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OSを持つ、ということ

海外の外注先とトラブルが発生した。発注書で決めていた納期が守れそうもないというのだ。我々から彼らにインプットすべき仕様情報が不正確だったし、予定より遅くなったせいだ、と彼らは、いう。こちらから見ると、彼らが出してきた設計承認図や仕様書の品質が低く、かなりコメントをつけてやり直しさせる必要があった。おまけに、両者共通の悩みとして、われらがエンドユーザーである顧客がぐずぐずとなかなか決めず、リサイクル的コメントをつけてくる問題があった。だが、まだ設計の中盤なのに、じりじりとスケジュールが遅れていった。このままだと、下流工程の仕事にも影響が出かねない。

担当者は、プロマネに相談にいくつもりだった。だが、彼のチームのベテランは、それを制した。そのベテランは別プロジェクトに従事していたが、担当者のことはよく面倒を見ていた。
「いったい何を相談に行くんだ?」
--このままだと2ヶ月近く遅れそうです。下流部門の仕事に影響がでそうなので、まずは報告に行きます。それで、どうすればいいか相談しようと思います。
「報告ってお前、対策案はあるのか。」
--いえ。だから相談しようかと。
「そんな相談があるか。相手は忙しいプロマネだぞ。お前が、対策案をいくつか考えて、中ではこれが一番良いと思うので、これで行きたいと思います。ご承認お願いします、って持って行くのが筋だ。」
--・・はい。
「そもそも、スケジュール遅れの原因は何なんだ?」

担当者は、上に書いた事情を説明した。こちらのインプットの遅れ、向こうの低品質、エンドユーザの不決断。それで、外注先の設計作業の生産性が落ちたんじゃないかと。

「ずいぶん曖昧だな。これまで何度も使ったことのある外注先だろう? 向こうの品質だって分かっているし、ウチのやり方だって慣れているんじゃないのか。この顧客とだって、はじめてじゃない。何かもっと別の原因があるはずだ。」
--何でしょう?
「それをつかむのがお前の仕事だろ! 根本原因が分からなかったら、この先でまた同じ遅延問題が何度もぶり返すぞ。外注先に行って自分で見てこい!」

出張から帰ってきた担当者は、ベテランに報告した。

--あの外注先は、コストダウンのために、今回から一部の設計業務をインドに再外注していることが、行ってみて分かりました。それがうまくコントロールできていないんです。
「やっぱりか。今回急に崩れたのは、何か原因があると思った。それで、どういう対策がある?」
--向こうのマネジメントと話し合ってみたんですが、二通りしか策はないようです。つまり、向こうに時間を与えてちゃんとやらせるか、それとも依頼した仕事の一部をこちらが引き取るか・・

これはまあ、10年以上も昔に経験したことである。上の会話は分かりやすいようにレンダリングしたが、実際にはこんなにテンポよく進んだ訳ではなく、数週間以上かかり、いったりきたりした結果である。でも、全体の雰囲気はつかめたと思う。このベテランが担当者に諭したのは、二つのことだ。

・自分の中に対策をもたずに、上に相談に行ってはいけない。たとえ自分の案が不完全でも(その可能性は高いが)、自分はこうしたい、という意思を持って行くこと。

・問題が起きたら、応急的な対処だけでなく、その問題の根本原因をきちんと調べなくてはいけない。さもないと同じようなトラブルがまた発生する。

最初の点については、以前も「あなたは、どう考えるの?」(2014-09-28) に書いたことだから、ここではこれ以上、繰り返さない。二番目の点は、問題解決における基本的な態度についてだ。

そもそも問題解決とは、次のような4つのステップを踏む必要がある。
(1) 問題の直接原因と影響範囲をつかむ
(2) 問題の波及を止める(応急措置)
(3) 問題の根本原因をしらべる
(4) 再発を防止する

このうち(3)(4)は、忙しいさなかには同時にできないかもしれない。だが、再発の可能性があるうちは、やはり根本的な解決が必要だから、放置はできない。上のベテランは、このことを指摘した訳だ。一度トラブルを乗り切ったと思っても、似たようなことが再三起きる。それは最初の原因解明が不十分だったからだ。

そして、何よりも大事なことは、上の4つのステップが自分の中で言語化されて、いつでも反射的に取り出せるようになっていることである。トラブルに遭遇し、問題事象に巻き込まれたら、この4つのステップが頭に思い浮かぶこと。それが『OS』化された姿なのだ。

問題解決には、とたえばRoot Cause AnalysisとかLogic Treeとか、いろいろな技法がある。有名なKJ法やブレーンストーミングだって、問題解決技法として登場した。だが、これらはいずれもツールであり、計算機にたとえればアプリケーション・ソフトに相当する。こうした技法を活かすかどうかは、じつはその下のレイヤーにきちんとOSが動いているかどうにかかっている。

OSとは、組織化され体系化された思考態度・行動習慣の集合である。それは個人レベルでも持ちうるし、組織内で共有するものでもある。組織内で、先輩から後輩に必ず受け継がれ、ブラッシュアップされていく仕組みができていれば、それは組織のOSと呼べるだろう。ただし、きちんと伝達され、受け継がれていくためには、(当たり前だが)それが言語化されていなければならない。そうしないと意識の層に上がってこないからだ。単なる職場の慣習で、後輩は先輩の背中を見て覚えるのみ。学ぶも学ばぬも、その当人次第、という状態ではOS化されているとはいえない。

OSがどういうものかは、OSがない状態を考えてみれば分かる。たとえばトラブルが起きる。それに対処する。そしてまた、次のトラブルが起きる。また対処する。つまり、外部からのインパクトやイベントに振り回され、必死に適応するだけの状態になる。つねに受け身で、後手後手の行き方、イベントドリブンな仕事のしかたになる。自分で先を見通せなくなる。

別の例を挙げようか。よく工場の製造現場では「5S」とよばれる標語が壁に貼ってある。5Sとは「整理・整頓・清掃・清潔・習慣化」の略だ(「習慣化」のかわりに「しつけ」という語が使われている場合もある)。5Sというのは、組織化され体系化された態度・習慣の集合で、典型的なOSである。何か材料を加工するとか部品を組み立てるといった作業や、そのための工具装置の操作は、アプリケーションである。このアプリがきちんとスムーズに動くためには、5SというOSが確立していることが望ましい。5Sが働いていないと、しょっちゅう材料のモノを探し回らなければいけないし、作業動線がぎくしゃくして怪我をしやすいし、機械は清掃不足で故障しやすくなる。だから、工場では口やかましく、5Sの徹底ということがいわれるのだ。

同じ事は、本当はオフィスワークでもなされていなければならない。あなたは書類がどこにあるか探し回ったことはないだろうか? そもそも設計書や提案書に、すべてファイリングNo.は発番されているだろうか? サーバの中を電子ファイルを探し回ったことは? あるいは床に変なモノが置いてあるおかげで、つまずいたことはないだろうか。飲み物をこぼしてPCや書類をダメにしたことはないだろうか? なぜ知的なるオフィスでは、そういう習慣は不要だと信じられているのか。

もう一つだけ、例を挙げる。わたしの勤務先では、顧客や発注先や誰とであれ、打合せを行ったら必ず議事録(MOM = Munites of Meeting)を書く。議事録には、打合せ内容、出席者、決定事項、アクション事項と期限、などが簡潔に記載されている。それをプリントアウトして、出席した客先や業者に、「たしかにこの通りの内容で間違いない」と確認のサインをもらう。後になって、言った・言わないのくだらない水掛け論を防止するためだ。

とくに客先との打合せMOMは表現に神経を使うので、1時間の打合せの議事録作成に1時間以上かかるのはザラだ。非常に面倒くさい。しかし、少なくともわたしの勤務先では、面倒だからといって省略する者はまずいない。むしろ、議事録がないと落ち着かない気分になるだろう。それが言葉を大切にする『記録重視』のOSとして、習慣化されているからだ。会社に入って、最初にしつけられる作業の一つでもある。

(以前書いたかも知れないが、何年か前、わたしは専務によばれて30分ほど製品開発プロジェクトについて相談した。わたしが席に戻るか戻らないかのうちに、当のその専務からメールが入ってきた。開けてみると、「さっきの打合せの結論はこれこれだったよな。」という、3行ほどの念押しの内容だった。腕利きのプロマネ上がりの専務は、忘れっぽい佐藤に頼らず、自分でMOMを書いてよこしたのだ^^;)

OSとは何か。それは、自分が行う行動を、毎回個別の、単独の行為として終わらせずに、繰り返し可能なシステマティックな行動習慣とする仕組みだ。トラブルが起きたら、「問題解決」の思考ルーチンを立ち上げること。打合せを持ったら、「記録」の行動ルーチンを回すこと。モノを生み出したら、「整理」のルーチンに入れること。

それは思考や行動の抽象化とも言えるだろう。標準化といってもいい(ただし「標準化」というと、全然別の杓子定規なものを連想する人もいるから、わたしはあまりOSの説明にはつかわない)。ともあれ、いったん身につけたら、いつでも、ほぼ同じレベルで繰り返せるようにすること、それによってムラなく効率よく実行できるようにすること。これがOSの力だ。

そういう意味では、「5S」の最後の用語は「しつけ」とするよりも、「習慣化」の方が適当だ。「しつけ」ではなんだか、働いている大人をまるで子ども扱いしているかのように感じる人もいるだろうし。

ただし。世の中の物事には、つねに両面がある。すぐれたOSを持つことは良いことだし、組織がOSを確立する事は、とても大切だ。だが、いったんOSが確立してしまい、パターンやルーチンができあがると、人はしばしば、なぜそのシステムが生まれたのかを深く考えなくなる。とにかく習慣だから、そうするんだ、と考える(深いレベルでは思考停止する)可能性が高くなる。おまけに、組織のOSをバージョンアップしようとなると、途方もなく大変な労力がかかる。みんな、習慣化しているからだ。

それでも、OSレベルの仕組みは非常に大事である。このサイトのテーマは「計画とマネジメントの技術ノート」で、ずっとEVMSだのAPSだのといったアプリケーション・レベルの話題をくわしく紹介してきた。しかし、最近わたしは、おおくの職場で抱えている問題はもっと深層の、OSレベルの問題ではないかと感じることが多くなってきた。それはとくに、いったん自分たちの得意な土俵の外に出たとき、顕著になる。

わたしは現在、海外プロジェクトのマネジメントをテーマとした新著を準備中だ。その本の中でも、知識や技法レベルだけではなく、OSレベルの思考・行動習慣について、あらためて光を当ててみたいと思っている。

<関連エントリ>
 →「あなたは、どう考えるの?」(2014-09-28) 
by Tomoichi_Sato | 2015-06-24 23:41 | ビジネス | Comments(0)

講演のお知らせ(7月1日)

直近のお知らせになり恐縮ですが、7月1日(水)午後3時30分より、東京・神谷町で下記の通り講演を行います。

サプライチェーンのグローバル化に伴い、海外プロジェクトに取り組む製造業が増えていますが、どこに難しさがあるのか、その成功要因は何かについて、ポイントをしぼってお話ししたいと思います。

なお、主催者の「ものづくりAPS推進機構」(略称APSOM)は、わたしも理事を務める団体で、生産スケジューリングを中心とした製造業の情報化と相互連携のための標準化規格策定と普及を目的とした団体です。
  http://apsom.org/index.html

今回の総会は、「新産業革命『つながる工場』と日本のものづくり」をテーマに、話題のインダストリー4.0に関する基調講演なども行われます。
この問題に関心のある方のご来聴を期待しております。


<記>

ものづくりAPS推進機構 総会講演会

プロジェクトの価値とリスク
  ~グローバル・サプライチェーン構築のために理解すべき原理


 日時: 7月1日(水) 15:30~16:15
 場所: 機会振興会館 B3F 研修1号会議室
     〒105-0011 東京都港区芝公園3-5-8
      http://www.jspmi.or.jp/kaigishitsu/access.html     TEL TEL:03-3434-8216

 参加費用:講演聴講のみは無料、懇親会参加の場合は3,000円
 参加申込み:下記のURLからお申し込みください。
      http://apsom.org/contact/application.html


以上
by Tomoichi_Sato | 2015-06-22 18:30 | ビジネス | Comments(0)

物流センターとは何か

物流センターとは何か。それは、物流のセンターである・・と答えたら、正解だろうか? 

物流とはモノの流れ、すなわち販売者(生産者)から消費者へのモノの移動と輸送のことを指すのが普通だ。だとすると、産地も消費地も全国にちらばっているのだから、物流に「センター」があるというのはおかしな話ではないか。全国をカバーするJRの鉄道に、どこか「中心」があるだろうか。全国の高速道路網の、どこがセンターなのか?

もちろん、そんな意味ではない。物流センターとは、企業あるいは商品(群)にとっての、物流のハブなのだ。「ハブ&スポーク」の意味はご存じだろう。ハブはものの流れの集まる焦点であり、またそこから流れが出る中心である。つまり、モノが大量に・頻繁に出入りする施設をいう。そこにモノを在庫・保管し、そこから仕向先にモノを出荷する機能を持つ、施設。これが物流センターだ。モノを分配・配送する拠点。英語ではDistribution Centerなどともいう。

この物流センターとは、具体的にどのような仕組みのものだろうか。念のため、ネットで検索すると、いろいろな解説が出てくる。たとえば、保管のための倉庫と棚が並んでいて、云々と。では、物流センターと倉庫とは同じものなのだろうか? あるいは、中をフォークリフトやコンベヤが走り回っている写真や図もある。どうやら中でモノがけっこう動いているらしい。それはなぜか? そして、自動倉庫や自動ソーターなど機械化されたマテリアル・ハンドリングの設備も紹介されている。では、高度に自動化されていないと物流センターとは呼べないのだろうか。もちろんそうではあるまい。

物流センターとは何かをわたしが説明するとしたら、どんな設備や機械が並んでいます、みたいな工場見学的な解説ではなく、それがどういう機能を持つシステム(仕組み)なのかを言うだろう。

まず、そもそもどうして物流センターなるものが出現したのか。その昔、つまり昭和の高度成長の初期には、明確な物流センターという種類の施設は無かった。工場の倉庫がそれを代用したのである。いや、第一その当時は、『物流』という言葉すらなかった。意外に思うかもしれないが、物流は「物的流通」という語を略して生まれた言葉で、当初は流通という概念しかなかったのだ。もちろん、モノを動かしたり保管したりする作業自体はあった。だが、それには独立した名前がなかった。「流通」という業務に含まれると思われていたのである。

流通とは、生産者からモノを仕入れ、消費者に届け、代金をいただく仕事である。戦後しばらくの間は物不足時代であり、モノは作るはしから売れていった。そのころは、流通・販売は製造業に従属する、一段下に見られる仕事であった。しかし高度成長を経て、次第に市場が成長に向かうにつれ、だんだんと販売側の力が強くなっていった。その中で、商流とモノの流れの分化が進んでいく。こうして物流という独立した職域が認知されるようになる。

とくに、平成に入って、一般消費財や部品類の海外生産が進み、アジアなどからの輸入が増えると、港で荷揚げした物品をいったん受け入れて、集中的に保管・開梱・出荷する施設が必要になる。かりに国内生産を続けている場合でも、複数工場の倉庫にバラバラに保管しているよりも、一カ所に集めて、需要の気ままな変動に耐えやすい形にした方が、効率的だと考える企業が増えた。これが物流センターの増加の原因である。

もともと、物流とは、生産と消費のギャップを埋めるための機能である。生産地と消費地の不一致を埋めるために、輸送という機能が必要になる。また、生産の時期と消費のタイミング・季節のずれを埋めるために、在庫という機能が必要になる。さらに、生産は大ロットでの効率を望むのに対し、消費者は小口でしか買わない。ここに、切り分けや梱包などの物流加工機能が必要になる。

そしてもう一つ忘れてはならないギャップがある。それは、消費者は普通、単品だけを買うことは少ない、という事実だ(とくに企業がモノを購入する場合は)。つまり、複数種類の物品をまとめて注文し、配送するニーズが生まれる。そのためには、物品を取りそろえる業務、すなわち『ピッキング』機能が必要となる。

今日の物流センターは、基本的にピッキング作業が機能的な中心である。ピッキングをはさんで、その上流側には、
・入荷機能、
・保管機能、
・物流加工機能
などがあり、そして下流側には
・出荷機能
がある(もっとも、場合によってはピッキングと物流加工の手順が逆になるケースもある)。

それぞれの機能を果たすためには、作業と、その作業場所・設備がいる。そして、それらを統括するための、倉庫管理システム(WMS = Warehouse Management System)を持っているのが普通だ。図にすると、以下のような姿になる。
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ピッキング作業のためには、通常、何らかの形で、ストックされたモノが並ぶ棚が必要である。棚でなく、パレットを平置きしたり、パレットを段積みしている場合もある。だが、いずれにせよ、その保管場所にアクセスでき、モノを取り出せるスペースがいる。これをピッキング場と呼ぶ。ピッキング場におけるモノの位置は、きちんとロケーション管理されていなければならない(さもないと、人が一々毎回モノを探して歩かなければならなくなる)。

ピッキング棚やピッキング場が、そのままモノの保管場所を兼ねる場合もある。だが、物流センターが大規模化し、物流量が大きくなると、保管庫とピッキング場は場所を分けた方が効率的である。ピッキング棚は、どうしても人やフォークリフトなどがアクセスする間口をあけておく必要があるし、異なった品種のモノを上下に重ねて積むわけにはいかない。まして、先入れ先出しや保管期限の管理が必要な物品の場合、どうしても棚入れと取り出しの二面アクセスがほしくなる。保管の視点で考えると、スペース効率に制限が生じるのだ。

そこで、中期的な保管場所は別に確保し、ピッキング場には、そこから短期的に必要な量だけを補充していくようなやり方の方が効率的になる。かくして、物流センターの中にも、結構な量のモノの移動と流れが定常的に生まれることになる。それに伴い、コンベヤーなどの搬送設備がいるようになるかもしれない。あるいは、手間のかかる人的なピッキングではすまない量の場合、コンベヤと組み合わせた自動ソーター(仕分け機)などの機械設備もいるだろう。保管庫も、立体自動倉庫のような仕組みが有用だろう(とくに敷地面積の限られた日本では)。

だが物流センターの基本になるのは、保管庫とピッキング場であり、そこに働く人やフォークリフトなどの動線である。

ついでにいうならば、物流加工の指示を出すためには、物流のBOM(部品表)が必要である。たとえば、入り数12個のカートンボックスでは、1:12という員数比による、個品とダース箱の親子関係の定義がマスタ情報になければならない。

BOMがあり、加工材料の入荷・保管機能と、加工後の品目の保管・出荷機能がある、という点では、物流センターはある意味、工場と相似形であることが分かる。むろん、加工作業のしめる重要性とボリュームは大違いである。だが、抽象化して考えれば、両者には共通性がある。ということは、工場の設計と物流センターの設計には、互いに学び合えるところがある訳である。

物流センターの規模を示す指標としては、SKU(Stock Keeping Unit)の数がしばしば用いられる。SKUとは、センターにおいて扱うモノの種類を示す用語である。物流センターでは、同じ品目(たとえば単3乾電池)であっても、個品か、2個パックか、4個パックか、1ダースパックか、1ダース箱入りか、といった包装形態によって、別の種類として扱わなくてはならない。これをSKUと呼ぶのである。SKU数が多いセンターほど大規模であり、棚数も多く、ピッキング動線も複雑になるため、それなりの設計上の工夫がいる。

もっとも、上に説明したのは在庫機能を持つ、ストック型の物流センターの仕組みである。物流センターの中には、在庫を原則持たず、入荷した荷物を積み替え・振り分けて出荷するだけの「トランスファー型」物流センターも存在する。センターがどのタイプになるかは、基本的にどの業種が保有する施設かで決まる。

サプライチェーンの中には、
・製造業、
・流通業(卸)、
・運送業、
・小売業、
という4種類のプレイヤーがいる。この中で、基本的に運送業だけは在庫を保有しない。だから、運送業の物流センターは、トランスファー・センターになる。

それ以外の業種は、自分で在庫ストックを持ち、(大小の差はあれども)在庫陳腐化リスクを抱えつつ、それをテコに利益を得ている。だから、基本的にはストック型の物流センターを運営することになる。その立地や大きさなどは業種や商品特性によりまちまちであるけれども、サプライチェーンの中における重要性は、今後とも増えることはあっても減ることはないだろう。


<関連エントリ>
 →「ピッキングとはどういう仕事か」(2015-05-12)
by Tomoichi_Sato | 2015-06-15 22:51 | サプライチェーン | Comments(0)

お知らせ:納期遵守のための1日セミナー(7月4日・大阪)

来る7月4日(土)に、大阪府工業協会で納期遵守をテーマとした1日セミナー(有償)を行います。昨年からはじめたセミナーですが、幸いにもご好評をいただいているため、第3回の開催となりました。

製造業の実務家向けに、主に受注生産型の工場における、納期遵守のための生産計画と統制(コントロール)について、理論・事例と演習を含めてお話しします。

拙著「革新的生産スケジューリング入門―“時間の悩み”を解く手法」や「BOM/部品表入門」をお読みになった方はご承知の通り、わたしは具体的なテクニック論のみならず、原理・原則に関する体系的な理解を重視しています。そのため、生産活動全般を『システム』としてとらえ、その生産システムをより良く運用するにはどうしたらいいか、より上手に設計するためには何に留意したらいいを考える『システムズ・アプローチ』をとります。
したがって業種分野については、わりと間口を広くとってお話しできる点が特徴です(もちろん、ここでいうシステムとは仕組みのことであり、コンピュータのことではありません)。

普通の現場改善コンサルタントの講義に、飽き足りない気持ちでおられる技術者の皆さんのヒントになればと思っています。関心のある方のご来聴をお待ちしております。


<記>

日時: 7月4日(土) 9:30-16:30

テーマ: 「納期遅れを起こさない 生産統制のポイント
     ~ こうすればうまくいく、受注型生産工場の生産計画 ~」

主催: 公益財団法人 大阪府工業協会
     http://www.opmia.or.jp/

会場: 大阪府工業協会研修室
     大阪市中央区本町 4-2-5 本町セントラルビル6F
     (市営地下鉄御堂筋線「本町」駅8番出口すぐ)

セミナー詳細: 下記のPDFファイルをご参照ください(「受講申込書」も兼ねています)
     https://dl.dropboxusercontent.com/u/17787880/OsakaSeminar-20150704.pdf
by Tomoichi_Sato | 2015-06-12 23:45 | サプライチェーン | Comments(0)

書評:「自分でできる夢分析」 江夏亮・著

自分でできる夢分析 江夏亮・著(Amazon Kindle版)


ある朝、悪夢から目覚める。汗びっしょりで、恐怖に震えながら、「夢でよかった。これはただの夢なんだ。」と自分に言い聞かせつつ、いつもと同じ日常生活に戻っていく。数日間はそのことを覚えているが、いつしか忘れてしまう・・こんな体験を、誰もが持っているだろう。わたしもそうだった。この本を読むまでは。

しかし、この本を読んでからは、はっきりと変わった。何が? 怖い夢を見たら、目覚めてから、「自分の中で、何かが間違っているらしい。この夢は、そのことを警告している。」と思うようになったのだ。起きてすぐに、自分が直近にしてきた行動や決断や思考をふりかえってみて、何かが足りなかった、あるいは余計だったらしい、と疑ってみる。そして多くの場合は、自分の自信過剰や不明に思い当たり、軌道修正をすることで、未然に難を逃れる。そんな経験を、時々するようになった。夢に、助けられるようになったのだ。

本書は非常に興味深い、かつ実用的な本である。内容はタイトルが表しているとおりで、副題に「ハイヤーセルフからのメッセージ」とある。「ハイヤーセルフ」とは、自分の無意識の中にある、高次な叡智をシンボル化したもので、著者が立脚するトランスパーソナル心理学の用語である。そして、夢とは自分の中にあるハイヤーセルフ=「もう一人の自分」からの大切なビデオレターのようなものだ、と考える。ちなみに著者は臨床心理カウンセラーとして長年日本で活躍している人で、またカリフォルニア臨床心理学大学院(CSPP)の実務家准教授でもある。

夢判断のたぐいは古代からあった。だが周知の通り、夢分析はフロイトによってはじめて、精神分析の重要な手法に位置づけられた。その後、ユング、ゲシュタルトセラピー、ボスなどにより、さまざまな臨床的手法として展開された。ただ、その後、心理学は次第に夢分析への関心を弱めていく。現代の三つの主たる心理学派は、行動主義、精神分析、人間性心理学である(p.256)が、著者は夢分析を、再び積極的な手法として統合的なカウンセリングの中に位置づけたいと考え、本書を書いたという。とはいえ、本書は特定の心理学派の立場や主張にとらわれず、広い範囲の研究や主張を、公平に紹介している。

最初の悪夢の例でいうと、著者はこう書く。「人はどちらかと言うと、強い事の方をよく覚えています。そこで、[ハイヤーセルフは] あなたにできるだけ覚えてもらうために、手紙の外観を強くします。そして、その怖さゆえに、普段は夢を覚えていないあなたでも、記憶に留めやすくなると言うわけです。」(p.6)--つまり、怖い夢とは、無意識からの強いメッセージ性を帯びた警告である、という訳だ。

じつは、たいていの場合、夢はそれ以前にも、よりマイルドな形で、同じ内容のメッセージをわたしたちに送ってきているのだ。でも、それに気づかず、無視しつづけると、夢はよりシリアスな形で、わたし達に内容を突きつけてくる。だから、怖い夢を見たときは、ある意味では冷静に反省する、よいチャンスなのだ。仮に自分が死んだり殺されるような夢でも、それは警告であって、決して予言や予知夢ではない。(予知夢、という現象もまれにはあるが、統計的にはきわめて少ないことを著者は例証している)

そして、夢は自分にとって、変化の手がかりなのである。「夢に現れると言うのは、それを扱う準備が整っている1つの証拠です。スキーマが夢に直接的に現れる時には、夢見てはその隙間を書き換える準備が整っているのです。」(p.56) ここでスキーマとは、心理学用語で、ものごとを理解・認知する枠組みのことである。「もし夢の何かを伝えるという試みが成功すれば、同じ内容の夢をほぼ同じ時期に2度も見ることはありません。むしろ、あなたが受け取ったメッセージに沿って夢は変化していきます。」(p.73)。ここらは、長年、多くのセラピー事例を扱ってきた著者ならではの実感なのであろう。

著者はまた、心理分析の専門家が、クライアントの夢を分析して、メッセージ内容を解釈・断定する、従来のやり方に批判的である。クライアント(著者は「夢見手」という用語を使う)自身こそが、夢のメッセージを解釈する主体でなければならない。分析家はそれを補助し支援するだけに留まるべきである、と。「夢の分析家は、夢を分析するときのプロセスの専門家であり、夢見手が夢の内容・意味の専門家になればいいのです。」(p.58)

しかし本書の真価は、著者のいう『夢孵化』=夢に自分から問いかけ、夢に答えを聞く具体的方法にある。もともとはディレニーとリードらが開発した手法だが、著者はそれを使いやすい形で発展させている。

夢孵化は、以下のような手順をとる(p.226-232):
(1) 夢に質問したい内容を、一つの文章にまとめて記す
(2) 簡単な自己カウンセリングを行い、夢孵化文を確認する
(3) 夢孵化の文章を書き直す。本当に夢に聞く必要のあることは?
(4) ハイヤーセルフに問題を委ね、問題を手放すイメージエクササイズをする
ここまでだいたい30分程度かかる。そのあとはゆっくりと寛いで、就寝する。枕元に夢のノートと筆記用具を忘れずに。こうすれば、夢が、夜中に質問に答えてくれる。イメージを通してだが、はっきりと。

そして、夢孵化の実例をいくつか解説している。面白いので、わたしも一、二度だがやってみた。ただ、(4)の「問題を委ねて手放すイメージ」というところが難しく、ちょっとコツがいるらしい。そしてもちろん、夢のメッセージ自体が多義的だ(これはシンボルというものの性質なのだろう)から、解釈するときに間違えることもある。最初は、専門家の指導で少し練習してみる方が良さのかもしれない。でも、もし身につけば、きわめて有用な助力となるだろう。

ほかにも本書には興味深い記述が散見される。フロイトの解釈については、「フロイトの生きた19世紀から20世紀初頭のウィーンでは、極端に抑圧されたものはセクシャリティに関することで、結果として、それらが夢に隠されたのでしょうが、今の日本で極端に抑圧されているのは、自分らしく生きることかもしれません。」(p.197)という。

また、自分を変えたいという望みについても、こう書く。「人の問題行動が厄介なのは、たとえそれがマイナスの結果を本人にもたらすにしても、そのマイナスの結果を本人はよく知って慣れているので、嫌な結果でもなんとか代償を払いながらもそれををしのぐやり方を知っている、という点です。ですから、自分にマイナスと分かっていても、変な安心感、なじみ感からそれを選んでしまうのです。」(p.206) 

さらに、「私たちが何か問題に対処するときには、それまでの経験と知恵の全てを使って、それを解決しようとします。しかし、それでは解決できないので問題として目の前に存在します。ということは、これまでと同じことをしても、その問題は解決できないのです。言い換えれば、その解決には本人にとって新しい何か、未知の要素が必要となります。」(p.264)などは、多くのクライアントの変化を見てきたカウンセラーならではの判断だろう。

また、「夢に [スキーマが] 現れたら、夢見手は使う準備ができている、と言う表現があります。つまり、夢見手にある特定のスキーマや否定的自動思考を修正できる準備が心理的にできたとき、それらを受け入れる心理的な行体制が整った時、そのような夢を見て覚えているのです。」(p.203)という観察は、自分の側のレディネスを夢から知ることが出来る点で、有用である。

ちなみに本書には、著者自身が、大企業の研究所の職を捨てて、心理学の道へ転身するときに見た夢や、その後、日本でのポジションを捨ててアメリカに留学すべきか迷っていたときに見た夢(夢孵化によって得た答えの夢)の事例が記されている。いずれも非常に印象的な夢であり、道しるべとしてこの上ない価値を持っている。それだけの価値を、夢は持っているのだ、というのが著者の信条なのだろう。

なお、ついでに書いておくが、著者はわたしの大学時代の友人であり、修士課程の時は同じ研究室で机を並べて勉強していた。彼は水・エタノール系のエントロピーの研究をして、製鉄会社に就職し、わたしは諏訪湖の生態系シミュレーションを研究し、エンジニアリング会社に進む。そして彼は、研究所で開発した製品により社長賞までもらうのだが、なぜか突然、会社を辞めて心理学を勉強し直す道を選んだ。その後はお互いに忙しく、あまり接点もないまま過ごしてきた。最後に会ったのはもう10年以上も前になるが、著書を出したときいて、買ってみたのがこの本なのだ。だが、個人的な友人だからという理由ではなく、一読者として、本書はとても価値がある良書だと思う。

彼はカウンセラーとして、人の変化や成長という現象に、ずっと向き合ってきた。だから、随所に、その観察から得た知恵がちりばめられている:

「自分にとって新しい領域に入るときには、自分の進む道を無謀としないための慎重さと、不確定要素を抱えながら前に進む勇気、この2つが必要です。」(p.266)

「本当の勇気が試されるのは進む時だけでなく、引く時も同様です。いちど始めた事から撤退するのも判断が難しく、真の勇気が必要です。 」(p.266)

「本来の自分自身になるためには、逆説的ですが努力が必要なのです。どんな自分になりたいのか、その人自身が選んで決めていく必要もあります。
 この人生は、自覚して自分の人生を生きるか、それとも無自覚に生きていくか、その間を揺れ動きます。無自覚で知らないうちに流される時、それは、他人や周りの決めた人生を生きることを意味します。」(p.268)

--こうした文章は、中にはさまれるいろいろなクライアントのケース事例を見ると、あらためてその意義を感じる。夢というものを、どれだけ本気に受け取るかは人それぞれだろうが、人生の選択肢で行き迷っているときには、自分の心の中に聞いてみるのも良い方法なのではないだろうか。心理学のそうした応用に興味のある人なら、非常に面白い本である。広くお勧めする。
by Tomoichi_Sato | 2015-06-07 22:45 | 書評 | Comments(0)

ハイ・パフォーマンス・チームへの道のり

チーム(組織)のパフォーマンスは何で決まるか、という問題を、このところずっと考えている。

組織の業績はリーダーで決まる、というのが現在、世に広く受け入れられている言説である。言説というより、最も分かりやすい直感というべきかもしれない。ひいきのスポーツ・チームがリーグでこのところ連勝している。監督がかわったばかりだ。だから新しい監督が良いのだ。あるいは、隣国の巨大メーカーは、オーナー経営者が超優秀な人材を本社に集めて、近頃なかなか業績がいいらしい。かたや、昔から製品を買ってきた国内の巨大電機メーカーが、何年間もひどい不振にあえいでいる。ならば、これは経営者がわるいにちがいない・・

どんなに長期的な業績であれ短期的な戦績であれ、あるいは数十人のチームから十数万人の組織まで、すべてリーダーの性格や良し悪しだけで、決定的に決まる。これが世間に流布する受け取り方だ。この方法にはいくつかの利点がある。まず、単純明快で受け入れやすい。また、リーダーだけを見ればいいので、分析方法として手軽である。リーダーの顔写真さえあれば、直観的に判断できる。他人の顔を見て好き嫌いを直観的に判断する能力は、誰でも幼児の頃からもっていて、万人が使え、とくに必要な予備知識もいらない。顔写真に加え、出身校や略歴に関するもあれば、完璧だ。これでほぼすべての属性は説明できてしまう。

もっともこの方法、多少の限界もある。一つ目は、業績結果はうまく説明できるが、業績予測にはあまり使えないことだ。また同じリーダーの元で、業績のアップダウンがあったりV字回復したりする現象は、説明がつかなくなる(まあ、そういう場合は「女房役」の人材の良し悪しで補足説明する方法もあるが)。

さらにもう一つ。多少なりとも組織の長やリーダーになって、かつ、思わしい業績を上げられなかった経験のある人間たちは、この方法の適用に慎重になる。自分が課長に昇進したとき、あるいはチームのキャプテンになったとき、すべての戦績が自分のせいとされるのは、いささか不本意である。この程度の手勢でどうしろというのだ? あの市場環境では、むしろ善戦した方ではないか。

むろん、中間管理職なら、自分の上司や経営者のせいにもできる(だからリーダーによる説明法はすたれない)。しかし世に中間管理職は数多いので、中には、業績はリーダーだけでなく、組織をとりまく環境や、組織が持っている要員、設備や技術などもけっこう重要ではないか、と考える人も出てくる。

まず、組織の要員のコンピテンシーについて見てみよう。リーダーの性格や能力だけでなく、チーム員の能力が高くなければ、良いパフォーマンスは発揮できまい。監督がいかに有能でも、選手陣があまりにオンボロでは、勝ちようがない。まあたしかに、前期最下位のおんぼろチームを新任の監督が率いて、見事に優勝する例もまれにある。めざましい例だから、皆の注意を引き、記憶に残る。しかし、そうでない例の方が現実にはずっと多いのだ。むろん、人を育てるのも監督の大事な役目ではあろうが、さすがに人は1日2日では育たない。

ついでながら、コンピテンシーというのは、そのポジションが要求する機能を果たす能力を意味する。すなわち、同じ人間でも、与えられた役目によってコンピテンシーはかわるのだ。優秀なピッチャーに、捕手をやらせたらどうなるか、考えてみれば分かる。ポジションを離れた、抽象的な『能力』レベルを議論してもナンセンスなのだ。よく、「優秀な人は何をやらせても優秀」という言い方をする人もいるが、じゃあ日本代表チームのポジションをばらばらにシャッフルしたら、チームの戦績がどうなるか想像してもらえばいい。つまり各人固有の能力と、適材適所な配員のかけ算が、コンピテンシーを生み出すのである。「リーダーの能力」というのも、その意味ではコンピテンシーの一部である。

個人個人のコンピテンシーと並ぶ、もう一つの大事な要素は、組織が利用可能な資源(資産)だ。具体的には、設備や道具などのハードウェア、そして技術や知識といったソフトウェアなど。設備や道具は個人の能力を増幅してくれるし、技術力や知的財産で優位に立つ、という業績の出し方もある。

さらにチームや組織をめぐる外部環境も、リーダーにとって大事である。ビジネスならば、市場環境全体が成長しているのか低迷しているのか、競合状態は厳しいのか、法制度や政策はどうなのか、といったことが、業績に影響を及ぼす。これらは自分たちだけではどうにもならない。無風状態と台風の中では、誰も同じようには走れないのだ。

人間の能力、組織の資源、そして外部環境。組織のパフォーマンスを決める因子は、もう他にはないだろうか? 

まだある。それは、システムとしての『組織のデザイン』である。ここでいっているデザインとは、単なる組織図のようなスタティックな絵を作ることではない。チームを、どんな機能をもつポジションから構成するか。各ポジションに対し、どんな仕組みで指示し統制するか。そして、各ポジションにどんな権限を与え、その働きをどう評価し改良していくか。これが「システムズ・アプローチによる組織デザイン」だ。このサイトで繰り返し書いてきたように、目に見えにくいシステムを、どう理解し設計するかが、管理技術=マネジメント・テクノロジーの肝である。工場ならば、人の働きとモノの動きからなる生産システムのデザインであり、知的成果物をうむプロジェクトならば、人と知識情報の動きからなるプロジェクト・フォーメーション・デザインがそれにあたる。むろん、こうしたデザインは、設備・道具・技術など有形無形の資産と密接な関係にあるし、成員のコンピテンシーにも大きく影響されよう。

それでも、「いや、やはりリーダーの役割は大きい」という声があるかもしれない。だって、組織のデザインも、リーダーのすべき仕事なんだから。まあ、それには一理ある。しかし組織の構造は、ルールや慣習によって決まっている部分も大きい。野球チームの9つのポジションを、監督は自由にかえられるだろうか? そうはいくまい。会社組織だって、法律上要求される部分はかなり多いのだ。もう一つ。リーダーの無能ゆえに、組織のパフォーマンスが急速に落ちるケースは、たしかにときどき見かける。こういうときは、たしかに「組織はリーダー次第だな」と感じることもある。ただし、お城でもどんなものでも、作り上げるには大勢の努力と長い時間がかかるが、壊すときにはあっという間だ。リーダーは、組織がダメになるときにはその「功績」が目立つが、徐々に組織が成長していくときには、リーダー個人の影響は必ずしも見えにくいことが多いのだ。

話を戻すと、組織デザインの一番プリミティブな形は、単なる個人の寄り集まりである。小学生が校庭でやる休み時間のサッカーのように、みながワッと団子のようにボールに群がる。役割分担も何もない。この「団子状態」から一段上がると、一応、ポジションと役割分担のあるチームになる。監督さんの指示と号令の元、皆が一応の機能的な動きを志す。ただし、監督がいなくなると、バラバラで集団機能が果たせなくなる。運転手のいない車のようなものだ。こうした「機械的な仕組み」からさらに一段上がると、組織の成員一人一人が、自分で考えながら、他者と連携し、パスを回してゴールを目指していく「有機的なシステム」になる。リーダーもいるが、全員が成果に対する当事者意識(オーナーシップ)を持っている。この有機的なあり方こそ、高いパフォーマンスを生む組織の姿なのである。

そして、このような有機的な組織を維持する上で大切なのは、働いている人々の気持ちのあり方=マインドセットである。それは仕事へのモチベーション(当事者意識)であり、また、集団としての思考と行動習慣(わたしが組織のOSと呼ぶもの)でもある。たとえば、命じられたからやっているのか、自分から自発的にやっているのか。それが最終的に楽しいからやっているのか、それをしないと後が怖いからやっているのか。こうしたことは、個人個人のコンピテンシーにダイレクトに影響する。また、以前『なぜなぜ分析は、危険だ』などでも紹介したように、組織が「ミスは個人の責任だ」「ミスは罰しなければ直らない」といった、性悪説的価値観を持っていたりすれば、当然ながら猜疑と情報隠蔽がはびこるようになる。

ところが、最もやっかいなことは、このマインドセットは、チーム(組織)のパフォーマンスの結果に影響を受けるのである。業績が良ければ、人々のモチベーションも上がる。モチベーションが上がれば、効率もさらに上向く。逆に業績が落下していくと、みなが「それは俺のせいじゃない」と考えはじめる。すると、人間関係はギクシャクして、さらにダウン・スパイラルにはまっていく。ここには、正のフィードバックが働くのだ。正のフィードバックが働く系は、ご存じの通り、安定化が難しい。

以上の関係を図示すると、次のようになる。組織のパフォーマンスを決める因子は大きく4つ。下から順に、(1)外部環境、(2)組織の持つ資源(技術等)、(3)組織のデザイン、(4)人のコンピテンシーだ。人のコンピテンシーは、マインドセットに影響される。ところがこのマインドセットのある部分は、組織のパフォーマンス結果から正のフィードバックを受ける。まあ、もっと要素を細かくすることも可能だし、厳密に考えればマインドセットの影響力は、組織デザインの中の評価基準のあり方に左右されたりもするが、ここでは複雑になりすぎるので略した。この図は、一種のモデルである。モデルは、多少の細部に目をつぶっても、本質的な要素をとらえることが重要だ。それが、モデルに対するリテラシーである。
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そして、わたし達の社会の産業成長の軌跡を考えると、面白いことが見えてくる。第二次大戦後の10-15年ほど、産業の復興を後押ししたのは、復興政策や朝鮮特需という「外部環境」であった。この時代は、とにかく働けば結果は出た。次の高度成長の15年間は、設備投資や技術導入の時代であった。重化学工業の発展は、「組織の持つ資源」が後押ししたのだ。だが、1970頃になると、曲がり角に達した。

その後、ごく一部の企業だけは、「組織デザイン」にボトルネックがあることに気がつき、トヨタ生産システムなどの『仕組み』の工夫をはじめた。しかし、大多数は新しい外部環境を求めて輸出に走るか、あるいは電子・情報など新しい技術に賭けることで業容を広げようとした。それなりの努力もあり、また幸運な追い風もあって成功を収めたが、95年頃のバブル崩壊以降になると、打つ手を見失っていった。

その時に、システムズ・アプローチによる組織のデザインに向かえば、まだ間に合ったろう。だが、自分なりの生産システムを考える代わりに、「カンバン方式」という道具を真似る勘違いが横行した。さもなければ、システムは飛び越して、管理職に対して「リーダーなんだからリーダーシップを発揮して、何とか問題解決しろ」と号令する向きもあった。管理技術のテクニカルなソリューションを飛び越して、精神論にいきついた感じである。あるいは個人の能力を求めて、『グローバル人材』なる偶像を追いかける、といった次第だ。

高いパフォーマンスという山の頂上へは、二つの道程がある。一つは、
 技術・設備 → 組織デザイン → 人の能力、
という尾根伝いのルートだ。最後の登坂には、マインドセットの助けを得る。もう一つは、
 技術・設備 → (精神論) → 人の能力、
という垂直ルートだ。どちらも高みには上れるだろう。後者の方がルートは分かりやすい。だが、高いリスクをもつ。

もちろん前者だって、決して楽な道のりではない。とくに、マインドセットという見えざるものが、やっかいだ。技術は左脳の論理で制覇できるが、モチベーションは右脳の感情との協調作業だからだ。ただ、これを掌中にしなければ、たぶん頂上は極められないはずなのだ。


<関連エントリ>
 →『なぜなぜ分析は、危険だ』(2014-04-26)
by Tomoichi_Sato | 2015-06-02 23:24 | ビジネス | Comments(2)