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クリスマス・メッセージ:平和のレジリエンシー

Merry Christmas !!


以前、社内のPMO(Project Management Office)にいた頃は、毎月、社内のプロジェクト・マネージャーから上がってくるPMレポートをレビューするのが仕事の一部だった。レポートは形式が決まっており、最初にナラティブな文章による状況報告がある。それからスケジュール・進捗・リスクなど各種の計量的なステータスがついている。

このレポートは本来、プロマネが、自分の後見人であるプロジェクト・スポンサーを経由して、経営層に提出するものだ。そして上の人は助言をつけて返す。だが同時に、ラインの横にいるPMOにも配布し、PMOがレビュー・コメントを行う。その目的は、縦のレポーティング・ラインだけでは見逃されそうな予兆や問題点をウォッチするとともに、別のプロジェクトで発生している問題点などをプロマネにフィードバックして、対応策を社内的に共有・横展開することにある。さらに、社内のプロジェクトに関する実績データをPMOが集積する目的もある。同じようなことは、わたしの業界内では広く行われている。

ところで、PMOとしてレポートを読んでいるうちに、気がついたことがある。それは、プロジェクトは二種類に分かれやすい、ということだ。どんどん良くなっていくプロジェクトと、だんだん悪くなっていくプロジェクトである。いい方のレポートを読むと、前々月は設計でこういう進展があった、前月はこうして問題を事前に防止できた、今月はサプライヤーにうまく発注できて予算を抑えられた、という具合に、毎月明るいニュースが並ぶ。一方、まずい方のレポートは逆である。前々月は、こういう障害で設計が進まなかった、前月は思いもかけぬ問題が発生し対応に追われた、今月は発注先からのクレームで赤字がさらに膨らんだ、という具合で、毎月、読むたびにため息が出る。

不思議なのは、良くなったり悪くなったり、というレポートがあまり無いことだ。前々月はよかった、でも前月はまずいことになった、今月はまた良くなった、といった風にアップ・ダウンのあるプロジェクトには、滅多にお目にかからない。これは一体、どういう訳だろうか?

ひとつには、レポーティングに関する心理的態度というものも、関係するかもしれない。プロマネだって皆、会社員だ。普通は、なるべく良いことだけを上に報告したい。そうすれば上の覚えもめでたく、自己の評価も上がるだろう。だからしばらく良いレポートが続く。しかし、プロジェクトの途中で次第にトラブルが大きくなり、やがて増員などの面で、上の支援を仰ぐ必要が出てくる場合がある。危険性をアピールしないと本気にされない。そこからは問題レポートが続く、と。

だが、PMOは文章だけでなく、計数的な部分もチェックしている。そして他の類似プロジェクトの実績値や、社内的な標準数値とも比較し、おかしなことが起きていないか見ている。最初の楽観的な文章と、後半の数値に齟齬があれば、PMOとして先に矛盾に気づく。自分も、そう心がけて仕事をしてきた。だとしたら、プロマネの心理的態度以外に、何か理由があるはずだ。

わたしが次第に持つようになったのは、「プロジェクトのダイナミクス(動力学)は、本質的に不安定なものだ」という仮説だ。プロジェクトはある目標を目指して進められる、活動の総体である。納期や予算、スコープ(責任範囲)といった制約条件の中で、それを進めなければならない。そしてプロジェクトを構成する設計とか調達とかテストだとかいった活動(Activity)は、互いに連鎖し関連し合っている。つまり、プロジェクトというのは一種の動的システムであり、それを制御するのがプロマネの仕事だ。

プロマネがきちんと計画を立案し、上手にチームをコントロールしていれば、諸活動はほぼ予定通り進んでいくだろう。ところが、人間はすべてのことは予期できない。予期せぬ問題が一部の活動で発生した際、それをうまく抑え込めないと、関連する活動間の調和を壊してしまう。するとその影響は伝播し拡大していって、さらに大きな問題となっていく。

たとえばボールを凹んだ谷間の底に置いたとしよう。多少の外乱があってボールの位置がずれても、ボールはまた元の位置に戻っていく。これを「安定」な状態と呼ぶ。ところがボールを山の頂上に置くと、外乱でボールが左右どちらかに揺れた場合、元には戻らずに、左右どちらかの方向に加速度的に転げ落ちていく。
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プロジェクトとは、山頂に置いたボールのように不安定な存在だ、というのがわたしの仮説だった。ただし、まったくの不安定なシステムかというと、そうではない。ある程度の外乱の範囲内ならば、プロマネは乗り切っていける。そのときにカギとなるのが、予算でいえば予備費の存在、スケジュールでいえばバッファー(フロート日数)、さらに余裕ある遊撃手的な配員の存在だ。専門用語でいえば、Contingency Reserveである。

予見しなかった問題が発生したとき、担当者やプロマネは、自分が持っている予備費やバッファー日数の範囲内で、遊撃手を動かして対応策をとることができる。いや、むしろ予算や時間に余裕があるときは、問題が起きる前に、予防的対策が打てるのだ。こうして、プロジェクトは良い方向に進んでいく。

だが、外乱があまりにも大きかったとき、あるいは、出発時の制約条件がきつすぎて、プロマネの持つ予備費やバッファー日数や配員があまりに乏しいときは、発生した問題を抑え込めなくなる。そうすると負の連鎖反応が起きて、プロジェクトはもっと大きなトラブルに直面することになる。

プロジェクトでは必ず問題が発生する、というのが長年このビジネスに関わってきたわたしの実感だ。どんなに最善の計画を立てても、思いもよらぬ外乱(あるいは、ミスなどの内発的問題)が発生する。これを乗りこえていくためには、なんらかの余裕・あそびが必要である。そして余裕に比べて外乱があまりに大きいと、コントロール可能な範囲を超えていって、プロジェクト全体が制御不能になる。ただ惰性で前に進むだけの存在になってしまう。ちょうど、金属製のバネのようなものだ。バネを引っ張ると、弾性の力で元に戻る。しかし、材料の「降伏点」を超える力をかけると、バネはぐにゃりと延びきってしまって、もう元には戻れなくなる。

レジリエンシー』という新しい言葉をあちこちで見かけるようになったのは、この数年のことだ。Resiliencyという英単語は翻訳しにくいが、「復元力」とか「抵抗力」みたいな意味を持つ。3.11の恐ろしい災害で東日本のサプライチェーンが寸断され、それが国内産業全体に少なからぬ影響を及ぼして以来、この概念が注目されるようになった。

以前、統計数理研究所の丸山宏副所長によるレジリエンシー研究の講演を、自分の主宰する研究部会できかせていただいたところによると、
「レジリエンシー = Resistance(事前対策) + Recovery(事後対策)」
といった理解になるらしい。

<関連エントリ>
 →「稀な危機 vs ありふれた失敗-リスク対策の優先順位を考える」 (2013-10-14)

トラブル事象が小さい内は、Resistance(事前対策)の方が費用が小さくすむが、あまりに大きな「想定外」のトラブル事象に対しては、もうRecovery(事後対策)を考える方が経済的である、というのが丸山博士の説明であった。それならば、どこかで最適な組み合わせがあるはずだ、との予測が成り立つ。

その最適な組み合わせや、プロジェクトの「降伏点」は、プロマネが持っている予備費やバッファー日数などのContingency reserveから導き出せるのではないか、ということを当時は思った。

しかし、その後わたしの考え方は、少しかわった。まず、プロジェクトの降伏点というのも、一点ではなく、多段階あるのではないか。いったんは大きく乱れても、また何とか復元する力が働くときもある。

もう一つ。いったんはトラブルを経験しても、そのことが「人材が育つ」結果をもたらす事もあるのだ。むろん、それは程度にもよるだろう。だが、まったく問題を経験せずに、温室栽培か無菌培養のような環境下で育つより、ある程度の問題に否が応でも巻き込まれ、立ち向かった経験の方が、はるかに人は成長するのだ。むろん、トラブルが過酷すぎて、人をつぶしてしまうこともあり得る。ただ、そうした「人材の降伏点」は、決してその人が持つ資金だの時間だのといった、機械的なファクターだけで決まるのではない。

では、何で決まるのか。それは、その人の持つマインドセットであり、また、その人を支えて協力する周囲の態度やマインドセットでもある。その周囲がちゃんとしていれば、問題経験はむしろ、人を育てるのだ。

野口整体の創始者である野口晴哉氏は、「健康とは、風邪を引かないとか、病気にかからないことではない。健康とは、病気になってもちゃんと回復する力を身体がもっていることである」という意味のことを、たしか名著「風邪の効用」で書いていたと記憶する。この発言も、最初読んだときにはよく分からなかった。しかし、この頃、もしかしたら野口晴哉という人は、「健康」を、無病という静的な状態ではなく、「身体のレジリエンシー」という動的な感覚でとらえていたのかもしれないな、と思うようになった。

プロジェクトというのは、人間がやる営為である。プロジェクトには確かに、費用や時間や生産性など、計数管理できる・計数管理すべきテクニカルな尺度がいろいろある。そして計画し事前対策できる範囲が大きい。だが、それと同時に、問題が起きたときに乗りこえていく力、火が吹いても消火していく能力として、やる人たちの目的意識がそろっていること、感情がメンバー間で共感されていること、などの面も大きい。テクニカルとマインドセットは車の両輪である。どちらが欠けていても、人々が一緒にやる仕事はうまくいかない。

そして、日々の仕事から目を外に向けていくと、戦闘状態の続く西アジアでも、その他の地域でも、わたし達の社会はいろいろな問題によって挑戦を受けていることに気がつく。人々が争わず、お互いに事を荒立てずに暮らせれば、一番いい。しかし、たとえ一度は対立し火が噴いたとしても、それを短期間のうちに鎮火し、お互いに解決できる仕組みと能力を持つことの方が、ずっと現実的で重要だ。それはもちろん、兵器の数だとか予算だとかいった、テクニカルな尺度だけで測ることはできない。喧嘩をしても冷静に戻る能力、お互いの目標と感情を共感できる仕組み、が必要なのだ。

たとえトラブルに巻き込まれても、人間がそこから学んで成長できると期待し、信頼を置くこと。難しいことだが、こうした態度をつちかうことこそ、世界がひととき静かになるこの季節、平和のレジリエンシーを高めるために、わたし達一人ひとりに求められることではないだろうか。
by Tomoichi_Sato | 2015-12-20 13:59 | 考えるヒント | Comments(0)

お知らせ:浜松でプロマネ育成研修セミナーを開催します(1月9日)

新年の1月9日(土)に、静岡大学大学院事業開発マネジメントコースとNPO法人浜松ソフト産業協会が開催する

 「プロジェクトマネージャー育成研修
  https://dl.dropboxusercontent.com/u/17787880/PMseminarHamamatsu2016-01-09.pdf

の講師を務めます。
 これは1月9日と1月23日の土曜日二日間にわたって開催される研修セミナーです。わたしはその初日を担当し、

 「プロジェクトマネジメントの基礎  — グループ演習を交えて知識と技法を実践的に身に付ける — 」

と題して、WBSの作り方、アクティビティの構成要素、プロジェクト組織と役割、コスト・コントロール、そしてプロジェクト目標の設定などについて講義します。PMとして必須な基本的なスキルを1日できちんと身につけられるよう、グループ演習を交えた実践的なレクチャーを行うつもりです。
 二日目は静岡大学の前田恭伸教授と八巻直一名誉教授による、リスク分析とPERT手法(スケジューリング)の実際に関する研修です。

 場所は静岡県浜松市にある、静岡大学工学部5号館3階第一会議室です。
  (静岡県浜松市中区城北3-5-1)

 定員は20名で、有償ですが、実践的で役に立つ内容となっています。
 単なる資格試験のためのお勉強ではなく、本当に実務に役立つプロジェクト・マネジメントの基本を身につけたいと考えている方、上記URLにある案内パンフレットの申込先にて受け付けしております。定員が限られておりますので、お早めにお申し込みください。積極的なご来聴をお待ちしております。

  佐藤知一
by Tomoichi_Sato | 2015-12-15 07:04 | プロジェクト・マネジメント | Comments(0)

書評:「反哲学入門」 木田元・著

反哲学入門 (新潮文庫)」 木田元・著 (Amazon.com)


何年も前のことだが、テレビをつけたら読書番組をやっていた。1冊の本を取り上げて、何人かで語り合う趣向の番組だ。たまたまその日取り上げられていられたのが、この木田元・著「反哲学入門」だった。ところでその日のゲストの1人だった若い男性タレントは、この本を与えられたときに、「うわー。どうしよう」と思ったんだそうな。

なぜ「うわー」と思うのか。わたしは少し、不思議に感じた。でも多分それは、哲学の本なんか読んだことがないし、読めた代物ではない、とこのタレントさんが頭から決めてかかっていたからだろう。読めもしないものを、番組のディレクターが押し付けるわけは無い。だがこの人にとって、哲学は自分に全く無縁のものなのだった。

そう思いこむようになったのは、このタレントが無学だからでも、頭が悪いからでもない。哲学業界の方が悪いのだ。もっと言えば、日本の西洋哲学業界が、だ。哲学を普通の人の手の届かない祭壇の上にまつげあげることによって、自分たち特殊な業界人の飯の種にしてきたのだ。この本はそのことに対する批判から始まる。

ITは西洋哲学の非嫡子だ。別のところでわたしは、そう書いた。だから、ITを専門の仕事とする人は、西洋哲学を少しは勉強しなければならない、と。

こんなことを言うのは、日本広しといえどもまぁ、わたしぐらいだろう。他にいるとしても、ごく少数だ。それは、日本の西洋哲学業界が長年行ってきた、「哲学隔離政策」の結果なのだ。そのことが、日本のITを貧しくしてしまっている。創造性を損なってしまっている。非嫡子とは、子供だが正式な跡継ぎではないと言う意味だ。だが親の特徴を、数多く受け継いでいる。世界は論理的に再構成可能だという信念、抽象化への強い希求、モデリングと分類のためのアプローチ・・そうしたことを多くの人が、知らない。

この本の第1章のタイトルは「哲学は欧米人だけの思考法である」だ。ここに著者・木田元の考え方の最大の特徴がある。哲学という言葉は、しばしば「人生論」や「思想」と混同されるが、別のものである。それは真理にアプローチするための方法論である。

「私は、日本に西欧流のいわゆる「哲学」がなかった事は、とても良いことだと思っています。」(p.22)
日本人は自然の中に包まれて生きて、自分と自然全体を区別してみることはしない。しかし「西洋と言う文化圏だけが超自然的な原理を立てて、それを参照にしながら自然を見ると言う特殊な見方、考え方をしたのであり、その思考法が哲学と呼ばれたのだと思います。」(p. 23–24)

西洋哲学は存在論と認識論を中心に展開してきた。きりきり舞いしてきたと言っても良い。西洋哲学の歴史は、大雑把に言ってプラトンから始まり、中世・近世を通じて発展するが、ニーチェのあたりで根幹が揺らぎだす。本書は、プラトンの師匠であるソクラテスから、ニーチェに影響を受けた20世紀のハイデガーまでを、大づかみな名人の筆致で生き生きと描きだす。

中でも哲学史の重要な転換点を作った、アリストテレスや、デカルト、カントらについては、彼らの生きた時代背景や生涯についても詳しく記述している。また日本では哲学だとか形而上だとか質料、客観など、漢語で訳されている言葉についても、元のギリシャ語やラテン語にさかのぼって、詳しくその本来の意味や変遷について書いてくれている。

ソクラテスとその弟子プラトン、そのまた弟子のアリストテレスの3人は、ギリシャ哲学の基礎を築いた。ソクラテスは「無知の知」を駆使した対話法で、それ以前のギリシャ的な自然思考を根こそぎにした。その空白地帯に、プラトンは「イデア」を中心とした存在論を打ち立てる。イデアは認識の世界の中にのみ存在する、抽象的な構造を持つ類(クラス)である。それは具体的な質料と形相という属性を持つことにより、個物(インスタンス)となる。

アリストテレスは論理学の創始者であり、言葉(記号)とその代入操作による真偽の論証を行った。ここら辺の考え方は、今日のコンピュータ科学に極めて忠実に継承されていることがわかる。

ギリシャ哲学の成果は、古代末期にいったんイスラム世界に受け継がれ発展される。そして中世にヨーロッパに逆輸入され、理性の主役の座に返り咲くのである。その最大の立役者が、私の敬愛するトマス・アクィナスであった。つづくルネサンス期と対抗宗教改革の時代、思潮はアリストテレス的な客観主義から新プラトン主義に揺り戻しがくるのだが、ギリシャ哲学の枠組みは変わらなかった。

だが科学革命の進展とともに、自然を数学的法則の対象としてとらえようとする考え方が広まってくる。17世紀初頭に現れたデカルトの問題意識はそこにあった。デカルト座標系によって幾何学と数学を統一した彼は、量的諸関係で自然を洞察する理性を、論拠として確立する必要があった。このデカルトの『理性』というのが、著者によれば、我々日本人にとって誤解を招きやすいくせ者なのである。

というのは、キリスト教の枠組みの中にいるデカルトにとって、「『精神』つまり『理性』は神の創造した実体であり、わたしたち人間のうちにあっても、いわば神の理性の出張所のようなものだからです」という(p.152)。したがって、「こうした意味で『理性』としての『私』の存在の確認が、果たして近代的自我の自覚ということになるものかどうか、わたしには疑問です」(同)

ともあれ、かくして哲学は「理性主義」(合理主義とも訳される)の時代に入った。イギリス経験主義という批判勢力はあったが、啓蒙的な時代にあって、理性主義はさらにカントとともにもう一つの曲がり角を曲がる。カントはデカルトが住んでいたキリスト教的理性主義の枠内を脱して、先天的認識(幾何学と数論)によって現象界を理解することこそ、われわれ人間の認識能力の本質だ、と主著『純粋理性批判』で論じる。

「カントは、これまで『われわれの認識が対象に依存し』、模写するのだと考えてきたのを180度転換して、『対象がわれわれの認識に依存している』と考え直すことによって問題を解決した」(p.180)。その結果、「神を理論的認識の対象にし、それについていろいろ論じたり主張したりしてみても、ナンセンス(幾何学・数論・理論物理学では手が届かないから:佐藤注)だということになります。」(p.185)

かくして、哲学はカントにおいて、キリスト教の保証と裏書きをはなれて、自由に行動することができるようになったわけだ。ただ、著者は同時に、カント以後、哲学者は大学教授の仕事になってしまった、と指摘するのを忘れない。そのおかげで、哲学書は難解で専門用語の乱舞するものに変わっていく。「哲学書の文体がはっきり変わってくるのです」(p.188)ーそのことが、冒頭に述べた、普通の市井の人と、哲学との間に壁を作っていくわけだ。

とはいえ、西洋哲学はギリシャ哲学のしっぽを無くしたわけではないと、わたしは思う。たとえば、カントの主著といえば、『純粋理性批判』『実践理性批判』それに『判断力批判』だ(ただし、念のためいうと、わたしはカントの本など1行も読んだことはないが)。この3冊は、とりもなおさず、認識論・倫理学・そして美学についての本である。ということは、つまり彼は「真・善・美」というギリシャ人のいう人間の三つの徳を、ずっと探求していたわけではないか?

さて、19世紀後半に入ると、ニーチェや、エルンスト・マッハなどが現れ、近代化と結びついたドイツ観念論哲学の理性主義・科学的世界観に反発を加えるようになる。マッハは有名な物理学者で、超音速を測る速度単位は彼の名前に由来する。またカトリック教徒で、以前書評で紹介した物理学者パウリの、幼児洗礼の名付け親でもあった。

マッハとニーチェは、「二人ともダーウィニズムから決定的な影響を受けた」(p.206)点で似ている。ギリシャ文献学者としてキャリアをスタートしたニーチェは、西洋哲学の長い歴史をすべて「プラトン主義」と断じ、そこからの脱出をはかった「反哲学者」であった。だからこの後、20世紀の西洋哲学の系譜は、現象学・論理実証主義・実存主義・構造主義と錯綜し、もはや誰が正統な嫡子か分からなくなってしまう。

哲学は複雑な問題を言語化し、分析し、伝達・説得するための枠組みだ。説得に「真理である」ことの保証を使う。ただし西洋哲学は、プラトン以降、「超自然的な原理を参照として自然を見る、という得意な思考様式」が伝統になった(p.25)。そのために、自然的世界は客観的な、いいかえれば自己から断絶された、分析と操作の「対象物」「材料」になってしまう。

その結果、西洋哲学は「自然に生きたり、考えたりすることを否定している」と著者は断ずる(p.24)。「ですから、日本に哲学がなかったからといって恥じる必要はないのです。」(われわれ日本人は)「『哲学』を理解することはムリでも、『反哲学』なら分かるということになるのだろうと思います」(p.26)


(ただし、プラトン主義を否定したニーチェの反哲学の考え方は、彼に影響を受けたハイデガーらとともに、ナチズムに吸い込まれていったことを忘れてはいけない。これは、プラトンのイデア論の形成にあたって、ユダヤ教の影響があったと著者が示唆しているのを考えあわせると、実に暗示的なことである。)

本書は、そうした研究を重ねてきた著者が、晩年、胃がん摘出手術の回復期に、編集者を相手に行った対面的講義の本である。だから話し言葉で、非常に読みやすいし、複雑な述語はそのたびに丁寧に解説してくれている。

たしかに西洋哲学は、自然に対する特異な発想法や、言語への過剰な執着が、肌に合いにくい。しかし、そういうわたし達も、西洋人の作った道具でコミュニケーションし、西洋人の作ったルールで経済的に競争し、西洋人の作った枠組みで発想することにならされてきた。である以上、彼らの思考法を学ぶ価値は十分にある。そして、自分が反対するものをこそ、総合的・徹底的に調べ尽くすのが、西洋人のやり方であり、この点は見習うべきではないか。

わずか500円程度のこの薄い文庫本で、その流れと文脈が見通せれば、とても価値ある買い物である。正月のゆっくりした休暇に、読むべき本としておすすめする。

<関連エントリ>
 →「書評:「137 ~ 物理学者パウリの錬金術・数秘術・ユング心理学をめぐる生涯」 アーサー・I・ミラー」 

by Tomoichi_Sato | 2015-12-12 00:52 | 書評 | Comments(0)

「プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会」(1月29日)開催のお知らせ

プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会」2016年の第1回会合を、下記の要領にて開催いたします。

今回は新年の企画にふさわしく、日本のプロジェクト・スケジューリング研究の雄である摂南大学・諏訪晴彦教授に、最近の研究成果についてご講演いただきます。IT業界の方にも、他業界の方にも、いろいろなヒントが満ちていることと思います。

<記>
■日時:2016年1月29日(金)18:30~20:30
■場所:三田キャンパス・北館会議室3(地下1階)(定員:21)
http://www.keio.ac.jp/ja/access/mita.html
キャンパスマップ・【1】

■講演タイトル:「安定性と予見性を指向するプロジェクト・タイムマネジメント
■概要:
講演者の研究室では「プロジェクト遅延は必ず生じるものである」という前提の下、安定性(stability)および予見性(predictablity)を指向するプロジェクト・タイムマネジメントのシステム工学的手法を開発してきた。本講演では、その柱となる工数見積りと,クリティカルチェーン生成の理論モデルと方法論を紹介する。最近,これら方法論のスマート製造への応用(とくにエネルギー負荷計画や能力所要量計画)にも取り組んでおり、その研究成果についても触れる。

■講師: 諏訪晴彦(すわ はるひこ)
博士(工学),摂南大学 教授,テクノセンター長
■講師略歴:
 1997.3 神戸大学大学院 自然科学研究科 博士後期課程 修了。
 1997.4 摂南大学 工学部 経営工学科講師
 2010.4 摂南大学 理工学部 機械工学科 教授,現在に至る
 2012.8〜2013.9, 2014.7 マサチューセッツ工科大学客員研究員。
〔専門分野〕システム工学,生産工学
〔主な研究〕エネルギー高効率製造システムの構築,生産計画/スケジューリングの理論と技法開発,超硬合金の切削加工法
〔受  賞〕スケジューリング学会学術賞(2008),電気学会優秀発表論文賞(2003),
〔学会活動〕アメリカ機械学会,日本機械学会,システム制御情報学会,精密工学会,日本鉄鋼協会,計測自動制御学会などの会員。
 システム制御情報学会 Editor-in-chief (2015〜),スケジューリング学会理事・評議員(2004〜)

■参加費用:無料。 ちなみに本研究部会員がスケジューリング学会に新たに参加される場合、学会の入会金(¥1,000)は免除されます。 参加を希望される方は、確認のため、できましたら当日までに佐藤までご連絡ください。


★★ お知らせ ★★

来年4月初旬に浜松市で合同シンポジウムを開催します!
 来年の2016年4月2日(土)に、OR学会傘下の「サプライチェーン戦略研究部会」(略称SCSR、http://scsr.jp/)と合同で、浜松コングレスセンターにて合同シンポジウムを開催することが決まりました。午後一杯にかけて講演とパネル・ディスカッション、そして夜は懇親会というプログラムを企画中です。
 当研究部会としては2年ぶりに、また製造業のメッカ浜松市で開催できることを楽しみにしております。
 詳細については決まり次第、追ってご連絡いたします。
 

佐藤知一@日揮(株)
by Tomoichi_Sato | 2015-12-09 07:10 | プロジェクト・マネジメント | Comments(0)

ハラールとは何か、何ではないのか

結婚して間もない頃、米国の留学生寮に1年近くすんでいたことがある。主にアジア太平洋地域の各国から来た留学生や、米国の遠くの州から来た若者が一緒にすみ、キッチンは共同だった。独身者と、子どものいないカップルが10数組ずつ、キッチンをシェアする。お互い顔見知りになるから、ときどき招待し合って一緒に食事したり、あるいは学期試験の終わったころにはキッチン全員が持ち寄りパーティを開いたりする。そういうときには、近くの同じスーパーから食材を買ってきているはずなのに、ものすごくバラエティの大きな各国料理がそろい、楽しかった。

仲間の中には、パキスタンからきたイスラム教徒、インドやネパールのヒンズー教徒、タイやスリランカの上座部仏教徒もいる。だから、お互いの食物のルールなどにも気を遣いながら、一緒につくったり食べたりした。ヒンズー教徒の夫婦は厳格な菜食主義で、鰹節のだし汁も使えない。だから昆布でだしを取った。そのかわりお酒はOK。ところがパキスタン人の夫婦になると、ムスリムなのでお酒は御法度。それどころか、料理に使うみりん(英語ではSweetening wineになる)もダメ。日本料理は醤油+みりん(あるいは酒と砂糖)で甘辛に味付けするものが多い。だから味のバランスをとるにに苦心した。できあがったら、一緒にジュースで乾杯した。

ハラールという言葉が注目されるようになったのは、最近のことだ。イスラム教徒の許容する食事に関して、人々が関心を持つようになったのは、2020年の東京オリンピックで大勢の外国客を迎え入れる予定だからだろう。その際、観光業や飲食業は、なるべく多くのお客様を受け入れたい。そこでにわかに勉強しなくては、となった次第らしい。

念のために書いておくと、わたしはイスラム教徒ではない。だからHalal(ハラール)とは何かについて、書く資格は本当はない。ただ中東・イスラム諸国で多少仕事をし、またイスラム教徒の知人・友人も何人かいる者として、これまで学び、気をつけてきたことについて多少書いてみたい。

「ハラール・フード」という言葉に代表されるように、これはイスラムで認められる食べ物に関する、規則ないし規格だと思っている人は多い。しかし医薬品にも、化粧品にもハラールはある。人が経口ないし皮膚経由で何かを体内に取り込む時に、何が許されるかを判断する基準なのである。その基準になるのはイスラム法(シャリーア)であるが、元々そこに明文規定されていない物事もあるため、基準が必要になるのだ。

ハラールの基準について、今日一番厳密な規定を国家レベルで制定しているのは、中東諸国ではなく、東南アジアの国・マレーシアである。これは、華人が多くすむ地域なので、(あとで述べるように)禁忌とすべき豚肉などが広く流通し、生活圏の中でコンタミネーション(汚濁)の心配が高いからだ。逆に、中東諸国、たとえばサウジアラビアなどでは、そもそもハラールな食品しか原則として流通していない。だからあまり神経質な基準が必要とされなかった、という事情がある。

そのマレーシアの国家規格を読むと、ハラールについてかなり細かく規定しているが、大事な点は「何が許されるか」よりも「何が許されないか」だとわかる。禁止リスト方式なのだ。原則として天地万物は神の創造物であり、天然自然は許容されているが、その中に一部、注意して避けるべきものがある、という理屈になっているからだ。

その典型例が豚肉であり、あるいはその誘導品であるラードそのほかの食材である。しかし、禁じられているのは豚肉だけではない。犬の肉もそうだ。日本では犬を食べる習慣がほとんどないので、とくに心配の必要はないが、知っておいた方が良い。

ちなみに中東では、豚は軽蔑すべき動物だ(ま、たいていの国ではブタは侮蔑語である)が、ユダヤ教の昔から、野犬も軽蔑の対象だった。牧羊犬くらいはいたのじゃないかと思うが、聖書にも犬はあまりいいイメージでは出てこない。「神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない」といった具合だ。

イスラム教で許されないもう一つの代表例が、酒・アルコールである。上にも述べたように、みりんの中に含まれる酒精分さえ避けるべきである。ただし、経口ではなく皮膚経由で吸収されるものは、許容される。化粧品の中にはアルコール成分を含むものもあるが、許されているのはこのためだ。「飲めば酔っ払う可能性のあるもの」を避けるのである。

ただ、だからといってハラールを「ノー・ピッグ、ノー・アルコール」という風に単純化して理解するのは、いささか問題があると思う。じつは、避けるべき禁忌には二種類ある。「汚物」だから避けるべきものと、「誘惑」だから遠ざけるべきものである。豚は汚物の典型だから、食べるべきではない。しかし、酒は人間を惑わせるから、遠ざけるべきなのだ。外国や、人の見ていないところで酒を飲むイスラム教徒は、じつは時々いる。だが、どこの国に旅しようと、豚は食べない。もしまちがって食べたら、(一種の汚物だから)生理的に気持ち悪いと感じるだろう。そういう風に、接する態度が異なるのである。

ちなみに「汚物」に相当するものをNajsとよぶ。豚や犬、その肉や派生品はNajsである。さらに、人や動物の糞尿・嘔吐物などもNajsになる。こうしたものは、食品に入っていてはならない(豚肉以外は、誰にも当たり前に思えることだろう)。

さらにいうと、牛や鳥など許容される家畜の肉であっても、アッラー(神)の名で正式に屠られたもののみがハラールである。「だから私たちは、ほんとはスーパーで売ってるこんな肉を食べちゃダメななのよ。」と、寮のキッチンでパキスタン人の女性は言っていた。ただそんな事を言っていたら、留学生は非イスラム地域では飢え死にしてしまう。だからまあ、妥協して食べているのである。

医薬品の中には、豚由来の酵素を利用しているものがいくつもある。こうした製品も、原則としてハラールではない。だから摂取すべきではないのだが、ただし、その薬に代わるものがなく、かつ命に関わる場合は、人命優先の観点から許されている。そういう点では、イスラム法というのはきわめて合理的かつ実際的にできている。なお、人工的に作られた化学物質は基本的にすべて、ハラールである。だから合成原薬からの医薬品は(アルコールを除いては)問題ない。

マレーシアの国家規格にも明確に定義しているように、Najsだけでなく、一般に不潔なものの混入はハラールの観点から許されない。そういう意味では、ハラール遵守は、エンジニアリングでいう清潔管理や、清汚動線の分離などに非常に近い概念である。また規格には「ハラール・マネジメント・システム」という言葉も登場するが、これは一般的な品質マネジメント・システムと非常に相似な仕組みである。

ハラールは現在、外国人観光客受入(インバウンド)の観点から議論されることが多い。だが、上に述べた点を考えると、ハラール対応はむしろ、日本企業が海外に製品やサービスを輸出する「アウトバウンド」のカギになるのではないだろうか? インドネシア、マレーシアをはじめ、中東諸国、そして中央アジアを含め、世界の新興地域に住むイスラム教徒の人口は3億人以上である。「ハラールな商品」は、この巨大なる未来市場に対して、参入する絶好の機会を与えてくれる。

なんといっても、日本製の製品の品質面での信頼感は非常に高い。とくに化粧品や医薬品は、日本が強い業界でもある。幸いにも、「正直であり、また精確であること」は、日本人が持つ優れた能力であり、他の諸国に比べれば、普通ははるかにまさっている。これはわたし達が父祖から受け継いだ大切な宝物であり、次の世代にも引き継がせるべきことだ。そこにハラールであるという付加価値がつけば、鬼に金棒というべきであろう。

ハラール認証の仕組みが世界的に少しずつできあがってきていることも、追い風だろう。認証は基本的に製品に対して与えられるものだが、製造プロセスや品質保証体制なども審査項目の一つである。製造過程で要求される清潔管理や動線管理などは、新興国の企業ではまだ難しいかもしれないが、まっとうな日本企業なら、ごく普通に実践していることだ。医薬品業界のGMPや食品業界のHACCPを思い出せばいい。工場のエンジニアリング面においては、いくつか注意すべき点があるので、イスラム地域の経験のある会社などに相談する方がいいだろう。ただ、いったんシステムを構築してしまえば、それを守って操業運転することはそう難しいことではない。「5S」が実践できている工場だったら、かけてもいいが、必ずできる。

ただし、ハラール認証は最終的には宗教機関から得なければならない。国家規格というのは、「認証の必要条件」を満たしていることを証明する、必要条件である。また現時点では、ある国で取得したハラール認証が、他国でも自動的に受け入れられるような、万国共通の相互認証制度はまだない。マレーシアが規格や認証に熱心なのは、自国をハラール商品の製造基地にして、中東イスラム圏への輸出ハブにしたいという国家戦略があるからだ。

繰り返すが、ハラールの基本は清潔管理である。ただ、何を禁忌とみなすかについて、我々の通念と少しだけ違っている。それだけのことだ。あまり特殊な要求だと思わない方がいい。

まあ、たしかに食物禁忌というのは理解しにくい。たとえば今日の我々は犬を食べないし、その習慣を広く持つ韓国や中国を侮蔑する人々もいる。だが、現実には、日本人は戦国時代まで犬を食べていたのである。ただ、五代将軍徳川綱吉が「生類憐れみの令」を発し、とくに犬を勝手に殺すことを厳禁したから、この風が廃れたのである。わたし達が今日、犬を食さないのは、「犬公方」とあだ名された一権力者のためだといってもいい。

ついでにいうと、わたし達が刺身で生の魚を食べる習慣は、もともと中国から入ってきた。ところが本家中国ではその後、風習が変わり、火を通さない食物は原則として食べなくなった。今日、生魚を食する日本人を内心バカにする中国人もいるが、彼らの父祖だって歴史的には刺身を中華風にアレンジして食べていたのだ。だから、食習慣を元にした他民族への侮蔑は、案外、近世的なことだとも言える。そうした弊風は、いずれ世界各国がより近づいて緊密になるにつれ、ゆっくりとではあるが無くなっていくはずである。

若いときに1年間、留学生寮で多くの文化・習慣に触れる機会を得られたことは、わたしにとって、とても幸運だった。おかげで、少なくとも、互いの風習に寛容であるという態度を、少しは身につけることができた。イスラムはたしかにわたし達からは縁遠い宗教だ。だが、他人の伝統や価値観を、分かりにくいからといって軽々しく詮索したり批判したりすべきではない。他人に向けた無思慮な刃は、結局自分に跳ね返ってくるのだ。そのことは、ひどく攻撃的で尊大な一部のイスラム原理主義者たちの姿が、鏡のように逆転して映し出している。

かつて戦国時代や幕末、明治時代に日本を訪れた外国人は、口々に日本人が誠実で礼儀正しいこと褒めたたえた。誰も日本人が、喧嘩早くて議論好きで尊大な人達だ、などと書いたものはいない。ならば私たちも、父祖の残した美点と伝統を守ろうではないか。

ハラールというのは「儲かるために」目指すべきことではない。それは、他者に対するリスペクト、尊重のためにすることである。わたし達が彼の地を訪れるときに、同様に尊重してもらいたいからでもある。そしてなにより、お互いへのリスペクトこそが、長続きするビジネスの前提条件だからである。


<関連エントリ>
 →「R先生との対話 — 受注ビジネスにおける顧客満足とは何か」 (2015-02-01)
by Tomoichi_Sato | 2015-12-03 23:19 | 考えるヒント | Comments(0)

お知らせ:PMI日本支部でグローバルPMに関する講演をします(12/15)

来る12月15日(火)午後に、PMI日本支部が主催する法人スポンサー連絡会で、

グローバルPMを実現させる組織のプロセスとOS ~日揮の経験から~

と題する講演を行います。
場所は東京・永田町の株式会社三菱総合研究所 4階大会議室です。
(→案内 https://www.pmi-japan.org/event/cat/2015_10_27_houjin_renrakukai_2015_12_15.php

本講演では、10月に出版した新著『世界を動かすプロジェクトマネジメントの教科書 〜グローバルなチャレンジを成功させるOSの作り方』の内容とも連動し、

・海外型プロジェクトの難しさとはどこにあるのか、
・なぜ「国際標準のPMプロセス」を適用するだけでは十分ではないのか、そして
・日本企業が海外に出て行った際にとりくむマネジメント・スタイルや組織の行動習慣はどうつくるべきか、

などの論点についてお話しします。

あいにく、PMI日本支部の法人スポンサー企業向けの講演ですが、ご興味のある方のご来聴をお待ちしております。

日揮(株) 佐藤知一
by Tomoichi_Sato | 2015-12-02 07:05 | プロジェクト・マネジメント | Comments(0)