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なぜなぜ分析は、危険だ

「なぜなぜ分析」は、品質管理や労働安全管理などの分野で、よく用いられる手法だ。発生した問題事象の根本原因を探るために、「なぜ?」「なぜ?」とくりかえして掘り下げていく。この問いかけを“5回はくりかえせ”と、よく指導しているため、別名「なぜなぜ5回」とも呼ばれる。元々、トヨタが発祥の地であり、トヨタ生産方式の普及とともに、他の業界や分野でも使われるようになった。

図は、トヨタ生産方式の生みの親である大野耐一氏の著書から一例をとって、図示したものだ。工場内のある生産機械が故障してとまったとき、「なぜ機械は止まったか?」の問いに、「オーバーロードがかかって、ヒューズが切れたからだ」と答えただけでは、じゃあヒューズを交換して再起動すればいい、という答えしか出てこない。

しかし、なぜオーバーロードがかかったのか?→
 (2)軸受部の潤滑が十分でないからだ、とほりさげ、
さらに
 (3)潤滑ポンプが十分組み上げていない→
 (4)ポンプの軸が摩耗してガタガタになっている→
 (5)ろ過器がついていないので切り子が潤滑油に入った。
まで徹底していくと、問題の真因がわかる。そこで、ルーブオイル循環系統にフィルターを設置すれば、機械がたびたびストップするトラブルを根治することができる。これが、大野耐一氏のいう、事実にもとづく科学的態度の威力である。

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このように「なぜなぜ分析」は強力なため、最近では多くの企業で使われているばかりか、たとえば部品サプライヤーなど外部企業に対しても、納入部品に品質問題が発生した際に「なぜなぜ5回」のレポートを義務づけるところがあるときく。

ところが、この「なぜなぜ5回」、使い方を間違えると大変危険だ、という話をしたい。たとえば、次のような例(これ自体は架空の例だが)を考えてみよう:

ある企業で、製品の中の一部品が摩耗・破損しやすい、とのクレームが複数の顧客から入った。たしかに、送り返された部品を見ると摩耗している。しかし、設計図面を確認し、設計者に質問しても、その部位がとくに摩耗しやすい理由が分からない。ただ、さらに調べていくと、ユーザ向けの運転保守マニュアルにある、その部品周囲の取付図と手順が、現物と異なっており、間違っていることが判明した。ユーザはこのマニュアルをみて保守点検・再組立したのだが、それが結果として摩耗を引き起こしたわけだ。

無論、マニュアルは修正しなければならない。しかし、なぜこのようなミスが起こったのか? そこで、なぜなぜ5回が行われることになった。以下は、そのサマリーである。

(1) なぜ部品が磨耗しやすいのか? → ユーザの保守点検時に取り付け順序を間違えるからだ
(2) なぜユーザは取り付け順序を間違えるのか? → 運転保守マニュアルの記述が間違っているからだ
(3) なぜ運転保守マニュアルの記述が間違っているのか? → 設計担当者が別製品から単にコピペしたからだ
(4) なぜ別製品からのコピペが修正されていなかったのか? → 設計担当者が見落としたからだ
(5) なぜ設計担当者は見落としたのか? → 多忙で睡眠不足が続き、注意力が落ちていたからだ

これが真因であるとされ、「担当者はきちんと休息をとり、当該部門の上司は部下の月間残業時間が上限を超えていないか監視するよう、注意喚起」が行われた・・。


はっきりいって、このような「なぜなぜ分析」は、やるだけムダである。なぜなら、前提が間違っているからだ。

どこが間違っているのか? 上の例の(4)から(5)を見直してほしい。ここには、「担当者がミスをして低品質のマニュアルが出荷された」→「担当者がミスをしないよう、注意力のレベルを上げる」という論理がある。つまり、この“問題は個人のミスに起因する”という認識なのだ。それでは、担当者が休息をとり十分睡眠をとっていれば、ミスの発生は完全に防げるのか? 

そんなことはあるまい。絶対にミスをしない人間などいないからだ。人間は、どんなに主観的に注意し努力しても、必ずミスをおかす存在である。これが、品質管理の基本前提なのだ。だから、担当者一個人のミスが、そのまま製品の欠陥につながり、出荷されてしまうとしたら、そのシステム自体がおかしいのだ。制度設計が間違っているのかもしれないし、運用に無理があるのかもしれない。(念のために書いておくが、マニュアルは「製品」の立派な一部である)

ともあれ、(4)から(5)で問われるべきは、「なぜ一担当者のミスがそのまま顧客に出て行ってしまったのか?」でなければならない。ノーチェックだったのかもしれない。あるいは、一応チェック体制があるのだが、メクラ判だったのかもしれない。

技術者なら知っていると思うが、たいていの設計図面には、「担当・検討・承認」の捺印欄があるものである。ではなぜ、こんな二重・三重のレビュー体制を敷いているのか。その答えは、数学的には単純である。人がミスをする存在だとしても、二人・三人が同時に同じミスをする確率はずっと小さくなるからだ。かりに設計者が10回に1回ミスをするとしても、二重にチェックすれば不良の発生確率は100分の1に、三重にチェックすれば1000分の1になる。もし、ミスの発生が100回に1回ならば、三重にチェックすれば設計不良は百万分の一になる理屈である。

設計図面における、こうした「担当・検討・承認」の習慣は、かつて日本が欧米から先進技術を輸入した頃に、一緒に入ってきたものではないかとわたしは想像している。昔のお城の建築図には、担当・検討・承認の判子が並んでいるのを見たことがないからだ。あるいは、“欧米人特有の性悪説によるものだ”と考える人もいるかもしれない。だが、それは違うと思う。欧米は一足先に工業化社会に入っていて、そこで発生する設計不良は、マニュファクチュア(手工業)社会よりもはるかに影響が大きかったからだろう。逆に言うと、もし多重チェックを怠る企業があるなら、その会社はいまだに「マニュファクチュアと職人芸の時代」の頭のまま、ビジネスをやっていることになるだろう。

ここでは、設計技術者のミスの例をひいたが、これが製造マンのミスでも、物流や営業のミスでもまったく同じである。一個人、一担当者のミスが、直接、不良として顧客に損害を与えることは、極力防げるよう、システムをつくらなければならない。くりかえすが、人間はミスをおかす存在だからである。そして、「不良が出たら、やった個人の責任」という前提の元では、なぜなぜ分析など、益よりも害が大きいだろう。下手をすれば、むしろミスや不良を隠す方向に動きかねない。

もっとも、そんなことを言われたって、自分は会社のシステムを設計したり直したりできる立場ではないし、「なぜなぜ5回」は会社のルールで決められていて、自分は命じられたことをやるしかない、と反論される方もおられるかもしれない。もっともなことである。その場合はせめて、真因追求の段階において、なるべくシステムの側に視線を向けられるように、因果の鎖をつないでいくべきだろう。

たとえば上記の例でいえば、(4)のつづきとして、

(4) なぜ運転保守マニュアルは正しく修正されなかったのか? → 設計担当者が多忙で睡眠不足が続き、注意力が落ちていたからだ
(5) なぜ設計担当者は寝る時間もないほど多忙だったのか? → 製品が出荷期限ギリギリに完成したからだ

という風に展開できるなら、話は変わるはずだ。少なくとも対策は「担当者の休息・睡眠」ではなく、「納期に余裕を持った製品の完成」になる。すなわちリードタイムの短縮であり、これは設計・購買・製造のシステムの問題だからである。もちろん、その対策は決して簡単ではあるまい。設計陣が手薄なのは、ギリギリまで人減らしした結果かもしれないし、あるいは逆に、急拡大しすぎて人が足りないのかもしれない。

まあ、「もっと実現可能な対策課題を持ってこい」とあしらわれて、やはり元の(5)みたいなものに変えられる可能性も、あるかもしれない。その場合は結局、なぜなぜ分析など、セレモニーにすぎぬ、ということになる。誤解してほしくないのだが、わたしは決して、「なぜなぜ分析」自体に反対しているのではない。それは良く切れるナイフのようなもので、正しく使えば、役に立つ。しかし、「人間はミスをおかす存在である」「品質は個人レベルの努力ではなくシステムで担保する」という前提がない組織で、ナイフを振り回したって、弱い個人が傷つくだけである。


by Tomoichi_Sato | 2014-04-26 17:01 | リスク・マネジメント | Comments(9)

講演のお知らせ(5月17日、21日)

5月に講演を2件、行います。
ご興味のある方のご来聴をお待ちしております。


1.生産革新フォーラム(MIF研究会)講演

海外型プロジェクトのリスクと成功要因
 - 工場作りとIT分野の実戦経験から考える -」

 日時: 5月21日(水) 18:30~
 場所: 月島区民館
     〒104-0052 東京都中央区月島二丁目8番11号
        http://www.tafuka.co.jp/tokyo_chuo/tsukishima_tsukishima.html
     TEL 03-3531-6932

 中小企業診断士を中心とした研究会ですが、資格未取得の方でも参加可能です。
 これから日本企業が多く直面するであろう、海外型プロジェクトへの取りくみ方について、ポイントをしぼって説明します。

 参加費用:講演聴講のみは無料、入会時は別途、年会費+入会金
 参加申込み:佐藤知一までご連絡ください(わたしから担当幹事につなぎます)


2.日本経営工学会 春季大会 研究発表

A Solution to the Cost Evaluation Problem of Scheduling Decisions

 日時: 5月17日(土) 10:30~
 場所: 東京理科大学 野田キャンパス
     千葉県野田市山崎2641、 東武野田線 運河駅下車 徒歩5分
       http://www.tus.ac.jp/info/access/nodcamp.html
     G会場 セッションG-3

 こちらは純然たる学会での研究発表(英語)です。
 従来のPERT/CPMによるプロジェクト・スケジューリングにおいては、アクティビティがFloatを持つ場合、その期間が多少伸びようが短縮しようが、全体納期に影響しない限り等価である、というおかしな評価になります。本研究では、全く新しいInverse Floatという概念の導入により、期間短縮とコスト増の間のトレードオフ問題を解決する手法を提案します。

 参加方法:くわしくは学会ホームページをご覧ください
    http://www.jimanet.jp/activities/meeting


by Tomoichi_Sato | 2014-04-22 23:56 | プロジェクト・マネジメント | Comments(0)

書評:「昭和の犬」 姫野カオルコ・著

昭和の犬 姫野カオルコ(Amazon.com)

姫野カオルコ著・「昭和の犬」、読了。第150回直木賞受賞作。わたしは新刊の小説を買って読むことは滅多にしないが、しばらく前から気になって、ひいきにしていた作家の受賞作なので、急いで買って読んでしまった。

それにしても不思議な小説だ! とくに何が起きる訳でもないのに、吸引力があって次の頁をめくってしまう。今回もまた、最後の部分は自分の部屋で読み通した。電車や飛行機の中でしか本を読まない自分にとって、これも例外的な体験だ。「こんなに小説のうまい人だとは思わなかった」という、直木賞選考委員の(ある意味では失礼な)評があったが、この吸引力に、小説の上手さが表れている。内容はすでにいろいろな紹介があるので、あえて詳しくは書かない。

主人公は著者と同じ昭和33年・滋賀県生まれの女の子で、自伝的小説の色彩が強い。短編的エピソードを積み上げていくスタイルで、子ども時代が多いのだが、最後に中年のエピソードが加わって、半生記の形になっている。そして、どのエピソードにも犬が登場する。物言わぬ犬を配することで、描写対象の主人公への距離感をうまく保っている訳だが、何よりも姫野さんは犬が大好きなのだな、と感じる。最後のシーンは、前作「リアル・シンデレラ」ほど強い感情は呼び起こさないが、それでも涙してしまった。

小説の書き方にはいろいろなスタイルがあるのだろう。だが、この人は、終わり方を最初に決めて書いている、あるいは、少なくとも、終わりを探しながら書いているのではないかと思う。「リアル・シンデレラ」も、今回の「昭和の犬」も、平凡な女性の、とくに華やかなエピソードもない半生なのに、とても深い読後感を残すのは、そうしたつくりのおかげだろう。

ちなみに著者は、あるインタビューで、「小説を分類するとしたら、ストーリーの面白さで読者を引っ張っていくのがエンターテイメント小説ですが、自分のは主人公の内面を中心に描くものです。」という意味のことを、語っていた。だが、内面描写の小説といっても、それはさらに二通りに分かれると、わたしは思う。心理(とくに感情)を細かく描く「心理小説」と、そうではなく、主人公や人々の考えを軸に描く「思想小説」である。思想小説という種類を得意とするのは、たとえば、こんなことを書く作家だ。

『現代人の大半はおかしな矛盾を犯している--むやみに多くの理論をもっているくせに、実生活において理論が果たしている役割をまるで理解していないときているのです。気質だとか、境遇だとか、偶然だとか、そんなことばかり持ち出してくるのに、実際には、たいていの人間は自分の抱いている理論の権化にすぎないのです。人びとが殺人を犯すのも、結婚するのも、ただのらくらしていることさえも、みんな、何らかの人生理論にもとづいているのです。そんなわけで、(中略)ぼくはまず人間の精神を見る--場合によっては、その人物とまったく無関係に精神だけを見ることさえあるのです』
(G・K・チェスタトン「詩人と狂人たち」)

思想小説は日本では書き手も読み手も少数なため、姫野さんの作品の位置づけが難しかったのだと推察する。「昭和の犬」では、その特異性がうまく底に隠されているため、審査員はじめ多くの人に受け入れられるのだろう。

それにしても、副題の"Perspective kid" とは、どういう意味なのか? 主人公イクの子ども時代を、距離感をおいたパースペクティブで描き出すから、ではPerspective kidにはならない。英語に堪能な著者が、わざわざ選んだ副題なのだから、何か意味があると思ったのだが、つかみ切れなかった。

ただし、全く無関係な事だが、この副題を見て、わたしはその昔、ひさうちみちおが描いた不思議なマンガ「パースペクティブ・キッド」を思い出した。「ガロ」をはじめいくつかの雑誌に描き続けた連作で、ロットリングによる無機質かつ中性的な線をつかって、人々の偏執を描く技巧はとても印象的だった。偶然の一致だろうが、ひさうちみちお(の初期の作品)と姫野文学は、性的な事柄をひどく湿り気のないタッチで描く点といい、キリスト教的な題材を重要な要素の一つとして使う点といい、奇妙に似ていると思う。

変な話をもう一つだけ。主人公イクが、泣いているのでもないのに涙が流れてこまる、というシーンがある。小説の登場人物の病気を詮索しても全く無意味かもしれないが、あれは実は、本当に泣いていたのではないだろうか。イクは芯の強い女性なので、自分が泣きたい気持ちであるとは信じなかった。しかし、心の深い部分では、泣きたいという衝動があった。別に、泣きたいのは不幸だから、とは限らない。いろいろな出来事があり、その情緒が絡み合って、自分にも見えない情動の回路につながっていたのかもしれない。それが、古い打撲傷のように、人生の季節が変わるときに、痛んだのではないか。その証拠に、彼女は犬のマロンとの交流が深まると、涙を流さなくなるのだ。

「ハルカ・エイティ」「リアル・シンデレラ」そして「昭和の犬」と、女性にとっての真の幸せとは何かを書き続けてきた姫野カオルコという作家の生活が、今回の直木賞受賞によって、少しでもより安定した幸せなものとなることを、一読者として祈りたい。この小説の中心テーマは、かつて二千年前にパレスチナの地を歩いた、あの賢者の言葉をまさに象徴しているからだ:

「心の中に誇るべきものが何一つない、心において貧しい人は幸せだ。天の国は、まさにその人のものだから。」(マタイによる福音書・第5章3節)



by Tomoichi_Sato | 2014-04-20 16:56 | 書評 | Comments(1)

超入門:上手な工場見学の見方・歩き方

先週は、「生産革新フォーラム」恒例の工場見学会だった。生産革新フォーラムは中小企業診断士を中心とした集まりで、Manufacturing Innovation Forumという英語の頭文字をとり、略称『MIF研究会』とか『MIF研』ともよばれている(診断士の資格を未取得の会員もいる)。わたし自身、10年以上前からの古参の会員で、2年前には会員同士の共著で“JIT生産”を卒業するための本―トヨタの真似だけでは儲からない」を一緒に出版した。

この研究会の特徴は、年に2回の工場見学をずっと実行していることだ。これが非常に面白く、また勉強にもなる。工場というのは、複雑で大きな、生産のためのシステムである。この「システム」は、製造のための機械設備と、人の組織と、収納する建物と、そして様々な情報系から成り立っている。その中を、製品や部品や資材が行き交っている。そして、どこにも必ずオペレーションの工夫がある。画家が先輩達の絵を見て勉強するように、システムをつくる仕事をする者も、他のシステムをいろいろと見たほうがいい。そういう気持ちで、これまでもなるべく工場見学に参加してきた。

先週は、北関東にある自動車メーカーF社の工場と、ほかにもう一社、化学系の工場を見学した。自動車メーカーF社はもちろん大企業で世界的にも知られているが、日本の自動車業界の順位では、下位の方である。しかし、行ってみてわたし達は率直に驚いた。とてもレベルの高い、良い工場だったからだ。業界トップのT社が資本参加しているが、いわゆるT社式の工場とも違う。まさに、「百聞は一見にしかず」である。働いている人たちもきびきびして、熟達を感じさせる。「これだったら、次の車はF社を買ってもいいな」と帰り道に言っていたメンバーもいたくらいだ。

MIF研の工場見学では、通常は会員の誰かによる紹介で、生産管理関係の方に案内してもらい、最後に質疑討論する形をとる。ところが今回のF社の工場見学は、あいにくF社にビジネス・ルートがなかったので、まったく普通の一般見学ルートで行った。そのため、小学生向けの紹介ビデオを見て、小学生と同じコースを歩く。説明も、広報係の若い女性による一般向け説明で、製造や技術に関する質疑はできなかった。それでも、終わった後の総括をかねた飲み会では、生産方式や在庫やレイアウトのうまい点に関し、活発な評価が行われた。それは、参加した会員の多くが、プロのコンサルタントとして『工場の見方・歩き方』を身につけているからだ。

工場の見学は誰にでもできる。見て、“すごいなあ、きれいだなあ”と感心するだけなら、小学生だってできる。しかし、見るべきところを見抜くには、ある程度のコツがある。そこで、今回はそんな先輩たちのプロのノウハウを、一緒にちょっぴり勉強してみよう。

上手な工場見学には、三つの柱があるようだ。事前に調べる、目に見えるモノを見る、目に見えない事(コト)を見る、の三つだ。順に説明しよう。

(0) 事前に調べる

工場に行く前に、まず下調べをする。これが基本である。TVや雑誌のインタビューと同じだ。相手に会ってから、「あんた誰? 職業は?」では話にならない。

下調べのためには、ホームページなどで製品カタログをまず見る。何を作っている会社なのか。品種は多いのか少ないのか。生産量はどれくらいか。つぎに、財務諸表や年報(アニュアル・レポート)類をざっとチェックする。これもたいていの企業は、ホームページに載せている。売上はどれくらいか、利益は出ているのか、業績は伸びているのか、社員数はどれくらいか。このように、数値で会社の概要を客観的につかむことが大事だ。とくに製造原価報告書は重要な参考資料である。

しかし、数字だけでは会社の個性までは分かりにくい。それを補うために、その会社に関わるニュースなどもチェックすると良い。こうして、その企業の立体像が、少しずつ頭に入ってくる。

(1) 見えるモノを見る

次は文字通り、見学である。大手企業の工場は、外来者向けの見学ルートなども整備していることが多い。だが、工場に入る前から見学ははじまる。立地はどこか。なぜその土地その街なのか。高速インターや鉄道や港など物流面のアクセスはどうか。そして、敷地の広さや、敷地の使い方はどうか。

工場見学は、基本的に原料受け入れから製品出荷まで、モノと工程の流れに沿って順番に見るのが原則である。工場全体のレイアウトの中に、この流れが整然と、かつよどみなくできあがっているかどうかが、工場のレベルを見る大事なポイントだ。中間部品の倉庫が、敷地のへんな端っこに位置していたら、その工場では、何かの事情で想定していなかった中間在庫が常時発生している可能性がある。あるいは、そもそも設計思想が混乱していたのかもしれない。

そして工場建物を見る。デザインのきれいさを、見せる側はアピールするかもしれない。もちろん大事だ。誰だって、きれいでカッコいい職場で働きたい。しかしプロは別のところを見ている。平屋なのか多階層なのか。天井高はどれくらいか。空調はきいているのか。縦の物流動線や、床の耐荷重は。

もちろん、製品も見る。どこの工場でも、一番見せたがるのは製品である(とくに消費者向けの製品を作っている会社はなおさらだ)。F社でも、ここの展示は念入りで立派だった。なるほど、すごいですね。などと口では答えつつ、「この製品はどれくらいオプションやバリエーションがあるんだろう。需要は季節性があるのかなあ」と考えたりしている。

製造のための機械も、工場の自慢の一つだ。とくに最新型で、高速で、自動化されていればいるほど、作り手はうれしがって説明してくれる(でも、本当にそんな大量生産が求められているのかと、ひそかに疑ってみる姿勢も必要である)。自動車工場の場合、最終組立(トリム)ラインと、ボディ・ショップの溶接ラインを見せることが多い。とくに溶接は複数のロボットが自在に動き、火花が飛び散ったりして、派手だからだ。なんとなく、素人にも「工場を見た」気にさせる。F社の工場では、溶接の前のプレス工程まで見せてくれたので、ちょっと驚いた。感心したのは、ボディ・ショップでの多数の溶接用ロボットの、配置上の工夫だった。

人の数と、制服も目立つ要素だ。活気を持って働いているかどうか。若い人や女性はどれくらいいるか。大事なポイントである。また、倉庫もちょっとのぞいて見たい場所である。どれだけ部品があるのか。どう保管・格納されているのか。モノにはつねに現品票やバーコードが貼付されているか。倉庫を見ると、その会社の管理レベルが透けて見えてくる

さらに、プロは治具を見る。治具とは、モノの製造や加工・運搬作業を助けるちょっとしたツール類だ。気の利いた工場は、こうした治具をいろいろと工夫して、作業者の負担やミスを減らしている。また、工場内のあちこちにある掲示板も、人々に何をどう伝え、どう動かそうとしているか、コントロールの仕方を見るのにとても参考になる。

(2) 見えないコトを見る

見えるモノを徹底的に見るのが中級者なら、見えないコトを見抜くのが上級者である。正直に告白しておくが、わたしもまだこのレベルにはなかなか達していないと思っている。

でも、熟達者は、たとえば製造指図や製造報告などの『情報』が、どういうタイミングで、どう動いているかをたずね、それと工場内のモノの動きとの連動性を目で追っている。そして、「この工程はロットサイズが必要以上に大きいな」と、ぼそっとつぶやいたりするのである。

欠品という現象も、目に見えないが重要なポイントだ。欠品表が現場に貼り出されていればまだしも、たいていはそんなものはない。ただ、何となく、組立工程に、途中まで組み上がった半製品と、その周囲に部品類が雑然と放置され、そして近くに人がいない、といった状況があれば、それは欠品で手待ちになったな、と想像がつく。だったら部品が全部そろってから配膳すればいいのに、とか、補給作業は製造と分業されているかな、などの疑問がわいてくる仕掛けだ。

在庫レベルのコントロールも大事である。たとえば自動車工場では、上流のプレス工程は金型によるロット生産である。ところが最下流の組立ラインは、複数製品の混流であり、順序計画に従った一個流し(一車流し)である。当然、どこかの中間段階で、ロットと個別品種をつなぐバッファー在庫が発生する。自動車工場はこれをどこにどう置くかが全体のシステムを考える上で肝になる。F社では、プレス工程の後にある程度、この在庫ポイントをおいているようであった。では、どれくらいあるのか? というわけで、実際に目でパレット数を勘定してみたメンバーがいて、あとで一日の生産量から割り返して、何時間分の在庫量になるかを分析した。

安全・衛生レベルも、最後になったが、もちろんとても大きなポイントだ。結局、これが職場で働いている人たちのやる気を維持するわけだし、退職が少なければ技術・技能の蓄積も効果を上げやすい。


・・といった訳で、F社の工場についてはなかなかの高評価になった。本当は、技術者と質疑できればもっと正確な理解が深まったろうが、見るだけでも、かなりのことは分かるのである。

MIF研究会では、昨年は慶応大学の管理工学科の学生さん達と合同の工場見学も行った。これも楽しい試みだったと思う。みな優秀な学生ばかりだったが、やはり工場を見るのは慣れていない。プロの見方が刺激になったはずである。他方、学生の中には素人なりに鋭い質問をするものもいて、研究会メンバーが逆に感心する場面もあったくらいだ。こういう、年齢層や職業をクロスオーバーした見学会もいいものである。

工場見学は非常に面白い。無論、あまり多くの人が関心をもつことではないし、ふつうレジャーや趣味で行うものでもない(例外として、『工場萌え』マニアという人たちも存在するが)。しかし、繰り返すが、工場というのは複雑で巨大なシステムの、一つの極致である。良い工場を見ると、“いいものを見たな”という豊かな知的満足感がある。製造の仕事に関わる技術者は皆、もっと上手な「工場見者」になるといいと、わたしは思う。


<関連エントリ>
 →「工場見学ほど面白いものはない - K歯車工業に学ぶ」
 →「工場見学ほど面白い物はない
by Tomoichi_Sato | 2014-04-16 19:35 | 工場計画論 | Comments(4)

書評:「亡命 ~遥かなり天安門」 翰光・著

亡命 遥かなり天安門 翰光・著(Amazon)

2008年6月。米国ワシントンDCの国会議事堂前広場に、数百名の中国人が集まった。天安門事件の19周年記念集会を行うためだ。呼びかけ人は「公民力量」(Citizen Power)という在米中国人組織の代表・楊建利と、天安門事件当時学生リーダーだった王丹、作家の鄭義らだった。彼らはさらに中国大使館までいき、無反応に沈黙を守る建物の前で抗議のスピーチと、自作の詩を朗読して意思表示を行った。

スピーチの中で、楊建利はかつて獄中で知り合った20歳の青年のエピソードを語った。青年は微罪にもかかわらず、見せしめ厳罰のキャンペーン取締りにあい、死刑判決を受けた。刑の執行の直前、彼はこう言ったという。「今度生まれるときは、よく目を見開いて、もし中国の国旗が見えたなら、私は出生を拒否します。」(p.9)

本書は天安門事件のために母国を追われ、アメリカをはじめ世界各地に亡命せざるを得なくなった活動家たちのインタビューである。著者の翰光氏は中国・東北部出身、日本に留学した後、ノンフィクション作家・映画監督として日本・中国・米国をまたにかけて活躍している人であり、本書も同じタイトルの映画「亡命」と同時に作られた。わたし自身は、映画は未見であるが、本だけでも十分に面白い。本書は昨年読んだすべての本の中でも三本指に入る傑作である。何より、各人の語る半生と生き様が、ドラマチックで非常に興味深い。

登場するのは、作家の鄭義、詩人の黄翔、政治評論家の胡平、画家の馬徳昇、ノーベル賞作家の高行建、物理学者の方励之、牧師の張伯笠、歴史学者王丹らだ。ほとんどは、はじめて名前を聞く人たちであった。しかし、インタビュー全体の構成は非常に巧みであり、中国の現代史の流れに沿って、各人の出生や来歴、そして思想が語られる。それらを通して読むことで、わかりにくい中国という国の政治状況が、日本の読者にもひしひしと伝わってくるようにできている。

天安門事件は周知の通り、1989年に起きた、中国の民主化運動に対する暴力的弾圧事件である。天安門広場に座り込んだ学生・市民に対して、共産党政権は軍隊を投入し、機関銃掃射と戦車による虐殺・排除を行った。運動の指導者たちは指名手配を受け、全国に散って逃亡した。しかし、この事件の背景を理解するためには、どうしても「文化大革命」という、中国史に残る野蛮かつ悲惨な11年間の社会動乱を知る必要がある。

文革が始まったのは1966年、事実上終わったのが1977年頃である。この後、数年間は中国には緊張緩和と反省と比較的自由な言論の時代が訪れる。ところが80年代中盤になると、再び共産党による言論と思想の引き締めが戻ってくる。これに反発した市民運動の頂点に来たものが、天安門事件であった。

ところが、この文革という出来事が非常に分かりにくい。この時代、中国は事実上の鎖国に近く、国外には部分的な、それも政権に都合の良い情報だけが流されてきた。おまけに、中国においても、まだ十分に文革は反省され総括されていない。あまりにも大きな社会的出来事は、それを民族の記憶として反芻できるようになるまでには数十年単位の時間がかかるのである。

それでも、本書を丁寧に紐解いていくと、文化大革命の実相が次第に見えてくる。それは、毛沢東による権力の(再)奪取のための運動であった。毛沢東は軍事的天才であり、中国共産革命の指導者であったが、50年代の経済政策・「大躍進」運動で失敗し、実権を劉少奇・鄧小平らに奪われていた。ただ、最高幹部内での信頼は失っていたが、彼にはまだ大衆の人気があった。

毛はこれを逆手に取り、大衆を扇動して権力を奪い返すことを思いつく。彼は共産党内に「文化革命小組」なる特命プロジェクトチームを作り、手下となる暴力組織(私兵)を組織する。それが紅衛兵である。最初にできたのは、共産党高級幹部の子弟たちによる、通称「貴族紅衛兵」だった。しかし、その原理主義的運動は庶民の子弟にも広がっていく。すぐに「平民紅衛兵」の数が圧倒的に勝って、優劣が逆転する。

そして、この私兵組織はやがて全国で暴走し始め、手がつけられなくなる。穏健派の周恩来は指導本部を置こうとしたが、機能しない。彼らは各地の党本部を占拠したり、企業を襲撃したりして、「守旧分子」を攻撃・暴行・排除して行く。こうして毛主席の神格化だけが進み、一切の批判的言論の許されぬ、狂乱と文化的破壊の10年間が続くのであった。

すなわち文革とは、窓際の副社長が特命プロジェクトをでっち上げて、社内組織を骨抜きにし、その余勢をかって社長の椅子に舞い戻る、というゲームであった。この権力ゲームのために、最低でも数百万の国民が命を失い、数千万人が理不尽で悲惨な境遇に苦しんだのである。

それにしても、数億の民を路頭に迷わせたこの「革命」運動は、毛沢東と彼の少数の手下だけが責任を負うべきなのか? そうではないのだ、そこには中国の民衆、あるいは中国文化そのものに内在する問題があったというのが、亡命者たち何人かの苦い認識である。

毛沢東が76年に死去し、文革が終わった後、実権派の鄧小平が復権する。鄧小平が片腕としたのは、政治方面は胡耀邦で、経済方面は趙紫陽だった(p.109)。二人とも比較的若手である。しかし、彼らの背後には、既得権益をかかえた共産党≪保守派≫の長老たちがいて、性急な改革・民主化路線を、陰に陽に邪魔していた。ここで例の「貴族紅衛兵」のことを思い出してほしい。高級幹部の子弟だった彼らは、80年代には権益を独占する「太子党」の中心となり、また平民紅衛兵につるし上げられた経験から民衆運動を毛嫌いしていた。

結局、鄧小平が選んだ改革開放路線は、共産党幹部層に特権を確保したまま、経済だけを自由化して成長する路線だった。自由な言論と政治参加を求める声には、次第に門が閉ざされて行く。1980年、胡平は早くも「民主がなくとも近代化は可能で経済発展もできる。近代化が必ずしも政治的民主を促進するとは限らない」との先見を発表していた(p.79)。

87年、鄧小平は民衆に人気のあった胡耀邦を解任する。2年後の4月、その胡耀邦が急死。北京大学で学生デモが勃発するが、人民日報は「動乱」と決めつける(≪保守派≫の李鵬の指示)。5月、3000人の学生がハンストに入り、趙紫陽らが支援のため訪問する。こうして民主化活動と党の≪保守派≫は激突状態になる。そして翌6月、天安門事件が勃発するのである。結果として政権の武力鎮圧が成功し、中国はまた特権階級による独裁政治に逆戻りする。

ところでわたしが≪保守派≫とカッコ付きで書くのには理由がある。共産党は本来、革命政党だから、主流派に保守という言葉を普通に使うのはおかしいはずである。だからと言って、彼らを革命派とか左派と書くともっと訳が分からない。そこでわたしは、次の三つの信念を持つ人間を≪保守派≫と呼ぶことに決めている。

(1) 世の中には、支配する側にふさわしい少数者と、支配されるべき愚鈍な多数者がいる
(2) 自分は、支配すべき側についている
(3) 現在の世の中は、支配にふさわしい者が支配している

このように定義すれば、旧ソ連のノーメンクラツーラも、ムッソリーニのファシスト党も、イランの革命防衛隊も、全部うまく当てはまるので都合がいい。無論、この≪保守派≫は、文化や芸術や経済政策上の保守主義とは関係ない。また、(3)が満たされていない(権力を得ていない)状態では、その人間はまだ≪造反派≫である。

文革の最中、中国では「親が英雄なら息子は好漢。親が反動的なら息子も馬鹿」という血統論が支持された(p.62)。このような単純なラベル貼りが通用する社会では、あっという間に特権階級が生まれ、腐敗していくだろう。その根源には、極端な権力迎合と拝金主義に走る無定見な人々、という社会の病がある。

著者が書くように、「21世紀に入り、飛躍的な経済発展をなしとげ、経済大国に変貌した中国は、皮肉なことに亡命者の数も世界トップ水準である」(p.vii)。胡平も言う。「中国人は数十年間、共産党にありとあらゆる政治的な破壊行為を繰り返され、たくさんの人が命を落とした、その酷さにおいて歴史上類を見ません。これだけの災害に遭遇しながら、基本的な民主や自由すら手に入れられていないのは本当に心が痛みます。しかも、そんな状況にありながら、いまだにたくさんの人が泰平の世だと謳歌しています。(中略)少しでも条件の良いものは専制国家を願うというのは、過去の犠牲者たちの姿を踏みにじるものです。」(p.256)

本書は、祖国に自由を取り戻そうと苦闘しつつ、見えない長城に阻まれる、中国からの亡命者たちの声をていねいに掘り起こした、貴重な労作である。一人ひとりの勇気ある、しかし苦難に満ちた旅路は、ドラマよりもドラマチックだ。文章の日本語も、美しく読みやすい(翻訳ではなく最初から日本語で書かれた)。中国の現代史に、あるいは専政と人々の闘いに興味のある方に、強くお薦めする。

なお、巻末にも簡単な年表がついているが、わたしが本書を読みながら整理した中国文化大革命から天安門事件までの小史を、読者の利便のためにここに記しておこう。

中国革命小史(文革から天安門事件まで)

1966年
* 5月 幹部子弟が円明園に集まり、紅衛兵を組織(貴族紅衛兵)
* 8月 北京の恐怖の1ヶ月。毛沢東が天安門広場で紅衛兵を謁見
* 10月 林彪の国慶節演説で平民紅衛兵を支持。貴族紅衛兵と立場が逆転する
* 12月 逮捕された貴族紅衛兵を毛沢東が恩赦(周恩来の仲介)。彼らは後に「太子党」の中心となり、民衆運動を毛嫌いするようになる

1967年
* 1月 文革は最高潮。上海では労働者が党委員会を脱権。全国に暴力が広がる

1968年
* 10月 劉少奇が失脚(翌年 監禁状態で死亡)

1970年
* 1月 共産党中央は「一打三反」運動を指示。全土で権力者の処刑・権利剥奪。

1971年
* 9月 林彪事件(モンゴルに逃亡し墜落死)

1976年
* 4月 周恩来死去。第一次天安門事件が起こる
* 9月 毛沢東死去。江青ら四人組が逮捕される
* 12月 10年ぶりに大学進学の全国統一試験を実施

1977年
* 8月 鄧小平が副総理に復帰

1978年
* 8月 「傷痕文学」ブームの始まり。文革中の非人間的事件を描く
* 10月 「民主の壁」で詩人黄翔らが毛沢東批判
* 12月 鄧小平が全面的に復権。改革開放政策が採択される

1979年
* 「改革開放」政策始まる
* 2月 鄧小平が毛沢東批判者の締め付けを開始:「四つの基本原則」

1980年
* 8月 趙紫陽が華国峰にかわり総理に就任
* 11月 胡耀邦が共産党主席に選ばれる

1981年
* 民間雑誌、民間組織の取り締まり始まる

1983年
* 春、高行健「バス停」上演、危険視される
* 「精神汚染反対」キャンペーンがピークに

1984年
* 党長老の鎮雲、第三世代育成を明言。「太子党」の始まり

1985年
* 3月 物理学者方励之が民主化運動について大学で講演、反響をよぶ

1986年
* 上海学生運動、北京、成都、西安、蘇州などに広がる

1987年
* 1月 鄧小平一号文書「我々は流血を恐れない」
* 同月、胡耀邦総書記を解任

1988年
* 春頃から物価が高騰、インフレが進行する
* 国営企業の民営化にからみ共産党幹部の腐敗多数

1989年
* 4月 胡耀邦が急死、北京大学で学生デモ勃発。人民日報が「動乱」と決めつける(李鵬の指示)
* 5月 3000人の学生がハンストに入る。趙紫陽らが訪問
* 6月 天安門事件。運動家たちの投獄と逃避行が始まる
* 東欧革命始まる(11月にベルリンの壁崩壊)
by Tomoichi_Sato | 2014-04-12 23:48 | 書評 | Comments(0)

なぜアメリカに海外工場を展開しないのか?

デンバーでの仕事を終えたわたしは、テキサス州ヒューストンに向かった。最近開設したばかりの新しいオフィスで、グループ企業の幹部と打合せするためだ。全米のOil & Gas業界のメッカであるヒューストンは現在、非常な好景気にわいている。もちろんシェールガス革命のおかげである。米国の経済状況はまだら模様で分かりにくいが、少なくともエネルギー関係の産業は活況であり、そのためプラント系エンジニアも人手不足状態になりつつある。

シェールガス革命については、いろいろな事がいわれているが、的外れな解説も日本ではときどき見かける。Oil & Gasの分野の用語や技術が、分かりにくいからだろう。当サイトで1年ほど前に『シェールガス革命と、エネルギー価格のゆくえ』とう記事を書いたが、その後の情勢などは、いずれ項を改めて書こうと思う。しかし今回は、別のテーマである。それは、なぜ日本の製造業は、海外に工場展開を考えるとき、中国だとか東南アジアばかりに目を向けて、アメリカを考えないのか? という率直な疑問だ。

これについては、昨年の夏に、わたしの属する「生産革新フォーラム」(MIF研)で、米国の製造業に詳しいTPMコンサルタントの田尻正治氏をまねいて講演いただいたときにも、感じたことだ。そのときは、米国視察から戻ったばかりの本間峰一会長もいたので、ちょっとしたミニ・シンポジウム風の議論になった。日本の製造業の海外展開については、本サイトでも何回も書いてきたが、工場作りのプロの目から見ると、疑問を感じることも少なくない。

最近は何やら経済団体がメディアと組んで、「グローバル戦略うんぬん」のタイトルのもと、セミナーを開いて中堅中小の経営者を集めては工場の海外移転をあおり、それに官庁がお金をつけたりする光景も見受けられる。経済メディアは客さえ集まればそれでいいのかもしれないが、ブームやムードや流行のバズワードを追うだけではなく、少しは多面的な分析報道もしてほしいものである。

多面的とは、どういう意味か。それは、工場経営から見た立地論の多面性である。かりに、ある企業にとって、国内の工場のメリットが落ちてきて、生き残りや成長のため海外に工場展開を考えたとしよう。では、工場立地を選ぶのに、どういう評価の観点があるのか。自社の生産拠点を一つ作るのである。「人件費が安いから」「主要取引先の大手企業に促されたから」「周りがみんな出て行くから(=バスに乗り遅れたくなくて)」などの理由だけで決めるべきことではない。自分の車を買うときだって、値段だけでなくスピードや排気量や加速性や燃費やデザイン、サイズ、居住性まで、様々な評価軸を比較しながら決めるではないか。自宅を買うのだって、広さ・値段の他に周辺環境、通勤の距離、交通利便性、教育環境etc.を考える。生産拠点だって同じである。

たとえば、誰もが真っ先に考える(らしい)人件費について見てみよう。JETROが毎年行う「アジア主要都市・地域の投資関連コスト比較」の昨年の結果が、雑誌『ジェトロセンサー』(2013年5月号)に出ている。わたしはその中のあるグラフを見て驚いた。マネジャーの月額基本給の国別比較で、香港・シンガポール・ソウルなどはすでに一部で那覇を抜き、横浜に迫っているのである。製造業と非製造業で多少の差はあるが、3,000〜4,000ドルのラインを超えてきている。ちなみに「マネジャー」は営業担当課長クラスを指す。つまり、中間管理職層の人件費はもう日本を追い抜きつつあるのだ。(念のために書くが、この調査は2013年1月時点で、このときまだ1米ドル=91円だった。今の換算レートではさらに15%近く上がっているはずだ)

もちろん、作業員(一般工)の基本給ではまだまだ差は大きい。横浜が月額3,300ドルに対して香港・ソウルでも1,600〜1,700ドル程度だから半分だ。だが、工場という仕組みは、一般工だけで回るものではない。工場がきちんとシステムで動くためには、ちゃんとしたマネジャー層が絶対に必要である。その人件費が日本に迫っているということは、日本企業の給与体系ではもう、この先、良いマネジャーを雇えなくなることを意味する(日本の本社の管理職よりも高い給料を、現地の同じ等級の社員に喜んで払える企業は少ないだろう)。自立した生産拠点として機能していくためには、自社の管理職の給与体系も再考する必要がある。

管理職は日本から派遣するからいい? そうはいかない。駐在員用住宅借上料は、中国の各都市を含め軒並み月額2,000〜4,000ドルである。日本人の給料がちょうど倍になる勘定だ。事務所賃料も、香港は別格に高く、また北京・上海・大連・ソウル・シンガポール・ハノイ・ヤンゴン・ムンバイ、いずれも横浜を抜いている。一般用電気料金も、「日本は世界一高い」と言われているが、データを見ると、高い都市は日本並みに高い。電気の供給品質の差を考えたら、日本の方が安いくらいだ。(もっとも製造原価に占める電気代の割合は、4つの特別な業種を除くと、そもそも小さなものだ。だから、原発を止めると電気代が高騰して、日本の製造業が空洞化するというのは、データから見る限り誇張だろう)

少し話を戻すが、工場立地を考える際の評価軸は、決して労働者人件費だけでないことは分かっていただけただろう。ちょっと考えただけでも、以下のような項目があげられる:

A 人間の能力と資質
(1) マネジャー (2) エンジニア (3) 労働者
B 組織力とビジネス文化
(1) 社内教育 (2) 新しいことへの信任 (3) 転職(ジョブ・ホッピングの程度)
C コスト項目
(1) 土地代 (2) エネルギー価格 (3) 原料資材価格 (4) 水の価格(水の質的・量的供給水準も含む)
(5) 物流費 (6) 駐在生活コスト (7) 給与水準
D その他外部環境
(1) サプライチェーン (2) 治安(政治的安定を含む) (3) 通貨の安定性・通用力

これらの項目のどれが重要で、どこにウェイトを置くべきかは、その企業の業態と、とるべき戦略によって当然異なる。一概に他人が決められるものではないし、当然、他の会社がどうやっているか、は関係ないことだ。

それでは、上記の項目について、アメリカという国はどうなのか。田尻氏の意見や、わたし個人の経験などからまとめると、以下のようになる。

A 人間の能力と資質」であるが、アメリカのエンジニアは概して真面目かつ理詰めなタイプが多い。彼らの特徴は、論理的説明+成果を見せることで、自分から動くようになることだ。この点、日本の技術者は優秀だが職人気質であり、残念ながらしばしば頑固でチャレンジや変化を嫌う。中国・東南アジアは、優秀なエンジニアとそうでない者の落差が激しいが、まだ全般的には日米のレベルには追いついていない。

労働者については、アメリカの労働者は機械さばきが上手である、という特徴がある。これは少し意外だろうが、田尻氏によると米国の労働者は農家出身者が多い。そして、あの国の農家は車でも農機具でも、自分で直しながら使うのが常識であり、DIYセンスのかたまりなのだそうだ。日本や他のアジアの国では、労働者は手先が器用だが、そのかわり機械にはやや弱い。マネジャーの資質・能力の差については、ここでは論評を控えておこう。もちろん、日本が世界で最優秀(笑)なはず、である。

B 組織力とビジネス文化」であるが、米国企業文化の特筆すべき点は、新しいことを積極的に試そうとする意欲が高い点だ。つまりイノベーションのポテンシャルが高いのである。日本は、率直に言って、「ブランド信仰」「横並び志向」のようなものが強く、挑戦よりも失敗を避けることが優先されるきらいがある。

転職についていうと、意外に思われるかもしれないが、アメリカの製造業では日本で思われているほど簡単には転職しない。同じ企業で10年、20年働き続ける人が多く、それこそ親父や祖父の代から同じ職場で働いている、という人だっている。もちろん変転の激しい金融業界・IT業界などではホワイトカラー層に転職も多いが、少なくとも中国や一部の東南アジアのような、労働者の激しいジョブ・ホッピングに悩まされる国柄ではない。その分、社内訓練の蓄積効果も高い。もちろん、アメリカはルールとシステムで仕事を動かす国であって、日本のような手厚い社内教育は必要ない。(そのかわり、きちんとルールとシステムを設計しないと会社は回らない。日本人得意の、すり合わせと浪花節とあうんの呼吸では、組織は動かぬ)

C コスト項目」についていうと、土地代、エネルギー価格、物流費いずれも、日本に比して圧倒的に安い。資材は種類にもよるが日本よりはおおむね安い。金属素材・化学品などはいずれにせよ国際相場で決まるわけだが、水も豊富で質が良い(ユーラシア大陸は水質は良くない)。駐在生活のコストも、アジア諸国に比べてひどく高いわけではない。むしろ、日本人子弟の教育のことを考えると、総合的には安いかもしれない。

たしかに人件費の給与水準を比べると、労働者もマネジャーも、日本同等か、あるいはそれ以上かもしれぬ(とくに最近の円安状況では)。ただし供給力は大きい。そして、アメリカのマイナス点はほぼここだけである。「D 外部環境」としての治安の良さ、サプライチェーン面(市場の大きさと近さ)、基軸通貨の力、そして上記A, Bにあげた項目などを考慮すれば、全体にはかなりプラス点が大きいことが分かる。

労働者の賃金についていえば、製造原価報告書のうち、どれだけが直接労務費であるかをまず、考える必要がある。というのは、製造業の総合的な労働付加価値生産性は、労働装備率(一人あたりの生産設備資産)にかなり左右されるからである。たとえばシェールガス革命を見れば分かるとおり、エネルギーや化学は典型的な「装置産業」であり、労務費比率は小さいから、米国で十分ペイするのである。

ちなみにアメリカ立地に向いている業種として、田尻氏が指摘していたのは、自動化・機械化の進んだ産業であり、具体的には以下のようなものだった:

 半導体、ガラス、機械部品、鋳物、テキスタイル(紡績)、食品、医薬品、化学など

逆に、向かない業種だってある。たとえば、縫製、電気製品最終組立など、労働集約的な工場である(こうした産業は、すでに米国から外に出てしまっている)。

いうまでもないが、わたしは何もアメリカが全て良く、中国や東南アジアがだめだと主張してるのではない。工場の立地戦略は、きわめて総合性の高い、多面的な観点から検討すべきことである。それは流行や促しで決めることではなく、各社それぞれが熟考して決めることだ、と言いたいまでだ。何よりも、事前の十分な情報収集が大事である。必要ならば、それを助ける専門家や、支援する公的仕組みなども存在する。そして、イメージや偏見にとらわれずに、総合的・多面的に分析すること。それこそが経営の仕事ではないか。

あるいは、熟慮の結果、やはり日本にとどまるのが最善だという結論になるならば、それでももちろん良い。誰でも、自分で決めて自分で結果を引き受けるのである。それが自由経済というものだ。そんなことを、テキサス南部のだだっ広い平地を走りながら、わたしは考えていた。


<関連エントリ>
 →「シェールガス革命と、エネルギー価格のゆくえ
 →「工場計画論(1) 立地論--工場はどこに行くのか
by Tomoichi_Sato | 2014-04-06 23:20 | 工場計画論 | Comments(0)

「プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会」(2014/04/21) 開催のお知らせ

というわけで、同じ空港ネタ・・ということでは全然ないのですが、「プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会」の2014年第3回会合を、以下の要領にて開催いたします。

今回は、(株)マーシュブローカージャパン・大野様より、国際空港建設プロジェクトに関するご講演をいただきます。 お金もたっぷりあり、旅客需要も増大中の中東・某国での、大規模国家プロジェクトがなぜ、これほども遅れたのか? ぜひご期待ください。

<記>

日時: 2014年4月21日(月)18:30-20:00
場所: 三田キャンパス・旧図書館・小会議室
    http://www.keio.ac.jp/ja/access/mita.html
    ※キャンパスマップ・【2】になります

タイトル: 「国際建設プロジェクトと工事遅延リスク ~なぜ1.5兆円新空港建設は10年かかっても終わらないのか~」

講師: 大野 紳吾 (マーシュブローカージャパン株式会社)

内容:

 発注者側のプロジェクトマネジャーとして7年半従事した中東の新空港建設プロ ジェクトでは、経験豊富なコントラクターをしても想定しなかった様々な事象が起 こり、スケジュールの遅延へと発展していった。
 事例紹介の後、どんな代替策があったのか、代替策が取られていればどんなシナ リオ展開になっていたか、などについて参加者と意見交換を行いたい。

講師プロフィル:

 1997年京都大学工学部建築学科卒業、IE Business School(MBA)修了。大学卒業 後、清水建設に入社し、国内の建設プロジェクトの施工管理業務に従事。
 2000年、米系エンジニアリング会社のBechtel社に転職。中東の新空港建設プロ ジェクトにおいて、発注者の立場で企画・設計・入札・発注・工事監理を行うプロ グラムマネジメントのプロジェクトマネジャーを経験。
 現在、外資系保険ブローカー会社のマーシュブローカージャパンに勤務し、建設 プロジェクトに関するリスクアドバイザリーと保険ブローカー業務を行っている。
 一級建築士、シックスシグマ・グリーンベルト。CIARb(英国仲裁人協会)会 員、日本プロジェクトマネジメント協会(PMAJ)会員、日本コンストラクションマ ネジメント協会(CMAJ)会員。

参加費用: 無料。
 ちなみに本研究部会員がスケジューリング学会に新たに参加される場合、学会の入会金(1,000円)は免除されます。

参加を希望される方は、確認のためできましたら当日までに佐藤までご連絡ください。
by Tomoichi_Sato | 2014-04-03 21:36 | ビジネス | Comments(0)