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マテリアル・コントロールとはどういう仕事か

ちょっと前にも書いたことだが、拙著『BOM/部品表入門』のサブ・タイトルは「マテリアル・マネジメント改革の基本技術」と帯に銘打っている。BOMは製造業における中核的な情報であり、モノの供給・流れ・消費を司っているからである。だが実際には多くの企業において、同一社内にE-BOMやM-BOMなど複数の部品表が存在し、その間に不整合や矛盾が絶えない、といった問題が見受けられる。あるいは逆に、マスタが存在しないまま設計図や発注書が作成され、いざ組立の段階になってから、どれがどれだか分からぬ混乱状態に陥ったりしている(受注設計生産の業態に多い)。だからBOMの諸機能と重要性について社内で認識し、オーナーシップをとりもどそう、というのがこの本の主旨である。

ところで、わたしはこのサイトで「マネジメント」と「コントロール」を区別して使っている。マネジメントはコントロールのいわば上位概念である。であるから、マテリアル・マネジメントとマテリアル・コントロールも、別の仕事と考えている。マネジメントの原義は「人を動かして目的を達すること」、すなわち人に働いてもらうことだ。しかしこの用語は、人間以外にもいろいろな対象を動かして、自分の目的に役立たせるという意味で広く使われるようになった。お金のマネジメントだとか、時間のマネジメントといった具合だ。マテリアル、すなわちビジネス上で扱う物品(材料・部品・製品等)も、マネジメントの対象の一つになる。

もともと英語のManageという言葉には、ちょうど暴れ馬を乗りこなすような、御しがたい相手を何とかして自分の望むとおりに動かす、という語感が強い。他方、Controlとなると、もっと精密な作業の雰囲気がただよう。日本語で制御という訳語があるように、計画した通りに、相手を動かしていく。だから、Controlの対象は人間ではなく、機械や無生物のことが多い。車のスピードをコントロールした、といえば上手な運転手のイメージだ。だが、車のスピードをマネージした、と言ったら、お前の車は大丈夫なのか? と心配になる。そんな違いである。

余談だが、生産管理やサプライチェーン・マネジメントの分野では従来から、まちまちな用語が業種ごと通用し、相互コミュニケーションの障害となってきた。だからわたしは、せめて自分のサイト内ぐらいは、一貫した用語と概念でしゃべろうと努力している。まあ幸い、プロジェクト・マネジメント分野ではPMBOK Guide(R)の強い影響力があり、またISO21600:2012の制定も相まって、用語のブレは比較的小さい。

ただ、分野・業種別の用語のブレと並んで、もう一つ厄介なのが、日本語と英語との間のブレである。『管理』という用語がその最たるものだ。管理という日本語に該当する英語は、Management, Control, Administration の3つある。これはそれぞれ、かなり異なる概念だ。ManageとControlの違いは上に述べたとおりだが、Administrationはどちらかというと事務処理とか行政とかを思わせる言葉である。よく企業の中には、人事・経理・総務・営繕などをまとめて「管理部門」と呼ぶ場合が多いが、これがAdministrationの語感である。

そんなバカな、米国の経営学修士はMBA (Master of Business Administration) ではないか、だからAdministrationは『経営』という意味だ--こう反論される向きもあろう。ところが、そう単純ではないのである。まず、"Master of Business Administration"という名称が制定されたとき、あまり良い用語ではない、という批判が米国内でもあったことは知っておくべきだ(ミンツバーグ著「MBAが会社を滅ぼす」による)。また、わたしの勤務するエンジニアリング業界では、Project Managerが最高責任者で、その下に、Project Control ManagerとProject Administration Managerがいるのが欧米でも一般的だ(AdministrationのかわりにBusiness Managerという職名を使うことも多い)。ここでAdministrationの仕事はまさに、人の手配や金銭出納・職場環境の面倒を見る、総務的な業務である。ITの世界でも、System Adminは「管理者」と呼ばれるが、しかしマネージャーの職位とは限らない。

この話をさらにややこしくしているのは、英語には『経営』に相当する言葉が存在しないことである。日本語で経営と言えば、企業・官庁・学校などの組織体を維持運営するための、最高位の意思決定権限を含む職務である。経営者と言えば、会社なら社長・会長クラスか、少なくとも役員以上を指すだろうし、学校法人などでは理事・理事長クラスだろう。ところがこういう人たちは、英語ではTop Managementと呼ばれる。彼らの仕事は英語で何というか? 答えは”Management”である。それじゃ課長の仕事と同じじゃないかって? そうなのだ。経営者も中間管理職も、英語では同一の仕事になってしまう。

日本語における「経営」「管理」と、英語における”Management”, “Control”の領域の違いを、おおざっぱに図示したのが下図である。むろん、厳密に言えば、経営者の職域にもControlに属する仕事はあるだろうから、分かりやすく示した目安だと思ってほしい。ともあれ、このような差異があることに、多くの人は気がついていないか、無頓着である。だから、プロマネに任命された若手エンジニアが、何か勉強しようと思ってドラッカーやポーターを読む、といった奇妙な現象が起きるのである。
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そのようなわけで、わたしは無用な誤解を避けるため、このサイトでは極力「管理」という言葉は使わないようにしている。かわりに、カタカナで「マネジメント」「コントロール」と書いている。

マネジメントとは、不確実性が高く、比較的変動の大きな対象を、何とか自分の目的に役立てようとする営為である。その中には、先読みと、リスクテークと、決断が含まれる。そしてしばしば、取り組みのために配下の人間を動員することが求められる。そうした、人を動かすルールを定めるのもマネジメントの一部である。同様に、結果への評価と学びもマネジメントの大事な要素だ。

他方、コントロールとは、比較的予測しやすい対象を、自分の計画したとおりに動かしていく営為である。対象の現状をきちんと観察・測定し、本来の計画からずれている場合は、是正すべくアクションを取る。すなわち、方向を修正したり、スピードを上げさせたり(緩めさせたり)する。ハンドルとアクセルとブレーキで、地図通り運転するようなものだ。マネジメントは道のないところに道を引く。コントロールは引かれた道の通りに、走って行く。

それで(ようやく本題に戻るが)、「マテリアル・マネジメント」という仕事は、御しがたいマテリアルを何とか役立つ状態にしようとする営為だ。企業の中でハンドリングしているモノが少なければ、誰もそんな心配はしない。モノの種類や量や場所が増えすぎて、収拾がつかない状態においてはじめて、必要性が意識される。その要点は、まず、モノの台帳(マテリアル・マスタ)を整備して、何はどれであるか、どんな名前で呼ぶかを、統一することだ。それから、マテリアルの供給の流れ(設計→調達→保管→使用→廃棄)の仕組みを作る。さらに、それぞれの段階では、どのようなルールに則ってマテリアルを登録したり動かしたりするのかを決める。そして、適正な在庫レベルや改廃を判断することなどが含まれる。とくに在庫レベルや改廃の判断には、需要の先読みとリスクテーク、そして評価が不可欠である。

マテリアル・コントロール」の仕事は、もう少し日々の定常的業務に近い。それは、上記のマテリアルの供給の流れの交通整理役である。現在、どのモノがどこにいくつあるのか、そして来月はそれが増えるのか減るのか、そうしたことを把握する。また、具体的に、マテリアルの保管や移動についても差配する。ただし、実際に人手や機械でモノを動かしたり置いたり仕分けたりする業務は、「マテリアル・ハンドリング」と呼ぶ。コントロールは、モノの流れの制御である。コントロールの仕事は、現状の正確な把握、近い将来の予測、そして予実分析と是正措置の勧告・手配からなる。(計画立案作業もコントロールの職務に含める場合もあるが、ここでは除外しておく)

マネジメントの特徴は、先読みやリスクテークや決断といった、人間が介在する行為が中心となる点だ。したがって自動化できないし、コンピュータ・システム化も難しい。他方、コントロールは技術的な客観性が高く、コンピュータ化に向いている。すべてを機械で置き換えることはできないし、すべきでもないが、モノの数を数えたり、位置を記憶したり、先行きの数の計算をしたりといった部分は、自動化しやすい。

逆に言うと、マテリアル・コントロール業務がどれだけIT化されているかで、その企業のマネジメント・レベルを見ることができる。この事情は、コストやスケジュールなど他のコントロール領域も共通で、どれだけきちんとIT化されているかが、マネジメント・レベルの指標となる。もっとも、用語の混乱はこの領域にもあって、IT分野ではしばしば、状況レポートに過ぎないプログラムが「○○マネジメント・システム」などと呼ばれたりしているから、注意は必要であるが。

あなたの会社には、マテリアル・コントロール・システムはおありだろうか? え、「在庫管理システム」ならあるって? もちろん、1工場・1拠点なら、それでも結構。だが、モノを拠点間で動かしたり、外注先に支給したり、設計と並行して調達手配をかけたりしなければいけない業態だとしたら、交通整理は十分だろうか。途中で在庫が行方不明になったりしないだろうか。在庫の数値と現物がしばしば食い違って悩むようだったら、在庫「管理」の内容を、もう一回確かめた方がいいかもしれない。
by Tomoichi_Sato | 2015-04-26 23:31 | サプライチェーン | Comments(0)

顧客ロイヤルティの向上 〜 次もまた選びたくなる企業となるために

「どちらにお住まいですか?」そう聞かれたら、横浜です、と答える。だが「最寄り駅はどちらですか?」とたずねられると、どう答えるか、わたしはときどき迷う。住まいからは、JRの駅、そして2本の私鉄の駅の、いずれにも出られるからだ。どこに行くかによって、使う駅を毎回決めている。便利な場所に聞こえるかもしれないが、どこからも中途半端に遠い、とも言える。

ただ、複数の選択肢が可能なときは、3つの路線の中で、京浜急行の駅を選ぶことが多い。じつはこの駅が一番遠いのだが、何となくそうしてしまう。京急はまず、列車のスピードが速い。これは今月の「プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会」における八巻直一先生の講演で知ったのだが、京急は関東の私鉄の中では例外的に広軌、つまり線路のレール幅が広いのだそうだ。だからスピードを出しやすいということらしい。それに経験的に、停止するトラブルが少ないし、トラブルからの復旧が他社よりも早いと感じる。落とし物をしたときの対応なども、普段利用する他の鉄道会社より、おおむね良い。距離と価格の比で言うと、他の私鉄の方が相対的に安いのだが、鉄道選びは価格だけではない。

当たり前だが、価格だけで買い物を決める消費者はいない。性能、デザイン、品質、納期、支払い条件などを総合的に勘案して決める。競争とは、これらすべての項目を通じた競い合いである。とくに、消費者に具体的な商品を届ける消費財の場合、性能・デザインなど目に見える項目は、大きな競争力の要因となる。この事情は、サービスでも同じだ。鉄道やホテル、病院などでは、規模・機能のほかに、立地などの項目も重要だろう。

では、具体的な目に見える商品を持たぬ受注ビジネスにおいて、購買側の意思決定を決める要因は何だろうか?

これはすなわち、受注ビジネスの企業が目指すべき競争力とは何か、という質問でもある。いうまでもなく、コスト競争力が競争力のすべてではない。価格は競争の重要な一因子だが、非価格競争力もあるだろう。それは具体的には何か、との問いである。むろん、答えは業種業態によって違うはずだが、そこに共通するものはないのか。

ここで、『顧客満足度』(CS = Customer Satisfaction)というキーワードがひとつ、浮かび上がってくる。顧客満足度調査は、消費財の分野では昔からよく行われてきた。商品を買った消費者に、いろいろな角度から、その満足度を聞くのである。そして総合評点をつける(以下の記述は、圓川隆夫・著「我が国文化と品質 (JSQC選書)」に依っている)。CSの測定は、詳しく言うと、特定の製品・サービスを対象とした「モナディク尺度」と、過去の製品・サービスの使用経験に基づく「累積尺度」がある。いわば単発的な満足度と、累積的な満足度である。後者は、再購買行動との関連がより強いと言われている。

では、顧客満足度を左右する因子は何なのか。マーケティング研究においては、顧客満足度は『期待不確認モデル』(expectancy disconfirmation model)で説明されることが多いらしい(同書p.94)。このモデルでは、

CS = [使用時の知覚品質] - [事前期待]

で表現される。製品・サービスを実際に使用したときに感じる知覚品質と、事前期待に代表される各個人の比較標準との、差が顧客満足に現れる。事前期待が高いほどCSは低くなり、事前期待が低ければCSは高くなる。アップルのような企業は、つねにファン的なユーザによる高い[事前期待]と闘っているわけだ。

ところで、前述書の著者である圓川教授の最近の研究によると、消費財の分野では、「企業イメージ」がCSと「再購買行動」をかなり決めることが分かってきた。世界8カ国10の製品・サービスのデータによると、企業イメージはCSの約7割を決定しているらしい。ただし国別に見ると、米国や中国では企業イメージの影響が比較的大きいが、日本とドイツではそれほどでもない、という。

なお日経BP社のブランドジャパン調査では、ブランドイメージの総合力を、「フレンドリー(親しみ)」「コンビニエント(便利)」「アウトスタンディング(卓越)」「イノベーティブ(革新)」の4つの因子に分けている。この中では、とくに「卓越性」のイメージと、CSや企業イメージとの相関が強いことも分かってきた。「他にはない魅力がある」「際だった個性がある」事などが、消費財のブランドイメージや企業イメージを向上させるのである(圓川隆夫「日本企業のリスクマネジメントの二面性」2014年12月講演資料より)。

だが、ひるがえって、受注ビジネスにおける企業イメージとは何だろうか? とくに、あまり広告宣伝を打つわけでもないB2Bビジネスにおいて、企業イメージはどのように形成されるのだろうか?

当たり前だが、答えはユーザ企業による個別の経験を通じて、ということになる。受注ビジネスでは、引き合いから発注をとおして納品まで、顧客と売り手が接する期間が長い。その間に、個別要求のすりあわせや個別設計が入ったりすることも多い。売り手と買い手のインタフェースが、対面的である。だから口コミが大きな割合を示す。商品と広告宣伝だけがインタフェースとなる消費財の世界と違うのだ。

もう一つは、業界内部での横の評判である。たとえばすぐれた結果や卓越した実績を残すこと。もちろん、これも口コミベースになりやすい。B2Cとちがい、ネットに批評が流れるケースはほぼないからだ。ただしネットや広告宣伝の空白を埋める存在として、業界コンサルタントが専門的に比較調査することはありうるが。

B2Bの受注ビジネスにおいては元々、売り手と買い手との間に、継続的な緊張関係が存在する。買い手側は、要求仕様を自分が規定し、提供させる製品やサービスを鋳型にはめることで、価格競争に持ち込もうとする。逆に売り手側は、製品やサービスのユニークな機能・特性など(供給性状)を提案し、他社との差別化によって、価格競争から逃れようとする。買い手側は、要求仕様を盾に自分の都合のいい方向に引っ張り(Pull)、売り手側は供給性状を武器に自分が有利な方向に押し出そうと(Push)する。この綱引きのような技術的・心理的せめぎあいが、受注ビジネスにおける取引の本質なのだ。

そこで、買い手側の意識した要求仕様を上回る内容を、売り手側が提案・設計できるかどうかが、勝負の分かれ目となる。あるいは、設計面ではなく、パフォーマンスの面で、買い手側の無意識の期待を、売り手側が超えられれば、それでもOKだ。ここでいうパフォーマンスとは、売り手側の生産性や品質やスピード(納期)のみならず、売り手が自らの業務プロセスやチームの状況を的確に把握していること、問題を事前に防止したり迅速に解決できること、協力的なマインドであること、などを指している。つまり、相手を信頼でき、一緒に働いていて気持ちいいか、という心理的な評価となる。この感情面での評価が、じつは受注ビジネスにおける『企業イメージ』の実態であり、それが意思決定において大きな役割を持っているのだ。

顧客が、「再びこの発注先と仕事をしてみたい」「またここから買ってみたい」と感じる気持ちを、『顧客ロイヤルティ』(customer loyalty)と呼ぶ。英語には”loyalty”と”royalty”という、(日本人にとっては)よく似た二つの単語があるが、前者は忠誠心の意味である。後者は単語の中に”Roy”(王様)が入っているように、王族とか、国王の認可権・特許料などを意味する。このサイトでは、区別するために、前者をロイヤルティ、後者をロイヤリティと表記することにする。顧客ロイヤルティは、顧客が商品や売り手に感じる「忠誠心」(愛着)である。そして、顧客ロイヤルティの確保は、受注ビジネスが目指すべき最大のポイントである。顧客ロイヤルティが高ければ、価格競争に持ち込まれずに済む。また、繰り返し同じ相手と仕事をしていれば、さまざまな教訓(Lessons & Learns)が得られるから、さらにパフォーマンスも高くなる。

逆に言えば、毎回買い物を入札で決めようとする買い手は、基本的にどの売り手に対しても顧客ロイヤルティがゼロだということになる。公共系の仕事などは、毎回、相見積もりや競争入札が義務づけられる。これは内部監査や透明性の確保の観点から要請されていのるが、実際には、ユニークな提案を受け入れにくく、また繰り返しによる生産性の向上などを犠牲にしているわけだ。

言うまでもないが、顧客ロイヤルティの向上のためには、「顧客の期待に合致する」だけではダメである。「顧客の期待以上」が何度も続く必要がある。それは、先ほども説明したように、提供する製品・サービスの技術的な面と、遂行パフォーマンスの面がある(冒頭にあげた京浜急行の例が、よきパフォーマンスの例である)。

また、顧客ロイヤルティは、お客さんに対してイエスマンだけで居続けては達成できない。わたしの知る優秀な企業の例を見ても、顧客に「それはできません」ないし「それをやるとこういう困難がある」とはっきり言うことで、逆に信頼を得てきた。顧客の(とくに権限の小さな担当者による)無体な要求に対しては、最終的にそれが顧客全体のためにはならないことを説明する。その際の論拠も、顧客当人の満足よりも、「顧客の顧客」の満足を見通す能力である。松下幸之助の商売戦術三十箇条(1936)の中に、
「無理に売るな。客の好むものも売るな。客のためになるものを売れ」
という条項があるそうだが、この機微を語っているのだろうと思う。

無論、このようなことは、言葉にすると簡単に聞こえるが、非常に高い対人スキルや交渉能力を要する。だから、そうした対人感度の高い人材をフロントにおく必要があるだろう。以前にも書いたとおり、「気が利く」能力を生み出す要素は4つある。これを組織として認知して、サポートする仕組みがないと、顧客ロイヤルティの向上は図れまい。「次もまた選びたくなるパートナー」こそ、受注ビジネスに身を置く企業が目指すべき姿なのだと思う。


<関連エントリ>
 →「書評: 「我が国文化と品質」 圓川隆夫・著」(2014-12-17)
 →「勤め人の子弟と、顧客ロイヤルティについて」(2015-03-11)
by Tomoichi_Sato | 2015-04-20 22:18 | ビジネス | Comments(1)

マネジメントのテクニックと技術論について

このサイトのテーマは『計画とマネジメントの技術ノート』である。計画に技術なんてあるのか? そして、マネジメントに技術なんてあるのか? --もちろんある、とわたしは考えている。大学で講義したり、人前で話したりする機会があるときは、ほぼ必ず、「皆さん、計画とマネジメントには技術があるんですよ」と訴えるスライドを1枚いれることにしている。

それでもまあ、反応ははかばかしくない。たいていの人はピンとこない顔をしている。マネジメントという言葉を、『管理』だとか『経営』だとかいう旧来の日本語の枠内でしか捉えないためだろうか。そして人を使う技術だろ、あるいは金儲けの技術かよ、みたいに思うらしい。そんなのに技術があったら苦労しないよな、と。

わたしは2000年に、「革新的生産スケジューリング入門―“時間の悩み”を解く手法」という、単著としては初めての本を出版した。その本は幸い、比較的好評を持って実務家に迎えられた。ネットにもいくつか書評や感想が出たが、わたしが一番驚いたのは、「計画やスケジューリングに理論があるなんて、本書を読むまで知りませんでした」という感想だった。ソフトやコンテンツ制作系の業種の方だったと思う。この方はそれまで、クリティカル・パスも、フロートも、最小スラック順もバックワード・スケジューリングも、何一つ知らずに仕事を回してこられたのだ。

小規模な仕事ばかりなら、それでも済むだろう。だから知らなかったことを批判しようとは思わない。だが、規模や金額の大きな仕事も、同じような感覚で回そうとしている技術者が多いんじゃないかと、あらためて考えさせられた。これではまずいな。そこで、本のフォローアップと正誤表掲載の目的で、ホームページをはじめたのである(・・もう15年も経つんだなあ)。会社員であるにもかかわらず、ずっと実名でサイトを運営してきたのはそのためだ。

まあ、スケジューリングの分野はORの研究者が好むため、妙にアカデミックな用語が多い。だからもっとアカデミアから遠い、あんまり理論とか関係なさそうな仕事を例にとって、考えてみよう。

今、目の前に、紙幣やら硬貨やらがごちゃまぜにあったとしよう。大金とまでは言えないが、ちょっとした金額だ。実際に見たことはないが、正月なんか近くの神社の賽銭箱を開けたら、こんな風じゃないだろうか。--さて、これが正確にいくらあるか、数えなければいけない、としよう。では、どうしたら早く、正確に金額を数えられるか? もちろん、手元には紙幣カウンターとか硬貨仕分け機とかいった、文明の利器はないとする。目端の利く人なら、「金融機関に持ち込んで、おたくの口座に預けるから数えてよ、と頼めばやってくれるだろう」くらいは思いつくかもしれぬ。だが、それも禁じ手としておこう。休日だから、自分で数えるのだ。さて、どうするか? 
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愚直に端から一つひとつ、足し算していくのはどうだろうか。電卓を片手に、10円玉なら10を足し、千円札なら1,000を足す。もちろんそれで、一応目的は達せられる。だが、とても効率の低い仕事のやり方であることは、直感的に分かる。おまけに難点がひとつある。途中で、うっかり足し算を間違えたら、どうするか。最初からやり直すしか方法がないではないか。

まずは、紙幣を取り分けよう--その程度のことは、誰でも見た瞬間に思いつくはずだ。紙幣を取り分ける。さらに、千円札と5千円と万札に種別し、それぞれ枚数を数える、と。そこは着手しやすい。では、残った貨幣はどう集計するべきか。

とにかく、種類別に仕分けしなければ話になるまい。その上で、それぞれ枚数を数え、金額に集計するのだ。では、どうしたら手作業で、硬貨を早く仕分けられるか? 硬貨には、500円玉、100円玉、50円玉、10円玉、5円玉、1円玉、の6種類がある。6種類の空き箱を用意して、端から順に一つつまんでは、該当する箱に投げ入れるのではどうだろう。

それもまあ、一つの方法だ。最初の、端から順に足し算するよりは効率的にちがいない。だが、もう少しだけスマートな方法があるのだ。

ゴチャゴチャに混ざり合った硬貨を手作業で仕分ける際のポイントは、二つありそうだ。まず、目立ちやすい違いに注目する。たとえば、100円玉と1円玉は、両方とも白っぽい硬貨で、やや見分けにくい。それに比べて500円玉は同じく銀貨系だが、かなり大きいので見分けやすい。さらにもっと目立つ違いがある。5円玉と50円玉は、穴が開いているのだ。机の上に硬貨を広げたら、その二種類は他よりも区別しやすい。

もう一つの仕分けポイントは、たくさんの硬貨と少数の硬貨が混じり合っている場合、たくさんの物をすべて拾い上げるより、少数の物を拾い上げる方が、手数が少ない分、早く済むということだろう。たとえば100円玉が100枚、5円玉が10枚、まざっていたとしよう。この中から100円玉を拾い出す作業は、かりに1秒に1枚拾えたとしても、1分40秒かかる。ところが、5円玉を選り分けて拾えば、10秒で済む。残りはすべて100円玉ということになる。結果としては、同じ2種類の硬貨に分ける作業が、どちらを選ぶかで10倍も効率が異なる。

では、この中の硬貨で一番多そうなのは何か? ぱっと見て、どうやら100円玉のような気がする。硬貨の流通量から見ても、5円や50円玉は少なそうだ。ならば、そちらから拾い上げる方が良さそうだ。

以上を考えると、次のような手順が思い浮かぶ。

(1) 紙幣を先により分ける
(2) 貨幣の中から、500円玉を拾い出す(目立つから)
(3) つぎに50円玉を拾い出す(目立つから)
(4) ついで5円玉を拾い出す(目立つから)
 →この時点で、残っているのは100円・10円・1円玉となる
(5) ついで1円玉を拾い出す(少数だから)
(6) そして10円玉を拾い出す(少数だし100円玉とは色が違って目立つから)
(7) 最後に残ったのが100円玉

むろん、実際の硬貨の混ざり具合を観察して、最初の想定と違ったら、手順は多少前後させてもいい。大事なのは、なるべく効率よく、早く仕分けることである。

さて、こうして仕分けられた各硬貨の枚数をどう数えるか? これも、1枚2枚と手で数えるのは愚策だろう。おすすめの方法は、机の上に、5枚ずつ円柱型に重ねて積んでいくやり方だ。(10枚ずつ重ねてもいいのだが、5枚くらいの方が安定して崩れにくい)

(8) 最初に5枚、積んでおく
(9) それから、となりに、同じ高さになるように重ねていく
(10) そうして、できた円柱の本数を5倍し、残った端数を足し算する。

これなら、後からも検算が一目でやりやすい。

・・話は分かったよ。でも全体として、この話に何の意味があるんだ。神社の賽銭箱の勘定なんて、俺の仕事には関係ないぜ。そんな感想が聞こえてきそうだ。

たしかに、上に述べた手順だけなら、単なる「紙幣貨幣の手作業による勘定のテクニック」を知ったに過ぎない。だが、くどいようだが、ここには二つ、大事な発見がある。なにか混合物を分けるときには
・視認性の高い(=違いを検出しやすい)異物を、優先して除外する
・多数よりも少数を、優先して除外する
が作業効率上、大事な定石なのだ。もしお好みなら、定石と言わずに『戦略』と言ってもいい。

そして、これが定石(戦略)だと気がついたら、他のいろいろな作業にも展開可能なのである。あるテクニックが、そこに留まるだけならば、それはテクニックに過ぎない。しかし、それを抽象化し、より広い別の分野に応用可能にできたら、それは「テクノロジー」(=技術)に近づくのだ。そして技術がさらに発展すれば、それを基礎づける理論も生まれてくるだろう。単なるお金の勘定が、もしかすると大規模物流センターの設計の基礎になる、かもしれない。

人的作業の集合をいかに効率化するかは、わたしのいうマネジメント・テクノロジーの典型的な問題である。しかし注意してほしいのは、この種のマネジメント問題は、「経営学」や「会計学」などとは一線を画していることだ。どちらも経営管理を専門的に扱う学問・職業である。だが、硬貨の山の前に、経営学者や公認会計士を連れてきても、上に述べたような効率化の発想ができるだろうか? わたしは疑問に思う。着眼点が違うからだ。彼らの見ているのは組織図や株価や財務諸表であり、彼らが関心を持つのは起きた事象の正確な把握や分析だ。だが、硬貨の仕分けのような少額でミクロな問題、それをどういう手順でやると早く終わるかといったスケジューリング問題には、無関心だろう。そもそもそれが10分で終わろうが、1時間かかろうが、たいした違いではない。時給800円払うとしても、せいぜい700円違うかどうかだ。彼らの関心を引くには、金額の後ろに0があと4つくらいつかないといけない。

それでも、こうした作業の一つひとつの積み重ねが、企業全体では大きな違いを生んでいるはずである。だから、マネジメント・テクノロジーの問題意識や発想を持つ会社と、そうでない会社は、結局700万円どころではない業績の差が現れる。多くの会社がなかなかトヨタに追いつけないのは、(トヨタという会社への好き嫌いは別として)こうした発想の違いが現場にあるからではないか。

マネジメント・テクノロジーへの無関心の点では、メディアなども同様かもしれない。記者やレポーター、評論家達は、目に見える「画期的な新製品」などのニュースは大好きだ。ITの花形、パッケージ商品なども、カッコいい名前がついているし、なんとなく目に見えそうな気がする。だが、多数の物を拾い出して仕分けする作業のプロセス・効率・スケジュールなどは、目に見えにくい。抽象的で、見えにくいものは、ニュースにもなりにくい。だから、わたし達の社会で、気にとめる人が少ないのだろう。

もっとも、こうした問題には、全然別の視点もあり得る。もしあなたが、紙幣貨幣の勘定という仕事を、成果に対してではなく、かかった時間に比例して時間給をもらう立場だったら、どうするだろうか。もちろん、早く終わらせようなどというモチベーションは一切働くまい。ただ淡々と、端から順に足し算していけばいい。それじゃお金のムダだろうって? じつは、お役所的な仕事では、お金は使えば使うほど良いとされている。役人の一番の手柄はたくさん予算を取ってくることだ。そして予算を取ったら、1円残さずに使い切らなければならない。もし予算が許すなら、たくさん時給を払った方がいい。もらう側だって、たくさんもらう方がいい。だから公共的な仕事では効率が低いほど、全員がハッピーになる。

最近ある人から聞いたのだが、カリブ海に浮かぶキューバという国では、社会主義のおかげで、普通の国民は全員が平等に月給約1000円だそうである。どんなに働いても、働かなくても、だ。それだったら日中は適当に働いて、定時になったらさっさと職場を出て、夕風に吹かれながらラム酒を片手に、楽器でもつま弾く方が楽しいに決まっている。あの国にメチャメチャ音楽性の高い人々が大勢いるのも、当然の結果なのかもしれない。キューバは近々米国と和解する見込みのようだが、あの国に効率重視のマネジメントの発想が流れ込んだら、どうなるのだろうか。

そして、もっとずっと東の海に浮かぶ島国の人達のことも、ずいぶんと心配ではある。きくところによると、米国と協調して、内容が非公開の通商条約を結ぼうとしているらしい。これまで、「お上」による、(ほとんど社会主義的なまでに)保護政策で守られてきた産業が、突然、無国籍競争の寒風に吹きさらしになるのである。ま、キューバ人ほど楽観性も音楽センスも高くはないが、それなりに器用で真面目な人たちばかりだから、なんとか切り抜けるつもりではあるだろう。だが、せっかくなら、もっと計画やマネジメントの技術について、自覚的になったらどうかと思うのである。
by Tomoichi_Sato | 2015-04-12 22:36 | ビジネス | Comments(0)

ロボットとして生きないために

フィリップ・K・ディックのSF小説「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」(1968年)は、映画「ブレードランナー」の原作にもなった名作だ。小説の舞台は『最終世界大戦』後の、人間以外の生物がすべて稀少となった2020年の地球(あとたった5年だ)。主人公リックは、逃亡したアンドロイドを破壊してお金を稼ぐ、賞金稼ぎである。この時代、人間はアンドロイドを使役しながら、なんとか社会を維持している。アンドロイドは機械製だが、人間そっくりの外観と、知性、そして意思までを持つ。ただ一つ違うのは、アンドロイドには感情が全く無い点だった。主人公リックは、火星から逃亡してきた6人のアンドロイドを見つけて破壊し、賞金を得ようとする。彼はその賞金で、本物の生きた羊を買うのが夢なのだ。生物が稀少なこの地球では、ふつうはロボットの動物しか飼うことができないからだった・・。

この小説の妙味は、アンドロイドを識別するのに、『感情の有無』しか主要な手がかりが無い事だ。物語の中で、主人公はしだいに協力者や取引相手が、本物の人間であるかを疑いはじめる。この小説にはさらに「感情オルガン」という機械もでてくる。ダイヤルをあわせれば、自分の心理的ムードを明るくも暗くもかえられるのである。だがそれは結局、人間が他人に持つ共感力を減じていく。だから次第に、主人公自身も、自分が本当に人間なのかアンドロイドなのか、自信がなくなってくる。彼が本物の羊を所有する夢にこだわるのは、命を持つ生き物に対する愛着こそ、人間をアンドロイドの領域から区別する、最後の砦だからだ。

アメリカのSFは、奇妙でねじくれた架空の世界を、確固とした意思を持つ主人公が戦い抜く、という物語が多い(「スター・ウォーズ」がいい例だ)。客観的でリアルな世界像と、強固な自我。そして主人公を助け、あるいは敵対する、組織とシステム。これがアメリカ人の好むストーリーなのだろう。だが、P・K・ディックは、そもそも自分を取り巻く世界が、はたして本当の現実なのか、誰かの主観の外延なのか分からず、混沌状態に陥る話をよく書く。その中で、自分の信じる価値や善悪や感情も、はたして本当に自分のものなのか、定かでなくなるような話を。だから彼の小説は、決して単純な勧善懲悪にならない。

わたし達を取り巻く社会は、とてもがっちりとしたシステムとして、できあがっている。就活では、「自分はどういう仕事をしたいか、何になりたいか」ではなく、「たくさんある企業のどこを選ぶか(どこが選んでくれるか)」という形の問いしか、今は存在しない。わたしが社会人になったのはもう、はるか昔だが、その頃すでに「自分で仕事をつくり出す」ではなく「できあがった仕組みのどれを選ぶか(選ばれるか)」になっていた。社会は自分の外側に厳然と存在していた。学生アントルプルナー(起業家)は今も昔も、ごく少数だ。大半は組織の中に組み込まれ、競争して生きるわけだ。「どうせ歯車になるのなら、せめてギザギザな歯車になってやろうぜ」という広告が流れたのは、いつ頃だったろうか。

このサイトは『計画とマネジメントのための技術ノート』である。マネジメントという視点から言うと、組織の仕組みやシステムというものは、(繰り返し書いていることだが)誰が担当してもまあまあの及第点がとれるように、仕事の手順ややり方、インプットやアウトプットを設計していくのが、望ましい。もちろん、能力のある人にぱっと任せてしまう方が楽だし、効率的なのは確かだ。だが仕事のあちこちが属人的で、誰か特定の人がいないと定常業務も先に進まないようでは、システムとしての頑健性がおちる。だから、多少余計な手がかかっても、仕事をマニュアル化し、主観的な部分を排除していくように、システムは「進化」していく。ルールが規定され、ルール集は次第に分厚くなっていく。

だが、そのような十分に発達した組織のシステムは、その中にいる人間を交換可能な「部品」として扱うようになる。命じたことだけやればいい存在としてしか、見なくなる。古風な言葉を使えば、『人間疎外』が起きるわけだ。部品化された人間の側は、「言われたことだけやってりゃいいんだろ」という雰囲気になる。少なくとも、そんな組織の中から、自発的で斬新なアイデアやイノベーションなど、生まれようがない。ロボットに創造性など、要求されないからだ。

ここで、経営学の用語を一つだけ勉強しよう。「X理論とY理論」だ(あ、二つの単語だった)。D・マグレガーという米国の経営学者が、1950年代に提唱した用語で、世の中のマネージャー達が抱いている漠然とした仮説・思い込みを、二つの類型に分けて、それぞれに「X理論」「Y理論」と名付けた。

「X理論」では、労働者は基本的に怠け者だ、と考える。だからアメと鞭、報酬と罰則でしばらないと働かない。また、平均的な人間は命令されることを好み、自己責任を回避することを望んでいる。したがって、組織はルールと規律、命令と統制(Command & Control)で動かす必要がある。逸脱したら罰するか追放(失業)で脅す。人を働かせるためには脅し続けること。これがX理論だ。

「Y理論」は対照的である。人は生まれつき労働が嫌いなわけではない。それがもし自己実現に結びつくなら、自発的に働き、自分で責任を引き受ける。そして目標へのコミットメントと努力を惜しまないだろう。だから組織の目標と個人の目標の統合(Integration)が必要である、と考える。そしてマグレガーは、伝統的に信じられてきたX理論よりも、新しいY理論の方がよいと考えた。彼が活躍したのは、米国の経営学がモチベーション理論に熱中しだした時期でもあった。

さきほど説明したように、組織のシステムが進化すると、機能分化が進み、しだいに構成員を命令と統制で動かすようになっていく。つまり、企業が成功し大きくなっていくと、必然的にX理論がはびこるようになってしまう。それは、空前の発展と成長期にあったアメリカ経済界の姿でもあったろう。だがその成長の中には、必然的に従業員をロボット扱いにする疎外と空洞化がひそかに広がっていく。それを、目標管理で乗り越えようとしたのが当時の主流派経営学の思想であった。この目標管理は、やがて『成果主義』人事制度につながっていく。

ところで日本ではよく、X理論とY理論を、「性悪説」と「性善説」にたとえて説明される。わたしも最初に学んだとき、講師からそう聞いた。東洋では二千年も前から知っていたことを、アメリカ人は20世紀の半ばになってやっと気づいた、とも。だが、ずっと後になって、その説明は間違っていたことに気がついた。少なくとも、部分的にしか正しくない。X理論は、単純な性悪説ではないのだ。

X理論は、たしかに労働者は強制しないと働かない存在だと考える。監視しなければ怠けたり盗んだりする、性悪だと。こうした労働者間には、かつて黒人奴隷を使ってプランテーションを経営していた頃の米国の価値観さえ、うっすらと感じさせる。だがX理論には例外があるのだ。東洋の性悪説は、「すべての人間は性悪だ」と信じる。一方、西洋のX理論では、労働者を使う側、マネージする側については何も言わないのである。むしろ組織を動かし、システムを考える側の人々の追求するものは、善であると考えている風情さえある。それを総称して『リーダーシップ』と呼ぶ。

もし自分に強い意志があり、できあがった社会の中で勝利を得たければ、部品として使われる側ではなく、リーダーの側になりなさい。それがロボットとして生きないための唯一の道だ。−−これが、上記の思想が導く結論である。そして、有象無象の群衆の中から抜け出してリーダーになるための学校として、ビジネス・スクールがある。そこでは、生まれついて優秀なものだけがリーダーになる資格がある、と教えられる・・

あなたは、この思想に賛成だろうか。

わたしがひとつだけ言えるのは、こうした考え方と、日本人の伝統的な感受性とは、どこかで決定的に食い違うということだ。日本文化は情緒的なものを重んじる文化で、その性格は良かれあしかれ、この社会で育った者に深く刻み込まれている。大多数の人間がロボットのように感情の乏しい生活を送り、せいぜい享楽的なショッピングか賭博か宗教に救いを求める日々、といった状況は耐えがたいに違いない。たとえ経済全体がいかに裕福であろうとも。

そこで、スーパーエリートでも業界リーダーでもないわたし達は、どう考えるか。ロボットとして生きないために、いいかえれば、「あきらめて生きないために」どうしたらいいのか。世界はもう、できあがっている。すべての組織が明日からY理論に変わってくれるなど、望み薄だ。多くはX理論で動いているくせに、成果主義だけは強制されている・・。

ここで鍵となるのは、問題の立て方だろう。すなわち、「存在し出来あがっている社会と、意思を持つ個人との対峙」という問題の立て方自体が、ずれていなかったか。そうした問題では、支配する側に立つか、支配される側に立つか、二つに一つだ、との答えしか出てこない。

わたし個人の経験を考える。わたしはずっと、プロジェクトばかり仕事にしてきた人間だ。成功したものも、失敗したものも、楽だったのも辛かったのもある。だが、自分のキャリアの変曲点、自分にとって勉強になった、成長したなと感じられたプロジェクトでは、必ず他者の協力と助けがあった。プロジェクトは自分一人でやるものではないからだ。たとえプロマネの地位にあっても、単にチーム・メンバーを命令し統制しただけではなかった。設計に悩んだとき、問題が生じたときに、良い知恵を出してくれたり、心理的に助けてくれた仲間があったのだ。プロジェクトとは、複数の人間が協力しながら共に成長するための枠組みなのである。そしてプロジェクトとは、毎回毎回が、ユニークな存在であり、チャレンジである。

だから、出来上がった社会と個人、という問題ではなく、変わりうる社会と自分たち、という見方が必要なのだ。あたりまえだが、 周囲の人が変わらない限り、自分の境遇や感情が変わるわけがない。ユーザーや顧客を変えない限り、自分たちの仕事が好転するわけがない。では、世界を変えるために一番確実で、早い方法は何か。それは自分が変わることなのだ。だが、おかしなことに、人は自分自身だけで変えることができない(それができるくらいなら、古今東西、宗教なんていらない)。自分が変わるためには、人の手助けが必要なのだ。だからこそ、誰とつながるか、が大切になってくる。

そしてもう一つ。自分が変わるため、自分が成長するためには、現在の延長とは違うところに、未来のビジョンをもたなくてはならない。月に行こうと思ったら、飛行機に乗り続けてもダメなのだ。ロケットを開発し、テスト飛行や月の周回飛行を経て、月面に降り立つまで、順序だったチャレンジがいる。飛躍的なビジョンを持つこと。そのビジョンを夢見るだけでなく、一つ一つの行動で勇気を発揮すること。そうした勇気は、自分一人では持ちづらいが、協力する他者がいれば維持しうる。

複数の人間が協力して行うチャレンジには、定石があり、一定のやり方、いわば『OS』がある。それについてはここでは説明しきれないし、別に本も準備しているところだから、今回は略す。だが、覚えておいてほしい。一個人が出来ることには限りがあるし、それを無理に拡大しようとすれば、大勢の人間をロボット化することになるだろう。その結果、自分の希望や感情を奪われた人々は、表面的にはショッピング・賭博・宗教などに生きがいを求めるかもしれない(いずれも個人単位で熱中する点に注意してほしい)。だが、いつしかリーダーに(漠然とした)復讐心を持って生きるようになる。そんな社会が長続きするわけがない。

ちょっと大げさな話になった。だが、本心である。ロボットとして生きないためには、良きつながりを他者と得る必要がある。それは職場でたまたま隣り合った人かもしれないし、あるいは職場とは全く関係のない場でのことかもしれない。そして協力して、何か新しいことに取り組む。それを通じて、成長できることを実感する。

人間にできてロボットにできないのは、成長することである。それはP・K・ディックの小説にもあるとおりだ。そうでなければ、どこに働く意味があるだろう。

というわけで、新社会人の皆さん、入社おめでとう。どうか働くことが、成長の機会となることを祈る。これが、ずいぶん長い間、会社員をやってきた人間からの、正直な期待なのである。
by Tomoichi_Sato | 2015-04-04 18:56 | 考えるヒント | Comments(1)