<   2013年 07月 ( 3 )   > この月の画像一覧

大学の体育の授業で学んだ、人の自発的な育て方

生まれつき、運動音痴である。小学校の時から、体育や運動会でいい成績を出したことがない。バランス感覚とか、瞬間的な判断とか、筋力とか、手脚のスムーズなコントロールとか、そういったことがからきしダメである。父母はどちらも長身で運動神経が良く、スポーツ万能だったのだが、あいにく、似てほしい美点は受け継がなかったらしい。おまけに生来、小柄である。かつ、体もひどく硬い。まったく良いとこなしである。

運動能力の低さをカバーし、体力を向上すべく、中学・高校とも運動部に入ったが、結果として青春の記憶を屈辱で上塗りしただけだった。自分が多少なりとも好きだと言えるスポーツ、他人に劣等感を感じずにいられる種目はスキーただ一つだった。スキーは自力ではなく重力によって駆動する点が、まだしも幸いだったらしい。しかしスキーなんて冬しかできないし、おまけに遠いスキー場までわざわざ出かけていかなければできない。だからクラスの女の子の友達にかっこいいところを見せられるチャンスなど、ほぼ皆無であった(だいいち、高校は男子校だったのだ)。そういうわけで、普段の体育の時間は、わたしにとってはただ忍従の時間であった。

大学に入って、はじめてまともな体育の授業を受けた。むろん最初は、「大学に入ってまで、まだ体育の授業があるのかよ!」と落胆したものだ。おまけに大学は入学生全員に運動能力テストなるものを課し、その結果が一定レベルに達しない学生には、『トレーニング』なる恐ろしげなクラスを受講させるのだ。もっといい結果を出した友達は、テニスだとかサッカーだとか、好きなクラスを選ぶことができた。だがわたしは当然のごとく、トレーニングに回されることになった。

ところが、このトレーニング・クラスは、わたしがそれまで受けた中で別格、いや、次元が違うくらい、まともな体育の授業だった。まず、教師の説明が科学的だった。トレーニングの内容は、小さなダンベル(重量がkgで表示されている)をつかったウェイト・トレーニングに始まり、ついで全身を使うサーキット・トレーニングが加わる。学生は各人、硬い紙のスコアカードが渡される。それに毎回、自分のスコアを記録して行く。たとえば右手にダンベルを持ち、右肩の上において、肘を伸ばして持ち上げる。その単純な、要素的な運動を、何回やれるか記入していく。

教師のインストラクションは、こうだった。「もし君らが、8回未満しかその運動ができなかったら、それは負荷が重すぎるのだ。そのときは、1kg軽いウェイトを使え。また、逆に16回以上その運動ができた場合、負荷が軽すぎる。だから1kg重いウェイトを次回はトライすること。重すぎるウェイトで無理を続けてりしてはいけない。それは筋肉にむしろ障害を与える。軽すぎる負荷では、もちろん筋力の向上にはつながらない。」 そしてまた、こうも言った。「こうしたトレーニングのための運動は、週1回では足りないことが統計で明らかになっている。7日たつと、獲得された筋力がもとに戻ってしまうのだ。週2回やれば、筋力は維持される。だから本校の体育の授業は教養過程の間、週2回に設定している。」

そして極め付けは、これだった。「諸君は別に他人と比べる必要はない。各人の運動能力はそれぞれ別で、個性があるのだ。だから、過去の自分とだけ比較して、向上を確認すればいい。」

実際、毎週同じトレーニングを続けて行くうちに、少しずつだが自分のスコアは着実に上がって行った。それは、とても喜ばしいことだった。自分にも運動面で向上する余地が、あるいは可能性があるのだ。トレーニング内容は少しずつ組み合わせで複雑になって行ったが、プログラムが緻密に設計されているため、ついて行くことができた。何より、他人と比較されて、劣等感を感じずに済んだ。それは、生まれてはじめての事だった。

そして逆に、それまで10年間受けてきた体育は、いったいなんだったのか、と思わざるを得なかった。運動部の、ほとんどプログラムも設計もない、ただむやみなジャンプやダッシュや筋肉運動の数々。そして体力をつけるため「体をいじめる」という、不可思議な観念。それは単なる精神主義の産物ではないのか。こうしてスコアに記録して数値化し、それを集めて分析し、さらにプログラムの設計を向上させる、という科学的発想はどこにも見られなかった。だが、あきらかに体育は科学の対象なのだ。目から鱗が落ちる経験とは、まさにこのことだった。

それから、長い年月がたった。会社に入り、またわたしは運動ともスポーツとも縁のない生活になった。最初の頃こそ昼休みのジョギングとかプールでの水泳などをしていたが、次第にいつの間にか遠ざかり、気がつくと筋肉は衰え、おなか周りばかりが成長した。

このままではまずいと、中高年になってからヨガを始めた。ひとのすすめもあってはじめたのだが、最初はひどくつらかった。何せ、非常に体が硬いのである。ヨガは様々な「ポーズ」をとることが基本だ。そのポーズが、ちっとも決まらないのである。他人がやすやすとやっている(と見える)ことが、自分にはほとんど拷問だった。金を払ってまで、なんでこんな辛い思いをしているのか、思わず自問自答した。それでもすぐにやめなかったのは、ヨガをやった日は多少よく眠れたからだった。

しかし、しばらくして良い先生と出会うことができた。この先生はエクササイズの途中の段階に来ると、目を閉じてやってください、と指示する。そして、「自分の体の状態に意識を向けるよう集中してください。他人と比べる必要はありません。」という。このことで、随分、気持ちが楽になった。自分だけ上手にできなくても、それを恥ずかしく思う必要はないのだった。おかげでそれ以来、相変わらず体は硬いが、何年間も続けられている。体の硬さも、ほんとうにゆっくりではあるが、少しは改善されてきた。

競争原理で人は動く、と広く考えられている。それは確かにそのとおりだ。競争があったからこそ、発明も進歩もあり、人類の生活はここまで発展することができた。だから、学校でも企業でも、人をお互いに競争させ、順位をつけることで管理する仕組みが広がっている。入学試験しかり、業績評定しかり、昇進しかり。

しかし、このような競争原理による人の管理には、一面、不安定な部分がある。それはトップ2〜3割の人間にはとても効果的に機能するが、それ以外の7〜8割は途中から次第に息切れしていく点だ。そしてボトムの1〜2割は、早くに競争に背を向け、戦線離脱していく。残る5〜6割の、いわゆるボリューム・ゾーンにいる人たちのモチベーションをどうやって維持するかが、このような管理手法の課題になる。

ところで、あの体育の先生はわたしたち学生を「管理」していただろうか? そうではなかった。記録を見て何か異常を発見したり、実技で怪我が出たりしたときには介入したが、それ以外はわたし達にまかせた。わたし達はいわば、自分で自分を管理したのだ。マネジメント理論の用語でいえば、『目標管理』(Management by Objective)である。先生の役割は、プログラムをつくり、記録・データを分析し、異常がないかを見守っただけである。わたしは、他人ではなく過去のわたしと競争していた訳だ。

だれしも、管理されるのはいやだ。でも、能力は向上したい。もしも人と比較して管理されるのが嫌なら、自分自身が設定した目標とくらべて向上を図るしかない。「目標管理」がひろく用いられる所以である。逆に、むきだしの競争原理が、科学と無縁の根性論に結びついて生まれた「管理」システムは、ボリューム・ゾーンの人のやる気を傷つける可能性さえあるだろう。

大学入学後に義務づけられた最初の半期が終わった後も、わたしは、また「トレーニング」クラスを選択した。今度は自分の意思である。わたし自身はボリューム・ゾーンの、かなりボトムの方だった。それでも楽しく授業を受け続けた。良いプログラムと、数値に基づく自己目標と、データの科学的な分析。それがあれば、あとは人は自分で育つのだ。

そのことをわたしは、ちゃんと学んだだろうか? 毎晩、寝る前にストレッチをしながら、今日も職場で余計な「管理」をしていなかったか、自分で反省しつつ思い返してみるのである。
by Tomoichi_Sato | 2013-07-21 23:41 | ビジネス | Comments(1)

『職人的であること』を調べるための5つのチェックリスト

ビリー・ワイルダー監督の映画が好きだ。20世紀中盤に活躍したアメリカの映画監督で(出身はオーストリア)、軽妙だがよく練り込まれた脚本と、俳優の持ち味を生かす演出やキャメラが特徴である。先日も「深夜の告白」をBSで放映していたので、すかさず録画した。彼は「サンセット大通り」「アパートの鍵、貸します」「昼下がりの情事」など、映画史に残る有名な作品をいくつも撮っているが、古い人なのでややマイナーな作品はなかなか見るチャンスがない。

ビリー・ワイルダー監督の一番好きな点は、『職人的』であることだ。妙に芸術映画をねらったり、あるいは大作で観客動員をあてこんだりする映画作家も多いが、彼は堅実な作風で、かつ観客のかゆいところに手が届くサービス精神に満ちている。その上で、ときに忘れがたい名シーンを作り上げる。職人に徹しながら、ある瞬間、職人芸を突き抜けて普遍的表現に至る。その点で、ヒッチコックや、もっと古いところでバスター・キートン(喜劇俳優・兼・監督)にも、ちょっと似ている。というか、わたしはどうも、そういう人たちが好きらしい。

職人的であることとはどういうことなのか、ときどき考える。永六輔に「職人」(岩波新書)という本があり、期待して読み始めたのだが、途中で

「売ろうと思って作っているのではないのですよ。作ったものが、ありがたいことに売れていくだけです。」

との発言がありがたそうに収録してあり、その時点でわたしは読むのをやめてしまった。これは、職人の言うセリフではない。いつの間にか芸術家(民芸家)になってしまった、元職人のセリフと感じたからだ。職人というのは、商売であり、職業感覚をつねに持っている。考えてみてほしい。大工や左官屋(=壁を塗る職人)が、“売ろうと思って作ってはいない。作ったものが、売れていくだけ”などと言うだろうか? 職人は注文に対して、仕事をする。自己満足のために仕事はしないのだ。日用品は注文が無くても作るかもしれないが(=見込生産)、使い手の実用品を作っている意識はなくさないはずだ。

1年半ほど前、わたしはこのサイトで、これからの日本の若い人たちは職人的な手仕事や農業に再び向かうのではないか、という予測を書いた(「2年後の日本を予測する」2012/01/09)。大学や専門学校などで高い教育を受けた人たちが(日本の専門学校は世界的に見て非常にレベルが高い)、手仕事に向かうのは、良いことだと思う。

昭和の時代には、職人や農民は工業高校や農業高校出だった。知的訓練の場としては十分とは言い難いが、作れば売れる高度成長期には、あまり複雑に考える能力は不要だったろう。でも現代では、ちゃんとしたマインドがないと、規模の小さな専門的商売はうまくやっていけない(世の中には、“一流エリート校以外の大学は不要だ、二流三流の大学はつぶしてしまって、平民は高卒の給料で働かせれば十分だ”と考えている人たちもいるらしい。だが、わたしは若い時期の数年間の知的訓練は、決してムダではないと思っている)。

ただし、今では忘れられつつあるが、昭和時代の職人は、それなりにきちんと収入を得られる職業だった。家族を養い、弟子を育てる余裕もある、立派な職業である。だから、自負も高かった。それが工業の大量生産に押され、次第に自立が難しくなり、平成のバブル時代に事実上、絶滅に瀕することになったのだ。ただ、現代の日本はもはや、画一的な大量生産だけでは生き残れない時代に変わっている。そこにもう一度、手仕事へのチャンスが生まれるのではないか。そもそも、日本人の資質はこうした職業に向いている。いや、むしろ今のわたし達の社会では、組織に属しネクタイを締めて通勤していても、内面の実質は職人である人も多いかもしれない。

そういうわけで、「職人的であること」の適性を調べるためのチェックリストを作成し、ここに供する次第である。読者諸兄も、自分の同僚や上司や部下に、「ネクタイを締めた職人」がいないかどうか、チェックしてみてはいかがだろうか。リストは5項目からなる。

1.ツール: 

職人気質は、道具へのこだわり・愛着が強い。この点は説明不要だろう。自分の道具は自分で研ぎ、自分の道具箱は人に勝手に触らせないのが職人の典型である。

2.名誉心
: 

職人は世間で有名になることよりも、同業仲間で一目置かれることを目指す。職人は寡黙なのだ。メディアにこびを売るのは芸人やマーケター達のする事である。

3.独立心: 

職人は、組織よりも職種への帰属意識が強い。だから独立心も強い。かつて大勢の職人を抱えていた人の話によると、何年も働いていても、気に入らないことがあると、ある日プイっと辞めて、いなくなってしまうという。手に職があれば、また次の仕事が見つかるのである。

4.報酬:  

職人は、きちんとした報酬のために働く。ただし、金銭は必要条件だが、十分条件ではない。それよりも、「いい仕事」が最大の報酬(満足)である。だから時には、多少赤字になっても、満足のいく仕上げに努力したりする。

5.細部への指向

職人は、細部の仕上げに努力を惜しまない。

ご存じのとおり江戸時代の身分制度は「士農工商」で、職人は三番目の身分と言うことになっていた。で、上記の5項の頭文字を集めると、ツール(T = Tool)・名誉心(H = Honor)・独立心(I = Independence)・報酬(R = Reward)・細部への指向(D = Detail oriented)で、"THIRD"となる次第だ。まあ、これ以外にも、職人は仕事の手順にこだわる(良い成果が出ても手順が不正だと認めない)とか、数値管理されることを嫌う(量より質だ)、とかいろいろ思いつくが、5項目くらいが扱いやすいだろう。

職人は今や絶滅危惧種だが、職人に類似した生きものに、「エンジニア」と「アーティスト」がいる。これらはみな、『モノづくり』種族に属する。ただし、エンジニアは背景に西洋近代科学があるため、普遍性・汎用性を指向する。ここが大量生産時代にマッチしていたため、職人と入れ替わるように一時かなり繁殖した。一方アーティストはつねに少数だが、独創性・個別性の世界に生きている。

e0058447_1158290.gif


いいかえれば、職人は「自分がやれば、つねに90点」の仕事をめざす。エンジニアは「誰がやっても、だいたい80点」の仕事をつくろうとする。そしてアーティストは「0点か、さもなければ120点」の仕事をねらう(そして同じモノを見ても、人によって0点か100点か違ったりする)。求めるものが、異なるのだ。

こまったことに、自分ができると思っていることと、世の中から求められることは、ときどき差がある。職人として求められ、職人として働ければ、それはそれで幸せである。逆に、エンジニアとして会社に雇われているのに、実質は職人で、しかも自分はアーティストだと自負していたら、それはかなりの悲劇だろう。だからこそ、自分自身は職人として仕事に徹し、しかも時にアーティストの燦めきを見せる、ビリー・ワイルダー監督のような人がわたしは好きなのである。


関連エントリ
→「2年後の日本を予測する」 2012/01/09
by Tomoichi_Sato | 2013-07-15 12:04 | ビジネス | Comments(0)

ITエンジニアの『生産性』と、データ・サイエンスの微妙な関係

ある、社外の人との集まりに顔を出した時のこと。IT分野の経験を積んだ人が多く、みな一家言持っておられる。わたしは昨年後半から、久しぶりに社内のIT関連業務を見るセクションに移ったばかりなので、最近の事情に疎い。なるべく拝聴する側に回ることにした。話は業界の技術トレンドから、クラウドやビッグデータといった最新のバズワードに向かい、日本のIT業界の現状をなげく論調にうつった。日本を代表する大手SIerたちの低空飛行ぶり、技術的イノベーションの不足、そして多重下請に象徴される業界の構造的問題。追い打ちをかけるように、オフショアとの競合による単価の下落。なんだか、あんまりエンカレッジされるような話題が出てこない。

--だとすると、日本のSI業界というのは将来性があるのでしょうか? わたしは思い切って、直球ど真ん中の質問をなげてみた。しかし返ってきたのは、苦笑いするように首を横に振る姿ばかり。

「情報システムを開発・維持する仕事は、この国に経済がある限り、無くならないでしょう。しかし今のSIerのような業態が続くかといえば、疑問だと思いますよ。」一人が答え、他のメンバーも賛同する。「一括請負で、プロマネは受注側には居るが発注側にはおらず、人月を一山いくらで売るばかりのソフトウェア商売は、もうこの先、もたないんじゃないかな。」これを別の人が引き取って続ける。「アメリカではPMは発注側の組織にいて、バラバラなユーザ要求をまとめる責任もあるんです。そうやって、納期やコストとのバランスを調整する。日本のユーザ企業って、そういう旗振り役がいないんで、全部請負側にリスクが押しつけられるんですよ。」

アメリカの事情は別にいい。わたしも多少は知っているし、ユーザ側のPMもじつは有期契約の渡り鳥だったりする。だが、とりあえずわたしは日本企業に勤めており、日本の業界の実態を知りたい。すこし矛先をかえて別の質問を出してみた。--ソフトウェア開発のプロジェクト・マネジメントで、一番苦心されるのは、どんな点ですか?

「それはね、人の確保ですよ。」右隣の人が答える。「それも、人数じゃない。出来る技術屋の確保。プロジェクトはこれに尽きます。ITエンジニアの生産性って、人によって30倍くらい違いますから。」すると向かいの人が突っ込む。「いやあ、人によっちゃあ、いつまで経っても出来あがらない奴がいるから、生産性の違いはもう無限大だな。」(笑)

あれ? わたしが駆け出しだったころ、プログラマの生産性の違いは“倍・半分”といっていた。10年ほど前には、たしかどこかで、SEの能力差は“10倍くらい”ときいた覚えがある。そして今や、30倍だという。この指標では、インフレが進んでいるようだ。なぜだろうか。開発環境やライブラリが充実したせいか。それとも、職種自体が変化しているのか。わたしはそれもたずねてみた。--その個人別の生産性の数字かグラフ、もしあったら見せてもらえますか?

「いや、そんなものはありませんよ」が、答えだった。
--じゃあ、どうやって30倍だと分かるんですか?
「そりゃあ、プロが見ていれば分かります。感覚ですけどね。」
--経年変化とかのグラフもない、と?
「佐藤さん。ITエンジニアの生産性って、具体的に測るのは難しいんですよ。」相手は諭すような口調でわたしに言った。

難しいくらいは、わたしにだって分かる。だから、どうやってそれをマネージしているのか興味を持ったのだ。何かをマネジメントしたかったら、まず、それを測って、数値化する。そして、標準値を設定する。その上で、実績が標準に足りない場合はその原因を調べて取り除き、さらに標準値自体を押し上げる改善の努力をする。これが、生産管理の世界での常識、いや、マネジメント全般に共通するやり方だ。

だから、IT分野のマネジメントで人の生産性が問題なら、それを測って数値化する試みから、着手されるはずである。そう、単純に考えたのだった。仕事の実績から、個人単位の生産性を割り出すのが難しいのなら、テスト問題を作ってみて、それで測る手もあるだろう。あるいは、もしプロが見て分かるのなら、5~6人の社内のベテランの目から評価させ、平均値をとる方法も考えられよう。だが、そうした発想は、ここでは通用しないらしい。

--個人の生産性の違いを決める、決めてってのは何ですか?
「そりゃあ、センスですよ。もって生まれたセンス。」
--てことは、生まれつき決まっていて、教育や研修では伸びないものだ、と。
「まあ多少、経験や、あと、誰について仕事を学んだかで、かわってきます。」
ーーふうむ。そうすると、IT開発マネジメントの最大の仕事というのは?
「だから、社内にいる限られた優秀なキーパーソンを、どうやって確保するかで勝負が決まるんです。」

この方は、社内の椅子取りゲームに勝つのがプロジェクト・マネジメントの要点であると信じているようだった。社内全体の椅子の数を増やして、全員が座れるようにするにはどうしたらいいか、は眼中にない様子だ。まあ、それを考えるのはPMOの仕事、ということなのかもしれない。

全体の話は次第に、ビッグデータの方に流れていった。ビッグデータという語の流行(?)とともに、『データ・サイエンティスト』という職種の概念が新たに登場し、急に脚光を浴びるようになってきた。多量のデータを見て、そこから“意味”や“仮説”を汲み出す力。まあ、たしかにエンジニアリングと言うよりもサイエンスに近い。技術は発明が主題だが、科学は発見が重要だからだ。では、そのデータ・サイエンティストはどのように育成するのか。大学はどこの専門を出た人間が適切なのか。いや、これはサイエンスと名付けているが、実際にはかなり「アート」に近い仕事なのではないか、云々。

だが、わたしは次第に話に興味を失っていった。とるべきデータなら、目の前に沢山ころがっているではないか。それは、自分たちIT分野の仕事の実績データである。生産性でもいい。生産性がもし難しいのなら、品質(つまり瑕疵)のデータでもいいし、あるいは受注確率のデータでもいい。自分達の仕事を向上させる手がかりは、データの中にしかないはずだ。なのに、なぜ商品RFIDの移動や、スマフォの緯度経度のデータばかりが重要だと考えるのか。データサイエンスから最も縁遠い業界の一つが、じつはIT業界ではないのか。そんな気がしてきたからだ。

国内外で仕事をしてきた経験から感じるのは、彼我の技術者のマネジメント観の違いである。いや、こういう言い方が大ざっぱすぎるなら、言い直そう。英米社会で教育を受けた技術者と、日本社会で主に教育を受けた技術者の違いはどこか。それは、マネジメントという仕事が独立した科学の対象でありうるかどうか、という意識の差である。

日本の技術者というのは、ほぼ例外なく真面目で、優秀だ。たとえば、最近読んだ調査によると、日本の大企業の基幹情報システムの障害による月間停止時間はわずか1.7時間なのに対し、北米では14.7時間だそうだ。まさに10倍近い信頼性の差である。また、ソフトウェアの不具合数(1年後に発見された1KLOCあたりの不具合数)は、
 日本 0.020
 アメリカ 0.400
 インド 0.263
 欧州他 0.225
 平均 0.150
だということで、日本のIT技術は格段に信頼性が高い(JUAS=日本情報システム・ユーザー協会「ユーザー企業ソフトウェアメトリクス調査2013」p.291 より引用)。

だが日本の技術者は、(IT分野に限らず機械だろうが建築だろうが)マネジメントは「文系の仕事」だと思っている人が少なくない。自分の仕事と認識している人でも、マネジメントとは“人間力の問題”だととらえることが多い。つまり、いかに出来の良い人をとってくるか、いかに人をモチベートしてやる気を出させるか、いかに明確なビジョンを示して皆を引っ張るか、いかにメンタルな面に気をつけてやるか、etc, etc... マネジメントとはヒューマン・ファクターの集合であり、個人が修行して悟るしかない。そして、それは自分の固有の技術領域とは無関係のものである、と。

IT業界人こそ、こうした「普通の日本人」の思考法の枠内から、自覚的に離れる努力をしていってほしいと、わたしは願う。もし生産性を測るのが難しいのだったら、そこをブレークスルーできた者は、大きな優位性を得られるはずである。なぜ、そうした方向を目指す企業が少ないのか。なぜ、一山いくらの値段勝負の泥沼から抜け出そうとしないのか。

IT業界には頭の良い人が多い。論理的に思考する能力を持たないと、仕事にならない。しかし、論理性だけでは、何かが足りないのだ。その何かは、「仕事に関するサイエンス」の中にしかないと思うのだが。
by Tomoichi_Sato | 2013-07-07 22:07 | プロジェクト・マネジメント | Comments(19)