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プロジェクト・マネジメントの教育について

先日、わたし自身が主査を務める研究部会で『プロジェクト・マネジメントの教育について』という講演をさせていただいた。過去何年間かにわたり、 大学・大学院・自社・他企業などで試行してきたPM教育カリキュラムの内容と課題について、ディスカッションしたいと考えたからだ。当日は普段の倍以上の方が来場され、この問題への関心の高さがあらためてうかがえた。遠くは岩手から参加された方もいたが、都合の合わなかった読者もおられると思い、ここにその一部をご紹介しよう。ちなみに、会の名称は「プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会」といい、スケジューリング学会の下部組織だが、とくに学会員でなくても自由に参加できるオープンな組織である。

当日の発表内容は、前半が「大学におけるPM教育の実践例から」ということで、主にカリキュラムの内容の話、後半が「PM教育のあるべき仕組みを考える」で、わたしの今の考えを述べたものである。前半は、授業でわたしが学生に問いかける質問集をつかった、インタラクティブな説明なので、ここには再現しにくい。ただ、カリキュラム構成自体に興味のある方もおられると思うので、実際に大学で行っている講義日程だけご紹介しておく。今年度、前期は東大・柏キャンパスの大学院で、後期は法政のデザイン工学部で、それぞれ週1回、「プロジェクト・マネジメント」の科目を教えており、どちらも全部で約15週間である。説明のレベルに多少差はあるが、内容やカバーする範囲に質的な違いがあるわけではない。下記は法政大学での例である。

第1回: Projectとは何か、Managementとは何か
第2回: ゴール・目標・目的
第3回: Scope
第4回: WBS
第5回: 組織と要員
第6回: スケジューリング
第7回: コスト
第8回: 進捗とEVMS / ミニテスト
第9回: 時間管理
第10回:品質と問題解決 / グループ課題出題
第11回:契約と交渉
第12回:プロジェクト評価
第13回:コミュニケーション
第14回:リスク
第15回:グループ課題 最終発表会

第1回と2回は全体のイントロ、第3回~7回がプロジェクト計画立案、第8回~14回がプロジェクト遂行と評価についての講義である。試験は行わない。プロジェクト・マネジメントは知識だけの能力ではないので、ペーパーテストにあまり意味はない。かわりに最後の1ヶ月程度をかけて、班編制でグループ課題に取り組んでもらい、その発表をもって試験にかえる。つまり、小さなプロジェクトを実体験してもらうわけである。採点は、原則として出席と、最終発表の評価(これも学生に他の班を採点させて平均する)を用いる。

なお、途中に「ミニテスト」があるが、これは講義内容をどれくらい受講者が理解しているかをチェックするために行う。わたし自身の教え方のよしあしをチェックするのが目的である。テストというと、学生はすぐ自分達の評価が目的だと思い込むが、本来テストというのは教える側のためのものだ、というのがわたしの信念である(→「品質工学から見た日本の教育の疑問点」2013/02/18 参照のこと)。

さて、後半の話題の出発点は、「そもそも教育とはどういうことか」という“そもそも論”からはじめた。

読者諸賢にもちょっと考えてみていただきたい。「自分は成長した」と実感したのは、どんなときだったろうか?

たぶん、何かを『教わった』ときではあるまい。また、何かの試験に合格したり、どこかに入学したときでもない。自分が成長したと実感できたのは、「それまでやったことのない未経験のことを、自分でやり遂げたとき」ではなかったろうか。

教育とは、人の成長を支援するプログラムのマネジメントである--これが、わたしの理解だ。教育とは、「教え」たり「育て」たりすることではない。相手が学び、育つことをサポートする仕事、つまり他動詞的な行為ではなく自動詞を助ける行為が教育なのではないか。そんな風に、しだいに思うようになってきた。

ここで、「プログラムのマネジメント」という語は、PM理論でいう、「プロジェクトのマネジメント」の上位概念としてつかっている。プログラムは、単発的なプロジェクトを複数、配下に持っていて、それらを協調して動かす事で、ある大きな目的を達成する。そういう意味である。つまり、教育とはプログラム・マネジメントの一種なのだ--そう理解すると、いろいろなことが明確に見えて来るではないか。

プログラム・マネジメントの概念は、日本ではまだあまり普及していないが、大まかに言うと以下のようなステップをとる:

Step 1: ミッション・プロファイリング(「あるべき姿」を考える)
Step 2: プログラム・アーキテクチャ設計(「あるがままの姿」=現状からの変革の道筋となるプロジェクト群を決める)
Step 3: プログラム実行のマネジメント(目標と道筋に沿って、現実に対処しながら進む)
Step 4: 価値実現のチェンジ・マネジメント(到達点で得た能力を、具体的価値に実現する)

ちなみに上記の手順は、日本のP2Mと英国MSPの考え方をつき交ぜて簡略化したものだ。さて、この4つのStepを、PM教育(PM育成の支援プログラム)に適用すると、こんな展開になるだろう。

Step 1. 「持つべきPM能力」を考える
Step 2. どういう段階をたどって育つかを想定する
Step 3. 支援の『仕組み』を作って(システム化)、それを回していく
Step 4. 成長によって得たPM能力を仕事に生かす

組織内でプロジェクト・マネジメントの教育を確立するためには、この4ステップが必須である。第1ステップ(持つべきPM能力)の中身については、組織によってそれぞれ違いがあろうから、自分達の仕事に即して考える必要がある。上で紹介した大学教育のカリキュラムは、2番目のステップの一例で、いくつかの企業で行った入門講座(2日程度のセミナー)を元に作ったものだ。第3のステップ(システム化)は、教育を単発のイベントに終わらせないために重要である。そして第4のステップ、すなわち成長によって獲得したPM能力を、実際の仕事に生かすチャレンジは、それがなかったら何のために教育があるのか分からない。

とくに、Step 3で教育を支援の仕組み(システム)としてとらえるとき、忘れてはならない大事な要素がいくつかある。以前も書いたことだが、人が何かを学ぶ際には

(A) 先生、ないし手本になる人
(B) 基本的な原理原則
(C) 練習の繰り返し

の三つが必要だ(→「それは知識ですか、スキルですか、資質ですか?」2013/06/02 参照)。

したがって、学びを支援するためには、まず、(A)良い教師、(B)原理に基づくきちんとしたテキスト、(C)実戦と研鑽の場、がいるのは自明だろう。そしてたしかに学校という教育機関は、教師・テキスト・教室を必ず用意している。

しかし、その三つに加えて、とても大事なものがもう一つある。それは、

(D)「学びの途中で、まだ成果の出ない者を、待って支える報奨系

である。成長には、時間がかかる。だが、学びの途上にある人は、まだ生かすべき成果を持っていない。つまりコストだけがかかって、ベネフィットが何もない期間が長く存在する訳だ。そこで、この人自身のモチベーションを維持し、また彼/彼女をとりまく家族や職場や上司など周囲の人々の負担を軽くするような報奨系が、教育のシステムにおいては死活的に重要なのだと思う。

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余計なことだが、今日の学校教育制度では、この報奨系がひどくやせ細っているように見える。良い学校に進んで、就活にうまく勝たなければ、一生『負け組』のままだ、といったような、負の脅迫系ばかりがはびこって、“人として成長すればこんなに良いことがある”というポジティブなメッセージが世の中に足りない。育英のための奨学金制度は、社会における報奨系の典型例だが、いつのまにか有利子返済すべき“学生ローン”に大半が変質してしまった。待ってやっている間にも利息が付くからな、という訳である。

人の成長には、“成長してみないと、それがどんな良いことなのか、よく分からない”という性質がある(プロジェクト・マネジメントの能力など、その典型であろう)。また成長とは、自分で少し成長を実感できると、もっと学んでみたいと望む--そういう、ポジティブ・フィードバック型のプロセスになっている。だからこそ、「待って支える」仕組みがとても大事なのである。

もし自分の周囲に良い報奨系が無ければ、きっと、「自分が成長できたあかつきには、さっさとここから抜けだそう」と考える若者ばかりになるだろう。そうなったら、教育システム構築のコストなど、すべて無駄になる。わたしたちの社会が、そんな状態にならないために、教育には「待つこと」と「支えること」が必須なのだということを、わたしたちは忘れるべきではない。


<関連エントリ>
 →「品質工学から見た日本の教育の疑問点
 →「それは知識ですか、スキルですか、資質ですか?
by Tomoichi_Sato | 2014-01-27 23:50 | プロジェクト・マネジメント | Comments(0)

書評:「137 ~ 物理学者パウリの錬金術・数秘術・ユング心理学をめぐる生涯」 アーサー・I・ミラー

137 - 物理学者パウリの錬金術・数秘術・ユング心理学をめぐる生涯 」 (Amazon.com)


20世紀前半の理論物理学をつくった知的巨人の一人、ヴォルフガング・パウリは57歳のとき、チューリヒ工科大学の講義中に突如病気で倒れる。すい臓がんだった。赤十字病院に入院した彼を見舞った友人に、パウリはたずねる。病室の番号に気づいたか、と。
「137号室だ!」パウリはうめくように言った。「わたしがここから生きて外に出ることは絶対にない。」(p.424)

137という数字は、「微細構造定数」(現代物理学に現れる主要な定数のひとつ)の逆数である。もし神なる主からどんな質問をしてもいいと言われたら、まっさきに聞いてみたいのは「なぜ 1/137 なのか?」だとパウリは述べたことがある。微細構造定数は、電子の電荷、真空中の光速、プランク定数の三つから導かれる無次元数で、パウリの師マックス・ボルンいわく「物質一般の構造にもっとも重要な影響を及ぼしている」定数だ。それがなぜ、素数137の逆数なのか。そこには何か必然性があるのではないか。彼はおりにふれてこの問題に立ち返ったが、死ぬまで解明する事はできなかった。

本書は副題『物理学者パウリの錬金術・数秘術・ユング心理学をめぐる生涯』にもあるとおり、理論物理学者パウリの一風変わった評伝である。著者アーサー・I・ミラーはロンドン・ユニバーシティ・カレッジの教授で科学史家だが、多くの公開資料や論文のみならず私信などまで広範囲に調査し、この風変わりで魅力的な科学者の肖像を、陰影と奥行きのある立体像として描くことに成功している。

それにしてもW・パウリほど独特な個性と不思議な魅力をもつ物理学者は少ない。彼は“物理学の良心”とよばれることもあったが、未熟な理論に対する容赦なき批判の態度も有名だった。。他人の理論発表を聞くとたちどころにその弱点を見いだし、しかも他の学者のように紳士然とおとなしく聞いていない。しだいに体を左右に揺らし首を強く振って、「完全な間違いだ」あるいは「これじゃ間違いにさえなっていない!」と言い放つのである。若き日のファインマンも、自分の発表するセミナーにパウリとアインシュタインが臨席した時は、表紙をめくる手が震えたと書いている(「ご冗談でしょう、ファインマンさん」)。実際、その時発表した理論は、パウリの予言通り、完成することはなかった。

わたしがパウリという人に強い印象をうけたのは、G・ガモフとM・デルブリックがボーア研究所の余興のために書いた劇「ファウスト」においてだった(「現代の物理学―量子論物語」所収)。この劇は、天の神様が御大ニールス・ボーア、悩める主人公ファウストに晦渋な統計物理学者エーレンフェスト、そしてメフィスト役がパウリ、という絶妙の配役だった。パウリは原子崩壊の矛盾に悩むエーレンフェストに対し、質量も電荷も持たぬ中性微子“グレートヒェン”をつかわして理論を修正するよう誘惑するのである。

中性微子(ニュートリノ)の発見は、排他原理やCPT対称定理とならんで、パウリの主要な業績の一つだった。しかし同時代の物理学会で最も有名だったのは「パウリ効果」だ。物理学者はふつう、理論家と実験家に分かれるが、理論家がへたに実験器具に手を出すと、壊してしまうのがつねだった。ところでパウリはあまりに優秀な理論家だったため、彼が実験室に一歩入っただけで何か機械が壊れたという。それどころか、ある時ゲッティンゲン大学の高価な実験設備が神秘的な壊れ方をしてしまったことがあるが、担当教授がパウリに連絡したところ、ちょうど彼の列車がゲッティンゲン駅に停車中だったという。

この「パウリ効果」を彼自身、なかば自慢にしていたが、冒頭の病床の発言にも見られるとおり、彼は単純な合理主義者ではなかった。パウリはキリスト教徒に改宗したユダヤ人の家庭に生まれる。エルンスト・マッハを代父としカトリックの洗礼を受けて育つが、黒髪黒目の外見は、当時のドイツ文化からみると、いかにもユダヤ人風だった。優秀な学者として世に出たものの、若い頃はかなり放埓な生活を送る。そして不幸な最初の結婚の果てに、離婚する。深刻な心理的危機に陥った彼が出会ったのが、チューリッヒの精神科医C・G・ユングであった。

本書はこのユングの人となりについても、かなり詳しく書いている。ユングもまた20世紀前半の知的巨人の一人だったが、西洋的な科学の枠組みを乗り越えて、心と魂の問題を探求した人だ。したがって科学(唯物論的科学主義)の側からは、強い批判をつねに浴びてきた。伝統的キリスト教の枠組みもある意味踏み越えた、異端の思想家である。しかし彼は職業的学者ではなく、徹頭徹尾、臨床家であり、そこからつねに人間心理への洞察を汲み上げていた。パウリの治療、その後の交友関係も、そうした文脈の一つでとらえねばならない。

わたしが本書で一番驚いたのは、パウリの症例をユングが「心理学と錬金術」に書いていたことだ。浩瀚な「心理学と錬金術」はユングの主著の一つで、それまで古い迷信として忘れられてきた錬金術に,まったく新しい方角から光を当て、人間の心の変容との平行関係を考察した著作だ。その中に、ある男性の心の治癒と夢の変化が詳しく記録され、最後に「黄金の宇宙時計」という、元型をあらわす象徴的な夢が現れる(これは本書にも詳しく紹介されている)。ユングはこの症例を『個性化』(individualization)、すなわち人間の心の治癒と心理的再統合の典型例とするのだが、じつはこの男性とはパウリだったのだ。

パウリが探求していたのは、物理だけではない。彼は自然哲学を、あるいはこの世界の成り立ちの根本原因を追い求めていたに違いない。物理学は世界の成り立ち(How)については記述できるが、ただ一度の自分の人生が世界の中でどのような意味をもつのか(Why)は全く答えてくれない。パウリにとっては、どちらも真剣な問題であり、それを物理的現象と心理的現象の相補性に求めた。それは彼自身の生い立ちから来る、矛盾した性格の二面性を解決しようという試みだったのだろう。本書はそのあたりの事情をきわめて魅力たっぷりに描いている。阪本芳久氏の翻訳も労作である。

西洋の科学は、「宇宙の構造の背後には目に見えない知的秩序があるはずだ」「宇宙は原因と結果の時間的因果律のみで動かされているはずだ」という、ある意味、一風変わった信念の元に発展してきた。だが、それでは偶然性に突き動かされる人間の感情面は説明できない。それをユングは「出来事と出来事のつながりはタテ〔時間〕方向だけでなく、横方向にも延びている -- ある瞬間に世界中で生じるあらゆる出来事は、巨大なネットワークのようなもののなかで互いにつながっている」(p.298)と解釈しようとした。有名な「共時性」の概念である。そしてパウリ効果は、まさに共時性の最たるものではないか! こうして、パウリの探求はユングの研究と共振していくのである。

パウリは戦時中アメリカに身を寄せるが、マンハッタン計画には参加しなかった。「彼が見抜いていたように、アメリカでは科学は軍の一部門同然になりつつあった」(p.280)。そして戦後、またスイスに帰る。晩年はハイゼンベルクと共同で「世界方程式」を探るが、最後の瞬間に決別し、そして病に倒れるのである。57歳であった。

最後に本書から、パウリの死後の物語を引用しておこう。天国に旅たった彼は、ようやく神なる主とまみえることができ、「なぜ 1/137なのですか?」とたずねた。神はうなずいて、「説明してあげよう」といい、黒板に複雑な数式を書き始める。大喜びでそれを目で追い始めるパウリだが、やがてしだいに頭を左右に激しく振り始めて・・・


by Tomoichi_Sato | 2014-01-23 23:33 | 書評 | Comments(0)

ハイボールと、本質的安全設計の教え

本質的安全設計』という言葉を聞いたことがあるだろうか。世間ではよく安全とか安心とかいったことを話題にするが、安全の意味をつきつめて考えている人は、必ずしも多くない。本質的な安全設計とは、われわれがモノや仕組み(システム)を作る上で、欠くことのできない概念である。今日はこれについて少し述べてみたい。

機械の安全設計については、そのものずばり「機械類の安全性―基本概念,設計のための一般原則」という名前の国際規格 ISO12100 が存在する。このISO規格によれば、機械類の安全は、『設計者対応』と『操作者対応』に分けられる。つまり、作る側による配慮と、使う側(消費者・操作者)による注意の、両方がいるというわけだ。ここまではいいだろう。

では、肝心の作る側(設計者)の対応は、どのように行うべきか。ISO12100は、
(1)本質的安全設計によるリスクの低減
(2)安全防護によるリスクの低減
(3)使用上の情報によるリスクの低減
という順番で行うべきだ、と述べる。

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三番目の、「使用上の情報によるリスクの低減」の意味は、分かると思う。マニュアルにきちんと書きなさい、いろいろなチャネルや手段で使用者に注意をうながしなさい、という訳だ。おかげで最近はちょっとした道具を買うと、マニュアルの前半分くらいは「使用上の注意!」ばかりがずっと並ぶことになる。だが、まあこれが必要なのは明らかである。

(2)の安全防護も、まあ分かりやすい。危ないところには柵や手すりをつけ、高温になりやすいところは断熱材で防護する、といったガードをおく。あるいは、自動車ならエアバッグのような保護装置をつける工夫である。これにより、緊急事態発生時に、使用者に無用な危険が及ぶのを防ぐのである。

ところが、最初の(1)本質的安全設計、という言葉が分かりにくい。本質安全とは何だ? 保護装置やガードをつける設計とどこが違うのか?

(財)機械振興協会の技術研究所のホームページでは、本質的安全設計方策には四つの柱が書かれている。「危険除去設計」「フールプルーフ」「フェールセーフ」「冗長設計」の四つである。これを、わたしなりに敷衍して説明すると、次のようになる。

(a) 危険除去設計
根本的に危険をのぞく設計である。
 例:「鋭利な端部、角、突起物をさける」「毒性物質を使わない」

(b) フールプルーフ
人間はミスを犯すものだと考え、使用者がまちがった使い方ができないようにする設計である。工場などではよく“ポカよけ”などとも呼ばれる。
 例:「正しい向きにしか入らない電池 ボックス」「ドアを閉めなければ加熱できない電子レンジ」

(c) フェールセーフ
使用者がまちがった使い方をしたり、故障がおきても危険を避けることができる設計である
 例:「列車の空気ブレーキは圧力が漏れると停止する」「電気ポットのコードに誤って触れても簡単に外れる」

(d) 冗長設計
最低限必要な量より多めに装置を用意しておき、1つの装置が故障しても機能が失われない設計である。
 例:「WEBサーバを2台用意し、片方のサーバが故障しても他方のサーバで対応する」

つまり、安全防護(ガード)や付加的保護装置などが必要ないように設計することを、本質的安全設計と呼ぶのである。元々、安全にしか働かないような仕組み。たしかに、そのように設計できれば一番良いし、余分な付加保護をつける事に比べれば、コストセーブにもつながろう。いや、コストについては状況により一概には言えないかもしれないが、だからこそISOでは最初のステップで本質的安全設計を優先的に行え、と規定しているのだ。結局ちょっとした目先のコストを惜しんで、事故につながったのでは元も子もないからである。

ところで。上のような説明を聞いても、まだ“本質的に安全な設計”とは何か、誤解するケースがある。たとえば、「地震などで転倒したら、自動的に消火する石油ストーブ」という製品は、本質的安全設計に従っていると言えるだろうか?

耐震自動消火装置のある石油ストーブは、このごろは珍しくない。ところで昨年だったと思うが、ある輸入品の廉価な石油ストーブが、転倒しても消火装置がうまく働かないと分かり、回収騒ぎになったことがある。ちなみに製造元は韓国のメーカーだったが、昨今ネットには韓国嫌いの人が多いため、ネットではもっと「炎上」する騒動になった(さすがストーブである・・というのは冗談だが)。

この製品は、自動消火装置はついていた。だが、ちゃんと機能しなかった。倒れたら、ちっとも安全ではない。つまり、これは「付加的防護装置による対策」であって、「本質的安全設計」にはなっていないのだ。防護装置だって、壊れることがある。防護装置が壊れたら危険状態になる、というのは本質安全とは言えないのである。


じつは、わたしがこのような本質的安全設計の考え方を知ったのは、はずかしながら比較的最近のことである。教えてくれたのはわたしの元・上司の上司だった新谷正法氏だった。わたしの勤務先・日揮株式会社では、社内の大きな会議やミーティングでは、最初に5分間だけ使って、健康・安全・環境に関するトピックを紹介し、参加者みなの意識を高めるという習慣がある。これを、健康(Health)・安全(Safety)・環境(Environment)の頭文字をとって、HSEモーメントと呼ぶ。欧米の企業などでも、HSEモーメントを実施して、社内の意識を高める運動をしているところは多い。

そして、数年前のある時、社内の幹部クラスが集まる会議で、新谷氏(当時は副社長)が「ハイボールと本質的安全設計について」という話をされたのである。ハイボールは、ご承知のとおりウィスキーを炭酸水で割った飲み物だ。ところが、英語の辞書を引くと、ソーダわりのお酒という意味以外に、「(列車に対する)全速力で進めの信号」、さらに転じて「急行列車」の意味がある、と書いてあるという。

「ハイボール」という飲み物の語源は、(諸説あるが)鉄道に於けるボール信号機に由来する、と新谷氏は紹介された。現代では鉄道の信号機はすべて電気式だが、かつて英国で初期の鉄道ではボール信号機(BALL SIGNAL)が使われていた。これは駅構内に設置され、駅員がボールを上げた時(ハイボール)構内は安全なので侵入して良いという合図となり、これを見て列車が入線した。

さて、昔ののんびりした時代のこと。乗客は駅の待合室でウイスキーをちびちびやりながら列車を待っている。ところが、ボールが上ってハイボールになると、列車が入ってくるのでホームに急がなければならない。残ったウイスキーを一気にあけるのは身体に良くないので、そばにあったソーダ水で割ってグーッと飲んでホームへ急いだ・・。これが、ウイスキーのソーダ割りがハイボールと呼ばれるようになった由来なのだそうである。

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さて、このボール信号機をよく見てほしい。紐を引いてボールを高く上げた状態(ハイボール状態)を安全確認に対応させている。もし何等かの不具合(紐が切れたり、駅員に問題が生じたり)があれば、ボールは落下し安全信号は出ない。つまり、故障は必ず安全側故障となる。

したがって、これは単純であるが本質的安全設計の良い例と言える、というのが新谷氏の説明であった。安全装置には、安全確認型と危険検出型があるが、両者を比べると安全確認型が望ましい。また、安全信号はエネルギーの高い(維持の必要な)状態に対応していること。これがポイントである。われわれがプラントを設計する際にも、必ずフェイルセーフのモードを考えて設計すべし。それがひいては事故の減少につながる--そういう思想が、この話に表されている。

さて、この話を披露された故・新谷正法氏は、今から1年前、2013年1月に、アルジェリアのイナメナス建設現場出張中に襲撃事件にあい、不幸にも、他の先輩同僚諸兄とともに命を落とされた。新谷氏は仕事に厳しい方で、わたしも何度怒られたか分からないが、しかし最終的には部下には優しく、個人的にもずいぶんとお世話になった。頭脳明晰で数字に明るく、責任感も強く、どんな困難な仕事、危険な現場でも率先して乗り込み、人を采配される優れたプロジェクト・マネージャーだった。

アルジェリア襲撃事件で新谷氏の安否確認だけが遅れたときも、わたしは“新谷さんのことだから、なんとかしぶとく生還されるのではないか”と祈っていた。最後にたった一人だけ、政府特別機で運ばれ沈黙の帰還をされたとき、「主人は責任感で、自分が一番最後に帰ってきたのだと思います。」と、夫人は言われた。

新谷氏をはじめ、亡くなられた他の先輩同僚諸兄もみな、中東北アフリカのイスラム諸国で長らく働き、その地域の発展に尽くして来られたのに、なぜあのように理不尽な暴力を受け命を失わなければならなかったのか。思い出すたびに、胸の中で怒りとやり切れなさが渦巻く。われわれ日揮では先週、一周忌に職場で黙祷を捧げ、社旗を半旗に掲げて追悼の意を表した。

新谷氏は安全についても人一倍意識の高い方で、上のボール信号機の図も説明文も、氏の発表資料から勝手ながら引用させていただいた。この稿で、微力ながら故人の遺徳をたたえるとともに、亡くなられた方々のご冥福をお祈りする次第である。


by Tomoichi_Sato | 2014-01-19 18:36 | 考えるヒント | Comments(0)

組織におけるルールはいかなる機能を持っているのか

今からちょうど800年前の1214年のこと。英国王Johnはフランス南西部から海軍船に乗ってブリテン島に向かっていた。当時、英国は大陸本土のフランス側にも領地を保有しており、彼はそれを拡大する野心を抱いて大陸に兵を進めたのだが、あいにくフランス王(当時は領地は小さかった)の反撃に屈し、結局撤退を余儀無くされたのだ。ようやく帰り着いた彼を待っていたのは、貴族諸侯やロンドン市民からの批判の嵐だった。すでに大陸の領地はほとんど失われていた。残ったのは不名誉と、傾いた財政である。税金を課そうにも、彼の重税や放埓は、すでに皆が辟易していたのだ。

結局彼は翌年、臣下である貴族諸侯と、ある取り決めをかわし、文書化する。いわく、

* 王の一存では戦争資金のための税金を集めることができません
* 国王は議会を召集しなければなりません
* イングランドの国民は法と裁判によらなければ、生命や財産の自由をおかされません、等々。

これが有名な『マグナ・カルタ』、大憲章である。マグナ・カルタはその後、英国憲法の基礎となる。他方、John王の方は、暗君の代表例のように言われ、彼以降800年間、誰もJohn 2世を名乗った英国王はいなかった。

それにしても、John王はなぜ臣下に詰め寄られたのか? 時代は中世、そして彼は王様である。王は国家の最高権力者。ならば何をしても勝手ではないのか。

だが、彼の臣下たちはそう考えなかったのだ。王と交渉して、その要求をのませることに成功する。それも、口約束ではなく文字に書かせた。あとで「言った・言わない」の水掛け論にならないようにである。先月、全能の審判主を相手にネゴシエーションをした、ユダヤ民族の始祖アブラハムの事を書いたが(「クリスマス・メッセージ:折れない心をもつために」参照)、13世紀初頭の英国臣民たちは、王様を相手に交渉したのだった。しかもこちらは歴(れっき)とした史実である。

John王が生まれた頃、日本では平清盛が最高権力者だったが、誰も彼を相手にネゴをかけたり、法で縛ろうとした人間はいなかったろう。英国人ははるかに先進的で、民主主義的だったのだろうか? そう説明しても良いが、もう少し別の見方もありうると、わたしは考える。

マグナ・カルタは、王の名前で発行された取り決めの文書であり、つまりである。他の法よりも上位の規定なのでCharter(憲章)とか憲法とよばれるが、つまり国という組織の中のルールである。

それでは、ルールとはなんだろうか?

たとえば、(話は急に卑近になるが)品目マスタとか従業員マスタなどでは、ふつうコード体系と発番ルールが定められている。この発番ルールというのは、はたしてルールなのか?

もちろんである。ルールとは、人々が守らなければならない規定であり、かつ、違反した場合はなんらかの罰が与えられるものだ。つまり強制力のある規定である。国の法律は、明確に罰則規定がある。マスタの発番ルールの方は、ユーザがそれを守らないと、データ登録ができない、あるいは、あちこちのプログラムがエラーを起こすという罰(?)が与えられる。

マグナ・カルタは明文化された法だが、ルールは必ずしも明文化されているとは限らない。たとえばルールは、「習慣」「伝統」のかたちで存在する場合もある。それでも、破った者は仲間から白眼視されるとか、村八分にあうとかいった罰を受ける。また、逆に組織におけるルールには、報奨の仕組みが付随することも多い。それを守ると名誉(自尊感情)が与えられ、あるいは金銭的に報われる場合もある。このようにして、アメとムチで人に強制力を与えるのである。それは平民に対しても、権力者に対しても同様である。

ならば、権力ある人間に対するルールは、どのような効果を持つのか?

答えははっきりしている。権力ある人間が、その権力を自分の好き放題に、恣意的に運用することを防ぐのである。マグナカルタが規定したとおりだ。人間の組織は、ピラミッド型の階層構造をとる場合がほとんどだ。その中での地位の高さと、権限の大きさは比例する。ところが、この権限をあまり勝手に運用されると、組織とその構成員がこまるケースが出てくる。個人の好き嫌いだけで、けむたい奴を追放したり、財産を道楽につぎこまれたりしたら、組織の存続が危うい。そこで、これをルールで縛るのである。つまり、ルールとは人間を権力の横暴から守る仕組みでもあるのだ。

ビジネスで典型的に問題になるのは、むろん人の不公正な処遇である。だが、もう少し人目をひきにくい分野でも、ルールの欠如は、よく問題になる。たとえば製品開発プロジェクトである。新しい技術やアイデアにのめりこんで、労力をつぎ込んでみたが、なかなか実らない。そうしたとき、続けるのか止めるのかの基準ルールを持っていない企業は、案外多い。ルールがないため、決定権を持っているのが誰かによって、結果として製品開発のパフォーマンスに長期的に大きな差が出る。適切なルールが決まっていれば、誰が責任者のポジションにいても、それなりのレベルが保たれる。

言いかえれば、ルールは(権力を持つ)人の恣意性をしばり、その自由度を下げることで、組織の再現性を高める(誰がやっても似た結果になる)ことを目指している訳である。すなわち、ルールには予見可能性を高める効果があるのである。王の行動の予見性を高めること、組織の動向や行く末を予測しやすくすること--これこそが、John王に要求をのませた臣下たちの望んだことではなかったか。

最近の米国で、企業ガバナンスがうるさく問われるのも、このためであろう。つまり、企業に対して融資する銀行や、株式市場における投資家たちが、その企業の行動や業績が予測可能な状態に置いておきたいからこそ、ルールをうるさく求めるのである。つぎ込んだ金を、経営者が勝手に采配したり蕩尽したりしないよう、縛りたいのだ。アメリカの経営論は「リーダーシップ論」が大好きで、英明な君主が国を治めるように企業を統治することを望んでいるのに、かたやその君主の手をガバナンスで縛りたいという、一見矛盾した要求を持っているのは、このためだ。

もちろん、ルールには良い面ばかりあるわけではない。それは意思決定のプロセスを複雑化し、手続きが面倒になり、結果として組織の変化のスピードを遅くするという働きも持つ。とっぴな行動が抑えられると、独創的な人材は生きにくくなるだろう。これが行きすぎると、減点主義ばかりがはびこる、いわゆる『大企業病』にいきつく。暗愚な暴君による権力の乱用も怖いが、その対極にある、ルールの牢獄も恐ろしい。どちらも結果として、組織の活力をなくすからである。

この問題を避けるためには、どうしたらよいか。ある人々は、「ルールはある程度ゆるやかに決めておいて、『弾力的運用』でまわしていけばいい」と主張する。運用や解釈変更でカバー、という訳である。だが、このやり方は、予見可能性を高める、という本来のねらいからはずれてしまう。

もう一つの方法は、ルール自体に、ルールを見直す基準をビルトインしておくことである。組織が本来そのルールを制定したときの意図や目標に照らし合わせて、順当に機能しているかを見直し、まずければ訂正する手順を決めるのだ。そのためには、決定を下すごとに査証や情報を残し、組織のパフォーマンスの視点から、それをバックチェック可能にしておく必要がある。こちらの方が手間がかかるが、予見可能性の点でも、また目的合理性の点からも、すぐれたやり方に思う。

組織内で、どこまでがルール化され整備されているかは、その組織のマネジメント・システムの成熟度を示していると言ってもいい。それが明確で、漏れや重複がなく、しかもある程度は柔軟であるようになっていること。これが、制度設計の要所であるはずである。


<関連エントリ>
→「クリスマス・メッセージ:折れない心をもつために
by Tomoichi_Sato | 2014-01-14 23:43 | リスク・マネジメント | Comments(0)

Book review: Handbook of Emergency Response (edited by A. B. Badiru and L. Racz)

From this year I would start writing English contents in this site, from time to time, to those readers who are interested in the planning and management technologies.


My first article is a review of an interesting book:

Handbook of Emergency Response: A Human Factors and Systems Engineering Approach"
Edited by A. B. Badiru and L. Racz, CRC Press, 08/2013. (ISBN=13:978-1-4665-1457-7).
Handbook of Emergency Response: A Human Factors and Systems Engineering Approach (Industrial Innovation Series)

I happen to know this book by an e-mail from Mr. Stephen A. Devaux, the author of Chapter 21. Mr. Devaux is a well-known project management consultant/researcher and has been creating various innovative ideas. But, why emergency response? The emergency rescue for disasters is an important mission, of course. However, it may not be relevant to project planning or scheduling. No one can plan or schedule disasters beforehand. It seems just a matter of quick response by police, firefighters or military, and should be covered by their routine work -- that was my first impression as an ordinary citizen.

I have learned from this book that my understanding was not correct, or, at least, insufficient. Disasters have wide varieties in time and special spans. Each emergency situation is different from others. It requires a good, precise response plan in quite a short timeframe of an early phase. Adequate and sufficient resources/tools/technologies need to be mobilized. In fact, emergency response is a project of very compressed form. And, true costs of this type of project are not money -- human lives. Therefore, Chapter 21 by Mr. Devaux is titled “Time is a Murderer – the cost of critical path drag in emergency response”.

“Critical path drag” and “drag cost” are metrics proposed by Mr. Devaux in recent years. A critical path is the longest path connecting from the start node to the end node of a project network diagram. It governs the overall project duration. The critical path drag indicates how many days each activity contributes to its entire project length, with taking the parallel activities into consideration.

Suppose an activity in the critical path has 10 days duration. If this activity can be removed, overall project duration normally becomes 10 days shorter. However, if parallel activities exists with the critical path, it does not always happen. If the parallel path has total float of 3 days, it means removal of the critical activity of 10 days turns the parallel activity chain into a new critical path, and thus gives us only 3 day reduction instead of 10. When we wish to shorten project duration, value of the critical path drag is a good guidance for us to judge which activity to tackle -- the ones with larger drags.

Mr. Devaux combined this drag metrics to the cost. It is the drag cost. It is calculated by the critical path drag multiplied by cost of project delay per each day. For instance, if an activity's drag is 3 days and project is constrained with delay penalty at $1,000 per day, then its drag cost would be $3,000.

Cases for emergency response are, however, a little more complicated. There is no simple 'delay penalty'. Instead, we have to consider incremental increase in damage to people or property for every additional hour. He introduces "Damage Control Time Chart" that can illustrate profile of damage along time (p.511). Using this chart together with activity network diagram, Mr. Devaux explains how to obtain drag cost for each activity. Using this technique, he demonstrates in a case study showing a proper planning could reduce rescue time and save 237 lives out of 909 mortalities in 16 hour crisis.

As we see here, logical and quantitative approaches have great values in the emergency response practices. This book is a comprehensive collection of methods and technologies with such approaches. Chapter 5 explains optimization in evacuation route planning wit OR techniques. Chapter 7 deals with optimization of helicopter mission. Chapter 17 (written by the editor themselves) describes the coordinated project systems approach to emergency response. This book also covers wide aspects of human factors that play very important roles in the emergency situations.

In Japan we experienced a big earthquake and consecutive tsunami, and even nuclear plant failure on March 11, 2011. We saw too many tragedies in the area, but some part of them could have been prevented or reduced if quick and proper plans/actions taken in the earliest timing. There were lessons from another big earthquake in Western part of Japan back in 1995, telling us that good coordination among public services is vital in the emergency response. Unfortunately, it seems that lesson has not yet been fully implemented in our country. What we lack here is a structured, systematic approach in governmental planning and operation. Yes, it is the operations research (OR) itself.

I recommend this book to those readers who are interested in the emergency response. This is not a handy guidebook but a compilation of papers by researchers and practitioners, still we can learn a lot about the systems approach.


by Tomoichi_Sato | 2014-01-11 11:13 | English articles | Comments(0)

映画評:「いとしきエブリデイ」「サラエボ、希望の街角」

久しぶりに映画評を二つ。

★★★ いとしきエブリデイ

新百合ヶ丘 アルテリオシネマにて。
監督:マイケル・ウィンターボトム、出演:シャーリー・ヘンダーソン(カレン)、ジョン・シム(イアン)、 ショーン・カークほかカーク家の4兄弟

原題は"Everyday"。
とても素晴らしい。何か大げさな事が起きる訳ではないが、しみじみと心に染みる映画だった。
5年間かけて、ある家族の年月を描く。冒頭、母が子ども達を連れてロンドンまで行く。建物の入口で、刑務所に収監されている父に会いにきたことが説明抜きで観客に分かる。子どもが面会ホールの父親に駆け寄るシーンの撮影が素晴らしい。父の長い不在を耐えつつ、4人の小さな子ども達が、本当に少しずつ成長していく姿を追って、まるでドキュメンタリーのような味わいがある。マイケル・ナイマンの音楽も文句無しに美しい。

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★★★ サラエボ、希望の街角
BSにて。
監督:ヤスミラ・ジュバニッチ、出演:ズリンカ・ツヴィテシッチ(ルナ)、レオン・ルチェフ(アマル)、エルミン・ブラヴォ(バフリヤ)ほか

昨年秋、縁があってクロアチアに行った。旧ユーゴスラビアは初めてだ。ユーゴ崩壊後の内戦から20年あまり。街はもちろん復興していたが、それでも塔の上から家々の瓦を見下ろすと、新旧まだら模様の色の違いに、砲撃戦の傷跡をうかがうことができた。

サラエボはその隣、ボスニア・ヘルツェゴビナの古い首都だ。ここはクロアチア系とセルビア系とイスラム系の三民族が相争った場所でもある(三つの民族と行っても、言葉は事実上同じだし、風俗も習慣も文化も共通していて、外見ではほとんど分からない)。この映画は、その街で暮らすルナとアマルの男女二人の、すれ違っていく生活を描いていく。ルナは飛行機のキャビン・アテンダントとして働いている。パートナーの男性アマルは管制塔の職員だが、勤務中の飲酒をとがめられて職を解かれる。アル中になりかけているのだ。しかし、彼はかつて内戦の時には国軍の勇士であった。

物語が進む内に、しだいに彼らは二人ともイスラム系であることが判ってくる。そして、アマルはかつての戦友に再会することで、そのすすめに従って街から遠く離れた湖畔のキャンプで働くことになる。そのキャンプは、じつは超保守派のイスラム教徒の共同生活キャンプであった。男女は別に暮らし、女性は(中東で見かけるような)黒い衣で全身を覆っている。そして彼も次第に影響されるようになる・・。一方、ルナの方は、祖母を訪れて面倒を見ているのだが、かつて内戦で故郷の家を追われ、両親も殺されたことが会話を通して観客にも分かってくる。そして、彼女はかつて自分が子ども時代に暮らしたその家をもう一度、一目見たいと願って、今は一応平和な故郷の地に向かうのだが・・。

この映画の主要な魅力は、ルナを演じるズリンカ・ツヴィテシッチの、女優としての美しさにある。ジュバニッチ監督は、それを控えめな演出で見事に写し取ってくれた。

それにしても、ボスニアとはなんと難しい社会だろうか。国を三つに分断した内戦から10年たち、20年たっても、まだ人々はその傷に苦しんでいるのだ。そして、近親憎悪にも似た感情を互いに抱えつつ、共存を図らなくてはいけない。自分のアイデンティティ、自尊感情の根拠は、出自の氏族であり地域であり、宗教である。だが長き共産主義の時代をくぐり、今は工業化した社会で、宗教だけに純粋に頼るのも難しい。

この映画の原題は「途上にて」。そして、登場人物達は、誰もが何かを探している途上にある。それは内戦を経て失ってしまった何かなのだ。主人公の男性アマルが最初アル中だったのも、その代わりに復古主義的な宗教に頼るのも、何かをずっと探しているからだ。彼は最初、自分自身を許せずにおり、キャンプから戻ってからは他人を許せなくなっている。そのことがパートナーとの溝をつくる原因であるにもかかわらず。ルナの方は、ずっと不妊の治療を受けているが、これもまた自分にとっての探し物であった。子供たちを殺された祖母も、宗教キャンプに誘うかつての戦友も(彼がモスクで唄うボスニアの古い歌は本当に美しい)、皆が探し物の途上なのだ。だから、これを「サラエボ、希望の街」と訳した配給会社は、ある意味でとても偉いと思う。



by Tomoichi_Sato | 2014-01-06 20:23 | 映画評・音楽評 | Comments(0)

今年の抱負はこう作ろう

新年である。新年というのは、『抱負』の時期である。個人・家族でも、友人でも、あるいは職場でも、集まりがあれば必ず「今年の抱負は」ときかれる。

もう一つ、新年は(少なくとも今年は)就活の時期でもある。就活ではこれまた、しばしば「入社後の抱負」なるものをたずねられ、あるいは書かされる。こうして、新年は抱負が世に満ちて氾濫する季節となる。

それにしても、抱負とはそもそもどういう意味だろうか。なぜ、心高まるはずの語句に、「負け」の文字が入っているのか? ちょっと不思議だ。そこで辞書を引いてみると、『抱負』とは、心にいだく“思い”や“こころざし”のことだ、とある。

じつは、「負」という漢字は元々、人が貝をかかえる形から来たらしい。貝殻は古代、貨幣の代わりであった。だから漢字では、財・貨・資・寶(宝)など、財産に関係する文字の部首に、貝が登場する。負という漢字も、人が何か大事なものを持ったり、かついだりすることを表している(「背負う」という言葉には、まさに負の字が使われる)。「自負」だとか「負荷」だとかもその文脈である。そういえば、「請負」という語にも負が出てくる。「請負という字は、何かわれてくなったらけ、と書く」という古いジョークが建設業にあるが、本来は負うという意味である。ところが古代中国では、この文字の発音が「北」(敗北に表されるように、敗れるの意味)などと共通のため、負けの意味にも使われるようになったらしい。

そして抱の文字は、これも右側の「包」が胎児をおなかの内にかかえている形をあらわす。というわけで、抱負というのは大事なものごとを自分のうちにかかえること、さらには心の内に抱えた思いなどを表すのである。

では、のぞましい抱負の書き方、抱き方とはどんなものだろうか。わたしは、三つの条件があると思う。

いうまでもないが、まず具体性が大事である。たとえば、「今年一年、充実して生きたいと思います」では抱負にならない。聞いている人にピンと来ないからだ。聞いた人の心の中に、成功のイメージが思い浮かぶように表現することが望ましい。

では、たとえば「今年は営業成績が部で一番になりたいです」ではどうか。とりあえず、具体的だ。ま、ありがちな抱負ではある。ところでちょっと考えてみてほしい。新入社員を一同集めて、入社後の抱負をたずねたとする。すると全員が「社長になりたい」といったら、どうだろうか?

新入社員が仮に100人いたとして、その中で望みを叶えられるのは、まあ多くてもただ一人だけである。100人の全員の抱負を実現させることは、事実上、できない。つまり、会社がこの新人全員を応援することは不可能、ということになる。だって実現できないんだから。

いいかえるなら、抱負を述べるときは、周囲の人や上の人がサポートできる抱負、サポートしたくなる内容をいうべきなのだ。ならば、別に社長のポストに限らず、役員だろうが部長職だろうが、限られた枠を大勢であらそうような抱負はふさわしくないことになる。いや、「○○大学合格」や「司法試験突破」だって似たようなものかもしれない。定員数はそれなりに大きい。だが、全員の希望を実現させることはできない。こうした望みはいずれも、他者との競争の結果(すなわち相対評価)で決められる。だとしたら、抱負を考えるにあたっては、順位より能力(絶対評価)を望むべきだろう。

それをもう少し敷衍すると、抱負では地位(Be)より行為(Do)を主軸におくべき、ということになる。「である」事より「する」事を。地位や資格とは結局、なにか行為をできるようになるための前提条件だからである。

二番目に大事なことは、少しだけ背伸びした抱負を持つことだ。「今年は毎日、会社(学校)に通いたいと思います」というのは、(その人が引きこもりや病気だった訳でもない限り)あまり感銘を受けない。誰が聞いても「そりゃ当然、実現可能だわな」と思うような抱負は、役に立たないのである。自分にとって、もう少し難易度の高いところを狙わなくてはならない。

それでは、どれくらいハードルを高く上げるべきなのか? たとえば、成功確率=10割だとまずいのであれば、8割くらいならばいいのか。それとも、成功確率=5割、つまり半々程度で実現できるのが適正なのか。いや、2割ぐらいか。それとも、5%? いっそ、0.1%では?

もちろん、こうしたことに正解はない。ただし、あまり難易度を高く設定しすぎると、本人もすぐ息切れするばかりか、周りの人も白けて応援する気持ちを失うだろう。背伸びした抱負を掲げる理由は、それで「張り」のある過ごし方をしたいからである。だから、「自分がやる気を出し続けられる」程度に設定すべきだ。

そしていうまでもなく、新年の抱負なら、1年の終わりに結果を判定できる(反省できる)よう、明確にすべきだ。抱負をいって、ただ言いっぱなしにしないためである。背伸びした抱負なのだから、ときに、いや、しばしば、実現できずに終わるだろう。だが、どれだけ成功に近づけたのか、何が足りなかったのか、経験から自ら学ぶために、いわば抱負の「決算報告」が必要なのである。

そのためには、傍の人間も成否を判断できるよう、具体的なことがら(できれば数字)を設定するべきだ。「今年は頑張って英会話を勉強します」みたいに、『頑張って』という曖昧な修飾語で表現せず、「今年はTOEIC 650点達成を目指します」とか「英語でも人前でプレゼンできる能力を身につけます」などと表現するほうがはっきりする。

まとめると、「イメージが浮かぶよう具体的に」「少し背伸びして」「成否がはっきり判るかたちで」抱負を考えるべきだろう。そして、考えたら、それを口に出すだけでなく、文字に書いておくことが大事である。たぶんこの『文章化』が一番大事なポイントかもしれない。なぜなら、抱負を持つ最大の理由は、これからの方向性を定めて、見失わないようにしたいからである。

人の気は変わりやすく、世の中の風向きもうつろいがちだ。それでも、風まかせでなく、方角を定めて自力で航海したいなら、目指すべきことを言葉にしてみる。短くていい。長い文章である必要はない(長いと自分も他人も読まない)。箇条書きでいいし、項目数も、三つ前後にまとめる(まちがっても7項目以上にしないこと)。そして、ときどき見直すよう、自分で目立つところにポストすること。

結局、抱負というものは、新年に限らず、どんなチャレンジにも掲げるべきなのだろう。それは、自分が成長するために必要なのである。たとえ何歳になったとしても、新しい年を漫然と暮らさず、成長できる年にするために。・・なんとなく、新年なのでちょっと格好つけて書いてしまったけれど、それがわたしの本心からの願いである。


by Tomoichi_Sato | 2014-01-03 18:14 | ビジネス | Comments(0)