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基本的フレームワークで4種類のビジネスモデルを理解する


企画部門で働いていると、ときどき外部から質問だのアンケートだのが送られてくる。このごろは、「御社ではビッグデータに取り組まれていますか」という意味の質問がときどき来る。しかし、なぜそんなお門違いのことを聞いてくるのか、と思ってしまう。大企業は皆、ビッグデータを持っていると思っているのだろうか?わたしの勤務先はエンジニアリング会社である。どうみても送り先を間違えているだろう。それは、エンジ会社というビジネスモデルの基本類型を考えてみれば、自ずから明らかなはずなのだが。

わたし達の生きているこの社会でのビジネスモデルは、大きく分けて

 (1) 一般消費者向けの商品・サービスを主に販売するB2C(Business to Customer)モデル
 (2) 他の企業・組織向けの商品・サービスを主に販売するB2B(Business to Business)モデル

に分類でき、それらはさらに

 (a) 需要の予測にもとづいて、商品・サービスをあらかじめ用意しておく見込型ビジネス
 (b) 個別の注文を受けてから、商品・サービスを提供する受注型ビジネス

に分けることができる。つまり、全部で4種類が存在する訳である。そして、各企業の業務の特性や組織のあり方は、このビジネスモデルのあり方に大きく影響される。

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たとえば、液晶TVを生産する電機メーカーは、(1a)「B2C見込型ビジネスモデル」である。あらかじめ需要を見込んで商品を設計し、生産しておく。販売先は一般消費者だ。いや、電機メーカーの直接の販売先は、家電チェーンストアや一般家電店のはずだ、それに、企業や学校なども液晶TVは購入する--という反論も考えられよう。しかし、需要のあり方(量や種類)を最終的に決めるのは消費者だし、販売量も圧倒的に消費者向けが多い。だから、(1a)のB2C見込型、という見立てが適当なのである。こうした分類では、「主に」という面に注目するのが大事である。

自動車会社はどれだろうか。いわゆる乗用車を主に生産している会社がB2Cに属するのはわかる。ただし消費者は、購入時点で、どのモデルの車種を選ぶかだけでなく、外装や内装、ATかマニュアルか、エアバッグ等のさまざまなオプションを選ぶ。したがって、個別に見ればどれひとつとして同じ車はなく、すべて受注生産だ--という事を強調したがる人も多い。じゃあ(1b)「B2C受注型ビジネス」かというと、わたしはそうは考えない。じつは自動車を構成する数万点の部品のうち、顧客指定の個別仕様でかわる部分の比率は非常に小さく、車種・モデルによる共通点のほうが圧倒的に大きい(だから「モデル」という概念が成立するのだ)。おまけに、日本の自動車工場では、じつは海外輸出向け製品が案外大きな比重を占めている。このことはコンサルや学者もほとんど言及しないか忘れているようだが、見込生産分がそれなりに多いのだ。だから自動車メーカーも、(1a)「B2C見込型ビジネスモデル」に属するといっていい。

サービス業で言えば、鉄道・航空・ホテル・携帯電話など、一般消費者向けの業種の多くが(1a)に属する。預金者を相手にする銀行業も(1a)である。学校、保育、病院なども、民間ビジネスとして見れば(1a)に属する。

では、(1b)「B2C受注型」にはどんなものがあるのか。たとえば宅配便というビジネスは、その典型例だ。またオーダーメイドの服しか作らぬテーラーや、高級オートクチュールなどはこの種類になる。サービス業としての弁護士なども、多くはこのタイプである。ただ、基本的に顧客数が多くなるB2Cビジネスで、個別性の高い商売を続けるのは、どうしても効率がわるい。だから、成長拡大しようとすると、ある程度の「パターン」「モデルコース」「商品メニュー」などを事前に取りそろえて、人員や資源を配備することになる。その結果、しだいに(1a)タイプに移行していくわけで、(1b)はむしろ(1a)を補完する形で、個別需要を満たすような、ラスト・ワンマイル的な、あるいは高級顧客向けの業態として残るケースが多い。

(2a)「B2B見込型」は、基礎化学・素材メーカーが典型である。エチレンだのプロピレンだのといった商品は、普通の消費者が買いに来るものではない。ERPなど業務パッケージ・ソリューションのベンダーもこの部類だ。また、自動車業界の系列として、ジャスト・イン・タイム供給に全面的組み込まれている部品メーカーなども、じつはこの部類に属する(部品メーカーは受注生産に分類されるのが普通だが、この種の業態では、じつは注文を受けてから製造しているのでは間に合わぬ。だから内示などの需要見込を起点に、自己責任で作り始めるのである。「受注生産という名前の見込生産」「PushでPullで」を参照のこと)。

(2b)「B2B受注型」にはどんなものがあるだろうか。たとえば、わたしの勤務するエンジニアリング業は、典型的な企業相手の受注ビジネスである。製造業の顧客相手に、工場を設計して納める仕事だ。製鉄業も、納める相手は企業だが、基本は受注生産である。産業機械・工作機械もこのタイプが多い。いわゆる建設業も、ほぼB2B受注型ビジネスの範疇に属する。住宅建設で建売の場合でも、通常は不動産デベロッパーが直接顧客である。もし注文住宅専門のところがあるとしたら、それはさすがに(1b)タイプだが。このように、同じ業種分類でも、ビジネスモデル種別が異なることはありうる。

もちろん、同じ会社の中に二種類以上が同居する場合もある。医薬品メーカーは基本的に見込生産だが、いわゆる医家向け医薬品と、店頭で販売する売薬では、モデルが異なる。前者は、医師の処方箋が必要な医薬品で、病院や薬局などで渡されるものである。ふつうの消費者が知っているのは後者の方だろうが、じつはビジネス規模としては前者の方が大きい。(1b)と(1a)が混在しているといえるだろう。

こうしたビジネスモデルの基本類型は、教科書的に言えば「企業が戦略として選ぶ」だろうが、現実には“結果としてそうなっている”場合も多いだろう。売る商品と市場の形から、4つのタイプのどれになるのかが自然と決まってくるのだ。

そして、このビジネスモデル基本類型のあり方は、企業の特性や組織に大きく影響を与える。たとえば(1a)のB2C見込型企業では、幅広い販売網の形成と維持が不可欠である。とくに現代の成熟した消費者市場では、モノを作る側よりモノを売る側の方にボトルネックがある。したがって営業組織の人数が、いきおい多くなる。社内での発言力も大きいだろう。もしかすると工場は製造子会社化しているかもしれない。また、このタイプではTVなどに広告宣伝も打つから、結果として会社の知名度も高く、マスコミの注目度(とりあげる頻度)も大きくなる。

B2Cビジネスの特徴は、「大ヒット」商品が存在しうることである。消費者の購買行動には、他の消費者と同調する傾向がある。だから、「良く売れている商品だから買う」「人より一歩早く流行に乗りたいから買う」行為、つまり商品それ自体の価値とは直接関係しない購買が少なくない。そしてヒットが生じれば、マスコミがニュースとしてとりあげ、さらに注目されるスパイラル効果が生じる(マスコミ、つまり放送・新聞・出版業もまたB2C見込型ビジネスなので、ヒットを題材にできるとありがたい)。かくして、いったん大ヒットになれば、企業として売上面の大幅な成長が期待できる。工場でこつこつカイゼンして作るより、ずっと儲かるのだ。結果として、組織内に「ヒット待望論」的なムードも生じ、製品企画部門がその期待の中心になる。

さらにいえば、このタイプは顧客データが膨大になる。そこから需要傾向をつかむ事も大切なので、顧客マスタの統合・維持がIT面での大きなテーマだろう。冒頭にあげた『ビッグデータ』でワイワイ騒いでいるのは、ほとんどがこの(1a)タイプのビジネスである。なのに、相手の企業の業容を考えずに、どんなキーワードも同じように適用できるとIT産業の人たちが思っているのだとしたら、少々おめでたい。だから、「相手の業容」を理解するための簡単な道具の一つとして、このビジネスモデル分類の話をしているのである。

(1a)の対極にある(2b)「B2B受注型ビジネス」は、広告やマスコミ取材という華やぎもなく、一発大ヒットも生じにくい、地味な世界である。しかし、移り気な消費者の好みによる需要の急減もなく、目先をかえるために半年ごとに製品開発を繰り返す必要もない。とくに生産財の場合、まともな購入側は、価格のみならず実績・品質・納期なども必ず勘案して、総合的に判断する。だから、よほど汎用的なモノでない限り、品質度外視の無謀な価格競争には比較的陥りにくいし、新規参入だってB2Cほど楽ではない。

したがって、自分のポジションの利点をきちんと理解し、有利性を確保するよう戦略的に動くことができれば、きちんと利益を上げることも難しくない。本間峰一氏が「受注生産に徹すれば利益はついてくる!」で指摘するように、銀行の融資はむしろ受注生産企業の方が得やすいのも、このような理由による。

そのかわり、自分から積極的に新製品を生み出して、市場にイノベーションを起こそう、という発想がうすくなる。小さなカイゼンは行うだろうが、冒険的な提案や改革は起こしにくい。(2b)タイプの企業では、営業、とくにマーケティング機能が弱いのだ。何ごとも顧客から直接要求されない限り動かない、という『Pull型発想』が強くなる。このような体質は、社内的な「B2B受注型」機能である、情報システム部門や物流部門などにも共通する問題点だ。

(2a)型や(2b)型の企業は、サプライチェーンの中では消費者よりもずっと上流に位置することが多い。したがって、大規模で海外展開の進んだ企業であっても、その物流はかなり計画に沿ったものになる。(1a)型企業が、気ままな需要変動に対応するため、あちこちにストックを保有したり、小口多頻度物流を余儀なくされるのとは対照的である。

このように、企業の組織体制や業務スタイルは、その会社の基本的なビジネスモデル類型にしたがって大きく変わる。この差は、いわゆる製品別の「業種分類」などよりもしばしば強く、同じ業界内でも対話がかみあわないことがよくある。周知の通り、わたし達の社会では、官庁が業種別に監督権限を持ち、業種団体を束ねたり、政策を考えたりする傾向が強い。だが、彼らの政策が現実のニーズになかなかフィットしないのは、このようなビジネスモデル別の視点が乏しいためではないだろうか。

この点はコンサル業界やマスコミなども同様で、やれグローバル戦略だビッグデータだとかまびすしいが、もう少し相手のタイプを見て話しかけたらどうか、と思うことがよくある。米国には(1a)型で成功した大企業が多く、彼らのやり方がなんとなくカッコいいから、それを輸入・模倣したらどうかと考えるらしいのだが、(2b)世界で生きている者にとっては、余計なお世話である。

企業とは、需要情報を起点とし、モノやサービスや情報という形で付加価値を創造して、顧客に提供する「システム」である、とわたしは考えている。このシステムの基本類型として、4種類のビジネスモデルがある訳だ。だから、他の企業に対して何かを提案したり持ちかけたり、あるいは分析したりする際には、相手がこの4種類のどれにあたるのかを最初に考えるのが、習慣になっている。種類ごとに、相手の抱える課題や悩みは異なる。相手を知り、おのれを知ることこそ、対話の基礎だ。だから、こういうフレームワークを、皆がもっと共有できるといいと思う。


<関連エントリ>
→「受注生産という名前の見込生産」(2008-07-08)
→「書評:受注生産に徹すれば利益はついてくる! 本間峰一・著
by Tomoichi_Sato | 2014-08-30 22:11 | ビジネス | Comments(0)

ロージーの返事を、ときどき思い出す

机のまわりを整理していたら、偶然、大昔の雑誌が出てきた。共立出版の月刊誌「bit」の1985年4月号だった。

雑誌というのは何号かに一度、良い記事の集まった当たり号が出るものらしい。この号も、当たりの1つだったようで、面白い記事が集まっている。そのために、なんとなく捨てられずにとっておいたようだ。巻頭記事は、宮本勲氏の紹介による「本物のプログラマはPascalを使わない」だ。次が、ジェラルド・ワインバーグの短いエッセイ「ロージーの返事」。翻訳は、東京工業大学教授・木村泉氏。それから、御大ドナルド・クヌースの論文「文芸的プログラミング」が載っている。翻訳は黒川利明氏である。さらに、湯浅太一氏と萩谷昌巳氏の「Common Lisp入門」の連載第一回目が始まっている。石田晴久氏の「PC-UX」紹介記事もある、という具合だ。

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「本物のプログラマはPascalを使わない」は、注釈が必要だろう。これは当時アメリカで流行った「本物の男はキッシュを食わない」という文章の、皮肉の効いたコンピュータ業界版パロディである。キッシュはタルトに似たフランスの食べ物で、当時東海岸でおしゃれな食事として人気があった。しかし西部魂を持つ“本物の男”たちは、そんな軟弱な風潮を苦々しく思っていた。

同じ頃、コンピュータの世界にもマイコン・ブームとともに、小文字を使うPascalなどの軟弱な言語がはやりはじめていた(当時は「パソコン」より「マイコン」が普通の呼び方だった)。厳格で無慈悲な汎用機の世界で生きてきた“本物のプログラマ”たちは、そんな風潮を苦々しく思う、そんな内容だ。だから、
 ・本物のプログラマは大文字を使って語り合った
 ・本物のプログラマはGO TOを使うのを恐れない
 ・本物のプログラマはコメントを必要としない。コードが全てを教えてくれる
 ・本物のプログラマは人工知能のプログラムをFORTRANで書く
 ・もし何かをFORTRANで書けないならば、アセンブリ言語でやってみるべきである。もしアセンブリ言語でもできないならば、それはもはや、やるほどの値うちはないのだ。
といった逸話や教訓が並んでいる。

「文芸的プログラミング」(Literate programming)は、計算機科学の大家ドナルド・クヌースが、かれのWEBシステムについて書いたものである。ま、いまどきWEBなどと言っても、分からぬ若者が多いじゃろうのォ。World wide webのことではない。世界規模のインターネットなど、まだほとんど存在していない時代のことだから。WEBというのは、今風に言えば、ソースコードとドキュメントの統合管理の方法論だ。1974年にACMチューリング章を受賞したクヌースは、主著「算法基礎」(Fundamental Algorithm)を執筆しながら、その出版のために、数式を扱える組版システムTEXを開発する。そして、TEXのソースコードを文書化するために、さらにWEBシステムを開発するのである。

どこでもドキュメントとソースコードは別々に管理され、そして次第に乖離していく傾向がある。そのためにコメントをソースに書き込むのが、これもきちんと更新されていなかったりするのは周知のとおりだ。クヌースはこの問題を解決するために、あえて「文書の中にソースコードを書き込む」という逆のアプローチを取る。それも、単なる仕様書をモジュール別に作成するのではない。もっとも上位の、設計思想から書きはじめて、設計者の思考のとおりにプログラムを構成していくのである。WEB文書は、今風に言えば一種のマークアップ記法で作成されたテキストであり、それをプロセッサにかけることによって、機械用のPascalソースコードと、人間が読みやすい整形された“文芸的ドキュメント”が、それぞれ生成される仕組みだ。彼はこのWEBシステムを用いて、TEXの内部構成をすべて本の形で出版公開している。

しかし、この雑誌で一番長く印象に残ったのが、ワインバーグの「ロージーの返事」という短い記事だった。「イーグル村通信」という連載の一部だが、毎回が独立して読めるエッセイになっている。

・・・ロージーと言うのが彼女の名だった。むろん本名ではない。頬がバラ色(rosy)なので、皆がそう呼んだのだ。彼女は、手術直後の自分を看護してくれた看護婦だった。手術後のもうろうとした10日間、彼女は私の額を冷やし、手を取り、痛み止めのモルヒネを注射してくれた。17歳の自分は、優しく微笑むロージーに、もちろん一目で恋におちた。--「ロージーの返事」はそんなふうに始まる。

10日目の就寝時に、ロージーは、シャーベットと睡眠薬を持ってやってきた。自分が睡眠薬を飲み下す様子を眺めてから、彼女はたずねる。「あなたは、まだ痛み止めの注射が必要だと思う?」 もちろんと答えると、初めて彼女はこわい表情をした。「本当にそう思って?」
「本当だよ。とっても必要なんだ。」
「もしそうなら、」と彼女は答えた。天使のような声音は消えてしまっていた。「もう注射はしないほうがいいわ。」

ロージーが去ったあとの4日間は、はかり知れないほどの悪夢だった。自分(17歳のワインバーグ)は、せびり、ささやき、叫び、壁をぶったたき、要求し、泣いた。だがロージーは、遠くで知らん顔をしていた。その残忍な4日間に、愛は仮借のない憎しみへと変わった。退院の後、もう二度とロージーには会いたくないと思った。事実、もう二度と会うことはなかった・・・。

だが彼女は、じつは命を救ってくれたのだった。その残忍な4日間に、彼女は自分にきざしていたモルヒネ中毒の根を断ち切ってくれたのだ。ワインバーグがそのことに気がつくのは、後になってからのことだった。

ワインバーグはその時をふりかえって、『ロージーの返事』(Rosy's response: 頭韻を踏んでいる)という大事な教訓を学ぶ。それは次のようなものである。

 「もしあなたが何かをそんなにひどく求めているなら、多分それは手に入れない方がいい」

ひどく逆説的だ。だが、理由は単純である。(ワインバーグの説明をわたし流に言いかえるなら)、何かをひどく求めると、逆に自分がその「何か」に支配されてしまうことが多いからなのだ。若きワインバーグの場合は、モルヒネだった。ロージーが強引に断つことで、彼をモルヒネに支配される中毒から救ったのである。そして中毒(依存)状態とは、そういうものなのだ。

物欲でも、金銭欲でも同様だ。何かが欲しい、所有したい、それさえ手に入れれば、自分の人生は素晴らしくなる、と強く思い続けるうちに、いつのまにか攻守逆転して、自分自身がその欲の奴隷になってしまう。金銭に執着すれば、金の奴隷になる。時間に執着しすぎると、時間表に引きずり回されるようになる。あるいは、恋愛感情だって同じかもしれない。事はモルヒネだけではないのだ。読んで思いあたることはいろいろあった。

わたし達の社会は、欲望をかきたてることで出来あがっている。売る側は、もっと商品が売れてほしい。だからあらゆる機会をとらえて、消費者の欲望を刺激すべく、情報や広告宣伝やらをばらまく。教育産業と就職産業は、あの手この手で、より上位の学校や有用な資格を喧伝する。「自分探し」みたいなイデオロギーを添付して。そして、あらゆる場所で、「夢」に向かって進む人たちの感動ストーリーがばらまかれる。

そうしたことには良い面もあるのだろう。落ち込んだ人が、再び夢や期待を持って立ち上がることもあるかもしれない。だが、期待はしばしば、欲望という別物に転化していく。両者の違いがどこにあるか、ご存じだろうか。期待とは自分に関する何らかの状態(行為・能力)を望むことだ。一方、欲望はつねに、自分の外に対象(事物やステータス)を探している。だから、強い欲望を抱くと、自分を見失いがちになるのだ。

かくして、無理な買い物のために金欠になって、働かなければいけないのでせっかく買った物を使う時間がない、といった逆立ちが起きることになる。まあ、その程度はお笑いですむ。だが、実現すればもっと自分を傷つけかねない欲だって、いろいろあるのだ。いや、自分だけではない。無理な背伸びをしてポストを手に入れたがために、周りからの信用を失った人。絶対ほしい案件だといって無理な値段で受けたがゆえに、大赤字におちいった仕事。わたし達のまわりで、そうした例はいくらでもある。

わたし達の脳は(あるいは、心は)、ひどく逆説的な性質を持っている。「遠くに届くためには、力を入れてはいけない」というのも、そうだ。無理に力んだり、強く欲したりすると、そのこと自体がわたし達の中の自然なバランスを崩し、意思とは反対の方向にものごとを引っ張っていく。何度も愚かな失敗をくりかえした後、わたしは、

 「愚かさとは、自分の欲のために後先を見失うことである」

という真実に気がついた。ただ、気はついたけれども、こまったことに自分のアサハカさが減じた訳ではない。

だから、そんな危ういときどきに、『ロージーの返事』を思い出せたらいいのに、とよく思う。そんなにもひどく欲しい物は、手に入れてはだめ、と。だから、自分はこの雑誌を取っておいたのかもしれない。なんとか自分を見失わないようにするために。

(追記)「ロージーの返事」は、ワインバーグの著書 「スーパーエンジニアへの道―技術リーダーシップの人間学」に、少し形を変えて収録されている。ただしわたしは、元の雑誌原稿の方が好きだ。なお、上の抜粋は、翻訳文そのままではなく、多少、改変・編集して引用したものであることをお断りしておく。

<関連エントリ>
 →「遠くに届くためには、力を入れてはいけない」(2014-08-13)
by Tomoichi_Sato | 2014-08-21 00:33 | ビジネス | Comments(1)

遠くに届くためには、力を入れてはいけない

先週の後半は「バッハセミナー in 明日館」という催しで、4日間ずっと音楽(合唱)の練習に通った。歌唄いが、昔から自分のささやかな気晴らしなのだ。ただ、普段あまり声を出す生活をしていないので、三日目が終わる頃には、喉も枯れてガラガラになっていた。とはいえ最終日には、修了演奏会で皆と一緒にステージに立つ。自分ばかりが下手だとまわりにも迷惑をかけるので、家に帰ってからも、楽譜を見て音を再確認しようと思った。

ピアノの鍵盤の前に座ったものの、夜だし大声を出すのはみっともない。ファルセット(裏声)で自分のパートを追おうとした。ところが、喉が枯れていて、ちっともファルセットが出ないことに気がついた。どうするのだ! 歌の中には、実音(地声)ではけっして届かない高音部もある。明日の本番で、急にサイレントになる自分の姿を思い描いて、冷や汗が出た。ともあれ、練習しない訳にはいかない。しかたなく、半ば諦めの境地で、地声で歌いはじめた。

ところで、肝心の高音部にさしかかると、不思議なことにすらっとファルセットが出る。あれ? 今、出たよな? そこで、その箇所だけもう一度トライした。しかし、今度はかすれてサッパリ出ない。まぐれだったんだろうか? しかたなく、バッハの複雑でやけに長い音符の列を追いかけ続けた。ときどき、たしかにすっと高音が出る。だが、出ない時はサッパリでない。

いろいろ試しているうちに、分かったことがあった。高音部だけを、真剣に真っ向からトライすると、声は出ないのだ。ところが奇妙なことに、半ば諦めの境地で歌うと、ちゃんとファルセットが出る。狐につままれたような感じだ。頑張るとできない。頑張らないとできる。一体どうしろというのだ。

そのとき、ふと思い出したのがオイゲン・ヘリゲルの「日本の弓術」 (岩波文庫)という本だった。戦前、東北大学に招聘されてやってきたドイツ人の哲学者ヘリゲルは、日本文化を知りたいと思い、弓道に入門する。ところが、名人と言われた師範が命じたことは、とんでもないことの連続だった。力一杯いれてようやく引き絞れる弓を、“力を入れて引いてはいけない”といい、さらに“意思を持って矢を放ってはいけない”、“的をねらってはいけない”などと言うのである。

「自分が射るのでなければ、誰が射るというのです?」という疑問を、彼は師匠に向かって問う。西欧の合理的知性ならば当然の質問である。しかし師は答える。「それが射る、とでも言おうか。経験しなければ理解できないことに、どんな口真似も役に立たない」。ヘリゲルはそれでも、様々な疑念と苦心を乗り越えて、5年かけて本当に「“それ”が射る境地」に至るのである。そんな名人の心境とは比べようもないが、なんとなく「自分で出そうとすると声が出ない」という今のシチュエーションに、通じる所がないだろうか。

さらに、話は飛躍する。ヘリゲルが体得したのは、“自分”(Ich)が射るのではなく、“それ”(Es)が射るということだった。ところで、ヘリゲルと同時代に生きたフロイトは、自分自身の心の意識する部分、自我のことを"Ich"と呼び、心の奥底の無意識の部分を、"Es"と呼んだ。そして、人間は自分(Ich)で自分をコントロールしているように思っているが、じつはかなりの局面で“それ”(Es)に動かされている、と考えた。このIchとEsという用語は、英訳されるときにラテン語のエゴ(Ego)とイド(Ido)になり、日本にはその形で入ってきた。だが、元は「自分」と「それ」という、ひどく単純な用語だったのだ。

話を元に戻すが、3年前、同じバッハセミナーの「ヨハネ受難曲」で、ごく短いソロを歌うことになった。本番前の昼休み、講堂の裏手に隠れて、一人で同じ短いフレーズをくりかえし練習した。この時も、最高音に届くかどうかが課題だった。そして分かったのは、「のどに力を入れると最高音が出ない」という事実だった。そうか、力んではいけないんだ、と、その時は理解したつもりでいた。

おかしなことに、歌う声というのは、力んでガナリ声になると、遠くの聴衆まで届かなくなる。遠くに届くためには、力を入れれはいけないのだった。だが、頭で分かったつもりでも、まだ本当には身についていなかったに違いない。その証拠に、そもそも三日間で声がガラガラになったのは、周囲の上手な人達に負けたくなくて、がなっていたからではないのか。

遠くに届くためには力を入れてはいけない。高くて通る声を出したければ、力を抜かなければならない。それが教訓なのだった。だが、何と難しい教訓だろう! そもそも、気合を入れ、力を入れる練習は世の中に数多い。運動部の練習というのも、基本はそれだった。でも、どうやったら「力を抜く練習」ができるのだろう? それはほとんど、意識し努力して眠ろうとするようなものではないか。必死になればなるほど、集中すればするほど、眠れなくなるのだ。

どうして体というのは、こんな逆説的な仕組みになっているのか。考えてみると、もともと呼吸とか、声といったものは、意識しない不随意運動で働いている。眠っている時も呼吸はしているし、声だって、赤ん坊の生まれた時の泣き声を見ればわかるように、意識せずに出るようになっている。それでも、その上で、随意的に動かすこともできる。工学系の人なら、オーバーライド機能とかスーパーバイザリー制御などと呼ぶだろう。つまり、仕組みが二重なのである。生存の必要でそう進化したにちがいない。

だがその二重性は、基盤が弱くなった時は、オーバーヘッドの負荷が重くなりすぎるのだ。声帯を囲む筋肉群は、様々な協調性の上で働いている。意識による無理やりの動きは、その協調性をこわしてしまうのではないか。それがわたしの解釈だった。

いろいろな物事は、見た目よりもずっと、つながっている。つながって働いている。わたしはそれを漠然と「システム」と呼んできた。このサイトの読者はご存知のとおりだ。自然に生み出されたシステムというのは、たいてい、自律的に働き、平衡性にもどる仕組みを内蔵している。身体もまた「システム」である。それなのに、自分は力んで、その自己平衡性を崩しているのだろう。

たとえば、昔の新幹線の自動ドアは、その前に体重を検知するステップがついていて、それで開くようになっていた。人が通り過ぎれば、自動的に閉まる。それなのに、ときどき、そのステップに立って、自分が今通った自動ドアを懸命に閉めようとする人がいたものだ。はたから見ると笑えるが、本人は必死だ。その必死さ自体が、ドアを閉める邪魔をしているのに。放置すれば、ドアは自動的に閉まるのに。そういう風に、ドアの仕組みはできているのだ。

そう考えてみると、さらに思い当たることがあった。自分がたまさか関わった失敗プロジェクトでは、チーム・メンバーに任せておけばいい小さな問題に、あれこれ口を出して、かえって部下の負荷を増やしてしまったのではなかったか。小うるさい指示と報告の仕組みをつくって、問題対処のための肝心な時間を減らしてしまったこともあった。典型低な管理過剰である。賢いつもりで、何と愚かなことをしていたのだろう。

力を抜くために必要なことは何だろうか。わたしはまだよく分からない。ただ、うまく言えないのだが、そこには信頼ということが大事なのだと感じる。それも、根拠の無い信頼ということが。

なぜ「根拠の無い信頼」かというと、できるかどうか分からないのに、「できる」という風に信じるからである。それは『自信』ではない。なぜなら、自分ではない、それだか誰かだかを信じようというのだから。自分の体であれなんであれ、“任せておけばきっとうまくいく”と信じること。そうして、へんに気合を入れたり緊張したりしないこと。緊張すれば、必ず余計な力がかかって「システム」のバランス回復が遅くなる。

スポーツの大事な試合に臨むときに、日本人のチームメイトたちは頑張れ!と激励するが、アメリカ人たちは「リラックス!」と声をかける、という話がある。それを聞いたのはオリンピックの時か、それとも何かの映画だったか。ともあれ、わたし達の社会では、何ごとにも「頑張れ」型の習慣がつよいのは確かだろう。頑張ることでうまくいくことも、もちろんある。だが頑張って力むことで、かえって事をややこしくしている場合が、案外多いはずなのだ。

わたし達はもう少し、システムの持つ自己平衡性を信頼した方がいい。もっと、力むことを捨てて、リラックスした方がいい。
そして、もっと、自分や周囲の人々を信じた方がいい。たとえそれがかなり難しく思えても。

そういう風に、身体も、脳もできているのだ。そして、家族や人のつながりとか、もっと高次な文化や言語や社会も、そうできているのだろう。そうした目に見えぬ「システム」を、わたし達は親兄弟から世代を超えて、うけついできたのではないか。・・祖先が帰ってくるというこの季節に、何故かわたしは、そう思った。

え、肝心の演奏会本番はどうなったかって? もちろん完璧でしたよ、わたし自身を除けば(笑)。


<関連エントリ>
→「書評:『日本の弓術』 オイゲン・ヘリゲル」 (2010/05/18 )
by Tomoichi_Sato | 2014-08-13 20:26 | 考えるヒント | Comments(0)

カンタータ演奏会のお知らせ(8月10日午後2時)

ひどく直前の、かつ天候不明瞭な中のお知らせで恐縮ですが、明日、小さな演奏会に出ます。
佐々木正利先生の「バッハセミナー in 明日館」という、毎年夏の4日間のセミナー参加者による、修了演奏会です。

会場は目白の自由学園明日館の講堂(池袋徒歩4分)。「明日館」は、フランク・ロイド・ライトの設計した、とても趣のある美しい建築です。来年から大規模補修工事に入るため、しばらくは中を見ることができなくなります。

曲目はバッハのカンタータ3曲。器楽は当代きっての名手の方にお願いしています。
バロック時代の声楽が好きな方や、ライトの建築に興味がある方、もしご都合がつくようでしたら、ぜひお出でください。入場は無料です。

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8月10日(日)13:30開場 14:00時開演 入場無料
自由学園 明日館 講堂
指揮 佐々木正利
ヴァイオリン 川原千真
チェロ    田崎瑞博
ヴィオローネ 寺田和正
オルガン   能登伊津子
フラウト・トラヴェルソ/リコーダー 稲葉由紀・国枝俊太郎
合唱 セミナー受講者
独唱 オーディション選抜者(受講者より)
J.S.バッハ作曲
カンタータ12番「Weinen, Klagen, Sorgen, Zagen」
カンタータ120番「Gott, man lobet dich in der Stille」
カンタータ215番 「Preise dein Gluecke, gesegnetes achsen」
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PS.
なお、このセミナーは完全な自主運営で、わたしも少しだけ運営を手伝っています。
あいにく、わたし自身はソロは歌いませんが、かわりに(?)開演の挨拶をする予定です。
http://ishiilab.net/~ishii/sasabach/index.html
by Tomoichi_Sato | 2014-08-09 23:21 | 映画評・音楽評 | Comments(0)

情報とは何か、なぜかくも奇妙な性質を持っているのか


「コンプレッサーがいかれちゃってますね。残念ながら修理不能です。」P社のサービスマンは、故障した冷蔵庫を点検して、わたしにそういった。・・うーん、そうですか。しかしまあ1993年製なんだから、寿命と思ってあきらめます。今まで20年間、ずっと文句も言わずに働いてくれたんだし、仕方がないですね・・。サービスマン氏は、わたしの独り言を聞き流しつつ、てきぱきと熟練した手つきで工具をしまうと、さらにこういった。「申し訳ないのですが、規定ですので、出張サービス料をいただきます。」

三千数百円の料金を、わたしは支払った。点検はわずか20分程度だったが、ここまでの移動の往復を考えると1時間以上は拘束している。当然の費用だと、わたしも思った。ただ、考えてみると、これは何の代償として払う費用なのだろうか? わたしの手元に、何か新しい「モノ」(補修部品)がおさめられた訳ではない。「サービス」といっても、彼がきた時とかえった後で、こわれた冷蔵庫に何の違いがある訳でもない。

だとすると、わたしにとってこの金額は、“もう修理はできません”という「情報」の対価なのだ。だから、新しいのを買わなければならない。わたしの次の決断、次の行動の道筋を決める助けになった「情報」のお値段、ということになる。

世の中で売り買いできるのは三種類に分類される。「モノ」と「サービス」、そして「情報」である。モノは、物理的な実体があり、在庫することができ、そして売る時には所有権を引き渡す。一方、サービスという種類の財は、在庫できない。マッサージ師の仕事を考えてみれば分かる。いくら土日が忙しくても、平日の内に働きだめして在庫を積み上げておくわけには行かないのである(これを「サービスの同時性」と呼ぶ学者もいる)。なぜならサービスというのは、『リソース』の占有権を売る商売だからだ。

では、「情報」とはいかなるものか。これが、なかなか一筋縄ではいかないのである。情報という言葉は、もともと「敵情報知」という古い用語から生まれたという(真偽のほどは知らないけれども)。そして、事実、終戦後しばらくは、情報という語には独特の暗い影があったらしい。ちょうど今のわたし達が「諜報」という言葉に感じるような影だ。そうした感覚は、コンピュータ登場とともに大いに薄らいだ。だが出自はともあれ、情報にはいまだに奇妙な特殊性がついてまわっている。

情報なる商品の特殊性その1は、「人に渡しても手元に残る」という性質である。“来週X社の株価が暴落するらしい”という情報は、ある種の人たちには大変な価値があるだろう。ところで、この情報を誰かに高値で売ったとしても、売り手の手元にも、その情報は残るのである。このような性質のために、情報には「所有権」の概念があてはまらない。それどころか、さらにまた別の誰かに売りつけることができる。だから、情報の場合、「占有権」も紳士協定的にしか保証できない訳である。もちろん、「在庫」の概念もあたらない。

情報の特殊性・その2は、内容を受け取らない限り、「消費者」はその価値を正確に判断できない、という性質である(先の株価暴落情報がいい例だ)。しかも、いったん内容を受け取り、知ってしまったら、もう情報を「返品」してもらうことはできなくなる。ここに情報提供ビジネスの本質的な困難がある。「お代は見てのお帰り」方式は、リスクが大きくてなかなかできないのだ。だから何とか、事前に情報の価値の裏書きを得るべく、さまざまな品質保証の工夫がされることになる。しかもここには、受け手によって情報の価値が変わる、という別種の困難も横たわる。

3番目の特殊性とは、非対称性が存在しなければ情報に機能(意味)はない、という性質である。「情報の非対称性」はミクロ経済学の用語だが、ある人が知っていることを別の人は知らない、との状況を指す。知識の濃淡、高低があるから、情報にニーズが生まれるのである。全員が知ってしまった瞬間に、もうその情報には価値がなくなる。

このような奇妙な特殊性があるため、法律も会計学も、まだ本当は情報をうまく扱えていないように見える。情報の「窃盗」に意味はあるのか? 情報の「資産価値」はどう評価するのか? 減価償却できるのか? etc., etc... それなのに、情報はすでに巨大産業化してしまった。わたし達は、これをどう制御するのか。制御するためには、情報というものの奇妙さの根底にあること、いわば本質を、もう少し理解する必要があるはずだ。

ちなみに情報量については、周知の通り、エントロピーをつかった物理学的な定義が存在する。ここでわざわざ数式をとりだして読者に頭痛をよびおこすつもりはない。むしろ、物理学は情報「量」については定義を与えるが、情報の「性質」については大して何も教えてくれない、とわたしは感じている。情報量は、情報源の発する記号(符号)をベースに定義される。だが、そもそも記号(符号)化されていなくても情報は情報である。何気ない仕草や目つき、鼻腔を刺激する馥郁たる香り、こうしたことから、わたし達は案外多くの情報を得るのではないか。

ここで何となく、システム、制御、情報、というキーワードが思いつく(思いつくというか、じつは少し前に論文を書かせていただいた学会の名前そのものなのだが^^;)。この三項には、何か共通する関連性があるかもしれない。

制御工学は、情報に深い関わりのある分野だ。フィードバック制御などでは、対象系の操作のために情報が利用される。ところで、ワットの発明した蒸気機関には、すでにフィードバック制御が組み込まれていた。回転数が上がると、遠心調速機が働いて、蒸気機関の安定稼働を守ってくれる見事な組みだ(→Wikipedia)。

だが、ここでふと、奇妙な気持ちにおそわれる。ワットの蒸気機関は複雑で立派な「システム」だが、回転軸の遠心力でスロットル弁の開閉が調整されるのは、「情報系」なのだろうか。回転数は「情報」なのだろうか?

どうもわたしには、内部状態のあるシステムでなければ、「情報」という感じがしないのである。ここでいう『内部状態』とは、外部から直接うかがうことはできないが、保持される性質(記憶性)であり、かつ、その状態によって、システムの次のふるまいが変わりうるようなものを指している。内部状態を持つシステムでは、全く同じインプットでも、異なるふるまいをすることがある。

ワットの蒸気機関は内部状態をもたないシステムである。一般に単純な機械には内部状態がない。ふつうの冷蔵庫には内部状態がない(冷蔵庫の“内部”=庫内に何が格納されていようと、それで冷蔵庫の動作が変わったりはしない)。

もちろん、コンピュータは内部状態をもつシステムだ。ただし、それは電子的にデジタル情報を扱えるから、ではないことに注意したい。たとえば、チューリングマシンを見よ。紙テープでも、立派な情報だ。

ちなみに、わたしたち人間が感覚器(眼・耳・肌など)で受けとる情報というのは、光、音、触覚など微弱な物理的なエネルギーの作用である。残る味覚と嗅覚も、微弱な化学的ポテンシャルを検知している。この“微弱”というのも、情報のキーワードらしい。大きな物理化学作用では、「情報」という感じがしないからだ。頭を物理的に思いっきり殴られた。おかげで「痛かった」という内部状態(記憶)が長らく残った、あるいは記憶をすっかり失ってしまった、というのは情報のやりとりとは言えまい。

何となく「感じがする」みたいな、論理性の薄い推論を積み重ねてきたが、以上をまとめると、こうなる:
「情報とは、比較的小さなエネルギーで受け手の内部状態を変化しうる働き、またはその結果の状態である。」

情報をこのように理解すれば、その特殊性をすべて説明できそうだ。たとえば、(1)「人に渡しても手元に残る」のは当然である。なぜなら、小さなエネルギーで相手の内部状態を変える働きが情報なのだから。もし、情報の伝達に巨大なエネルギーを要するとしたら、もちろん二度と他の誰かに渡すことはできなくなるだろう。(2)「内容を受け取らない限り、『消費者』はその価値を正確に判断できない」のも当然である。なぜなら、受けとった結果として内部に生じる変化こそ、受け手にとっての情報の意味なのだから。(3)「非対称性が存在しなければ情報に機能(価値)はない」のも当然。すでに内部状態がAになっている人に向かって、“Aになれ”と伝えても何の変化も生じないのだ。

このような、情報の「内部状態論」的な解釈は、今日世間で広く行われている情報の「発生源論」的な解釈とは、真っ向から対立する。情報とその価値が発生源に依拠する、という議論は、情報の所有権的な考え方を通じて、ライセンスと知財戦略にまっすぐにつながる。つまり、米国などが国家的戦略としてすすめている、「高度な知識をお金にかえて世界を制覇する」という考え方である。わたしは別にライセンスも知財も否定するつもりなど全くないが、「知識に固有の価値がある」という見立ては間違いで、価値は受け手が(=その内部状態が)個別に決める、と考える方が健全だと思うのだ。

ついでにいうと、記号(符号)化と言語化は、情報をひろく流通させるための仕組みでしかない。記号も言語も、発信者と受け手の共通基盤として存在する(でなければ流通は機能しない)。しかし、情報の結果は、相手の内部状態の変化なのだから、言語化されていなくてもいいわけである。

そして情報技術(IT)とは、こうした性質を持つ『情報』と、情報を定型化して並べた『データ』の間に、相互変換のサイクルを作って回すことに他ならない——という話を本当は今日はしたかったのだが、すでにもう十分長くなりすぎた。わたしの話の前振りの長さはあきらめていただくことにして(^^;)、本題の話は項を改めて、いずれまた書こう。その前に、こわれた冷蔵庫をどうすべきか、頭を冷やして考えなくちゃ。


<関連エントリ>
 →「マテリアル、サービス、そして情報 ー 売り買いの対象は三種類に分類できる」(2011-08-08)
 →「データと情報はこう違う」(2012-07-24)
by Tomoichi_Sato | 2014-08-03 21:09 | 考えるヒント | Comments(0)

お知らせ: システム制御情報学会誌にプロジェクト・マネジメントに関する論文を書きました

 システム制御情報学会の学会誌である「システム/制御/情報」第58巻第6号(2014年6月)は『プロジェクト・マネジメントにおけるシステム・情報技術』の特集号ですが、ここに、

プログラム&プロジェクト・マネジメント理論の全体概念」(佐藤知一)

という解説論文を書きました。構成は以下の通りです:

  1. プロジェクト・マネジメントとは何か
  2. プロジェクト・マネジメント理論の発達小史
  3. マネジメント理論の領域と手法
  4. 情報技術とプロジェクト・マネジメント
  5. プロジェクト、プログラム、ポートフォリオ
  6. プロジェクト・マネジメント関連の標準化動向
  7. おわりに

 この特集は全体で5本の論文と基礎用語集から成る特集で、わたしの上記の論文は、そのイントロダクションとしてプロジェクト・マネジメント理論を概観したものです。学会の依頼で半年ほど前に書いたものでしたが、読み直してみると、なかなか良く書けています(←自分に甘い評価 ^^;)。

 ところで、システム制御情報学会は伝統のある大きな学会ですが、学会誌は一般の書店や図書館などでは、なかなか見つけにくいと思います。また著作権の関係から、自分の論文の電子ファイルを、勝手にホームページなどで公開することはできません(一定年月がたつと学術データベースで公開されますが)。

 しかし、学会論文には「別刷り」の配布という、古くからの良き習慣が残っています。そこで、もし上記の論文を読んでみたいという方がいらっしゃれば、佐藤までメールにてご連絡ください。
 よろしく。


日揮(株) 佐藤知一
by Tomoichi_Sato | 2014-08-01 20:21 | プロジェクト・マネジメント | Comments(0)