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お知らせ:1月5日(土)の日経プラスワンにインタビュー記事が掲載されます

お知らせです。

日本経済新聞の土曜版に付随する「日経プラスワン」で、『時間管理術』に関連してわたしのインタビューが掲載される予定です。

時間管理は、自分の時間の使い方について自覚することからはじまります。そのための道具立てとして、日誌・カレンダー・ToDoリスト・着手日の決め方などについて簡潔に説明しています。また、時間管理の最終目的は、細かな時間の使い方について神経質に追いかけることではなく、何もしない「考えるための時間」を作ることにある、というお話もしました。スペースの関係でどこまで掲載されるかは分かりませんが、ご興味のある方はぜひご覧ください。

末筆になりましたが、今年も大勢の方に本サイトをご覧いただき、感謝しております。読者の皆様もどうぞ良いお年をお迎えください。
by Tomoichi_Sato | 2012-12-30 23:55 | 時間管理術 | Comments(0)

クリスマス・メッセージ:求めよ、さらば与えられん

Merry Christmas!

ミヒャエル・エンデの名作「はてしない物語」(ネバーエンディング・ストーリー)は、前半では、主人公バスティアンが物語を読む、という二重構造になっている。そして後半は、物語の世界に飛び込んだ主人公が、「汝の欲することをなせ」という命のもとに探索の旅路を続ける話になる。そんなのはたやすいことだ、望んだことをすればよいだけなのだから、と考えた主人公に、つき従う獅子グラオーグラマーンは咆哮して、いう。「この道ほど決定的に迷ってしまいやすい道はほかにないのです。望みとは何か、よいとはどういうことか、わかっておられるのですかっ!」

さて、夏前のことだ。大学院生にプロジェクトのリスク・マネジメントを講義しているとき、途中でいつもの質問をみなに投げかけた。「皆さんはところで、世の中に運不運はあると思いますか?」ーーこの質問の含意は以前ここにも書いたので繰り返さないが、リスクというものを世間の用語から照らして見直してもらおうと思ったわけだ。この質問、中高年であれば10人中10人が、YESと答える。しかし若者は、必ずしもそうは限らない。

ところが、この授業の質問では、院生の全員がYESの方に手を挙げてきた。あれ? 質問の仕方を間違えたかな。そう思って、一人にたずねてみた。「あなたは、なぜ運不運があると思ったの?」「えーと、たとえば電車に飛び乗ろうとしたら、目の前でドアが閉まっちゃう事って、あるじゃないですか。」

それはそうだが、ここで聞きたいのはプロジェクトのような大がかりな仕事における運不運である。これは聞き方がまずかったようだ。それにこの人達はまだ、本当の意味でプロジェクト的な経験があまりない。そこで、逆の面から聞くことにしてみた。

「じゃあ、皆さんは、『強い意志と努力があれば、どんな事でも必ず実現できる』と思いますか?」

今度は何人かが手を挙げた。意見が分かれたわけだ。そうなれば授業は回り出す。なぜそう考えるかを、それぞれ言ってもらう。そして、もし意志と努力で何事も成功できるなら、"リスク・マネジメント"なんて不要じゃないか、と切り出すこともできる(リスクとは失敗の可能性なのだから)。相手が考えなければ、授業は進まない。

意志と努力、(それに多少の才覚)があれば夢は必ず実現する、という信憑は、たとえば米国では広く受け入れられており、「アメリカン・ドリーム」の名で呼ばれる。たいていの場合、夢の最終実現形は「お金持ちになること」である。いま、その当否は論じない。ともかく、強く望めば、手に入る。これが信じられている命題だ。では、この信念に問題はあるだろうか。

もしこの命題が真ならば、論理学から言ってその対偶も真であるはずだ。この命題の対偶とは、「実現しないなら、それは強く望んでいないからだ」となる。もっと平たくにいえば、「貧乏なのはそいつの意志の問題だ」となる。これが論理の帰結である。

「貧乏なのは意志の問題」というテーゼにあなたは賛成されるだろうか? このような解釈は、米国では経済学や社会学でも、長らく力を持ってきた。黒人層の貧困問題なども、そういう視点からは冷ややかに見ることになる。彼ら自身がそこから脱出することを本気では望んでいないのだ、と。

長い不況と就職難の中にある日本の学生は、そんな風に言われたらむっとくるに違いない。だが、もしこれに賛成できないのなら、その人は「どんなに強く望んでも、世の中にはかなわぬ事がある」と信じることになる。じゃあ、夢をあきらめろ、と? 「求めよ、さらば与えられん」と、西洋人の宗教も言っていたのではなかったのか?

ちょっと、待ってほしい。「強く望めば、手に入る」と「求めよ、さらば与えられん」では、ニュアンスの違いがある。それをチェックするため、後者の聖句の前後にあたってみると、それはこんな風な文脈の中で続いていく。パンを求める子どもに石を与える親はいないように、天はお前たちの必要とするものを必ず与えてくれる。だから、明日、何を食べ何を着ようかと思い煩うな。一日の悩みは一日で足りる、と。

違いは2点ある。まず、「手に入る」という能動態の表現では、主語は『望んでいる自分』であるのに対し、「与えられん」の方では、『天の采配』という見えない主語が自分と対象の間に介在していること(だから当然、良くない望みは叶えられないことになる)。そして、与えられるのは、わたし達が本当に必要とするものである(わたし達が欲しがったものではなく)。と、わたしには感じられる。

本当に必要とするものを望むのは、難しい。「はてしない物語」で獅子が主人公に忠告したとおりだ。それは、自分が本当は何を必要としているのか、じつは自分でもよく分からないからだ。

だから、あまり欲をかいて煩うな、天に任せてその日を生きろ、というのが先の聖句の意味するところのようだ。謙虚であれ。しかし楽天的であれ。『天の采配』を信ずるかどうかはともかく、こちらの方が精神の健康には良さそうに思える。

それにしても、最初の院生たちとの問答に戻ると、全員が「運不運がある」とこたえ、「意志と努力があれば、何事でも必ず実現できる」と考えた人数が少なかったのには、やや驚いた。念のために書くが、東大の大学院生である。もう少し自信家というか野心家がいても、よさそうなものではないか。

でも、若者たちの心は変わってしまったのだと思う。それは、昨年の3.11以降のことである。あのとき以来、この世には個人の意思だけではどうにもならぬ事があるのだ、と胸に刻みつけられたのだろう。そう思うと、すこし痛々しかった。望みがすべて叶うとは限らないが、何も望まなければ何も叶うまい。そして若い人たちに、また希望を持ってもらうことこそ、あの災害で亡くなられた方々への、一番の手向けではないか。

わたし達はあの出来事をまだ、十分に乗り越えていない。忘れたふりをしてはいけないのだろう。世間がひととき静まるこの季節、被災された方々、今も困難な生活にくるしむ大勢の方のために、ほんの短い間ではあるが、わたし達も祈ることにしよう。
by Tomoichi_Sato | 2012-12-22 23:40 | リスク・マネジメント | Comments(1)

リーダーシップを浪費する組織

見渡す限りの荒野を、一台の幌馬車が西に進む。手綱を取るのはがっしりとした屈強の男。妻と子供たち、それに従者をしたがえながら、まだ見ぬ新天地を目指し、ある時は川を渡りある時は峠を越え、またある時は野牛や狼の群を警戒し、インディアンの不意打ちを防ぐため銃に弾丸を込めながら、彼らの旅路は続く。いかなる困難に遭おうとも、不屈の意志で乗り越え、一団を率いて数千マイルもの道のりを行く。これがアメリカ人の描くフロンティア・スピリットだ。

勇気を持って仲間を率い(lead)、今までとは違う新しい場所に導く者を、Leaderと呼ぶ。ここにはヒーローのイメージが重なっている。北米の文化において、困難に直面したときは、自分をこうした開拓時代の勇者になぞらえ、自ら鼓舞する事が求められる。もちろん、現代のアメリカ人の過半数は、べつに西武開拓者の子孫ではない。それでも、自らを擬する対象として、開拓のリーダーのイメージがあるのだ。ちょうど、日本のビジネスマンが武士に規範を求めたり、戦国武将の物語を経営者が好んだりするのに似ている。日本人の9割は農民の子孫のはずだが、それでも武士が憧れなのだ。

ところで、英語のleaderは、基本的に同質な仲間を導く人の意味である。会社の経営者をリーダーと呼ぶとき、従業員は同種の仲間である事を表している。では、南部のプランテーションで、大勢の黒人奴隷を指揮していた者は何と呼ぶのか? 黒人たちのリーダー、ではあるまい。それではぜんぜん別の意味になってしまう。こういう農場管理人は、「マネージャー」と呼ぶのだ。黒人労働者、あれは全然別種の生き物だ。連中をどう使うかが、マネジメントだ。こういう感覚は、いまでも米国にうっすら残っている。だから、「マネージャーであることを止めて、リーダーになれ」というような台詞(警句)が意味を持つのである。

アメリカの文化では、リーダーには建国時代の「英雄」の元型的イメージが重なっている。米国の経営書を読むとき、このことを忘れてはいけない。カタカナ商売のコンサルタントが「今日のグローバル経営では」とか「世界の経営学の潮流は」と言うとき、9割は米国でのことを指しているはずだ。米国の経営学が世界をリードしていることに異存はない。それはアメリカ発の多国籍企業が、世界の市場経済を席巻していることと相似形になっている。

それでも、組織のあり方には、出自の文化が影響しており、学問や理論も、その地の文化と無縁ではない。プロジェクト・マネジメントの学会でフランスに行ったとき、欧州のPM研究はかくもアメリカと違うのかと驚いた記憶がある。一口にいうと、アメリカのPM論がプロジェクト自体の内部で、そのマネジメントや合理性を問うのに対して、欧州では社会の中でのプロジェクトのあり方を論じるのだ。同じような違いはリーダーシップ論にも現れるように感じる。そして、わたし達のビジネス思想は、アメリカの輸入概念にかなり依存している。

近代の経営学は、ちょうど100年前、米国のテイラーによる科学的管理法の研究から始まったといわれる。これは工場労働者の生産性の科学だった。しかし、それと並び、リーダーシップに関する研究が、米国のもう一つの大きな流れだ。おそらく元は政治学に連なる系譜なのだろう。少しお勉強してみると、20世紀前半まで、リーダーシップ論は、リーダーの特性・資質の研究が中心だったようだ。リーダーとはどういう人間なのか。どういった能力や性格を持って生まれたのか。その属性を探ろうというアプローチだ。

膨大な研究が積み重ねられたにもかかわらず、50-60年代にはいると、この方法は煮詰まってきたらしい。決め手となる属性が定まらないのだ。もしかすると、リーダーとは生まれつきの資質だけでは決まらないのかもしれない。そこで、次第にリーダーの行動特性を分析する方向に変わった。行動なら学ぶことができ、育てる事も可能なはずだ。

さらに、適切なリーダーの行動は、状況に応じて異なる、という「状況理論」が現れる。それを追うように、今度は「変革型リーダー」などのリーダーシップ類型論が生まれてくる。もちろん、資質論や行動論もまだ忘れられたわけではない。こうして、Harvard Business Review誌などは周期的にリーダーシップ特集を組む。彼らはよほどこのテーマがお好きらしい。つまり、英雄的リーダーが導く企業、というイメージが皆にうけるのだろう。リーダーシップの必読論文10選などを見ると、じつに百家争鳴である。ただ、どちらかというと、現実のリーダーを分析する記述的研究から、モデルなどを使った規範的な研究に向かっているように感じられる。「リーダーシップはこうあるべき」論である。

では、これに対して欧州の経営学ではどうなのか。これがなかなか、国によって違っている。たとえばドイツ。ここではリーダーシップ研究は微妙な位置にあるらしい。なぜか? ためしに、ネットの翻訳サイトを開いて、英語のleaderをドイツ語に翻訳してみてほしい。Führerという単語が出てくるであろう。では、今度はこのFührerを、日本語に翻訳してみよう。すると、20世紀前半のドイツを引っ張った、ある偉大な指導者の称号が出てくるはずだ。アドルフ・・ではじまる、あの人物である。彼は優れたリーダーだと言えるだろうか? 少なくとも、同時代の多くのドイツ人はそう信じたはずだ。オーストリア出身の経営学者ドラッカーは、長年リーダー論には慎重だったそうだが、その背景の一つには、ドイツ語の世界でリーダーがやっかいな位置にあったためらしい。

さて、ドラッカーと相前後して、同じオーストリア帝国の片隅に生まれた一人の女性がいた。彼女は修道女になってアイルランドに留学した後、インドに渡り、後に貧民街で多くの人を助けることになる。マザー・テレサの名前で知られる彼女は、自らの修道会を組織し、傑出した仕事をした人だ。彼女は優れたリーダーだったと言えるだろうか? そう信じる人は多いだろう。とはいえ、コンサルティング会社JMJアソシエイツ のレクチャー資料で、先のアドルフ・某氏とマザー・テレサの顔写真を並べて見せられたときは、ちょっとショックだった。この二人を同時に尊敬できる人は、滅多にいるまい。だとすると、『リーダー』と呼ばれる範疇には、互いに相容れない様々な種類の人間がいるのだ。

リーダーシップとは何か、皆が知っていると信じている。しかし、誰もが納得する共通の定義は存在しない」というのが、上記MJMアソシエイツの主張である。たしかにその通りだ。だが、それは何故なのか?

“誰もがその存在を自然なものと信じているが、その内容や定義は社会や文化によってころころ変わる”--こうした事柄は、実は社会が作り出した一種の幻想で、実在物ではない、という立場をとる学派がある。社会構築主義Social Constructivismと呼ばれる考え方で、社会的な事象を研究する理論的フレームワークの一つである(ちなみにわたしが初めて社会構築主義を知ったのが、フランスでのプロジェクト・マネジメント研究だったことは以前も書いた)。

さて、この社会構築主義の立場に立って、リーダーシップ論を考えたのが、英国の経営学者マインドルであった。彼は様々な調査と比較実験をもとに、企業の好業績を評価する際に、社員の能力・市場環境・制度などをさしおいて、経営者のリーダーシップで説明することを多くの人が好む(現実がどうだったかにかかわらず)ことを見いだした。また、そのリーダーシップは経営者の変わらぬ資質である、と考えたがる。

ここから彼は、『リーダーシップの神話(ロマンス)』という理論を提唱する。わたしたちは、ピンチになると強いリーダー(≒ヒーロー)に頼る傾向があり、組織のパフォーマンス問題をリーダーシップ不在という言葉で説明しようとする傾向があるというのが、彼の発見である。いいかえるとリーダーシップは、フォロワー達にとって「それが不在の時に最も強く、その実在を信じたくなる」、印画紙のような概念だと考えるのである。

あまりにも英国流のひねくれた意見だ、と思われるだろうか? そうかもしれない。ただ、この理論から予測できることが一つある。それは、制度的・環境的・成員的に大きな問題を抱える組織は、しばしばリーダーに問題を押し付け、やがて頻繁にリーダーを取り替えることになる、という現象だ。組織がリーダーシップを浪費する状況がいったん生まれたら、もはや人々は深く考える事をやめてしまう。かくして、組織はダウン・スパイラルに陥っていく。

マインドルや彼の学派はべつに、リーダーシップを否定しているのではない。それは有用な操作概念だ。だが、いつ、どう使うかが大事なのだろう。最初から、あらゆる問題への「銀の弾丸」として期待するのは、危険なのだ。そのとき、わたし達はリーダーシップの神話を求めていないか自己検証すべきらしい。優れたリーダーの問題は、制度や、環境や、フォロワーの人材などの問題を一つ一つ解決し、外堀を埋めてから攻めるべき本丸のようなものらしい。ご不満だろうか? だが、そうしないと、浪費家のわたし達が出会い頭にしがみつく次の相手が、独裁者なのか聖女なのか、それともただの凡人なのか、誰にも予見できないからなのである。
by Tomoichi_Sato | 2012-12-16 16:58 | ビジネス | Comments(1)

おじいさんのランプ、または経営とマネジメントの違いについて

新美南吉は、わたしの最も好きな作家の一人だ。童話作家で、戦中に若くして亡くなったが、珠玉のような名品をたくさん残している。「ごんぎつね」は小学校教科書に採録されたから、読んだことのある人も多いだろう。わたしの場合は、「牛をつないだ椿の木」が最初の出会いだった。彼の短編は青空文庫でも読める。だが角川文庫版を買うと、棟方志功画伯らによる挿絵がついてくるから、これはこれで味わいが深い。

その新美南吉の短編に、「おじいさんのランプ」という話がある。本屋の子どもが、納屋で旧式のランプをみつける。ガラスの中に灯心があり、油を入れて灯をともすタイプだ。それを見て、祖父の巳之助が思い出を語りはじめる。まだ少年時代の巳之助が、この話の主人公である。文明開化の直後の頃、用事で遠くの町まで遣いに出た彼は、町でランプというものを初めて見る。夜でも明るいその光に、少年はつよく印象づけられる。このくだりは、すこし新美南吉の原文をひこう。

「しかし巳之助をいちばんおどろかしたのは、その町の大きな商店が、一つ一つともしている、花のように明かるいガラスのランプであった。巳之助の村では夜はあかりなしの家が多かった。まっくらな家の中を、人々は手でさぐりながら、水甕(みずがめ)や、石臼や大黒柱をさぐりあてるのであった。すこしぜいたくな家では、おかみさんが嫁入りのとき持って来た行燈(あんどん)を使うのであった。(中略)しかしどんな行燈にしろ、巳之助が大野の町で見たランプの明かるさにはとても及ばなかった。
 それにランプは、その頃としてはまだ珍らしいガラスでできていた。煤(すす)けたり、破れたりしやすい紙でできている行燈より、これだけでも巳之助にはいいもののように思われた。」

主人公にとって、ランプは文明開化の象徴だった。これを自分の村で売ろう、とかれは決意する。そしてランプを売る店に行き、「仕入れ値で卸してくれませんか」と交渉する。店の側は年端もいかぬ少年の依頼に驚くが、ためしに一つ売れたら、次からも卸してあげようと約束する。そこで主人公はランプを村まで持ち帰り、よろず屋に使ってもらう。そして、その灯りの明るさに驚いた村人たちの間に、少しずつランプが売れるようになっていく。

しかし物語はこのままでは終わらない。しばらく年月が経つと、村に電気というものがやってくる。街道沿いに電柱を並べ、電線が引かれて村にも届くようになるのである。すると、電球の明るさはランプの比ではない。こうして、主人公のランプ商売は、しだいに売れ行きが衰え、立ちゆかなくなっていく。彼は必死に電気の批判を口にしたりするが、技術の潮流には逆らえないことを、我が身をもって次第に悟る。

そのとき、倉庫からすべてのランプを持ち出した主人公がどうするかは、ぜひ新美南吉の美しい文章で読んでほしい。それは忘れえぬ美しい結末である。ただ、祖父のその後の身の振り方は、冒頭のエピソードから想像できるだろう。彼はランプ屋を廃業して、本屋になるのだ。

「おじいさんのランプ」は、決断に関する物語である。それも、希望を持って新しい道を選ぶような決断ではなく、苦渋に満ちた「やめる」ことの決断だ。杖とも柱とも頼りにしてきた、自分自身の一部のように慣れ親しんだ仕事をやめ、手探りで次の道をさがす決断。それは決してたやすいことではあるまい。

この物語を読むたびに、わたしは幾人かの中小企業の経営者の顔を思い出す。その人たちはいずれも、自分が起こし、あるいは家業として継いだ小さな会社を、存続のためあえて商売替えして生き延びてきた人たちだ。ある人は職人仕事が安価な工業製品に追われたため、製造から販売業に転じた。ある人は自社製品が小さな市場で一巡してしまったため、見切りをつけ全く別の商材を開発して売ることに賭けた。どちらも、目をつぶって清水の舞台から飛び降りるような決断に思えたにちがいない。本人にとっても、従業員や家族たちにとっても。

わずか数人でも、人を雇って事業をすることは、きわめて社会的な責任と義務の伴う仕事である。法人格を構えた瞬間から、帳簿をつけ税金を納め、社会保険を負担し労働協約を結び、登記簿や融資借入から産業廃棄物の心配まで、ありとあらゆる法規に対応しなくてはならない。しかも、そうしたことはある意味で、周辺的な雑事である。一番本質的な責任は、生きるために商売を続けるという事だ。ところが小企業の商売をめぐる環境は、冬の海の天気のごとく変わりやすい。同じ漁場に網を打って、魚がとれ続けるとは限らない。そのとき、どうするかを考えて決めるのが、経営者の仕事だ。

ある経営者とは、こんな議論をしたこともある:外洋で大きなタンカーを運行することはたしかに難しい仕事にちがいない。しかし小さなヨットで外海を走るのだって、別の意味で難しい。巨大なタンカーは滅多に沈まないが、ヨットは不安定で、風向き次第では転覆しやすいからだ。タンカーが沈没すれば新聞の一面記事だが、ヨットが転覆しても紙面の隅にも載らない。だから30万トンタンカーの船長が、30トンの船長の1万倍偉いことにはならない。難しさの質は違うが、どちらも大変な仕事なのだ、と。わたしはそれを、自分の会社にひきつけて考えてみた。目の前にいる、ほんの30人ばかりの企業の社長と、勤務先で300人以上のチームを率いる大プロジェクト・マネージャーと、どちらが偉いのか? そういう比較は意味がないのだろう、大変さの質が違うのだから。

おかしなことに、英語には『経営』に対する言葉がない。Managementという言葉は、大企業の采配にも、小さな数名のチームの采配にも、どちらも使える。「経営学修士」がMBA (Master of Business Administration)なんだから、経営は"Business Administration"のはずだ、と思う人がいるかもしれない。だが、それは違う。経営者のことをBusiness Administratorなどとは呼ばないのである。Administratorは、行政とか、総務といったニュアンスがむしろ強い言葉だ(だからMaster of Business Administrationという名称は、米国では最初、批判があった)。「ウチの経営者は」と英語で言うときには、どうしても"Our top management.."になってしまう。

だが、マネジメントと経営は、別種のことである。経営は文字通り、ゴーイング・コンサーンである企業を存続させ、人々が働き続けられる(さらに言えば、より働きやすくなる)ために行われる仕事だ。一方、マネジメントは、人に働いてもらって、目的を達成することが語義の中心にある。課長だって係長だって、ミドル・マネジメントだ。だが課長は今期販売目標は心配するだろうが、会社の資金繰りや行く末については心配しない。経営には、必ずお金や市場や地域社会に関する責任が含まれる。経理の基本を知らなくても、マネージャーにはなれるが、経営者にはなれない(もちろん、経理の理解は経営者の必要条件だが、十分条件ではない)。

言い方をかえると、マネージャーは与えられた目的・目標を達成することが仕事だが、経営者は自分で目的・目標を設定するのが使命なのである。マネージャーは、自分の判断で仕事を止めることはできない。“こんな商売は先がないから”と言って投げることは、許されない。それができるのは経営者だけだ。それをしなくてはならないのが経営者なのである。その判断が間違ったら、自分が職を失う。中小企業の場合は、家も財産も信用もすべて失う事になる。もちろん多くの部下も、たとえ落ち度が無くても、道連れになる。

「中小企業のオヤジ」というと、世の中には通俗的なイメージがある。頑固で欲張りで家父長的で・・たしかに、あたっている面も多少あるだろう。しかしわたしが知っている、先にあげた経営者たちには、ふとした時、ほんの一瞬だが、ある種の威厳を感じることがある。それは、自分で道を選び直す決断をしてきた人にのみ具わる、ディグニティなのだろう。近代的なマネジメントの理論は知らなくても、この人たちは覚悟を持って生きてきた。冒頭の物語で、ランプを見つけた孫が祖父にふと感じるものは、そこなのだ。

新美南吉の「おじいさんのランプ」は、わずか30頁ほどの短い話だ。15分もあれば読める。どうか、手にとって読んでみてほしい。そして、できるだけ多くの人に紹介してもらいたい。わたしのこの駄文なんか(笑)どうでもいいが、新美南吉だけは忘れてはならぬ作家だ。若くして夭折したかれが、文中に、目立たぬように埋め込んだ、後世の日本人へのメッセージを読み取ってほしい。くりかえすが、これは決断に関する物語である。それは、かれがこの国の一人一人に持ってほしいと願った、勇気についての置き手紙なのだ。
by Tomoichi_Sato | 2012-12-06 22:22 | ビジネス | Comments(1)

プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会(12/1)参加御礼

先週の土曜日、12月1日に開催した「プロジェクト&プログラム・アナリシス研究部会」のミニ・シンポジウム『流通・サービスのエンジニアリングとマネジメント』は、おかげさまで30名近い方の参加があり、ほぼ満席の盛況でした。

年末のお休みの日にもかかわらず、法政大学市谷田町校舎の会場まで足を運んで下さった皆様にお礼申し上げます。
当日、最後に撮った集合写真を2枚、アップいたしますので、ご笑覧下さい。

なお、次回は来年1月以降の開催となります。今回出席された方で、次回以降も開催アナウンスをメールで受け取りたい方は、お手数ですが
「お名前」
「ご所属」
「メールアドレス」
を、主査のわたくしまでご連絡下さい。(研究部会はスケジューリング学会下の組織ですが、学会員でなくても自由に参加でき、無料です)

よろしく。
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by Tomoichi_Sato | 2012-12-03 19:36 | プロジェクト・マネジメント | Comments(0)