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わたし(たち)はなぜ英語がヘタなのか?

小学校4年生の時のこと。ある日、食卓の上に、大きくて重たい箱形の見慣れぬモノがあり、それを前にした父が、「これからはこれで英会話を勉強するように」と、おごそかにわたしに告げた。器械は特殊なマルチトラックのテープレコーダーで、幅広の、今にして思えば1インチ幅の茶色いテープをかけて使うようになっていた。東京エデュケーショナルセンター(TEC)、別名「ラボ」の英会話自習用の装置だった。勤め人にとって決して安い買い物ではない。父は最初のレッスンの冒頭10分くらいをかけ、わたしが使えて、ついて行けるのを確かめた。そして、1レッスン約15分、毎日きくように命じた。

わたしは当時まだ素直な子どもだったし、父もこわかったので、一応命じられたとおりほぼ毎日その器械に向かった。ナレーターが、簡単なストーリーや説明をした上で、短い文章を発音し、聞き手がその後について自分でも声に出してみる。そういう作りだった。後半になると他の声優も登場して、多少会話風になる。耳で聞いて、自分で発音する。それを録音することができて、自分で聞き比べることができる。徹頭徹尾、音声的なトレーニングだった。テキストもついていたが、ほとんどが絵で、あまり英語の文章は書いてなかったような気がする。英語はまず第一に『音声言語』である。そういう原則の下に作られているのだった。

テキストの巻末の小さい文字の所を見ると、制作者の名前のクレジットが並んでおり、その中に「テディ片岡(片岡義男)」という名前があったのを記憶している。日系移民の子で、文化的にはアメリカ人だが、日本で生活することを選んだ彼は、若い頃こういう仕事を手伝っていたのだ。

数ヶ月経って、ある親戚の集まりに呼ばれて父と一緒に参加した。皆が談笑する中で、どういう文脈だったのか父がわたしを呼び寄せ、“ガールって言ってみな”と命じた。わたしはGirlを発音した。すると近くにいた親戚の男性達が驚いた表情になった。父は、自分がブロークンな英語しかしゃべれず、仕事でいかに苦労しているかを機嫌良く話した。そして「これからは英語とコンピュータを若いうちに身につけることが大事だ」と力説した。

英語とコンピュータ。たしかに、今のわたしは、そのどちらにも深く関係する仕事をしている。まことに慧眼だったのだろう。だが、そのどちらも、決して自分がプロだとはいまだ思えない。なぜだろう。

ちなみにその少し後、たしか6年生の頃だったと思うが、父はわたしにFORTRANの本を与え、読んで勉強するようにといった。目の前に端末もPCも何もないのに、言語を学ぶのは今考えてみれば至難の業だ。だが、そういう時代だったのだ(当時、父の会社が導入した最新鋭の電子計算機がそなえていた主記憶は、32kバイトだった)。

なぜ、わたし(達)は英語がヘタなのか? そういう話を書こうとしている。自分の英語はネイティブ並みである——そう思う読者は、読み飛ばしていただいてかまわない。だが、そうでない人が、わたしを含めて圧倒的多数だろうと思う。

ヘタと言っても、あえてここでは発音とリスニングの話題は飛ばすことにする。それは巷に数多くいるネイティブの英語教師達に任せよう。これは一種の身体訓練である。反射神経レベルの、スポーツ訓練に似ている。たしかに、子どもの頃から訓練すれば、多少は身につきやすい(だからといって、わたしは幼児に英語を教えるのは反対である。この話は後で書く)。大人になっても、繰り返しトレーニングすることで、確実に上達する。

しかし、たとえRやLの発音が滑らかでも、それだけでは英語として致命的に失格となる会話を、いくらでもしゃべれてしまうのだ。それはたとえば、複数と単数の区別である。

単数と複数の区別は、いつも悩ましい。ある事物を主語や目的語として思い浮かべる際に、それが単数なのか複数なのかを、会話では瞬時に、無意識に、自動的に決めなくてはならない。それがずれていると、英語として、なんだかおかしい。"There are many problems." というべきときに、"There is some problem."とか、つい言いたくなってしまう。言ってから、(しまった)と思う。"I have laptop PC."とか、言いそうになる。だが、"I have a laptop PC.”か、"I have laptop PC’s."か、どちらかなのだ。

ある事物が数えられるモノなのか、数えられないモノかのか、の区別も、とても難しい。プラントの業界では機器 equipment という語を多用する。ところで、このequipmentというい名詞は、おかしなことにuncountable、すなわち数を数えられない名詞なのだ。だから、"many equipments"などと言ったら間違いである。言いたければ、"many pieces of equipment"と言わなければいけない。もちろん、"many equipments”でも、相手のネイティブは意味を分かってくれる。だが、それと同時に、“こいつはまともな英語も知らない、学のない奴なんだな”という印象もインプットされてしまう。

いや、equipmentが不可算名詞なのが「おかしい」とうっかり書いたが、それは日本人の感覚である。Equipmentは元々、equip(装備する)という動詞の名詞形なのだ。Embellishment(装飾)などの仲間である。だから一々、数えられないというのが、本来の英語感覚なのである。

単数複数の例をもう一つあげよう。Dataという語である。英語では、countableな名詞にはmanyを、uncountableなものにはmuchをつけるのがルールだ。ではデータが多数あるとき、それはmany dataというのが正しいのか、much dataが正しいのか? 答えは、おかしなことに、「場合による」である。そもそも、”data”という語は、それ自体が複数形だ。単数形は”datum"というのだが、今日では一部の分野を除き、この単数形を用いるケースは少ない。

しかし、ここまでひねくれた例でなくても、"a pen"なのか”pens"なのか、"a boy"なのか”boys”なのか、その峻別が要求されるのが英語(のみならず印欧語系)の特徴である。これに対して、われらが日本語は、無理に語尾に「たち」などとつけない限り、単複を区別しないのが基本である。

この理由について、かつて岩谷宏は「ぼくらに英語が分からない本当の理由」の中で、

「英語の名詞はを指示する。日本語の名詞は、事(コト)の指示詞である」

と喝破した。だから英語では”I am a boy.”と言わなければならないのに、日本語では「ぼくは少年です」で立派に通用する。日本語では、ぼくは「少年であるという事態・事象」を表しているのであり、それ自体は数えてみる意味がないからだ。岩谷宏という人には賛同できない主張も多いが、これはとても優れた洞察だったと思う。

もう一つ、よくやる間違いを書こう。それは現在と過去と未来の区別(をしないこと)である。わたしが以前、海外プロジェクトで部下の書く英文をチェックしていたとき、最も多かったのが、この問題の修正であった。過去形や完了形で書くべき事態を、現在形で書いてしまう。未来形で意思を示すべきことを、現在形で書いてしまう。同胞の英語を聞いていても、しばしばこの種の問題につきあたる。相手は、よくきいていれば文脈で理解できるだろう。だがひどく不思議に違いない。

これは、日本語に時制tenseがないからである。といえば、「柿を食った」と「柿を食う」と「柿を食うだろう」の違いがあるじゃないかと、反論されるだろう。しかし、わたしに言わせると、この違いは時制を表すのではなく、「その事態がどれほど確定してしまったか」の違いを表すだけなのである。「食った」は確定した事態を表す。「食う」は事態への意思の表明を、「食うだろう」は不確実な事態の推定を表すだけで、時間的要素は必ずしも付随していない。未来形が「だろう」(推測)でしか表現できない点に、注意して欲しい。ちなみに確定度合いがより深刻で、もうとりかえしのつかない事態を示すときには、「食ってしまった」と表現する。これも過去完了とは、何の関係もない。

頭の中ではこういう世界のモデリング構造をしていて、それを時制にマッピングしようとするから、混乱が生じるのだ。嘘だと思うなら、英語の未来完了形”will have done"をどう訳するか、考えてみてほしい。ついでにいうと、ある初等英語教科書には、"I am studying English everyday."という例文があったようだが、これなど無理にtenseをつけた日本人英語の典型だろう(ふつうの英語感覚なら"I study English everyday.”)

助動詞haveのかわりにbe動詞を使ってしまう、というのも会話の中ではよく耳にする間違いだ。ついうっかり、"We are changed to -“などとやってしまい、あ、これじゃ受動態になってしまう、”We have changed”と言い直したりする。もう少し耳障りなものだと、会話の中で主語に”is"をしょっちゅうつける人々がいる。考えながら話すのだが、まず”This machine is, ah,“と、宙に放り投げてから、”change the temperature.”と着地する。Isは余計なのだが、本人は意識していない。

なぜ、こういうしゃべり方が生まれるのか? わたしの想像だが、「~は」という主格を表す格助詞の代わりに、be動詞がでてきてしまうらしい。「この機械は、えー」とはじめる。その時、無意識に”is"が出てくる。「温度を変えるんです」で後半がまとまる。日本語は、指示対象を次々にスタックに置いておき、最後に操作詞で全体をまとめる「逆ポーランド型」の表現形式になっているから、最初に何かを言っておくのは、ごく自然なことである。英語がS+V+O構造なのは、皆ももちろん知っている。だが、”This machine..”のままで宙に放り投げておくことは、日本語話者にはなんだか不安定に思えるのだろう。

ほかにも、事実と意見の区別とか、正確さと曖昧さの使い分けの問題とか、最初に大事なことから話す態度とか、英語らしい表現の方法についてはいろいろ論点があるが、長くなってきたので、ここでは詳しく述べないで、一例を挙げるにとどめよう。

たとえば、これはあるセミナーの英語による案内文の一部である:
It is no wonder that the business operations of corporations are global nowadays; therefore, the number of global programs and global projects keeps increasing. Given this backdrop, the need for leaders who can well manage global programs and global projects is a critical consideration because such highly performing leaders have been scarce until now.
文法も語法も、きちんとして正しい。だが全体として、ちっとも英語らしくない。きっと元は日本語の文章で、それを翻訳したものだと想像される。

「企業の事業活動が昨今グローバル化しているのは当然の成り行きであり、したがって、グローバルなプログラムやプロジェクトも増えています。このような背景から・・」 日本語ならば、案内文をこうした一種の枕詞ではじめるのは普通なことだ。だが、英語ではまず大事な本論に入り、背景はあとで説明するのが、キビキビしたビジネス表現である。文章は短く、同じ名詞は繰り返さずに言い替える。多いとか増えているとか言うときには極力、数字を例示する。だから、単に日本語を英訳しただけでは十分ではないのだ。(誤解しないで欲しいのだが、これを作成した人を批判しようという意図はない。わたし自身も陥りがちな英文の例として、引用したまでである)

つまり、わたし(たち)日本語を母語とする話者にとって英語の最大の難関は、世界のモデリング構造と表現手順自体の違いにあるのだということを、いいたいのである。すなわち、異文化の理解である。では、どうしたらいいのか。

以前も書いたことだが、何らかのスキルを身につけるには、(1)良い先生か手本を見つける (2)原理原則を学ぶ (3)繰り返し、繰り返し練習する、の3つが必須である。ネイティブの先生は、幸い世にあふれている。繰り返し練習は、自分の側の問題だ。だからカギになるのは、「英語の世界観という異文化のシステム」に関する原則を解明し、身につけることなのだ。このためには、一種の文化人類学的なセンスが必要になる。なんだか大げさな話をしているみたいだが、日英両側の文化を深く知った人の書いた言語論を読むのが一番だと、わたしは思う。それはたとえば、上にあげた片岡義男の日本語論(「日本語の外へ (角川文庫)」)だとか、あるいは以前書評に取り上げた中津燎子の英語論と言った書籍である。

また逆に言うと、本当は使用言語の違いは表層でしかない。OSIの7層モデルではないが、最大の違いは深層にある。だから訓練のためには、日本語でまず英語的な思考表現を訓練するのでも、十分役に立つだろう。

そして発音について言えば、べつにカタカナ英語でいい、というのがわたしの意見である。妙に巻き舌のRが強調されたりするのは、かえって聞きづらい。日本語の「ラリルレロ」でいい。

それよりも、一番の課題は、「自分と他人の区別」=相手の立場になって、メッセージを選び伝える態度を身につける、ということだろう(日本文化ではこの発想がそもそも薄い)。そのためには、きちんとした思考能力と、その前提となる自分自身の言語の定立がいる。父がわたしの目の前に英語教育の器械を置いたのは、10歳の時だった。その頃までには、母語は確立する。だから、ベスト・タイミングだったのだと思う。その点については、亡き父に感謝している。もっと前の幼児期だと、まだ言語感覚自体ができあがっていなかったはずだ。

体ができていない幼児にスポーツの本格的トレーニングはさせられないように、英語(日本語とは非常に異なる言語)を無理に覚えさせるのは、あまり有益には思えない。まして一緒に暮らす親の側に、英語の世界観が定立されていなければ、いっそう困難である。それは、コンピュータもなしに、コンピュータ言語を覚えさせるようなものだからだ。だからわたしは、ちっともプログラミングができないまま、プロジェクト・マネジメントばかり考える道へと旋回していったのである。


<関連エントリ>
 →「『英語』の向こう側」(2010-01-15)
 →「書評:『英語と運命』 中津燎子・著」(2014-06-08)
by Tomoichi_Sato | 2015-02-23 21:52 | ビジネス | Comments(0)

プロジェクト・ファイナンスとは何か

プロジェクトは投資である。

どんなプロジェクトも、最初に労力や費用を投下して、最後に金銭や無形の価値を得る、という構造になっている。新製品の開発であれ、新工場の建設であれ、あるいは新オフィスへの引っ越しだって、そうだ。受注型プロジェクトの場合はもっとはっきりしていて、プロジェクトの最初には見積・設計提案などが必要で、無事受注し完了すると代金収入を得られる構図になっている。

そして、投資には労力と金がかかる。労力だって、社内的にはお金が動かないように見えるかもしれないが、経営者から見れば人件費の消費である点に変わりはない。われわれの経済では、純粋に無料なものなど、ほとんど存在しない。だから、プロジェクトは金銭を投下し最後に価値を得る、投資行為だとみることができる。

さて、あなたは何かとっておきの素晴らしいプロジェクトをはじめることに決めた。ただし、手持ちの資金だけでは不足である。誰かからお金を借りる必要がある。世の中には一流の金融機関から街金まで、さまざまなプロの貸し手がいるし、あるいは親戚友人から借りるという手もあるかもしれない。その際、どのような条件が一番あなたにとって好ましいだろうか?

答えはいうまでもない。(1)金利が安い、という条件が一番であろう。しかし、それだけではない。よく考えてみると、お金を借りる際の条件には、他にもいろいろあるのだ。たとえば、
(2)返済期間が長い、というのも魅力的だろう。3年返済と10年返済では、毎年の負担額がまったく違う。多少金利が高くても、返済期間が長いのはありがたい条件だ。

(3)金利が固定、というのもある。住宅ローンなどでは、固定金利か変動金利かを選ぶ場面が出てくる。返済期間が長くなると、将来の利率が不確定だ。いまは不況の上に「異次元の金融緩和策」のおかげで金利は比較的安いが、将来インフレが起きて利率が跳ね上がる心配も、ないとはいえない。だったら、当面の利率は多少高くても、固定金利を選べる方が好ましく見える。

他には? (4)連帯保証や担保が不要、という条件があるなら、(1)(2)(3)の諸条件がひっくり返るくらい、非常にありがたいだろう。何であれ、事業には将来の不確実性がある。必ず、絶対に成功できます、とあなたは自分で信じ人にも約束するだろう。だが、何が起きるか分からないのがこの世間である。プロジェクトが失敗したときは、手元に何の果実も残らず、ただ借金が残る。その借金のカタとして、家や資産をとられたり、あるいは連帯保証人に迷惑がかかるような事態は、誰だって避けたい。多少金利が高くても、無担保で借りられるなら、それにこしたことはあるまい。

そもそも、担保に差し出せる資産があるくらいなら、別に金なんて借りる必要はないじゃないか。資産がないから、プロジェクトに投資して、資産を増やそうと試みているのだ。ならば、いっそのこと、「プロジェクトという無形の資産」を担保にして、金を借りられないか——じつはこれこそ、『プロジェクト・ファイナンス』という概念なのである。

今度は、視点を貸し手側に換えてみよう。あなたは今度、金貸しである。誰かに金を貸すとき、あなたとしては何を根拠に、お金を貸せるだろうか。金融業というのは、まるで労せずに利息だけを取っていく、ひたすら楽な商売だと思っている人も世間には多い。しかし、それは誤解である。「銀行家の不眠」という諺もイギリスにあるくらい、心配の絶えない商売なのだ。なぜなら、貸した金がちゃんと全部返ってきて、はじめて成り立つのが、金融というビジネスなのだから。だから、貸し手としては、借り手がちゃんと返済してくれるかどうかを、まず問う。その根拠となる条件は何か。

第一の条件は、(1)担保で貸す、である。担保さえ押さえておけば、相手が万が一夜逃げしたって、貸した金額分はほぼ回収できる。わたしが住宅ローンを借りるとき、まず家を担保に差し出さなければならない理由も、また家の価格分には満たない金額しか貸してくれないのも、このためである(家は住み始めたら中古になるから担保価値は割り引かれるのだ)。連帯保証をとる、というのも担保に準じている。取りはぐれなくする工夫だ。

第二の条件は、(2)相手への信用で貸す、である。相手が返してくれると、信用する。親戚友人など、個人間の融資の多くはこれだ。また、企業に対する融資も、一段進むと、このレベルになる。企業の信用力にはいろいろな要素があるが、最大のポイントは、きちんと毎年利益を計上していることだ。金利元本の返済は、黒字だろうと赤字だろうと払わなければならない(赤字だと払わずにすむ法人税とは、その点が全く異なる)。だが赤字が続けば企業が倒れる危険性がある。そうなれば貸した金を回収できなくなる。さらにいうと、企業は市中銀行から借りる以外に社債を発行して金を借りる手段もある。この際に、貸し手の目安となるのが、格付け機関による『格付け』である。格付けこそ信用力を実体化したものに他ならない。

そして、第三の条件が、(3)事業への信用で貸す、である。相手が生まれたばかりの会社で、過去の経営実績もなく、信用力も評価しようがない。連帯保証人もいない。これが全くの新技術・新分野なら、ベンチャー・キャピタル(VC)の出番だ。しかし、相手が取り組もうとしているのが、ある程度、確立した分野のプロジェクトの場合に用いられるのが、プロジェクト・ファイナンスという手法なのである。

たとえば、ある新興国が、地域への電力供給事業に取り組みたいと考えている。工業化と発展のためには、まずインフラとして発電所が必要だ。だが、それを自前で建てる資金がない。一方、ここに先進国の事業会社がいて、あの国のあの地域には電力ニーズが潜在的にあるな、と考えている。投資したいが、相手国側の協力も必要である(通常はインフラ事業ゆえに現地法人の設立が必要だ)。それに、全部を手金でやるのではなく、借金をして、レバレッジをきかせたい。ただし、新興国ゆえに、将来には不確実性もある。プロジェクトが失敗したときに、その借金を全部かぶるのはごめんだ、と考えている。もちろん発電は確立した技術分野なので、VCの出番ではない。

そういうときに、頼りになるのが、ECA(Export Finance Agency)と呼ばれる準政府機関である。ECAは先進国が自国産業の輸出促進のために設立する機関で、その業務にはいろいろあるが、プロジェクト・ファイナンスへの取り組みもその一つだ。その代表格が、日本の『国際協力銀行』(略称JBIC)という存在である。JBICは現在のところ、北米・欧州・韓国などのECAの中で、質量ともにプロジェクト・ファイナンスの最大の融資者なのである。そのことを、日本人はもっと知って、誇りを持っていい。

わたしが主催する「プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会」では、さる1月28日に、この国際協力銀行の経営企画部長である内藤様を講師に迎えて、初心者にも分かるプロジェクト・ファイナンスのお話しをうかがった。だからわたしがここで書いていることも、大部分は内藤部長の講演の聞き書きを元にした、受け売りの知識である(汗)。

さて、プロジェクト・ファイナンスは、通常の企業融資(コーポレート・ファイナンス)とどこが違うか。その最大のポイントは、「当該プロジェクト事業を専ら目的とした特別目的会社を設立し、そこに対して融資をする。プロジェクト事業が失敗した場合でも、返済請求権を出資元の親会社に遡及(Recourse)しない」という点だ。

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図を見て欲しい。通常のコーポレート・ファイナンスでは、事業会社は複数の事業を営んでおり、基本的にはその信用力をベースに融資する。新興国に現地法人を設立して取り組んだ発電プロジェクトが途中で失敗した場合でも、返済請求は出資者である事業会社に遡及されてくる。通常は、そのために「親会社保証状」を要求される(つまり連帯保証である)。あるいは逆に、その新興国の政府自体に、保証人になることを要求するケースもある。これをソヴリン・ファイナンスとよぶ。ソヴリンSoverignとは国王とか主権者のことだ。

ところが、プロジェクト・ファイナンスでは、現地に設立された特定目的法人(これをSpecial Purpose Company = SPCと略す)に融資する。そのベースとなるのは、当該プロジェクト事業の信用のみである。これが失敗した場合、貸し手はお金を回収できなくなる。だから、貸し手としては、いやでもプロジェクト内容の評価に真剣にならざるを得ない。その発電事業の採算性はどうなのか。立地・市場性はあるのか。電力価格(しばしば政策が介入する)は適正か。建設コストやスケジュールは妥当か。設計・調達・建設(EPC)を請け負うエンジニアリング会社は、きちんとしたプロジェクト遂行能力と品質を担保できるのか。どういう契約でEPCを発注するのか。発電所の運転操業は誰がどうやるのか。送電網は誰が用意してどういう条件でつなぐのか、etc., etc...

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おわかりだろうか。これは「プロジェクト価値評価」業務そのものである。そして、貸し手が一切を合意・承認できる計画条件でない限り、融資は行われない。借り手にとっては、ある意味、うるさい限りだ。おまけに、金利は、通常の融資より少し高い。当然のことだろう。貸し手は貸し倒れのリスクを、その金利に含めざるを得ない。

ここで、ちょっと簡単な計算をしてみよう。今、あなたは裕福金満な貸し手である。あなたは、担保能力のない新興国の新設会社に、自分の手金を融資する。その金額をCとしよう。返済時には、利息として利率Rを加えた金額を返済してもらうことにする。つまり、返ってくるお金は (1+R) Cで、融資による純粋な利益は、差し引き RCとなる。では、あなたは利率Rを、いくらに設定すべきだろうか。

もしこの新設会社のプロジェクトが失敗したら、あなたはCだけ損失を被る。いま、このプロジェクトが失敗するリスク確率をrとしよう。すると、rC が、あなたが潜在的に抱えている貸し倒れ損失金額の期待値だ(これをリスク・エクスポージャーという)。また、あなたが得られる利益の期待値は、成功する確率を乗じた(1-r)RCということになる

である以上、あなたとしては、利益の期待値が、損失金額の期待値を上回るように、利率を設定しなければいけないことになる。

(1-r)RC > rC

この式を変形すると、次のようになる:

R > r/(1-r)

これが、あなたの設定すべき利率なのだ。この条件には、C(いくら貸したか)は一切現れないことに注意して欲しい。純粋に、相手のプロジェクトが失敗するリスク確率が問題なのだ。それがもし10%なら、あなたは0.1/(1-0.1) = 11.1%を、もし20%なら、0.2/(1-0.2) = 25%を、最低でも利率としなければならない。

現実には、金融機関は手金を融資するわけではない。そこで、実際の利率は、基準となる市中金利(たとえばロンドン銀行間金利LIBORなど)をベースに、自社の運用したい水準を設定した上で、上記のRの分を加算しなければならない。このRを、『リスク・プレミアム』と呼ぶ。そこでは、年間の貸し倒れリスク確率(年次デフォルト率)が問題となるわけである。

プロジェクト・ファイナンスでは、JBICなどECAだけでなく、民間銀行もシンジケートを組んで融資することが多い。より正確に言うと欧州系のECAは保証業務だけを行うので、必ず民間銀行が必要になる。そして、この種のファイナンス組成のためには、客観的な評価が必要だから、プロジェクト事業の専門家をはじめ、法務・財務・金融・国際関係など様々な専門家が世界中から集まって、協議交渉を続けることになる。言語は、当然ながらすべて英語である。期間も、半年や1年以上はザラだ。金銭をめぐる交渉は文字通り、切ったはったのツバぜり合いである。それだけ大変な仕事だが、そのかわり世界の一流の専門家とやり合えるわけだから、非常にやりがいのある仕事だともいえる。

先ほど述べた研究部会でも紹介された興味深い事実は、プロジェクト・ファイナンスの方が、じつは案外デフォルト率が低い、という統計である。Moody’sは約4,000件のプロジェクト・ファイナンスの実績を調べ(その中の約300件がデフォルトを起こした)、累積デフォルト率はMoody’sの通常のBaa/Ba格付と同等であることを見いだした。しかも、年次デフォルト率の推移を見ると3年目から一貫して低下を続け、10年後にはシングルA格をこえている(!)。したがって、「プロジェクトファイナンスはリスク耐性の強い特別なコーポレート貸付である」と彼らは結論づけている。プロジェクト・ファイナンスの組成は通常より時間がかかるし、事業者に対してはあれこれと口を出して縛りが多いわけであるが、それがプロジェクト・ガバナンスのレベルを向上する効果を生んでいるのである。

ここでは、プロジェクト・ファイナンスという奥の深い世界の、とば口の一端を紹介したに過ぎない。しかし、それがプロジェクト客観評価に密接に関わっていることはお分かりだと思う。わたしがかねてから主張している、プロジェクトの価値やリスクを客観的に評価できるプロフェッショナル=『プロジェクト・アナリスト』の必要性も、このMoody’sの統計調査などから支持されているといえるだろう。JBICにご出馬いただくまでもないような通常の企業のプロジェクトでも、その価値や投資の正当性について継続的・客観的な把握が必要であり、きちんとしたガバナンスも重要である。そのような観点から、プロジェクト・ファイナンスの構造について、もっと皆が関心を持つべきだとあらためて感じた次第である。
by Tomoichi_Sato | 2015-02-16 05:43 | プロジェクト・マネジメント | Comments(0)

リーダーは組織の主人か?

年末、友人に誘われてコンサートを聴きに行った。曲目はバッハの「クリスマス・オラトリオ」。気鋭の指揮者の元、オケと合唱団が一丸となり、複雑な後期バロックの音楽をきびきびとリズミカルに歌いこなしていく。友人はその合唱団でバスを歌っているのだった。長大な曲なのに長さを感じさせない、良い演奏だった。会場を埋め尽くした聴衆も、音の響きに満足しているようだった。

ところで聴いている内に、ちょっと妙な感想が心に浮かんだ。この演奏会は、たしかに指揮者がリードしている。だが、指揮者が主人なのだろうか、それとも合唱団が主人なのだろうか

指揮者は、プロの音楽家だ。対する合唱団は70人以上いたが、アマチュアだ。舞台に乗れるかどうかは、オーディションをして、指揮者が決めているという。だが、会場の聴衆のほとんどは、この合唱団員の人たちが知り合いなどに声をかけて集めたはずだ。わたしもその一人だった。その動員力はさすがで、長年、歌を趣味としてきた人たちが多いと思われる。

ちなみに器楽を演奏するアンサンブルも、20数名いたが、ほぼ全員がプロだと思っていい。ただ、常設の交響楽団と違い、年に1・2回、演奏会の時に指揮者に呼ばれて集まるが、普段は皆、別の仕事を持っている。こうしたプロの音楽家達には、当然ながら、演奏のギャラが支払われる。むろん指揮者にも、である。で、そのギャラは、誰が払うのか? 実質上、合唱団が負担するのだ。アマチュア音楽の世界では、演奏会収入だけで、会場費とギャラと宣伝費をまかなうことは難しい。チケット代を安く設定せざるを得ないからだ。だから通例として、合唱団員は演奏会分担金のようなものを支払う。自分の楽しみのために歌って、自分で費用を出す。まあ、すべからく趣味とはそういうものだ。

つまり、純経済学的に見ると、このコンサートでは合唱団が指揮者を雇っているのである。皆、指揮者の魅力に惹かれてこの団体に集まり、指揮棒のリードの元に歌っている。だが、指揮者は合唱団員に雇われているのだ。

ここで話は、急に飛ぶ(ま、いつものことですが)。学生時代に、野口三千三の「原初生命体としての人間 ― 野口体操の理論」という本を読んだ。野口三千三は、東京芸大の、体育の教授だった人だ。え? 芸大に体育科なんてあるの? いや、もちろん体育学科はない。だが必修科目としての体育の授業は存在する。彼はその教授だった。そして、「野口体操」と呼ばれる、非常にユニークな身体運用のトレーニングを発明した。

クリエーティブな仕事は頭だけでやるものだ、と勘違いしている人は多い。だが、どっこい、絵を描くのも彫刻を彫るのも音楽を奏でるのも、すべて極めて身体的な作業である。アタマと身体がスムーズにつながっていないと、本当は創造的な仕事はむずかしい。しかし、従来のいわゆる「体操」は、アタマとは切り離された肉体を、ただ鍛えることに集中していた。それは兵隊の教練の思想も影響している。屈強な身体が、命令を聞いたらただ反射神経的に動く。自分で何か感じたり考えたりするのは余計なこと。それが教練である。野口は戦後すぐからこの限界に気づき、独自の工夫と理論化で、クリエーティブな心とからだの統合方法について探求した。

主著「原初生命体としての人間」は、その結実である。野口体操は、従来の体操とまったく発想を逆にしている。アタマが考え、動きを決め、指令を発し、それが神経系統を通じて筋肉に伝わって、身体が動く--これが従来の体育観だった。あくまでアタマが主人・リーダーであり、カラダはその子分、あるいは奴隷である、と。この発想は、西欧の心身二元論にも通じている。プラトンやデカルトなどの、精神と肉体を峻別し、前者が後者に宿り、支配するという考えに、とても相似形だ。

だが、古くからの日本人の知恵は、そんな二元論ではなかった、と野口は考える。そして、からだを主体の中心に据え、からだの構造と、「重さ」(地球の重力)との対話のなかから、自発的に動きが生まれるような体操のシステムを組み立てた。

脳が身体の主(あるじ)である、という発想は間違いだ、という意味のことを野口は書いている。生物の進化の歴史を見よ。原初の生命体には、脳などなかった。それは多細胞生物、とくに他を捕食して生きる動物が、身体の体制を複雑化する中で、あとから必要に応じて発明された器官にすぎない。今でも植物には脳などない。それでもちゃんと生きて、豊かに繁殖している。脳はからだが生み出した道具で、からだこそ脳の主人である。--この考えを読んだとき、わたしは天地がひっくり返るほどの驚きをうけた。でもじっさい、肩がひどく凝ったり、腹が減ったり、いや単に歯が1本痛むだけで、わたしたちのクリエーティビティは大幅に下がるではないか。

わたし自身は頭でっかちな知識労働者で、スポーツ・運動のたぐいは大の苦手で、今もこうやってPCの前に座ってキーボードをたたいている。ほとんど脳と口先だけで生計を立てているといってもいい。だが、野口三千三の本を読んで以来、頭が体を支配する、というようなイデオロギーに、本能的に反発するようになった。カラダは自分のモノだから、傷つけようが売ろうが何をするのも自由だ、部品が少し傷んだら新しいものに移植し取り替えればいい・・そうした思想の背後に、何か西洋近代の本質的な歪みと転倒を感じるのである。

そこから話は、もう一度飛ぶ(どうもすいません)。近代の心身二元論の元祖であるデカルトの「方法序説」で、彼は身体の血液の流れについて、たしか現代の目から見てずいぶん突飛で無理の多い説明をしていた(この文章は国際線の機上で書いているので、記憶でいうのだが)。当時、西洋ではまだ、血液が循環するという考えは一般的でなかった。血液は心臓で生み出されて体の各所に送り出され、そこで消費されると思われていたのだ。医師ハーベイが動脈から送り出された血は静脈を通って戻ってくる、との血液循環説を証明したのは、たしか方法序説の刊行より少しあとのことだった。

東洋では古代から「気血の廻り」という概念があり、“あいつは血のめぐりの悪いやつだ”といった表現を昔から普通に使ってきたわれわれから見ると、ずいぶんと奇妙に遅い発見である。身体の各部は複雑に、かつ有機的に統合されている『システム』である、というのが東洋的感覚だ。器官と器官は、気脈や経絡を通じて、互いに影響し合う。たとえば肝臓が疲れると、目が悪くなる、といった具合だ。それに比べると、デカルトに代表される近代西洋人の身体観は、なんとも機械的である。手足や器官という部品が並んでいる。それはお互いに、単機能をもつ、ばらばらな存在である。それらを統合するのは、脳であり、それが神経伝達を通じて全体を動かしている、と。システムはシステムだが、とても機械仕掛けのイメージである。

現代の主流のマネジメント論や、経営学を見ていると、同様な機械的組織論が、いまだ西洋には根強いことを感じる。本社がある(最近では司令塔としての持ち株会社である)。そして工場だの支社だの営業所だのといった、単機能の現場がある。本社は指示命令系統をもって、すべての現場を統括する。そこでは決まったルールとプロシージャに従って作業が進められ、ただ結果や異常事態だけが本社に報告される。それを本社が判断し、次の指示を出す。部署と部署が有機的に連携したり、といった発想はこれっぽっちもない。

そして、部署やサブシステムの機能が低下したら、それは捨てるか売却される。新しい組織を外から買収してきて接合する。それで企業全体は進化し成長していく。指示する者と、指示される者との上下関係は絶対である。そして少数のリーダーだけが、絶対君主として君臨している。

これって、西洋人たちの考える脳と身体との関係によく似ていないか。わたしはこのような思想に、直感的に反発を覚える。脳は、からだが発明した道具だ。本社というのも、大きくなった企業が、必要に応じて発明したもので、その本来の仕事は、現場を支援し、現場の仕事をやりやすくするために、あるのではないか。トヨタと米国のGMが合弁でNummiの工場を立ち上げたとき、最大の論争は、ホワイトカラーが現場に指示命令を下すのか、それともホワイトカラーが現場を支援するのか、という違いだったではないか。

その視点からもう一度、指揮者と楽団の関係を見直してみよう。そうすると、あらためてその不思議さが際立つのである。実際の音を発しているのは器楽奏者と合唱団員である。指揮者は一音たりとも発しない。それなのに、演奏が終わると、まず拍手に礼をするのは指揮者であり、批評が功績をたたえるのは何より指揮者であり、主催者に一番高く遇されるのも指揮者である。

インドネシアのガムラン楽団から西アフリカの音楽まで、大勢で演ずる音楽は世界にたくさんある。だが、「指揮者」などという奇妙なシステムを発明したのは西欧音楽だけだった。それも、中世・ルネッサンスの時代までは、指揮者なんていなかった。指揮者が現れ、専門家として職能が確立していくのは、楽曲が大規模化していく後期バロック・古典派以後の時代だ。そしてもちろん、音楽作りにおいて中心的役割を果たすのは指揮者になる。指揮者が最初に礼をするのは、その貢献度と責任の重さからいって当然のことと、皆が認めている。

その理由は、繰り返すが、楽譜の形で計画化され、大規模化したからである。今でも弦楽四重奏や、ジャズ・コンボや、ロックバンドには指揮者なんていないし、いらない。お互いのインタープレイで、楽曲は進められていく。互いが、互いに影響し合う。

もちろん指揮者は、必要である。本社だって、リーダーだって、プロジェクト・マネージャーだって、わたし達には必要である。だがその必要性は、からだが脳をつくり出したように、組織の便利のために創り出されたものなのだ。組織がリーダーに奉仕するために創り出されたのではない。そのことを、もっと多くのリーダーの立場にある人たちが、心にとめれば良いのにと、わたしは思う。・・ただし、もちろんわたしは、このような考え方に賛同したくない人たちが多くいることも、一応は承知している。その理由については長くなるので、稿をあらためて、いずれまた論じよう。


<関連エントリ>
 →「NUMMIは終わった」(2009-07-01)
by Tomoichi_Sato | 2015-02-08 09:15 | 考えるヒント | Comments(0)

R先生との対話 — 受注ビジネスにおける顧客満足とは何か

——B2Bの受注ビジネスにとって、顧客満足とはいったい何を意味しているのでしょう?

わたしは、久しぶりにお会いしたR先生にたずねた。R先生は半ば引退した経営コンサルタントで、人生の大先輩である。R先生が不思議そうな顔をされたので、わたしは続けた。

——ご存知の通り、わたしの勤務先はエンジニアリング会社で、製造業向けに工場やプラントを建てるプロジェクトが主な商売です。仕事を受注してから、工場が最初の製品を作れるような状態になるまで何年もかかります。大勢の人間がかかわり、お客様だってずいぶんいろいろな部門の方が関わります。工務、設計、製造、保全、製品開発、購買、法務、セールス・・。このうちメインの担当部門は工務部門と購買部門ですが、工務部門はさらに機械・建築・土木・化工・電気・制御・ITという風に専門分化しています。とくかく、一口に『顧客』といっても、関係者が非常に多いんですね。

「結構じゃないか。顧客の期待をいろんな角度から知ることができるだろう?」

——それはそうですが、でも、お客様のおっしゃることが一つではないんです。しばしばバラバラのことを要求されます。端的なのは、技術部門と購買部門です。発注権限をお持ちなのはふつう購買部門で、低価格・短納期がご要望です。ところが技術部門の方は契約後もいろんな技術的注文を持ってこられます。最初の契約条件からは予見できないような要望もしばしばです。そうなれば当然、費用も時間も余計にかかります。でも、追加費用や納期延長の交渉相手は購買部門です。あちらを立てればこちらが立たず。いったい、どの人を満足させれば顧客満足といえるんでしょうか。

「顧客が求めているのは、低価格・短納期、かつ高品質ということだろう? 当然のことじゃないか。それを満たすように工夫するのが技術屋の腕だ。別に君の業界や受注ビジネスだけに限ったことじゃあるまい。どんなモノを売っている業界にも共通する話だし、みんなそれで競争しているんだ。」

——お言葉を返すようですが、現代の品質管理論では、品質とは顧客の要望に合致する程度である、と定義されています。すなわち顧客満足こそ品質の尺度だ、ということです。ところでB2Cすなわち消費財の世界では、買うのも満足するのも同じ一人の人ですよね。ですからある意味、満足度は測りやすいし分かりやすい訳です。でも、B2Bの世界では、ユーザーと発注部門はたいてい別です。ユーザーもたいていは複数います。そして要望の間にはトレードオフがしばしば生じます。たとえば運転部門は軽快で俊敏にしてくれといい、一方、保全部門は冗長で頑丈にしてくれという、なんてザラです。いったいどちらの方を向いて満足をはかればいいのか、いつも悩みの種です。それで結局、“声の大きい方”の要望を聞いたり・・。

「情けない話だな。設計のスタンスがぶれているから、そうなる。“良いものはこうだ”という設計思想をまず、顧客と確立しなさい。そこが甘いから、ブレるんだよ。」

——おっしゃるのは分かるつもりですが、設計思想という抽象論から、目の前の具体論に落とし込む際に、皆さん自分の好みや願望みたいなものが入って、ブレはじめるんです。わたしの業界ばかりじゃないと思います。これは最近、IT業界の人から聞いたことですが、受託開発のSIと呼ばれる仕事も、よく似た状況があるみたいです。システム開発において、ユーザのレベルに応じて、「要求」のレベルが異なってくる、というのです。ここでいうユーザのレベルとは、経営者、中間管理職、実務者、 事務補助クラークなどの立場のことです。
 要件分析をしていても、ユーザが実務レベルや事務補助レベルの場合、自分の日々の作業で感じている不満やペインなどの、細かな改善要望が中心になる傾向があるようです。また、業務遂行上のいろんな例外事象にも、柔軟に対応できるようにしてほしいと考えます。いきおい、できあがってくるシステムの構想は、現状業務からは遠く離れず、不便を改善した程度のもの、それも例外処理の多いものになる、と。
 ところが経営レベルに近づくほど、むしろ業務全体のあり方を見直し、効率化したいという要請が強まるようです。ただしこれが『要請』であって、具体的案とは限らない点が悩ましいみたいですが。また経営者ですから、開発コストを抑えるために、例外処理は減らしたいと考える。例外はやめろ、あるいは人間系で何とかしろ、という訳です。
 こういうふうに、顧客の間の意見が合わない場合は、どうしたらいいのか。正解はないのかもしれませんが、先生のお考えを聞かせてください。

「お考えを言う前に、君の考えを聞きたいな。君にとって、真の顧客とは誰なんだ? あるいは、そのSI会社の人にとって、誰が真の顧客だと思うんだね。」

——真の顧客。・・目の前にいるお客さんは、ニセの顧客だという意味ですか。なんだか怒られそうな話だなあ。

「じゃあ、こう聞こうか。目の前の客先担当者と、闘わなくちゃいけないときがあるだろ? 追加変更をめぐって。費用をくださいとか時間がかかりますだとか。」

——そりゃ、よくあります。受注ビジネスって、そういうものじゃないですか。

「つまり、顧客は敵だ、という訳だ(笑)。」

——いや、そんなことは思ってもいませんよ。誤解されるような表現はやめてください、先生。ただ、交渉相手であることは確かですね。

「そうだ。交渉相手だ。そして、以前教えてあげただろう。良い交渉とは、どんな結果を目指すものか。」

——相手が“勝った”と感じるような結果を目指せ、と言われましたよね。実をとっても、相手に不信感や敗北感を与えるのはまずいやり方だ、と。自分は実をとる。相手も多少の実と、感情面での花を得る。つまりお互い得るものがあって、かつ相手に信頼感や満足感が残るような結果が、最善の交渉だと。・・あれ? 相手に満足感が・・。

「分かったかね。」

——顧客との上手な交渉は、顧客に満足感を残す。つまり追加費用の問題が発生しても、それがすぐゼロサム・ゲームみたいに、顧客の満足度を下げるとは限らない訳か。

「そこでだ。何のために売り手は、顧客満足を追求しなければならないのだと思う?」

——それは、顧客満足がすなわち品質の尺度であり、技術力の尺度だからじゃないですか。

「全然違うな! 君は技術のために働いているのか、それとも顧客のために働いているのか? 君に給料を払ってくれるのは誰だ。まさか社長だとは思っていないだろうな。」

——えーと、そりゃあまあ、わたしの給料は結局、お客様が払ってくれている訳です。お客が一人もいなくなったら、社長も給料は出せませんから。

「そうだろ? 君の真の顧客とは、次も君に仕事を出してくれる人なんだ。その真の顧客の満足をはからなきゃ、受注ビジネスは飯の食い上げだ。じゃ、次の仕事を誰に出すか決めるのは、誰だと思う。目の前の担当者や、購買部長ではない。仕事が大きくなればなるほど、最終的決定権は上にいく。
 君の間違いは、顧客が要望において一枚板であるべきだと思っている点だよ。
 言っておくが、ふつうの消費財だって、顧客満足はそんなに単純じゃない。かっこいいデザインだと思って買った。でも使ってみるうちに使いにくいことが分かった。最新技術だと思って買った。でもすぐ壊れてしまった。こんな例はいくらでもある。その場での短期的満足と、あとあとで感じる長期的満足があって、いつでも両立するとは限らない。だが買うものが高価で、重要なものほど、長期的満足感の方が大切になる。それが、次の購買行動を決めるのだ。」

——でも、わたしが顧客の社長に直接会えるわけでもありません。目の前に対峙するのは、やはり担当者か、せいぜいマネージャー・レベルです。そしてやはり、目先の要求について議論しなければなりません。

「目先の上に、重層的な要求があることをつねに忘れずにいなさい。その要求の全体像の中で、相手の言うことを位置づけるのだよ。その上で、防備のために、なるべく自分の仕事は相手にもプロセスが見えるように透明性を高めておき、また都度、相手の要望もこちらの返答も記録しておくんだ。長期的満足感が大事だからといって、短期的にけんかしちゃいかん。顧客と喧嘩して得るものは、何もない。」

——たとえ相手が愚かしいとしか思えない要求をしてきても、ですか。

「ほら、それが傲慢だというんだ。相手の目には、君が愚かしい人間だと映っていることを忘れちゃいかん。
 さっき交渉のことを言ったがね、良い交渉を成立させるために一番大切なことは、お互いのリスペクトだ。君も相手も、人間だ。互いへのリスペクトという感情の交換があって、はじめて「顧客満足」が成立する。だから、君が誠実で、まじめで、かつ一応は有能であると、お客が感じるように働きなさい。技術屋同士だったら、その点は分かるし、ごまかしようもない。
 取引ではね、商品と対価の交換という、目に見える面だけではなく、顧客満足が成立して、はじめて取引の継続性が生まれるんだ。感情面の補給がないまま、取引だけが継続されると、次第にその取引は死んで行ってしまう。“誰から買って同じだな”と顧客は思うようになる。つまり、交換可能性が高まっていく。こうして、買い手から見たリスクは下がっていき、その分、君たち売り手の側のリスクばかりが上がっていくだろう。」

——リスペクトという感情の交換、ですか・・考えたこともありませんでした。

「プロジェクト・マネージャーの仕事は『感情労働』である、というのはたしか君が昔、言っていたことじゃないか。まったく忘れっぽい奴だな」R先生はグラスをわたしに向けて、言われた。「感情面の配慮なしで、『すべての取引はWin-Winであるべきだ』などと考えるのは、仕事を知らぬ者の空論だよ。」


<関連エントリ>

 →「知識労働、肉体労働、そして『感情労働』」 (2011-08-19)
by Tomoichi_Sato | 2015-02-01 14:18 | ビジネス | Comments(0)