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レベルいくつの議論をしているの?

わたしの働くエンジニアリング業界では、プロジェクトの構造や規模感について、ほぼ国際的な常識ないし合意事項がある。我々の業界で大規模プロジェクトといったら、予算総額1,000億円以上を通常、指す。そして大規模プロジェクトを構成する種々の単位作業(Activity)の総数は、大ざっぱに3~5万程度だ。もっとも最近はプラントの大型化が進み、規模感はややインフレ気味だが、上記の数字は一つの目安になる。

ところで、Activity数が3~5万と書いたが、これはプロジェクトを構成する最下位のActivity数である。プロジェクトを作業単位に階層的に分解して管理番号をつけ、予算や要員やスケジュールをコントロールしていく基準とする手法は、現代プロジェクトマネジメントの基本である(この作業の階層構造をWBS = Work Breakdown Structure と呼ぶことは、本サイトの読者諸兄ならばよくご存知と思う)。そして、ここで「最下位のActivity」というのは、普通「レベル4」に位置付けられる。

WBS の階層は、上から順に数字で数える。最上位のプロジェクト自体は「レベル0」であり、プロジェクト直下の、すなわちプロジェクト・マネージャーが直接差配する大くくりな作業区分を「レベル1」と呼ぶ。以下、レベル2,レベル3,と階層を下るごとに作業単位が細かくなり、一番下の担当者が走り回る作業をレベル4と呼ぶ。

この階層レベル感覚は、業界全体が順当と考え受け入れている慣習で、欧米の石油メジャーだろうが新興国の新参エンジニアリング会社だろうが、グローバルに共通である。契約書に付随する技術仕様書などにも、例えば「建設段階のスケジュール・コントロールはレベル3の工程表を作成し、1,000-2,000程度のActivity数で構成すること」みたいな要求事項が書かれていたりする。「いや、俺んところは別の分解の仕方が好きだ。せいぜい2階層にして…」などといっても海外では通用しない。

さて、ここからが本題だが、ビジネス界では、どのような事項も多くは階層的になっている。企業組織もそうだし、予算管理もそうだし、課題設定などもそうだ。あるターゲットを決めて、それに対する手段や方策を区分列挙し、総合していくやり方を、英語で"Structured Approach"と呼ぶ(「Structured Approachができる人、できない人」 2012/07/08 参照)。このアプローチは必然的に、階層化された表現とフィットする。

たとえば経営コンサルタントはよく、「工場の利益増大」といった上位課題を、「生産量の拡大」「生産性の向上」「在庫の圧縮」「仕入原価の削減」といった下位の課題に順次展開していく課題展開法を用いるが、これもこのアプローチの一つである。そして、このような課題展開図を作成したときは、レベルの数字を書き入れる。工場の利益増大はレベル1、在庫の圧縮がレベル2、手待ち在庫の最小化はレベル3という具合だ。課題の解決方法を議論する際は、「今どのレベルの議論をしているのか」をつねに意識させる。

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このように、課題のレベル感を意識する習慣を持つのは、とても有効なことだ。というのも、我々の議論がこんぐらがる原因の一つが、異なるレベルの議題を持ち込むことにあるからだ。今の工場で重要なのは生産性の向上か仕入れ原価の低減か、というレベル2の話をしているときに、最新のCADツールを導入すれば設計の能率がはかどるからぜひ予算を、といったレベル4の提案にこだわるのは賢い態度ではない。

もちろん、上位レベルの施策というのは、それ自体では抽象的で実行しようがない。だから下位レベルの具体的アクションまで、最終的にはおろしていく必要がある。ただ、現場に近い人間ほど、レベル5あるいはレベル5的な細かな制約にこだわりがちだ。その際、“どのレベルの話をしているのか”を互いに自覚できれば、「レベル4のこれこれの制約が現場にあるから、そのレベル2の施策は無効だ」といった、一足飛びの議論を避けることができる。

ミクロで細かな状況について検討するときに、マクロな情勢の優先度を忘れない態度のことを、『大局観』と呼ぶ。つまり、レベル感覚は大局観をやしなうのに有効なのである。

技術者という種族は、どうしても具体的な細部にこだわる傾向が強い。また日本を含む東アジアの文化は、欧米に比較すると、ディテール指向であるように思われる(同じプロジェクトに携わっていた米国人の同僚が、“なぜ非常にdetail orientedな議論をしたがるのか”と不思議がっていたのを、よく思い出す)。そこで我々の議論は、すぐに具体的個別性の藪の中に迷い込みがちである。欧米が何もかも優れているとは思わないが、彼らの抽象思考の能力は学びたいことの一つである。レベル1ならレベル1の世界の中で、彼らはちゃんと仮説を立て論証し演繹することができる。そこがしっかりしていると、実行段階でいろいろなことが起きても、大局観があまりブレずにすむ。

もう一つ。最初に書いたように、大規模プロジェクトのWBSを展開して数万のActivityを洗い出す際も、せいぜいレベル数は4程度でとどめる。階層の数が意外と少ない、と感じないだろうか。階層構造を作るときは、どちらかといえばフラットな形に展開し、あまり縦方向に深掘りしないでおく。この点は重要だ。

なぜかというと、タスクや課題の階層は、それを追いかけるための管理組織構造と結びつくからである。どんな人間でも、自分の目できちんと見ていられるのは、自分の担当するレベルの上下1階層か、せいぜいもう1階層下くらいまでである。プロマネはプロジェクトのレベル1を見るのが主な仕事だ。レベル2くらいは、必要に応じて口を出すかもしれない。しかし、それ以下のレベルについては、誰かに移譲してコントロールをまかせる事になるだろう。工場長は、工場レベルの課題や、その下の部署レベルの課題は相談に乗るだろう。しかし、明日の製造品目はどれにしましょうか、といったレベルの事までは面倒見きれない(それがよほどの大事であって工場長決裁を必要とするような問題でない限り)。

だから、階層を深く深く作ってしまうと、管理階層もそれだけ入り用になる。そうすると、遠からず管理過剰になって、余計な問題が生じてくる。ロジカルで頭のいい人が課題展開作業をすると、やけに厳密に階層を区分して、8レベルや10レベルまで出来あがったりする。しかし、階層区分は「良い加減」でまるめる技能が必要である。システム工学風にいうと、「深さ優先」でなく「幅優先」でツリーをたどることになる。

4レベルで3~5万という数字は、1レベル増えるごとに、13~15くらい枝が分かれる事を意味する。これが一つの目安なのだろう。そしてこの数字は、「組織のスケールアップと変曲点」で書いた、一人の管理者が持つべき部下の数と、偶然かもしれないがほぼ一致している。

もちろん、上に書いたレベル数は、相対的な位置で、企業内の絶対値ではない。工場長にとってレベル1の課題は、もしかすると会社全体ではレベル2なのかもしれない。大規模プロジェクトといえども、会社ではビジネスユニットの下のレベル2の仕事だったりする。

国全体の経済でいえば、レベル1の問題は、首相や閣僚や知事がかかわるべきものだ。業界単位の問題は、まあレベル2。そして、SONYやトヨタがいかに大企業であれ、個別企業はレベル3の話題であろう。今日のメディアは、どうもレベル6かレベル7くらいの話題をセンセーショナルに取り上げるのが好きなようだ。だが、レベル2くらいの重要な、しかし記事の見出しになりにくい、ゆっくりした大きなトレンドを、かえって見逃す傾向がある。

そうした中で大局観を失わないためにも、わたし達は、どんな議論であれ、全体のスコープの中でどのレベルの話をしているかを、つねに意識する態度を身につけるべきなのである。

関連エントリ
→「Structured Approachができる人、できない人
→「組織のスケールアップと変曲点
by Tomoichi_Sato | 2013-06-30 21:08 | ビジネス | Comments(0)

書評:ハーバード白熱日本史教室 北川智子

ハーバード白熱日本史教室 (新潮新書) →Amazon

世の中には優秀な人がいるんだなあ、と、まず感じた。著者は1980年生まれ。高校を出てすぐカナダに単身渡り、ブリティッシュ・コロンビア大学を3年で卒業。それも数学と生物学のDouble major(二重専攻)で両方の卒論を書き、国際関係を副専攻する。3年生の時にハーバードのサマースクールで日本史を受講。その後、日本史専攻に転じて2年でカナダで修士を取り、博士課程はプリンストン大学に入学。しかも、「単位数を無茶苦茶なスピードで積み上げ」(p.26)、入学からわずか1年と1ヶ月でジェネラルズと呼ばれる前期試験に合格する(普通は最短でも2年)。

その後、1年間は日本に戻り、東大の史料編纂所に研究生として通いながら史料を読みあさり、3年目は米国に戻って論文を書き上げ、なんと3年以内で博士号をとってしまう。そして、ハーバード大学のカレッジ・フェローの職に就く。歴史学の世界では、短くて5年、普通で7年は学位取得にかかるのが常識だから、驚くほど早いスピードでプロの研究者になったわけだ。

しかも学生の時にはアイスホッケーのチームにも所属し、かつピアノも趣味で、ハーバードでは1日に2時間は練習するというのだから、この人はいったいいつ寝ているのだろう?と不思議に思えてくる。たぶん、いったん読んだ本は決して忘れず、いったん学んだことはすべて頭に残り、かつ、一度あった人は全員覚えている、というふうな頭の構造をしているのではないか。そう思えてならない。まことに何というか、うらやましい限りである。

その著者が、ハーバード大学のごく弱小学部である東アジア学部で開講した日本史の授業「Lady Samurai」が人気を集め、初年度は16人だったのが、2年目は104人、そして3年目は251人もの学生を集めることになった。教室も当然、毎年、大きなホールに移っていく。ハーバードで日本史を学びたいという人も、彼女が来るまではほとんど途絶えそうだったのに、どんどん増えていく。ハーバード大の「ティーチング・アワード」を受賞し、「思い出に残る教授」にも選出され、「ベスト・ドレッサー賞」まで受賞する。まことに驚嘆すべき活躍ぶりである。写真を見ても分かる通り、ガチガチの才女タイプではなく、にこやかな笑みが特徴の、若く魅力的な女性だ。

では、彼女が論文のテーマにした"Lady Samurai"とはどんな概念なのか。女性のサムライ--それは別に、薙刀を振り回す巴御前のような女性のことではない。たとえば、秀吉の正妻であった北政所ねい(ねね)を例にあげて、彼女は説明する。秀吉自身の手紙や、周囲の記録を丹念に読んでいくと、「ねねの方」が秀吉とペアを組んで、二人三脚、城下町を統治する姿が浮かび上がってくる。秀吉も要所要所でねねに意見を聞き、アドバイスを受け入れる。また、彼女のようなサムライの妻たちも、社会で武士に準ずる身分上の扱いを受ける。

むろん、当時は男尊女卑の社会ではあったが、それでも夫婦が共同で統治し事業を行なっていく姿を、著者は「ペア・ルーラー(夫婦統治者)」として位置づけ、奥方をLady Samuraiと呼ぶのである。(読んでいて、なんとなくほぼ同時代のスペイン王と女王の夫妻Reyes Catolicosを思い出した)

ペア・ルーラーの概念がこの著者の創意かどうかは知らないが、日本史の中でその存在を実証したところが研究のユニークな点である。しかし講義の人気は研究内容ばかりではなく、独創的な教え方によるところが大きい。「アクティブ・ラーニング」と呼ぶ、地図づくり、ラジオ番組作り、そしてグループでの映画(PCビデオ)作りなどの五感をフル活用した教育法が、学生達を虜にしたのである。

著者は自分の目指す学風を「印象派歴史学」と名付けている。印象派の絵のように、細部よりも全体像にこだわる歴史学である。それを通じて、日本とは何か、という「大きな物語」としての歴史記述を構築したいという。その意気やよし、であろう。

確かに、現代日本は「大きな物語」、一般化された歴史叙述を失ってしまっている、との主張(p181)はその通りと思う。日本の国家としての物語・自画像は、第二次大戦の敗戦と共に、バブルのごとく潰えた。それ以降、大きな物語の不在は、我々日本人の知的背骨を弱くしている。

ただ、本書を読んでわたしは少しだけ懸念も感じた。著者は優秀な若手研究者である。すでに日本のメディアから取材や講演の依頼が殺到していることだろう。学会講演だってするかもしれない。そして皆、一応拍手喝采するだろう。

だが、歴史学という仕事は、大ざっぱな印象で物語を作り上げることではない、古文書に紙魚のごとくへばりつき、細かな事跡を一つずつ詰めて行く地味な仕事だ、と信じる人も大勢いるはずだ。彼らは内心、何を考えるだろうか。北米で教育を受けた著者の、第二の天性とも言えるポジティブ思考と、物怖じしない表現についていけるだろうか? 個別性の世界にこだわる人々から見れば、彼女の論理はつっこみどころ満載である。本来は学問的に冷静に検討すべき議論が、他の感情にかき乱されないだろうか?

教育はいい。大学の講義は、学生アンケートによる評価システムで数値化され、競争の優劣も明白になる。しかし研究は、優劣を簡単に決め難い世界だ。その業界に、著者はこれから身をおく。彼女の優れた才能と溢れるばかりの意欲が、邪魔されずに育ってくれるといいのだが。
by Tomoichi_Sato | 2013-06-27 23:02 | 書評 | Comments(0)

デュルケーム『自殺論』に学ぶ、人間集団に必要な二条件

PMOみたいな仕事をしていると、ときどき現場の実務者から頑強な抵抗に遭うことがある。PMOとはProject Management Officeの略で、組織の中にプロジェクト・マネジメントの仕組みや方法論、そして体制などを導入整備する仕事をする部署だ。いってみれば、プロジェクト遂行に関するカイゼンの専門家集団である。

PMOのメンバーは普通、自分自身ではプロジェクト遂行にタッチしない。あくまでプロマネ達に対して、助言や支援を行うだけだ。社内コンサルタントのようなものである。遂行に直接タッチしないのはなぜかというと、いったん実務作業を分担し始めると、結果に対する責任問題が生じるからである。プロジェクトの成果は、プロジェクト・マネージャーが全責任を負うのが原則だ。それなのに、第三者であるPMOが手を出してしまうと、責任の境界が曖昧になってしまうからだ。

ところがこのPMOという仕事、なかなか難しい。カナダのM. Aubryという研究者の調査によれば、「PMO組織の平均寿命は2年程度」だという(くわしくは「PMO(プロジェクト・マネジメント・オフィス)の命運 ~ESC Lille PM Seminarより(2)」参照のこと)。この調査は5年前のものだから、最近は少しは傾向が変化しているかもしれないが、難しい仕事であることにかわりはないと思う。

なぜPMOの仕事が難しいかというと、プロマネさん達が『個別性』の世界に生きているからだ。プロジェクトとは、その定義からいって「個別」uniqueな営為である。どのプロジェクトをとっても、全く同じものは一つとして無い。多少類似したものは、あるだろう。ほとんどコピーみたいなものを作る仕事は、ときにある(とくにプラント業界などでは)。しかし、たとえ設計はコピーでも、市場環境や遂行体制や法規制などは変化しているものであり、完全に同じプロジェクトにはならない。

だから、プロマネが直面する問題は、つねに個別の問題である。ところがPMOの提供するアドバイスなりLessons Learned(教訓事例)なり管理ツールなりは、いずれも先行するプロジェクトの経験から抽出した、一般則であり一般論である。“それが俺の(あたしの)プロジェクトに適用できるなんて、どこに保証があるんだ?(あるってのよ!)”と、彼/彼女らは思う。プロマネ達は一国一城の主であり、プライドを持って自らを律する人種である。PMOが、先にはこれこれのリスクがありそうですよ、と声をかけても、「自分はそんなドジは踏まない」と信じている。現場から見れば、PMOなんて『余計なお世話』のカタマリなのである。これではPMOの価値がスムーズに認められるわけがない。

もちろん、プロジェクト・マネージャーが意志の強い人間であることは重要だ。PMOの一言半句に右往左往するような意志の弱いプロマネでは、顧客や業者の圧力に抗してチームを最後まで引っ張っていくことはできないだろう。ただ、その意志の強さ、自分の感覚への自信の強さは、一般性や理論・法則の軽視と、表裏の関係になっている。それも、プロマネの個性ですべてをリードできる小さなプロジェクトならばまあいい。ある程度の規模のプロジェクトを任され、マネジメント・システムの仕組みで大きな組織を回すべき場面でも、いつまでも自分の「感覚論」だけで動くのは危険だ。

だが、その危険性を、わたし達はどうやったら理解できるのか。

ここでわたしは、大学時代にとった「社会学」の講義の内容を、ふと思い出すのである。一般教養課程の講義だった。テーマはデュルケームの『自殺論』。デュルケームは19世紀後半から20世紀初頭を生きたフランスの学者で、ある意味では社会学の太祖とも言える。19世紀の後半、欧州の自殺率が急増する。彼は個人的な理由もあり、この問題に理論的な分析のメスをあてようと試みる。

自殺という現象で、最も不思議なことは何か。それは自殺がきわめて個人的な、個別的な事情のもとに行われる行為であるにもかかわらず、社会全体で見ると、ある一定の比率で発生することだ。自殺率は普通、人口10万人あたりの発生件数で比較する。そして、ある国や社会の自殺発生率は、短期的にはほぼ一定なのである。たとえば現代日本では、人口10万年あたり年間約24人であり、過去10年間あまり変わっていない。これは不思議ではないか? 自殺者は皆、一人ひとり個別の事情で、しかも自分の意思で自決を選ぶのに、その比率はマクロには変わらないのだ。

「それを大数の法則というのだ」と説明する人もいるが、じつは説明になっていない。大数の法則というのは、個別の事象が確率的な因果律に左右されているときに、統計量が一定値に収束していくとの法則だ。だが、くどいようだが自殺は確率的事象だろうか。毎日、それなりに適当に暮らしているわたしが、明日、ふと世をはかなむ確率なんていうのが推定可能だとは、とても思えない。伝染病や遺伝疾患の発生率ではないのだ。

それだけではない。自殺率の統計を調べていくと、いろいろと奇妙な『傾向』が見えてくる。たとえば、自殺は男性の方が女性よりもずっと多い。日本では2.3倍であり、ほとんどの国では3倍程度、国によっては5倍以上のところもある。居住地の違いもある。デュルケームは当時の統計を調べて、農村よりも都会の方がずっと多いことを見いだした。そして、宗教・宗派による違い。ユダヤ教徒よりもキリスト教徒の方が多く、同じクリスチャンでもカトリックよりプロテスタントの方が多いのだった。

もっと不思議なことがある。人は、人生が過酷で、生きていくのが困難だから自殺を選ぶ、とわたし達は思っている。だとしたら、世の中が厳しい時ほど自殺率は上がりそうだ。しかし、戦争の時には、自殺率はむしろ下がるのである。「社会実情データ図録」 にある主要国の自殺率長期推移のグラフを見れば分かるように、日本の自殺率が過去最低になったのは、1939年~46年、すなわち太平洋戦争のまっただ中だったのである。この傾向は、19世紀後半の欧州でも同様だった。

では、人を自殺に追い込む要因とは何なのか。デュルケームは、自殺の個別的な事情や原因をいくら取り調べても、答えには到達しないと考えた。彼の答えは意外なものだ。社会と個人の結びつき(凝集力)、ならびに社会的なベクトル(社会規範)の強さが、マクロ的な自殺率を決定する、という。彼の議論を整理すると、次のようになる。

(1) 社会的な凝集力が高く、価値観のベクトルが一方向にそろっているとき、自殺率は下がる。
(2) 社会と個人の結びつきが弱くなったとき(=人間集団の帰属感・連帯感がなくなるとき)、孤独な困窮者による自殺が増える。
(3) 社会の価値観が多様化し、個人の欲望を抑制できなくなるとき、別種の自殺が増える。デュルケームはこれを「アノミー的自殺」と呼ぶ。
 
日本社会で説明すると、不幸ではあったが、戦争中は(1)の時期だ。だから自殺率は低かった。ところが敗戦後、農村共同体が崩れ、都市に労働力が集中していく時期、すなわち昭和20年代後半~30年前半は(2)の時期だった。このとき自殺率はいったん急増する。ただ、高度成長期は社会のベクトルが一致したので自殺率は低かった。しかしバブルの狂乱時代を過ぎ、90年代後半に入ると、アノミー(社会規律の緩んだ状態)に陥り、再び自殺率は高くなっていく。

周知の通り、日本は現在、世界でも最も自殺の多い国の一つだ。とくに若年層の死因のトップが自殺である国は、日本だけだと言われている。政府も少しずつではあるが対策を考えている。フィンランドのように、対策を講じて、自殺率を下げた国も一応存在する。しかし、こうした対策は、簡単ではない。自殺率を決定する因子は、社会の凝集性や、社会規範のベクトルのような、非常にマクロなものだからだ。しかも、自殺に直面する人々は、皆がそれを自分個人の、個別な問題だと信じている。ミクロには自由な意思決定に見える問題が、じつはマクロな状況に左右される。そうした見方を、わたし達はもっとよく知る必要がある。

現代社会に生きるわたし達は、ある意味で皆、「個人主義」の信者だ。わたし達自身の行動は、自分の個人的な価値観と自由意思で決めている、と信じている。個別のミクロな局面で見ると、すべての事象や行動は個性的であり、そこには法則性などないように見える。だが、もっとマクロな視点では、わたし達は、見えない社会的な関係性にかなり影響され、あるいはしばられている。

デュルケームの「自殺論」の教訓は二つある。まず、個別に見える事象にも、マクロな状況がかなりの程度、影響を与えているということだ。もう一つは、人間集団においては「凝集力」や「ベクトルの一致」が大切だということである。

自分の仕事というミクロな視野の中だけで生きている人は、ともすると『実感』への自信ばかりが強まって、理屈や統計を軽視するようになる。だが、マクロに見ると、個別性のカタマリだったはずのプロジェクトに、一定の統計的な傾向が見いだされるはずである。

そして仕事というのは、結果さえ出ればそれでいい、というものではない。そこにはチーム・スピリット(凝集性)と、価値観のベクトルの一致が必要なのだ。PMOと呼ばれる部門は、微力ながらも、その形成に寄与しなくてはならない。さもないと、組織は全体のベクトルを見失って、アノミー状態に陥っていく可能性があるからである。

<関連エントリ>
→「PMO(プロジェクト・マネジメント・オフィス)の命運 ~ESC Lille PM Seminarより(2)
→「組織のスケールアップと変曲点


(追記)まったくの余談だが、上記のグラフやWikiperiaの「国の自殺率順リスト」などを見ると、近年の韓国における自殺率の急増は異常なほどである。どのような要因が働いているのかは、韓国事情に疎いので分からないが、極東の日韓二ヶ国の社会には、何か重篤な問題が発生しているとしか思えない。
by Tomoichi_Sato | 2013-06-22 20:03 | 考えるヒント | Comments(0)

組織のスケールアップと変曲点

「ご趣味は?」ときかれたら、「音楽です。」と答えることにしている。「どんな音楽がお好きなんですか」とさらに質問されたら、「別にこだわりなく、何でも聴きます。やる方で言えば、素人コーラスが趣味でして」と答えるだろうか。合唱で歌を唄うというのは、いかにも中産階級的で、室内派的な道楽だ。ダイビングとかヨットとか、もっと活動的でリッチな趣味だったらかっこいいのだが、あいにくアウトドア派ではない。

ここ何年かは、荻窪を中心に活動する小さな男声アンサンブルに所属している。メンバーは今のところわずか6人。指導の先生を入れて7人。これくらい小さなグループだと、あまり組織といえるほどのものはない。広報、渉外、楽譜の手配、合宿、会計、そして演奏会の準備など、みな手分けしてやっている。一応、対外的な書面上ではリーダーがいるが、ほとんど実際の運営上はみな対等である。手が空いたら他の仕事も手伝う。あまり専門分化しておらず、フラットな人間集団である。学者だったら、「ネットワーク型の組織」だとか名付けるのだろうか。

(ところで、まるきり余談だが、もし少人数の男声アンサンブルでやさしい曲を歌ってみたいという方がいらっしゃったら、ぜひご参加ください。「せめて各パート2人は欲しいよね」などと言い合っているのです。詳細はホームページ「アンサンブル・ハイブリッジ」まで)

さて、話を元に戻すと、会社形態になっても事情は似たようなものらしい。先日、高校時代の旧友がはじめた電子出版の会社に遊びに行った。友人が社長で、ほかに3名ほどのスタッフがいる。だが、これくらい小さな組織では、社長も当然ながら、編集そのほか自分でいろいろ手を動かさなければならないはずだ。社員はみな、何でもやらざるをえず、その結果、多能工的に動く。

ただ、会社がもう少し成長して、人数も増えていった場合は、少しずつ担当が専門分化していくだろう。また、皆に共通な『雑用』的な仕事は、くくりだして誰かひとりが受け持つ方が効率的だと気がつく。そして、対外的な責任者としての顔、あるいはいろいろな局面での決断、などの必要から、次第にリーダー役の重要性が大きくなっていく。数人のころは皆で相談して決められるだろうが、しだいにスタッフ全員が同時に顔を合わせられる時間が減っていく。必然的に、「会議」を設定せざるを得なくなる。会社組織っぽくなっていくわけだ。

それでは、組織がほんの数人規模からスケールアップしていったとき、「専任のマネジメント職」が必要になるのは、どれくらいの規模だろうか? これについては、仕事の種類や複雑さによって、かなり答えはばらつくに違いない。ホワイトカラー的な、つまり(一応)知的な職種か、コールセンター的な、やや繰返し的な職種か、あるいは製造現場や建設現場での本物の力仕事かで、違いはあると思う。

ただ、わたし自身がかかわってきたプロジェクト的業務の場合、コスト管理や決断・交渉といった「リーダー」的な業務は、ざっくり見積もって、仕事全体の7~8%程度はありそうな気がする。またこれ以外に、「サポート」的な仕事、すなわちオフィス環境の整備だとか伝票・ファイルの整理だとか入出金の事務だとかが、やはり仕事全体の7~8%程度を占めるように感じられる。

つまり、言いかえると、メンバー数が12人から15人程度になると、専任の「リーダー」が一人と、専任の「事務的スタッフ」が一人ずつ、必要になる計算である。それ以下の人数のチームでは、リーダー的な仕事は無論あるが、それは専任一人分の量はない。だからリーダー格の人間が、自分でも設計業務など手を動かしながら、その傍らパートタイム的にマネジメント機能を担うことになる。スポーツにたとえれば「プレイング・マネージャー」の状態である。だが、たぶん15人以上の組織になると、もう兼任はできなくなる。リーダーも設計のレビューなどはやるだろうし、やるべきだが、自分自身で計算したり図面を書いたりする暇はなくなっていく。

もちろんプロジェクトの場合は固定組織と違ってチームの人数が途中で変動するから、ピーク時に15人でも全期間を平均すると10人以下になろう。まあ期間を1年足らずと見て、全体の工数が100人月程度のところに、ある種の変曲点がある。それ以上の規模の仕事では、マネジメントに専任する人がどうしても必要になる。それに、上記の7~8%という数字は、プロジェクトの種類・内容にもよる。ここでは、面倒な顧客で、やれ契約書だやれ進捗レポートだと、事細かく要求してくるようなタイプを想定している(海外顧客は大概これだが)。もっと鷹揚な顧客で、“君に任せておくから好きにやってくれたまえ。代金? 一括先払いしておくよ”、という場合はパーセンテージはずっと小さくなるはずだ(あいにく、そんなお客にあたったことはないが)。

マネジメントに専念するリーダーがいる組織では、メンバーはその部下ということになり、組織内に上下関係(階層)が生じる。学者なら「階層型組織」のタイプになった、と分類するだろう。仕事の結果も、それなりにリーダー個人の能力や個性に引きずられることになる。なぜなら、もはや意思決定は全員の合意ではなく、リーダーが結果責任とともに引き受けることになるからだ。欧米はこの種の、一人に権限と責任を集中させる組織が好きらしい。音楽で言えば、指揮者のいるオーケストラのようなものだ。少人数のアンサンブル(弦楽四重奏など)はメンバー同士の息を合わせて演奏できるが、楽曲の規模が大きくなると、専任の指揮者が必要になっていく。

では、専任のリーダーがいる組織が、さらにスケールアップしていったとき、それ以上の変化はないのだろうか。百人でも千人でも、あるいは10万人でも、あとはずっと、トップの個性が全体を引っ張っていくのだろうか?

どうも、そうではないらしい。ある規模を超えると、組織はさらに質的な変化をとげて、次の段階に移るようである。先輩の経営コンサルタント諸氏の話を総合すると、次の変曲点は、意外と小さくて、200~300人程度らしい。この規模を超えると、社長一人の意気込みだけでは、会社を引っ張りきれなくなるという。そして、きちんと会社を動かす「仕組み」が必要になってくる、と。

この点については、異論もあろうかと思う。やはり組織ってリーダーの影響は大きいんじゃないの? 経営者がダメだと大会社も業績が落ちるし、戦争の勝敗だって将軍で決まる。スポーツを見たって、やはり監督の采配が勝敗を決するじゃないか。

だが、スポーツのチームはせいぜい10数人である。控えや2軍を入れたって、スポーツの世界で200人を超える組織というのは、まず無い。大企業の業績でいうと、おかしくするのはトップ一人でもすぐできる。しかし、好業績を持続するのはそう一朝一夕には出来ない。壊すのは簡単だが作るのは大変なのだ。

そして、戦争の例でいえば、桶狭間の戦いなら、たしかに信長のリーダーとしての決断と実行(つまり能力)の成果だと言っていい。しかし、関ヶ原の戦いは、徳川家康と石田三成のリーダーとしての能力の差だけで説明できるだろうか。まして、太平洋戦争の勝敗結果は、両両国のトップの能力の差だと言ったら、読者諸賢は納得できるだろうか。アメリカ人なら"Yes"と言うかもしれないが、日本人でこの見解に賛成するのはかなり少数ではないかと思う。

だとしたら、組織がスケールアップしていくと、どこかで組織としての働きは質的に変化するのだ。そして、それは200~300人という、わりと小さな数字でおこるというのが、多くの中小企業を見てきた先輩診断士の証言である。

その点を超えると、何が変わるのか? まず、社長が全部の問題を決めるだけの時間がなくなっていく。それと、社長が社員全員の顔と名前、そして性格を覚えきれなくなる。そうすると、個性に応じた適材適所の配置が困難になる。そこでどうしても、個人ではなく、組織で決断したり問題解決をしたりする仕組みが必要になる。判断や行動のためのルールも求められる。教育の段取りや分担もしかり。つまり、「マネジメント・システム」がないと会社が回らなくなるのだ。

そして、この変曲点を理解して、乗り切れるかどうか、トップが自分の手中にすべてを握るのを諦めて、かわりにきちんと権限移譲の仕組みを構築できるかどうかで、会社がその先に成長できるかが決まるという。たしかに、この変曲点を乗り越えられずに、200人規模で伸び悩んでいる会社をわたしも見たことがある。

それにしても、この200-300という数字が、14~17の自乗になっているのは偶然だろうか? 上にあげたように、12人くらいのチームに、専任のマネージャー1人と事務スタッフが1人ついて、14人。このチームが14個集まると、196人になる。その上に、トップが1人。トップが直接、面倒を見ていられる部下(ミドルマネジメント)の数も、これくらいだろう。それ以上規模を拡大した場合、ミドルの数を増やしてもトップが全員を見きれなくなる。かといって、ミドルの数を14人のままに固定したとしても、今度はミドルが部下を見きれなくなる。それで結局、階層を一つ増やす事になる。(チーム単位が15人なら、マネージャーとスタッフを加えて17人。上限は17×17=289で、約300人だ)。そうなるとやはり、マネジメントのための「仕組み」の出番だ。

では、組織が300人をうまく超えたら、あとは一直線なのか。そこも少し疑問がある。わたしの経験にもとづく漠然とした直感では、製造業の場合、年間売上が1000億円を超えるところで、さらに組織に変曲点があるような気がする。売上を人数に換算すると、一人当たりの売上が2-3千万円として、従業員3,000-5,000人くらい。どうもここらあたりに、次のバリヤーがありそうだ。それ以上になると、今度はスタッフすなわち間接機能を、さらにうまく専門分化させていく必要がでてくる。

さて、この3,000-5,000人という数字、どう根拠づけるか。先のベースを無責任に外挿すると、1単位14-17人の3乗の数字が、ちょうどそれくらいの人数になる。ここに何らかの機序があるのかもしれない。しかしむろん、何の根拠もない素人の空想である。誰か経営学者が、もっときちんと研究してくれるとありがたいのだが。
by Tomoichi_Sato | 2013-06-16 22:41 | ビジネス | Comments(0)

書評:世界の経営学者はいま何を考えているのか 入山章栄

世界の経営学者はいま何を考えているのか――知られざるビジネスの知のフロンティア


「ドラッカーなんて誰も読まない!?
 ポーターはもう通用しない!?」

--これが本書の帯の宣伝文句だ。著者の入山氏はニューヨーク州立大学バッファロー校(ビジネススクール)の助教。2008年にピッツバーグ大学でPhD(博士号)をとったばかりの、新進気鋭の経営学者である。

ドラッカーなんて米国の経営学では完全に過去の人だ、というと、日本ではやはり驚く人が多いのだろうか。最近もドラッカーに女子高生をかけあわせた本がベストセラーになったばかりだし、彼の本は古くから広く読まれ、「ドラッカー学会」まであるくらいだ。(ドラッカー自身も日本が好きだった)

もちろん、ドラッカーがマネジメント研究の先駆者であることは確かである。しかし、ドラッカーはウィーン出身の人だけに、発想の根本が非常に『中欧的』である。たとえば「企業は基本的に社会のものである」という彼のテーゼは、“企業は株主の所有物だろ”との考えが主流の現代アメリカのビジネス文化とは、(その当否は別としても)かなりかけ離れてしまっている。

ポーターについて言えば、彼の「競争優位戦略」論は元々、ミクロ経済学を逆手にとった発想であった。効率的な完全競争市場では、誰も度はずれに大きな利益は手にできない。だから、すぐれたポジショニングによって不完全な競争状態をつくる(=ムダな競争を避ける)ことが、持続的な優位を得る戦略である。そう、ポーターは主張した。'80年代前半のことである。

ところが本書によれば、'90年代後半から現れた大規模な実証研究により、企業が10年以上続けて同業者より高い業績を上げるケースは、全産業で2-5%にとどまり、かつ優位性を維持できる期間が短くなっていることが分かってきた。さらに、より多く競争行動を行う企業の方が、シェアや総資産利益率が上昇するとの発見も出てきた。だから、ポーターの競争優位戦略「だけ」では、競争戦略を説明できないようである。なるほど、たしかに面白い。

この例のように、現在のアメリカの経営学は、理論に加えて、統計を多用した実証を重んじる。これは経営学が「科学」science を目指しているためで、西洋人の科学志向に立脚している。だから著者の入山氏は導入部第2章で、「経営学は居酒屋トークと何が違うのか」という、根源的な問いを立てる。居酒屋でSONYやパナソニックと韓国の電子メーカーを比べて、まるでサッカー試合の批評のようなことを論じるのと、経営学研究とは、どこが違うのか?

答えは、“実証可能性”である。言葉を並べただけの感覚的な一般論と、データで検証可能な理論は、厳然と区別されなければならない。それが学問的訓練というものだ。そして著者は、そうした訓練をきちんと受けて身につけている。おまけにとても明晰で論理的ある。頭の良い人の文章を読んでいると、読んでいる自分まで頭が良くなったような気がする--この人の文章は、そんな徳をそなえている。

本書には、他にも学べる点が非常に多い。たとえば『トランザクティブ・メモリー』の概念を、わたしは初めて知った。「組織の記憶力に重要なことは、組織全体が何を覚えているかではなく、組織の各メンバーが他のメンバーの“誰が何を知っているか”を知っておくことである、というものなのです。」(p.90)--つまり、組織のメモリーとは、メタ・メモリーの形にしておく方が効率がいいらしい。

あるいは、ウォルマートの販売予測戦略である。「ウォルマートは郊外を中心に出店を進めて他社との競争避けていました。さらに"Everyday low prices"の印象を消費者に与えることで広告費を抑え、販促活動を減らして売り上げ変動を減らし」た。でも、それだけではない。「その結果ITシステムを使っての販売予測をより正確にする効果もありました」(p.121)。さすがである。くやしいくらい頭が良い経営だ。

日本と国民性が1番近いのはポーランドだ、という発見もあった。「ホフステッドは(多国籍企業IBMの従業員11万人の分析を通じて)国民性という概念が4つの次元からなることを明らかにしました」(p190)。その4つとは、

(1) 個人主義か集団主義かを表す指標
(2) 権力に不平等があることを受け入れているかという指標
(3) 不確実性を避けがちな傾向があるかという指標
(4) 競争や自己主張を重んじる「男らしさ」で特徴づけられるかという指標

である。その結果、国民性の近さを数値的に計算できるようになったのだが、著者の計算によると「日本と国民性がいちばん近いのはハンガリーとポーランドです。東ヨーロッパのニカ国が日本と近い国民性を持っている、というのはなかなか面白い結果と言えます」(p.194)。なんとなく半信半疑に思えるが、データがすべて公開されているから、きちんと議論が成り立つ。これが居酒屋風感覚論との相違である。

とはいえ、現代の最先端の経営学が、キレイな理論構築とその統計的実証にあまりにも傾きすぎている問題点も、著者は指摘している。それは、主流のアカデミック・ジャーナルへの発表論文数で競争し続ける、経営学者たちの陥るバイアスである。理論的根拠が不明だが、実務上は意味のある統計や、個別のケースに深く入り込んだ事例研究が、評価されにくい。本来、実学であるべき経営学が、あまりに強い科学志向のために歪んでいるのだ。

もう一つ、問題がある。著者は、企業をその保有する資源の観点で分析評価するResource-based viewについて、J・バーニーの有名なテーゼを紹介する:
「(1) 企業の経営資源に価値(value)がありそれが希少なとき、その企業は競争優位を獲得する。
 (2) そのリソースが、他社には模倣不可能で、またそれを代替するようなものがないとき、その企業は持続的な競争有用獲得する。」 (p.291)

この文章、読んですぐおかしいと思わないだろうか? 競争優位は、たしかに継続的な利益やシェアなどの指標で測ることができる。しかし、経営資源の『価値』とは、どういう意味なのか。それが稀少だったら、その価値は誰がどう決めるのか。

ここで問題となっている資源とは、労働市場で一山いくらで買える我々エンジニア(笑)や工場労働者たちのことではない。組織の中に知識や技術とともに蓄積体現されている、能力や商権のことだ。それは滅多に売りに出されない(だって稀少だから)。たとえば「モナ・リザ」や「ゲルニカ」は貴重で価値が高い絵画だが、もはや値段などつけられないし、つける意味もない。ピラミッドその他の世界遺産だって同じだ。稀少なものほど、価値は市場価格から別次元のものになっていく。

それなのに、著者を含む大多数の経営学者たちはバーニーの命題を支持し、あまつさえビジネススクールで教えもした。そして2001年のプリムらによる、「バーニーの命題は実は何も言っておらず、同義反復にひとしい」との批判で、はじめて問題点に気がついたらしい。だとしたら、経営学は「価値」Valueという言葉を、論証不要な自明な概念と信じていたことになる。ちょうどマッキンゼーのコンサルタントが、二言目には呪文のように「バリューを出す」とつぶやくのと同じで、価値が「お金」や「成果」にあまりにも近すぎるため、その概念を掘り下げるのを忘れていたらしい。

誰もがその概念をよく知っていると信じている、しかしそれを正確に説明しろと言われるとできなくなる--社会構築論Social Constructivismの立場の研究者なら、“それは実体概念ではなく、社会的な必要が作り上げた幻想ではないか”と疑うだろう。ちょうど「リーダーシップ」などと同じように(「リーダーシップを浪費する組織」に書いたマインドルの研究を参照のこと)。そうした観点からいうと、現代アメリカの経営学は、ちょっとだけナイーブに過ぎるように思われる。

そもそも、本書のタイトルは「世界の経営学者は」となっているが、実際に紹介されているのはほとんどがアメリカでの研究の話題だ。たしかにアメリカが世界の経営学をリードしていることは、紛れもない事実だろう。だが、アメリカだけが世界ではない。欧州にもそれなりにマネジメント研究が存在し、しかも各国別に個性があるのだ。(もちろん、著者もそんなことは承知で、しかし出版社がタイトルを決めた可能性はある)

とはいえ、論文の出典もすべて正確に記載し、かつ非常に広範な文献雑誌をカバーしたレビューになっている点は、とても立派である。文章も、とてもわかりやすい。学術的内容にもかかわらず「ですます調」で書いていることも美点の一つだ。初心者向けのためかリアル・オプションや複雑性について短絡的な記述が目につく所はあるが、全体としてこうした本は、これまでほとんど我が国ではなかったように思う。

部外者であるわたしの勝手な印象論でいくと、日本の経営学は、昔はもっぱら欧米の学問の輸入代理業者だった。しかし、その輸入は'80年代の「日本型経営」礼賛時代に入ると、急速に減ってしまったらしい(しかもその「日本型経営」たるや、企業の現場から生まれてきたもので、日本の経営学が指導して生み出したものではなかった点が皮肉だ)。その後の長引く不況で、大学の経営学の威信は傷ついた。自説を海外に積極的に輸出している学者も、いないわけではないが多くはなさそうだ。つまり、残念ながら日本の経営学はひどく内向きになっているように見える。

そのような内向きスタンスを破るためにも、また現代の経営問題に対し、知的にラディカルにタックルするためにも、著者のような高いレベルの仕事がもっと増えることを期待する。経営論に興味のある読者に、強くお薦めする。
by Tomoichi_Sato | 2013-06-09 16:38 | 書評 | Comments(1)

それは知識ですか、スキルですか、資質ですか?

東大で大学院生にプロジェクト・マネジメントを教えていたら、「自分は計画を立てるのが元々あまり上手ではないが、どうしたらいいでしょうか」という質問を受けた。プロジェクト計画の立案、とくにその中心になるWBSの作り方について説明し、二人一組でちょっとした演習をした後のことだ。WBSを作るだけなら誰にでもできるが、良いWBSを作るのは、案外難しい--そういう話をしたら、出てきた質問だった。

秀才タイプの人は、自分の弱点を人前にさらすのをきらう。だから逆に、この率直な質問には好感がもてた。わたしは学生にこう聞いてみた。
--失礼だけど、あなたは英語の会話は得意ですか?
相手はちょっと質問の論点から外れたことに戸惑ったようだが、答えた。
「えっと・・、いや、苦手です。」

--じゃあ、得意になるためにはどうしたらいいと思いますか。
「うーんと。やっぱりたくさん練習するしかない、ですか?」
--そう。それはたしかに答えの一部だけれど、全部じゃない。自分が何かを得意になるためには、どうしたらいいか? 大事なことは三つあるんです。
「三つですか。」
--うん。まず、良い先生を見つけること。ね? いい師匠がいないとつらいよね。
「はい。」

--でも、師匠がすぐには見つからない時もある。その時は、誰か手本になる人を見つけましょう。先輩とか、ライバルでもいいから。とにかく、その人みたいに上手になりたいと感じる人を見つけて、真似たり盗んだりすること。『ベンチマーキング』とも言います。これが第一点。
 二番目は、きちんと原理や方法論について学ぶこと。これは座学でもいいし、本を読んでもいい。これをしないと、とっても効率がわるい。
 そして三番目が、あなたの言ったように、繰り返し練習することだ。能力を身につけて、上手になるためには、この三つがどれも必要なんです。まあ、この中の一つか二つだけで、上手になれる人もたまにはいるけれど、その人は生まれつきセンスが良かったということです。あなたがもし「計画が苦手」と感じているんなら、センスだけでは切り抜けられないんでしょう。

まとめると、こういうことになります:
(1) 良い先生か、手本になる先輩(ベンチマーク)をみつける
(2) 原理と方法について学ぶ
(3) 繰り返し練習する
これはどんな能力を身につける時でも共通だから、覚えておいてください。そしてこの授業は、まずは原理や方法を皆さんに伝えるためにやっているわけなんです。・・・


よく世間で、「あの人は出来る、能力がある」というとき、それが知識のことを言っているのか、スキルを指しているのか、それとも資質なのか、わたしはいつも考えてみる。たいていのことはこの三つのコンビネーションであるが、その比率がどれくらいなのか。たとえば『リーダーシップ』という能力がある。これは知識なのかスキルなのか資質なのか。

ある能力が、知識・スキル・資質の三種類のどこに重心があるかを知りたいときは、その能力をどんな方法で身につけ、またどうやって評価し測るべきかを、考えてみるとわかる。

・知識ならば座学で学べ、ペーパーテストで測れる。
・スキルならば師匠について繰り返し練習することで身につき(上で述べたように座学で促進できる部分はある)、ポイントをしぼった実技テストで測れる。
・資質だと持って生まれるしかなく、パフォーマンス全体の結果から想像するしかない。

たとえば先日、書評で紹介した「採用基準」の著者・伊賀康代氏によれば、リーダーシップは訓練によって向上することができる、という。だとすれば伊賀さんはリーダーシップが単なる資質や知識だけでなく、スキルの面が強いと主張しているわけだ。これに同意しない人も、もちろんいるだろう。リーダーとは生まれつくもの、という信念の人や、リーダーシップに関するもろもろの教科書の著者などだ。

米PMIが主催するProject Management Professional (PMP)の資格はどうか。わたしも持っているが、これはパソコンの画面からひたすら四択問題を選んでいく試験であった。受験のためには実務経験を示す経歴書が求められるが、PMIは実際には知識を問うているわけだ。とすると、(まさかとは思うけれど)マネジメント能力の主要な部分は知識である、と米国人は考えている、のだろうか?

司法試験はどうか。あれはペーパーテストである。実技試験はない(と思う)。無論そのあとで司法研修所に通う仕組みだが、ここの実技テストで落とされて法律家になれなかった、という例を聞いた覚えがない。上級国家公務員は? あれもペーパーテストだ。とするとこの国では、少なくとも法学部を出て要職に就くような人の能力は、知識で代表されると信じているわけだ。いや、そもそも大学入学自体が、かなりの程度ペーパーテストで決まる。

それで思い出したが、イタリアから来た留学生の話だと、ヨーロッパの国々では、大学における学科試験(卒業試験を含む)は教官たちによる口頭試問が主体なのだそうだ。いわば面接形式による実技テストである。つまり、彼らは(どこまで普遍的に言えるのかは知らないが)大学教育で身につける能力はスキルである、と伝統的に考えているらしい。そう言われてみると、たしかに博士の学位取得審査は、日本でも米国でも口頭試問である。研究者として一人前の能力とは、さすがに身についたスキルであるべし、と思われているのだろう。学位審査は英語ではDefense(防御)といい、審査員がいろいろな角度から攻め込んでくる質問をはっしと受け止めて、切り結ばなければならない。

ただし、口頭試問や実技テストには、手間がかかって非効率だという制約がある。このためマスプロ(大量生産)方式には向かない。大勢の能力を一斉に測るには、ペーパーテストが一番経済的なのである。だから大企業の採用などでも、最初にペーパーでふるいにかけてから、面接を行うところが多い。それも、コンサルティング会社の「ケース面接」のような実技テスト的な面接ではなく、単純なQ&Aが主体である。

わたし自身は、多くの能力は先天的な資質よりも、後天的に身につくスキルのウェイトが大きい、と信じる傾向が強い。そしてスキルは、最初に述べたように (1)良い手本と (2)座学と (3) 繰り返し練習によって身につくものだと考えている。ちなみに、同じスキルの中でも知識のウェイトが大きいものを「ハードスキル」、修練と反射神経化が大事なものを「ソフトスキル」と呼ぶ。しかし、世の中には、能力の主要な部分は資質である、と考える人も非常に多い。「持って生まれたセンスのないやつに、いくら教え込んだって無駄だ」という風に。

たしかに、たとえば芸術家だとかトップ・アスリートとかいった人たちの能力については、資質が何よりも必須な要件だろう。これら職種のコーチやスカウトに携わる人がそう主張するのは、よく分かる。しかし、それは同時代に数人しかいない、高き山の頂点に輝く人の話だろう。わたしが考えるのはむしろ、何万人もいるような職種、山の中腹に位置するクラスの能力だ。同時代の社会の働きを実際に支えているのは、このクラスの仕事ぶりなのである。99点か100点かを争う天才たちではなく、70点台前半のレベルをなんとか後半に近づけないかと努力しているのが、わたし(たち)自身の実像ではないか。

もちろん、人間には生まれついた資質の方向性、ないし適性というものがある。ただ、幸いなことに、能力の種類も、社会のニーズにしたがって非常に豊富に存在するのだ。そしてこの適性というやつは、“試しにちょっと体験してみないと、自分ではなかなか気がつかない”ものなのだ。試さないと、気がつきにくい。だが気がつけば、伸ばすことも可能になる。この、ちょこっとした『お試し』は、若くて自由なときでないと、社会が与えにくいものだ。だからわたしは、全員がプロマネになる訳でもないことを知りつつ、プロジェクト・マネジメントの講義を大学生相手にしているのである。

関連エントリ
→「書評: 「採用基準」 伊賀泰代」 http://brevis.exblog.jp/20469756/
→「プロマネのハードスキルとソフトスキル」 http://brevis.exblog.jp/5669403/
by Tomoichi_Sato | 2013-06-02 20:32 | 考えるヒント | Comments(3)