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学会講演のお知らせ


来る9月30日(日)16時から、成蹊大学(東京・吉祥寺)で開催される「スケジューリング・シンポジウム2012」にて、「流通・サービスのエンジニアリングとマネジメント」と題するオーガナイズド・セッションを主宰し、その中で
 『サービス商品としてのプロジェクト・マネジメント 』
という発表を行います。

ご関心のある方のご来聴をお待ちしております。
by Tomoichi_Sato | 2012-09-26 07:50 | プロジェクト・マネジメント | Comments(0)

コスト・マネジメントの話(3) - 費用の配付とは何か

もう少しだけ、コストについて考えてみたい。我々勤め人は、つねにコストに追い回されているくせに、じつはコストについて十分わかっていない。その理由の一つは、“目に見えないお金の動き”があるからだと、前回書いた。現代の会計制度では、お金の流れに『損益取引』と『資本取引』の二種類があって、後者は損益計算に表れない。つまり、資本取引でいくらお金が出ていっても、直接にはコストにのってこない。ただ、減価償却などの形で、後になってから時間をかけてコストの姿をとるのである。

コストのわかりにくさを生むもう一つの要因は、共通費用の配付という考え方から来る。ちょっと例を挙げて説明しよう。仮にあなたが、小さなスーパーマーケットを経営しているとしよう(いや、別にスーパーでなく出版社でも芸能プロダクションでもいいのだが、業務がイメージしやすいものを選んだまでだ)。従業員を抱え、店舗を持って商売を営んでいる。扱うのは主に野菜・肉・魚の生鮮三品だ。商売は仕入れが命だから、あなたは朝早く、市場の仕入れにも同行する。大手スーパーの中には仲買に任せきりのところもあるが、自分の目で見るのが大切と信じている。昼間はときに売り場横の段ボール箱を片付けながら、来客にお愛想の一つも言わなければならない。

さて、月末になったので、あなたは必要な支払を済ませ、今月のソロバンをはじいてみる。このような商売の収支は単純である。売上がある。そこから仕入れの費用を差し引く。生鮮品は基本的に在庫がない(持てない)から、在庫棚卸高増減の調整は不要だ。さらに従業員の人件費を払い、水道光熱費や輸送トラックの費用、チラシ広告代などを引いていって、残りが利益になる(売上-費用=利益)。経常利益とよばれるものだ。ここから法人税を払わなければならない。

さて、あなたはスーパーでの店頭小売り以外に、ネットによる注文と宅配の事業も立ち上げ、ビジネスを成長させることを考えた。仕入れルートはほぼ同じである。販売価格も店頭と同レベルにした。消費者から見た違いは、配送料程度だ(それも一定金額以上は無料にする)。一方、あなたの側から見ると、大きな違いがある。まず、店舗の面積が全く不要になる。仕入れ品をおいて荷さばきするスペースがあればいい。もちろんお洒落な外観もレジもBGMも不要だ。従業員も少なくてすむ。

となると経営者としては、店舗事業とネット事業のどちらが、より儲かるかを知りたくなるというものだ。それによって経営の力点がかわってくる。では、どうしたらそれが分かるのか?

売上は当然、店舗とネットで別々につかむことができる。仕入額も、同様だ。だが、従業員の賃金はどうするか。たしかに店舗とネット事業それぞれに直接たずさわる人数は明確だ。しかしそれ以外に、経理や総務・広告など、両事業に共通するスタッフ部門がいる。この人たちの人件費を、元からある店舗事業だけに負わせるのは、なんだか公平とは言えない。似たようなことは、事務所の家賃や水道光熱費、あるいは仕入配送費などについても言える。両事業に共通な費用の負担先を決めなければならない。

あなたは最初、単純に両事業の売上高の比率で案分しようかと思った。しかし、それで本当に良いのだろうか。もしネットの売上が伸びたら、比例して共通費用も多めに負担することになる。すると、店舗事業の収支が良くなる計算だ。それは奇妙ではないか。そもそも、ネットは店舗販売より人が少なくてすむ点がポイントである。ネット事業の責任者には、その長所をいかすよう、人も効率よく使ってもらうようにした方がいい。そこで、共通スタッフ部門の人件費は、二つの事業部門で働く従業員の比率で案分することにした。店舗は40人、ネットは現在20人だから、2:1で、それぞれ費用負担してもらう計算にしたのである。売上が伸びても、人が増えなければ負担はかわらない。

このような損益計算の方法を、共通費用(原価)の配付とよぶ。正しくは会計学では配賦という難しい漢字を使うのだが、英語ではallocationでふつうの配付とかわらないので、ここではこう書いておく。

共通費用を複数の事業に配付する場合、働く従業員の数で案分するべきとは限らない。たとえば水道光熱費などは、明らかに使っている建物面積の比率で配付する方が、リアリスティックに思える。輸送費も、仕入れの物量比率で考えたくなる。とはいえ、あまり細かく計算方法を分けるのも煩雑にすぎよう。だから半々に振り分ける方式だって、ありだ。このように、共通費用の配付においては、計算方式にある程度の選択の自由があることを覚えておいてほしい。恣意性、と言ってもいい。ただし、いったん計算方式を決めたら、むやみに変えるべきではない。そうしないと、費用の過去実績との比較ができなくなるからだ。

さて、小売業では業務分野別の原価計算がいいところで、個別の商品毎の原価まで計算するケースは少ない。商品数が多い割に利幅が小さく、また「特売商品」で客を引きつけて別の商品で元を取る、といった商売をするため、個別原価は煩雑なわりに意義が小さいからだ。ところが製造業では、個別に原価が分からないと不便である。自分の製品のどれが儲かって、どれが損しているか分からないと、売値さえ決めにくいからだ。だから、中堅クラスの製造業になると、製品(ファミリ)単位、あるいは注文(製番)単位での原価管理を志向するようになる。

製造業の原価は、材料費・労務費・製造経費が三本柱である。材料費はいうまでもなく、外部から購入する部品・材料等の費用である。労務費(急にここで「人件費」でなく「労務」という汗臭い言葉が登場する点が、会計用語の不思議さだが)とは、製造現場の作業に携わる人たちの給与等だ。製造経費とは、外注加工費、水道光熱費、物流費、減価償却費、特許使用料などが含まれる。この三本柱を合計したものが、製造費用である。さらに、販売費・一般管理費(通常は現場ではなく本社等で発生する)を加えて『総原価』とよぶ。

さて、これら総原価の中のかなりの費目が、実は複数製品間の共通費用となっている。たとえば労務費は、同じ労働者がいろいろな製品・部品の製造作業にたずさわる(工場が完全に製品別フローショップになっていれば別だが)。水道光熱費、特許料、そして製造機械の減価償却費などもそうだ。もちろん、一般管理費・販売費は言うに及ばぬ。

これら共通費用を、すべての製品単位に配付しなければ、個別原価は計算できない。では、誰が、その計算式を決め、計算を行うのか。原価企画部門のコスト・エンジニアだろうか? あるいは生産管理部門の責任者や工場長だろうか。

おそらく、そうした企業はきわめて少数だろう。たいていの場合、原価配賦計算は、本社の財務部門が担当する。すべての数字が正確・公平に集まるし、また製造原価報告書作成の元締め部署でもある。そして、個別製品に配付された費用単価が、利用部門に通知されるのである。

問題は、この配賦基準を、誰が、どのように決め、どのように見直しているかである。上の例で、あなたは社長として、意図を持って配付の方式を決めていた。原価の配付計算には自由度がある。むろん、配賦計算をどのように決めても、会社全体の損益はかわらない。だから、管理したい目的と意図に沿って決めるべきなのである。そうして求められた個別製品の原価は、売価決定の最重要データとなるだけではない。どの製品をのばし、どの製品は退場させるか等、経営判断の材料となるのだ。経営判断とは、たいていの場合、限られた経営資源をどこに配分するか、という形で表れる。この時、製品別の損益がもっとも重要なデータの一つになるのである。

したがって、共通費用の配付をどのようにするべきか、いいかえれば原価計算の方式は、それ自体が重要な経営上の課題なのだ。ところが、この点に気づかぬまま、「原価というのは何か会計部門が適当な基準で計算してくれるものだ」と勘違いしているマネージャーが多い。人件費単価、いわゆる賃率などについては、多くの人間が知っており、その値に敏感になるが、その計算方法はたいてい、お任せ状態になってしまっている。

かつてSAP R/3の本(「SAP R 3ハンドブック」)を書いていたとき、このERPパッケージはまさに原価管理を経営にリアルタイムに活かすために設計されたシステムだ、と気がついた。と同時に、日本企業の導入例を見る限り、会計モジュールは使っても原価管理機能はおざなりな場合が多いことも知った。だとしたら、原価配賦方式が経営上の主要な課題だとの認識は、日本では薄いのだろう。もちろん、どこの企業だって製造原価報告書は作成している。しかし、それは会計規則で要求されているから作っているだけだろう。それはちょうど(前にも書いたように)タクシーのメーターを見ているだけに似ている。自分がどの道を、どう行きたいのか、きちんと認識できて、はじめて「コストをマネジメントしている」と言えるのである。
by Tomoichi_Sato | 2012-09-24 21:50 | ビジネス | Comments(0)

コスト・マネジメントの話(2) - 黒字倒産、あるいは借金は財産である事について

前回『コスト・エンジニアリングとは何か』で、コストとは分かっているつもりで案外分かりにくいものだが、その理由は二つある、と述べた。その第一の理由は、“見えないお金の動き”があることだ。物を売れば、お金が入る。モノやサービスを買えば、お金が出ていく。それらはすべて、目に見える分かりやすいお金の動きだ。だが、それ以外に、目に見えない動きがある。たとえば、原価を割る値段でモノを売ったら、お金がどんどん出ていくはずだ。ところが、たしかに損は積み上がっていくが、手元のお金はちっとも減らない、ということもあるのだ。今回は、その話をしたい。

わたしがはじめて「黒字倒産」という言葉を聞いたのは、(ちょっと場違いに思われるだろうが)NHK朝の連続TVドラマの中だったと思う。まだ中学か高校生だったわたしは、“このままでは、店は黒字倒産にもなりかねない”という主人公の独白を聞いても、ちっとも意味が分からなかった。黒字なのに、なぜ倒産するのか? 倒産するのは、赤字の時だけではないのか?

同じ頃わたしは、家のローンに関連して、父が「借金は財産だ」と言うのを聴き、これもまた訳が分からなかった。借金はマイナス、財産はプラスじゃないか。なぜそれがイコールの等号で結ばれるのか? その理屈が分かるようになったのは、ずっと後、会社で経済性分析のために財務の初歩を習ったときだった。

周知の通り、財務諸表の中心は、貸借対照表(Balance Sheet = B/S)と損益計算書Profit & Loss = P/L)である。貸借対照表は、ある時点での企業の持つ財貨のストックを表し、損益計算書は、一定期間内のお金のフローを表している。一定期間のストックの増減が、フローになる。数学に強い人なら、損益計算書は、貸借対照表の微分項を示すと考えるかもしれない。

もう一つ大事なことがある。損益計算書は、税金の計算のベースとなる点だ。法人税は、企業が一定期間内に上げた利益に対して課税される。たとえばあなたの会社が今期、100万円の製品を顧客に売ったとしよう。ところが、その製品を製造し販売するために必要な費用が80万円だった。すると、得た利益20万円に対して、国は法人税をかけるのである。その税率は、いろいろ面倒な細部を省略してざっくり言えば、半分近い(ここでは切りよく10万円としよう)。だから税金を払った後、手元に残る利益(税引き後利益)は10万円である。

では、100万円の製品を作って売るのに、120万円かけてしまったら税金はどうなるのか? つまり、20万円の赤字だ。赤字の場合、税金はかからない。ここを覚えておいてほしい。黒字だと法人税を取られるが、赤字だとタダになる。

さて。あなたが20万円の赤字を出して、“さあ、こまったな”と考え、誰か親切な人から20万円を借りたとしよう。あなたの財布には、20万円のフローが入るわけだ。さて、このフローは、損益計算書に収入として記載されるか?

じつは、されないのである。あなたの手元の資産(ストック)は、20万円増えたではないか。だが、これは製品やサービスの売上で得たフローではないし、逆に外に支払うべき費用を節約して得た金でもない。じゃあ、何なのか?

このような借金の貸し借りは、「資本取引」と呼ばれ、損益計算書でカバーされる「損益取引」とは別のカテゴリーなのである。損益計算書は利益の(つまり税金の)計算のベースだ、と上に書いた。ところが資金の貸し借りは、損得とは直接関係がない。20万円借りても、それで何か得をしたわけではない。20万円の現金を手にしたかわりに、20万円の「債務」を負ったからだ。返すべき金は、借りた金と(当たり前だが)いつも同額だ。足し引きゼロである。(ちなみに返す必要がなければ、それは贈与であって、得になるが、ここでは普通の借金の話をしている)

父が「借金は財産だ」と言ったのは、このことを逆の側から表現したのである。20万円の債務を引き受けると、20万円の資金が手に入る。貸借対照表では、資産と債務に同額20万円が計上される。ストックは全体として20万円増える。

逆に、人に金を貸した場合も、資本取引になる。債権を得て、現金を減らすわけだ。ところで、製品を100万円で顧客に売って、請求書を送りつけた場合、それは財務上、どう扱われるか? まず、製品が売れたわけだから、売上が100万円、計上される(これは損益計算書ではプラスとして扱われる)。と同時に、顧客は代金の支払い義務(債務)を負うわけだから、100万円の債権が、貸借対照表に記載される(売掛債権と呼ばれる)。八百屋で大根を売るような現金取引なら、こういうややこしい処理は必要ない。だが、企業間の取引では、たいていの場合、請求書支払になるから、売掛の概念が必要になるのだ。

じゃあ、顧客がこの代金をいつまでも支払ってくれなかったら、どうなるか。損益でいえば、黒字だ。だが、手元のキャッシュがいつまでも増えない。ところが従業員の給料その他、現金で支払うべきものがいろいろある。こうして資金ショートが起きる。ここでもし、手形の決済などができなくなると、倒産もあり得るわけだ。黒字でも、売掛債権をきちんと回収できないと、倒れてしまう。これが、最初に書いた黒字倒産の原理である。

もう一度、整理しよう。お金の出入りには、損益取引と資本取引の二種類がある。金の貸し借りは資本取引であって、損益には(そして法人税にも)直接は関わらない。つまり、損益(コスト屋さんの世界)からは“目に見えないフロー”になるのである。

さて、お金(現金)の良いところは、保管しておいても減耗しないことだ。ところで、お金の代わりに、何か機械設備などの資産を持ったら、どうだろう? 100万円の借金をする。その資金で、100万円の機械を買って、工場に入れる。都合、100万円の債務を負って、100万円の資産(有形固定資産)を得たことになる。

ところが、機械というのは生産のために使っていくと、次第に減耗していく。さらに、時代遅れにもなっていく。資産が目減りしていくのだ。機械の寿命が10年だとすると、毎年10万円分、資産が減っていくと考える。見た目にはちっとも減ったように見えない。だが、財務上は損をしていく。ソフトウェアについても、同じように考える。

この損は、商売に必要な費用だ、と解釈し、これを損益計算書にマイナス項として計上することが許されている。これを「減価償却」と呼ぶのである。毎年10万円、減価償却がある。すると、あなたの利益は減るから、税金はその分、少し(5万円ほど)安くなる。利益は減る。でも、別段、手元のキャッシュが減るわけではない。なんだかちょうど、減価償却費の分だけ、お金を補填してくれているようなものだ(これを減価償却の自己金融効果と呼ぶ)。減価償却とは、設備投資という資本取引を、損益計算に引っ張り出す窓、と解釈してもいい。実際の償却金額の計算法はもう少し複雑だが、ここでは考え方のアウトラインを示している。

いつものことながら長い説明になってしまい、すまない。しかも今回は、得と損が入り交じって、ややこしい話だったと思う。ま、このややこしさに不満がある人は、近代の財務会計の基礎を発明したイタリア人たちに文句を言ってほしい。彼らが数百年前、地中海の内外を駆け巡って作り上げたグローバル・ビジネス上のスタンダードが、複式簿記のシステムなのである。だがこれは、それなりに優れた合理性があるため、今に至るまで使われている。われわれ勤め人の財産なら、出入りだけで損得を判断できるが、企業の財務はそう単純ではない。目に見えやすい損得のフローと、見えない資本のフローがあって、それが時間項を介したつながり方をしているのだ。だからコスト・マネジメントを志す人は、必ず財務会計の仕組みについても学ぶべきなのである。


(追記)前回、製造業の世界ではコスト・エンジニアの存在をあまり聞かない、と書いたが、「原価企画部やコストエンジニアリング部などの名前で、多くの製造業に存在している」とのご指摘を頂戴した。わたしの認識不足だったようで、ここに訂正させていただくと共に、アドバイスをいただいた野尻寛氏にお礼を申し上げたい。
by Tomoichi_Sato | 2012-09-17 23:50 | ビジネス | Comments(2)

コスト・エンジニアリングとは何か

コスト・マネジメントの話を、少ししたいと思う。コストは品質・納期とならんで、製造業の生産における3要件と呼ばれる。品質(Quality)・コスト(Cost)・納期(Delivery)の頭文字をとってQCDともいう。この三つが顧客の主要な要請であり、また製造業の競争力の尺度でもあると考えられている。プロジェクト的分野においては、Scope・Cost・Scheduleが主要な三要素であり、品質がScopeに入れ替わっているが、いずれにせよコストが重要であることにかわりはない。(プロジェクトでもScopeでなくQualityを採用するべきだという議論もあるが、ここでは深入りしない)。

さて、コストである。これが、皆、分かっているようで良く分かっていない項目なのだ。その理由は二つある、のだが、その理屈に入る前に、コスト・マネジメントには専門職がある、という話からはじめよう。その職種を、「コスト・エンジニアCost Engineerとよぶ。

米国にはAACE Internationalというコスト・エンジニア専門家の協会があり、国際大会を開いたり研究・啓蒙活動を行っている。AACEは元々、American Association of Cost Engineeringだったはずだが、現在は Association for the Advancement of Cost Engineeringの略称ということになっている。Internatioalをつけて国際化したときに、国名を外したのだろう。英国にも、Association of Cost Engineersという団体がある。日本にはまだ、あいにく存在していないようである。

それにしても、コスト・エンジニアリングとは、何をする仕事なのだろうか? エンジニアリングとは、普通は何か「機能するモノ・仕組み」(それが有形であれ無形であれ)を設計し、現実化する仕事を指す。機械工学Mechanical Engineeringとか制御工学Control Engineeringなどは、そうした種類の技術だ。ところが、コスト・エンジニアリングはまさか『コストという名前のモノ』を作る仕事ではない。では、何を設計するのか?

答えは、製品やサービスの『原価を設計し、実現する』技術、なのである。技術というところがポイントだ。エンジニアリングは、科学的アプローチに基礎を持っていなければならない(機械工学が物理学や金属学などに基づいているように)。気合いと根性でコスト削減を目指したり、下請業者を呼んで「指し値」で恫喝したり、というやり方は、原価低減には役立つかもしれないが、『科学的アプローチ』ではない。

科学的でないと何が困るかというと、数値とデータ分析で精度を向上させたり、やり方を他者に教育・移転したり、ということができなくなることだ。エンジニアリング(技術)とは、どんな人間でも一通りの訓練さえ受ければ、70点の仕事ができるようにする事を目標としている。だから逆に、エンジニアリング抜きのコストダウン活動は、ひどく属人的なやり方になってしまう。

そのコスト・エンジニアの仕事だが、大きく分けて以下のような要素からなっている:
(1) コスト見積(estimating)
(2) コスト・コントロール(cost control)
(3) コスト予測(cost forecasting)
(4) 投資採算分析(investment appraisal)
(5) リスク分析(risk analysis)
細かく言えばまだあるが、上記の5本柱が仕事の中心である。

コスト見積(estimating)の科学的アプローチとは何だろうか。これから作ろうとする製品やサービスの原価は、ふつう、その設計内容と、過去のコスト実績とから計算する。見込生産や繰返し受注生産のように、すでに設計内容が決まっている製品については、その部品材料の仕入れ価格や、社内工賃などが定まれば計算でき、標準原価として定義されている(はずである)。むしろ目標原価を最初に設定して、それに合うような設計をすることもしばしば行われる(これを原価企画とよぶ)。

しかし個別受注生産は、毎回原価が異なる。本来はきちんと設計を完了して、はじめて精確なコストを見積もれる。ところが、受注ビジネスの商談においては、コスト見積の段階で、必要な詳細設計の全てを済ませることはできない。顧客の要求仕様にもとづき、概略の『見積設計』を行い、それをもとにコスト見積をしなくてはならない。

このとき、詳細不明な部分のコスト要素について、過去の実績データから何らかの推算方式を用いることになる。それは、なんらかの代表的尺度(トンだとかkWだとか)を用いたfactor methodであったり、あるいは過去の単価トレンドの数理的外挿だったりする。こうして、設計がどの程度まで確定しているとき、どのような推算手法を用いるべきかの決定が、estimatingの主要な技術となるのである。

二番目のコスト・コントロール(cost control)とは、実行段階におけるコストのトラッキング、予実対比ならびに問題解決を行う活動である。見積段階で作り上げた原価構成を元に、まず『実行予算』を策定する。すべてのコスト要素に対して、目標値となる予算を決め、各担当者に通知するわけである。それから、発生した実績コストを時系列的に把握・集計する。そして予定コストと対比する。これが予定内であればokだが、実績が予定を上回っているようであれば問題である。その原因をつきとめ、分析する必要がある。そして、対応策を考え、関連部門とともに対策にあたる。

こうした活動がcost controlだが、発生コストのリアルタイムな把握だけをとっても、そう簡単でないことはおわかりだろう。あなたの職場では、たとえば製品にかかわる人件費を集計するタイミングは、翌日・翌週・翌月のどれだろうか? そのタイミングは、製品作りの<リードタイム>(つまり納期)に比べて、十分短いだろうか? 

この問題はさらに、cost forecastingの活動にもつながる。cost forecastingとは、「この仕事が全部終わった時には、いくら金がかかっているだろう?」という問いに答える活動だ。当然ながらこの問いには、「いったい、この仕事はどこまで進んだのだろう? いつ終わるんだろう?」との視点もかかわってくる。すなわち、進捗率を把握し、着地点を推定する仕事である。完了時点のコスト推定値を、Cost Estimate at Completion、略してCost EACという。

そして、以前、「進捗管理とは何か?」でも書いたように、進捗率とは非常に誤解の多い概念なのだ。進捗とは、これまでどれだけ仕事をしたか、ではなく、「あと仕事がどれだけ残っているか」で量るべきものである。コストでいえば、今までいくら使ったか、ではなく(それはそれでcost controlとしては大事なのだが)、これからいくら使わなくてはならないか、を推測しなければならない。

知らない街でタクシーに乗り、目的地を運転手に告げて、たしか1,000円くらいでいけるはずだよな、と思いながらタクシーメーターを見る。すると900円になっている。「じゃあ、もう9割は来た訳だ」と考えるような人には、コスト・エンジニアリングは出来ない。今どこにいて、あとどれだけ道のりが残っているかを、地図や様々な手がかりから推計できて、はじめてコストをエンジニアリングしている、と言えるのである。なのに、ただタクシーメーターをじっと見つめているだけで「ぼくはコストをきちんと管理している」つもりになっている人が、世の中には多いように思われる。

さて、長くなってきたので(いつものことだが)、投資採算分析(investment appraisal)とリスク分析(risk analysis)の話は、別の機会に項を改めて書くことにしておこう。いずれにせよ、コスト・エンジニアリングとは、製品やサービスに必要な原価に対して、科学的なアプローチでせまろうとする技術であることが、少しは理解いただけただろうか。

ただ、通常の工学的技術が、力学や化学など固有分野の科学法則を用いるのに対し、コスト・エンジニアリング技術は、対象分野にしばられぬ汎用的な論理と法則によってできあがっている。前者を『固有技術』、後者を『管理技術』と呼ぶが、コストはスケジュールとならび、典型的な管理技術(Management Technology)の対象なのである。

コスト・エンジニアリングは歴史的には20世紀中盤頃に、英国の建設業界に生まれ育ち、その後は米国のエンジニアリング業界で発展した。その出自から、受注型ビジネス分野で、プロジェクト・マネジメントに内包される技術として成長したことがわかる。

実際、エンジニアリング業界における大規模プロジェクトでは、マネジメント業務をプロマネ一人では回しきれないため、Project Management Team (PMT)を組織する。コスト・エンジニアは、このPMTの専門職の一つに位置づけられる。もちろん中小規模プロジェクトでは、プロマネが一人で何でもこなさなければいけない。だからプロマネの職務の一部にコスト・エンジニアリングがある、といっても間違いではない。

一方、情報システム開発の分野では、工数見積はつねに大きなテーマであり、COCOMOやFunction Pointなどの技法が、ソフトウェア工学で以前から探求されてきた。しかし、ハードも含め、コストの全体像をエンジニアリングの対象としてとらえる、という概念は薄いように思われる。また開発の進捗とともに、工数の着地点がどうなるかを逐次モニタリング・推定し直すcost forecasting技術も、まだ未開発のように思われる。

まして、製造業の世界では、これだけプロジェクト的な生産活動が増えてきているにもかかわらず、コストに特化した「エンジニア」がいるという話はほとんど聞かない。今後、インフラ・システム輸出などに力点を置いて、総合力で勝負しようという機運が高まっている今日、コスト・エンジニアリングにもっと注目しても良いのではないだろうか?
by Tomoichi_Sato | 2012-09-09 18:52 | ビジネス | Comments(0)

男声アンサンブル・ミニコンサートのお知らせ(9/17 午後@荻窪教会)

計画ともマネジメントとも関係ないですが、個人的なお知らせを一つさせてください。

プロのバロック・ソプラノ歌手Yさんの紹介で、声楽指導家の高橋康人先生にはじめて出会ったのは10年近く前でした。その頃わたしはある合唱団で歌を唄っていたのですが、我流の発声に限界を感じて、プロの先生に見てもらいたいと思ったのです。

最初、高橋先生の公開講座に参加し、それから個人レッスンを何度か受けました。口の開け方、立ち方、母音の作り方など「目からウロコ」の連続です。とくに最初練習させられたのは「力の抜き方」でしたが、これがとても難しい。いつの間にかすぐ、余計な力が喉や口などあちこちにかかってしまうのです。

とはいえ、単なる素人が個人でレッスンを受けるのは費用もかかりますし、モチベーションも続かない。ちょっと間が空いてしまったところに、高橋先生の方から、「男声のアンサンブルを作ったから参加しませんか」との誘いがありました。わずか数人のアンサンブルですから、練習の中でも、ほとんど個人指導に近いアドバイスをもらえます。それに、やはり音楽は声が重なった方がずっと面白いですよね。

そういうわけで活動を続けて、もう5年を超えました。今回、荻窪教会という場所を借りて4回目のミニコンサートを開催します。曲目は、「少年時代」「見上げてごらん夜の星を」「希望の島」などやさしくて親しみやすいものが中心です。

上手な演奏を聴きに来てください、というのではなく、“自分も歌をやりたいが、こういう形の歌の練習の場もあるのなら、参加してみようか”と知っていただくチャンスとして、おいでいただければと思っています。もちろん無料です。メンバーの中には他の合唱団でも活躍中の者もいますが、まったく未経験ではじめた者もおります。参加資格は特にありません(まあ、残念ながら男性に限りますが^^)。

興味ある方のご来聴をお待ちしております。

「アンサンブル・ハイブリッジ」第4回ミニ・コンサート
日時:2012年9月17日(祝) 14時30分開場
場所:荻窪教会(杉並区荻窪4-2-10)
(無料)

佐藤 知一 (T.)
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by Tomoichi_Sato | 2012-09-03 21:20 | 映画評・音楽評 | Comments(0)

交流と直流の違い、または技術者の心について

これも去年の春の話。久しぶりに昔の仲間で集まって飲んだ。メンバーの肩書きは、霞ヶ関の高級官僚たち、大手銀行の役員、公立大学や私大の教授、巨大外資系企業の役員兼弁護士と、錚々たる顔ぶれだ。いつまでもうだつの上がらぬエンジニア稼業をやっているのは、わたし一人である。ついでにいうと理科系も、わたしだけだった(本当はもう一人、原子力ムラの公的中核企業の技術者も来る予定だったのだが、多忙すぎて来られなかったのだ)。

話は当然ながら、まだ余塵おさまらぬ原発事故と計画停電が中心になった。いったい原発の内部状況は本当はどうなっているのか、近いうちにまた大きな地震が来たらどうすべきか、浜岡原発の停止は是か非か、といった話題がつづく。
「それにしても、原発の仕組みって、あんな風になっていたんだね。」と大学教授の一人が言う。
--そうなんだ、あれは単なる巨大な湯沸かしで、その蒸気でタービンを回して電気にしているんだよ、とわたしも答える。
「半分以上の熱は、海に捨ててるんだって?」と高級官僚がきく。
--そうだけど、それは火力発電所だって同じだよ。
わたしはそう答えながら、“しかし、今回の原発事故は不幸だけど、国民に与えた教育的効果は大きいな”と内心思った。

さらに、首都圏の電力不足に対し、西日本の電力は60Hzで周波数が違うから、融通にはキャパの限界がある、という話になった。なんで同じ国なのにサイクル数が違うんだ、という当然の疑問を皆が抱く。と、弁護士がこうたずてきねた。
「佐藤さん、ちょっと初歩的なこと聞いていいですか?」 
--いいよ。何? 
「あの、直流と交流って、何が違うんですか。」
すると、周りにいた他のメンバーも同じように、そうそう、実はそこが知りたかった、という。

さすがに苦笑して、答えた:
--直流ってのはね、電線を電気が一方向に流れていくわけ。ところが交流は、電気が波みたいに行ったり来たりするんだな。それでも、電気のエネルギーはちゃんと伝わるんだ。
すると、次の質問が来た。「えーと、それって、どっちも貯めることできるんですか?」
--蓄電池のことだったら、直流は貯められます。でも交流は、揚水発電をのぞけば、貯められないと思った方がいい。つまり、貯められるのは直流だけだ。あとで交流に変換できるけど、効率が落ちるね。
「そうか! 交流って貯められないのか。だから電力問題は難しいんだ。」皆はなんとなく積年の蒙が啓けたような顔になった。そして次の質問を無邪気に繰り出してきた。
「佐藤さん。じゃ、どうして交流なんて使うんです?」

さて、これは説明が難しい。元々、交流は誘導モーターとワンセットだった。エジソンの部下だった天才テスラが、「整流器のないモータを考案しろ」と命じられ、一生懸命考えた結果が、三相交流による送電と誘導モーターの同時発明だったのだ。わたしは、中学校の教科書に載っていた誘導モーターの説明図を、今もよく覚えている。アルミは磁石にはくっつかないのに、回転する磁界が、アルミの回転子を回ししていく。まるで手品である。どこにも物理的な摩擦や接触がなく、非常に効率の良いエネルギー伝達の仕組み。テスラのこの画期的発明は今も、世界中の工場で、動力源として数え切れないほど使われている。しかし、誘導モーターの仕組みを、宴席にいる仲間の面々に言葉だけで上手に説明する自身は、わたしにはなかった。

それにしても--と、帰り道に思ったものだ。--直流と交流の区別さえ知らない人たちが、日本の産官学の枢要な位置を占め、政策や戦略の意思決定をしているのだ。その中には、科学や技術に関わる予算や融資などの意思決定もあるにちがいない。だが、わたし自身は、別にそれが不当なことだとは思わない。たしかに、中学校の科学の教科書のレベルを、たまたま、わたしは知っていて、彼らは知らなかった。しかし、わたしが中学の英文法や日本史や国語の故事成語を、すべて理解しているかといえば、無理だ。中学レベルの知識さえ、誰しもオールラウンドにはなれないのだ。

自分がよく知らないことについて、どう判断を下すべきか? ここで話は、前回『技術者たちの沈黙』に書いた問題とつながってくる。前回、科学と技術は違うものだ、と書いた。その差は、管理あるいはマネジメントの視点から見ると、最もよく表れる。

科学、とくに基礎的科学研究は、あまり管理すべきでない、というのがわたしの信条である。わたし達の社会は、科学研究を年度刻みの予算と目標と効果で、あまりにもガチガチに縛りすぎる。いかにも“適切な目標設定と、社会的有用性の認識と、予算によるコントロールが科学研究の効率を上げる”、と言わんばかりである。しかし、こんなのは全く間違っている。科学というのは本来、真理に対する知的好奇心だけが原動力となって進むべきものなのだ。それがどこに向かって、どんな社会的成果を上げるかは、研究者にたずねるべきではない。

電線に電流を通じると、近くにあった磁石が反応して向きを変える、電磁誘導現象を発見した英国の学者ファラデーは、その発見が世の中に何の役に立つのかという質問に対し、「生まれたばかりの赤ん坊は、世の中で何の役に立つのか?」と切り返したという。彼の発見は、その後、モーターの発明として産業を根底から変えてしまったが、それは結果にすぎない。科学は中立なものであって、その効用をもとに管理すべきではないのである。

ところが、技術は違う。技術はマネジメントが必要である。なぜなら、技術は直接、役に立つ効用を生みだすものだからだ。それ自体は良いことのように思われるが、人間や社会の側は、そう単純ではない。効用は遠からず、社会の中で金銭や武力にむすびつく。そして、必ずや一人歩きし自己膨張していく傾向にある。いずれは資源を貪り食うようになる(例はリアル世界でもネットの中にもいくらでも見つかる)。だから、これを社会の中で適正なバランスの中に落とし込むことが必要なのである。むろん、技術を怖がって、角を矯めて牛を殺す愚は避けなければならない。そうではなく、力ある雄牛のように導いていくことが大事なのだ。

ところが、この技術のマネジメントというのが難しい。わたしは自分の勤務先で、いくつかのプロジェクトの中の技術を見ているにすぎないが、この程度だって簡単ではないのに、社会の中での技術政策となったらはるかに大変な仕事だ。それを、中学レベルの科学知識も危うい人たちがやるのである。

そこでよく登場する誤りが、「技術は技術者にマネジメントさせろ」という主張だろう。つまり、技術をよく知っている人間でなければ、うまく決断できないはずだ、との信念である。まあ、いかにも技術屋らしい勘違いだと思う。これはいつかも書いたことだが、ある大手IT企業との協業で、プロジェクト・チームに元部下を派遣したところ、相手先のリーダークラスの人間が出てきて、「お前はJavaのコードを1行だって書いたことがあるのか? それなのに、なぜ俺たちのプロジェクトをマネージできると思うのだ?」と突っ込んできたという。

こういう発想は、かなりモノ・カルチャーな技術分野で育ったエンジニア特有のものだ。もし彼のプロダクトが、ハードもソフトもDBもミドルウェアも通信も制御も包括する、広範なものだったら、どうするのか。すべての分野で最善の知識を持った技術者でなければマネージできないとしたら、誰も適任者はいなくなる。オーケストラの指揮者は、すべての楽器を演奏できるべきだろうか? 映画監督は、演技もカメラも照明も録音技術も、すべて通暁している人間が最良だろうか。

そうではないのだ。知ることのできる範囲は限界がある。もちろん、全く知らない、あるいは無関心では、マネジメントの仕事はできない。しかしマネジメントにおいて知るべきこととは、その技能やコツではなく、必要なアウトプットとインプットと資源、そして制約条件なのである。

それでも、問題が起きたときはどうすべきか? 問題解決はマネジメントの重要なファンクションではないか。技術を知らなくて、問題を解決できるのか?

そこで最終的に戻ってくるのは、技術者という人間である。誰に聞けば、まともな答えを返してきそうか。その人間の意図はどこにあるのか。知っている範囲はどこまでか。そして、問題解決への熱意はどれほどあるのか。これを、人を見て判断するのがマネジメントだ。

マネージする者は、技術の中身をよく知らなくてもいい。しかし、「技術者の心」は良く知る必要がある。技術を推進するのは結局、人間だからだ。人間には希望も感情もある。技術の政策を考えるときは、技術者の心をよく理解してほしい。同じ人間同士だから、できるはずだろう。交流と直流の違いをたずねた昔の仲間たち、あるいは彼らに代表される社会の中枢の人たちに、わたしが期待したいのはそこなのだ。


(テスラと彼の交流の発明については、下記の本が非常に見事にその状況を解説している:
物理学者が発見した米国ユダヤ人キリスト教の真実―技術・科学と人間と経済の裏面
by Tomoichi_Sato | 2012-09-01 15:32 | ビジネス | Comments(0)