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英国史上、最も偉大な技術リーダーに学ぶべきこと

イザムバード・ブルーネルIsambard Brunel(1806-1859)の名前をご存じだろうか? 19世紀前半の英国を生きたエンジニアだ。生まれは今から210年前。その時代、英国は産業革命の成功を背景に、猛烈な勢いで勢力を伸ばし、北西ヨーロッパの島国から、世界最大の強国に成長しつつある時代だった。

BBC放送は2002年、「歴史上最も偉大な英国人」100人を選出した。1位はウィンストン・チャーチル。そして第2位がイザムバード・キングダム・ブルーネルだった(日本では「ブルネル」と表記されることも多い)。ちなみに、3位はダイアナ妃、4位がチャールズ・ダーウィン、5位シェークスピア、6位アイザック・ニュートン、7位エリザベス一世・・という具合だ。偉大な科学者や文芸家たちをおさえて、第2位の地位を占めた技術者ブルーネルとは、どんな人物だったのか?

1835年、首都ロンドンと、大西洋に面する英国西海岸の港町ブリストルをつなぐ、「グレート・ウェスタン鉄道」の建設事業が始まる。ブルーネルはその主任技師だった。当時まだ29歳。彼は路線候補地を自分で調査した上で、高低差や急カーブの極力ないルートを選び、さらに走行安定性と乗り心地を保証するため7フィートという広軌の鉄道を設計・建設する。建設ルートの中には世界最長のボックス・トンネルも含まれていたが、見事にこれをやり通す。さらに彼は自ら蒸気機関車の仕様を決めて作らせ、当時世界最高速の時速100kmの走行を実現する。

しかしブルーネルの構想はこれにとどまらなかった。彼は、ブリストル港から米国へ汽船航路をつくり、ロンドンからニューヨークまでをつなぐ、文字通り"Great Western"な輸送実現を考えていた。この当時、まだ蒸気船で大西洋航路を渡った実績はなかったし、船のサイズと必要な石炭や水の量から考えて、そんなことは不可能だと信じる人も多かった。しかし彼は周到な計算の上、船体を大きくする方が相対的に抵抗が少なくなることを示し、世界最大となる72m長の蒸気船「グレート・ウェスタン号」を作る。木造船だったが、骨格を鉄で補強した船だった。蒸気機関には最新鋭の復水器を装備し、高効率と水の消費量の削減を実現。そして1839年、見事に大西洋航路横断に成功するのである。

ただしこの船は、まだ船体の横に外輪をつけたパドル型だった(ペリー総督が乗ってきた黒船のタイプである)。ブルーネルはこの構造を刷新し、1843年には「グレート・ブリテン号」を就航させる。これは98m長、3,400トンの鋼鉄船で、推進力は外輪ではなくプロペラだった。今日の近代船舶の祖型となった船である。これによって、英国は北大西洋航路における独占的な地位を築く。
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ブルーネルはさらに1852年には、210m長・2万2500トンという途方もなく巨大なGreat Easter号をつくる。構造的には二重底や防水隔壁をそなえた画期的なもので、これらの原理は今日の造船工学の常識となっている。この船は客船としては商業的に成功しなかったかわりに、特殊船として大西洋ケーブルの敷設に使われ、これによって欧州と米国は電気通信がはじめて可能となった

ところで今日の英国では、ブルーネルの名声はむしろ橋の設計と建設で記憶されているようだ。これも当時世界最長となった192m長の「クリフトン吊り橋」。ブリストルの西部を流れるエイボン川に架橋されており、今でも現役で使われており観光名所となっている。彼は設計において自重や応力分布を細かく計算し、鋼材の負荷状態を知ることができるようにしていた。

そして1859年完成の「ロイヤルアルバート橋」。機能と形状が美しく調和した設計の橋である。ただし、まだクレーンのないこの時代、河の中央部に設置する橋桁の工事が最大の難関だった。ブルーネルはここで『ニューマチックケーソン工法』を採用する。大きな鉄管を沈めて圧縮空気を送り、中で作業員がセメント等で補強し固定する工法だ。
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彼はまた、英国のクリミア戦争のとき、戦地に赴いたフローレンス・ナイチンゲールの要請に応えて、木造プレハブ工法によりレンキオイ病院をわずか5ヶ月間で建設する。今日の衛生・消毒・換気・室温コントロールの原理をといいれた換気装置付きの画期的建築設計で、感染症を抑えたおかげで、他の野戦病院での死亡率が40%だったのに比べ、この病院はわずか3%にとどまった。

ブルーネルは1959年、わずか53歳で亡くなる。彼は大学を出ておらず、たたき上げだった(父親はフランスに留学させたのだが、国籍の問題で入学を拒否されたのである)。帰国後間もない若い頃、父親と協力してテムズ川の川底を通るテムズ・トンネルの施工に従事する。当時はまだ人力掘削の時代であったが、側壁を支えながら掘削していく一種のシールド工法を用いて建設され、鉱山以外では例をみない新しい方式であった。このトンネルは現在でも地下鉄East London線で使われ続けている。

彼ら親子は自ら先頭に立って工事現場で指揮し、崩落事故で労働者が取り残された時、一人戻って救出にあたったのも、若きブルーネルだった。こうした点も、彼が英国史上10傑も選ばれた理由なのだろう。理論だけでもなく、設計だけでもなく、施工だけでもない。その全てを率先してこなした点に、ブルーネルの偉大さがある。

BBCによる説明からの孫引きになるが、ブルーネルは「エンジニアという、閃きが不可欠であるけれど も、それと同時に投資家や事業家を惹き付け、製造・建設に従事する労働者達の士気を高め、なおかつ安全確保等の観点から細部へのこだわりも持っていなければならないという、困難な職業を完璧なまでにこなした、 バランス感覚に優れたタフな人物だった」。

ここには一つの、完成されたエンジニア像がある。彼は(むろん彼女でもいいけど)、
・発想のひらめき、創造性がある
・事業家や投資家の関心を引きつける
・実際の作業に携わる人々の士気を高められる
・細部へのこだわりと、安全確保の心構えがある
という4本柱が必要なのだ。どれか一つでも欠けると、大きな仕事はできない。

世の中には技術者が尊敬される国、尊敬されない国がある。たとえば、フランスではエンジニアの地位が高い。これは歴史的な理由により、工学部がグランゼコールとよばれるエリート大学に設置されてきたかららしい。ドイツやイタリアでも、マイスター制度などの職人手仕事への敬意と、長い科学研究の伝統があって、それなりのようである。逆にわたしはずっと、英国ではエンジニアは中流階級の仕事であり、地位はあまり高くないと思い込んでいた。しかしBBCのランキングを見ると、間違いだったようだ。かの国でもちゃんと、優れた仕事をした技術者は評価されるのだ。

正直にいうと、わたしがブルーネルの名前を知ったのはつい3年ほど前のことだった。アルジェリアのテロ事件で亡くなった、故・新谷正法氏(前副社長)が社内で行った、安全に関する短い講演資料で知ったのだ。その内容は、「ハイボールと、本質的安全設計の教え」(2014-01-19)で紹介したとおりだ。じつは、飲料「ハイボール」の語源となったあのボール信号機は、ブルーネルがグレートウェスタン鉄道で採用した工夫の一つだった。シンプルだが、故障すると安全側に動き、本質的に安全な設計である。ああしたところに、傑出した技術者の精神が現れるのだ。

では日本で同じようなランキングを作ったら、上位に入る技術者はいるだろうか? あなたは誰の名前を書くだろうか。島安次郎? 本田宗一郎? 技術者は芸術家と違って、個人で名前を残すつもりで仕事をしているのではない。つくったものが、長く人々に使われることが、技術者には一番の幸せなのだ。石碑や銅像を建ててほしくて働くのではない。そしてもちろん、管理職として大企業で出世するか、さもなくば起業家になってIPOで金持ちになる事が、エンジニアとしての理想像だという今日の通念も、間違っているとわたしは思う。しかし、偉大な仕事をした人は、わたし達の社会にもたくさんいたはずだ。では、わたし達はなぜ、彼らの名前や、業績や、その理想と心意気を知らないのだろうか。

傑出した鉄道技術を表彰するために、1985年に「ブルネル賞」が創立された。だが、ブルーネルは、機械工学の仕事も、土木工学の仕事も、建築の仕事もやった。そして、どれも傑出していた。彼は何か一つの専門分野に立てこもった「専門家」ではない。科学研究の世界は、どんどん専門分化していく傾向にある。だが、技術は総合化していく必要がある。とくに「大きい仕事」「先端的な仕事」をしたければ、隣接する多くの技術を束ねていく力=インテグレーション能力がなくてはならない。
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(ブルーネルの設計によるパディントン駅)

それと同時に、エンジニアは技術の歴史を学ぶべきである。技術は単体では生まれてこない。社会のニーズ、周辺を支える別の技術、最新の科学法則、そして事業を支える経済力など。こうした文脈をすべて見通した上で、はじめて優れた仕事が生まれるのである。愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ、という金言がある。ならば、わたし達も、広く技術の歴史を学ぶべきではないか?


<関連エントリ>
 (なお、写真3点はいずれもWikipedia英語版からの引用による)

by Tomoichi_Sato | 2016-08-28 18:18 | ビジネス | Comments(0)

職人的であること、エンジニアであること

ちょっと贅沢をして家族3人でお寿司を食べに行った。ネタの新鮮さでは界隈で一番という店である。期待通りの、いや期待を超えた美味だったし、いつもは寡黙なメインの寿司職人さんが、珍しくいろいろ話をしてくれた。包丁の入れ方だけでイカはどれほど旨みが変わるか、雲丹は塩水保存とミョウバンを使ったものでは口どけが全く異なること、などなど。サンプルと実演を混ぜて教えてくれた。寿司職人の勤務時間や修業時代についても、語ってくれた。お盆の連休前で、リラックスしていたのかもしれない。

帰り道に、息子が感心したようにつぶやいた。「寿司職人て、なるのはやっぱり大変なんだね。時間も仕事もきつそうだし。でも、それだけ修行したら、あの人みたいな腕になるんだ。」就活が一段落したばかりの息子は、たぶん来年からの自分自身も重ね合わせて、感じ入ったらしい。「それに、あのイカの味の差! すごい技術だよね。」

——技術じゃなくて、技能だな。
わたしは、軽く訂正した。

「技術と技能って、何か違うの?」

——違うよ。技能ってのは、あの板さんみたいに、その人の目や腕にいわば染み込んだ能力のことをいう。これは人についていて、他人にすぐには伝えられない。『属人的』な能力といえるだろう。

「ふうん。」

——ところが、技術というのは違う。技術ってのは、基本的に人に移転可能なんだ。技術の基礎は科学法則とか、経験知だけれど、それは言葉や数式や道具にして、人に伝えることができる。ここが大きな違いだ。

「そうなんだ。」

息子は再生可能エネルギーに関係した仕事を志望している。一応理系の学部を出て修士課程で学んでいるが、工学部ではないのでエンジニアの教育は受けていない。かといって営業とか経理など、事務屋になる訳でもない。では、どういう職種になるのか。どういう風に、腕を磨くべきなのか。そこが関心事なのだろう。そこで、わたしは続けた(誰かにものをたずねられると、いい気になってしゃべり続けるのが、わたしのいつもの癖である^^;)

——職人技と技術の違いを分かっていない人は、世の中に珍しくない。もちろん、どちらも大切なものだ。だけど、自分たちの会社の強みが、どっちで成り立っているか自覚していない企業も多いんだ。たとえば、精密な加工で、高性能な製品を作っている会社がある。そこの技術者たちは、自分たちの設計が良いから、高性能だと思っている。だけど、その精密加工は、じつは現場の職人の技能が支えているんだ。彼らが退職してしまったら、もう設計図どおりに製品を作れない。たとえ作っても、元の性能は出ない。だったら、その会社が大事にするべきなのは誰か。分かるよね。

「現場の人でしょ?」

——うん。あるいは、こういう例もある。超高圧に耐える製品を出している会社だ。微細なずれも許されない。だけど、その中核となる部品は外注先の中小企業が製造していた。その外注先がつぶれたら、あるいは経営者が高齢化で会社をたたむことにしたら、どうやってその製品を作り続けるのか。たずねてもはっきりした答えはなかった。不思議だと思わないか。技術というのは再現性のある結果を出せるから、技術なんだ。生産の継続性が保証できないのに、技術と言えるだろうか。図面を引くだけが、技術じゃないんだ。

「職人の仕事は、再現性がないの?」

——人によって違うだろ。さっきの板さんと、下っ端じゃ、同じ材料の刺身を切っても味が違う。

「なるほど。」

——まあ、大学を出た知的職業の中にも、職人的な仕事はいくらでもある。弁護士だとか、外科医だとか、音楽家とかは、同じケースを扱っても人によって結果が全然違う。だから、職人仕事が低級だとか、まずいとかいってるんじゃないよ。ただね、技術者はそうであってはいけない。同じ条件で設計したのに、材料の量が人によって3倍も違う、というのは技術になっていないんだ。

「設計の上手・下手っていうのはないの?」

——それは確かにあるよ。設計は与えられた条件の中で、科学法則に従いながら、問題を解決できる構造や形や機能を与える仕事だ。手際のよしあし、できばえの美しさや効率の良さ、というのは違いがある。とくに設計上の自由度が大きい、白紙のキャンバスに絵を描くような種類の仕事ではね。それでも、技術者はいつも普遍性を意識していなくちゃいけない。どんなときにも、一定のレベルで結果を出せなきゃプロとは言えないだろ? 経験知は言葉や式や道具にして他人に伝え、後輩の設計が下手なら、育成指導しなきゃいけない。そこまでやって、はじめてエンジニアの仕事は完結したといえる。

「ふうん。」

——ただ、一番良くないのはね、自己認識と、実際に自分がやっていることが、ずれている場合だ。たとえば、『自分はエンジニアだ』と信じながら、仕事のやり方はじつは職人的だ、という人がいる。職人は客観的な数字より、自分の五感を信じる。個人主義で、弟子以外の人に技を伝えるのを嫌う。原理や法則化も志向しない。だから、そういう自己認識のずれがあると、組織がだんだん歪んでいく。

・・そう説明しながら、わたしは職人的であることと、技術者であることの特徴的な違いを、頭の中で拾い出してみた。いろいろな類型化が可能だが、わたしがすぐに思いついた違いは、次のようなことだった:

「職人」
・五感を大切にする
・言葉による教育はしない
・自分が納得できる仕事がしたい(一に自負、二に報酬)

「エンジニア」
・科学的原理と経験知を大切にする
・知識と数式で教育する
・大きい仕事がしたい(組織人であることに抵抗がない)

わたしの連れ合いの父、つまり息子から見ると父方の祖父は、職人あがりだった。だからイメージがつかみやすい。職人は、自分の目で見、鼻で嗅ぎ、手触りによる判断を大事にする。自分の五感を最も信じるのだ。また、職人は徒弟制度の中で育つが、その基本は実地教育であり、懇切丁寧に教えたりはあまりしない。むしろ「親方から盗むこと」「先輩の背中を見て育つこと」を期待される。

そして、職人的であることの何よりの特徴は、仕事に対する態度だ。それは、「自分が納得できる良い仕事がしたい」と強く思うことだろう。職人はもちろん、報酬のために働く。昔は出来高制だったから、たくさん働けば、それだけ良い収入を得られた。しかし、お金より大事なのは、「納得できる、良い仕事」なのだ。職人にとっては仕事の成果が自分にとっての最大の報酬である。逆に、お金は二の次で、自分の興味ある仕事に打ち込んでいくのが、職人的な態度だ。

ところで、わたしの父親は技術者だった。父は早く亡くなったが、それでも大きな影響を受けた(エンジニアリング会社などというところで働いているのも、その影響の一つである)。父は数学や科学的原理を大切にしており、またよく勉強していた。ただ、自分もエンジニアになって分かったことは、科学が十分に説明できない経験知も、非常に大きな比重をしめていることだ。ただ、そうした知識と数式が、技術者教育の基本にある。「移転可能であること」が技術だからだ。

もう一つの技術者の特徴は、「大きい仕事がしたい」と考える人が多いことだ。大きい、は一種の比喩であって、物理的には「世界最小の製品」だって、意味的には「大きな仕事」である。とにかく、先端的な仕事で実績を上げ、名を上げたいという欲求が強い。そこは一種の競争心である。そして、大きな仕事をするに当たっては、技術的な分業体制が必要になる。そのため、組織人であることに抵抗がない点も、エンジニア達の特徴だろう。組織に属し、組織のルールや制約にも黙って従う。そこは、自立心の強い職人たちとは、少し違っている。

では、ものづくりの仕事に携わる人は、職人と技術者の2類型に分けていいのだろうか。なんだか足りないものがあるな・・と考えて、気づいたことがあった。連れ合いの父も、わたしの父も、後年は人の上に立ち、人をリードする立場になっていた。つまり単なる職人や技術者ではない、別の職種になったのだ。人を束ねて、ものづくりを進める。経営者というと身分の話になってしまうから、ここではあえて「技術リーダー」という言葉を使うことにしよう。そう、以前紹介した、ワインバーグの使った用語である。では、技術リーダーとはどういう人たちか?

「技術リーダー」
・直感と協調性を大切にする
・リーダーは教育と実地訓練で育てられると思っている
・価値がありお金も儲かる仕事がしたい

技術リーダーはとても実際的な人たちである。彼らは現実感覚、もっといえば自分の直感や見通しを大切にする。同時に、人を束ねる仕事だから、協調性も大事だ。協調性とはいいかえると、「感情やパッションを共有すること」である。また、彼らは後輩の育成指導も大事な仕事と心得ている。こういったリーダーは、たんに素質を見いだすだけではなく、言葉でも教育し、かつ実地訓練で育つと考えられている。

技術リーダーたちが望む仕事は、価値があり、かつ、ちゃんとお金も儲かる仕事である。価値がなければ人々はパッションを失ってしまい、ついてこなくなる。しかしお金が儲からなければ、人を養うことができない。人を大切にし、かつマネーにもこだわる。これが技術リーダーだ。(なお、わたしはこういう人たちを『プロマネ』という言葉でよびたい欲求もあるのだが、そうよんでしまうとかえって狭く受け取られかねないので、このままにしておく)。

こう考えると、ものづくりに携わる人たちには、三つの類型があるように思える。職人と、エンジニアと、技術リーダーだ。三つの頂点が作る三角形の中に、自分を付置してみるのも面白い。そして自分の目指す方向も描いてみる。たいていの理系大卒の人間は、右下隅のエンジニアの卵としてキャリアをはじめる(わたしもそうだった)。その後、エンジニアであり続ける人もいるが、科学原理は脇に置いて、リーダーとして人を動かし、世に認められる(商業的にも)仕事を目指していく者もいる。また科学原理を離れ、職人的になって自分の感覚を頼りに、守備範囲を孤独に掘り下げていく人もいる。どれを選ぶかは上等下等というより、価値観の問題だ。
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・・というようなことを考えつつ、さて、こういったややこしい図式を、ほろ酔い機嫌の帰り道で説明するのはなかなか至難だな、と思っていたら、しばらく黙っていた息子から質問があった。

「エンジニアに向いているか職人に向いているかって、会社ではどうやって決めるてるの?」

——それはね、本当はその人の資質で決めるべきなんだけど、たいていの会社ではいわゆる学歴で最初から振り分けているのさ。『技術員』と『技能員』という言葉で呼び分けている会社もある。技術員は大卒で、事務所で計算や図面引き、技能員は高卒で、現場で一生、力仕事、と。昭和時代には、大卒は「人事部」が管理して、高卒は「労務部」が相手する、という風に管理組織まで分けている会社があったくらいだ。

「え、人事と労務って、そういう違いだったの?」

——かつて、一部の会社ではね。そして、大卒はホワイトカラーとしてどんどん上がっていけるけれど、高卒は良くても課長止まり、という会社がほとんどだった。給料も全然違う。あんまりバカバカしいから、みんな子どもは大学に行かせるようになった。日本では90年代の初めに、高卒より大学進学者の方が多くなる逆転現象がおきた。結果として、現場で働く職人はだんだん減って、現場仕事の質は残念ながら、どんどん下がってしまった。その一方で、ホワイトカラーや営業職種は水ぶくれになって、生産性が上がらないことおびただしい。品質問題と生産性低下。これが平成不況の症状だ。明らかに、間違ってるだろ?

「何でそんな事になっちゃったのかな。」

——それはね、人間の職種を上下に分けて、それを学歴で振り分けたことだ。職人は肉体労働として卑しんだ。誰でもできて、代わりはいくらでもいると、高をくくった。自分たちの産業が、どれほど職人仕事に依存しているかも理解せずにね。そのくせ高学歴の自分たちは、無意識に職人的な仕事ぶりになって発展力を失っていった。

「技術の進歩で、職人仕事は減らないの。」

——ある種の単純な力仕事は、たしかに減ったさ。だけど確実に残る部分はある。さっきの板さんの仕事を、ロボットで代替できるかな? ああいう手先の細かな技能こそ、日本の宝なんじゃないかな。あの板前さんは大学どころか高校も出なかったみたいな話しだったけど、立派な技量を持っている。日本は学歴社会っていうけれど、じつは「入学歴」にすぎないだろ。

「そうだね。」

——18歳のある日の試験で、人よりたくさん正解を言えたからって、一生優遇されるなんて馬鹿げてる。お父さんの会社はさ、いろいろ問題はあるけれど、一つだけ自慢していいことがあるんだ。それは、大学を出ていなくても社長になれることさ。

「そうなの?」

——そうだよ。俺が入社したときの社長は、高専卒だった。それに、今から10年くらい前の社長も、たしか高専卒だったはずだ。それでいいんだよ、エンジニアリング会社なんだから。エンジニアは技術力がすべてだ。それは、その人が仕事でどれだけ学んできたかってことを示してる。さっきの板前さんの修行も同じさ。学歴ってのは、本当は『学んできた歴史』のことを言うべきだ。社会に出てから、どれだけ学んだかが、その人の本当の価値なのさ。


<関連エントリ>
 →「スペシャリストか、ジェネラリストか?」 (2016-04-18)
 →「組織のピラミッドはなぜ崩壊したか(2) 学歴社会の矛盾」 (2010-09-19)
by Tomoichi_Sato | 2016-08-21 03:40 | 考えるヒント | Comments(2)

マネジメントの仕事・地位・パワーを混同してはいけない

ある朝、目が覚めると、あなたはノルウェー国王になっていた。いったいどうしてこんな事になったのか。あなたは自分の名前も、生まれ育った日本の町も経歴も、全部ちゃんと覚えている。なのに、ノルウェー国王になったつい最近のいきさつだけは、すっぽりと記憶から落ちている。

呆然としながらも身支度を終え、質素ながらも立派な朝食を食べて人心地ついたあなたの前に、宰相がやってくる。彼は礼儀正しくあなたに挨拶をすると、いくつかの紙の束を取り出して、あなたの前に置く。「国王陛下。これが本日、発布いただきたい法律と政令です。どうか、ご署名ください。」

念のために言っておくと、北欧の国ノルウェーは、完全な民主主義国家である。法律は国民の選出した議員が国会で決める。だが、すべての法令は、国王の名前で公布するしきたりになっているときく。宰相があなたにサインを求めてきたのは、そのためである。あなたの前には、法令書類一式と、国王用の立派なペンが置かれている。

さて、ここで問題である。あなたは、法案にサインして交付することにした。あなたのしている事は、マネジメントだろうか?

・・これは、わたしが大学の授業でプロジェクト・マネジメントを教える際に、学生に問いかける質問の一つである。プロジェクト・マネジメントの講義であるから、最初はまず、プロジェクトとは何か、そしてマネジメントとは何か、について、簡単にレクチャーするところからはじめる。プロジェクトとは、(1)終わりのある仕事であり、(2)複数の人間が協力する必要があり、(3)失敗のリスクがともなうような種類の仕事である、とまず説明する(これはPMBOK Guideの”A project is an endeavoir …"という抽象的な定義を、わかりやすく言いかえたものだ)。

ついで、マネジメントとは多義語だが、その中核にある原義は、

 「人に働いてもらって、目的を達成する事」

だと教える。人を動かすことがマネジメントであって、自分の手を動かして何かを産出することは、(それ自体は尊い仕事だが)マネジメントとはよばない。

他に二つ、マネジメントとして大事な要件がある。それは、先読みとリスクテークを含む「決断」を必要とすることだ。不確実な状況下で決断しない人、決断できない人、先延ばしにする人は、マネジメントに向かない。また、計画を立て、現実との差異から学ぶことも、マネジメントに必須の仕事だ。 計画立案と現実の統率は「マネジメント」の車の両輪である 。だから、

「人を動かせない・決めない・見通せない・学ばない上司やボスに、皆さん方は将来、出会うかもしれません。だが、その人がたとえ立派な役職についていようとも、そういう人の仕事ぶりは『マネジメント』からはほど遠いというべきです」

という話をしてから、上記の質問をするのである。ある朝気がつくと、あなたはノルウェー国王になっていた。さて、法案にサインし交付するあなたの仕事は、マネジメントか? と。

こういう聞き方をすると、マネジメントではないと思います、と答える学生がほとんどだ。なぜ? とわたしは聞き返してみる。たいがいは、こう答える。
「だって、人を動かしている訳でもないし、自分で決断している訳でもないでしょう。」

でも念のため、わたしは意地悪く質問を重ねる。・・そうかなあ。法律を定めたっていうことは、ノルウェーのすべての人がそれにしたがって動くということじゃない? つまり、人を動かしている訳だ。それにあなたは、自分の意志でペンを取って、サインすると決めたんでしょ?

「でも、法案にサインしない、っていう選択肢はないんだとしたら、それは決断とは言えないと思います」

その通りだ。ノルウェー国王には、こんな法案は気に入らないから、別のものを持ってこい、と議会に命じる権限はない。拒否権はないのだ。それに、法律が人を動かすのは事実としても、それは国王が意図した目的のために作られる訳でもない。だから「人を動かして目的を達する」ことにはならない。

念のためにいうと、ノルウェー国王は、元首である。国内で、彼(彼女)よりも偉い人はいない。人々の上に立つ、トップリーダーだ。だが、人の上に立つということと、マネジメントをする事とは、まったく別である。この単純な事実を理解してもらいたくて、わたしはこんな変な質問を学生にするのだ。

というのは、「管理職の地位に就く」ことと、「マネジメントの仕事をしている」ことを、人はしばしば混同するからだ。何らかの地位にあるのは、英語で言えば to be 〜である。しかし、マネジメントをするのは、英語なら to do 〜だ。イコールにはならない。

さらにいうなら、マネジメントは、管理職になるよりずっと前から、たいていの人に必要となる仕事なのである。「人に働いてもらって目的を達成すること」である以上、入社後まださほど年数もたたない若手技術者が、仕様書を書いて外注先に発注し、仕事をしてもらったら、明らかにこの人はマネジメントをしている訳である。あるいは、同僚や先輩の協力を得て店を決め、得意先との楽しい飲み会をセットし幹事の仕事を全うできたら、マネジメントの初歩をしているのだ。いや極端に言えば、朝の食卓でお母さんに「そこのお塩とって」と頼んで、お塩をとってもらったら、その瞬間は母親をマネジメントしたのだ。

もっとも、「立っている者は親でも使え」の諺にしたがって、母親にお塩とってと頼んだら、「何いってるの、あんたが自分でとりなさいよ、この不精者!」と逆襲される可能性は多々ある。あなたには、母親を動かす『強制力』がないからである。上長はふつう、部下に命じて動かす強制力を持っている。なぜなら上司には、部下の査定と予算承認の権限があるからだ。部下が著しく不従順ならば、査定で給料を抑えたり他部門に飛ばしたりすることも可能だ。発注書だって管理職の判子がなければ普通は効力を持たない。

こうした強制力のことを、英語ではパワー(Power)とよぶ。いいかえれば、『権力』である。管理職は部下に対する権力を持っている。とくにアメリカ英語は簡潔かつ即物的だから、権力を持つ人のことをパワフル(Powerful)だと表現する。かつて黒人女性としてはじめて国務長官の地位に就いたライス女史のことを、有名誌が「世界で最もパワフルな女性」と表現したが、これは単に彼女がエネルギッシュであることを述べただけではない。実際に世界で(米国大統領を除けば)もっとも権力を持っていて、他国を否が応でも動かせる立場にいることを意味したのである。

さて、世の中のたいていの組織は、地位についてピラミッド型の階層構造を持っている。どうしてこういう形の組織が生まれるのか、本当にこうした位階秩序は合理的なのか。この問題については、ノーベル賞を受賞した経営学者ハーバート・サイモンをはじめ、多くの研究と説明があるが、ここでは省こう。ともかく、上に行けば行くほど椅子の数は少なく、職位が上の方が名誉も大きいとされている。人間には生まれ持った競争心があるから、組織人はつねに、上に行きたいという気持ちを抱いて働くことになる。

昇進への欲望をモチベーションにして、人を働かせるという方策は、たいへん良くできた仕掛けであって、これまで十分な効果をあちこちで示してきた。昇進もなく、将来への希望も全くない職場だと、どれくらい仕事の質や効率が落ちるか、容易に想像できると思う。

しかし、このような仕掛けには、まずい点が一つある。それは、地位・権力(=パワー)と、「人を動かし、見通しを持って計画し決断して、目的を達成していく」仕事(=マネジメント)とが、混同されやすい点である。くどいようだが、地位・権力は、"to be" とか "to have” で表現するもので、マネジメントは “to do”で語るべきものだ。

だが、管理職という地位・権限と、マネジメントという職能を等号で結びつけてしまったがゆえに、
「マネジメントは管理職がするもの」
「管理職だからマネジメントしているはず」
「自分は技術者だから(管理職じゃないから)マネジメントは関係ない」
といった誤解と錯覚が、あちこちで無限に増殖していく。

マネジメントは一種の専門的な技量であり、それをきちんと行うためには専門的技術(「管理技術」)を学ぶ必要がある、というような認識は、出世街道とピラミッドからなる組織図からは生まれにくい。まして、「プロジェクト・マネージャーとは、マネジメントという仕事を専任で引き受ける、一種の『役割』(Role)である」という概念など、非常に縁遠くなる。

プロマネとは一時的な(=有期性の)役割である、というのは、現代PM理論の世界では常識的な概念だ。ちょうど演劇で、今回の芝居ではこの人が国王役、と決めるように、そのたびごとに決める役割である。そして、いったん役割が決まったら、たとえそのプロマネが自分より年下であろうが、技術的には自分の方がずっと知識があろうが、最終的にはプロマネの計画や判断に従って動いていく(むろん、途中で意見のやりとりはあるだろう、当然だが)。なんとなれば、プロジェクトの最終的成果、価値への責任はプロマネが負っているからだ。責任を負うから、権限も委ねる。「権限=責任」の等式の両辺は一致させる。そのかわり、マネジメントのための管理技術の体系を学ばせる。これがまあ、現代流の(あるいは西洋流の)PM理論の考え方である。

ここでは、マネジメントをする「個人」と「ポジション」と「管理技術」が、それぞれ独立している(DB技術風にいうと、独立したエンティティになっている)。ところが、出世街道ピラミッド型の組織論で、すべてのマネジメントをまわそうとすると、
「優秀な個人」←→「上の立場・権力」←→「マネジメントの仕事」
という風に、ひとつながりになってしまう。

ここからさらに派生して、「部下を動かすのが上司の権限」=部下を不合理にいじめて上司風を吹かせるのも有能なる自分の特権の一部、と合点するパワハラ不心得者さえ、一定数、出現する。

ピラミッド型組織で、このような不都合を防ぐには、どうしたら良いのか。解決策は、二つある。一つは、管理職位ごとに、きちんと細かくルールを設定することだ。どういう人間ならばその職位につけるのかという、能力による品質基準(Qualification)。その職位がなすべき機能と権限の範囲。そして機能が要求する技術・知識・スキル。こうしたことを、個別に設定する。これを、ガバナンスとよぶ。

ただし、この処方箋の困難な点は、社内ルールを制定する権限もまた、上位職者が握っていることだ。だから「マネジメントには独立した管理技術がある」なんて意識がこれっぽっちもない方々が経営層に多い場合、こうしたルール制定は不可能だろう(そんなルールを敷いたら、まず自分たちが真っ先に不適格になってしまう)。本当は株主がガバナンスを要求すべきなのだ。だが、利益が出て株価が高ければ、あとは興味のない株主も多い。

もう一つの方策は? それは、「外を見る」ことである。自社のありようは自社のありようとして、外ではどうなっているのか。目前のライバルだけでなく、広く視野を世界に求めて、世の中ではどうしているのかを、学ぶ。これは日本企業が、これまで以上に海外と接するようになった今日、むしろ日々得られる体験でもある。

その昔、咸臨丸にのって米国を視察してきた勝海舟に、江戸城で幕府の重役がたずねた。かの米国と我が国の違いは何かと。海舟は、人間のすること古今東西同じもので、アメリカとて別に変わったことはありません、と答える。しかしそれでも何かの違いはあるであろう、と繰り返したずねた重役に対し、
「さよう、少し眼につきましたのはアメリカでは、政府でも民間でも、およそ人の上に立つものは、皆その地位相応に利口でございます。この点ばかりは、全くわが国と反対のように思いまする」
と答えた。するとご老中が目を丸くして、「この無礼もの。控えおろう!」と怒鳴ったという(「氷川清話」による)。

わたし達は勝海舟ほど剛胆ではあるまい。だが、米国の実情が彼のいう通りかどうかはともかく、他者を見て改めて我を振り返る、というのはわたし達に共通した特性である。勝自身、さまざまな身分の浮沈をくりかえし経験した人間であった。だからこそ彼には、地位と職務の違いが見えていたのである。

追記:
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ネットで検索すると、現在のノルウェー国王ハーラル5世は、この方である。Wikipediaによれば、なんでもノルウェー生まれの国王は、500年ぶりらしい。ときには自国の言葉もしゃべれない他所者を国王に招いたりするヨーロッパの人たちの王室感覚というのは、よく分からないものである。国王というのも、あるいは一種の『役割』なのだろうか・・?
by Tomoichi_Sato | 2016-08-11 18:21 | プロジェクト・マネジメント | Comments(0)

書評:「アルベマス」 フィリップ・K・ディック著

アルベマス (創元SF文庫)」大滝 啓裕・訳 (Amazon.com)

カリフォルニア州バークレイの街の住民ニコラス・ブレイディは、やや気むずかしい妻と小さな息子、それに猫と一緒につつましく暮らしていた。市内の大学にも通ったのだが中退し、レコード店の店員として平凡に過ごす彼の日常は、ある日、奇妙な神秘体験とともに激変することになった。啓示のように下った指示に従い、彼は住み慣れたバークレイの街を離れ、南カリフォルニアのオレンジ郡にうつって「プログレッシブ・レコード」社に上級職を得たばかりか、6歳の息子に先天的疾患があることを見抜いて治療を受けさせる。こうした一連の神のような啓示を与える主体を、ニコラスは「巨大にして能動的な生ける情報システム」Vast Active Live Intelligence System = VALISと名付け、人工衛星を中継した星からの通信であると信じるに至る。(「情報」はInformationではなく、Intelligenceである点に注意)

その頃、南カリフォルニア出身の上院議員フレマントは、政敵たちを巧みに葬り去り、反共主義をバックにして、大統領の座に上りつめる。トップの地位に就いた彼は、「アラムチェック」という地下組織がアメリカ国家をおびやかす重大な脅威になっていると宣言する。そして、右翼の青年グループを組織して、「アメリカの友」FAPという、武装して制服を身につけた若者たちの集団を作り上げる。彼らは警察の別働隊として、警察の黙認のもと、疑わしい人物を召喚尋問したり襲撃したりするようになる。

ニコラスもある日、FAPのメンバーにオフィスを訪問され、プログレッシブ・レコード社を訪れる反体制傾向のある歌手志望者を密告するよう要請される。だが、彼らの口ぶりから、真の狙いがVALISの把握と破壊にあると察知したニコラスは、友人の作家フィルに相談する。しかしフィルもまた、麻薬常習者の疑いをかけられ、FAPによる尋問や秘密の家宅捜査をうけているところだった。彼は麻薬は一切手を出していないのだが、仲間のハーラン・エリスンが序文で不用意にも彼の作品を、「マリファナの影響下で書かれた小説」などと紹介したために、FAPのブラックリストに載ってしまったのだった。その彼はまさにSF小説を一本、書き上げたところであった。ソヴィエトの強制労働収容所をモデルに、アメリカが警察国家になってしまう話だ。題名は『流れよ我が涙、と警官は言った』だった・・

本書は、フィリップ・K・ディックの遺作となった『ヴァリス』に先立ち、その数年前に書かれた姉妹作品である。同じテーマ・同じ登場人物名を持つけれど、生前は発表されなかった曰く付きの作品だ。彼がなぜこの小説をお蔵入りにしたのかは分からない。たしかに第二部の最初の部分はややだれるし、ディックお得意の現実崩壊感覚には乏しいが、後半のサスペンスの盛り上がりと緊迫感は、さすがストーリーテラーである。ディックの小説を読むのは本当に久しぶりだけれど、なかなか面白かった。

この小説は、(視点は一般市民の側から書かれているが)「独裁国家の作り方マニュアル」という点でも一級品だろう。フレマントは動乱の’60年代を生き延び、ケネディ大統領や弟ロバートの暗殺の後の政治的空白をついて、選挙で合法的に大統領の地位に就く。同時に、仮想的な地下組織という国家の敵を設定する。そして武装した若者による親衛隊的組織を作り上げ、警察や諜報部門からの情報を与えて、反体制活動家たちを襲撃・無力化していく。

彼らは教育・メディア・宗教・司法を影響下におき、さらに国民の間に相互監視と密告のためのシステムを作り上げて、国民がお互いに対して疑心暗鬼になり、団結できないような社会的素地を生んでいく。これは皆、20世紀のファシスト党やポルトガルのサラザール政権が、巧みに実践したことだ。その時代、もはや企業も役所も、支配するのは名義上の経営者や署長ではなく、党であった。ここまで行けば、あとは党内反対派の粛正、そして非服従民族の強制移住による絶滅策に進むだけで、これはナチス党やスターリンの共産党が邁進した政策だ。文化やイデオロギーの違いにかかわらず、独裁国家のやることが似ている点は、不気味である。

ディックが晩年抱いた「ヴァリス」VALISというイマジネーションは、こうした恐怖社会を中和し解体するための「神の助言」システムであるらしい。本書のニコラスの生い立ちや、神秘体験で息子の疾病を予言したことなどは、じつはディック自身の体験である。それをきっかけに、彼は初期キリスト教、とくにグノーシス主義(極端な禁欲主義と二元論を奉じる一派で、後に異端と断じられた)のシンパになっていく。本書にも「魚のシンボルをつけてギリシャ語を話す若い女性」など、随所にその影響を感じることができる。だから本書でも後半、ニコラスと友人フィルは、VALISからフレマント大統領の意外な正体について、啓示を得ることになる。

結局、ディックはこの小説を下敷きにしながら、ほぼ同じ登場人物とプロットで、あの哲学的で難解な『ヴァリス』を創作する。それはまあ、本書の変奏だといえよう。だが彼は続いて、遺作となった『聖なる侵入』を書く。これは邪悪な社会システムに支配される地球に、再度、神性が侵入し救済しようとするストーリーだ。わたしが今のところディックで一番好きな作品だが、ある意味SFとしては、本書の真の意味での「転生」だといえるだろう。

本書はサンリオSF文庫の最後の一冊でもあった。奥付を見ると、87年刊行となっている。この後、サンリオSF文庫はすべて絶版となった。わたしが買ったのがいつだったかは覚えていないが、買ってからたぶん20年以上、積ん読状態だったと思う。本はワインのように熟成する訳ではない。だが、読む時機を得ると、ある種の小説は迫真性を増すのだと、あえて付け加えておこう。
by Tomoichi_Sato | 2016-08-07 18:18 | 書評 | Comments(0)

全体像を見るために 〜 インテグレートされた工場の作り方

前回、『最適解を組み合わせても、良い生産システムは作れない』というテーマの話を書いたら、知り合いの方から「専門じゃないので理解しにくいが、面白そうなので簡単にわかりやすく教えてほしいい」という主旨の質問をいただいた。その方は音楽好きなので、わたしはこうお答えした。

「例えば音楽にたとえてみます。合唱では、あるパートが最初から最後までずっと全力で歌ってもダメですよね。休むところは休み、手を抜くところは上手に手を抜く。それで全体としては、流れのある良い音楽になるのです。」

合唱では(オーケストラなどでも同じだと思うが)、すべてのパートが常に全力で歌っていたら、やかましくて音楽としては聞くに堪えない。「全力で」のところを、「ピアノ・フォルテの強弱はつけるが、一つひとつの音符にすべてきっちり気合いを込めて」にかえても、結果は似たり寄ったりであろう。やはり全体としては、力んだだけで陰影に乏しい演奏になる。強弱だけでなく、間合い、リズム、音程、音質など、すべてが各声部の間でちゃんと調和して、はじめて美しい音楽が生まれるのである。

だから、よく素人が錯覚するように、「才能ある上手な歌い手が集まれば、良い演奏ができる」という訳にはいかない。曲の全体像を見て、ここはソプラノが主役だから中声部は和声の支えに回るべし、とか、テナーがテーマの旋律を歌い始めたら女声は動きを目立たせるな、といった協力関係が必要になるのだ。こうした指示を与えるのが指揮者の役割なのである。指揮者の仕事とは、全体の中で部分を位置づけ、部分のできることを見て全体を構築していくことにある。これをインテグレーションの能力とよぶ。アンサンブルが小さければ、あるいは皆が知っている短い曲ならば、指揮者なしでもなんとか音楽をまとめることはできる。だが楽曲が大きくなり、メンバーが多くなると指揮者が必要になる。

ただ、ここで素人にはしばしば、第二の誤解が生まれる。それは、「全体の構想は指揮者だけが分かっていれば良い。あとの大勢は、指揮棒にしたがって動けば十分だ」という誤解である。誰かスーパーマン的なリーダーがいて、その指示と命令のもと、大きな組織が機敏に動く。これが組織の理想像だ、という思い込みは結構根強い。こうした組織の動かし方を、”Command and Control”という。軍隊的な組織はその典型である。

しかし、こういうモデルは現実にはうまく機能しない。それは別にリーダーの能力不足のためではない。そもそも「指示と命令」型の組織では、“指示されない限り自分では何も動かない・考えない”タイプの人間が量産される傾向が強い。現場の末端が先を読んで行動しないので、問題はすべてリーダーが対処することになる。しかしリーダーが強烈であればあるほど、その周辺にはイエスマンばかりが集まり、都合の悪い情報は上がらなくなる。だから問題の数がある臨界値を超えてしまうと、組織は急激に機能不全に陥っていく。普段は良くても、大変なときに限ってぽっきり折れやすい、レジリエンシーの低い組織モデルなのだ。

だから実際には、組織の構成員が、皆ちゃんと全体を理解した上で、自分の役割を果たすべきだということになる。合唱のたとえに戻すと、一人一人が、楽曲全体の構造を分かった上で、自分のパートを歌うのが望ましい、ということになる。全体像を示し、各人に伝えるのは、指揮者の役目である。また逆に、歌い手側の中にも、全体像に対する独自の意見を持つ者がいるだろう。中には、指揮者が気がつかなかった提案だってあるかもしれない。だからそうした意見を聞くことも大事である。採用するかは、最終的には指揮者の判断になるだろうが。

こうした点を踏まえた上で、前回紹介した、典型的な(下手な)工場の作り方を見ると、「指揮者のいない演奏会」のような状態になっていることに気がつく。製造機械と、周辺設備と、建築の三つのパートが、全体像を見ないまま並行して進んでいく。だから途中で手戻りが多くなりがちだし、できた者に一貫性が欠けているため、見えない非効率の温床になりがちなのだ。

どうしてこういう仕事の進め方になるかというと、「工場という名の生産システム」の全体像を見て、それを最適化しようという視点が足りないからだ。工場を、システムではなく、「機械」と「周辺設備」と「建屋」の単なる集合体としてとらえている。各部分を別の部署で担当し、足し算の論理で作り上げようとしている。

では、より良い工場の作り方は、どうすすめられるのか? ここで、エンジニアリング会社が得意とする、石油や化学といったプロセス産業でのやり方を、参考までにご紹介しよう。それはこんな風に進む:
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(0) まず、工場要件の概要から出発する。ここは前回紹介したディスクリート型工場とほぼ同様である。ただ海外企業の場合、ここに「デザイン・フィロソフィー」文書が加わることが多い
(1) 次に、プロセス設計部門のエンジニアが、工場全体の『プロセスシステム』の基本設計を行う

プロセスシステムの基本設計を担当する専門職を、「プロセス・エンジニア」とよぶ。この業界では世界共通の用語であり、わたしの勤務先にも100人単位で技術者がいる。このプロセスシステム設計は、もう少し詳しく言うと、二段階からなっている

 (1-1) 工場内を流れる物質の流量バランス(物質収支)と熱エネルギー収支の最適化
 (1-2) 制御方式の設計(測定点の決定と制御ロジックの決定)

さて、このようにシステム全体の機能と流れが確定すると、次にシステムの構成要素の設計に進む。

(2) 機械設計部門が、要素機器の詳細設計を進める

システムの機能構成と要素が決まったら、そのつながりにしたがって空間的配置を設計しなければならない。そこはさらに二段階に分かれる:

(3) 配管・建築・シビル設計の各部門が、空間設計を順に協力して進める(通常、3D-CADを利用する)
 (3-1) まず、機械エンジニアが配管レイアウトの最適化を行う
 (3-2) ついで、架構・建築・基礎設計などの構造設計が上物→基礎の順に行われる

そして、設計から具体的なものづくり段階へと進んでいく。

(4) 調達部門・工事管理部門が、資機材の調達と建設・試運転 を行う(時間的にはこの段階が一番長い)

おわかりだろうか。(0)〜(4)まで、仕事は「要件→システム→構成要素→空間配置→調達→建設→試運転」という風に、一本の線として順に進む。そして、こうした全体の流れに齟齬がないよう、リサイクル・ワークが発生しないように管制塔の役割を果たす存在がいる。

(5) プロジェクト・マネジメント部門のプロマネとそのスタッフからなるチームが、全体の流れを統括する

管制塔機能とはすなわち、指揮者であり、インテグレーションの仕事である。プロマネ配下でプロジェクト・マネジメントに専門的に関わるチームを、Project Management Team = PMTとよぶ。小さな工場案件では、プロマネが一人で面倒を見るケースもあるが、大規模案件では複数人が必要になるからだ。

前回紹介した工場づくりのワークフローとの最大の違いは、工場全体が「システム」であるという概念が存在すること、そして「プロジェクト・マネジメント」という管制塔機能が存在することである。

まあ、上で示した流れは、実際には1,000以上のWBSアクティビティからなる流れをかなり簡略化したもので、現実にはもっと複雑だし、リサイクル・ワークも発生しがちだ。だが、全体の流れを統括して、妙な手戻りは極力無くそうと最初から努力はしている。そのためにPMTのメンバーは、設計上しばしば発生する小さな変更が、他の設計・調達・建設を通じて、どのような影響を及ぼし、コスト・スケジュールでどれほどインパクトを生じるかを、つねに予測しながら判断を行う。

そして、このような流れは、わたしの勤務先だけではなく、世界的なプロセス産業全体での共通理解になっている。発注者側も、これを求めるし、これを実現するために、エンジニアリング会社という業種が存在する。そして、そこにはプロセス・エンジニアや、プロジェクト・マネジメントの専門家が多数いる。こうした人材を、工場のオーナー企業が雇っても、数年に一度しかないプラントの新設・拡張だけに従事させるのでは非効率だから、アウトソースするのだ。

もちろん、こういう仕組みだから、すべてのプロジェクトがうまくいく、などと言うつもりはない。我々も正直、手痛い失敗をいくつも経験している。ただ、プロジェクトにとって最大の失敗は、コスト超過でもスケジュール遅延でもない。使い物になる成果物が生み出せないことである。そして、少なくともプロセス産業では、「非効率で使い物にならない工場ができあがった」という失敗はない。全体システムの最適設計を最初に行うからだ。

こういう手順を踏むため、プロセスプラント系の工場の作り方は、必然的にウォーターフォール型になる。最初にとにかく、全体像を決める。今回は反応系、次は回収系、という風に、部分部分を計画しては継ぎ足していくようなやり方はできないのだ。プラント系のプロジェクトにアジャイル型が不向きなのは、決して実物の工事があるためではない。プラントが単なる機械装置の集合体ではなく、インテグレーションされた密結合のシステムだからだ。

わたしがこのところ、ずっと「仕組み」だとか「システムズ・アプローチ」だとかにしつこくこだわっているのも、結局のところ、わたしのキャリアの出発点がプロセス・エンジニアだったことに由来しているのかもしれない。わたしの入社した頃の仕事は、石油リファイナリーの工場全体を、線形計画法を使って最適化設計し、経済性評価する仕事だった。その後いろいろなキャリアの紆余曲折はあったが、どの分野の仕事でも「システムの全体像」にこだわり続けているのは、その影響なのだろう。

ただ、そうだとしても、これまでずっと専門分野を深掘りしてきた中堅エンジニアが、「全体像を見る」ためには、どうしたら良いだろうか? いまさら畑違いのプロセスシステム工学など、学んでいる暇もあるまい。

わたしがおすすめするのは、二種類の『見方の練習』である。最初の練習はまず、「上司の上司の立場になって仕事のあり方を考えてみる」ことである。自分の上司の立場を想像することは、それほど難しくない。居酒屋談義でサラリーマンが「俺が課長だったら・・」みたいなセリフを吐くシーンは、珍しくあるまいし、ある程度は正鵠を得ているものだ。だが上司の上司となると、難しい。あなたが主任だったら、課長ではなく、部長になったつもりで、仕事をどう変えるべきか、考えてみる。あなたが課長だったら、本部長の立場で、どう仕事の仕組みをつくるか、考える。これは簡単ではない。かなり視点を背伸びして、高い位置から関連する仕事の全体を見なければならないからだ。

そしてもう一つの練習は、「顧客の顧客の要求を考えてみる」である。自分の目の前の顧客の要求は、毎日接しているし、闘ったりもしているので、良く知っている(つもりになりやすい)。ところが、その顧客だって、じつはさらに顧客がいるのだ。そして彼らだって、顧客の要求に悩まされている。たとえばあなたが部品メーカーで、顧客はセットメーカーだとしよう。顧客はあなたに、つねに無理なコストダウンやJIT納品を要求してくる。

だが、その顧客だって、じつは流通側のチェーンストアや量販店から、めまぐるしい需要変動への対応を要求されているのかもしれない。だから、あなたは「顧客が要求して言ってくること」の背後に、顧客自身が悩んでいる「隠れたペイン」を見通すべきなのである。それはいいかえると、「サプライチェーンの中で、自社の位置を理解する」ことにも通じる。そういう視点を獲得できれば、あなたが日々直面している問題に対しても、別の見方、別の解決策が見えてくるかもしれない。たとえ見えてこなくても、感情的なフラストレーションは、少しは薄まるはずだ。相手を、同じ手足のついた人間として見ることが、相互リスペクトの第一歩ではないか。

こうした二種類の見方を、折に触れて練習してみること。これが「全体を見る」能力を育てるための方法だと、わたしは信じている。そうした能力は、今すぐには無用に見えても、長いキャリアの中では、きっと役立つときが来るはずなのだ。


<関連エントリ>

 →「設計思想(Design Philosophy)とは何か」 (2012-03-26)
 →「最適解を組み合わせても、良い生産システムは作れない」 (2016-07-25)
by Tomoichi_Sato | 2016-08-02 22:24 | 工場計画論 | Comments(0)