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製造業とITをつなぐミッシングリンク - BOM(部品表)の問題

最近、拙著「BOM/部品表入門 (図解でわかる生産の実務)」の重版の知らせを出版社から受け取った。累計7,400部になるらしい。発刊が2005年初頭だから、8年間かかってやっとこれだけの数字だ。でも、ビジネス書は3千部売れれば及第点のレベルと言われから、まあまあの部類ではあるだろう。多くの方に受け入れていただけたことに、感謝したい。それに、編集担当の方によると、8年以上もの期間にわたってジワジワ売れ続けるのは、こうした分野では珍しいらしい。

それにしても、最近、あらためてBOMが関心を集め直しているのではないか、と感じることがある。今年は二回もBOMに関して講演の依頼を受けているし、本書の増刷もある。もっと驚いたのは、数ヶ月前だが、電車ですぐ隣の人が「BOM/部品表入門」を読んでいたことである。本は何冊か書いているが、初めての体験だ。思わず、「著者ですが」と挨拶をしてしまった(^^;)。相手の方は、SI業界の方で、BOMに関して勉強するため読み始めたとのことだった。

本を書き始めた2004年の頃は、BOMに対する関心が産業界で高まっている時期だった。自動車会社が膨大な労力と費用をかけてBOMを再統一するプロジェクトをはじめたり、電機メーカーが大変な苦労をして部品の品番統一を行ったり、というニュースが報じられた。また本書に前後して、やはりBOM関係の著書や訳書が刊行されたりしていた。

ところがその後、しばらく鎮静期というか、BOMがあまりメディアに取り上げられなくなる時期が続く。そして最近になってまた、再び注目が集まっているように感じられる。これは、何故だろうか?

その答えを考える前に、ちょっとここで読者諸賢にクイズを出してみたい。以下の問に、みなさんならどう答えられるだろうか。いずれも、日本の製造業の姿をあらわす数字だ:

 GDPに占める製造業の割合 = ? %
 製造業ではたらく就業者数 =  ? 万人
 製造業の従業員あたりIT費用 = ? 万円/年

これらの質問は、今年3月に開催した「プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会」でBOMに関する講演をしたとき、イントロに使った問題である。さて、日本全体のGDPに占める製造業の比率は、何%か。“ものづくり日本”と謳われ、製造業が日本の産業をリードする、あるいは輸出の主軸である、と考えられているわたし達の経済で、さてどれくらいの割合を占めているのか。半分? 7割? それとももうちょっと小さく4割程度?

じつは、日本のGDPの中の製造業の比率は、2008年に19.8%となり、すでに2割を切ったのである。意外に思われる方も多いだろう。モノづくりが倒れたら日本が滅びる、みたいな論調をよく聞かされるが、ちょっとオーバーなことが分かる。メディアも感覚論だけでなく、こうした数字をおさえて報じてくれるといいのにな、と思わないでもない。

なお、ドイツの製造業GDP比率=25%、米国=12%、EU平均=20%である。ドイツはさすがに今でも製造業大国だと分かる。米国の製造業の衰退は、残念ながら数字から見ても本当である。日本はEU全体の平均に近い。

ただ、2割を切ったといっても、日本はGDP規模でまだ世界第三位の経済大国であり、他国と比較すると、やはり大きい。ちなみに日本のGDPは約480兆円。計算がしやすいように、だいたい500兆円と覚えておこう。製造業はその2割だから、毎年100兆円も稼いでいるのだ。ちょっとした国の経済規模より、ずっと大きい。

では、二番目の問は? 研究部会では「5万人くらいかな」と答えた方がおられたが、それでは少なすぎる(トヨタ一社だってそれより多い)。こういう問題を考えるには、概算と類推を活用する必要がある。いわゆる「フェルミ推定」である。GDPに占める製造業の割合は、2割だと分かった。日本の人口は、1億2千数百万だ。ここも、計算が簡単なように、1億2千5百万人と記憶しておこう。そうすると、その2割=1/5だから、2千5百万人が製造業のカバー範囲か。ただし、これは赤ん坊からお年寄りまで、全人口が入っている。就業者となると、生産年齢で、失業者ものぞかなくてはならない。エイヤっと半分にして、1,250万人でどうだ!

ま、惜しいところである。実際の答えは、1,030万人なのだ(2010年度の統計)。ちなみに日本全体の全就業者数は、6,246万人である。総人口の約半分で、ここのエイヤは合っていた。どこが違ったかというと、GDP比率と比例していない点だ。6,246万人中の1,030万人は、16.5%にあたる。製造業は、GDPでは全体の1/5だが、就業者数では1/6しかいないのである。

GDP比率よりも就業者比率の方が小さい。これはすなわち、製造業の方が一人あたりでは余計に付加価値を稼いでいることを示している。経済効率が高いのである。他の産業、すなわち流通業やサービス業などの方が、一人あたりの生産性が少し低い。

それでは第三問、製造業の従業員あたりIT費用は年間でいくらか? 答えをいってしまうと、43.2万円(2010年)である。これは多いと思われるだろうか、それとも少ないだろうか? これも、他と比較すると分かる。全産業平均のIT費用=57.8万円/人・年なのである。「いや、俺、そんなに使ってないから」などといわないでほしい。これは、配備パソコンの購入代金から、基幹システムの開発運用費、保守その他の労務費外注費、デジタル通信費用まですべて含めた金額なのだ。ユーザの目に見えない費用が全部含まれていることに注意してほしい。

さて、全産業の平均に比べると、製造業は75%、つまり3/4しかIT費用が使われていないことが分かった。問題は、これを、どう見るかだ。製造業はITを効率よくつかっているから、一人あたりの費用が少ない? わたしは、そう見ない。工場現場労働者というブルーカラー職種の人数まで入っているから、平均値が下がっている? だが、流通サービス業だって、相当に単純労働者を抱えている。他業種は派遣や外注など非正規雇用者を多用しているから、分母が小さい? いや、分母は正社員数ではなく就業者数であることに注意してほしい。

わたしの見方は、もっと単純である。製造業は、必要なIT費用を十分に使っていないのだ。どれだけ必要かは、無論、業態による。業種の中で最高なのは金融保険業の163.2万円だが、製造業はそのわずか1/4である。では、製造業の業務は金融や流通よりもずっと単純なのか? そんなことはない。むしろ、業務プロセスの幅でいうと、製造業は流通やサービス業よりも、ずっと大きい。受注・設計・製造・検査・物流・保全・販売・購買・在庫・経理・人事・・・(流通業は、これらの内、販売以降の部分だけをカバーすればすむ)。つまり、製造業の情報化は、業務が多くて複雑なのだ。

製造業にIT化費用の支払い能力がない、単価が安い、という訳でもない。わたしの経験では、流通業よりもむしろ発注の査定はリーズナブルである。だったら、なぜSIerはもっと製造業をターゲットにしないのか? いい顧客ではないか。

その大きな理由は、じつは「製造」という業務に対する敷居の高さにある、とわたしは見ている。会計や、販売管理や、発注検収システムを得意とするIT会社はたくさんある。しかし、製造となると急に出足が止まる。なんだかややこしいし、製造現場はうるさくて煙臭くて縁遠い。だいいち工場なんて妙に不便な田舎にあるじゃないか。

おかしなことに、肝心の製造業の情報システム部門の人たちも、しばしばそう感じているらしい。本社でERPやCADシステムを導入することには熱心でも、工場の製造実行システム(MES)などは案外、製造部門任せだったりする。製造部では、若手でちょっとパソコンに詳しいような技術者が、見よう見まねで設計書を書いて開発したりする。これできちんと情報化が進むわけがない。その結果が43.2万円なのだろう。

そのようなやり方は、そろそろ限界に近づいている。なぜなら製造の海外展開が近年急速に進んで、部品・製品のサプライチェーンが工場の壁をまたいで海外まで伸びてしまったからだ。おかげで、どこに何がいくつあって、どれをいくつ作ればいいか、ひと目で分からなくなってしまった。製造業の計画の鍵、中心となるマスタデータはBOM(部品表)である。この部品表という革袋が古くなって、海外展開という新しい酒を入れることができなくなってきたのである。

だったらば、そろそろITのプロに任せればいいじゃないか。製造業が全産業の平均並みにIT費用を使うとすると、57.8―43.2=14.6万円/人・年の潜在需要がそこにあるはずだ。就業者数1,030万人をかければ、毎年約1.5兆円の市場である。これは、IT産業から見ても、非常に良いマーケットだろう。大丈夫、製造業は年間100兆円のGDPを生み出している。念のためにいうが、売上100兆円ではない。付加価値額の合計が100兆円なのである。1.5兆なんて、そのわずか1.5%にすぎない。もし、1.5%のIT投資をして、それで年間3%の生産性アップが得られるなら、ものすごく引き合う話ではないか。

じつは、その素晴らしい見合い話で問題となるのが、BOM/部品表なのだ。多くのシステム屋さんの「躓きの石」が、部品表らしい。なんだか構造もややこしいし、数も種類も多くて訳わからない・・。

別に、そんなことはないのですよ。たしかに見かけはややこしいけれど、それは顧客のデータモデルがしっかりしていないだけかもしれない(だってITのプロが作ってこなかったのだから)。だから、そこさえきちんと押さえれば、あとは論理的に展開できる。そして、製造業のいいところは、業務が理屈どおり進むことなのだ。

わたしは自分の本が売りたくて、こんなことを書いているのではない。日本の製造業は今、明らかに質的転換の曲がり角に来ている。贅肉体質の企業はすでに淘汰が進み、よく考えて行動しているところが(規模の大小にかかわらず)生き延びる時代に入っている。そのボトルネックは、製造・物流のIT化なのだ。わたしはぜひ追加の1.5兆円市場が生まれて、それがGDP全体の拡大に寄与するようになることを望んでいる。その動きに、拙著がちょっとでも貢献できれば、望外の喜びなのである。
by tomoichi_sato | 2013-09-29 17:03 | サプライチェーン | Comments(1)

チーフデザイナーとプロジェクトマネージャ、どちらが上に立つべきか

宮崎駿の映画「風立ちぬ」は、ゼロ戦の設計者・堀越二郎を題材にした物語だ。堀越は実在の人物だが、映画全体は評伝ではなく、フィクションの色彩が強い。とはいえ、物語は主人公・二郎による新型飛行機の設計を軸として展開していき、その部分は比較的史実に近い。だから、一種の製品開発プロジェクトのストーリーとしても、見ることができる。その中における主人公の職務上のポジションは、「設計主任」だ。設計主任とは何か、その役割は開発プロジェクトのプロジェクト・マネージャーとは何が違うのか。そんなことを、今回は考えてみたい。

設計主任に対応する英語はいくつかありうるが、チーフ・デザイナーあたりが最も一般的だろう。ところで、チーフ・デザイナーというと、もう一つ思い出すストーリーがある。ハインラインの「月を売った男」だ。これは月世界旅行の夢にとりつかれた主人公ハリマンが、月ロケットを完成させるまでの物語である。小説が書かれたのは1950年で、まだアポロ計画など影も形もない。だから国の予算ではなく、個人でなんとかして資金をかき集めて実現するしかない。この物語は、儲からぬモノにはびた一文払いたがらぬ米国ビジネス界を相手に、雲をつかむような夢のための金をどうやって引き出すかがポイントになっている。その奇抜なアイデアの数々については、ぜひ小説を読んでもらいたいが、設計とビジネス・マネジメントの兼ね合いについても、一つ忘れがたいエピソードを書いている。

ようやく資金にめどがつき、まさに月ロケットの設計が佳境にさしかかろうとしている時のことだ。チーフ・デザイナーがこぼすのである。「たとえばエンジンの性能について真剣に考えたい時に限って、資材業者がやってきて『トラックはどこにつけたらいいのか』と質問をしてくる。雑用や割込で細切れにされて、肝心の設計に集中できない。」--これを助けるため、ある有能なパートナーが彼にこう言う。「その種の、交渉だとか契約だとか支払いだとかいった仕事は、今後は全部ぼくに投げてください。ぼくが全力でサポートするから、あなたは技術的なことだけに集中してほしい。」(以上、じつは本が手元にないので記憶で書いているが、だいたいこういったやりとりだったと思う)--そして事実、有能な彼が右腕として面倒なビジネス面での仕事を引き受けてくれたため、設計は急速に前進していくのである。

このエピソードは、たしかFrederick Brooks Jr.が、彼のソフトウェア開発論の古典的名著「Mythical Man-Month, The: Essays on Software Engineering」(邦訳『人月の神話』)の中でも引用していた。そして、この二人の関係を理想的だと賞賛している。すなわち、デザイナーが主で、ビジネス・マネジメント役が従、という風な関係である。

Brooks Jr.は元々、IBMでSystem 360とOS/360開発のプロジェクト・マネージャーだった人だ。後にNorth Carolina大学に移り、この本を書いた。System 360はIBMの社運を賭けた画期的計算機だったが、そのOSであるOS/360の開発は予定の2年近く遅れ、「ソフトウェア危機」という言葉が生まれるに至った。「The Mythical Man-manth」は、その彼の思索と反省をまとめた本である。その論点の一つに、開発のための組織論がある。巨大な開発プロジェクトにおいては、技術的仕事のみならず、人事・資材・調達・販売・契約・資金・オフィス環境その他諸々を含めた、非・技術的な仕事がかなり発生する。そうしたビジネス面については、分業して設計から切り離すのが、米国的な発想だ。専門家による分業によって、それぞれの効率を達成する。これが彼らの定石である。

その際、問題になるのが、技術面のチーフと、ビジネス面のチーフの、どちらが組織で上に立つかだ。ピラミッド型組織では、位階の上下ははっきりさせる必要がある。上にいる方が、最終的判断を下す。その場合、技術面と、ビジネス面のどちらが主導権を握るべきなのか。

どちらのパターンもあり得るが、設計が主で、ビジネスが従の形の方が良い、というのがBrooks Jr.の意見である。その傍証として、上記「月を売る男」のエピソードを引用する。実際のところ、System 360の開発では、アーキテクト(設計主任)としての彼がプロジェクト全体を引っ張った訳だ。片腕としてのビジネス・マネージャーがいたかどうかは不明だが。

ところで、このような関係は一般的なのだろうか? つまり、設計が上でビジネスが下の関係だが。たとえば映画の世界ではどうか? 宮崎駿の映画の場合、設計(技術面)の責任者は無論、宮崎駿である、他方、いわゆるビジネス面の責任者はプロデューサーと呼ばれるが、それは鈴木敏夫だ。ジブリの中では、たしかに宮崎が上で鈴木は下に見える。

ただし、他の映画では必ずしもそうではない。というか、むしろ逆のパターンの方が一般的だ。プロデューサーが上にいて全体を統括し、監督が製作(技術面)の責任を持つ。プロデューサーは、いざとなれば監督の首を切れる。たとえ相手が「世界のクロサワ」でも、切ってしまうのがハリウッドのやり方だ。Brooks Jr.の思想から言えば、この関係は間違っているのだろうか?

あるいは、わたしの働くエンジニアリング業界ではどうか。プラント系プロジェクトでは、一番上の責任者はプロジェクト・マネージャーである。そして設計(技術面)の責任者はエンジニアリング・マネージャーと呼ばれ、プロマネの右腕になる。契約だの発注だののビジネス的な仕事は主にプロマネの仕事である。しかし、重工業界や産業機械などの業界では、設計主任がプロジェクト・マネージャーであったりする例もある。

ここで、混乱を避けるため、ちょっと用語を整理しておきたい。チーフ・エンジニア(設計主任)という言葉は、まさに設計の責任者を表す。他方、プロジェクト・マネージャーは、プロジェクト全体の責任者だ。ただ、大きなプロジェクトの場合、自然に技術面と非・技術面の分業が生まれてくる(前者の方が作業量は多い)。そのとき、プラント業界などではプロマネが非・技術面を主に分担する。ただし、設計主任がプロジェクトの一番上に立ち、その従として非・技術面の専門家が動く場合は、「ビジネス・マネージャー」という用語で呼ぶ場合が多い。

では、両者はどちらが上に立つべきか? それは、プロジェクトの性格による、というのがわたしの答えである。もう少し具体的に言うと、

設計(技術面)の方が難易度が高い場合は、チーフ・エンジニアが上に立つべし。設計面ではそれほど難易度は高くないが、非・技術面(予算や配員や納期等)の制約がきつい場合は、プロジェクト・マネージャーが上に立つべし

ということになる。言いかえれば、より困難な方(=リスクの大きな方)が、全体の判断を下すべきだということだ。

これから考えると、System 360で技術者Brooks Jr.が上だった理由は明らかだろう。技術開発要素が、プロジェクトの成否を決したからだ。彼が「月を売った男」で同じパターンを考えたのも当然だ。これも難易度の高い技術開発だからだ(しかし、小説全体では、資金集めの方がずっと難しく、だからそっちが話のメインになる)。映画の場合も、シナリオライターがおり、俳優達がいて、監督やキャメラなどのスタッフを常時かかえているハリウッド・システムでは、やはり資金面をおさえるプロデューサーが上になる。だが、作家性の高い宮崎映画などの場合は、監督よりも偉い人はいないし、いらない。プラント・エンジニアリング業界では、技術はある程度成熟しており、しかし予算や納期などの制約が厳しいから、プロマネが一番上に立つことになる。

念のためにいうが、技術面とビジネス面を、「理系」対「文系」という枠組みでとらえないでほしい。理系文系という意識は、欧米にはほとんど無い。わたしの勤務先だって、プロマネはほとんど工学部の出身だ。だが、契約やマネジメントの方に専門特化していったのだ。

残念ながら、多くの企業や組織では、設計や財務などの部門の力関係が固定化されてしまっており、上に述べた「プロジェクトの性格」に応じた役割分担ができないことが、ままある。これが、わたし達の社会でのプロジェクトの成功率を下げる一因なのではないかと、わたしは疑っている。どうも、「上下関係」ばかりに敏感になりすぎるタテ社会文化に、その遠因がありそうである。技術もビジネスも、役割にすぎないことを、わたし達はあらためて再認識すべきではないだろうか?


関連エントリ
→ 「映画評: 風立ちぬ
by Tomoichi_Sato | 2013-09-23 23:20 | プロジェクト・マネジメント | Comments(0)

まだ何ひとつ終わっていない

7月下旬、福島と宮城を旅行した。一泊二日の小旅行だ。仙台では、3.11の被災地を少しだけ見てきた。この時の体験は、自分でも、まだうまく言葉にすることができない。だが、書いておくべきだという気がするので、まとまりもないが、あえてここに記しておく。以下は、そのとき見聞きしたことである。

そもそもなぜ東北の、それもひどい災害にあった土地に行こうと思ったのか。自分でも説明できない。ただ、行って、亡くなられた方々のために手を合わせなければ、と感じたのだ。親戚がいたわけでもない。友人知人がそれほど多いわけでもない。でも、ずっとそう感じていた。本当はもっと早く行きたかった。だが例によって世事に煩わされ、2年以上もたってから、ようやく出かけることができたのだった。

土曜日の昼前の新幹線で、まず郡山に向かう。途中少し遅れたが、それでも東京から郡山まではあっという間だ。駅前に降り立つ。わたしはたまたま、'90年代の初め頃、仕事でなんどか郡山を訪れたことがあった。街は、その時の印象から大きくは変わっていないように思える。喜多方ラーメンの店を見つけて、軽く腹ごしらえし、ホテルに荷物を置く。

午後はそこで、旧知の昼田源四郎先生と久しぶりに再会した。昼田先生は精神科医で、臨床の世界で長く活躍され、統合失調症の専門書も書かれている。だが、医学史家という、もう一つの顔もお持ちで、「疫病(ハヤリヤマイ)と狐憑き―近世庶民の医療事情」(みすず書房)という本の著者でもある。江戸時代の診療記録を元にした、実証的な研究である。その後、福島大学の教育学部に転じられ、発達障害や「いじめ」の問題などを研究されてきた。

その大学も昨年退官され、今は「ふくしま心のケアセンター」という組織の所長をされている。これは医療機関ではなく、臨床心理士などを中心とした組織で、避難所生活の方々などを訪問し、相談とケアを行っているという。バックアップしているのは福島県内の精神医療法人の連合団体で、必要時は病院とも連携できる。これはどうやら国の補助事業らしく、東北三県が県単位で受け、それぞれ県内のしかるべき団体に委託していると理解した。昼田先生は組織の立ち上げ段階から関わって、いろいろ苦労されてきた様子だ。心理士などの人手はそれなりに確保できるらしい(他にあまり仕事がないということかもしれないが)。しかし、当然ながら、人々が受けた心の傷は大きい。「今年は自殺防止が大事なテーマだ」とも言われた。震災から一年たち、2年たち、頑張ることに疲れて心が折れそうになる人が増えている。

昼田先生からは河北新報(地元東北の新聞社)が制作したビデオ「東日本大震災 宮城・石巻沿岸部の記録 DVD」による震災と津波の映像もみせていただいた。また被災エリアの状況を示した震災地図というものも拝見した。しかし、3.11の被害規模があまりにも大きく、いまだに全貌がどうなっているのかよく理解できない状況だ。メディアは、個別にはいろいろなエピソードの報道や記録を積み上げているが、全体像を多面的・客観的に把握する、という仕事は不得手らしい。でも、必要な規模・数字のベースさえはっきりしないようでは、マクロな対策は立てようがない。どうしても、その場その場の応急措置的対応を続けることになる。わたしの専門の言葉を使えば、個別プロジェクトは多数あるが、プログラム・マネジメントがなされていない状態なのだ。縦割り・地域割りの行政も、その状況を改善するつもりは薄いらしい。

郡山の人たちのメンタルなケアを難しくしているもう一つの問題は、農業である。農産物が出荷できないのだ。それも「風評被害」で売れない、との問題ではない。政府によって出荷が禁止されているのである。これによって生活基盤を完全に失った人たちが大勢いる。あとで調べて驚いたのだが、安部首相名で福島県知事に対して、非常に長くて詳細な農産物リストと広範な地域名が指定され、「当分の間、摂取及び出荷を差し控えるよう、関係自治体の長、関 係事業者及び住民等に要請すること」が指示されている(わたし達の社会では、政府要請は事実上、命令である)。郡山市に限っていえば、米と大豆が(一部地域だが)禁止対象で、全市にわたる禁止物としては、たけのこ、キノコ(路地・野生)、くさそてつ、こしあぶら、ぜんまい、たらのめ、など山菜類が指定されている。それ以外にも、カブ、うめ、ゆず、くり、原乳などが隣接する市町村で禁止されている。農業はスーパーや映画館と違って、昨日までとは別の品種を今日から扱います、という訳にはいかない。農地を急に放棄するわけにもいかない。わたしがその身だったら、どう感じるだろうか。

昼田先生とは久しぶりだったので、その夜は小さな料理屋に入って、会津若松の地酒に舌鼓を打ちつつ、震災以外にもいろいろなことを話した。「精神分裂病」がなぜ「統合失調症」と呼びかえられたのか(英語でもドイツ語でも病名は“精神の分裂”という意味だ)。また、「いじめ」には国や文化による違いはあるか。昼田先生は米国の教育研究者と何年間も継続して共同研究を行い、広範なアンケート調査なども実施された。日本ではあまり報道されないが、米国にも、学校でのイジメは存在する。しかし、結論として、どうも文化に直接起因する大きな違いが見いだせない、という不思議な結果になったという。残念ながら、いじめという行為は人間のもっと深い部分に起因していて、それは一種の攻撃性と関係しているのではないか、と考えざるを得ない様子であった。また、昼田先生は現在、「江戸の精神科医」という次なる著書を準備されている、とのこと。仕事が多忙でなかなか時間を割けないとおっしゃっていたが、非常に楽しみな本である。地酒もとても美味しかったが、自分は酒飲みでないため、肝心の名前を忘れてしまった(^^;)

翌朝は郡山の街を少し散策した後、新幹線で仙台に移動した。昼田先生に教えていただいた「語り部タクシー」に乗って、被災地を訪れるためである(わたしは仙台中央タクシーを利用した)。料金は1時間5300円。ただし仙台駅を起点とする場合、1時間では足りないというので2時間でお願いした。もし二人以上で利用するならば、とてもフェアな料金だと言えよう。

仙台の幹線道路を東に向かい、平野部をしばらく走る。仙台東部道路を横切り、宮城野区の海沿いに向かう。農地もあるが、都市近郊の宅地である。すると、そのうち、どこがとは言いにくいのだが、風景が微妙に、しかし決定的に変わってくる。津波の到達域に入ったのだ。家々は同じように建っている。だが、窓ガラスが破れていたりして、人が住んでいないことが分かる。ごく普通の不動産分譲地のように見えて、だが人はいない。タクシーはある家の前に止まった。道路のアプローチ側から見ると、普通の家だ。だが、前に回ると、恐ろしい破壊の跡が見える。あたりが静かでのどかである分、そのショックは大きい。周囲には同じように、まだ新しいのにうち捨てられた郊外住宅がたくさん建っている。多額のローンを抱えたまま、家を捨てなければならなかった人々の気持ちが胸にこたえた。

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車はそのまま沿岸道路を走り、南に下がって若林区の長浜地区に行く。その名の通り、仙台の海水浴場として知られた浜辺だ。いま、そこには石碑と、観音像が建っている。震災の犠牲者の名前を刻んだ石碑だ。享年を見ると、ほとんどが高齢者で、そのなかに幼児が入っているのが痛ましい。休日なので、何人もの方が訪れている。わたしも浜辺に立ち、海に向かって頭をたれ、手を合わせて、亡くなられた方々の魂の平安を天に祈った。

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周囲を見ると、浜辺の松の木々が全て津波で折れ、ねじ曲げられた姿で残っている。松は陽樹で、海岸沿いにも自生するが、根が浅いため津波には抵抗力が弱い。有名な陸前高田市の「奇跡の一本松」は、名勝・高田松原の何千本もの松が、実はたった一本しか残らなかったことを意味しているのだろう。根元から折れた幹は、津波の中で流され、むしろ危険である。防風にはともかく防潮林には向かないのかもしれない。

近くには、荒浜小学校の建物がある。写真では分かりにくいかもしれないが、1階部分のガラスはほとんどが破れており、今は立ち入り禁止になっている。地図で見ると分かるが、このあたりは広く平坦な土地である。あの規模の津波が押し寄せた場合、逃れる高い場所はほとんどない。その中で4階建ての鉄筋コンクリートの小学校は唯一、避難できる場所だった。津波は2階まで押し寄せたが、その上まで逃れて助かった人が大勢いた。校舎の被害もさることながら、周囲に住む人がほとんどいなくなって、今は別の小学校の校舎に移転している。

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タクシーはさらに南に下り、仙台に隣接する名取市閖上(ゆりあげ)地区に入る。ここは海に面した町が丸々一つ、失われた場所だ。震災前の写真を見ると、わたしはなんだか、東京の月島あたりの地形を連想する。漁港と水産加工を中心として、家々の軒が連ね、7千人の人口をかかえ、朝市など活気のある生活が営まれていた。いまは、全くの平らな荒れ地だ。家は全て、コンクリートの土台しか残っていない。

閖上に一カ所だけ、小さな丘がある。「日和山」とよばれ、昔は船出前の日和をこの上から見たのだろう。頂上部で、標高7m。たくさんの人が、この山の上に逃れた。しかし津波の高さは10mだった。頂上の木の枝にしがみついた、ほんの数人の方しか生き残らなかったと、「語り部タクシー」の運転手の人はいった。自分がもし、閖上の町にその時いたらどうしていたか。土地はずっと平坦である。数キロ先の、仙台東部道路(これは高架になっている)まで行かないと、避難できそうな高い場所はない。しかし道はもう車で一杯だ。渋滞してまったく動けない。自分一人なら走って逃げもしよう。しかし乳幼児を抱えていたら。車いすの年寄りを抱えていたら。

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これ以上もう、何も言うことはない。仙台の町の中心部に戻ってからも、しばらくは、ぼおっと公園のベンチに座っていた。頭の中には今見てきた記憶が渦巻き、まともな言葉にはならない。今でもそうだ。

先にあげた昼田先生は、仙台市臨王寺の住職らが提唱された「森の防波堤」構想を手伝っておられるという。これは、横浜国大名誉教授で植物生態学者の宮脇昭氏の発案による、内陸堤防型の植林プランである。震災で発生したがれきのうち、有害なものは取りのぞいて、土や砂礫とともにマウンドとし、その上に深根性の照葉樹を複合的に植えていく構想で、民家・学校・田畑などはその内陸側におく。2年前に復興会議が提言した「二線堤」方式にも通じる(内陸堤防や二線堤方式の利点については、南堂久史氏のOpen Blogというサイトで知った )。

だが、この場合、森の防波堤よりも外側は非居住区とせざるをえない。新聞記事によると、沿岸地区にもどってもう一度住みたいと希望している住民は、3割程度らしい。あとの人たちは、逡巡している。それほど恐ろしい体験だったということだろう。わたしはもちろん当事者ではないし、「戻るべきだ」とも「戻るべきではない」とも、言えない。

ただ、わたしがこの記事を書いている横浜の家は、海岸から3km以内で、2階にいても標高10mあるかどうか。そのときが来たら、どこにどう逃げるのか。確とした答えはないのだ。そして、いったん災害に襲われたら、1年たっても、2年たっても、復興どころか荒れ地のままかもしれない。なぜなら、わたしが見てきたあの場所では、まだ何一つ終わっていないのだ。


関連エントリ:
→「今はまだ鎮魂の歌をうたえ
by Tomoichi_Sato | 2013-09-16 14:57 | 考えるヒント | Comments(2)

映画評:「風立ちぬ」

スーパーの中で荒井由美の「ひこうき雲」が流れていた。宮崎駿の映画『風立ちぬ』の主題歌(エンディング・テーマ)として使われているからだろう。1973年、今からちょうど40年前の曲である。

若い頃の荒井由美は歌詞がとてもうまい。説明的なことはすべて省いて、それでも聴いている者にはその情景が思い浮かぶ。そういう詩的な才がある。「白い坂道が 空まで続いていた ゆらゆら陽炎が あの子をつつむ」ではじまるこの歌は、とても静かな曲である。歌詞のキーは、“他の人には分からない” だ。「分からない」という言葉だけは2回繰り返され、「・・けれど、幸せ」とつづく。

この曲は、他人には分からない、孤独な世界で、それでも幸せという感情を唄っている。それは、「みなが分かり合い、みんな一緒に幸せになれる」と信じていた'67年〜'71年までの、若者の反抗の時代が終わった後につくられた、心の歌だ。いかにも、宮崎駿の最後の映画にふさわしい幕切れではないか。

風立ちぬ』を映画館で見てきた。いろいろな意見や感想があるが、わたしは楽しんだ。少なくとも、映画館でロードショウの代金を払って見るには値する。ゼロ戦の設計者が主人公の、実話に基づく映画ということで、大画面にたくさんゼロ戦が飛び交う、飛翔感あふれるシーンを期待して見に行った人たちは、たしかにがっかりしたろう。ゼロ戦はほんのちょっぴりしか出てこない。かわりに、中盤かなり長々と、主人公と、結婚相手となるヒロインとの話が続く。宮崎駿って、夫婦の物語を描きたかったのかあ。そう思って、ちょっと驚いた。

おまけに、この映画には飛行機自体はたくさん出てくるが、飛翔感はきわめて乏しい。ほとんどのシーンは仰角で、地上から見上げているからだ。いや、普通の人物のシーンでさえ、宮崎映画では異例なほど、仰角による下からのアングルが多い。映画評論家の佐藤忠男の本で読んだが、上から人々を見下ろすアングルは神の視点をあらわし、仰角で見上げるアングルは、押し迫る運命に雄々しく立ち上がる人を描くときに、つかわれることが多いらしい。

若い頃の宮崎映画は、意に染まぬ相手を強いられ、耐える女の子を描いてきた。「カリオストロ」しかり、「ラピュタ」しかり。この映画でも、結核という不治の病に苦しむ女性をえがいてはいる。だが、それでも思いを遂げて、大好きな主人公と結ばれる。そこが、大事な点だ。宮崎駿自身は70才をこえた今でも毎日、愛妻弁当をもって仕事場に行くのだそうだが、ようやっと、夫婦の話をかく気持ちになったのかもしれない。

この映画を面白いと感じたもう一つの大きな理由は、機械エンジニアが主人公になっている点だ。現代のドラマや劇や映画で、エンジニアが主人公のものがどれだけあるだろうか? エンジニアはとっくの昔に、「かっこいい」職業から脱落してしまったのだ。しかしこの映画では、そのエンジニアの生活、夢、悩み、組織などが語られていく。アイデアのひらめき、計算の忍耐力、配下の作業者達を引っ張る力、そして、こいつにならば賭けてみようと上司や顧客や投資家に思わせる説得力。こうしたものが、優秀なエンジニアの特質だ。とくに航空工学は、構造と機能を「形」で橋渡ししなければならない。このため、建築や土木などと並んで、デザイナーという職業にむしろ共通な点が多い。ここに、この物語の最大のポイントがある。

宮崎駿の引退記者会見を読むと、この人は自分を何よりアニメーターとして任じていることが分かる。アニメーション監督にはいろいろなスタイルがある。同僚の高畑勲監督は演出をやりたくてこの世界に入った人だが、自分は絵を描くことが原点にある。そういう意味のことをいっている。原作・脚本・監督を兼ねる宮崎という人は、ストーリーの結末がどうなるか自分でも知らないまま、映画を作っていくらしい。そして絵コンテを自分で描きながら、1シーン1シーン考えてつないでいく。この映画の中で、三菱内燃機に就職したばかりの主人公二郎に対し、上司が「すぐ製図台に向かって図面を書いてくれ」と命じ、その後ろから「出図が足りなくて製作班の手が止まりそうです」と声がかかるシーンがあるが、これはまさにジブリの中で、宮崎の絵コンテをめぐって起きている騒動の戯画なのだろう。

アニメーターは単純な職業で、今日は風をうまく表現できた、光の反射がうまく描けた、それだけで2〜3日は幸せになれるのがアニメーターだとも彼は言っている。じっさい、この映画は、ありとあらゆる種類の風の表現に満ちている。草むらを分けて吹いてゆく風、帽子や傘を飛ばす風、紙ひこうきの風の揺らめき・・。ちょうど前作「崖の上のポニョ」が、水の表現の集大成だったのと好対照だ。

そして、人々がまだしも穏やかだった時代の、礼儀を含むゆったりした時間の流れ。これをアニメーションで描けるのは、もう宮崎という人の他にはいなくなってしまった。だからこそ、結末に向けた求心力の強いストーリーではなく、エピソードを淡々と重ねていくスタイルが似合っているのだろう。

夢は狂気をはらむ。美に傾く代償は少なくない」と企画書の中で、彼は書く。それを知りながら、なおかつ最高の設計、最良の表現を求めて、主人公もヒロインも(そして作者も)駆け抜けた。だから、どんな結末になろうとも、この映画は「けれど、幸せ」と歌って消えていくのかもしれない。まさに、ひこうき雲のように。
by Tomoichi_Sato | 2013-09-14 00:41 | 映画評・音楽評 | Comments(0)

プロジェクト・リスクとは目標の反対概念である

先週、プロジェクトマネジメント学会に招かれて、「海外プロジェクトのリスク戦略を考える」というキーノート・スピーチをさせていただいた。『リスク戦略』とは、1時間で語るには大きすぎるタイトルだが、こうしたテーマが望まれるのも、いよいよ日本企業や大学人の多くが、海外に目を向けざるをえないようになったからだろう。グローバル化の時代に遅れるな云々の、メディアによる各種ドライブも影響しているのかもしれない。

そうはいっても、不慣れな外国との商売は何かと怖い。だからリスクマネジメントなるものが必要だ--そんな流れから、売上の85%が海外プロジェクトであるわたしの勤務先が、多少の興味を呼ぶのだろう。海外とのリスクについて、どんなことを考えているのか、ちょっと聞いてみようか。ということで、わたしなどが呼ばれたにちがいない。

限られた時間なので、講演では三つのポイントにしぼって話をした。第一に、リスクをおさえるには、事前計画と事後対応が車の両輪で、その両方の能力を組織で持つべきだ、というわたしの持論。二番目は、教科書や正解を盲信するのは危険であって、むしろ失敗にきちんと向き合って学ぶことが大切だということ。そして三番目に、リスクとは成功しない可能性なのだから、リスクマネジメントをしたいなら、プロジェクトの成功基準である『目標』を明確にするべきだ、という主張である。多少の例やクイズをおりまぜつつ、できるだけ分かりやすく説明させていただいたつもりでいる。

ところで、最後にあげたリスクと目標設定の関係については、来聴者の中にも意表をつかれた思いの方が少なくなかったようだ。プロジェクトには「どうなれば成功であるか」の目標設定が必要であり、その目標にネガティブな影響を与える可能性として、リスクをとらえる。この話が目新しく聞こえるとしたら、それはプロジェクトの成功と失敗の基準が、案外不明確であることを意味する。PM学会の参加者でさえそうなのだから、世間では認知されていないかもしれぬ。そこで本稿で、補足して少し説明することにする。

いま、あるプロジェクトを海外の顧客から受注した、としよう。しかし、そのプロジェクトでは、どうやら顧客要求事項が当初よりふくれる気配がある。理由は顧客にとっての市場環境の変化である。さて、これはリスクだろうか?

一つのポイントは、海外顧客であることだ。国内の、それも長年つきあいのある顧客ならば、お互いにあまり無理のあることは言わないのが暗黙の約束だ。しかし、契約ベースで事を決めたがる海外顧客には、(むろん相手にもよるが、通常は)暗黙の合意や阿吽の呼吸は通じない。では、仕事のスコープとコストが増大しそうなこの状況を、危険なリスクと捉えるべきか。

答えは、「必ずしもリスクとは限らない」である。それは、契約の条件によるからだ。もしもこれが一括請負契約、すなわち一定金額ですべての役務を請け負う契約なら、たしかに役務スコープ増大の可能性はリスクであろう。しかし、これが実費償還契約、すなわちかかったコストに一定の手数料をのせて払ってくれる契約なら、仕事量の増大はむしろ歓迎すべき事だ。なぜなら、売上と利益が増えることを意味するからである。

なあんだ、と思われただろうか。だが、もし最初の質問文で「リスクかも・・」という想いが頭をよぎったとしたら、それは、自分が一括請負契約のプロジェクト運営に慣らされすぎているのである。受注ビジネスでは、基本的に赤字は失敗と見なされる。受注金額が一定で、遂行コストが増大したら、赤字の可能性が増える。だからリスクだ、と考える。

ちなみに、米国のStandish Groupによるレポートは、IT分野のプロジェクトの成功率を継続的に調査しており、IT系プロジェクトの難しさを示す統計として、よく引用される。2003年版報告によると、調査対象となった米国企業の1万3,522のITプロジェクトのうち、成功したプロジェクトは34%にとどまった。彼らのレポートでは、コスト・仕様・スケジュールの三要素を、計画通り達成できたケースを「成功」と定義している。コスト・仕様・スケジュールはプロジェクトの代表的な制約条件であり、別名『鉄の三角形』Iron Triangleとも呼ばれる。仕様(品質)のかわりにScope(役務範囲)を入れる場合もあるが、実質的にはほぼ同じ意味だ。だから、鉄の三角形を破ってしまったら、それは不成功と考える訳だ。

<プロジェクトの制約条件: コスト・スコープ・スケジュールの「鉄の三角形」>
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でも、これは果たして正しいのだろうか? 試しに、視点を受注者から発注者、すなわちプロジェクトに投資する側に移してみるといい。プロジェクト事業に投資するのは、何かの目的があるからだ。業務のプロセスを改善するとか、新製品を開発するとか、新工場を建設するとかいった事業は、必ずしもそれ自体が目的ではない。プロジェクトは、新市場を開拓したり競争環境を改善したりして、事業の継続と成長を目指す手段にすぎない。

たとえば新製品開発の場合、何よりも大事なのは納期=Time to Marketで、ライバルより少しでも早く製品を上市することが求められるケースが多い。必要ならばコストを使ってでも、納期を早める。この場合、コストは決してハードな制約条件ではない。かりに予定より3割多く費用を使っても、予定より2ヶ月早く完了すれば大成功、というプロジェクトも存在するのだ。

別の例を挙げるなら、アメリカのアポロ計画は、ソ連との宇宙開発競争を制することが最大の眼目であった。ケネディ大統領が成功の目標としておいたのは、「'60年代の内に人間を月に送る」ことだ。最大の目標値はスピード(時間)であり、最大の制約事項は安全性であった。そのために、アメリカは金に糸目はつけずにつぎ込んだ。そして実際、'69年にその目標を達成した。アポロ計画にとってリスクとは、まず打ち上げを遅らせるような要因であり、次にはロケットの安全性をおびやかす要因であった。コストは目標でも制約条件でもない。だから、コスト増の要因はリスクではないのだ。

目標値が、「成果物の性能」で規定されるケースも多い。新しい通信デバイスを開発する場合、コストも予定どおり、納期も予定どおり、しかし通信速度が目標を満たせなかったら、それは明らかに失敗である。こうした場合、最大のリスクとは,何よりも性能に影響を与える因子のことである。

プロジェクトの目標値が、コスト・品質(スコープ)・スケジュールの三要素以外の場合だってあるだろう。たとえば新規獲得顧客数だとか、顧客満足度だとか、在庫削減率とか。こうした目標値は、プロジェクトが狙う真の目的から導かれる。そしてリスクとは、その真の目的に近づくことを妨害する要因である。

だから、リスクマネジメントをきちんと考えたいのならば、

何のためにそのプロジェクトをやっているのか目的)」
どういう状態になれば、プロジェクトは成功したと言えるのか目標値)」

を、最初に明確にしなければいけない。この点を曖昧にしたまま、何となくプロジェクトをスタートさせたり、制約条件であるスコープ・コスト・スケジュールさえ満たせば成功である、などと漠然と考えるから、真のリスクを見落とすのである。

たしかに、受注型プロジェクトの場合、その目的は、とにかくさっさと手切れ良く仕事を終わらせて、利益を出すこと、というパターンが殆どだ。だからどうしても『鉄の三角形』の制約条件ばかりに目がいきがちになる。だが、制約それ自体は目標ではない。100m競争に出場して100mの距離を走るのは制約(要求事項)であって、目標値ではない。さすがにゴールまでたどり着けなければ明らかに失敗だが、ふつう、目標値としては、12秒台で走るとか、新しいフォームを試すとかいったことを掲げるだろう。そうして、結果を見て成功か失敗かを測るのである。

もっとも、仕事のスタートにあたって、目標値(=成功を測る基準)を明確にしない組織には、ひとつの心理的な傾向がある。それは、“失敗をひどく嫌う”傾向である。失敗するとひどく罰せられる。だから、失敗も成功も曖昧にしておく。せいぜい、抽象的な言葉だけで目標を設定する。そうすれば、終わってから言葉で言い抜けるのは可能である。数字で目標など設定しようものなら、成否は明らかになってしまう。

こういう組織は、自己の失敗経験から学ぶことができないのは明らかだろう。すべては成功であり、反省の材料はないからだ。失敗が許されない組織とは、じつはもっとも生存のリスクが大きい組織なのである。

上にのべた講演では、かつてわたし自身がやってしまった、「納期も予算も仕様も満足させたが、ユーザーがちっとも使ってくれなかった」システム開発の経験を例に挙げた。恥ずかしい話である。だが、「使われなかったシステム」というのは、案外多くの会社にもあるのではないか。このケース、Standish Groupのモノサシでは、成功プロジェクトということになる。しかし、これは失敗だったはずだ。その理由は、一番大事なリスクを見落としていたためだ、というのが、今のわたしの率直な反省なのである。
by Tomoichi_Sato | 2013-09-08 23:32 | リスク・マネジメント | Comments(0)

書評:それでも、日本人は『戦争』を選んだ 加藤陽子

「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」 加藤陽子・著 (Amazon.com)


前回書評で取り上げた「ハーバード白熱日本史教室」は、女性の歴史学者による講義の話。今回の本書も、女性歴史家による講義録。だが内容は、ずいぶん違う。先の著者は米国で活躍中の新進の研究者だったが、他方、こちらは東大の教授である。歴史研究に対する姿勢も、方やマクロな印象主義に対して、こちらはミクロな史料を地道に追いかけ分析する伝統的スタイル。こう書くといかに渋そうな内容に聞こえよう。だが、面白さの点でいえば、良い勝負、いや、むしろこちらに軍配が上がる。とにかく、一読、巻を置く能わず、というくらい面白いのだ。

タイトルだけ見ると、なんだか左翼歴史家の反戦史観による糾弾の書、みたいな印象を受けるかもしれない。しかし、それはまったくの誤解である。本書は、戦略思考に関する本なのだ。それも、国家戦略を考える練習帳である。著者は、講義の聴講生(すなわち読者)にむかって、「これこれのシチュエーションにある時、列強は当該国に、どういう要求を出してくるでしょうか?」「帝国主義の時代において、戦争の最大の『効用』は一般に何だったでしょうか?」といった質問を次々に繰り出してくる。あれか? これか? 自分でも思案しながら読み進むと、事実や数字を背景に、意外な答えが解説される。そういう面白さに満ちた本である。だから、ストラテジーというものに関心を持つビジネスマンは、みな本書を手にして、考えながら読むべきである。非常にためになるだろう。

ちなみに本書は2007年の年末から正月にかけて、5日間にわたり行われた中高校生向けの講義録である。受講生は、神奈川の私立・栄光学園の歴史クラブのメンバー。しかし講義は決して程度を落としたものではないし、生徒達もちゃんとついていくばかりか、ときには著者の質問にはっしと切り結んだりするから立派なものである。

たとえば、著者は米国の歴史家A・メイの『歴史の誤用』(過去の歴史から間違った教訓を学ぶこと)の例として、アメリカがベトナム戦争に深入りしていく経緯をとりあげ、「どのような歴史の教訓がアメリカを縛ったのか」と問う(p.76)。それに対して、一人の生徒の答えは「赤狩りとかがあって、共産主義に対する恐怖心が植え付けられて強硬にならざるを得なかった」と推論する。なかなか鋭い視点である。米国がインドシナに深入りを始める'50年代前半が、マッカーシズムの時代だったことを的確に見ている。大人でも、両者のつながりが見えていない人は多いだろう。

ところが、これに対する著者の答えは、「アメリカにとっての『中国の喪失』の体験です」という、意外なものだ。第二次大戦は、米国が蒋介石の中国と同盟して日本に勝った戦争だ。ところがその後4年間の中国の内戦を、アメリカは手を出せずに過ごし、結局は共産化してしまった。巨大な潜在的市場を失ったのである。「この中国喪失の体験により、アメリカ人の中に非常に大きなトラウマが生まれました。戦争の最後の部分で、内戦がその国を支配しそうになったとき、あくまで介入して、自らの望む体制を作り上げなければならない、このような教訓が導き出されました」(p.78)。--これはA・メイの解釈を著者が紹介している箇所だが、現代に至るまで、じつにアメリカの戦略と行動を見事に規定しているではないか。

むろん、この本の主軸は日本の近代史、それも戦争をめぐる近代史である。したがって第1章は日清戦争から始まる。19世紀末、中国(清)と日本は東アジアの両国関係のリーダーシップを争っていた。軍事的紛争は、その一局面であるという立場を著者はとる。だから今日いわれるような「侵略・被侵略の物語では、返って見えにくくなるもの」が歴史にはある(p.84)と著者は主張する。李鴻章の改革により急速に近代化する中国の軍隊。これをみて危機感を募らせた山県有朋に対し、ウィーンのフォン・シュタイン教授がアドバイスをする。彼は、主権の及ぶ国土の範囲である「主権線」と、国土の存亡に関わる外国の状態を「利益線」とを区別すべき事を教える。その上で、ロシアの南下の動きも合わせ見て、朝鮮半島を中立に置くことが日本の利益線になる、と諭すのである。

もちろん、そう簡単にはいかない。清は朝鮮を華夷秩序の版図の内に見ているから、結局は日清戦争が起こる。結果は日本が勝ち、国家予算の3倍もの賠償金を手に入れるのだが、外交の失敗により三国干渉で遼東半島の支配権を失う。「その結果おこった国内政治の最大の変化は何か?」という問いも面白い。それは、日本の民意の高まりである。国政に、普通選挙を通じてもっと民意を反映させたい、という運動なのだった。

日露戦争もまた、朝鮮半島の支配権をめぐる戦争であった。そして第一次大戦。欧州列強たちの活動の空白を狙って、日本はドイツが得ていた山東半島の実効利権を獲得しようと動き、さらに「二十一箇条の要求」を出す。これが世界に与えた影響は、実は甚大だった。中国では初めて自発的な国民運動が起き、日本は世界外交で綱渡りを強いられることになる。そうして日本は、満州事変から日中戦争へと泥沼に足を踏み入れていくのである。こうした流れを、著者はいろいろな問いを立てながら導いていく。

「(日露戦争前の)ロシアは、日本が韓国問題のために戦争に訴えてでも戦うつもりであったことに、なぜ気づかなかったのでしょうか?」(p.170)
「日露戦争後に、日本国内では国会や地方議会に出てくる人の質が変わった。どう変化したのでしょうか?」(p.184)
「列強がヨーロッパでの第一次大戦で手一杯のときに、この戦争を機会にめざされた,島国としての安全保障上の利益は何でしょうか?」(p.196)
「イギリスはなぜ、日本が日英同盟の名によって大戦に参戦するのをよろこばなかったのでしょうか?」(p.216)

こうした問いの連鎖は、最終的に、「日本はなぜ、圧倒的に国力に差があるアメリカと戦争に踏み切ったのか?」「日本軍は戦争をどんなふうに終わらせようと考えていたのか?」「なぜ、緒戦の戦勝に賭けようとしたのか?」という、本の表題の発問につながっていく。

最初に書いたように、著者はけっして反戦史観の歴史家ではない(もちろん、好戦的史学者でもないが)。ついでにいうと、著者が好む歴史的人物は、たとえば松岡洋右(満州国問題で日本が国際連盟を脱退したときの外交団長)や、中国の外交官であった胡適(日本との戦争に最終的に勝つためには、中国が最初の2,3年は負け続けて多くを失う必要がある、という捨て身の戦略論を唱えた)である。さらに、石原莞爾(満州事変の首謀者)あたりにも好意的に感じられる。いずれも、非常に知的であり、かつ大胆な行動をとり、エリートだが非主流派的な人物だ。頭が良くて、男らしい男。いかにも、東大の女性が好きそうな好みではないか。

それはともあれ、本書の冒頭には、18世紀のルソーが早くも喝破していた、「戦争とは、相手国の憲法を書きかえるもの」であるというテーゼが紹介されている。相手国の支配原理を転換させること。これがために、国家はどのように考えどのように準備するのか、またどのような錯誤がそれをおかしな方向にむかわせるのか。これが著者の研究テーマである。

そうした国家戦略の問いに対して、優秀な高校生達が十分に議論を交わせることに、わたし達は新鮮な驚きを感じる。頼もしい、と思う人もいよう。

しかし、本当にそれだけでいいのだろうか?という疑問が、読んでいて頭をかすめたのも事実だ。たとえば、長い人生経験を通じて得られた人間性への洞察、あるいは個人の意思と運命的な世の動きとの相克に対する感情的共感、そして複雑な人間集団の中でぎりぎり求められるモラル--こうした理解や知恵は、国家戦略の分析には不要なのだろうか。企業の小さな組織でさえ、しばしば利害だけでなく人々の情念に動かされる。国家のような大きな問いに向かうとき、本当は単なる『頭の良さ』だけでなく、成熟した『賢さ』こそが、一番求められるのではないだろうか。

第二次大戦における日本の最大の不幸は、一部の『頭の良い』人たちが中央に残った代わりに、市井にいた大勢の『賢い』人たちを失ったことにある。そのことに、本書はなぜか十分な注意が向いていないように思われる。本書は非常に面白い。だが、その面白さは、良くできた棋譜の解説に似ている。だから、読み終わってしばらくたつと、中に何が書かれていたか,また読み返さないと思い出せなくなるのである。
by Tomoichi_Sato | 2013-09-01 23:58 | 書評 | Comments(2)