセージ:見えるコストと見えない価値

Merry Christmas!!


大学生にプロジェクト・マネジメントを教えるのは、むずかしい仕事だ。

わたしは現在、勤務先でのフルタイムの仕事のかたわら、大学で少しばかり授業を持っている。夏学期は東大の大学院、冬学期は法政の学部3年生に、それぞれ毎週プロジェクト・マネジメントを教えてきた。今年はそれに加えて、静岡大学の社会人大学院(MOT)も集中講義を冬に持つことになった。さらに単発的に大学や企業、JAXAのような研究機構などに講師として呼ばれている。科目はプロジェクト・マネジメントが中心だが、生産マネジメントやBOM/部品表などもある。そして、自分が主宰する研究部会でも、「PMの自己育成のシステム」の構想を共同で作り始めたりと、なぜかわたし自身にとって「教育の当たり年」みたいな年だった。

しかし、それらの中でも、大学の学部生にプロジェクト・マネジメントを教えるのは飛び抜けて難しい仕事だ、というのが実感である。理由は受講生たちの学力とか理解力の問題では、たぶん、ない。そもそも人と働いた経験のない学生に、「プロジェクト・マネジメント」というのは、ピンとこないのだ。だから、学びたいという切実なニーズが、受講生の側に生まれない。これが社会人相手だと全然違う。社会人は多かれ少なかれ、他者と協業して新しいことに挑戦する仕事が、いかに大変か身にしみて分かっているからだ。

ここにマネジメントに関する「学び」とか「教育」の根本的な難点が横たわっている。プロジェクト・マネジメントのような目に見えない仕組みや技術は、それが「無くてこまった」という経験をしない限り、その価値がピンとこないのである。

普通の商品・サービスというものは、目に見える。スマホであれ飛行機チケットであれ、それを買ったらどういう便益が自分にあるかが、分かりやすい。ところがプロジェクト・マネジメントとか生産マネジメントという種類の事柄は、それとは異なる。複数の職能を持つ人々が協力して何かを生み出す仕事を、上手に導くというのが、この種の仕事だが、それが本当に上手なのか実は下手なのか、傍からも当事者からも、よく見えない。見えるのは結果としての製品や成果物だけだ。

いや、「マネジメントという意識」にもとづく行為さえ、あるのかないのか、外部からはよく見えない。わたし達の社会はある意味、とても成熟していて、個々の成員は勤勉かつ有能、おまけに与えられた枠組みの中で互いに調整しながら仕事をするのにたけている。だからマネジメントという意識的な行為が無くても、組織はそれなりになんとか動いていく。学生達はサークル活動や学園祭などのイベントを通じて、そう学んでいく。もちろん、リーダー格の人間や、責任者としての管理職者は存在するだろう。だが、この人達は「精神論のかけ声を叫ぶだけ」、「お神輿に乗っているだけ」で、マネジメント的仕事と無縁というのも、ありがちな話だ。ではなぜ組織が動いていくかというと、期日や売上などのモノサシで測られるからだ。

マネジメント能力は必須ではない。あればベターだが、なくても何とかなってしまう。ただ、その結果として「見えない非効率」が生じるだけ。これが、マネジメントへの学びをむずかしくしている。少なくとも、人びとのレベルが高く成熟した、わたし達の社会では。

組織の失敗や成功の結果を、マネジメント能力ではなく、目に見える道具や、人材の質で説明するというのも、よく行われることだ。あの仕事がうまくいった理由? それは彼らが○○○という道具を使っているからさ。あの事業がダメになった理由? だってリーダーが無能だったものね(→これは現場レベルの人の説明で、幹部レベルの説明になると「あそこの地域の奴らはダメさ! ろくに働けもしないんだ」にすり替わる)。

こういう説明は俗耳に入りやすく、分かりやすい。そこで、「××問題を解決するには、○○○を導入すればいい」というセールス文句が、がぜん威力を発揮することになる(伏せ字にはERPから人工知能まで、好きな文句を入れてください)。わかりやすさの勝利である。分かりやすい説明は、脳に余計な負担をかけないので、多くの人が好む。

これに比べて、人材の方は雇ったり取り替えたりするのはそう簡単ではない。いかにグローバル化が進展したとはいえ、まだ人の首を切ってすげかえるのは、時間がかかるからだ。ただ、昨年米国に出張した際、ある会社の幹部(たまたま英国人だった)が、こう言っていた。

「ここテキサス州では、社員の首を切るのに時間がかからない。“お前はクビだ”と通告して、オフィスからシャットアウトし、自宅待機を命じる。そして1週間分の給料を払えば、それでおしまい。あっという間に終わる。英国では、そうはいかなかった。1ヶ月以上前に事前説明する義務がある。」

そして、こう付け加えた。「テキサスでは、従業員は上司の命令にとても忠実に従う。いつ首を切られるか分からないからだ。英国では、クビにするのは簡単でない。だから、部下も上司に問題があると思うと、口に出して意見する。」

米国企業ではトップダウンで物事が進む、トップのリーダーシップが強い。それにひきかえ日本企業では・・、という説明を外資系コンサル達からよく聞くが、その背後には、じつはこうした雇用事情があったのだ。従業員を機械の部品か何かのように、取り替え可能なモノとして扱う。これが米国流の経営思想らしく、今や大きな潮流として世界を覆いつつある。

そういうことを学生達も感じているから、いかにして企業に雇ってもらうかが大学生活での第一関心事になるのである。大学3年生は年明けになると、就活で気もそぞろになる。授業にネクタイやスーツ姿で参加する学生が目立つようになる。そして百の単位のエントリーシートを手書きして送り、数十の単位の会社で面接を受け、というような今風の光景に身を投じていくのである。大学で何を学ぶかなど問題ではない。だって企業は大学名(と採用向け共通テストの点数)しかほとんど見ないからだ。こういう状況の中で、「学ぶ」だとか「教える」だとかに腐心するのは、ほとんどナンセンスであろう。

そして、こういう修行のような(あるいは拷問のような?)就活プロセスを経て社会人になった人たちが、「学び」に関して独特な考えを持つようになったとしても、不思議はない。教育とは、選別(セレクション)のための仕組みである。学ぶとは、学校や会社が期待する正解を覚えるためのプロセスである、と。一歩間違うと、すぐに首を切られて放り出されちゃうんじゃないか。・・人材育成に悩む企業は多いが、問題の背後には、じつは企業の「人材」観の変化があるように感じられる。

従業員は部品のように取り替えのきくものである。人を見たら人件費と思え。人は数字である。人はコストである。できる限り削減する方が企業経営には良い・・。

こういう考え方を一掃できる方法がある。それは、会計の方法を変える事だ。

具体的には、人件費を一種の繰延資産として資産計上するよう、ルールを変更する事である。

企業は、従業員を部署に配属するにあたり、業務プロセスを教えて仕事を覚えさせ、訓練する必要がある。つまり業務というのは、その中に一定量の「学び」を含んでおり、研修をも兼ねているともいえる。実際、OJTという言葉で、ほぼ一切の教育研修をバイパスしている企業も見かけるほどだ。

である以上、人件費の一部は労働の対価ではなく、職務能力のビルドアップ投資と考えてもよい訳である。そこで、企業の人件費の20%程度を、経費ではなく設備費として計上するよう会計ルールを変更することを提案したい。人が増え、また勤続年数が重なっていくほど、貸借対照表の上の試算額も増えていく。つまり、株主から見た企業価値が増大していく訳だ。

たとえば人件費が年間500万円だったとしよう(従業員がもらう手取りではなく、企業の側が負担する人件費の話である)。すると、1年に100万円分の資産が形成される。100人なら年に1億円である。平均10年勤続だったら10億円の資産価値になる。

この資産額は従業員一人ひとりの名前に紐づいている。だから、もしこの100人の首を切ったら、会社は10億円の除却損を計上しなければならない、という事を意味する。これは小さな金額ではない。1万人を削減したら1000億円である。しかし、仕事に慣れて能力のある従業員を切って、もっと廉価な別の従業員をどこからか雇い入れたとしても、彼らが仕事のレベルを上げるまでにはかなりの時間がいるのだから、会計上こう考えるのもおかしな話ではない。

そして、このように金額をつけて「見える化」することで、はじめて人材が財産だと実感する経営者だっているにちがいない。こういう数字の裏付けがあれば、「人財」という最近はやりの当て字も、生きてくるだろう。(ただし余談だが、「材」という漢字は、つくりの部分に「才」を含んでいることで分かるように、もともと貴重な木を意味していた。白川静によれば「才」は聖化されたものを言う。「人材」ではまるで人を材料のように扱っているから、「人財」という字にかえよう、と言い出した人たちは、最初に漢字辞典を調べるべきだった)

もちろん、わたしのこんな提案に、現実の会計士たちが乗ってくるとは思えない。「継続性の原則」を持ち出して説教されたり、国際会計基準にもそんな考え方はないと言われて一蹴されるのは、目に見えている。だが、思考実験としては意味があるだろう。働く人という存在を、単なる経費とみるか、見えないが価値ある資産とみるか、それはマネジメントのあり方を、いや最終的にはわたし達の企業文化までを左右する、大きな分かれ道なのだ。

いつもなら、ひととき平和になるはずの、この年末の季節でさえ、地球のあちこちで血なまぐさい出来事が続き、洋の西でも東でも、ヘイトの連鎖が多くの人々を駆り立てている。そうした事情の背景には、人をコストと見、取り替えのきく部品のように見る考え方が、影響を与えているように思える。だが機械部品は成長しないが、人は成長する存在だ。成長とは学びによって、新しい能力を得ることである。わたし達が部品のように扱われてお仕舞いにならないように、ぜひ学びのアンテナを研ぎ澄まし続けよう。

そして読者の皆さんの上に、平和なクリスマスがありますように。



by Tomoichi_Sato | 2016-12-23 15:36 | ビジネス | Comments(1)

書評:「AさせたいならBと言え」 岩下修・著


AさせたいならBと言え」 岩下修・著  明治図書・教育新書(Amazon) 


人を動かすのは難しい。

マネジメントという言葉はいろいろな意味を持つ多義語だが、中核には「人を動かす」という行為がある。自分が直接手を動かして、成果物やアウトプットをつくり出すことは、立派な仕事だが、マネジメントではない。人に働いてもらうことが、マネジメントである。わたしがプロジェクト・マネジメントを人に教えるときには、最初にそのことを力説する。

現実にはマネジメントだけに専念する人は少なく、たいていは自分も手を動かしているだろう。わたし自身だって、職場ではそうだ。ただ、自分でやることと、人に頼んで動いてもらうことは、頭の中で明確に区別している。後者の場合は、計画を立て、作業分担を決め、アウトプットを指定して、やってもらわなければならない。

ところが、これが難しい。

あれほどきちんと伝えたはずなのに、ぜんぜん動いてくれない。あるいは、こちらの思ったこととは全く別のことをやろうとする。やってくれるのはいいのだが、必要以上に暴走する。問題が生じても隠してしまう。結局しかたなくプロダクトを引き取って、ほとんど一から自分で修正したりしてすると、“何のために人に頼んだんだろうなあ”、などと思わずつぶやくことになる。わたし達の問題のかなりの部分は、人が思ったように動いてくれないことから生じるなと、よく感じている。

マネジメントの第一歩は「言葉にすること」だ。これもわたしが講義などでいつも強調することである。マネジメントが人を動かすことである以上、(テレパシーでも使えない限り)わたし達は相手に、言葉で伝えなくてはならない。だから、言葉にするためのスキルが必要である、と。人に教えているくらいだから、自分でも自覚していて、それなりにはっきりと言葉にして伝えたはずなのに、なぜ相手は思ったように動いてくれないのだろうか?

マネジメントに似た概念に、『リーダーシップ』がある。リーダーシップとマネジメントの違いは別の所に書いたから繰り返さないが、ともに<人を動かす>点では共通である。ただ、リーダーシップの場合は、ふつう同じ職能集団の中で人をリードするため、影響力を行使するしかない。命令権はないのが普通だ。むしろ、自分が本来は命令できないような相手を動かす力を、リーダーシップの発揮とよぶ。

一方、マネジメントは通常、上司部下などの関係があり、業務命令や給与査定など強制力を発揮できる。従わせる力があるのだ。である以上、相手が従わないとなると、むしろ相手の態度を疑うことになる。あるいは、理解力を。

そう。この問題に対する一番簡単な解釈は、「相手は頭がわるい」と考えることだ。愚かだから、こちらの言ったことが分からないのだ。あるいは、従わないとどうなるか、考えもできないのだ、と。だが、それで問題が解決するだろうか? 右見ても左見ても、世の中馬鹿ばっかりだ、というのは真実だろうか。真実だとしても、それで自分のやりたい仕事をうまく達成できるだろうか?

そう思い悩んでいたとき、ふと、大きな書店の教育書の棚で、この本を見つけたのである。「AさせたいならBと言え」。タイトルはどういう意味だろうか。著者は小学校のベテランの先生だ。たしかに相手が小学生なら、理解力はそうとうに低いに違いない。先生という職業は、学童生徒から見ると、おおきな「権力」を持った存在である。そして毎日、理解力の足りない生徒に指示を与えなくてはならない。ここに、何かマネジメントの悩みにヒントがあるのではないか。

早速買って読んでみた。そして驚いた。序文の中で、著者は、自分の娘(小学3年生)が友達の家に遊びに行くというとき、“車に気をつけて道を渡りなさい”というかわりに、こうたずねたというのだ。

「さゆりちゃんの家に行くまでに、いくつ道路を渡るの?」(p.17)

娘さんは頭の中で道順をたどりながら、「三つ」と答える。そこで「三つ渡るんだね。気をつけて渡りなさいよ!」と送り出したらしい。こうすれば実際に道路に出てからも、やりとりを思い浮かべながら、あ、一つめだ、などと思いながら渡っていくだろう。単に“気をつけて”と指示するよりも、ずっと「言葉に中身が入ったのだった」(p.18)

わたしは舌を巻いた。単に命じずに、たずねる。そうして、相手の頭の中に、想像という知的な働きを巻き起こす。これによって、命じられたことをする、あるいは、しない、よりも別の次元に、行動を引き上げるのである。自分で考えたことは、自分自身の主体的な行動になる。

もう一つ例を引こう。朝礼のとき、並んだ子ども達を先生の方を向かせるため、まっすぐに立たせようとするとき、

「目をこちらに向けなさい」「前の人の頭を見なさい」

などとよく言ったりするが、これはあまり役に立たない。なぜなら「内面の働きがゼロだからだ」(p.41)。しかし、

「先生の後ろの1年生の教室を見なさい。部屋の中に何があるか探してください」

というと、顔が急に「知的」になる。「一年生の教室」が子どもの好奇心、遊び心をゆさぶったのである。視線を前に向けると、身体もリラックスしてくる。子ども達に、自ら思考を展開できる状態が生じる。「前の人の頭を見なさい」では、視線が統制され、次の思考の構えができない(p.93)という。

これが、『AさせたいならBと言え』の根幹である。Aさせたいときに、Aしろ、と命じても大して役に立たない。Bを問うて、頭の働きを呼び起こす。このとき、「説明・指示の言葉は、ハッとさせるような比喩の言葉を用意しよう」(p.60)という原則を、著者は提示する。これが、人を動かすときの勘所らしい。

指示だけでなく、質問を出すときも同様である。どこかに見学や旅行に行ったとき、子ども達に、気がついたこと・学んだことを、そのままたずねてもダメだ。なぜなら、目に見えないコトは、単純な心の持ち主である子ども達には理解しがたいからだ。いきなりコトを聞いても、子どもは考える手がかりがつかめない。そこで、

「一番良かった場所をいってください。その場所で、とくに心に残っていることを言ってください」(p.160)

とたずねる。つまり、抽象的なコトではなく、具体的な場所や人を手がかりに、きくべきなのである。

ちなみに、朝礼の場面では、

「おへそをこちらに向けなさい」(p.32)

というのも有効だ。顔や目(A)ではなく、おへそ(B)を向けろ、という。子どもは、小さなモノに注意が向く(p.127)からだ。

それにしても、この原則を、『AさせたいならBと言え』という単純かつ忘れがたい言葉に凝縮した点が、著者の知恵であろう。そしてBの言葉の中に、「ゆれのないモノ」の提示をせよ、という。「ゆれのないモノ」とは、具体的には、「物・人・場所・数・音・色」であるとして、種々の例を挙げる。この本はそうした、100以上の魅力的かつハッとする例がのせられている。たとえば、

合唱の時に、「(タクトの代わりをしている)先生の人差し指の爪を見なさい。ここに、みんなの声をぶつけてください。」(p.128)

体育館でざわついているとき、「みなさん、雨の音が聞こえますか。雨の音をじっと聞いてください。」(p.202)

といった具合だ。とくに著者は、「ゆれないモノ」を選ぶ基準として、地を背景に明確に浮かび上がる「特異点」としてのモノを提示せよ(p.128)という。「おへそ」などはまさに、そうした特異点である。だから子ども達の注意をひくのだ。

ただし、こうした特異な指示の言葉は、半年に一回程度しか使えない。「子どもを動かすのにいかに有効な言葉も、使いすぎると、たちまち、力は弱くなる。どんな『図』もすぐに色あせ、『地』に向かう」(p.208)からである。

そういう意味で、『AさせたいならBと言え』のBを探すためには、指示を出す側もつねに頭を使って、考え続けなければならない。「物・人・場所・数・音・色」は一種の定石、ないしガイドラインなのである。

繰り返すが、Aさせたいときに、「Aしろ」というだけでは、相手の中に知的で主体的な働きは起こらない。とくに相手が子どもではなく大人、それも「自分は知的だと信じている」大人であるときこそ、うまく言いかえなくてはならない。知的と言っても、たいていは決まり切った枠組みや方向にしばられているから、それを解きほぐすような、ハッとする比喩や意外な質問を探す必要がある。

だから、この本に出ている例は、そのままいつでも引用して使える「正解集」ではなく、わたし達の側が、頭を絞って言いかえるための題材集なのである。読者に正解(A)を言うのではなく、具体例(B)を与えて、読者の側の思考を引き起こす。おお、まさにこの本自体、『AさせたいならBと言え』という構造になっているではないか! なんと素晴らしい(^^)。


<関連エントリ>


by Tomoichi_Sato | 2016-12-14 06:56 | 書評 | Comments(0)

ムリ・ムラ・ムダ 〜 どれが一番いけないか?

前回はムダ、ムリ、ムラについて、それぞれどういう意味かを吟味した。そこで問題の後半に移ろう。この三つ、どれが一番よくないのか?

そんなもん、甲乙つけがたい。どれもよくない点では同じだから、というのが大方の答えではないか?

それはそれで結構。一つの考え方だからだ。ただ、別の考え方をする人たちもいることを知っておこう。トヨタ自動車である。彼らの考えでは、ムラが一番よくないとされている。なぜか?

トヨタ生産方式では、周知の通り「働きに結びつかない動きをムダと呼ぶ」と定義する。そして徹底したムダ取りを行っていくのだが、このとき、「ムラがあるから、ムリをする。ムリをするから、ムダが出る」という因果関係で、物事を見る、と経験者からきいたことがある。つまり、なぜムダが生じるのか、という問題について、非常にジェネラル(汎用的)なレベルで

「ムダな動き」がある。
→なぜなら「ムリな作業」をしているからだ。
→そして、それはなぜなら「ムラのある指示」を出しているからだ。

という「なぜなぜ分析」がなされている訳だ。これが、トヨタの基本的問題意識なのだ。
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そこで仕事の改善の着眼点としては、まず「ムダ」をあぶり出すために、「見える化」を行う。トヨタにおける見える化というのは、単に何かを可視化することではなく、“問題が生じたときにすぐ検知できるようにする”ことだ。問題とは、標準から著しくはずれた状況をいう。だからこそ有名な「標準なくして改善なし」という標語がでてくるのである。

動いているのに、付加価値のある「働き」になっていないとき(前回の状況1・2の例でいえば、一生懸命仕事しているのに、やり直しが生じて結果に結びつかないとき、あるいは部品を探しに行っているため組立作業が進まないとき)、それがムダとして検知される。ムダが見つかったら、まず、現場でその支援と問題解決をする。

しかし多くの場合、ムダが生じるのは、何かムリをしているためである。たとえば、まだ上流設計が十分固まりきっていないのに下流の製作に着手したとか、組立工程に必要な部品すべてが手近にないため、必要部品を順次配膳しながら組立てることにしたとかいう、無理である。そうしたことは、レイアウトや作業の流れの改善によって解消する。

だがなぜ、適正に作ったはずのレイアウトや、よかれと思って進めた作業フローが、無理を生み出すようになっているのか? それは、レイアウトの設計思想や作業フローの前提条件から外れた、ムラのある指示が出されているからだ。たとえば、取れるだけ仕事を取りに行き、人も足りないのに短納期で受注した、とか、先行内示よりも2割も多い注文が取引先顧客から来て、受けざるを得なかったため、製造現場が予定していた段取りを変えるような指示を出した、とかいった状況である。これが根本原因になって、ムラ→ムリ→ムダを生み出す、という構図である。状況1・2は結局、次のようになる。

状況1の構造:
 人が足りないのに短納期で受注した(ムラ)
  ↓
 上流設計が固まらないうちに、下流の製作に着手した(ムリ)
  ↓
 条件が変わってやり直しが必要になった(ムダ)

状況2の構造:
 先行内示よりも2割も多い注文が来たので、製造の段取りを変えて指示を出した(ムラ)
  ↓
 組立工程に必要な部品すべてが手近にないため、配膳しながら順次組み立てた(ムリ)
  ↓
 組立作業中に足りない部品を探しに行った(ムダ)

ちなみに前回の状況3に書いた、非生産的な週次進捗ミーティングの背景に、ムラがあるかどうかは、わからない。しかし、一人ひとり進捗をきけばすむことに、全員を呼んで付き合わせたというムリはあっただろう。進捗報告だけならば、週報あるいは日報にインプットして集計する仕組みをつくっておき、全員が共有すべきタスクや問題だけを、皆を集めて話せば時間のムダは生じないはずだ。

ところで、ムダやムリは現場担当者自身が気づいて自覚できるが、ムラを無くすことは、担当者にはできない。それは指示の問題であり、すなわちマネジメントの仕事である。だからムラが一番よくない、ということになる。

それで、トヨタはムラを無くすために、「平準化」を重視するのである。つまり月間生産計画で月産台数を決めたら、それをまんべんなく、なるべく均等に作っていくようにする。当たり前のことだが、生産という仕事は、同じものを同じペースで繰り返し作っていけば、効率は最大になり、コストは最小になる。ムラが、見えない非効率と高コストを生むのである。

そして、ムラを無くすために、営業側は平準化した販売を心がけて努力する。これがトヨタの思想である。「一番安く作れるように、売ること」が営業部門の仕事なのだ。まあ、もともと自動車は季節性も少なく商品サイクルも長いため、平準化した販売に向いた商品ではある。ただ、彼らはその特性を意識して利用している。かつて'80年代に、それまで製造会社(トヨタ自工)と販売会社(トヨタ自販)に分かれていた2社が合併してトヨタ自動車が生まれるのだが、その動機の一つは、このような平準化した販売と生産の実現にあったと想像される。

もちろん、以上はトヨタの考え方である。別に、あなたはあなたの考え方を持っていい。わたしだって別に、トヨタの思想のセールスマンではない(だから「トヨタの真似だけでは儲からない」という副題を持つ本『“JIT生産”を卒業するための本』の共著者になったりしたのである^^;)。また、あなたの会社の製品は季節性や単発性が強く、平準化した受注・販売など思いもよらないのかもしれない。

だが、そういうあなただって、無理をさせられるのは真っ平だろうし、ムダだって嫌いなはずだ。だとしたら、見通し得ず準備もできないような対応を要求されたり、ルールなく気分次第で決断を下されることは、避ける努力をするべきである。少なくとも、そのことが非効率や高コストや長納期の原因になっていることを、指示を出す側に対して、明示する方が良い。

そして同じ事は、あなたのサプライヤーに対しても、するべきでないことはお分かりだと思う。サプライヤーが予見も準備もできないようなペースで発注や指示を出したら、彼らは必ずムリをして、結果としてムダを含んだコストがかかることになる。その高いコストを、結局はあなたの会社に請求してくるのだ。

とえばサプライヤーが適正に予見できないような再製作やリワークを含む発注をする場合、その予見できない分は、本当は実費精算契約にすべきである。そうすればリワーク分が「見える化」されて、あなたの側の改善のタネを与えてくれるだろう(念のためいっておくと、あなたの会社が海外に進出したら、そんなムリな注文は海外企業はふつう受けない。無理が通るのは、相手がつきあいの長い国内企業の場合だけだ)。あるいは、たとえばあなたの企業が大会社で、発注先の部品サプライヤーが中小だったら、ムリなJIT納品など要求すべきではない。むしろあなたの側で部品在庫をもって急な需要変動に対応し、サプライヤーに対してはより平準化した量を注文するようにした方が良い(後者のアイデアは、畏友・本間峰一氏による)。

ムラのある指示が、一番良くない。予見・準備ができ、実行可能な計画を作って、生産・販売が合意すること。あるいは発注者と受注者が合意すること。そして、それをお互い守ること。これこそが、わたし達を異常なムリ・ムダから守るすべなのだ。


<関連エントリ>
 →「稼働率100%をねらってはいけない」 http://brevis.exblog.jp/22236990/ (2014-07-27)
 →「ムリ・ムラ・ムダ:その意味と違いを考える」 http://brevis.exblog.jp/25009088/ (2016-12-04)


by Tomoichi_Sato | 2016-12-09 07:18 | 考えるヒント | Comments(1)

ムリ・ムラ・ムダ:その意味と違いを考える

「受験勉強で大切なのは、計画性とペースです。ムリ・ムラ・ムダは一番いけません。」中学校3年生の時、担任だったO部先生がわたし達に、そう説いた。『ムリ・ムラ・ムダ』というセットの言葉をはじめてきいたのはその時だった。当時すでに生意気な中学生だったわたしは、“平凡な語呂合わせだな”と、心の中で思った。そしてもちろん、たいして計画性もなく、むら気を持って受験競争を渡ろうとしたので、志望校2校を立て続けに落ち、最後に公立高校しか残っていない状況になってさすがに青ざめた。

長じた後、わたしは何の因果か、計画系のエンジニアになり、あまつさえ他人に「計画的に時間を使いましょう」だとか、「プロジェクト・スケジューリングはこうです」などと伝えて歩く仕事をする立場になった。まったく我ながらいい度胸である。もっとも生まれつき計画性が高く、プランニングのセンスにたけていたら、かえって「計画にはどういう技術が必要か」などと考えることもなかったに違いない。自分が自然にできてしまうことに、理屈をもって深掘りする必要はないからだ。

さて、担任のO部先生は、ムリとムラとムダがそれぞれ、どういう意味でどう違うかについては、説明してくれなかった。自明だから常識で考えろ、ということだったのかもしれない。だが、この三つは、そんなに自明なのだろうか。仕事においても、ムリ・ムラ・ムダがいけないのは周知の事実である。しかし、ちょっと考えてみてほしい。たとえば次のシチュエーションは「ムダ」に相当するのだろうか?

状況1:
「上流側の設計条件がかわってしまったため、途中まで進めていた作業がやり直しを余儀なくされた」

状況2:
「組立て作業の途中段階で部品が足りないことに気づき、資材倉庫まで探しに行って取ってきた」

『ムダ』という言葉を、“必要のない事をすること”という風に、常識的に考えている限り、上記はどちらもムダではないことになる。なぜなら、再設計であれ部品探しであれ、必要な作業であって、それなしには仕事は完遂しないからだ。もし上記の作業に従事する人が、作業日報をつけたならば、どちらも「直接業務時間」だとするだろう。明らかに、研修だとか清掃だとか部会だとかいった「間接業務」ではないからだ。

コストダウン活動などの号令がかかり、「時間のムダ取り」による改善アクションが叫ばれるとき、まず真っ先にやり玉になるのは、上記のような間接業務の時間だったりする。こうした間接業務は、顧客に対して直接、何らかの価値を提供するのに貢献しない。逆に、設計をしたり組立作業をしたりすることは、必須の直接業務である。これが通常の感覚であろう。

しかし間接業務の全てをムダと言えるかというと、少し問題がある。たとえば会計業務は典型的な間接業務だが、じゃあ経理はムダだからやめてしまえ、という議論にはなるまい。まあ経理は法的な義務だから、ムダかどうかの議論にはなじまないとしても、人事だとか広報だとか経営企画だとかいった仕事は、顧客に何かの価値を提供しているのか? もしこれらの仕事が、全体としてムダだと思われていないのだとしたら、「間接業務=ムダ」という図式は当てはまらないことになる。

また、直接業務の中にもムダは潜んでいる。たとえば、

状況3:
「週次のプロジェクト・ミーティングでプロマネが担当者一人ひとりに進捗報告をさせている間、他のメンバーはあくびをかみ殺しながら、スマホでこっそりメールを見たりしている」

というのは、何かムダを感じる人が多いだろう。じゃあ、進捗報告は不要か? と問い詰められると、ノーとは言いにくい。たしかに必要だろう。だが、なんだか生産性が低い(もっとも中には、進捗報告を聞きながら同時にメールを見ているのだから、むしろ生産性は高い、と答える人もいるかもしれないが)。生産性が低いと感じる理由は、<担当者1→プロマネ>の進捗報告を、他の担当者が聞いても、価値のある情報が少ないことがしばしばあるためだ。

仕事における『ムダ』の概念を、直接業務であるかどうかで定義したり、必要性だけで判断するのは、なんだかそぐわない点があることは分かった。では、ムダの判別は何がキーなのか?

最初の状況1の例に戻ってみよう。もし仮に、上流工程がきちんと設計を完成させて、顧客とも十分確認してから下流側に条件を流してくれていれば、このようなやり直し作業は発生しなかったはずだ。たしかにこのやり直し作業自体は、現時点では必要である。だがもう少しさかのぼって、もっと仕事全体の段取りをうまくやっていれば、不要だったはずだ。

状況2の例も、もしも(たとえば)組立作業でちょうど必要になるタイミングで、その部品が上流工程やサプライヤーから組立場所に供給されていたら、わざわざ資材倉庫に取りに行く必要はなかった。たまたま、何らかの理由で、消費するタイミングよりも前に供給されてしまったので、やむなく倉庫に一時的に保管するしかなかったのである。あるいは見方を変えて、かりに倉庫保管はやむを得なかった(たとえばロットサイズの理由などで)としても、組立作業の着手前に、物流係が必要とする部品全てをセット組みして配膳するような作業フローだったら、こうした部品探しの手間は不要だったろう。

つまり、『無駄』とは、仕事の段取りややり方がもっとスムーズだったら、やらずにすむ作業のことを言うのである。このように定義すれば、設計や製造だけでなく、経理や広報などの間接業務にも、いろいろなムダが潜んでいる可能性があることがわかるし、だからといって間接業務は全てやめてしまえ、などという乱暴な話にはならないのである。

ちなみに企業組織における間接業務というのは、自分達の仕組みの維持や能力向上、環境改善のために行う仕事である。人事がなければ給与も払われないし、研修がなければスキルアップも望めない。広報がなければ顧客の認知度にも有能な新人の採用にも差し支えるであろう。マクロな意味では、必要な仕事である。ただ、やり方や段取りがヘタだと、ミクロにはいろいろとムダが生じてしまう。

では、仕事における『無理』とは何か? 従業員を月に100時間も残業させることか? 大型トラックの運転手に、夜間の高速道路を時速110 kmで走らせることか?

YES、と即答したい気持ちはある。だが、ちょっと待ってほしい。人づてに聞いた話だが、かつてSUN Microsystemsの創始者だったビル・ジョイが、Unixワークステーションという新カテゴリーのコンピュータを世に出したときは、仲間3人とで半年間、不眠不休で働いた結果だったと聞いたことがある。定時勤務の観念があったかどうか知らないが、残業換算で100時間はかるく働いていただろう。だが、それを人は非難しただろうか。しなかったとしたら、それは結果が大成功だったためだけではない。そもそも、SUNの創始者達が、自らの意思でやったハードワークだったからだ。

物流業界の大型トラックが、夜間の走行を行うのは、道が一番すいていて、効率がよいからだ。スムーズに流れれば、それだけ運転のストレスも少ないだろう。だから物流トラックが終夜運行をしているのは、海外でもよく見られる光景だ。むろん、夜間労働が人間にとってハードであることは、異論の余地はない。そして遵法速度で運転すべきなのは、もちろんである。

そういう意味で、ムリと「不可能」とは別のことである。可能であり、ギリギリできてしまうが、長続きできない。これがムリである。

わたしの考えでは、『無理』とは、人の能力・性質・意思に反した働かせ方をしたり、道具の設計目的・使用限界を無視した使い方を繰り返すことである。過重労働の意思がない従業員を強いて働かせたり、設計上の最高速度ギリギリで車を走らせる(あるいはローギアで高速に走らせる)のは、ムリである。ムリはもちろん、しない方が良い。かりに当人の意思による無理であっても、それは一過性のことにすべきで、繰り返すのはよくない。ムリを続けると、きっとシステムが歪んでくる。機械ならば予期せぬ故障、人ならば病気、組織ならば能力と士気の低下をもたらすだろう。

では、仕事におけるムラとな何なのか。先月100個だった製品を、今月120個作るのは、ムラといえるのだろうか?

これもわたしの考えを先にいってしまうと、ムラとは「見通し得ず準備もできないようなペース・種類・場所での対応を要求したり、ルールなく気分次第で決断を下すこと」だと理解している。もし商品が季節品で、クリスマスに向けて需要が高まるものなら、10月に100個だったものが11月に120個でも、予期できるだろう。そして準備もできたに違いない。しかし、そもそも製造機械の上限があって、増産に週単位の準備がいるときに、急に「今月は120個よろしく」というのだとしたら、それはムラである。単に比率の問題ではないのだ。また、ルールなく突然、「あの外注先は気に入らないから今度の仕事は内製でいけよ」などと決めるのが、むら気というものだ。

さて。ムダ、ムリ、ムラについて、それぞれどういう意味かを吟味した。では、この三つのうち、どれが一番よくないのか? いささか長くなってきたので、この問題は次回に考えよう。






by Tomoichi_Sato | 2016-12-04 23:25 | 考えるヒント | Comments(2)