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PMPの資格はほんとうに仕事の役に立つのか

昨年、勤務先でPMIの来訪を受け、同僚と共にインタビューに応じた。目的は日本におけるPMP資格取得の動向を探ることで、相手はいかにも頭の良さそうな30代の米国人であった。名刺を見ると、PhD、つまり博士号保有者であるむね書かれている。むろんPhDのほかにPMPも資格として名前の後ろに書かれている。

今さら説明するまでもないが、PMIはProject Management Instituteの略で、米国発で世界最大のグローバルPM団体である。日本にも支部はあるが、米国の本部が、世界中の数十万人の会員を統括している。PMIは元々1960年代に、プロジェクト・マネジメントに携わる人々が、PMという仕事もプロフェッショナル専門職として世に認めてほしい、との願いをもって結成された組織だ。現在のPMIは、通称『PMBOK Guide』(R)、正式には"A Guide to Project Management Body of Knowledge”とよばれるプロジェクト・マネジメント分野の標準書を発行しており(邦訳『プロジェクトマネジメント知識体系ガイド』)、それを元にしたProject Management Professional(略称PMP)の資格試験を主催している。

PMBOK Guideの初版が編纂されたのは’90年代の前半で、PMP試験も最初は米国に受験しに行かなければならなかった。しかしこの標準書と資格制度は非常に成功し、次第に世界中に広まることとなった。今では日本でも、日本語で、いつでも好きなときにPMPを受験できる。PMIはその後、他の資格試験制度もいろいろと設立しており、昨年3月の時点でPMIの資格保持者数は世界で60万人を超えている。また、PMBOK GuideとPMP試験が大当たりした影響は大きく、他の諸団体もきそって”xxBOK”というBook of Knowledge(知識体系)を発刊するようになった。わたしが知っているだけで、BABOK(ビジネス・アナリシス)、DMBOK(データ・マネジメント)、CMBOK(コスト・マネジメント)などがある。

その大成功した米国PMI本部のディレクターが、なぜわざわざアジアの辺境のわが勤務先などを訪ねてきたのか。たしかにPMIの法人スポンサーだし、インタビューに応じた同僚もわたしも、一応PMP資格は持っている。だが、わが社におけるPMP資格保有者など、(正確に数えたことはないが)数十名の下の方だと思う。日本だけで20万人以上いると思われるPMPの意見を聞くには、ずいぶん不適格ではないか。3桁以上のPMPを抱える立派な日本企業だって、IT業界にはいくつも存在するはずだ。

むろん、相手はそうした企業も回っているのだろう。だがエンジニアリング業界の話も聞きたいと思って、選んでくれたのかもしれない。質問の中には当然、「プロジェクト・マネジメントをビジネスの基盤としているエンジニアリング会社なのに、なぜPMP保持者が少ないのか」という主旨の問いもあった。わたしの同僚達はPMO部門に所属しており、(わたしも数年前までは同じ部署だったのでよく知っているのだが)PMP資格取得を社内で推奨しているのに、実際には受験者が少ない。

なぜPMP受験者が少ないのか。答えは簡単である。なくても、とりたてて仕事に不便がないからだ。海外のOil & Gas業界には、プロジェクト・マネジメントに関する一種のIndustry Standardが存在しており、発注者も受注者もそのことを承知している。これは一種の業界の慣習であって、特に何か決まった書き物はない。しかし、プロジェクトの入札書類には、必ずプロジェクトをこの業界標準に従った形で進めることが条件として義務づけられている。いわく、きちんとしたProject Execution PlanとProcedureを最初に作成すること、WBSを構築すること、レベル-2・スケジュールを作成してCritical Pathを同定すること、EVMSで進捗をコントロールすること等々、事細かく規定される。むろん、プロマネやPCM (Project Control Manager)やEM (Engineering Manager)など重要職は、本業界で10年以上の経験を有していること、などの要求もついているのが普通だ。

逆に、プロマネがPMP資格を有すること、などの条件がついているのは見たことがない。つまり、たとえPMP資格を持っていても、十分な経験がなく、上記の要求レベルでプロジェクトを回せなければ、役に立たないことを意味している。だから、あえてPMPを取ろうという人が出てこないのだ。

誤解しないでほしいのだが、わたしはPMP資格が無価値だ、などと言っているのではない。むしろ、社内に対しては、PMPも取ってないようでは恥ずかしいではないか、とのメッセージを発している。試験はたいして難しくない。基本的に、知識を問う選択問題である。多少、用語理解と模擬試験のために数ヶ月程度の準備はいるかもしれないが、パスする者は多いだろう。PMBOK Guideだって、読めば頭の整理にはとても役に立つ。たしかに用語は若干、我々の業界からずれているところもあるが、それは頭の中で翻訳しながら読めばいい。もし業界をまたぐ共通語を習得できれば、他の業界から、より良いPracticeを学ぶ機会もありうるではないか。

それでも、PMBOK Guideを勉強する人は少ない。わが同僚のA氏は皮肉って、こんなジョークをつくった:

若手 :「PMBOKくらい読んでおけよといわれたのですが、どんなことが書いてあるんでしょうか?」
ベテラン :「PMBOKなんて実務には何の役にも立たないよ。」
若手 :「そうなんですか。 で、どんなことが書いてあるんでしょう?」
ベテラン :「きみきみ、役に立たないものを、私が読んだことがあると思うのかね?」

勤務先を訪問された上記PMIのインタビューアーへの回答としては、それ以外に二つのことをあげておいた。一つは試験費用である。PMPの受験料は、社内では負担の一部を補助しているが、それでも他の日本の公的資格試験等に比べて、かなり高価である。もう一つ、日本語の翻訳も、いささか生硬でぎこちない。PMP試験はPCの端末に向かって行う形式だが、わたしが受験したときは、英語がデフォルトで、あるオプションを押すと、翻訳の日本語が表示される仕組みだった。しかし日本語が読みにくいので、わたしはずっと英語で問題を読んだし、後輩にもそれを勧めている。

まあしかし、これらのことは本質ではない。わたしがPMP試験について一番問題に感じているのは、じつはそれが知識を問う試験にすぎないことだ。以前から書いていることだが、能力とは知識や資質だけで決まるものではないと、わたしは考えている。個人の能力を構成する要素としては、知識・感覚(センス)・身体的スキル・創造性などがあり、これらをきちんとバランスし、かつ整合的・臨機応変に、組み合わせて活用できなければならない。だから、誰かの能力を評価するのはとても手間のかかる、難しい仕事なのである。これを、わずか数時間程度の、パソコンの前の応答だけで測ろうというのが、もともと無理なのだ。PMやPM補佐を10年近くやってきた者は、こうした矛盾点にそもそも違和感を感じるのだろう。

じつはちょうど昨年の同じ頃、わたしはGAPPS Initiativeの活動も手伝っていた。GAPPSとは、”Global Alliance for Project Performance Standards”の略で、プロジェクト・マネジメント分野の標準化問題を整理するために組織された、まったく非営利のボランタリーな団体である(URL http://globalpmstandards.org)。GAPPSは10年ほど前に、PM分野の巨頭たち数人によって、私的に結成された。世界には、米国のPMIをはじめ、欧州のIPMA (International Project Management Association)、豪州のAIPM(Australian Institute of Project Management)、日本プロジェクトマネジメント協会 (PMAJ)、英国APMなどPM団体がいくつもあり、それぞれが独自に標準や資格を制定してきた。その結果、2000年代に入ると、複数の標準・資格の競合や乱立といった現象がおき、実務家にとってありがた迷惑な状況が発生してきた。

GAPPSはこの問題をただすために生まれ、PMI・IPMA・AIPM三団体の元トップらが参加して地道に活動してきた。メンバーは世界中に分散しているので、基本的に年に3回集まって、Working Sessionで作業を進めている。昨年はそのうち1回を日本で開催し、JICA(国際協力機構)がホストを務め、PMAJが協力した。わたしもPMAJからのお声がけで、参加したのである。

GAPPSは、PM能力(コンピテンシー)とは、外的に現れた成果を基準に評価すべきだと考える。PMP試験のように、知識を基準とした(Knowledge-based)評価から、成果基準(Performance-based)のコンピテンシー標準への進化を求めると共に、各国のPM標準を相互比較し、アセスメント結果を公表している。その目的のために、結局、GAPPS独自のPM Standardを作成したのだから、なんだかN個の基準の整合性をとるために、N+1個めの基準を作ってしまった感もなくはない。が、少なくともその目的意識は、わたしも共感するところである。

そもそもマネジメント分野で標準とか資格とかに、どういう意味があるのか。わたしは東大で夏学期に週1回、プロジェクト・マネジメントを教えているが、今年の授業開始直後に、こんな質問を院生から受けた:

「Managementの再現性の取れなさ、うさんくささがずっと気になっています。『君にもできるプログラミング』と『君にもできるプロジェクト・マネジメント』という2冊のタイトルを並べてみると、後者の本に頼りなさを感じます。どうして理論が組み立てられているのに、現実の組織はこんなにもうまく機能せず、有能なリーダーはこんなにも稀なのでしょうか?」

なかなか本質をとらえた、鋭い、よい質問である。これはいいかえれば、「PMの標準なんて何の役に立つんだ?」という疑問だ。で、わたしは、こう答えた:

「世の中の技術や能力には、決定論的なものと、リスク確率の伴うものがあります。プログラミングは前者で、プロジェクト・マネジメントは後者に属します。これはたとえば、『君にもできる航海術』というタイトルの本を考えてみれば分かるでしょう。航海には、船の構造や気象学・海洋学といった専門的な知識も、GPSをはじめとする最新の測量技術も必要です。しかし、それらをみんなそろえたからといって、誰でもすぐ航海に成功すると思いますか? 学ばなければ、航海には出られません。しかし、学んだ後で、自分のものにする努力がなければ、いずれにせよ役には立たないでしょう。」

マネジメントの能力とは、たえず変化する環境の中で試されるもので、「知っている」ことと「出来る」ことの間には、大きな距離がある。こうしたことは、落ち着いて考えれば誰にでも分かることだ。にもかかわらず、知識を基準とする資格制度が、世界的に非常に成功してしまった。これは、今後は製造業より知財ビジネスと金融で経済を支えていく、という米国の国家戦略ともマッチしていた。PMP試験は、受験資格を得るためにも、また3年に一度の更新のためにも、『PDU』とよばれる一種の単位を取得蓄積することが義務づけられる。その制度的発明は、PDUビジネスという大きな周辺産業を生み出すこととなった。こうしてPMIは、みごとに渦を巻いて、多くのプロマネやプロマネ予備軍の人たちを引き込んだのである。とくにPMBOK Guideは、IT産業への福音として喧伝され、歓迎された。

そのPMIは、しかし、どうやら二つの悩みを現在かかえているように見える。会員数が思ったように増えないこと、PMPを維持しない人が案外多いことだ。だから日本まで、市場調査のために行脚にくるのだろう。

なぜPMPを維持しないのか? なぜPMBOK Guideに失望するのか? 答えは明らかで、本当にはプロマネ達の悩みを解決する助けにならないからだ。少しは、助けになる。だが知識は必要条件だが、十分条件ではない。そのことは多くの人がうすうす、気づいている。そしてさらにいえば、あらゆる業種、あらゆる形態と規模のプロジェクトに、共通にフィットする知識体系というものも、そろそろ限界に達してきているのだろう。抽象的すぎて、自分の実務に適用するにはコンサルを呼ぶしかない、というのでは、ちょっと不便である。

どうやらプロジェクト・マネジメント関係の標準は、一つの曲がり角に来ているらしい。そういう問題を議論したくて、次回の「プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会」では、PM標準に関する国際的なエキスパートである田島彰二氏を招いた次第だ。知識だけでは、プロジェクトは救えない。知識を超えた知恵を、われわれが出すには、どうしたらいいのか? できれば皆で、一緒に考えたいと思うのである。


<関連エントリ>
 →「それは知識ですか、スキルですか、資質ですか?」(2013-06-02)
by Tomoichi_Sato | 2015-05-25 20:30 | プロジェクト・マネジメント | Comments(0)

プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会(6月9日)開催のお知らせ

「プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会」の2015年第3回会合を、以下の要領にて開催いたします。

皆さんは国際標準化機構(ISO)が、2012年にプロジェクト・マネジメントの標準「ISO21500」を策定した、というニュースをご存じでしょうか。 彼らはさらに現在、その標準を拡張し、プログラム・マネジメントやポートフォリオ・マネジメント分野にも策定すべく検討作業を進めています。 島国の日本はいつも、国際標準化の分野で出遅れになりがちですが、この状況の中、長年にわたり積極的に活動してこられたのが田島彰二氏です。 田島さんはある意味、世界のPM業界・学会で最も名の知られた日本人だと言ってもいいと思います。
長年、IT/通信業界で活躍してこられ、現在は独立コンサルタントをされている田島さんの、本音を交えた独自の語り口にご期待ください。


<記>

日時: :2015年6月9日(火) 18:30~20:30
場所: 三田キャンパス・北館会議室2(1階)
    http://www.keio.ac.jp/ja/access/mita.html
    キャンパスマップの【1】

講演タイトル: 「組織のマネージャが備えるべき必須な(PM)コンピタンスとは」

概要:組織のミッション、ビジョンと戦略立案、その後の実践に必要なマネージャの能力とは。 具体的には、広い意味の組織に価値をつけるために考えること(リスク、ヴァリュー・マネジメント)、プロジェクト・ポートフォリオ・マネジメント、プロジェクト・プログラム・マネジメント、とプロジェクトマネジメントの関係、その使い方事例をご紹介します。 抽象的・概念的なISOから、標準規格、べたべたの適用事例までの関係や、技術からビジネスまでのマッピングなど、なるべく広範囲な話題を提供したいと思っています。

講師: 田島彰二(たじま しょうじ) 戦略PMオフィス代表

講師略歴:
37年に渡り、国産コンピュータ通信製造会社に勤務。主として新事業開発に従事。技術系
SE,SA,PMからプログラム・マネジャ(相当)、ポートフォリオ・マネジャ(相当)、新事業企画事業責任者等を歴任。
その後、2014年3月末に独立。コンサル系の業務を推進中。兼務で先輩の会社(ソフト開発会社)で仙台の責任者も従事。
PMのISO化作成の委員(PC236,TC258)。主としてプロジェクトの国際標準化(ISO21500)、ポートフォリオの標準化(ISO21504)を作成してきた。
PMI日本支部では、PMBOK委員会、PFM&PGM研究会、PMO研究会、OPM3研究会に所属。PMIの最新版の標準ドキュメント(PMBOK5, PGMV3, PFMV3,OPMV3)すべての貢献リストに掲示。
その他、ITコーディネータ、PM学会、PMAJ, IPMA各会員でもある。

著書:
参加費用: 無料。
ちなみに本研究部会員がスケジューリング学会に新たに参加される場合、
学会の入会金(\1,000)は免除されます。

参加を希望される方は、確認のため、できましたら当日までに佐藤までご連絡ください。

以上
by Tomoichi_Sato | 2015-05-21 23:31 | プロジェクト・マネジメント | Comments(0)

忙しいそば屋とヒマなそば屋 ~ 経済性工学とは何か、それは原価管理とどう違うのか?

技術屋は数字に強い、といわれている。たしかに数字アレルギーで電卓もさわれないような人は、技術的な設計作業には向かないだろう。技術で扱う数字は、仕様や長さや物性に関わるもので、kgだとかcmだとかいった物理単位系で測られる。わたし自身は(正直に言うと)けっこう粗忽な人間で、ときどき計算間違いもするが、さすがに数字が苦手だと思ったことはない。

しかしある意味で、「技術屋は数字に弱い」とも言える。少なくとも、数字に追われ、数字を見ながら生きている。こちらの『数字』は、コストに関する数字であり、単位は円やcentで測られる。物理単位系の数字は指先で自在にさばくエンジニアが、通貨単位の数字には頭を下げねばならない。通貨単位の数字は経営者の武器であり、その番人は財務や会計のプロ達だ。

通貨単位の数字は、判断に使われる。いや、物理単位系の数字だって判断には使うのだが、それは技術的な判断である。そのサイズじゃこの内径に収まらないとか、こちらの方が動力は少なくて済む、といった判断だ。それに対し通貨単位の方は、『経営判断』用である。この製品よりあの製品の方が原価が安いから生産を優先しようとか、東南アジアで作る方が人件費が有利だから国内工場は縮小しようとか、そういった判断だ。そうした数字を目標に掲げられ、あるいは横目で見つつ、技術屋は仕事をしている。

ところで、この経営判断用の数字を、きちんと技術屋の手中に取り戻そう、少なくとも技術屋の理解できるものにしよう、との目的を掲げた学問が存在する。『経済性工学』と呼ばれる学問分野だ(英語ではEngineering Economicsという)。経済性工学の基礎を知っているかどうかで、わたし達はずいぶん、経営数値に対するスタンスがかわってくる。

一例を挙げよう。これは経済性工学の古典的な教科書である、千住鎮雄・伏見多美雄著『新版 経済性工学の基礎―意思決定のための経済性分析』(日本能率協会マネジメントセンター)の例題をもとに、一部わたしが改変した問題だ。

ある観光地にそば屋があった。名物はもりそばで、この一品種しか作っていない。売値は1杯500円。もりそばの材料費は1杯150円だ。また、おしぼり代(業者に頼んでいる)が15円かかる。人件費と、諸経費(光熱費・店舗家賃等)は固定費だが、月間の平均販売数量で割って計算すると、それぞれ1杯あたり100円と75円になる。差し引き、1杯あたりの利益は、 500 - (150 + 15 + 100 + 75) = 160円ということになる。

さて、ある忙しいシーズンのこと。一人のお客さんがやってきてそばを注文したのだが、おしぼりを使い終わったときに、店の裏で飼っていた犬が店に入ってきたため、犬嫌いのお客は店を出て行ってしまった。ただし、この客のそばはまだ作り始めていなかった。このとき、店はいくら損をしたことになるか?——これが第1問。第2問は、同じ日に今度は店員が粗相をして、そばを一杯落としてしまい、作り直すことになった。そのとき、店はいくら損をしたことになるか? そして第3問。今度は閑散期に、また店員がそばを落としてしまった。今度は、いくらの損になるだろうか?

念のために注記しておくと、そば屋は一種の製造業である(販売もしている)。材料を加工製造し、販売して、利益を得ている。そばを落としたことは、製造の品質不良を意味する。犬でお客を逃がしたことは、(おしぼりを営業経費と考えれば)失注を意味している。

数字を整理すると、こうなる:
売価   500円
材料費  150円
おしぼり  15円
人件費  100円
諸経費   75円
利益   160円

答えを見る前に、ちょっとだけ考えてみていただきたい。とくに第2問と第3問に注意。なぜ、まったく同じ失敗について、わざわざ季節をかえて質問しているのだろうか?

ともあれ、順に考えてみよう。第1問。

おしぼり代の15円を損しただけ、と思うかもしれないが、正解ではない。この場合はすでに注文を受けていて、見込み客ではなく実際の顧客になっていた。犬さえこなければ、500円の売上を得たはずだ。ただし材料費150円には手をつけていなかったから、損にはなっていない。とすると、経済性工学では500 - 150 = 350円が損だった、と考える。

第2問。これも、材料費の150円だけを損した、と答えるのは正しくない。これは繁忙期のことだった。客は次々に来て、作るはしから売れていく。だとすると、そばを2個つくり、2人に売れたはずの時間内に、作り直しをしたおかげで1人分しか売上を得なかった。だから、500円の損失になる。

そして第3問。閑散期にそばを落として作り直したら、どうなるのか。この場合、店はがらがらで、たまにしか客は来ない。だから、倍の時間をかけたって、売上が減るわけではない。単にそばの材料費150円を損しただけになる。いや、へたをしたら毎日、材料を余らせて捨ててるのかもしれない。もしそうなら、損はゼロ円である。

なんだか奇妙だって? そう感じるかもしれない。じつは、経済性工学が教えるところは、普通の会計学とは違うのだ。その違いは、第2問と第3問の差に表れている。会計学では、その月が忙しいか暇かなんて、誰も問わない。

同じ金銭的数字を扱いながら、なぜ経済性工学は会計学と違うのか。それは、目的が違うからだ。会計学は基本的に、会計が適正に行われることを保証するために発達してきた。納税のためにも、また投資家への情報開示のためにも、正しい数値の集計と扱いが行われること。ところが経済性工学とは、経済的に有利な方策を比較評価し選択するために生み出された理論で、先々の意思決定の支援が目的である。

いいかえると、会計学は過去の金銭出納の分析報告に主眼があるのに対し、経済性工学は未来の意思決定に資することを目指している。したがって経済性工学では、つねに比較論が意識され、比較の対象をどこに置くかが問題になる。

繁忙期の場合、つねに製造を続け、作ったはしから売れていく状態が、比較の基準となる。製造資源(店員やそばをゆでる釜など)は稼働率100%のフル回転で働いている。大量見込生産状態といってもいい。製造資源が少しでもロスをすると、それは売上のロスに直結する。ところが、閑散期の場合は違う。閑散期は基本的に、製造資源が余っている。釜の中はたいていお湯だけで、店員はあくびをしている。こういう状態の時に、ロスが生じたからといっても、その分、見込顧客の売上を失うわけではない。不況期の受注生産と似た状況である。だから失うのは、外部に直接出ていく材料費だけだ(人件費や諸経費は、最初に書いたとおり固定費だから、売れても売れなくても変わらない)。

そして、気がつかれたかもしれないが、この例題における経済性工学の答えには、材料費やおしぼり代などの、変動費の分だけしか計算に出てこない。じつは1杯あたりの人件費や諸経費は、固定費を販売数量で割り戻して計算した値、いわば振り返りの(retrospectiveな)値である。だから、これから先の意思決定を考える場合は、あまり縁がないのだ。

ちなみに、上の三つの問いは、TOC(制約理論)のスループットの考え方を使えば、もっと直接的に答えられる。ただし千住・伏見『経済性工学』は1982年が初版で、ゴールドラット博士がスループット会計を言い出して普及するよりも、ずっと前に書かれていたことには注意してほしい。日本人にも独創的な学者はいるのだ。(ただし、そういう先駆性は国内ではあまり知られず、海外から輸入された学説の方が脚光を浴びるというのも、いかにも日本的ではある)

話がそれたので戻すが、繁忙期にこの店が失った金額は、会計学(原価管理)でいうコストではない。では、何なのか。それは『機会損失』である。英語で言うとOpportunity costだ。機会損失は普通、個別工程の製造原価よりもずっと大きい(そば屋の例をみればわかる)。品質不良や段取り替えで工程の生産能力を止めると、非常に高くつく。だから本当の経営判断は、機会損失を勘案して、行わなければならない。会計課が報告してくる製造原価の数値だけに頼って判断しては、いけないのである。

ところが機会損失は、会計の財務諸表には決して現れない。会計の数字は現実に立脚した数字、つまり事実起きたことの数字であるのに対し、機会損失は「つり逃した魚」の大きさを示す数字だからだ。

逆に、ある状況下では、売上や製造原価ではなく、変動費だけで判断すべきときもある。比較のための評価尺度は、目的と基準状態によって変わる。こうしたことを、技術者は知っておくべきである。そうしないと、他人から与えられた数字に、無条件に従ったり、踊らされたりする可能性がある。

前回わたしは、工場で製造マンが現場を離れてモノ探しに行くようなムダを批判した。しかし、より正確に言うと、これが直接のムダ(損)となるのは、この製造工程が『繁忙状態』にある場合に限られる。もし、この工程の稼働率が5割とか7割程度だったら、製造マンの生産性が下がったからといって、企業全体の損にはつながらない。

むろん、だからといってムダを放置していいという訳ではない。生産性を上げれば、製造マンが別の工程と掛け持ちにできるかもしれないし、少なくとも、もし繁忙状態になった場合に全体の足を引っ張るリスクを下げることはできる。ただ、ムダ取りの優先順位は、繁忙状態でなければ(=ボトルネック工程でなければ)少し下がることになる。ムダを取っても、直接は製造原価は下がらないだろう。リスクが(つまり機会損失の可能性が)下がるのみだからだ。

わたしは技術系の人にも、もう少し経営数値に強くなってほしいと思う。そのためには、経済性工学=Engineering Economicsを少しは勉強するべきだ。そのための初歩的な本だってある(たとえば伏見多美雄「おはなし経済性分析」など)。金銭の数字は、だれか得意そうな他人に計算してもらえばいい、という姿勢のままだと結局は、そのブラックボックスの数値に操られる結果に陥るだろう。

ただし、経済性工学を正しく使うためには、もう一つ、自分たちの生産システムの『基準状態』を見る能力が必要だ。基準状態は、自分の担当、自分の部署だけを見ていては、必ずしも分からない。全体像と、あるべき姿のイメージが必要だからだ。大局観と、適切な評価尺度の選択。そうした事柄を非技術部門や経営層に対しても説明・説得し、積極的にプロモートできるようになって、はじめて真の意味で技術者が主導権を得ることが可能になるのである。
by Tomoichi_Sato | 2015-05-18 21:52 | ビジネス | Comments(0)

ピッキングとはどういう仕事か

前々回の「マテリアル・コントロールとはどういう仕事か」で、物品=マテリアルに関する仕事には、3つの階層があると書いた。

1. マテリアル・マネジメント:
 ・台帳(マテリアル・マスタ情報)の整備統一
 ・供給の流れ(設計→調達→保管→使用→廃棄)の仕組みとルール作り
 ・需要の先読みと評価に基づく在庫レベルや改廃の判断 など
 ↓
2. マテリアル・コントロール:
 ・供給の流れの定量把握と短期予測
 ・マテリアルの保管や移動の差配(交通整理)
 ・予実分析と是正措置の勧告・手配 など
 ↓
3. マテリアル・ハンドリング
 ・選別・移動・仕分け・集荷・定置
 ・マテリアルの状態確認と計数(棚卸し)
 ・包装や小分けなどの物流加工 など

その続きとして今回は、人手や機械によって物品を直接さわるマテリアル・ハンドリング業務について少し書こう。とくに、その中心的な仕事である『ピッキング』作業について説明する。というのも、ピッキングは物品を扱うすべての場所で必要となる仕事だからだ。物品を扱うすべての場所とは、いわゆる倉庫とか物流センターだけでなく、工場の製造現場も、そして通常のオフィスさえも含んでいる。製造現場では、モノを作るのに原材料・部品が必要だ。オフィスにだって、文房具などのサプライ品は必ずあるし、それ以外に書類ファイルや郵便物といった物品がつねに動いている。にもかかわらず、ピッキングにどういう種類があり、どう使い分けたら効率的かという基本さえ、良く理解されていないケースがまま見受けられる。

なお、ピッキングという語をインターネットで検索すると、鍵を針金等で強引にあけてしまう行為の方が、真っ先に出てくる。ここでいっているPickingはもちろん違う。物品のかたまりの中から、ある物品をとりだすことである。何か一品を拾い出すだけでなく、複数の物品を取りそろえることも指す。この作業に使う指示情報が、「ピッキング・リスト」である。

たとえばあなたが、TVの料理番組を見て、よし、冷やし中華を作ろうか、と考えたとする。さっそく必要な材料をメモしてみた。すると以下のようになった。

【材料】      【数量】   【場所】     
中華麺・・・・・・・・一玉    冷蔵庫
醤油・・・・・・・・・大さじ1  冷蔵庫 
酢・・・・・・・・・・大さじ1  調味料棚
ごま油・・・・・・・・小さじ1  物置
砂糖・・・・・・・・・小さじ1½ 食器棚
玉子・・・・・・・・・1個    物置
チャーシュー細切り・・50g   冷蔵庫
キュウリ細切り・・・・30g   野菜カゴ

これがピッキング・リストなのだ。あなたは料理の材料として、調理の前にこれだけの物品を収納場所から拾い出し、取りそろえる必要がある。ちなみに物品の中には、手で拾い出せる麺や玉子のような固体だけでなく、調味料類のような液体・粉体もある。こうした液体や粉体は、計量(秤量)しながら小分けに取り出す作業になる。

そしてこれが料理でなく製造行為でも、部品材料を倉庫から拾い出し、取りそろえる点では同じだ。その場合、一つの工程の製造オーダー(製造指図)に対して、一組の部品材料がいるわけだから、ピッキング・リストとは製造オーダーに一対一に対応することになる。すなわち部品表(BOM)の中における、特定の一段階の親子関係がピッキング・リストになる(厳密に言うと、ボルト・ナット類など現場常備の汎用品などは、ピッキング・リストでは省略されるが)。

あるいは物流センターで、どこかの顧客からの注文に応じて、商品を取りそろえる場合も同じである。あなたがAmazonに何か複数の商品を注文したら、彼らの物流センターでは、倉庫から商品を取りそろえて例の茶色の段ボール箱にいれ、送付状を同封してあなたの住所宛に発送するだろう。この場合、1枚のピッキング・リストは、1件の顧客のオーダー(=納品書明細)と内容的に一致する。すなわち、ピッキング・リストとはある種の作業オーダーであり、より正確に言うならば保管場所からの出庫オーダーなのだ。

さて、このピッキング・リストに技術があるといったら、あなたは驚くだろうか。実は、あるのだ。上記のリストをよく見てほしい。いろんな材料が並んでいる。取りに行くべき場所も、まちまちだ。そこで、これをこんな風にソートしてみる。

【材料】      【数量】   【場所】     
中華麺・・・・・・・・一玉    冷蔵庫
醤油・・・・・・・・・大さじ1  冷蔵庫 
チャーシュー細切り・・50g   冷蔵庫
酢・・・・・・・・・・大さじ1  調味料棚
砂糖・・・・・・・・・小さじ1½ 食器棚
ごま油・・・・・・・・小さじ1  物置
玉子・・・・・・・・・1個    物置
キュウリ細切り・・・・30g   野菜カゴ

このリストは保管場所の近い順になっている。こうすると、リストを見ながら物品を取りそろえる際に、あちこちと同じ場所の間を何度も往復する必要がなくなるのだ。せいぜい狭い台所の中なら大した違いはないだろうが、もし工場のように、部品倉庫や仮置き場所がけっこう離れていると、往復の手間はばかにならない。え? 俺だったら最初のリストでも、頭の中で同じ場所のモノをまとめて持ってくるって? それはこの例が8種類の物品リストだから可能なのだ。これがもし80種類もあったら、あなただって道に迷うに違いない。

ただし、このようにピッキング・リストをソートするためには、二つの前提条件がある。第一に、すべての物品の保管場所が、明確に把握されていること。いわゆる「ロケーション管理」である。第二に、そのロケーションが、ちゃんと順路的なコード体系になっていること。上の例で、【場所】を単にアイウエオ順にソートしても、それが実際の位置関係であっちこっちになっていたら、あまり移動の節約にはならない。つまり場所の裏にロケーション・コードがあり、そのコードが近ければ地理的な所在も近いという風にコーディングされている必要があるのだ。

ピッキング・リストの表示順が、きれいに棚の順番になっていて、行ったり来たりの重複やムダのないものを、「一筆書き」のピッキング巡路とよぶことがある。ピッキング・リストをすべて効率の良い一筆書きで生成するのは、技術というべきだ。

ただし、ここまでは「冷やし中華」という一品料理のための材料のピッキング作業を考えた。しかし、現実には工場でも複数センターでも、複数のピッキング・オーダーを処理しなければいけない。

ここでちょっと、現実の中華料理屋を考えてほしい。顧客はバラバラのタイミングにやってくる。そしてレバニラだとかワンタン麺だとかカニ玉丼だとか、まちまちな料理を注文する。そうした個別の注文に一対一でピッキングを行う。これを、シングル・ピッキングと総称する。

ところが、店によってはラーメン系だけに品種を絞り、客の回転の速さで勝負するところもある。そうした店でカウンターに座り、調理場を眺めていると、最初に客の人数分だけラーメンどんぶりを並べておき、タレやスープや麺、そしてチャーシューなどの具を、まとめてどんぶりに小分けしていく。麺もまとめてゆでているし、チャーシューなどは大皿にのったものを、一人前の枚数ずつ(中にチャーシュー麺があればそこだけ多めに)のせていく。つまり、個別のオーダー単位でピッキングして取りそろえる代わりに、麺やスープや具などを、複数オーダー分まとめてピックして配膳台に持ち寄り、そこで個別オーダーごとに仕分けしていくのである。このような方式を、トータル・ピッキングと(あるいはマルチ・ピッキングとも)呼ぶ。

トータル・ピッキングの利点は、物品の保管場所と、荷揃え・出荷場所との間の往復移動がずっと少なくて済む点である。そのかわり、ピッキング・リストのあり方がまったく異なってくることは、システム屋さんならお分かりと思う。もはやリストは製造オーダーや出荷オーダーに、1対nの対応になる。仕分け作業においては、個別の出荷箱(ラーメン屋ならどんぶり)の横に、内容明細が別途必要になる。

シングル・ピッキングとトータル・ピッキングは、日本語で「摘み取り方式」と「種まき方式」と呼ぶこともある。農作業からの類比なのだろう。では、この両者は、どのように使い分けるのがいいのか?

いうまでもない。物品のニーズが多品種少量の場合はシングル・ピッキングで、ラーメン屋のように少品種多量の場合はトータル・ピッキングが向いている。シングル・ピッキングも、全体として扱う物流量が大きい場合は、効率化のために一筆書き的な順路の工夫が必要である。では、多品種かつ大量の場合は、どうするか? そのときは、もはや手作業では間に合わないから、全体を機械化する必要がある。たとえば郵便局や宅配業者などの中央仕分けでは、自動ソーターなどの機械で処理をしている。まとめるとこうなる:


          (多品種大量)
           完全機械化
            ↑ 
            ↑
(多品種少量)←←       →→(少品種多量)
シングル・ピッキング  ↓    トータル・ピッキング
  〔一筆書き巡路化〕 ↓
             ↓
         シングル・ピッキング
          (少品種少量)

このように、ピッキング作業は、全体の物量、および品種数の特性とを合わせて、適切な方法を選ばなくてはいけない。あるいはさらに、自社の物品の使用量を頻度に従いABC分析して、A品目にはトータル・ピッキングを、BC品目にはシングル・ピッキングを組み合わせて使う、などの応用編が必要になるだろう。

そして工場の設計においては、こうしたピッキングの方式や動線を考慮したデザインをしなくてはいけない。いや、むしろマテリアル・ハンドリングの観点から、まず全体レイアウトがどうあるべきかを構想すべきなのである。

だから工場見学をしていて、ときおり製造現場の作業者が持ち場を離れて、モノ探しにでかけたりするのを見ると、
 (いったい何を考えているんだろう)
と思ってしまうのである。作業の生産性を2割も3割も向上する方法があるのに、それをやっていない。

もちろん、わたしは現場作業者を非難しているのではない。彼らは単に命じられたとおりのことを、必要に応じてやっているだけだ。わたしが「何を考えてるんだ」と言いたいのは、そうした非効率を放置している工場長である。そして、そんな工場長を任命している経営者である。現場を見もせずに、「日本人は人件費が高コストで困る」「ウチはなんでヒット商品が出ないんだろう」みたいなことを『考えて』いる。ピッキングのちょっとした工夫も生まれぬ職場に、創造性など育つはずがない。組織とは、どこを切ってもだいたい同じ体質なのだ。現場が非効率なのに、本社だけ目を見張るほど優秀、などという会社は見たことがない。

くりかえすが、ピッキングのような一見単純な作業にも、それを活かす技術がある。ただし、そうした技術を活用するためには、工場を、あるいは生産システム全体を、俯瞰する視点が必要なのである。


<関連エントリ>
 →「マテリアル・コントロールとはどういう仕事か」(2015-04-26)
 →「マネジメントのテクニックと技術論について」(2015-04-12)
by Tomoichi_Sato | 2015-05-12 07:59 | 工場計画論 | Comments(0)

映画評:「イタリア映画祭2015」から

毎年、連休は「イタリア映画祭」を観るのが、このところの習慣になっている。今年も有楽町に通い、合計6本の映画を観ることができた。幸い、今回はどれも面白い、良い作品ばかりだった。まだ大阪では明日まで上映予定があるようなので、多少なりとも参考になればと思い、6本分まとめてアップする。
(いつものように、星の数で採点を表している。また、順番は観たのと逆順になっている)


★★★ ラ・パッシオーネ

2015/05/05
朝日ホール「イタリア映画祭」にて

監督:カルロ・マッツァクラーニ 撮影:ルカ・ビガッツィ 出演:シルヴィオ・オーランド、ジョヴァンニ・バッティストン、カジア・スムートニアク、マルコ・メッセリ、マリア・パイアート、ステファニア・サンドレッリ ほか

これは本当に傑作だった。昨年1月に、57歳で亡くなったマッツァクラーニ監督を偲んで、今回のイタリア映画祭で特別に再上映された一本だが、これを再び映画館で見ることができて幸せだった。

もう5年間も新作を作れずにいる映画監督ジャンニは、トスカーナの田舎町に借りて持っている不動産の不始末が原因で、その町で受難劇を演出させられるはめになる。その町では貴族がスポンサーになって、復活祭の前の聖金曜日に、キリストの受難劇を町ぐるみで上演する伝統だった。だがその貴族が亡くなり、長らく続けてきた伝統がピンチに立たされたのだ(携帯の電波さえろくに届かない、この小さな町の女性町長役を、特別出演のステファニア・サンドレッリが好演している)。ところがジャンニは、いまやTVで売り出し中の若い女優のために、3日以内に新作映画のシナリオを書かなくてはならない約束なのだ。窮地に立たされた彼の元に、かつて刑務所で演劇講座を受講した元泥棒のラミロが現れ、受難劇の演出助手を受難劇を買って出ることになるが・・

この映画は、もちろんコメディである。だが、それにもかかわらず、この映画のクライマックスは正真正銘、キリストの受難劇である。マッツァクラーニ監督は、本当に受難劇がやりたかったのだ。助演のジョバンニ・バッティストンもすごくいい。つねにコミカルな悪役を演じる彼を、このような役で使おうとした監督の意図を受け止め、見事に演じきっている。シナリオも完璧だ。シーンの一つひとつにムダがなく、敢然一体となってコメディとドラマを作り上げている。言葉によるムダな説明を排し、俳優の表情のアップや、窓越しに見える影絵だけで、いろいろな事を伝えてくれるのは、まるで映画の手本であろう。

そしてルカ・ビガッツィの魔術的な映像美は、驚嘆に値する。彼は暗がりの中に光が差すような、コントラストの強い、いわばカラヴァッジョ的な構図の絵を撮らせたら天下一品である。また合間に入る空想的な雪のノルウェーの、清潔だが絶望感にあふれたシーン。受難劇で町民が着るコスチュームも、素晴らしい。音楽も美しい。

わたしがこれまでイタリア映画祭で見てきた数々の作品の中でも、これは三本の指に入る素晴らしい映画である。カルロ・マッツァクラーニ監督は生前、1本も日本で一般公開された作品がないらしいが、このような傑作が、このままライブラリーにしまわれてしまうのは、あまりにも惜しい。この作品の良さは、映画館の大きなスクリーンで観て、はじめて十分に味わえる種類のものだ。ぜひ、より多くの人が観られるようになることを望む。


 ★★ 幸せの椅子

2015/05/05
朝日ホール「イタリア映画祭」にて

監督:カルロ・マッツァクラーニ 撮影:ルカ・ビガッツィ 出演:ヴァレリオ・マスタンドレア、イザベッラ・ラゴネーゼ、ジュゼッペ・バッティストン ほか

マッツァクラーニ監督の遺作。ベネチアの監獄で、エステティシャンの女性ブルーナが偶然、ある女囚の末期の遺言を聞く。自分の家の椅子の中に、財宝を隠してあるというのだ。恋人には裏切られ、不況のため自分のサロンが不振で借金取りに責め立てられる毎日を過ごす彼女は、その椅子を探して財を得ることで、幸せになろうと決心する。彼女は向かい側に店を出す入れ墨の彫り師ディーノの助けを得て、失われた8脚の椅子の行方を追うのだが、同じ遺言を聞きつけた監獄付きの神父も、彼らを出し抜こうと椅子の後を追うのだった・・

これもコメディだが、話がどこに行くのかちょっと分からない感じがある。ただ、最後に主人公たちが、雪の残る高い山頂目指してロバの背に乗って歩いていくシーンは、どこか、監督自身の生命の姿に重なるものがある。ルカ・ビガッツィの撮影は、映画によってはときにやりすぎに感じられることもあるが、この映画では抑制がきいており、しかも自然の美を出していて、とても良い。


 ★★ 僕たちの大地

2015/05/05
朝日ホール「イタリア映画祭」にて

監督・脚本:ジュリオ・マンフレドニア 撮影:マルチェッロ・モンタルシ 音楽:マウロ・パガーニ 出演:ステファノ・アッコルシ、セルジョ・ルビーニ、マリア・ロザリア・ルッソ、イアイア・フォルテ、トンマーゾ・ラーニョ ほか

イタリアでは1996年、第109法令が成立し、犯罪組織から押収した財産を、公共的活動を行う団体に払い下げることができるようになった(ただしこの法案成立に尽力した議員は2年後にマフィアに暗殺される)。この映画はその法令によって生まれた、ある実話に基づくコメディ仕立ての作品である。

舞台は南イタリアのある地方。マフィアから没収した土地を、土地の若い女性が協同組合を作ってもらい下げ、耕そうとする。そこに北部の活動家フィリッポが支援にやってくる。だが彼は、農業のノの字も知らない。ほかに有機農法を夢見る中年女性アッズッラや、地域の半端ものや素人たちが集まって手伝おうとする。唯一、野菜やブドウの育て方を知っているのは、マフィアの小作人コジモだけであった。しかし、最初の収穫の喜びもつかの間、目に見えぬ嫌がらせのさなかに、裁判中だったはずのマフィアのボスが戻ってくる・・

マンフレドニア監督は2008年の作品『人生、ここにあり』でも、自閉症者による協同組合の話をとっており、なかなか傑作だった。本作品もいい話なのだが、シナリオがちょっとだけゆるい。笑いの場面と、マフィアがらみの脅しによる緊迫の場面との、緩急対比がもっときいていたら、ずっと良い映画になっていたと思う。でも出演する役者たちは、なかなか良い。気の強い女性ロッサーナを演じるマリア・ロザリア・ルッソも素敵だが、トンマーゾ・ラーニョのマフィアも、いかにも町の名士らしく、憎たらしい。とりわけ、敵か味方かわからぬ小作人コジモ(セルジョ・ルビーニ)が、いい味を出している。

ところで、エンディングロールを見ていて、音楽にマウロ・パガーニの名を見つけて驚いた。こんな映画音楽の仕事をしていたとは! ‘70年代のPFMというロックバンドの名前を覚えている人ももう少ないと思うが、彼はこのバンドのメンバーだった。その後ソロになり、いかにも地中海音楽的なテイストのアルバムを出したりしていた。クラシック、古楽、ジャズ、民族音楽と、はば広いジャンルのクロスオーバー的な冴えを見せる芸達者な人だったが、ともあれ久しぶりに彼の名前を見つけて、とてもうれしかった。


★★★ 人間の値打ち

2015/05/04
朝日ホール「イタリア映画祭」にて

監督・脚本:パオロ・ヴィルズィ 撮影:ジェローム・アルメラ 出演:ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ、ファブリツィオ・ベンティヴォッリョ、ヴァレリア・ゴリーノ、ファブリツィオ・ジフーニ、マティルデ・ジョーリ ほか

これは傑作だった。シナリオがいいし、キャスティングも上等、緊張感もあって観客を最後まで引き込む。素晴らしい出来である。アカデミー賞外国語映画賞のイタリア代表作に選ばれ、ドナテッロ賞をはじめ世界で数多く受賞したのもよく分かる。

タイトルの『人間の値打ち』Il capitale umanoは、英語でhuman capital(人的資本)、すなわち保険用語で死亡事故に払う「人の値段」のことを指す。映画の冒頭、自転車に乗った人物が、不運な事故にあい、道端に転落する。この事故をめぐって、三つの家族の命運が交差する。ひとつは地元の不動産仲介業者ディーノと、彼の後妻と、高校生の娘セレーナ(彼女名義で失踪した母から受け継いだ資産を持っている)の三人家族。二番目は山上に巨大な邸宅を構えるベルナスキ(貴族の末裔で投資ファンドを経営する)と、妻で元舞台女優のカルラ、そしてセレーナと高校で同級の息子の三人家族である。三番目は、大麻不法所持の濡れ衣をかぶって学校からつまはじきにされている孤児ルカと、彼の面倒を見ているアル中の叔父だ。

上流、中流、そして下層階級の三つの目から、同一の事故シーンと顛末をふりかえり、次第にその真相が明らかになっていく。ここは非常に映画的であり、見事だ。ちょっとだけ米国映画『エレファント』をも思わせるのは、親世代を中心としたドラマと思わせながら、問題の焦点が高校生の子ども世代にあるからだろう。とくに微妙に揺れ動く女子高生セレーナ役を、マティルデ・ジョーリが好演している。

それにしても出てくる男がほとんど皆、感情移入できない奴ばかりであるのは、どういうことだろうか。不況の中、騙しと我欲とかけひきで生きのびるしかない、イタリア社会の暗示なのだろうか。ともあれ、最初から最後まで、息をつぐ暇もなく謎に満ちたストーリー運びは見事である。見て得した気持ちになる映画だった。


★★★ いつだってやめられる

2015/05/04
朝日ホール「イタリア映画祭」にて

監督・脚本:シドニー・シビリア 撮影:ヴラダン・ラドヴィッチ 出演:エドアルド・レオ、ヴァレリア・ソラリーノ、ヴァレリオ・アブレア、パオロ・カラブレージ ほか

イタリア映画祭で2本目に観たのがこれ。1本目が良くできたコメディだったので、比較してどうかなと思ったのだが、さらにアップテンポで上質のコメディだったから恐れ入った。これが初監督作品という若手シドニー・シビリアも、大した才能である。イタリアでスマッシュ・ヒットとなったのもよく分かる。

優秀な神経生理学者でありながら、ポスドクとして大学の不安定な地位で生活している主人公ピエトロは、予算カットのあおりを食って、ある日突然職を失う。しかし同棲中の恋人ジュリア(麻薬中毒患者相手のセラピストの仕事をしている)に打ち明けられない彼は、自分の知識を使い、合法ドラッグを作って売りさばくことを思いつく。彼が声をかける仲間は、中華料理屋の皿洗いで暮らす化学者アルベルトをはじめ、ポーカー賭博で一山当てようとする数理経済学者、ガソリン・スタンドの夜勤で働くラテン語学者二人組、道路工事監督の考古学者など、いずれも知識と頭脳を誇りながら不遇な研究者たちだった。彼らが合成したドラッグは高い品質で一気に売れていく。ピエトロはそれでも、やばくなったらいつでもやめられると思っているが、ある日彼らは、麻薬マフィアのボス・ムラーノの縄張りに触れてしまうのだった・・

不遇な研究者達がギャング団を結成する話で、大学の非常勤講師である自分もつい思わず引き込まれて見てしまったが、コメディとしてのテンポが軽快で大いに笑えた。オチの付け方も見事である。それにしても、コメディ『生きていてすみません』も本作も、その本質的な主題は、不況と就職難である。いやはや、イタリア経済も病気だな。しかし、それを笑い飛ばせるところがイタリアの健康さだが。


★★★ 生きていてすみません

2015/05/04
朝日ホール「イタリア映画祭」にて

監督:リッカルド・ミラーニ 撮影:サヴェリオ・グアルナ 出演:パオラ・コルテッレージ、ラウル・ボヴァ、コッラード・フォルトゥナ、ステファニア・ロッカ ほか

今年のイタリア映画祭で観た最初の1本がこれ。才能に恵まれ、若くから海外で活躍していた女性建築家セレーナが母国に帰国する。しかし彼女を待っていたのは不況による極度の就職難と、男社会の伝統だった。レストランでアルバイトをしながら苦心惨憺しつつ、ある巨大集合住宅のリノベーション・プロジェクト案を応募し、見事に当選する。しかし、それは男性の作品と間違えられてのことだった。しかたなく、ゲイの友人フランチェスコに、日本へ長期出張中の建築家に扮してもらい、彼女はその助手という設定で、なんとか設計作業を続行するが・・

女性建築家の奮闘を描いたコメディで、とても楽しい。この作品では主人公のセレーナも友人フランチェスコも自分を隠して生きている。そればかりか、気がつくとほとんどの人間が、小さな嘘をつきながら生きているのだ。そうでないのは、裸の王様じみた大御所建築家のみである。だからタイトル『生きていてすみません』Scusate se esisto! の意味はむしろ、「こんな私ですみません」なのだろうと思う。

カメラ、コマ割りは的確で、余計な言葉の説明なしで観客に状況を伝え、しかも笑いを誘う。主演のパオラ・コルテッレージは脚本にも協力し、歌もうまいし、非常に芸達者な女優である。男尊女卑的な大御所建築家の秘書を演じるステファニア・ロッカの演技も渋くてとても良い。見て良かった映画である。
by Tomoichi_Sato | 2015-05-09 21:38 | 映画評・音楽評 | Comments(0)

好き嫌いということ(を論じて、知的理解の枠組みに至る)

わたしは残念ながらモーツァルトが嫌いだ。ファンの人には申し訳ないけど、めったに楽しく聴けない。自分はまあ比較的、クラシック音楽を聴く方の部類だと思う。聴き始めたのは十代の頃からだが、その頃は一応素直な人間だったので、先輩先人の教えに従い、偉大なる天才作曲家モーツァルトもいろいろ聴いてみた。

だが2、3年ほど経ったのち、いつまで聴いてもちっとも楽しくないことに気がついた。気づくならもっとサッサと気がつけばいいのに、そんなにかかるのが、わたしの鈍感なところなである。あるいは、伝統的な教導の強さと言うべきかもしれない。ただし、わたしは心の広く公平な人間であるから(笑)、モーツァルトにもたまには良い曲があることは認めてよう。たとえば晩年のクラリネット協奏曲とか、同じ楽器だがクラリネット五重奏曲は素晴らしいし、あるいは音楽劇「魔笛」などにも良い部分がある。

ともあれ、自分の好みに気がついて以降は、彼の音楽を聴くのを避けるようになった。音楽好きの知人とも、モーツァルトの話はしない。好き嫌いのことでケンカしても仕方ないからだ。それは、こんな風になる。

「佐藤さんは、どうしてモーツァルトが嫌いなの?」
--彼の音楽は、なんだか内容のないツマラナイお喋りを、耳元で延々と続けられるような気がするんです。
「なんてことを。楽しい音楽が嫌いなの?」
--ぼくにはちっとも楽しくないです。
「あんなに純粋で、天上的な美しさにあふれているのに! それに旋律がきれいでしょう?」
--旋律の美しい作曲家は他にもたくさんいますよ。彼の旋律は息が短い。それに、カンタービレが決定的に欠けていると思いませんか。
「そうかなあ。純正で調和がとれているし、その上にウィーン的な洒落っ気もある。」
--ウィーン古典派ならハイドンの方が好みです。それにオシャレって言うけど、あの半音階的でおしゃまな装飾はカンベンしてほしいです。
「あれがいいんじゃない。 趣味の分からない人!」

という訳で、平行線である。どうして平行線になるかというと、こちらは好き嫌いをいっているのに、相手は良し悪しの同意を求めているからだ。

音楽や美術にとって、何が「良い作品」であるかを言うのは簡単ではない。その問いのために、美学という学問の全体系があるといってもいい。それでも、ごく大雑把にまとめてしまうと、「より多くの人々、より長期の時代に、鑑賞に堪える」ことと関係する。シェークスピアだってJ・S・バッハだって、死後は何十年も忘れ去られていた。それでも復活して、今は広く好まれ、典範として仰がれてている。秀れた点が多いからだ。

「じゃあ、どうしてモーツァルトが嫌いなのか? 良い作曲家だと皆が認めているじゃないか。」--だから、好き嫌いは理屈ではないのだ。わたしが鴨肉は好きだがネギは嫌いだというとき(事実だ)、それを十分に言語化して伝える方策はない。理屈をつけて説明しようと努力することはできる。だが、完全には説明できない。その証拠に、相手は納得しない。事実は(たとえば「2015年5月3日は東京は晴天だった」というなら)他人は同意できる。だが、5月3日は気持ちいい日だったというなら、それは感受性の問題で、説得力が薄い。

好き嫌いと良し悪しは別である。良否は議論可能だが、愛や嫌悪は説得も押し付けもできない。それは個人単位の感覚だからだ。こんな当ったり前の事を今さら書いているのは、この「当たり前」が学校で教育されていないばかりか、社会で共有もされず、ときには蹂躙されているように、思えるからである。

姫野カオルコ氏はエッセイに、タレント誰某はハンサムだと思う、と人にいうと、「えっ、あの人が好きなの?」と聞かれてこまると、たしか書いていた。美醜の判断=好き嫌い、と直結している人が多いからだ。モーツァルトのファンと話をしたくないのも、そのためである。わたしが嫌いだと言うと、たまに怒りだす人がいる。作品の出来がひどいと言ってる、と誤解するためだ。短絡的なのである(全員ではない。たまに、である)

逆に言うと、短絡的でない人、心の広い人とは、「自分の好き嫌いとは別に、相手の良い点を認める度量」のある人だ。公平な人、といってもいい。たとえ自分が嫌っている、いや戦っている相手であっても、秀れた点は認めらる人は、器量が大きい。自分の感覚や感情をいったんカッコに入れて保留し、他の見方もあると受け止める能力。

図に書く方が分かりやすいかもしれない。横軸に、自分の好き嫌いをとる。縦軸に、良い・まずいの判断をとる。そして、いろいろな作品や対象や事柄について、その人の好き嫌い感覚と判断結果をプロットしてみる。散布図である。短絡的な人々は、「好き嫌い=良し悪し」だから、すべての点が斜め45度の直線状に並ぶ(図左)。判断は手軽で、効率もいい。だが度量が広がるにつれて、両者はあまり相関しなくなり、しだいに点はばらつくようになるだろう(図右)。両者が全く無相関な人は、さすがにいないと思うが、点の広がりが、見る目の公正さを示している。自分の主観をいったん離れて、物事を客観的に見る能力を示している。
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好き嫌い=良し悪し、という態度は、とても無邪気でいい。だが、人が無邪気であって良いのは、15歳までだ。15を過ぎたら、人を動かす必要が出てくる。あるいは、その前に、他人が自分を動かそうとするのを、やり過ごしたり押し返したりする必要が出てくるだろう。そのとき、コミュニケーションのスキルとともに、客観性・公平さの能力が大事になる。

人を動かそうとするときの論拠は、事実・ルール・価値などである。「日曜から開店だよ」は事実。「下校時にゲームセンターなんか寄っちゃいけない」がルール。「学生の本分は勉強だろ」が価値観。そして反論の難しいのも、この順である。「だって、好きなんだもん」では自分の好き嫌いをいっているだけで、反論にならない。好き嫌いは人によって違う、のが大人の常識だからである。

個人差を超えた共通性の高さが、論拠の強さを示す。だから「事実」の説明力が最強で、「ルール」がそれに続くのだ。である以上、自分がなんとか他者と対抗する武器にできるのは、価値しかない。価値観には、多少のゆらぎがあるからだ。「よく学び、よく遊べ、って言うじゃない。人間には瞬間的な決断力が必要なんでしょう? ゲームは判断力を育てるんだよ。」

人間の心は、一種の同心円構造になっている。中心には、単純で原始的な、快・不快の感覚がある。これを囲むように、好き・嫌いがある(ここらへんは脳の中の扁桃体が決めているらしい)。非常に個人差の大きい領域である。勝ち負けや、損得、敵味方の感覚も、この愛憎に密着している。その周縁には、より複雑な感情がある。そして、感情を内部にくるむように、知的な働きがあるのだ。客観的な認知や、自己の好き嫌いへの反省は、知的な機能である。ものごとを、自分の好き・嫌い、愛憎の面だけでなく、少し異なる善し悪しの面からとらえ直す能力だ。そして言うまでもないが、言語というのはこの知的な働きの上に成り立っている。

短絡的な人は、たとえば批評とか分析といったことが理解できない。批評とは褒めるか・けなすか、どちらかの行為だと思っている。中学生がラジオを聞いたら、番組のDJが自分の好きなミュージシャンを批評していた。あいつはほめなかった、けなしたといって、いきり立つ。これが短絡である。

批評とは、より深い理解を得るための、補助線のようなものだ。対象を他と比較し、あるいは過去と比較し、良い点はこれこれで、まずい点はこれこれだ、その理由はこうだろうと推定する。これが優れた批評だ。優れた批評は、複眼的である。だが、わたしたちの社会では、中等教育で「自分の好き嫌いをいったん脇に置いて、対象を理解し評価する」という作業をあまり訓練しない。その結果、いつまでも中学生みたいに短絡的な大人が大勢、世に出てしまう。そういう人たちがビジネスを動かすようになると、ひどく単純で短絡的な論理ばかりが世の中にはびこることになる。これはなんとか防ぐべきではないか。

ダイバーシティというカタカナ言葉が、ビジネスの世界で流行っている。多様性を意味し、性別とか人種国籍とか年齢など従業員構成にバラエティを拡げるのが「良い」ことだとのニュアンスで使われる。ビジネス界は不思議なところで、「違法行為はいけない」と言うかわりにコンプライアンスなる言葉を使い、「あるべき姿を目指そう」と言うかわりにリスク・マネジメントなどと言いたがる。まともで通じやすい日本語は恥ずかしいから避けて、カタカナを使うのである。ダイバーシティはだから、「男女や肌の色での差別は良くない」と口にしないで済むように広まったのだろう。そう、推論したくなる。

それはともあれ、ダイバーシティ=多様性はもちろん、公正さの証である。ただし、多様性はそれ以上の積極的な意味を持つ。創造とは異種のものの組み合わせから生じる事を思い出してほしい。単一化した人間集団からは、新しい発想は生まれない。それに多様性はコミュニケーション能力を、否応なしに高める。すべてが阿吽の呼吸で通じる社会には、良質なコミュニケーターは育ちにくいからだ。

そして最後に、多様性の増大は、われわれの物事に対する知的な理解のベースを強めるだろう。たかが音楽談義なら「モーツァルトが嫌いなんて、変わり者ね」で済ませていい。だがことが複雑化した世界の行方に関わることなら、なるべく多面的な見方を持つことが必要なのだから。
by Tomoichi_Sato | 2015-05-04 23:51 | 考えるヒント | Comments(0)