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アメリカン航空に乗るおじさんの日記 - サービス業の本質とリスクについて

ロス・アンジェルス空港についたのは朝の10時過ぎだった。デンバーへの接続便は午後3時前の予定だ。待ち時間が数時間あるが、接続ではありがちなことだ。時間を過ごすため、わたしは同僚のFさんと一緒にアメリカン航空のラウンジに入った。飲み物をとって椅子にくつろぎ、まだ時差ボケの頭でとろとろと過ごしていた。

午後になり、飲み物をもう一回取りに行くついでに、大型ディスプレイをチェックした。発着便の予定時刻とゲート番号が表示されている。ここのラウンジでは静けさを守るため、一々のアナウンスはしていない。最近はこういう所が多い。ところで、デンバー便を見て驚いた。On TimeとかDelayedとかステータスを表示する欄に、赤い文字で"CANCELLED"とあるではないか。

あわててFさんと一緒にカウンターに行き、担当者にたずねる。キャンセルとあるが、どういうことか。相手は(白人の中年女性だったが)、"Yes, it was cancelled."と平然としている。理由は"Mechanical"だという。機械トラブルだ。あのね、そういうことくらいはアナウンスしてくれなきゃ、こまるじゃないか。相手はごく普通な調子で、つまりとくに恐縮したふうでもなく謝るでもなく、代わりの便を見つけましょう、と端末を操作する。あいにく、今日の夜の便はもう満席です。でもUS Airwaysになら、夕刻の便で2席空いています。

(これから先、航空会社の固有名詞をいくつか出すが、それはどこかの会社をホメたりクサしたりする目的ではない。ここでは、米国でたまたま経験した、サービス業の本質について書きたいのである)

アメリカン航空はUS Airwaysと合併することを発表している。それで、同社の便をまず探してくれたらしい。それはいいけれど、予約までは自分はできない。3/31までは別会社だから。でも、(と、ここで3m横のカウンターの別の女性をさして)彼女はUS Airwaysの社員で、彼女の端末からなら予約できるから、あとはあそこのカウンターで話してくれ、という。顧客サービスのために、合併前だが、US Airwaysの係員をこのアメリカン航空のラウンジにも置いているのです、サンキュー。

なぜ彼女は自分でやってくれないで、すぐ隣りにいる別の担当者にわざわざ客を回すのか。べつに、不親切な性格だからではあるまい。米国では、仕事には必ず職務記述書Job Descriptionという書類がついてまわる。職務記述書には、その仕事の権限と責任範囲とが明確に、事細かく列挙されている。Work scopeと呼ぶ。雇用契約と給料は、そのWork scopeにもとづいて決められている。たとえ顧客サービスとか親切心とかであっても、自分の責任範囲を超えたことをすると、処罰される可能性が高い。そういう風に、米国のビジネス文化はできあがっているのだ。

われわれは言われたとおり3mほど横に移動して、US Airwaysの女性係員にもう一度事情を話した。せめて話しくらい通してくれよな。ともあれ相手はてきぱきと事務的に端末を操作して、夕方の便はフェニックス乗り換えで到着は夜12時近くなるが、かまわないかとたずねてくる。我々は明日、デンバーの企業と打合せがあるのだ。夜中着でもしかたないから、とってくれ。

彼女は、チェックインした荷物がないか聞いた。わたしは全部機内持ち込みだが、Fさんはスーツケースを1個、預けていた。本来であれば、午後のアメリカン航空便に乗せられるはずで、今はこのロス・アンジェルス空港のどこかにあるのだろう。では、その荷物もUS Airwaysのフェニックス便に乗せてもらう必要がある。Baggage Change Orderを発行する、と彼女は言った。Change Orderとは変更指示で、我々の業界では顧客から追加費用をもらうために耳慣れた用語だった。でも、物流ハンドリングでも、やはり変更オーダーと呼ぶのだな。へんなところで感心した。

さてGentlemenよ、ここはアメリカン航空の第4ターミナルである。貴兄らはUS Airwaysのある第1ターミナルに移動してもらわなければならない。But, don't worry. 空港内シャトルを使えば、もう一度セキュリティ検査を通る必要はない。

ご存知の通り、空港は客が自由に出入りできる一般エリアと、飛行機のゲートに通じるセキュリティエリアに分かれている。他のターミナル建物のゲートにいくためには、一度、一般エリアにでて移動してから、再びセキュリティチェックを通る必要がある。米国では9.11事件以降、「愛国法」の施行によりチェックがかなり厳しく、靴も上着もベルトも脱ぎポケットの中身も全部だして、へんてこな機械の中で「手を挙げろ」の姿勢でスキャンを受けなければならない。とうぜん、どこも長蛇の列である。それを再通過せずにすむのはありがたい。わたし達は言われた場所にいって、シャトルバスに乗り込んだ。滑走路と同じ場内を走るバスである。

ところが、そのシャトルバスは、少し走り出してから、停車したままになった。5分たち、10分たっても、動き出す気配はない。前にも車が何台も並んでとまっている。運転手は無線で誰かと大声でスペイン語で怒鳴りあっている。米国では、単純労働者など下積みの仕事は、いわゆるヒスパニック系の人が多い。だから仕事の会話の多くはスペイン語で行われる。何かトラブルがあって、通常のルートが止められているらしい。間に合うのかな、と心配になった。乗り合わせた別の客もUS Airwaysのターミナルにいくという。フェニックス便だというから、きっと同じ運命にあったのだろう。しかし、彼女は何故か平然としている。「フェニックス便も遅れているって聞いたから。」

業を煮やしたバスの運転手は、かなりの遠回りをして、とにかく我々を隣のターミナルに運んでくれた。奇妙な非常階段をあがって、裏口からゲートにたどり着く。ところが、せっかくたどり着いたら、申し訳ないけれどゲートを変更するから移ってくれとアナウンスがある。飛行機が遅延した時に、よく行われることだ。すでに表示板にもDelayedとある。

夜6時過ぎに出発するはずのUS Airways便が、搭乗案内を開始したのは8時を過ぎてからだった。しかし、こんなに遅れてはフェニックスで乗継できないのではないか? ゲートの係員(これも女性)にたずねると、うん、たしかにもう無理かもしれない、という。ど、どうするのだ? 彼女は、フェニックスに夜遅くついてもホテルはないと思う、明日の朝10時のデンバー便に空きがあるから、今夜はHotel Voucher(利用券)を出してやろう、という。つまり、このロス・アンジェルス空港内のホテルに泊まれということだ。でも、預けたバゲージは? -それはもうtoo lateだから、明日、デンバーで拾ってくれ、サンキュー。

ホテルについたのは9時過ぎである。二人とも疲れきっていたから、簡単な夕食を食べてすぐに眠った。

翌朝、またセキュリティの列を通ってUS Airwaysのゲートにいく。10時のデンバー便を待っていたら、何と! 9時40分になってから、「この便はキャンセルされました」とアナウンスがある。・・神はまだこの上、試練を与え給うのか。カウンターの係員の女性は、居並ぶ怒った乗客に小さな紙切れを渡していく。紙切れには、無料通話のコールセンターの番号が書いてある。ここに電話して、代わりの便を探してくれ、という。

何たる不親切か、と一瞬腹が立った。が、考えてみるとある意味、合理的な対応ではある。客は100人以上いる。ゲートの端末は2台程度だ。これでは待つだけで何時間もかかるだろう。全米相手の予約センターの方がずっと係員は多い。まわりを見渡すとみんな携帯電話にかじりついている。しかたなく無骨なアメリカの公衆電話をみつけて、予約センターを呼び出す。そして、騒がしく聞き取りにくい環境の中、20分以上の押し問答をへて、ようやく午後3時のUnited Airlineの便を予約してくれた。わたし達がその便でデンバーについたのは夕方の6時だった。ロス・アンジェルスからデンバーまで、都合、30時間以上かかった訳だ。

デンバーの空港ビルは新しくて美しい。そして、とても幸いな事に、Fさんの荷物はきちんと見つかった。見つけるまでに、アメリカン航空とUS Airwaysとユナイテッド航空と3箇所をまわらなければいけなかったが、とにかくちゃんとあったのだ。

ホテルに向かうタクシーの中で、つくづく思った。本当にひどい遅延だった。打合せ相手の企業にも迷惑をかけた。しかし、どの航空会社のどの係員も、自分がするべきことだけはきちんと果たした。けっしてにこやかでもない。謝りもしない。英語は早口で、態度はがさつで、施設はしばしば古くて汚れている。しかしシステムができあがっており、それはどれも機能するのだ。ファンクショナルであること、これが第一優先され、そして途中のプロセスや人の「気持ち」はともあれ、結果だけはきちんと出る。わたしは数多くの先進国・新興国を歩いてきたが、米国のこの点だけは尊敬していいと思っている。

航空産業はサービス業である。サービス業というのは、つらい仕事だ。飛行機は、時間通りに飛んで当たり前。荷物は出てきて当たり前。その「当たり前」の期待から外れた時だけは、ひどく文句を言われる。とくに航空産業がむずかしいのは、天候という変わりやすい、予測の難しい外部要因に直接、左右されることだ。つまり、リスクの高いサービス業なのである。

飛行機のリスクというと、普通の人はみな、墜落事故を思うだろう。マレーシア航空の便がミステリアスな失踪をとげた後だから、なおさらだ。しかし、航空産業の本当のリスクは、悪天候や機材のちょっとした故障にある。「稀に起こる危機」ではなく「ありふれたトラブル」の方が問題なのだ。なぜなら、飛行機というのは多数の便が接続し合いながら、全体で巨大なネットワーク・システムをつくっている。どこか一か所でトラブルが起きると、あっというまに遅延が伝播していくのだ。

わたしは、航空会社のサービスの質を決めるのは、第一に、その会社が作り上げた「システム」の信頼性であり、第二に、地上職員の質であると思う。便が故障なく当たり前に飛ぶこと、預けた荷物がちゃんと目的地で見つかること。それが最低限の条件である。だが、リスクの高いサービス業では、その当たり前がときどき働かなくなる。そのときに、地上職員がいかに機転を利かせることができるか。それが、顧客から見た重要な評価ファクターなのである。いったん飛行機に乗り込んでしまえば、あとは食って寝るだけだ。機内食が美味しいかとか、アテンダントが美人かどうかなどというのは、本当に順位の低い評価項目なのだ。だが、システムとかリスクとかをよく理解していない人は、サービス業というのを平常の接客レベルだけで判断しがちである。

あれはエル・パソの空港だったろうか。10年以上前のことだが、悪天候のために乗っていた便が緊急着陸してしまった。空港建物の中で、わたしは、他の乗客20人ほどと一緒に、目的地にいく次の便のゲートに急いだ。しかしあいにく、次の便には空席が10席しかないことがわかった。ゲート前の、恰幅のいい中年女性の係員は、われわれ20人の乗客から、10人をどういう基準で選ぶのか。わたしは幸いにも、国際便への乗り継ぎがあるという理由で乗せてもらえることになった。他にも乗継便のある客を優先した。

あとは? わたしは彼女の采配に注目した。とても難しい判断である。全員に権利があるのだ。彼女は、大量の機内持ち込み荷物をもつ男性客たちを退けて、スペースの効率を考えながら乗客を瞬時に選んでいった。はずされた乗客は文句を言ったが、彼女は決してゆるがない。わたしは内心、舌を巻いた。この時の航空会社はContinentalだったが、機体も古く、食事もたいしたことのない同社が、全米の顧客満足度第一位に当時なっていた理由を、わたしは心底納得したのである。

<関連エントリ>
 →「JALに乗るおじさんの日記」 (2010/02/27)
 →「休めない人々」 (2011/03/12 - あの3.11の翌日に書いたエントリです)
by Tomoichi_Sato | 2014-03-30 22:18 | リスク・マネジメント | Comments(1)

「頭がいい」ということは、本当にそんなに「良い」ことだろうか

ボールを胸の真ん中でグローブに受けたとき、バシン、という重たさを感じた。「この子は肩が良いな」と思った。近所の公園で、息子とその友達と一緒にキャッチボールをして遊んでいた時のことである。息子と少し投げ合った後で、その友達の投げたボールを受けたら、スピードもコントロールもぜんぜん違ったのである。後で聞いたら、その子の母親も昔はソフトボールのピッチャーだったという。“生まれつき肩が良いって、あるんだな”と思った。

もちろん、ボールを速く、正確に投げられるというのは、肩という「身体の部分品」の出来がいいだけでは十分ではない。周囲の筋肉の使い方、タイミング、バランス感覚、などが総合されて、はじめていい球が投げられる。肩が良いというのは、一種の総合力なのである。

他の子をほめたので、一応自分の子供の良い所も挙げてみようか。息子は「鼻が良い」といえるだろう。微妙な匂いも非常に敏感に嗅ぎ分けられる。小さなときから、食べ物がちょっとでも生臭かったりすると手を付けなかったり、わずかに加えた隠し味の香りを精確に言い当てたりする。同じフランスのワインを、日本で飲む時とフランスで飲んだときは後味が少しだけ違う、などとのたまう。嗅覚が発達しているのだろう。

(ところで、この記事のタイトルを見て読み始めた読者の中には、「頭脳のよしあしの話題かと思って読み始めたのに、いつまで関係のない迂遠な話を続けるんだ」とお感じの方もおられるだろう。もうすぐ本題に入る)

人間には、「肩が良い」とか「鼻が良い」とか、ほかに「目が良い」「足が速い」など、いろんな特性というかタイプがある。「頭が良い」というのも、それと同格の、ある種の身体的機能の発達だと、わたしは思っている。

もちろん、「頭が良い」というのは一群の能力の総称である。言語能力、記憶力、論理的な思考能力、瞬間的な判断力、空間認知能力、パターン識別能力、などがないまぜになった特性を、なんとなくそう呼んでいるわけだ。「肩が良い」ことが総合力であるのと同じように、「頭が良い」のも一種の総合力であろう。

さて、この記事のタイトルに反語性を読みとって、「この佐藤という奴は、知的能力の高さに否定的らしい。反知性主義者なのか? どんな結論を提出するつもりなのか?」と思いながら読んでこられた「頭の良い」方は、そろそろ話のテンポが遅いことにイライラしはじめた頃と思う。頭の良い方は、概して忙しいし、気も短い。そこで、ご安心いただくために、先に本稿の結論をいってしまおう。「頭の良い人は、だまされやすい」という欠点を持つ、てのが結論である。

「だまされやすい!? この自分が、かよ? いーかげんにしろ。それほど馬鹿じゃねえ。」と息巻く方もおられるだろう。下心を持った人間がだまそうと近づいても、その些細な矛盾を突いて撃退できる知的能力をお持ちかも知れぬ。だまされるのは、ダマされる方が悪い、という言い方も存する。愚かだから、ダマされる。まったくそのとおりだ。だったら、頭が良ければ騙されにくいはずではないか。

ところで、催眠術師が決まって使うテクニックに、「催眠術は赤ん坊と馬鹿にはかかりません」と言って術を始める、というのがあるそうだ。こういう前ふりをすると、聞いている人たちは、「自分は赤ん坊でも馬鹿でもない」と思う。思うから、催眠術にかかる方向に、無意識にドライブがかかる。相手の、知的優越心をくすぐるのである。むろん催眠術と人をだます行為はぜんぜん別物だが、人の虚栄心をくすぐって利用する、という点では共通している。

わたし達の社会では、「頭が良い」のは最高の褒め言葉の一つである。それは、我々が高度に工業化された産業社会にすんでいるためだ。これが昔の、農業主体の社会だったら、「腕力がある」ほうがずっと人間の評価で重要だったはずだ。さらにさかのぼって、狩猟と採集で暮らしていた石器時代だったら、「足が速い」「鼻が良い」はとても優れた能力だったろう。社会構造によって、人に求める能力は変わってくるのだ。

前回、「今のお気持ち」主義という言い方で、“仕事の成果を左右する最大の要素は、やる人の気持ち(意欲・感情)だ”とする信憑をとりあげた。この考え方は、かなり広く受け入れられている。そして、この「今のお気持ち」主義は、もっと古いが根強い考え方、“最重要なのは、リーダーの生まれついての資質だ”という資質主義や血統主義へのアンチテーゼでもあると述べた。「気持ち」「資質」と並んで、わたし達がよく持ち出すのが、その人の「頭の良さ」なのである。頭が良くなくてはトップ・アスリートにはなれない、とも前回書いた。それだけではなく、どの分野であれ、トップになるには頭がわるくてはとても無理だ、と思う。

そういうわけで、現代社会は「頭の良い」人を発掘し育成し顕彰するために多大な努力を払っている。そのために最大限に利用しているのが、競争原理だ。日本の教育制度(というか入試制度)は、頭の良い人を選別することに主眼をおいたシステムである。選別中心ということは、頭の良さもまた生まれつきの資質であるとの前提に立っているわけで、その証拠に、社会では学歴(正確には「入試歴」)がずっと幅を利かせてきた。選別されたのだから、それで十分ということだ。

むろん、入試産業では、「人は生まれつき」では身もフタもないから、「がんばれば君だって良い大学に入れる」と盛んに宣伝する。つまり、やる人の気持ちが大事だ、ということである。制度自体は資質主義なのに、大半の生徒たちの尻を意欲主義で叩いているのが、いまの教育(?)のあり方だ。

このように「頭の良さ」が競争原理に直結しているため、人から「頭が良い」と思われると誰しも優越感を抱きやすい。大学入試歴のみならず、ちょっとした議論に勝ったり、あるいは人の知らない新しい情報を知っていたり、といった個別の局面で、いちいち優越感が顔を出す。

そもそも、議論というのはお互いの知識や見地を交換しあって、より真理に近い高みに登るために行う行為であるはずだ。それに「勝つ」というゲーム感覚を持ち込むこと自体、おかしなことだ。だが、その「おかしさ」に、頭が良い人ほど鈍感である。むしろ、過度に論争的になりやすい。

とくにこまるのは、われらが社会の試験制度が、記憶力や反射的な判断力に重点を置いた試験問題を好むことだ。「正解」の知識やテクニックを、素早く、たくさん記憶のポケットから取り出せる能力が有利なのである。だから、「頭の良い」人は、逆に「正解のある問い」という枠組み自体を、疑うことをしなくなる。世の中には、いろいろな判断条件があり、価値観がある。ところが「知識重視」「知性主義」「競争原理」などの価値フレームワークは、決して疑わない。そして、それに準拠し、それに適応した形で、自分たちの価値軸を形成し再生産していく。

お分かりだろうか。「頭の良い」人たちを動かすのは簡単なのだ。彼らの競争心を刺激すればいい。

わたしはときおり、いくつかの大学で教えている。たとえばグループ演習の問題を出す。20分の時間制限付きだ。このとき、学生たちの尻をたたくのに、一番きくのは、(ライバルと目される)「××大学では正解率○○%だった」という一言だ。

頭の良い人は、知的競争心に動かされやすい。そして、「人に動かされやすい」というのは、つまり「騙されやすい」ということではないか。それも、誰か他人に騙される前に、頭の良い人はまず、「自分自身にだまされやすい」のである。自分に自信がある。なぜなら、子どもの頃から、“頭が良いね”とほめられ続けてきたからだ。自分の存在価値も、頭の良さにかけている。

あなたのまわりに、いい歳をしてして、知識や論戦に毎度毎度しのぎをけずって生きている人はいないだろうか。子どものうちはいい。20代そこそこの頃もまあ、しかたないかもしれぬ。しかし、30歳を過ぎてまだ「頭の良さ競争」に振り回されるのはおかしいと、いい加減気がつくべきではないか。

「頭の良い」人はしばしば、社会から与えられる価値観を疑わない。知識をいくら積み上げても、そこからは価値観など出てこないからだ(まあここで、ヒュームの哲学論など、あえてもちだすまい)。他人に動かされやすい。動かされているのに、自分では自分で考えて動いているつもりでいる。そういう意味では、知的エリート層は、じつはとても大衆的なのである。

頭の良さは総合的な能力だと書いた。その総合性が偏っているから、こうなるのである。おまけに、頭のよしあしと言ったって、正直それほどの差があるとも思えない。肩のよしあし、眼のよしあしと似たようなもので、人間の能力の差など、せいぜい倍半分なのである。100mを10秒で走れる人は滅多にいないが、20秒でならたいていの人が走れる。眼のよしあしを補正するために、人間は眼鏡などの器具を発明した。器具や練習などで、人間の能力はそれなりに是正され、差が縮まる。

「考える」のにも方法があり、練習もできるのだ。教育制度は、学生を選ぶのに忙しくて、そのことをあまり教えない。これはとても残念なことに思う。今のわたし達に必要なことは、むしろ「正解のない問題を、とことん考えぬく能力」なのである。・・ああ、そういえば、このことは前にも書いたな。頭がわるくて、自分で書いたことを、すぐ忘れてしまう。だからわたしは、こんな「反知性主義」的な文章を、性懲りもなく書いているのかもしれない。


<関連エントリ>
 →「『正解のない問題』を考える能力
by Tomoichi_Sato | 2014-03-24 08:34 | 考えるヒント | Comments(0)

新しい決意と、「今のお気持ち」主義

早春が好きだ。

3月、コブシの白い花が空に向かって問いかけるように咲きはじめる。まだ冷たい空気の中にも、草木の芽吹く気配がする頃。一年で一番美しい季節になったな、と思う。そういう気持ちは、年を追うごとに強くなる。昔は季節などに興味はなかった。いまは歳をとってきたせいか、少しずつ花が咲き、いのちの生まれかわるときが心にしみる。

3月は卒業と進級、別れと新しい決意の季節でもある。なにか未経験のことにチャレンジし、衣を脱ぐように古い自分から脱皮したい。そんな気持ちをいだくことも多いだろう。望み、あこがれ、訣別、スリル、そして少々の怖れ、いろいろな気持ちが混じりあって新しい決意を形づくる。

「決意」から「実現」へと向かって進むために一番大切なのは、もちろん自分の強い気持ちである。気持ちとはすなわち、意思であり、感情であり、好みでもあり、また気合いでもあろう。それらをひっくるめて日本語では「気持ち」と呼ぶ。これは理屈とか技術とか計算とかとは別のものである。今日はこの気持ちの持ち方について、書いてみたい。

去年の何月頃だったか、外で晩飯を食っていたら、テレビでナイター中継をしていた。9回の裏に劇的な逆転になって、ファンは大喜びだ。早速、ヒーローインタビューが始まった。逆転打を放った選手に、インタビュアーが質問を放つ。

「××さん、今の気持ちはいかがですか? 」

選手がそれに答えると、さらに2つ3つと質問を重ねる。
「途中、 4点差まで引き離されましたよね。その時はどう感じましたか?」
「9回表、何とか守りきったときのお気持ちは?」
「最後の打席で、第二球目を打った時の感触は? 」

質問の細部まで正確に記憶しているわけではないが、内容はずっと“どういう気持ちですか”だった。ヒーローインタビューというのは、ファンが選手の受け答えに一緒になってワーッと歓声を上げるのが目的みたいなものだから、これでいいのかもしれない。でも、もう少し気の利いた質問もありそうなものだ。どんなコンディションだったかとか、監督の指示はどうだったかとか、何が一番難しかったかとか。そうでないと、試合の面白みが分からないじゃないか・・ちょっぴり不思議であった。

この時以来、状況や考えではなく、気持ちをもっぱら興味の中心に置くアプローチを、「今のお気持ち」主義と、わたしは勝手に呼ぶことにした。一流のアスリートというのは、頭が良くなくては、なれない職業だと、わたしは思っている。筋力や運動神経だけでは十分ではない。工夫も計画も作戦もあって、はじめて本当のトップ・プロになれるのだ。アスリートに限らず、どんな分野のプロだって同じだろう。だとしたら、なぜ相手に『お考え』を質問しないのか?

それは、チームの成果を最終的に決めるのは、理性でも技巧でも運でもなく、やる人の「気持ち」だと皆が信じているからだ。気持ちのあり方で、試合の結果を理解したいのだ。

わたし達の脳は『ものごとを説明する』ことをつねに求めている。よく分からないものがあると、不安で、それこそ「気持ちが悪い」のだ。たとえば三回転半ジャンプの技巧と危険などは、素人にはほとんど理解できない。しかし、それをやる人の「気持ち」だったら、誰にも推察できる(ような気がする)から、納得感がある。ものごとの帰結を、『やる人の気持ち』で説明する問いかけが増えていくのだ。

「どんなことでも、やる気になればなんとかなる」「なせばなる」--そういうテーゼを、人は求めているらしい。いかなる苦難と逆境にあえいでも、強い意志さえあれば、最後は成功できる。そうした物語は、落ち込んだ人の心を、再び立ち上がらせる効能がある。「今のお気持ち」主義の背景には、そんな物語へのニーズがあるのだろう。

「どんなことでも、やる気になればなんとかなる」で、全面的に成り立っている娯楽が、昔の『講談』だったと、作家の橋本治はいっている。講談は江戸時代から昭和初期まで、ずっと人気のある娯楽だった。今、その伝統は、主に少年マンガが受け継いでいる(少年マガジンの発行元は、その名も「講談社」だ)。

講談的な物語は、なぜ多くの日本人の心をつかむのか。それは、もっと古くて強力な考え方、すなわち「人の能力は、生まれつきで決まる」という思想への、アンチテーゼだからだ。センスや素質のない奴に、いくら教えたってダメだ。上に立つべき人間は、それなりの器であるべきだ。そんな風な言い方は、身の回りにごまんとある。

人が生まれつき持っている資質が、成果を左右する最重要ファクターだ、という意見はとても根強い。だから「素質のある人を早く見出し、リーダーシップを発揮できるポジションに早くつける」ことが大事だ、との主張が生まれる。ビジネススクールの教師など、いかにも言いそうだ。いわゆる「エリート養成機関」を出た人たちも、同種の意見の持ち主が多い。

この「資質主義」を徹底していくと、教育は“育てる”より“選別する”ことが第一義になっていく。日本の入試制度は、まさにこの思想を強く反映している。

そして資質主義の最たるものは、血統主義である。講談が生まれたのは、身分制社会の時代であったことを思い出してほしい。士農工商の差別と桎梏の時代にあって、下層出身者が、強い意思とやる気だけで戦国をのし上がっていく講談は、多くの人々にうけたにちがいない。

いったい仕事の成果は「やる気」で決まるのか「資質」で決まるのか。どちらが主でどちらが従なのか。ここでは、その問いに答える代わりに、「今のお気持ち」主義がもつ問題点を考えてみよう。

「今のお気持ち」主義の最大の問題点とは、「予測がうまくできない」ことにある。“あの人があんなに熱心に取り組んだのだから”という予測(願望?)だけでは、結果は見通せない。そもそも気持ちというのは、ふらふらと変わりやすく、しかも客観的にはうかがい知れぬものである。そのうち「気持ちメーター」が発明され、「気持ちが4.6点まで上がっているから、あとジャンプ3回は大丈夫よ」と判断できる世の中がくるのかもしれぬが、来ないかもしれぬ。来ないような「気が」する。

「今のお気持ち」主義のもう一つの危険性は、精神主義への傾斜と、客観的な事実把握の軽視である。当然だろう。“気合いさえあれば必ず乗りこえられる”のだから、現実を直視するとか、数字で客観的に測るといった行為は、ムダなばかりでなく、意思の力をそぐから、嫌われるようになる。もちろん、数字にもとづく作戦立案とか、オペレーションズ・リサーチ(OR)なども軽視される。ビジネス社会でも、ときおり見かける傾向である。

しかし、「気持ち」中心主義の一番まずい点は、別にある。それは、成功していない者に対して、激励ではなく、逆に排撃に働くことである。「どんなことでも、やる気になればなんとかなる」というテーゼは、「成功していないのは、やる気がないからだ」と等価である。社会の『負け組』、底辺にいる奴らは、やる気がないのだから、酷い扱いを受けて当然だ、との考え方がここから出てくる。身分制思想よりも、ある意味もっとひどい、苛烈な差別感情である。

もちろん、新しい決意を成功に向けるため、いちばん大事なことはやはり「気持ち」であり、やる気の持続である。ただ、気持ちだけでは、足りないところがあるのだ。別に素質や生まれや血統のことではない。それらは、あるに越したことはない"nice-to-have"だが、今さら自分ではどうにもできない。そうではなく、「気持ち」や資質とは別に、知っておくべき「考え方」「やり方」があるのだ。たとえば、上記のヒーローインタビューで、「気持ち」を全部「お考え」に置きかえたら、どんなに質問の雰囲気がかわってくるか、ためしに見直してみてほしい。

新しくチャレンジする事柄や分野はいろいろでも、そこに共通する方法論が、じつは存在する。ちょうど、様々な挑戦の分野をアプリケーション・ソフトにたとえると、どれにも共通の土台となるチャレンジのOSのようなものだ。

たとえば、「気持ち」はうつろいやすいものだが、どう支えて維持していくか。そのための大事な方法が、同じ志を持つ仲間をつくり、交流のための「場」を作ることだ。--なあんだ、そんなことか。誰でもやってらあ、とお思いだろうか。だが、方法として自覚して選ぶことと、たまたま結果としてそうなったことでは、大きく違う。

本サイトの大事な目的の一つは、「チャレンジのOS」の仕組みと道具を、ひとつひとつ取り上げて検証することだ。そうした道具立ては、多くがプロジェクト・マネジメントやプログラム・マネジメントの技術と通底する。プロジェクトとは、人々が協力して一度限りのゴールをめざすものなのだから、当然かもしれない。ともあれ、新しい決意のこの季節に、本サイトが読者にフレッシュなヒントを少しでも提供できれば、望外の喜びである。

<関連エントリ>
 →「クリスマス・メッセージ:求めよ、さらば与えられん


by Tomoichi_Sato | 2014-03-18 23:15 | 考えるヒント | Comments(1)

『ポジティブなリスク』の正体をさぐる

リスクという言葉は、今日、非常に広く使われているが、じつはかなり多義的な概念である。そのため、「リスク」について人と話すとき、同じことをしゃべっているつもりで、けっこう理解がずれていることがある。「リスク学」ないし「リスク・マネジメント学」はまだ発展途上の学問で、あらゆる分野で共通した用語定義は、まだ確立していない。

しかし実務の世界では、今やリスクの話題を避けて通れない。リスク・マネジメントをコンサルティングの仕事にしている人たちも大勢いるし、資格認定制度も出現してきた(それも複数ある)。そしてプロフェッショナルを任ずる人たちは、たいがい“自分の流儀が普遍的に正しい”と主張したがる。だから、リスクの話を聴いた人は、ふうん、そんなものか、と理解する。とうぜん、誰から最初に話を聞いたかで、同じ会社でも違うリスク概念が共存することになる。その結果、「リスクについて語ること自体がリスキー」な状態になると、以前このサイトでも書いたとおりだ。

今回は、その中でも、最近はやりの「プラスのリスク」「ポジティブ・リスク」について論じてみよう。リスクというのは、結果に対するネガティブな可能性を言う、というのが普通の理解である。では、ポジティブなリスクとは何を意味するのか? タバコの火の消し忘れで火事が起きる、というのが普通のリスクだが、タバコの火の不始末のおかげで家が立派になる、なんて可能性があるというのだろうか?

この話を理解するには、“リスクの歴史”を考えてみなければならない。時計を少し巻き戻す。今から約20年前の1995年、阪神淡路大震災が日本を襲った。恐ろしい規模の災害は、日本経済にまだ多少は残っていたバブルの余熱を、完全に消し去るほどインパクトがあった。神戸を中心に、大企業も中小企業も被害にあった。このとき注目を集めるようになったキーワードが、「危機管理」だった。今ならば、BCP(事業継続計画)とかレジリエンシーとか呼ぶだろうが、当時は危機という言葉がビビッドだったのだ。

危機管理という用語が、しだいに「リスク・マネジメント」というカタカナ言葉に置きかわっていくのは、2000年頃からだろうか。なにせ、四文字熟語=オジンくさい、外来語=カッコいい、という淘汰の法則は、われらが文明開化以来、150年間を貫く潮流である。これは当然の流れだ。

ところで'90年代の後半、海外のリスク研究の主流は、安全・環境・医療・防災などの分野であった(Health Safegy & Environmentの頭文字をとって、HSEと略すことも多い)。こうしたHSEの分野では、基本的にリスクはネガティブ・リスクのみである。たとえば、1999年の安全に関する国際規格「ISO/IEC Guide 51:1999」では、リスクとは

 「危害の発生確率と危害のひどさの組合せ」

と定義されている。

ところが、2000年ぐらいを境目に、リスク・マネジメントの世界に、金融工学の影響が大きく及ぶようになる。2000年と言えば米国ではドットコム・バブルの時代である。そして企業買収がビジネスの花形のようになっていた。

金融の世界でのリスク概念は、安全・環境・医学などの分野とはかなり違う。金融では、原則として「リスク」と「リターン」が、ワンセットの概念になっている。たとえば、株に投資した場合を考えよう。株には値上がりの可能性も、値下がりの可能性もある。もともと、完全市場では商品価格はランダム・ウォークする、というのが経済学の理論だ。そのランダム・ウォークの程度の激しさ、ばらつきの強さを、リスクと考える。だから、暴落で手ひどい目にあうのもリスクだが、値上がりでウハウハ、というのもリスクなのである。

金融工学の影響は、経営学やビジネス論の分野にも大きく及んだ。この流れの中で、「リスクにはプラスとマイナスの両面がある」という思想が広まる。もう少し正確に言うと、「リスクとは不確実性のことであって、それゆえプラスにもマイナスにもばらつく」、となる。「だからマイナス・リスク(脅威)は避けて、プラスのリスク(好機)はつかめ」というような指針が出てくる。2009年に制定された、ISO 31000:2009の「リスク・マネジメント-原則と指針」では、

 「目的に対する不確かさの影響」

がリスクの定義とされる。明らかに、プラスもマイナスも含む書き方だ。同じISOの標準規格の間でも、10年間の間に、ずいぶん違ってきたことが分かるだろう。

リスクについての二つの態度を区別するために、本サイトでは、「リスクにはプラスもマイナスもある」と考える立場を『対称型リスク』概念とよび、「リスクはマイナスのみ」と考える立場を『非対称型リスク』概念と呼ぶことにしよう(「両側リスク」と「片側リスク」と呼ぶ人もいる)。金融分野では対称型、健康・安全などHSE分野は、非対称型でものを考える傾向が強い。

さて、ここから先はわたし個人の意見であるが、生産マネジメントやプロジェクト・マネジメントでは、どちらの立場で考えるべきなのか。ISO 31000の方が「新しい」から、あるいはISO/IEC Guide 51などはもう古くて「時代遅れ」だから、対称型をとるべきと単純に考える論者もいる。だが、ちょっと待ってほしい。両者の違いは、単なる思潮の新旧だけなのだろうか。

図を見てほしい。いま、仕事に関する何らかの成果指標に注目しているとする。速さでも、生産性でも、リードタイムでもいいだろう。これは、仕事に内在する問題や外乱のために、ばらつきが生じる。横軸は成果の尺度で、縦軸はその頻度である(図1)。現実には、こんなきれいなつりがね型の正規分布にはならないものだが、ここでは分かりやすく描いている。

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リスクに対する「対称型」の立場とは、平均的な期待値を中心に、両側に対するばらつきをリスクととらえる(図2)。他方、「非対称型」の立場では、達成可能な最善値から逸脱する可能性を、リスクととらえる(図3)。つまり、この二つの立場とは、最善の状態と平均(普通)の状態、どちらを主眼と見るかの差だということが分かるはずだ。数学的な意味では、両者はほぼ等価に見えるだろう。

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たとえば、外注制作を依頼する系列会社があったとしよう。100個を作らせると、早ければ4週間で上がるが、たいていは遅れがちで平均5週間かかり、ひどいと7週くらいかかとしよう。1週間あたりの生産性で見ると、平均値=20個、最善の値=25個、最低値=14.3個である。この工程のリスクを洗い出すときに、「対称型」の立場では、プラスのリスク(5個分)と、マイナスのリスク(5.7個分)がある、と考える。「非対称型」では、平均して5個分の生産性低下リスクがある、ととらえる訳だ。もちろん、どちらの立場でも、計画立案においては「標準値+リスク」で計画するから、数字的にはかわらない。

では、どちらの立場をとっても同じなのか? いや、そうではない。マネジメントにおいては、非対称型の立場の方が、ずっと有用なのである。それは、リスクがゼロになったときのことを考えてみれば分かる。

平均的な状態を基準にとって、そこからのばらつき(変位)をリスクととらえる場合、もし幸運にもリスクがなくなったら、達成される結果は、平均値でしかない。しかし、最善の状態を主眼として、そこからの逸脱をリスクととらえる立場では、リスクゼロとは、最善の状態を意味する。リスクを抑え込めば、最善の結果を得られる。これが「非対称型リスク」の見方なのだ。

非対称型リスクの立場では、リスク要因とは、最善の結果を妨げる可能性である。それを分析し、コントロールし、とりのぞこうとする活動は、必然的に改善指向になる。次回はもっと良い結果を得よう、そういう気持ちに人を導く。他方、平均的状態を基準に考えると、次もまた、その標準に留まる可能性が高い。

ここが、純粋に理論の世界である数学と、人を動かすためのマネジメント論とのちがいなのだ。だから、上の例では、週25個を目標値に設定し、結果が未達だったら、リスクの原因を分析して、改善のためのPlan-Do-Seeサイクルを回すようにするべきである。

もっとも、これが生産ではなく、配当利回りのような金融収入的な項目なら、対称型でリスク分析してもいい。そうしたものは純粋に市場(外的条件)で決まり、自分達のコントロールや改善がおよぶものではないからだ。ただし、その場合は、リターンとセットで評価すべきである。

わたしは以前、対称型と非対称型の二つの立場の対立を止揚するために、両者に共通するリスクの定義を提案した。それは

 「目指すべき目標値ないし理想状態から逸脱する可能性があり、かつ、その影響をリアルタイムに回避・抑制できないような事象(群)を、リスクと呼ぶ

というものだ。医学・環境学系の立場では「安全性」が理想状態であり、金融工学では「確実性」(=ばらつきゼロ)を理想状態ととらえる。そして、何が理想状態(あるべき姿)なのかを、議論の出発点として明確にしてから、リスク・マネジメントを進めよう、と書いた。

リスク・マネジメントの目的は、リスク評価(アセスメント)を行って、事前に回避したり、リスクを小さくすることだけではない。それはやるべきことの半分に過ぎないのだ。事後のリスク要因分析をして、現実を理想に近づける努力が残りの半分である。リスク・マネジメントとは、わたしたちが現実を直視して、そこから少しでも学んで賢くなるために行うのだ。もちろん、ISOのような世界標準に対して、わたしの声は微力である。しかし、最善の状態を主眼として、そこからの逸脱をリスク要因として分析するほうが、仕事の改善と人の成長のためには役に立つと信ずるのである。


<関連エントリ>
 →「安全と危険の境目をはかる」(2011-04-11)
 →「リスクという言葉自体がリスキーである」(2010-10-02)


by Tomoichi_Sato | 2014-03-11 22:44 | リスク・マネジメント | Comments(0)

Pushで標準化し、Pullで差別化する

包丁で食材を切るとき、わたしは押して切るくせがある。しかし料理番組を見ても、身近な人を見ても、ふつうは包丁を引きながら切るようだ。ちなみに、自分が料理を覚えたのは、3ヶ月ほどアメリカの留学生寮に一人で住んでいたときだった。アメリカ人は、押して切る人が多い。別にそれを見て真似たつもりは全然ないのだが・・でも、日本とアメリカとでは、ちょっとした道具の使い方が正反対なことが意外だった。ノコギリや鉋などでも、日本と西洋では方向が反対である。日本は引いて切るのに、彼らは押して切る。

そのことから、「米国はPush型、日本はPull型だ」などと陳腐な比較文化論を述べるつもりはない。だが、それにしても、セールスのあり方などで日米はずいぶん違うな、と感じることはある。アメリカ人のセールスは、やはりPush〔押し)が基本である。来日した米国の大手ベンダーのシニア・マネジメントなどと話していると、「我が社の製品はこれほどの市場シェアを持っており、TOP 500企業の内、あの会社もこの会社も使って満足している。」という自信満々の話が続き、「だからお前も、買うのが当然だ」みたいな雰囲気になってくる。余計なお世話だろ、と思うが、こちらが「よく考えさせてくれ」と婉曲話法で言っても、「じゃあ、よく考えてくれ。きっと、導入すべきという結論になるはずだ。」と、こちらの心中を意に介さず、どんどん話を進めてしまう。まあ、そういうビジネス文化なのであろう。

ところで、わが同胞の技術者や営業マンたちはどうか--いや、そんな第三者目線で語るのはやめよう。自分自身はどうなのか? ちょうどその逆である。ちょっと弱気な笑顔で受け答えし、顧客の強引とも思える要求にも、あまりNOと言わない。「NOと言えない日本人」の典型かもしれぬ。ただ、多少弁解するならば、海外ビジネスの現場で行き会う同胞たちも、それほど違うようには見えない。わたし達は、よほど「お客様本位」あるいは「ご無理ごもっとも」のスタンスが骨がらみなのだろうか。まあ、その昔、日本が輸出産業花盛りで「電子立国ニッポン」などと自信満々だった時代には、もっと違っていたのかもしれない。だが、受注ビジネスが取引の主流になりつつある現在、建設業であれ、機械系インフラ輸出であれ、はたまた通信システムであれ、なんだか皆さんずいぶんPull〔受け身〕に見える。

もちろん海外ビジネスの場合、言語の壁や文化の障壁などがあって、あまり自信を持ちにくい点はある。しかし、では、ひるがえって国内ビジネスの現場ではどうか。建設、産業機械、物流、SIなど、いわゆる受注産業の人々は、やはりけっこうPull型スタンスが多いように思われれる。

受け身といっても、消極的という意味では、必ずしもない。顧客の出してくるいろいろな高度な要求を、どう技術的に実現するか、との観点で考えているエンジニアは多いはずだ。そこには無論、チャレンジもある。難しい仕様を、きちんと実装できる能力は当然、高く評価されるべきだ。ただ、技術面ではそれで良いとしても、受注価格や納期や契約条件といった、いわゆるコマーシャルな営業条件まで、相手の言いなりでずるずる土俵際まで引いてしまうようだと、ビジネス全体としてはかなりつらいことになる。

いや、技術面でも、Pull型の態度には一つ問題がある。わたしがしばしばそれを感じるのは、たとえばITエンジニアのスタンスがPull型すぎることだ。受託開発のSIer、社内の情報システム部門、いずれの場合も「ユーザからの要求仕様」をどう実現しようかと、必死に知恵を絞る。だが、逆にユーザに対し「こういう機能があるから、こう業務をかえてみたらどうですか」という提案能力をこそ、実はユーザ側も望んでいるのではないか。提案というのは、まさしくPush型の態度である。

自分の経験も、ひとつ書いておこう。エンジニアリング会社につとめているが、もう随分前、わたしがはじめてキーパーソンとして顧客向けの仕事をしたとき、それは新工場建設を前提とした情報系の構築だった。設計フェーズで客先と打合せた際、例によってNOとうまく言えなかったわたしは、新しい追加要望をひきうけて会社に戻った。上司に怒られるだろうな、とは予期していたし、事実叱られたが、叱られる理由は、工数が増えたとか納期が厳しくなった、といったことではなかった。「言われたことを何でも引き受けるな。お前には設計のスタンスというものがないのか!」といって怒られたのだ。

スタンスと言ったって、機能モジュールの構成やDB構造などは、ある意味こちらが勝手に設計したことではないか。それが崩れるからと入って、顧客にNOといえるのか。当時のわたしは、怒られた理由がよく分からなかった。

ここで再び米国のIT企業人の態度を思い起こそう。いささか居丈高だが、ともかく「あなた方ユーザはこうすべきです」という主張に満ちあふれている。それを『ベスト・プラクティス』です、などと売りつける豪腕さも持っている。だから、彼らはパッケージ・ソフトの開発に強い。また米国企業はパッケージ・ソフトの普及も早い。OSやOfficeソフトなどにパッケージを使うのは当然として、いわゆる業務系システムなどにも、かなりパッケージが売られている。パッケージ・ソフトはまさに「Push型」の文化が生み出した製品と言えよう。そして、多少業務に合わないところがあっても、パッケージに業務を合わせる形で使いこなしていく。

ところが、わたしの知る限り、日本ではERPパッケージなどでも、アドオンとカスタマイズがてんこ盛り、というのが普通の事情である。そりゃまあ、伝票の1行を入力するのに数画面を行き来しなければならないようなパッケージは、何か一工夫したくなるのも道理ではある。また、長期手形決済だとか販売完了後の値引きだとか、西洋ではあまり見かけない商慣習を実装する必要も、たしかにあっただろう。しかし、それだけでなく、各ユーザ部門の固有で独特の要求事項、例外処理などもかなり盛り込んで、膨れあがった事例も多いはずだ。そして、それ以上に多いのは、「やはりパッケージはウチの業務には合わないから」ゼロから自社開発するケースではなかったか。個別開発は、まさにPull型スタンスの極致と言うべきだろう。

誤解しないでほしい。わたしはなにも、パッケージ・ソフトが素晴らしくて自社開発がダメだなどと主張しているのではない。米国が何でも良くて、日本は何でも遅れている、などと主張したいのでもない。米国製のパッケージの低品質には、正直、何度も煮え湯を飲まされた。じっさい米国人は、バグはユーザが見つけるべきものだ、と思っている節がある(笑)。以前、JUASの統計を紹介したが、日本のソフトウェアは、見かけは格好良くなくても、とにかくバグは段違いに少ない。

ただ、これはある米国のIT企業の副社長から面と向かって言われたことだが、「ITエンジニアは基本的に自分で作るのが好き」なのである。だから、(予算が許す限り)自分で作りたい。パッケージを買ってきて箱から出すだけ、では仕事をしたという気持ちになれない、のだろう。こうして自社開発や委託開発が増えていくわけだが、当然その行く先は見えている。ユーザ要件に対して、基本的にNOは言わないのだから、システムは膨れるに決まっている。運用も修正改善もどんどん負担は増えるばかり。かくして、高額のIT予算にいきり立ったトップから、ある日ばっさりと切って捨てられることになりかねない。仕事が好きなるが故に、一生懸命努力した結果、自分の仕事の土台を失う結果をもたらすのである。

では、パッケージで、ソフトに仕事を合わせる(Push型)べきなのか、作り込みで、仕事にソフトを合わせる(Pull型)べきなのか。ここまでの書きぶりでお分かりだろうが、わたしはどちらかが正解で他方は間違いだ、という風には考えていない。使い分けなのである。だが、賢い使い分けとはどういうものか?

わたしが学んだ答えは、とても単純である。もし、ある業務が、業界内で共通な仕事、あるいは業界を超えてどこでもほぼ共通な仕事なら、パッケージを利用して標準化すべきである。その方が当然コストが安くなる。たとえば今さら誰もワープロを自社開発しないのは、文書作成がどんな組織でも殆ど共通の作業だからである。

他方、ある業務が、他社にない独自なもので、自社の差別化や競争力強化に大きく貢献しているなら、それは自社で作り込むべきである。よそにはない業務なのだから、第一、パッケージ標準機能にあるはずがない。

パッケージ(Push)で標準化し、作り込み(Pull)で差別化する。これは単純な原則で、誰でも落ちついて考えれば、同じ結論になるだろう。「内示でPushし、かんばんでPullする」トヨタ方式と、ちょっとだけ似ている。

しかし、もちろんこの原則があったとしても、社内の論議は簡単には決着しない。なぜなら、「どの仕事が差別化業務か」を見分けるためには、そもそも「自社の強みは何か」を、客観的に知らなければならないからだ。他社と違うことがすべて差別化ではない。自社の強みにつながらないような独自業務は、たんなる「変な習慣」でしかない。「強み」なのか「因習」なのか。それは、当事者にはじつはなかなか分からないものだ。客観的に見分けるられるのは、第三者的なコンサルタントか、あるいは、いろいろな範囲の業務プロセスを見てきたITエンジニアであるはずだ。

だから、提案能力のある、Push型のITエンジニアがもっと必要だとわたしは考えるのである。かつて上司が言った「設計のスタンス」も、その事を指していたのだと、今になるとようやく分かる。もっと若いうちに、理解しておけばよかった。というわけで、せめてこの拙文を読む人には、分かってほしいのだ。そして、ユーザがへんてこな要求をしたら、“それは設計思想に合いません”と、NOと言えるだけの『Push力』を持ってほしいと願うのである。


<関連エントリ>
 →「Pushで計画し、Pullで調整する
 →「ITエンジニアの『生産性』と、データ・サイエンスの微妙な関係

by Tomoichi_Sato | 2014-03-04 22:17 | ビジネス | Comments(0)