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トヨタ生産システムとは、じつはトヨタ生産&販売システムである

数年前、中東のある国で、大手自動車ディーラーを訪ねたことがある。そこで働く日本人の方のお話を聞くためだった。名前をS氏としておこう。その会社はトヨタ車の販売も多く手がけており、トヨタのOBであるS氏を社内指導に招いていたのである。訪問の主目的は当該国のビジネス事情と官庁との関係をヒアリングすることだったが、氏がご自分がしてこられた事について、淡々と話されるのを聞くうちに、次第に驚嘆の気持ちがわたしの中でふくらんでいった。以下はその時に聞いた話だ(ただし差し障りがないよう、本質的でない点は少し変えてある)。

S氏はもともと、人材育成と社内教育のために、その2年ほど前に呼ばれたのだった。車のディーラーは、業容が拡大すると、売ったらそれで終わり、では済まなくなる。まず、補修用のサービスパーツを自分で手がける必要が出てくる。さらに売上が増えると、自社で保守点検の修理工場を持つことになる。他の不慣れな整備屋に直されて下手に故障されるより、正規ディーラーが修理を手がける方が車の寿命も伸び、結果としてビジネスの評判も良くなるからだ。

かくして、その会社も全国に何箇所かメンテナンス・ショップを持つことになった。そうなると、整備工の教育訓練が大事になってくる。本社に教育研修のためのセンターを作り、きちんとしたプログラムのもと、全国から集めた整備工を育てることになった。そのセンター長として、S氏が招聘されたのである。

ちなみにS氏は、長く海外営業畑を歩いてこられ、アジアの関連会社にも何年かおられたとのことで、英語に関しては全く問題ないようだった。中東では大学教育は英語でやるから、社内でホワイトカラーと仕事をする際には大きな不便はない。もちろん、S氏は技術者ではないから、実際の技能訓練は部下の指導員たちに任せることになる。そして、技能工以外の、社員各層への教育育成もS氏の責任範囲だった。

わたし達は、S氏のオフィスで話を伺った。ミーティングもできるような細長い部屋の隅にデスクをおいて仕事をされている。背面の壁には、模造紙大の大きな紙に、工程表のバーチャートが描かれていて、縦にイナズマ線が引かれている(これが実は毛糸をピンで留めたもので、進捗を確認し、イナズマ線を引き直すのが簡単にできるようにになっている。まことに典型的な、「目で見る管理」である)。

ところで、S氏が着任直後にやったのは、社長のところに直談判にいくことだった、という。なぜか。--S氏の最初にすべきことは、育成のプログラムを作り、指導員たちをまず育成指導することだ。そのため、自分の部門の方針を立てる必要がある。ところが、「驚いたことに、この会社には各部門の方針がなかったんです。それというのも、会社全体の年度方針を社長が出していないからです。つまり、経営をしていなかった。」 そこで、まず社長に、方針管理の重要性を説いて聞かせ、何度か説明し説得し懇願した結果、ようやく全体方針ができた。それを元に、教育研修センターの方針も具体的に作ることができるようになった。

その次にS氏は、センターの方針を部下の指導員や中間管理職たちに下ろして、それぞれの担当セクションの方針と目標をつくらせた。むろん、これがまた一苦労。誰もいままでそんなことをしたことが無かったからだ。右から入ってくる顧客の注文や上司の命令を、左にふって指示すれば、それで仕事をした気になる人たちばっかりだった。S氏はしかし、倦まずひるまず、方針管理を彼らにも貫徹する。年度目標ができたら、今度はそれを時間軸に沿って、どういう手順でどれだけ達成していくかを決めさせる。その結果が、S氏の背中に貼ってあった工程表なのだ。

さらにS氏は、(たしか2週に1度だったと思うが)定例ミーティングで全員を招集した。進捗状況と問題点を報告させるためだ。ただし、ミーティングの冒頭には必ず、このセンターのミッションを全員に大声で復唱させる。ミッション・ステートメントは英語でわずか2行程度の簡潔なもので、部屋の入り口の上に紙で貼ってあった。もちとん、S氏も一緒に大声で唱える。知的な読者諸賢にとって、こんなやり方はひどく体育会的に見えるだろう。しかし、こうすれば、必ず全員の頭の中に、「自分たちの仕事の目的、役割は何か」が刷り込まれる。議論がもつれた際には、このミッションに立ち戻って、何が一番大事かを再確認する。

進捗が2回以上滞っている場合は、何か大きな問題か障害が起こっていると判断し、工程表のイナズマ線の該当箇所に、赤い大きな印をピンで留める。わたしが見たのは2年目の終わりで、ピンの数は2箇所だけだったが、きっと初年度のイナズマ線はもっとぐちゃぐちゃだったに違いない。そして問題点を分析し、解決策をこうじる。「この、問題原因の分析というのも、正しいやり方があるんです」とS氏はいう(原因分析は、有名な「なぜなぜ5回」をやるのだと想像するが、たしかにこの「なぜなぜ分析」は、下手にやると、意味ある分析結果が出てこない)。

S氏はもちろん、自分でも研修の講師をする。営業、輸送、保全などの社員に、小さなオモチャのようなキットを使い、グループで演習をさせながら、トヨタ生産方式の中核である平準化生産の意義を教える、という。やってみればわかるとおり、多くの製品をかためて一度に作るより、少しずつ平準化して作る方が、販売も物流も生産も、ずっと効率がいい。その分、とうぜん安くなる。だから儲かる。「営業がどいういうふうに売れば、生産コストが安くなるのか、ゲームで皆が納得するのです。」

この話を聞いたとき、つくづくトヨタとは空恐ろしい会社だと思った。この方は営業畑の人なのだ。それが、自社の生産システムをきちんと、他人に伝わるように、説明できる。では、日本の製造業で、営業マンが自社の生産の仕組みを外部に説明し、なおかつ、「生産コストが安くなるような売り方とは何か」を語れる企業がどれだけあるだろうか? 営業は営業、生産は生産。それは二つの別の組織。そう思っている会社がほとんどではないのか。

営業は、工場が作ったものを売りさばくのが仕事。技術のことに口出すべきではない。--それが、高度成長期の感覚だった。時代は下り、今は逆に、「工場は、営業がとってきた案件を文句言わずにこなすのが仕事。急な追加も変更もお客様あってのこと、微妙なセールスのことに口を出すんじゃない」、という会社も増えた。だが、両者に壁があるのは変わりない。営業は大げさな販売計画を立てる。工場はその数字を信用せずに、鉛筆を舐めて別の数字で生産計画を立てる。そういう会社を、わたしはいくつも知っている。

ライバルと目される、あるメーカーにいたっては、「自分のとこの営業マンは、トヨタほどセールス力がないから、平準化してなんか売れない。だから、どんな注文がいつ飛び込んできても、すぐに対応できるよう生産側だけで工夫するのだ」と発言する人までいる。トヨタからみれば、こんな状況はお笑い種のはずだ(もちろん、口には出すまいが)。その方針のおかげで、どれだけサプライヤーが振り回されることか。結果、どれだけ生産コストが上がっていることか。

トヨタが成長したのは、カリスマ的なリーダーが衆愚を統率したからでも、ユーザーにしびれるようなエクスペリエンスを与える画期的新製品を連発したからでもない。アメリカ市場で現地生産を始めたのも、大手の中では一番遅かった。今の経済メディアがふりまく「企業の成長に必要なのはカリスマ・リーダー、画期的製品、グローバル化だ」という論調は、どれも当てはまらないのだ。

彼らの真の強さとは、営業と生産がちゃんとかみ合って動いていることにある。このことに、多くの人は気づいていない。それは、ある意味、大野耐一氏が「トヨタ生産システム」と名付けたことに始まるのではないか。これが「トヨタ生産&販売システム」と名付けられていたら、もっと世の中の理解は進んでいただろう。そしてまた、いわゆるJIT生産コンサルタントたちも、その意義を十分宣伝していないように思われる。というのも、JIT生産コンサルの多くは、トヨタ系列のサプライヤー指導で生計を立ててきたからである。トヨタ本体の販売が、きちんと計画通りに売って、ブレの少ない先行内示を保証してくれるから、部品メーカー側も安心して、小ロット生産やシングル段取りなどの現場カイゼンに精を出せるのである。まともな販売があってはじめて、生産のあるべき姿が決まるのだ。

それにしても、S氏の仕事ぶりを見て、改めてその徹底ぶりに感じ入った。わたしは決してトヨタの崇拝者ではない(車も別の会社のものに乗っている)。ただ、尊敬はする。あの会社は、上から下まで、販売の末端から製造の最上流まで、どこまでも首尾一貫しているのである。それが、「システム」というものの強さなのだ。そのことを、世の中の営業系の人たちも、もっと知って欲しいと思う。トヨタ生産システムとは、トヨタの生産&販売システムなのである。


関連エントリ:
→「あなたの会社にトヨタ生産方式が向かない五つの理由
by Tomoichi_Sato | 2013-08-25 13:03 | サプライチェーン | Comments(0)

「プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会」(8/30) 開催のお知らせ

「プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会」 は、小生が主査を務めるオープンな研究会です。スケジューリング学会の下に位置していますが、学会員でなくても、どなたでも自由に参加できます。

本年第4回会合を、以下の要領にて開催いたします。直前の案内になってしまい恐縮ですが、非常に興味深い講演になりますので、ぜひご参加ください。

<記>
日時: 8月30日(金)18:30-20:00
場所: 慶應義塾大学 日吉キャンパス・来往舎・小会議室  (←いつもとは別のキャンパスですのでご注意ください!)
〒223-8521 神奈川県横浜市港北区日吉4-1-1

内容:  「システムズ・レジリエンス -- 想定外を科学する」
講師: 丸山 宏 (統計数理研究所 副所長)

講演概要:
 レジリエンスとは,環境の大きな変化に対して,一時的に機能を失ったとしても柔軟に回復できる能力を指す概念であり,生態学等ではよく知られたものである.生物,生態系,国家や企業などの社会システム,人間の心理など,レジリエントな性質を持つシステムは多くある.我々は,これら多様な分野におけるレジリエンスを調べることによって,レジリエントなシステムを構築・運用するための共通な知識体系を構築することを目標に,研究を行なっている.
 本講演では,このプロジェクトの狙い,方針,それに現在の研究活動について述べる.

講師紹介:
 丸山宏先生は元・日本IBM基礎研究所所長として、またキヤノン株式会社開発本部副本部長として、長年にわたり計算機科学とソフトウェアの分野で活躍されてきた著名な研究者です。2010年に統計数理研究所に移られてからは、「システムズ・レジリエンス~想定外を科学する」という研究プロジェクトを組織し、生物・工学・社会などのシステムに共通するレジリエンスの原理について、多方面から研究を進めておられます。
 本講演では、『想定外』と称されるようなリスク事象と、それに対する備えの原理としてのレジリエンスについて、最近の研究成果も交えたお話をうかがう予定です。ご期待ください。

参加費用:無料。
ちなみに本研究部会員がスケジューリング学会に新たに参加される場合、学会の入会金(1,000円)は免除されます。

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参加を希望される方は、人数確認のため、 できれば当日までに研究部会主査にご連絡ください。
よろしくお願いいたします。

研究部会 主査  佐藤知一(日揮株式会社)
by Tomoichi_Sato | 2013-08-22 10:18 | ビジネス | Comments(0)

研究部会(8/30)と講演(9/5)のお知らせ

直前のお知らせになってしまいましたが、案内が2件あります。

「プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会」は、来る8月30日(金)6時半から、統計数理研究所副所長(元・日本IBM基礎研究所長)の丸山宏先生に「リスクとレジリエンスの科学」(仮題)のテーマでご講演いただく予定です。場所は慶応大学日吉キャンパスになる見込みです(参加費無料)。
 講演タイトルと場所の詳細は決まり次第、追ってご案内します。

 また、来る9月5日(木)10時より、東洋大学白山キャンパスで開催されるプロジェクトマネジメント学会秋季大会で、わたしが「海外プロジェクトのリスク戦略を考える」と題する基調講演をいたします。

両テーマに関心のある方のご来聴をお待ちしております。


佐藤知一
by Tomoichi_Sato | 2013-08-20 08:59 | ビジネス | Comments(0)

人事評価におけるトレードオフ問題--業績と能力のどちらを重視すべきなのか

将棋の第54期王位戦は、羽生善治・現王位の先手・第一勝ではじまった。第2戦も羽生が勝ったが、第3戦は挑戦者の行方尚史八段が逆転勝利。第4戦はまた羽生が制して、まさに王位に「王手」をかけた状態にある。さて、羽生と行方八段は、どちらの方が能力が上だろうか?

将棋という競技は、ポーカーや麻雀などと違って、偶然性に左右される部分がまったくないゲームである。そこでは純粋に知力だけが勝負を決める。麻雀のように偶然が支配的なゲームの場合にも、もちろん上手下手は存在するが、その能力はただ1回の勝負だけでは決められない。下手がその時だけ運にめぐまれて勝つことがあるからだ。しかし、囲碁や将棋はちがう。だったら、なぜプロの将棋のタイトルは7連戦もするのか。放映権を持つTV局の陰謀なのか。

もちろん、ファンはその理由を知っている。たとえプロの棋士といえど、その日その時々での調子のブレがあるのだ。将棋は盤面が狭く、紙一重の差で勝敗が決する。わずかな体調、疲れ、気負い、おごりなどで集中力を欠いた手を打つと、それが結果に現れる。だから、そうしたブレの影響がならされるように、7回もの(ある意味では長丁場の)戦いによって、その能力の優劣を決めるのだ。

ここから教訓にできることが一つある。どんなに純粋に能力だけの勝負であっても、短期的には結果のブレが生じるということだ。それは天候や開催地などの外部環境、そして体調や気分といった内部環境からくる微妙な攪乱で引き起こされる。まして、もっとずっと環境要因に左右されやすいビジネスの世界では、これが顕著になる。人の能力は、短期的な業績だけでははかれないのだ。

ここで「短期」というのは、3日くらいのことをいうのか、それとも3週間なのか、3ヶ月なのか? 答えは、仕事の種類による。タクシーの運転手なら、3日あれば十分に成果を測ることができそうだ。セールスなら、業種にもよるが、案件は1~2ヶ月でだいたい決するだろう。もちろん、職位にもよる。営業部門長だったら、単発案件ではなく部門全体の受注額がモノサシになるから、3ヶ月では短期だと思うかもしれない。ちなみに、わたしが普段関わっているエンジニアリング系のプロジェクトとなると、終わるまで平気で3年も4年もかかるから、1年だってある意味、短期だ。

どんな職位の仕事にも、安定した結果が出るまでにかかる期間の目安がある。(理系の人向けに分かりやすくいうと、制御工学の用語でいう固有の『時定数』があるわけだ。時定数とは、ごく簡単にいうと、あるシステムが外乱を受けてから安定した状態に戻るまでの時間である。そして時定数より短い時間を「短期」と考える)。業績は短期でも測れるが、それは能力だけで決まるわけではない。ちょうど将棋の第1戦だけで王位を決めないように。

では『能力』とは一体なにをさすのか? これは逆から考えてみるとわかる。能力とは、確率なのである。ある目標値を、どれだけの確率で達成できるかを示す言葉が、能力なのだ。将棋なら、勝率と言ってもいい。野球だったら、打率や防御率(これも一種の確率的な指標だ)。「彼はここぞという時にホームランを打つ能力がある」というのは、「一度ホームランをうった実績がある」でも「100%ホームランを打つ」でもなく、そうした状況でホームランを打つ確率が(他に比べて)、有意に高いことを言っている。

このように、能力を客観的に測るのは、時間がかかるし難しい。本当のプロならば、他人のスイングフォームや1打席のバッティングを見ただけで、およその能力評価はできるかもしれない。だが変転目まぐるしいビジネス界では、本当のプロがそうそういる訳でもない。

そこで登場したのが、人事評価における『成果主義』であった。成果主義にはいろいろなバリエーションがあるが、多くは「成果に結びつく行動を評価する」という考えをとる。こうすれば、潜在的で測りにくい能力の評価にたよらず、外部に見える行動で評価できる、と考える(まあ、中には、単なる業績結果だけで測る『結果主義』評価もあるが)。ちなみに余談だが、この発想の背景には、アメリカの行動主義の影響があるようにわたしは感じる。行動主義とは、「心理学は記憶や感情といった主観的なものを研究対象とするのをやめて、行動という客観的で目に見えるものだけを研究対象とする科学になるべきだ」、という主張である。

ところで、この成果主義による人事評価が、様々な批判にまみれたのは周知の通りだ。Wikipedia にも解説があるから詳細は略すが、成果主義には根本的な課題が二つあった。
(1) 成果はどうしても短期的な変動にさらされやすく、運・不運を排除できない
(2) 組織的な仕事においては、個人の成果と組織全体の業績の関係が判然とせず、結果として「成果」のモノサシの置き方が恣意的になりやすい

この(1)については、またちょっと理科系的な説明を加えておこう(自分は根っから文系だと思う人は、以下数行はとばし読みしてもいい)。上で述べた考え方は、いわば次のように定式化できる:

 個人の短期的な業績 = f(個人の能力、制約条件、環境の変動)

ここで制約条件とは、その人に与えられた権限の範囲(自由度)や予算などを示し、また環境の変動は、仕事に降りかかってきた外乱や内部攪乱因子を指す。もしfの関数型が正確に分かれば、能力と成果はどちらか一つを測ればいいわけだが、むろん簡単ではない。(理系風説明おわり)

かくして、われわれは前回の最後に紹介したトレードオフの問題にたどり着く。能力は潜在的で測りにくい。成果はばらつきが大きい。人事評価ではどちらを重視すべきなのか。

この問題を解決するためには、そもそも「人事評価」の目的は何だったかを考える必要がある。人事考課は、賞与の査定や昇級・昇格などに用いられる、と前に書いた。ところで、「ある人の賞与を決める」ことと「ある人のポジションを決める」のは、じつは別のことではないか。賞与というのは、個人が直近の過去に行った貢献への報酬である。他方、ポジションを決めることは、未来の可能性について個人に賭けることを意味する。(ここでいうポジションとは、課長と係長とかいうグレードのことだけでなく、どの職種や役割をまかせるかという一般的な意味で使っている)。未来と過去と、二つのことを同じモノサシで測ろうとするから、矛盾が生じるのだ。

である以上、答えは明白だ。

「過去に属すること、すなわち賞与の査定においては、個人の業績によって報いる。未来に属すること、すなわちポジジョン決定においては、個人の能力によって決める。」

運がよくて業績を上げることができた人の場合は、報奨を与える。企業全体は業績(利益)を求めて活動しているのだから、貢献に報いるのは当然である。他方、もし能力があり努力したのに、運が無くて業績につながらなかったら--そのときは、能力の評価を記録し、将来のポジショニングに用いる。

このような制度設計の下では、武運つたなく失敗した人にも、次の機会が与えられることになる。失敗をも許容する、「チャレンジ精神の可能な組織」になるわけだ。よくあるような、“運がよい人はさらに報い、運の無い人はさらに罰する”評価の仕組みだと、社内は「勝ち組」と「負け組」に分断され、大勢のモチベーションが削がれていく。こうしたおかしなことは、起こらなくなる。

その上で、もし、どうしても人事的な「総合点」をつけたければ、以前「逆張りで成功した部下は、どう評価すべきか」に書いたように、その職位によって「業績」と「能力」のブレンド比率を変えればよい。上に行けば行くほど、「業績」のウェイトを高くする。下の方の職位では、定められたプロセスやフォームをどれだけ身につけているか(=能力)の比重を大きくする。

ところで、C:A:PモデルのA(態度)は、どこに行ったのか? じつは態度とは、より一般化するならば、「個人の行動の方向性が、組織の目指す方向性と合致する程度」をあらわす指標である、と考えられる。すると(また理科系的な説明を我慢していただくとして)

 組織の業績 = g(各人の能力、各人の態度、組織レベルの制約条件)

と定式化したとき、態度は、個人の業績と組織の業績をむすびつけるファクターになる。このgは合成的な関数で、単なる足し算Σではないが、態度がバラバラだと全体の業績が上がらないような形になっているはずである。

そして、わたしがこのところずっと個人的に研究してきたのは、プロジェクトとかプログラムといった種類の仕事の業績が、それを構成する各アクティビティの貢献とどう関係するかであった。たとえていうなれば、g関数の構造を考えてきたわけだ。その研究の萌芽的な成果は、「プロジェクトにおけるタスクの価値を計算する」「プロジェクト貢献価値の理論」などでかつて簡単に説明したが、まだまだ解明すべき問題はたくさんある。とても一人で解ききれる問題とも思えない。

だからわたしは、こういうサイトに書いたり、あるいは「プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会」などの活動を通して、一緒に考えてくれる同志を探しつづけているのである。


関連エントリ:


逆張りで成功した部下は、どう評価すべきか
プロジェクトにおけるタスクの価値を計算する
プロジェクト貢献価値の理論
by Tomoichi_Sato | 2013-08-18 21:36 | ビジネス | Comments(0)

人事評価とはどういう仕事か--『C:A:Pモデル』による分析の試み

中間管理職になってからそれなりの時間がたつが、人の評価というのはいまだに不得手である。毎年回ってくる、人事評定と呼ばれる仕事のことだ。部下を面接し、その目標や達成度や希望やら不満やらを聞いて、それからおもむろに机に向かって、その人の評点をつける。面接自体はそれほど苦にならないが、評価がいつも難しい。その昔、面接で自分が上司に訴えるだけですんだ頃に比べると、とても気の重い仕事である。自分の評価した結果が、直接、その人のボーナス査定や昇進につながるからだ。

まあ、わたしの職場の場合、自分の決めた評点が最終値となるわけではなく、さらに上司やもっと上での調整・決定が行われるので、少しは責任が軽いと言えるかもしれない。ただ、査定が決まった後、今度は管理職は部下にそれを伝えなければならない。当然、(なぜ自分の努力はこれしか報われないのですか?)と、全員の目が訴えてくる。自分だってそうだったのだから、もちろん気持ちはよく分かる。

だいたい、“自分は会社から十分に評価されています”なんて感じているサラリーマンは、めったにいないのだ。いや、経営者だって、“自分は株主や世間から十分に感謝されていない”と思っているのかもしれぬ。それどころか、たとえ総理大臣になった人でさえ、経験者に聞けば十人が十人、「自分は不当な評価しか受けなかった」と言うにきまっている。人間とは、そういう生きものなのだろう。

だから、人事評価というのは決して感謝されず、尊敬もされない仕事なのだ。だったらいっそのこと、面倒な査定なんか全廃して、全員に同じ評点をつけてやれば、ずいぶん仕事のムダが減って効率アップではないか。

だが、そうならないのには理由がある。人事評価は、サラリーマンの世界では、人を動かす最大のウェポン(武器)だからだ。口先でいくらいっても、部下はなかなか動かない。皆、それぞれに意見があるからだ。しかし、“この方針にしたがえば査定で有利になる”というメッセージが伝わると、ほぼ全員がそろって従うようになる。人を動かす力として、リーダーシップがくり出すのは「影響力」や「統率力」だが、人事評価は「強制力」なのである。このため、どの組織でも人事評価の方法には非常に神経を使っている。

ところで、わたしの考えでは、人の評価にはふつう三種類の指標(モノサシ)が用いられる(なお、これ以降はわたし個人の考察であり、べつに勤務先の事情を述べているのではない。念のため)。
そのモノサシとは、以下の三つだ:

(1)能力
(2)態度
(3)業績

用語については、バリエーションがいろいろある。能力は、最近では「コンピテンシー」と呼ぶのがはやりである。態度は、「勤務態度」が普通の呼び方だろうか。「業績」のかわりに「実績」とか「成果」「結果」「成績」「パフォーマンス」などと呼ぶ職場もあるだろう。対応する英語もいろいろだが、ここでは (1)Capability, (2)Attitude, (3)Performance results としておく。頭文字をとるとC, A, Pである。

人事評価のあり方は、この3つのモノサシにかける比重の違いであらわせると、考えられる。たとえば、能力(C)が40%、態度(A)と業績(P)が30%ずつのウェイトならば、C:A:P=40:30:30ということになる。もっと能力点の比重が高いところは、C:A:P=60:20:20になるだろう。かりにC, A, Pそれぞれを頂点にとって三角形を描けば、各評価制度はその内部の一点として表せる。そこで、これを人事評価のC:A:Pモデル、と呼ぶことにする。

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ところで、『年功』というモノサシはどうするのか? と疑問を持つ方もおられるかもしれぬ。じつは日本の年功序列制は、「能力は学歴と勤続年数だけで決まる」という、ひどく特殊な信憑の上に成り立っている。だから、一種の極端な能力主義なのである。ただし、能力を客観的に測定・検証しようという意識や仕組みを欠いている点が、いささか不都合と言えよう。また、歳をとると、勤務態度も多少は穏和に、組織順応型になっていく。だから年功序列制はC:A:P=90:10:0 くらいのポジションに位置すると考えていい。

近年、一時もてはやされた、いわゆる『成果主義』とは、従来の年功序列の欠点を反省し、業績(P)のウェイトを大きくして、個人のモチベーションを高めようという考えであった。ただし、これは建前で、本音のところは、高齢化する一方の社員の給与総額をなんとか抑え込むことだった、との批判もしばしば耳にする。とはいえ、成果主義は多くの企業に取り入れられたし、マッキンゼーのように「成果主義は、リーダーシップ育成のための必須の要件である」と信じるコンサルティング会社もある。

成果主義的な評価の一つの極端な例は、歩合制や出来高給である。実績(P)が100%で、あとは0%だ。聞くところによると、タクシーの運転手などは、こうした評価が多いらしい。いや、それだけではない。営業、それも個人営業中心で、あまりチーム・セールスなどを行わない業種では、しばしば営業成績一本やりで評価されるケースをよく耳にする。たとえば受注額とか売上高とかで、毎期の評定が決まる仕組みである。

では、勤務態度に大きな重心を置く評価制度はあるだろうか。わたしはあまり詳しくないが、軍隊、特に兵卒の評価などはそうかもしれない。軍隊組織では、上官の命令は絶対である。それに従うかどうかが兵卒の最大の要件だ。「前に進め!」と号令をかけられたら、頭で是非を判断する前に、反射的に足が前に出る--そういう風に軍隊では訓練を行う。どんなに能力があり、あるいは過去の実戦でたとえ戦果を上げていても、命令に不服従では話にならぬ。こういった評価体系になっているはずだ。

ただし、「能力」「態度」「業績」のモノサシで評価せよ、と言われても、そのままでは漠として手がつけにくい。そこで、気の利いた査定制度では、それぞれの指標(モノサシ)を、さらにサブ指標に要素分解するだろう。たとえば、
 能力:「技術的能力」「計画能力」「コミュニケーション能力」「問題解決能力」など
 態度:「協調性」「勤勉性」「積極性」など
 業績:「受注率」「売上高」「新規顧客獲得数」など(営業職種の場合)
・・などに分けて、それぞれ採点するといった具合だ。このように、対象に対する多角的・階層的なアプローチを行うやり方は、以前も説明したStructured Approachの応用である。

読者諸賢も、ためしに、自分の職場における評価軸のあり方は、CAP比率がどれくらいで、上記の三角形のどのあたりに位置するか、考えてみられたい。たとえば、皆さんの近くに、仕事はできるが、勤務態度は最低だ、という同僚もいるだろう。そう言う人は、どういう処遇を受けているだろうか。

さらに、もし自分が社長だったら、三角形のどのあたりに人事評価のポジションを位置づけるかを想像してみるのも、面白いだろう。

以前、「豹のリーダーシップ、狼のリーダーシップ」にも書いたとおり、組織のマネジメントのあり方は個人主義的なスタイルと集団主義的なスタイルに分かれる。そして人事査定制度のあり方は、組織をどのようにマネジメントしていくかに直結するのである。個人主義的なスタイルは、業績(P)や能力(C)にウェイトが置かれるだろう。集団主義では、態度(A)が重きを置かれる。ただ、今日の企業ではオフィスワーカーが多いため、態度点の比重は軽くなりつつある。ホワイトカラーは考えることが仕事であり、命令されたことに従うだけでは会社が成り立たないからだ。

したがって、現代では能力主義(C)と成果主義(P)の二頂点を結ぶ辺のどこかに、評価制度を位置づけることが多い。ところで、能力は潜在的な特性である。だから、なかなか測りにくい。他方、実績は見えやすいが、外的環境変動(つまり運・不運)の影響を受けやすい。どちらにも人を評価するモノサシとして欠点がある。両者の間のバランスは、とても悩ましいのである。

では、このトレードオフを解決する方法はないのか。じつは、あるのだ。だが例によって長くなってきたので、続きは次回また書こう。


関連エントリ:
→「豹のリーダーシップ、狼のリーダーシップ
→「書評: 『採用基準』 伊賀泰代
by Tomoichi_Sato | 2013-08-10 23:18 | ビジネス | Comments(0)

システムとはいったい何を指すのか

まだ駆け出しだった頃、上司との定期面接の席上で、お前は将来どういう職種を目指すのか、とたずねられた。わたしは即座に、『システム・モデラー』になりたいです、と答えた。複雑な対象系を観察・分析して、シンプルな要素に分解し、その間の定量的な関係をつかんで予測や制御や改善を行う。そんな仕事をしたいと考えたのだった。しかし、上司の返答は、「システム・アナリストとかシステム・エンジニアという職種ならあるが、システム・モデラーなどというものはこの会社にはない」というものだった。いや、自分の会社だけではなく、どこを調べてもそんな職種はなさそうだった。

わたしが当時やっていたのは、石油製油所の複雑な装置群の組み合わせを、線形計画法をつかって最適化する仕事だった。化学プラントの設計理論は「プロセス工学」といい、それを設計する職種は「プロセス・エンジニア」と呼ばれる。これは世界共通である。ところでプラントというのは、巨大なシステムであると、わたしは思った。したがってこのような仕事は一種のシステム・エンジニアである、はずだ。だが、世間ではSEという言葉を、もっとずっと狭い意味、つまりコンピュータに直接関わる設計技術者の呼称で使っていた。わたしはそこでシステム・モデラーという用語を思いついたのだった。

もともと会社に入る前、修士論文の研究テーマは、湖沼生態系のシミュレーションだった。わたしの専攻は化学工学だが、当時は環境研究が盛んで、わたしも諏訪湖という、富栄養化現象で非常に問題になったフィールドを選び、その解決法を探ってみた。富栄養化現象とは、過剰に流入する栄養分のおかげで生態系自体のバランスが狂い、植物プランクトンの一種だけが異常繁殖して汚染を起こす現象だ(→「システムが崩壊するとき」参照)。生物学者達は、湖の水質や生物相について几帳面に測定し、膨大なデータを取って蓄積していたが、それをうまく解析できずにいた。わたしは湖自体を、一種の反応装置としてモデル化し、化学工学的手法を応用して、その挙動を予測するシミュレーションを行った。生態系は英語でEcosystemだ。だから、システム・モデラーという発想は、元々わたし自身にとって自然なものだった。

その後、わたしは一時プラント系の分野を離れて、医療だとか都市開発だとか工場の基本計画だとか生産スケジューリングだとかいう仕事に何年間かかかわった。だが、どの分野に行っても、わたしの発想は同じだ。よく分からない、複雑な対象系がある。だれも、全体像をうまく説明できない。それを、いくつかの要素に分解し、それらの間のシンプルな定量的関係式を割り出して、その挙動を予測する。つまりモデリングである。そしてわたしの目からは、いろいろなものが『システム』に見えるのだ。しかし、どうもシステムという用語について、世間とは大きなギャップがあるらしい。では、その違いはどこにあるのか? そもそも世間では、どのようなものをシステムと呼んでいるのか?

わたしが考えるに、「システム」には4つのカテゴリーがある。

最初に、あまりSE職種の人たちには縁のないカテゴリーからはじめよう。たとえば、「明朗会計システム」。どちらかというと、職場よりも歓楽街で見かけそうなシステムだ。これはサービスの対価を計算する方式、手順のことを言っている。それから、在庫管理でよく用いる「ダブルビン・システム」。箱や容器を2個用意しておき、片方を使い切ったら、補充発注する方式だ。安価だが在庫を切らしたくない品目に用いる。デパートなどで見かける、トイレット・ペーパーが上下二段になっているタイプなど、この応用だ。もっと言うと、かんばん方式もこの類縁である。そして、「品質マネジメントシステム」。これらは、とくに物理的実体はない。方式、手順をシステムと呼んでいる。

方式に近い用語として、体系などもシステムと呼ばれる。たとえば、品目コードや装置コードなどの管理番号の付番体系。これは英語でNumbering systemという。さらに、英語にはSystematicsという名の学問もある。何かと思えば、じつは生物の系統分類学だった。

ついでにいうと、実験などの結果を分析する際、なんだか誤差が一方向ばかりに偏っているなあ、と感じるとき、「系統的誤差」Systematic errorがある、という。これら、「方式、手順」「体系、系統分類」「(誤差の)傾向」などは、いずれも物理的な実体を持たない。いわば、人間の認知の中にのみ存在する『システム』である。ここに共通するのは、“ばらばらでない、恣意的でない、ランダムでない組合せ”であって、人間の情報処理の負担を助けてくれることだ。こうしたシステムは、頭の負荷を軽くして、凡人でもそれなりに見通しが立つようにしてくれる。

第2のカテゴリーは、「自然界に生じた、あるいは産まれたもの」である。たとえば、英語でSolar systemとは、太陽系のことである(別に太陽電池のことではない)。さきほどあげた生態系Ecosystemなどもその類で、自然に生じた集合体である。さらに、生物個体も、よく考えてみるとシステムと呼べるだろう。広く用いられるシステムの定義に、「複数の要素が有機的に関係して働きを生みだす」というのがあるが、動物はまさに内臓や筋骨や神経系などが有機的に組み合わさってできている。単細胞生物だって、細胞内小器官という内部要素をもっている。英語では、自分自身の身体のことをMy systemと呼んだりすることがあるから、そうとっぴではあるまい。

第3のカテゴリーは、「人間が意図して作り出したもの」である。もしそれが、複数の要素がうまく組み合わさって機能を生みだしているなら、システムと呼んでもおかしくあるまい。

ただ、たとえば「椅子はシステムだ、なぜなら4本の脚と座面と背もたれという要素が組み合わさって、座る道具としての機能を生んでいるから」といわれても、納得できる人は少ない。どうも、静的な道具はあまりシステムとして認識されにくいようだ。では、動的な機構を持つ道具はどうか。たとえば、100年近く前の旧型自動車。たしかにエンジン・タイヤそのほかの部品を組み合わせて、移動という機能を生みだしている。わたしは「システム」と呼んでもいいように思うのだが、世間ではそう見ないようだ。

それでは、米国の国勢調査の集計のためにHollerithが考案したパンチカード・マシンはどうか。彼の発明がのちにIBMを生み、また計算機の端末の横幅は80文字、という伝統を生みだした。電気と機械工学の粋で、立派な仕組みである。少なくとも彼自身は「システム」と呼んでいる。

わたしの考えでは、人間が生みだした道具の内、自動制御機構か情報処理機構を持つものを、世間では「システム」と呼ぶ傾向が強いようだ。Hollerithのマシンはその境界線上にある。上に述べたように、化学プラントは制御の機構を持っており、システムと呼ばれてもおかしくない(Process systemという用語はある)。あるいは、ジェームズ・ワットの蒸気機関。産業革命のきっかけとなった彼の機械は、それ以前のニューコメンの蒸気機関などと異なり、巧妙な出力安定化の機構が組み込まれていた。システムの先駆けであろう。それから、かつての電話網。機械式交換器による回線接続の制御が確立した時点で、ネットワーク・システムになったと考えていいと思う。

しかし、現在のところ「システム」の名をほぼ独占しているのは、情報処理機構を中心とした道具である。それが計算機 Computer systemであり、情報システムInformation systemというわけだ。

さらに計算機が自動制御用途に応用されるに及んで、「制御と情報処理の機構を持つ道具」がどんどん増えてきた。都市交通(電車等)、上水道、給配電などはいずれもその両方をもつ、巨大なシステムである。いま,わたし達の政府が「成長戦略」と呼んで、やっきになって旗を振っている「インフラ・システム輸出」は、このカテゴリーを主に想定している。もちろん、現代的なプラントや工場などの生産システムも、ここに属する。

では、第4のカテゴリーとは? それは、「人間集団から生じた物事」である。たとえば、企業。あるいは、市場。それから、医療などもそうだ。これらは、複数の要素が複雑に関係し合って、ある目的に奉仕する仕組みである。だから、『システム』として認識してしかるべきだと、わたしは思う。これらが第3カテゴリーの道具類と違うのは、必ずしも誰か特定少数者が「意図して作り出した」ものとは限らない点だ。第4カテゴリーのやっかいな点、と同時に面白い点は、多数の人間がかかわっていて、設計や意思決定が単独で行われないことにある。

このカテゴリーの中には、さらに抽象的なシステム群がある。それは、「ルールはあるが自明な目的が存在しないもの」で、その例は、家族、言語、文化などである。こうしたものをシステムと認知しているのは一部の学者のみで、世間の大多数はそういう目では見ないだろう。ただ、たとえば社会学者パーソンズのSocial Systems論などのように、システムの視点ではじめて見えてくるものが、たしかにあるのだ。

上述のカテゴリーを図の形に示しておく(作図にはFreeMindというソフトを使用した)。これも体系分類の一種だから、「Systemsのシステム図」ということになるだろうか。世間であまり「システム」と呼ばれないものは、グレーアウトして表示している。

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最初の話に戻ると、システム・モデラーという職名はやむなく一時断念することにした。世間にちっとも通じないからだ。その後しばらくは、「システム・アナリスト」を名乗ったりもした。だが、あいにく情報処理技術者のSAの資格を持っている訳ではないし、そもそもシステム分析家という呼び方にすこしだけひっかかりがあった。システム・アナリストの分析する対象は何なのだ。情報システムか? すでにできあがった情報システムを分析して何が面白いのか? そうではあるまい。この名称は、たぶん「情報システムにのせる」ために業務を「分析する」人のことだ。だとしたら名前が、少しずれている。わたしがなりたかったのは、あくまでモデラーなのだ。

今は、わたしは「プロジェクト・アナリスト」だと名乗っている。ただしこの職名も、勤務先には存在しない。だから著書やホームページで勝手にそう名乗るだけで、名刺には書いていない。ただPMO部門にいたから、こう書くのはそれほど矛盾していないとは思う。世間の考える(狭義の)「システム」と、自分の理解する(広義の)「システム」のギャップが埋まるまでは、あこがれであった「システム・モデラー」の職名は、ずっと棚上げのままである。


<関連エントリ>
→「システムが崩壊するとき
by Tomoichi_Sato | 2013-08-01 23:46 | 考えるヒント | Comments(0)